Mark Rosewater / Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru
「見たままでない」特集へようこそ。今週は、第一印象とは一致しないことがあるものに注目していくことになる。私の記事では、プレイヤーが新しいカード・セットを手にしたときに最初に目にするものの1つであり、そして最初は誤解されることの多い一面、コレクター・ナンバーの話をしよう。我々はこれらの番号の順番を一体どうやって選んでいるのか? なぜ2つの番号を区切るのにバックスラッシュが使われているのか? 0からではなく1から番号を始めているのはなぜか? これらの疑問に、コレクター・ナンバーの世界を掘り下げていくことで答えていこう。
さて、今週は「見たままでない」特集だと言った。この記事そのものもそうで、コレクター・ナンバーについて1万字の話をするわけではない(悲しんだ諸君からは抗議のメールが殺到することだろう)。今回の本題は、悪い第一印象というものである。我々の目的はプレイヤーを興奮させるセットを作ることだが、我々が望むような熱狂を作り出せないものを作ってしまうこともある。今日は、なぜそのようなことが起こるのか、そしてそれが我々セットをデザインすることにどのような影響を与えるのかについて語ろう。
まず状況を設定しよう。プレビューが始まろうとしている。開発部はおやつを準備して、コンピューターの前に座っている。仕事はとっくの昔に終わっていて(私の場合、普通は16ヶ月前の話だ)、ついに反響を受け取ることができると興奮している。我々が1年間手塩にかけて育てたセットを、プレイヤーがどう受け取ってくれるだろうか。それが判るときなのだ。
目にしたいと思う反応とは、興味に呑まれる息、そして轟くような賞賛の嵐だが、それがいつも手に入るとは限らない。多くの場合にはプレイヤーたちは非常に興奮してくれるが、そうでない反応を受けるときもあるのだ。しばしば、プレイヤーたちは新メカニズムをどう受け取ったかが判っていない。否定的な反応ではないが、肯定的でもない。「うーん」というようなものだ。また場合によっては、反応が否定的な場合もある。プレイヤーが新メカニズムを一見して、そしてそれを嫌うのだ。
初めてそれを体験したときは、非常にショックを受けるものだ。我々はどのセットにも心血を注いでいる。特にプレイヤーたちが声高に言うときにはなおさら、プレイヤーが不満を感じているというのはつらいものである(強いアンチにもなるので、情熱的なファン層というのは諸刃の剣なのだ)。しかし、それもまた事実なのだ。ほとんどのセットには、全ての人が賞賛してくれるとは限らない要素が存在する。それは、我々が遠い昔に下したある決断によるものである。
衆知の通り、マジックを(実際はその他のゲームにも当てはまるが、このコラムはマジックのデザインについてのものなのでここではマジックの話に限らせてもらう)知るには2つの方法がある。1つめは、ゲームをプレイすること。そしてもう1つが、ゲームを見ることである(マジックの場合、カードを見たり、カードリストを見たりすることがこれに当てはまる)。この2つのやり方で、楽しいと感じさせるものが常に同じだとは限らないのだ。ゲームの要素は、大きく3つの分類に分けられる。見て楽しく、プレイして楽しいもの。見て楽しいが、プレイして楽しくないもの。見ても楽しくないが、プレイして楽しいもの(ああ、理論上はもう1つ、見ても楽しくなく、プレイしても楽しくないものがある。しかし、それをゲームに取り入れたいと考える理由はないだろう)。
もちろん、第1分類(見て楽しくプレイして楽しい)に入るのが最高で、我々は可能な限り多くのメカニズムやカードをこうしようとしている。問題は、第2分類(見て楽しいがプレイして楽しくない)や第3分類(見て楽しくないがプレイして楽しい)に入るカードやメカニズムが大量に存在するということである。それらの分類に入るものがどれほど存在するか、ということから、本質的なゲーム・デザインの問題が導かれる。すなわち、見て楽しいものとプレイして楽しい物のどちらに重きを置くか、である。
私がこれから何を話すかは予想できているだろうから、まずはなぜ「見て楽しい」ことが重要なのかについて話していこう。ゲームの最大の売りの1つは、ゲームそのものである。何年か前に書いた、ゲームに必要な10のことに関する記事(その1、その2)の中で取り上げた10個目が「ヒキ」だった。ゲームは、手にとってもらわなければ始まらない。見るだけでも充分楽しいと思えなければ、実際にどれだけ楽しいか知らせることもできないのだ。ゲームには、プレイヤーを招き寄せるための輝きが必要なのだ。これはマジックにおいても同じである。プレビューをしている大きな理由は、次のセット/商品を売り込むためなのだ。
しかし、ここで重要なポイントがある。マジックには20年以上の歴史がある。過去の記録がある。我々のプレイヤー層は、平均的なプレイヤー像と比べて堅固なものなのだ(我々のプレイヤーのプレイ歴の平均は9年を超える。これは、ゲーム業界について知識がある諸君には信じられない数字だろう。9年以上というと、人気の出たゲーム、特にビデオゲームそのものの平均寿命よりも長いのだ。ゲームの寿命が先に尽きてしまうことになる)。そのため、我々がセットを作ったなら、プレイヤーはとりあえず試してみようと思ってくれるようになっている。
遠い昔の決定とは、見て楽しいことよりもプレイして楽しいことを優先する、ということだった。現在、我々は上記の第3分類に入るものの数を注意深く扱い、そしてセット内にそれがどの程度入るかの上限を定めている。その一方で、セット内で第3分類に入る部分をプレビューに投入しているのだ。なお、プレイヤーが、新しいものを楽しくないと思うことにはいくつもの理由が存在する。それについてはこの後で述べていこう。
ここで言いたいのは、我々は常によい第一印象を作っているわけではない、ということであり、その理由は、見かけよりも内容を重視しているからなのだ。これは、我々の目標を達成し、そしてプレイヤーを繋ぎ止めていくための最善の方法は、プレイヤーがそれまでプレイした中でもっとも楽しいゲームを作ることだと信じて、意図的に下した決定なのだ。そしてそれを何度も繰り返していくのだ。私は、マジックは常に新しいデザイン空間を探し続ける飢えた怪物のようなものだとよく言っている。怪物を満足させるため、一見すると素晴らしい発想には思えない場所でさえも掘り下げていかなければならないのだ。
続いては、カードの第一印象が悪くなるいくつもの理由について述べる。それぞれの理由ごとに、メカニズムをいくつか書き出していこう。私が書いたどのメカニズムにも、ファンは存在するということを強調しておこう。それぞれの理由で、そのメカニズムに対して最高とは言えない第一印象を受けた人がいる、というだけのことである。
「重すぎるように見える」
例:フラッシュバック(『オデッセイ』)、バイバック(『テンペスト』)、授与(『テーロス』)
この分類には、一見するとコストに見合う効果を持たないように見えるメカニズムが含まれる。「なんでこの効果のためにこんなにコストを払わないといけないんだ?」この結論にたどり着いてしまう理由はいくつもあるので、それについて細かく見ていこう(ところで、その質問の答えが「その通り、このメカニズムは構築でなくリミテッド用に調整されているんだ」ということもある)。
カード・アドバンテージについての無理解
ほとんどのプレイヤーはカードのコストとしてマナ・コストに注目するが、多くのプレイヤーが見落としている非常に重要なコストが存在する。それは、そのカードそのものである。呪文を手札から唱えるとき、カードを1枚費やしているのだ。これが軽く扱われてしまうのは、全ての呪文がカード1枚をコストとしているからである。しかし、全ての効果がそうだ、というわけではない。例としてフラッシュバックを見てみよう。フラッシュバック効果は、本質的には2度目の呪文であるが、カードが2枚必要なわけではない。つまり、フラッシュバックに必要なマナが重くても、カードを使わないので非常に価値のあることなのだ。
上に挙げたのは、フラッシュバックを取り上げた最初のセット『オデッセイ』の《》である。{2}{G}で3/3のトークンを生み出すものだ。これだけなら、非常に効率のいいクリーチャーである(『オデッセイ』当時と比べて、クリーチャーの性能は少しばかり向上している)。これを、余計なコストなし、言い換えるとカードを1枚「引いた」ような状態で唱える場合、{3}{G}で3/3のトークンを生み出すことになる。{3}{G}で3/3のトークンを生み出すカードなら特に強いとは言えないが、多くのプレイヤーはこのカードの「これをただで引く」という部分を見落としているのだ。もし、{2}{G}で3/3トークンを作り、カードを1枚引く、というカードがあったなら、それは信じられないほど強いカードである。《》がそれほどではないのは、それで引くカードが平均よりも弱い、{3}{G}で3/3トークンを生むというものだからだが、ただで引けるのだから充分以上だ。
我々が、単体のカードに比べて付加価値を持ち、同時にその価値の分だけ必要な代償を多くしたカードを作ったら、プレイヤーは尻込みするものだ。尻込みなどする必要はないというのに。
既存のカードとの誤った比較
これは前の問題点の派生である。『テンペスト』のバイバックつきカードである《》を例に挙げよう。《》は『レジェンド』の《》と同じ働きをする。つまり、パーマネント1つをオーナーの手札に戻すのだ。違いは、《》のコストが{U}{U}であるのに対し、《》のコストは{1}{U}{U}だということである。1マナ重い――のはなぜか? さらに3マナを追加で支払えば手札に戻せる。同じことをするのに4マナ余計に支払えば、次のターンにも6マナを支払うことができるように手札に戻すことができる、だって?
バイバックの問題点は、先述のカード・アドバンテージの無理解による部分もあるが、それ以上のものもある。バイバックを使わなければ、プレイヤーはこの新能力の強さを理解できず、理解しているもの、すなわちカードの効果に焦点を当てることになる。2マナでパーマネントをバウンスするか、それとも6マナ支払うか。プレイヤーの限られた知識の中で、一面的に比較すれば、《》は弱いように見える。とてつもなく弱く見えるのだ(実際に使ったことのない諸君のために言っておこう、これは本当は強すぎるカードである)。
カード全体の価値に関する無理解
この例としては授与が挙げられる。授与をプレイする場合、2つの選択肢がある。その呪文をクリーチャーとしてプレイすることも、オーラとしてプレイすることもできるのだ。オーラであれば、エンチャントされたクリーチャーが死亡したとき、そのオーラははずれてクリーチャーになり、戦場に残る。こちらの選択肢の方がより重いのは、まずオーラとして、後にはクリーチャーとして手に入れることができるからである。授与に対する初期の反応は、多くのプレイヤーが授与コストを重すぎると感じたことを示していた。
プレイヤーがこのメカニズムについて話しているのを観察して、私は、プレイヤーがそもそもオーラが失われるときにクリーチャーを得られるということに気付いていないか、あるいはそのクリーチャーを激しく過小評価しているかのどちらかだとわかった。彼らは、後で現れるクリーチャーの価値を計算していないのである。通常、クリーチャーを唱える場合、そのクリーチャーはすぐに手に入るものだ。即座に起こることに対しては価値を見出そうとするが、ほとんどのプレイヤーに取って、いつ手に入るか判らないものを正しく評価するのは難しいのだ。
この分類は、すべて同じ問題から生じている。多くの新メカニズムはそれまで扱ってこなかった空間を扱うものなので、新メカニズムの価値を誤解し、あるいは過小評価するのは非常によくあることである。意見が変わる1つの形は、ゲーム・プレイを通してである。一見すると価値がないように見えるものでも、実際にプレイしてみると、一見役に立たなく思えたものが実際はとても強いわけがわかるだろう。
「どう見ても強いとは思えない」
例:ストーム(『スカージ』)、発掘(『ラヴニカ』)、続唱(『アラーラ再誕』)、消散(『ネメシス』)、消失(『次元の混乱』)
これは、前の分類からの派生である。前項は、強力な効果でコストが重すぎるものだった。混交は、コストではなく一見したときの効果の質が問題である。例を挙げよう。
ストーム:そのターンに自分がプレイした呪文の分だけコピーするメカニズム? 1ターンにいくつ呪文が唱えられるっていうんだ?
発掘:自分のライブラリーを削って、コスト比の悪いカードを戻す? それなら強い呪文をデッキに入れれば?
続唱:カードが手に入るといっても、すごく軽いやつだけで、しかも何を手に入れられるかはわからないんだろう?
消散/消失:パーマネントを出しても数ターンで消えちゃうんだって? 普通は出したらゲームの間ずっと残るもんだろ?
上記それぞれについて、プレイヤーは欠点ばかり見て利点を見ていない。結局のところ、ストーム、発掘、続唱はどれも壊れたメカニズムで、デベロップはもう二度と作らないと判断したのだ(ああ、続唱はもしかしたらあるかも)。しかし、どれもそのメカニズムの利点を活かすためには専用のデッキをデザインする必要があった。プレイヤーが一見して把握するのは難しいことだ。
この問題も時間が解決してくれる。デッキを作り始める時に、これらのメカニズムができることを見せるようにして、他のプレイヤーは何が可能なのかという発想を得ることになる。我々はマジックを探求のゲームにしたいと思っており、そのためにはプレイヤーが最適な使い方を理解するために研究する必要があるようなメカニズムを作ることが重要なのだ。しかし、そうすると、プレイヤーが一見したときにそれを「掴む」ことができなくなる可能性もあることになる。
「使いこなすハードルが高すぎる気がする」
例:賛美(『アラーラの断片』)、スレッショルド(『オデッセイ』)、契約サイクル(『未来予知』)、マッドネス(『トーメント』)、「版図」(『インベイジョン』)、貪食(『アラーラの断片』)、金属術(『ミラディンの傷跡』)
この分類に入るのは、プレイヤーが働きを理解できる効果を持っているが、それを使うまでの障壁が余りにも高いと一部のプレイヤーが感じる類のカードである。クリーチャーは大きくなるが、それ以外のクリーチャーが攻撃しなかったときに限るだって? カードは強くなるが、墓地に7枚以上のカードを送らないとダメ? タダで呪文を唱えられるが、次のターンに支払わなければゲームに負けてしまう?
通常、この分類の誤解はその障壁がどの程度のものかをはかり損ねることによるものである。賛美は一見すると大きな不利益に見えるが、実際に使ってみれば毎ターン巨大クリーチャーで殴れるということがわかる。対戦相手がクリーチャーを1体殺したところで、次のクリーチャーも同じぐらい大きくなるのだ。
この分類は我々がデザインするにあたってかなり意識しているものである。賛美の評価における間違いを理解していたので、賛美は第一印象が悪いだろうということはわかっていた。実際の所、我々も初めてこのメカニズムをプレイしたときはそうだったのだ。
「破るべきでないルールを破っている」
例:ピッチスペル(『アライアンス』)、分割カード(『インベイジョン』)、両面カード(『イニストラード』)、反転カード(『神河物語』)、Lvアップ(『エルドラージ覚醒』)
マジックのようにルールを破り続けるゲームでも、どこかで線を引く必要がある。やりすぎというものはあり、そしてこの新メカニズムはその境界線を踏み越えていた。
「全てタップ状態のときに呪文を唱えられるなんてありえない」
「マジックのカード枠は変えるべきじゃない」
「マジックのカードの裏面に印刷するとかおかしい」
私はしばしば、マジックが変化のゲームであること、そして人間はその本質において変化を恐れるということについて語ってきた。この分類は、境界線を踏み越えると、プレイヤーの一部は不快になるということを示している。これは問題だ。マジックは境界線を踏み越えなければならない。マジックは境界線を越えていくものだし、マジックの境界線に挑戦することこそが我々の仕事そのものなのだ。
1つ前の分類と同じように、これも時間が解決してくれるものだ。プレイヤーは危惧していても、いざそのメカニズムが楽しい(そして強い)となれば、プレイヤーは近づいてくるものだ。最初はプレイヤーを震撼させたが、今となってはマジックの古典と扱われるようになっている《》などはその好例である。
「あまりにもおかしく見える」
例:変異(『オンスロート』)、奇跡(『アヴァシンの帰還』)、プレインズウォーカー(『ローウィン』)
裏向きのカード? カードを引いた瞬間にプレイするカード? どういう意味があるのか判らない新カード・タイプ? プレイヤーの中には、カードが少しばかり離れすぎていると感じるプレイヤーもいる。彼らは、我々が革新することは好むが、それは一定の範囲内の話なのだ。私はデザインにおける安心の話を何度もしてきた。この類のメカニズムはその逆方向、プレイヤーの中に不快になるプレイヤーがいる方向に進めることがあるのだ。
この分類は1つ前のものとよく似ていて、時とともにこれらもあまりおかしく見えなくなっていくものだ。例えばプレインズウォーカーなどは、最初は馴染みがあるマジックに無理矢理ねじ込んだもの扱いだったが、今となっては各セットに最低1体入れるという決定をするまでに到った。何が1つ前の分類で、何がこの分類なのかは人によって違ってくるだろう。おそらく奇跡辺りがその境界線になると思うが、分割カードかも知れない。
「退屈そう」
例:サイクリング(『ウルザズ・サーガ』)、解鎖(『ラヴニカへの回帰』)、占術(『未来予知』)、上陸(『ゼンディカー』)
最後の分類であるこれが最大の問題かもしれない。面白そうに見えないメカニズムやカードである。通常、生み出す効果があまりにも小さくて考慮するに値しないように見えることからそう判断される。2マナを払って手札を1枚捨てて1枚カードを引く? クリーチャーを大きくできるが、代償としてそれではブロックできなくなる? 自分のライブラリーの一番上のカードを見てそれを戻すか一番下に置くカできる?
さまざまな意味で、これは1つめの分類の逆にあたる。コストは問題ないが、効果が問題だ、というものだ。本当にこれを意識するのか? 時間を費やす価値がある? これらの分類のほとんどと同じように、この強さはプレイの中で理解できるものである。サイクリングは一見すると取るに足りないものに思えるが、実際1~2ゲームもしてみればその働きがわかるだろう。
教訓
今日の記事では、ゲーム・デザインのもう一つの現実、つまりゲームやセットがどうプレイされるかだけでなく、どんな第一印象を与えるかも意識しなければならないということに光を当ててみた。最後にいくつかまとめておこう。
#1 - 第3分類(見て楽しくないが、プレイして楽しい)の量に気をつけろ
特にマジックのセットにおいて、その一部は問題ないというだけでなく本当に強いものである。発見の瞬間を作りたいので、そのためにはプレイヤーがやがて理解するようになるような要素を入れておくことがいい手段だと言える。そうは言うものの、第3分類はそのゲームの第一印象にとっては非常に危険であり、最初の不評に直結するものなのだ。つまり、第3分類に関して思慮深くある必要がある。あってはならないものではないが、多すぎるのは問題なのだ。新しいゲームなら、より一層の注意が必要となる。
#2 - 第2分類(見て楽しいが、プレイして楽しくない)にはさらに注意を
我々は可能な限りこの分類に入るものを減らそうとしているが、実際、これの魅力は非常に強いのだ。プレイテストにおける第一印象は重要で、多くの人々を激しく興奮させたものを作ったなら、それを残そうと思う思いは強くなる。また、何が第1分類(見て楽しく、プレイして楽しい)で何が第2分類かを判断するのは、諸君が想像するほど簡単ではないのだ。
#3 - プレイヤーによって評価は異なる
何がどの分類に入るかを考えるとき、メカニズムやカードがどの分類に入るかは評価する人の主観によって異なることがあるということを認識すべきである。例えば、ティミーの多くにとっては第1分類に入るものがほとんどのスパイクにとっては第2分類だったりすることがありうる。つまり、セットに残すなら、それを第1分類だとする人に向けて作る必要があるのだ。
#4 - 分類はあいまいなものだ
上で例を挙げたときに、諸君の多くは「マローは何言ってるんだ? 俺はこのメカニズムを一目見たときから好きだったぞ」という類の反応を見せることだろう。第2分類に入るメカニズムやカードが、他のメカニズムと組み合わされば第1分類に入るということもありうる。最初は第3分類に入るはずだったメカニズムやカードが、メタゲームの変遷とともに第4分類(見て楽しくなく、プレイして楽しくない)になることもある。私にとってゲーム・デザインは科学と言うよりも芸術であり、分類の枠を作るのは簡単でも、そのどこに何が入るかを決めるのは簡単とは言い切れないと明らかにしたかっただけである。
最終印象
今日の記事が単なるコレクター・ナンバーの話よりもおもしろいものであったなら幸いである。諸君がデザインの異なる視点を持ってくれることは私の喜びであり、今日の記事は間違いなく我々が常に取り組んでいることの一部なのだ。諸君からの反響が楽しみである。メール、各ソーシャルメディア(Twitter、Tumblr、Google+、Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。
それではまた次回、『統率者(2014年版)』を軽く紹介する日にお会いしよう。
その日まで、あなたがあなたの第一印象を見直しますように。