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追悼 石田格さん

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By 森 慶太 @FOREST_Keitia (Twitter)

2013年1月18日


故・石田 格氏

 日本を代表するマジック:ザ・ギャザリングのプレイヤーとして活躍した石田格(いしだ・いたる)氏が、13日亡くなった。享年三十三。その早すぎる死を悼む声が世界中のプレイヤーや関係者から寄せられている。本稿では、故人の偉大な業績の一端を振り返りたい。

 1979年生まれの石田格は、マジックというゲームの黎明期に十代半ばを迎えた。トレーディングカードゲームに出会う前から生粋のゲーマー気質であったという彼は、生涯の友たちとともに、みるみるうちにこのゲームの腕前をあげていった。すぐに石田格は国内のトーナメントシーンで活躍するようになり、競技マジックの最高峰であるプロツアーにも早くから海外遠征し続けるという「日本最強の高校生」となった。やがて彼はカードショップFuture Beeとスポンサー契約を締結し、日本初のプロフェッショナル・カードゲームプレイヤーとなった。彼はまさしく日本におけるマジックの先駆者のひとりであり、あり続けた。グランプリベスト8入賞17回、プロツアー準優勝1回、マスターズ準優勝2回、日本選手権13大会連続出場といった輝かしい戦績とともに、石田は三十三年の生涯を駆け抜けた。

 国際的な観点から彼の業績を振り返る際に、おそらく石田格のキャリアは「3人制チームリミテッド」フォーマットの達人としてハイライトされる。安藤玲二と百瀬和之をチームメイトに結成した"Panzer Hunters"では、プロツアーと同等の権威をもって開催されたマスターズというトーナメントにおける二度の準優勝という成績を残し、いくつもの伝説的な戦いを繰り広げた。石田の生涯でただ一度のプロツアー決勝ラウンド進出も、このフォーマットで争われた2004年のプロツアー・シアトルでのことで、池田剛と岡本尋を左右に従えた"www.shop-fireball.com2"による準優勝だった。石田はこれ以外にもグランプリ2大会で準優勝を果たしている。

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2002年マスターズ大阪にて(写真左)

 もちろんこの競技形式はチームの総合力が問われる種目だが、彼らのチームリミテッドでの圧倒的パフォーマンスは石田格のドラフティング采配の妙によるところが大きかった。石田がチームメンバー全員分のドラフトピックを指示し、卓上のすべてを掌握しているかのようにデッキを作り上げていく様はまさに圧巻。実戦練習として敵味方六人全員分のドラフトピックをひとりでシミュレートし続けたという驚異的な技量ゆえに、彼は「チームドラフトの魔術師」としての声望を確立した。

2001年グランプリ・神戸にて
2001年グランプリ・神戸にて

 彼自身の名を冠したデッキが日本のトーナメント記録に残されていることからも明らかだが、石田格はマジックというゲームにおけるもっとも華やかな分野のひとつである「デッキ構築」でも大きな実績を残した。ウルザ・ブロック構築で彼が作り上げた「イタリックブルー」は1999年10月に開催されたグランプリ・九州を真っ青に染め、優勝者の小宮忠義を含む5名の選手をベスト8に送り出した。また、The Finals 2001で優勝を飾った赤緑ビートダウン「般若の面」は、《激動》型《サイカトグ》をはじめとした青いデッキがフィールドを埋め尽くすことを読み切ってデザインした「徹底した青対策のメタデッキ」として語り草になっている。ほかにも、2001年にグランプリ・ラスベガスからグランプリ・仙台までのわずか一週間で、当時のエクステンデッドの最新デッキ「ワイルド・ゾンビ」を見事にチューンナップしてトップ8入賞した逸話から、インベイジョン・ブロック構築の2001年グランプリ・神戸で優勝を飾った「トレンチ・コントロール」の活躍まで、デッキ製作者としても数々のきらめきを見せた。

 石田の活躍はいちプレイヤーにとどまらず、様々なウェブサイトや雑誌にマジックの記事を寄稿し、ジャンルの裾野を広げる活動にも貢献した。巻末の遺稿集の掲載媒体だったサイドボードオンラインというウェブサイトも、日本語版サービスの立ち上げ自体が石田格の全面協力によって支えられていた。

 後進プレイヤーの育成にも熱心で、世代と世代をつないだ人だった。20世紀の「日本最強の高校生」は、コミュニティのリーダーのひとりとして21世紀の日本の競技シーンを牽引した。エピソードを列挙していくと、それこそ枚挙にいとまがないわけだが、いくつかご紹介したい。

 2001年、日本人として初めてのルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)受賞に燃える森勝洋のために、石田格は藤田修とともに「Anchans」を結成して同年7月のグランプリ・台北へと遠征した。チームは台北の地で見事に準優勝を果たし、その夏の世界選手権を終えて森は同賞の受賞を果たした。さらに森は飛躍を重ね、とうとう日本人としてはじめての世界選手権優勝を成し遂げるまでに成長した。

 2005年、前出の森勝洋がワールドチャンピオンに輝いた「伝説の三冠」の年、やはり日本人としてはじめてプレイヤー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に輝いた津村健志の背後にも石田のサポートがあった。神河ブロック構築で争われた2005年5月のプロツアー・フィラデルフィアで津村が準優勝に輝いた「4色明神フレア」も、同年10月にエクステンデッドで争われたプロツアー・ロサンゼルスで3位入賞を果たした「発掘サイカトグ」も、ともに遠征する石田格が手がけたマスターピースだった。

 2006年、4月のグランプリ・浜松に石田格はチームLimit Breakのメンバーとして参戦し、大澤拓也と小倉陵という二人の後輩とともに3位入賞を果たした。まもなく、大澤は同年6月のプロツアー・プラハで見事に優勝を飾り、小倉も同年12月に世界選手権パリ大会で準優勝という成功を収めることとなった。

 チームドラフトの魔術師、名デッキビルダー、執筆活動や後進の育成を通じたコミュニティへの多大な貢献。「日本最強の高校生」は十余年走り続け、マジック:ザ・ギャザリングというゲームに大きな足跡を残した。石田格は日本最高のプレイヤーのひとりとして記憶されるべき存在となった。

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1995年第4回東京大会にて(写真左)

 石田格のトレーディングカードゲームにおける活躍がマジックのみに限定されなかったことも記しておきたい。弊社制作のデュエル・マスターズをはじめとしたカードゲームの開発や監修に携わった彼は、タカラトミー社の一員となってからもイナズマイレブンTCG等のデザインに尽力し、作り手として市場やコミュニティに作品を送り続けた。マジックを愛し、トレーディングカードゲームを愛し、信じ続けた人だった。

 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社の一員として、石田格さんがこのゲームとジャンルに残された輝かしい業績を讃え、その多大なる貢献に感謝の意を表したいと思います。

 故人のご冥福をお祈りいたします。

森 慶太

ウィザーズ・オブ・ザ・コースト 東京オフィス マジック:ザ・ギャザリング代表

(写真提供:株式会社ホビージャパン)


サイドボードオンライン遺稿集 掲載年度順

Road to Master Series ~もう一つのプロツアー東京を振り返る~(2001年4月18日掲載)

インビテーショナル:石田格(2002年11月7日掲載)

Psychatog in Extended(2002年12月6日掲載)

MY PRO TOUR -Los Angeles-(2002年12月29日掲載)

MY PRO TOUR -Dallas-(2003年1月24日掲載)

MY PRO TOUR -Paris-(2003年2月27日掲載)

MY PRO TOUR -Los Angeles 98-(2003年3月28日掲載)

MY PRO TOUR -New York 98-(2003年4月19日掲載)

MY PRO TOUR -World 98-(2003年5月31日掲載)

MY PRO TOUR -Chicago-(2003年7月2日掲載)

MY PRO TOUR -Los Angeles 99-(2003年9月10日掲載)

MY PRO TOUR -World 99-(2003年10月7日掲載)

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