MAGIC STORY

ストリクスヘイヴン:魔法学院

EPISODE 10

サイドストーリー第5話:音なき声が呼んでいる

Marcus Terrell Smith
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2021年4月30日

 

 雄弁術の大学シルバークイルの生徒二十三人が、薔薇の舞台の外縁に不動の姿勢をとっていた。だがそのうち六人は膝をつき、苦痛に身体を折り曲げ、悲嘆の叫びを苦しく押し殺していた。立っている者もそうでない者も、彼らは円を描いてそれぞれの位置に着き、最も優秀と思われるひとりを見つめていた――キリアン・ルーが、今からその呪詛でラジネス教授を引き裂こうとする様を。

墨の決闘者、キリアン》 アート:Ryan Pancoast

 この日午前の講義は、七つの音声学的要素を用いた即興の決闘に関するものだった。声色、韻律、高低、配置、共鳴、音響、音量。「意図と伏線論Ⅱ」講義を担当する高名な監督者のラジネスは、単に学習のための実演として決闘を用いるだろう――キリアンも、同級生たちと同じくそう予想していた。だが彼らが驚いたことに、ラジネスの攻撃は容赦なく物騒だった。この血色の悪いコーの墨使いは、巧みな黒いインクの腕で生徒たちの心的防護魔法をたやすく圧倒し、熱したナイフでバターを切るように彼らの若い心をたやすく引き裂いた。

 キリアンには音量が割り当てられていた。熟達はおろか制御だけでも最も困難な要素であり、来たる攻撃は自分の発声と持続のエネルギーを奪い尽くすとわかっていた。偉大なエムブローズ・ルー学部長の息子であるという彼自身の傑出した評判を鑑みて、これが計画的な割り当てだというのは言うまでもなかった。ラジネスは明らかに父と共謀しており、父は、これも言うまでもなく、遠くから監視している――常に上達の余地を探している。

 キリアンは膝を曲げ、踵を床に突き立てた。ゆっくりと着実に、彼は肺を満たしはじめた。そして、神秘的な舞踏を試すように両腕を振り上げ、太いインクの縄を召喚して身体の回りにうねらせ、増幅させ、舞台の遥か上に巨大な三つの球を作り出した。

「ほう」 ラジネスは皮肉のように言った。「夏の瞑想を真剣に行っていた者がいたとはな」 息を鳴らすその声は耳障りで陰険で、その言葉は舞台の上を滑るように飛ぶ気まぐれな墨獣を通して生徒たちに伝えられた。

 瞬間、キリアンは自分の墨獣ドーコーを思い、この戦いにおける不在を嘆いた。その存在は注意散漫の元だとエムブローズは考え、自分自身の戦いで決して他者に頼るなとキリアンに促したのだった。ドーコーは決闘に加わっていたのではなく、ただにそこにいて力になってくれていたのに。キリアンは憤慨に歯を食いしばった。

 決闘を公平なものにするために自分は技を制限する、講義の開始時にラジネスはそう公言していた。無声の子音のみを用いて戦い、最小の物事にも途方もない力が眠っていることを示すと。そして彼の力をもってすれば、ひとつの「s」の単純な振動ですらインクの魔法を鋭いダガーに変化させ、ひとつの「p」の破裂音さえも大地を揺らす砲撃を払いのけた。

「いいかね?」 キリアンの誇示に心を動かされはせず、教授の表情は硬いままだった。「力とは息の中にある。息だ」

 その指示にキリアンは動きを止めた。彼が作り出した巨大なインクの球はしばし静止し、揺れる巨岩のように宙に浮いていた。

「ご親切にどうも、教授」 キリアンは小声で言った。「けどその臭い息で空気を汚さないで欲しいな!」

 ラジネスが気付かないうちに、彼の背後で蜘蛛の糸よりも細いインクの線が一本、密かに蔓のように地面から立ち上がっていた。それはキリアンの鋭い侮辱とともに教授に掴みかかり、首と伸ばした腕と両脚に巻き付いた。ラジネスは歯の間から鋭い四つの「s」を連射してインクの枷を綺麗に切断したが、拘束を解く隙にキリアンは既に漆黒の球を教授に投げつけていた。命中の寸前、キリアンは球に向かって叫んだ。

「決闘は始まったばかりだ、そっちの努力を褒める余裕はないよ!」

 その言葉とともにインクの球が弾けて開き、飛沫が着地した箇所から、槌と斧を持つインクのトロールが即座に何体も立ち上がった。応答するように、途切れない「shh」が教授の口から弾けてインクの大波を召喚し、黒インクの腕から湧き出て漆黒の球で身を守った。トロールの群れがその盾へと熱狂的に武器を叩きつけたが、彼らは即座に吸収されて漆黒の球は膨れていった。

 キリアンは素早く次のインクの球を下ろし、以前よりも更に大声で叫んだ。「シー、って? 水が流れるみたいな音だな、あんたが溺れるのにぴったりだ!」 その呪詛と同時に、インクの球は塔のように高く石のように堅固な黒い柱へと変化した。黒曜石のオベリスクが倒れ、ラジネスの盾へと叩きつけられた。熱した金属に鍛冶師が鎚を叩きつけるように鋭い一撃が、盾のそこかしこに深い裂け目を作った。ラジネスは迅速な「t」の疾風で応じ、それは彼の口を離れるや否や千本もの黒色の矢へと変化して柱を完全に消し飛ばした。相手の実力に、キリアンは言葉を失った。好機を見て、ラジネスはその矢を彼へと向けた。

「老いぼれの寄生虫が!」 キリアンはそう呪い、生き延びるために既知の即答を瞬時に切り出した。「腰が曲がってるんだよ、蛇か!」 崩れかけた柱の破片が一斉に鴉へと変化し、彼の心臓を狙う全ての槍を捕らえた。そして歯を軋ませ、キリアンは全力の大声と痛烈な皮肉を、最後のインクの球へとぶちまけた。

無駄な筋肉!無駄な腱!
臭くて見たくもない獣!
痩せて腐った貧乏人!
雑魚はせいぜい頭使いな!

 インクの球が回転して円盤状に変化し、まるで何マイルも広がるように伸び、頭上の空が暗くなった。不意にその中央にひとつの突端が現れ、竜巻へと成長し、瞬きもしないうちに地面に到達するとその渦の中に教授をとらえた。キリアンの喉は燃えるように熱く、血の味を感じたが、止めることはできなかった。

腐った死体が恨みがましく
無様な無知がわめいてる
虫に食われて心も折れて
屑になるまで燃え尽きろ!

 毒が勝利への最後の一押しを固め、うねる嵐の向こうにラジネスが弾ける力と戦う様子が垣間見えた。勝った! 期待にキリアンは目を見開いた。教授に倒された六人へと彼は顔を向けた、その目に喜びを浮かべてくれているだろうと予想して。だが彼が見たのは悲しみだけだった――すぐに自分たちと同じ苦しみを被る、不幸な魂への哀れみ。そして、その原因は彼自身なのだと。

 キリアンが感じたのはその時だった――この荒々しい戦いを終わらせるであろう、焼け付く痛みの一撃を。彼が気を散らした隙に、柔らかな「t」の音がラジネスの舌から飛んでいたのだ。自分の胸を見下ろすと、滴る黒い矢が貫通していた。キリアンは膝をつき、そのインクが身体の内に浸みる前に引き抜こうともがいた。

 最後に一度、同級生たちを見ると、ファネッサ・フィヨーネの血走った凝視と目が合った。彼女は高低を担当していたが、ラジネスが呼び出した荒々しいインクの馬の群れに蹂躙されていた。彼女とは友人同士ではなく、面識もほとんどなかった。ファネッサはシルバークイルの新入生であり、学期が始まって以来、数度顔を合わせただけに過ぎなかった。それでも、彼女にはキリアンの目を引きつけるものがあった。仲間同士。そう向けてくれた共感的な笑みを、彼はありがたいと思った。

 次の瞬間、教授のインクがキリアンを掌握した。彼はすぐさま、完全な絶望と悲しみにのまれた。父の硬い靴音が遠ざかる――心を打ち砕く、それでいて聞き慣れた音が、心の中で痛ましく響いた。父から腕に乗せられた戦闘詩文の冊数の重みすら感じられた。実際、長い午後の勉学が待っている。両目から涙が零れ落ちると彼は身体を折り、既に倒れた六人と同じく、残酷な敗北に屈した。

 キリアンが我に返るまでには午後の大半を要した。教授のインクが蝕む呪いが背骨と胸郭から取り除かれるまで、彼は絶え間ない憂鬱の発作と厳しい幻覚に襲われた。もし二本目の矢に貫かれていたら、間違いなく自分自身の肉体を引き裂いていただろう。

 最後の幻覚が、彼を多弁の会館に連れて行った。大図書棟の沢山の回廊の中に隠された熱烈な訓練場。そこで受ける講義は必須であるが、シルバークイルの上級生のみが対象となっていた。父の提案でキリアンは受講のための試験を受け、予想通り苦も無く合格してのけた。多弁の会館は、常に成長を続ける魔法の森の中にある。木々の葉はその下の者をとらえ、絞め殺してしまう。休むことなくその植物を呪うことが、確実な死からの唯一の脱出手段だった。長年に渡って何百人もの墨魔道士が挑戦してきたもので、エムブローズもその一人だった。そしてキリアンはそれを生き延びた。だが呪いに支配された記憶の中で、その植物は途方もなく恐ろしい叫びを下げた。まるで命じられるままに無慈悲に殺す彼へと、傷ついた兵士たちが命乞いをするように。途方もない死に彼の心は痛み、沢山の美しいものの生を終わらせた自分自身を憎んだ。

 キリアンは目を開けた。見上げた先で、穏やかな表情の筆術師の校医が、波打つ黄金色の光をまとっていた。ここは医務室、彼は柔らかな寝台に寝かされていた。石造りの高い窓から注ぎ込む陽光が、部屋全体をその校医がまとう光と同じ黄金色に輝かせ、シャイル学部長の純白の翼にも反射していた。学部長は医務室の入口に立ち、校医がキリアンのむき出しの胸からラジネスのインクをまた一本取り除く様子を見つめていた。

「戦闘詩文」 シャイル学部長が口を開いた。「そのような古の魔術は、シルバークイルでも最も勤勉な者だけが手に取ります。お父上は……そうですね……少しかもしれませんが満足されたでしょう」

 キリアンは数度咳払いをした。あの決闘の重みが今もずっしりとのしかかっているように思えた。

「偉大なエムブローズ・ルーの御子息であるあなたのような魔道士は」 学部長は皮肉的とも言える笑みで続けた。「途方もない可能性の深淵に踏み入ることができます――光と闇の両方の。ですが私からの警告です。その魂のために、時には光を受け入れることを学ばねばなりませんよ」

「戦いにおいて白の魔法は効果的ではない、そう思います」 キリアンがそう返答した直後、校医が彼の心に再び目覚めた悲嘆の最後の一本を取り除いた。

「逆ですよ」とシャイル。「白の魔法が最も効果的なのは、戦いの中です。それによって戦争に勝てるのです」

 キリアンは学部長の優しい瞳を見つめ、続きを待った。この人がくれる助言は決して短絡的なものではない。批評的な思考を通して長く続く知恵を分け与えるというのが、シャイル学部長の目標だった。この学部長と父はその点で異なっており、議論好きな両者の関係を焚きつけていた。知恵は否定的な刺激を通してのみ獲得できる、影の学部長はそうみなしている。どうしてこの両者が同意などできるだろうか?

「タペストリーの穴のように、光は闇の最も頑固な部分をも貫きます。一方で、霞ませることはできても、どれほど試そうとも闇は決して光を貫けないのです」

 キリアンは少しの間、学部長の言葉を熟考した。だがその思案は手の痛みに遮られた。彼はひるみ、掌をかいた。

「休まりませんね」 シャイルは笑みとともに言った。シルバークイルの他の生徒と同じ、珍しくもない反応。

 キリアンは直ちに立ち上がり、ローブを掴み、扉へと急いだ。退出する直前、シャイルがその優しい手を彼の肩に置いた。

「宇宙はとても広大です」 シャイルの声は、母親のような気遣いが少しだけ感じられた。「そして雄弁術はそれを形作る唯一のものというわけではありません。あなたの魔法の全てを、ひとつのものに費やさないでください」

 キリアンは船着き場へと直行した――大図書棟への最速の経路、そして父は濠の所にいるのだろう。その待ち合わせ場所はキリアンの掌に書かれていた。親書き、あるいは親の墨魔法。それは来たる約束を忘れさせないために、あるいは忘れ物をしないようにと雄弁術の教師や両親が子供たちへと用いるものだった。言うまでもなく、書かれた内容を声高に読むまで、凄まじいかゆみが続く。

「意味論」 キリアンが言うと、親書きは消えた。

 キリアンが十七番桟橋へ着くと、意味論行きの船がもう出ようとしていた。直ちに彼は駆け出し、そして、桟橋の縁から片足で跳んだ。

「不屈で不憫な踏み石のように、水よ僕の足元に固まれ」

 宙を舞いながらキリアンは声高に呪文を唱え、すると水面が反応した――白いエネルギーを波打たせ、着地する足元を固くした。一歩、二歩、三歩。そして最後の一跳びで、彼は船に着地した。

 キリアンは孤独を好むが、残念なことに乗客は彼だけではなかった。先の方に、シルバークイルの生徒がひとり座っていた。その人物は彼の足音に振り返り、フードを脱いだ。

「なるほど、そういうわけで偉大なキリアン・ルーは絶対遅刻しないんだ」 ファネッサが笑みとともに仕掛けた。「時には光の魔法も役立つこともある、ってわけね」

 それは父が言いそうな台詞だった。

 キリアンは溜息をつき、彼女の向かいに腰を下ろした。ファネッサは座り直し、二本の黒く長い編み髪が肩に揺れた。明るい茶色の肌に際立つラベンダー色の両目が彼を値踏みした。快活かと思えば、一瞬で計算高く神秘的な雰囲気に変わる。キリアンはそう察した。

「ラジネスさ」 彼女はそう切り出した。「あの講義、かなり本気でやってたよね」

「あれは本気の講義だ」 キリアンは率直に返答した。

「ほんと。けど心臓に矢を射るのは容赦なさすぎでしょ」

「上出来な決闘だったよ」

「上出来?」

「僕は新たな弱点を学んだ。躊躇してしまったんだ。次はない」

 その返答が気に入ったようで、ファネッサはにやりとした。

「慈悲は愚か者のもの」 彼女は声高に言った。キリアンは反射的に頷いた。父が同じことを何度も言っていた。だが彼もそう思おうとするほどに、決して心から支持できない言葉になっていった。

「でもさ、今日のきみは本当にすごかった。あんなに暗くて粗い力。弱い魔道士なんて殺してしまえそうな」 彼女は笑みを浮かべた。「見ない方がいい光景かもね」

「僕は殺そうとなんてしていない」 キリアンは素早く言った。「殺したくはない……ただ勝とうとしただけだ」

 キリアンの神経質なエネルギーを察し、ファネッサは席から身をのり出し、更に近づいた。彼女はキリアンが首筋の皮膚を引っ張り、喉をさする様子を見つめた。

「怪我したの?」

「いや」 キリアンは素早く言い返した。「僕は……きっと大丈夫だ」

 何か素敵な考えが浮かんだように、彼女は眉を上げた。「知ってる? 喉の痛みにすぐ効く薬があるって噂。虹の端にそれを作ってくれる男がいて、伝手がないわけじゃないんだけど」

「『虹の端』亭はサボり癖のある奴らと怠け者の溜まり場だ。ルー家の者は自らに相応しい振る舞いをするって規則がある」

「らしいわね」 彼女は邪な笑みを浮かべ、まるで歌うように言った。「破ってみたら? それともまた医務室へ戻るか。ルー学部長は全く好まないだろうけど」

「僕にはできない」

「そうよね」 非難を隠そうともせず、ファネッサは座り直した。「結局のところ、ストリクスヘイヴンは学びの場だってこと。それだけ」 そして彼女は立ち上がった。「休まらないわね」

 最後の言葉にキリアンははっとした。それは医務室を離れる直前、シャイル学部長から向けられた言葉と同じだった。

 不意に、船が語義論の桟橋にぶつかった。後ろ向きに優雅に跳躍し、ファネッサは通過する別の船へと入り込んだ――虹の端へ向かう船へ。

「キリアン・ルー。時には太陽の下へ踏み出すべきよ」 彼女はそう言って、編み髪を肩の後ろに払った。「私たち、影の中で育つようにはできてないんだからさ」


 ファネッサを乗せた船が遠ざかる中、キリアンはしばし座ったまま、彼女の言葉を考えていた。影とは誰の影なのか、それは言うまでもなかった。心がふらつく中、神経質な熱が皮膚に昇るのを感じた。船がまた揺れて降りるように急かし、キリアンを堂々巡りの思考から救い出した。

 彼は大図書棟に続く石の階段を駆け、開けた広場を速足で横切った。陽気な、学術的でない会話に興じる生徒の群れを難なく通り抜け、彼は「意味論の広間」と刻まれた背の高い石のアーチへ向かった。

「キリアン・ルー!」 男性の声が不意に届いた。アーチの先の暗闇から、ロアホールドの生徒クイントリウスの大きな身体が現れた。

「やあ、クイント」

「シルバークイルの誰もがあなたとあなたの決闘についての話をしていますよ。ロアホールドもです」 クイントリウスは熱心な眩しい瞳を向け、柔らかく笑った。「ええ、ロアホールドといっても私だけですが。音量というのは非常に油断のならない要素です。聞くところによると、キリアンさんには生まれ持った素質がありますね」

「君は本当に調査が好きだな」 キリアンは前の夏にクイントリウスがどれほど頻繁に本棚の間を行き来していたかを思い出した。彼はこの図書館に住んでいたようなものだった。

 両腕に抱えた本の山を上手く扱いながら、クイントリウスは象の鼻で一冊の薄い書物を取り上げ、キリアンへと差し出した。

「ドバリウス・エゴルト、沈黙の筆術師」 キリアンは声に出してその題名を読んだ。「沈黙?」

「その人物は音量を用いすぎて声を失い、古い様式の手話を用いてあらゆる呪文を唱えました」 クイントリウスが解説した。「驚くべき人物です。実際、彼は軍団ひとつを魅了して武器を置かせ、休戦の握手をさせたのだそうです。死と破壊はどんな道具でも演奏できる音である、彼はそう理解していました」 クイントリウスは鼻でその本を軽く叩いた。「一方で、創造の交響曲はそれよりも遥かに表情豊かであると」

 クイントリウスはしばし黙った、まるで自分自身の言葉に驚いたかのように。

「私の中のシルバークイルが言わせたのです」クイントは含み笑いとともに言い終えた。

 キリアンは掌にまた刺す痛みを感じた。

「もう行かないと」 キリアンは彼から離れた。「沈思黙考がまた始まろうとしているんだ」


 意味論の広間は永遠に月光の中に照らされ、重苦しい霧が立ち込めている。一本の蝋燭が濁ったもやを貫いて輝き、キリアンを招いていた。彼は足を速めながらその光を追った。

 長身で威圧的なエムブローズは高い本棚の影の中に立ち、霧を攪拌するための強い風に黒いローブがはためいていた。銀色の月光が肌を灰色に照らし、だがその白目がよどんだ空気を星のように貫いていた。すぐ傍には木の机がひとつ、そしてその上にはキリアンを導いた蝋燭が立てられ、その炎は分厚い本のページを照らしていた。

「油断して無防備な姿をさらしたのだな?」 そう尋ねるエムブローズの声は深く、床を震わせるほどだった。

「教授の矢は全て受け止めたと思ったんです。父さん」 キリアンはそう返答したが、来たる訓戒を防ぐような返答などないとわかっていた。

「判断を誤ったのだな?」

「またドーコーが隣で戦ってくれていたなら――あいつはいつも、僕が困った時に助けてくれました」

「キリアン、これはメイジタワーのくだらぬ試合などではないのだ。墨獣に頼っていては依存し、弱り、集中を損なう」 父は両目を閃かせ、踏み出した。「雄弁家、宇宙の最上の決定者にしてあらゆる魔法的契約の執行人、その言葉は断固として揺るがぬものでなくてはならない。雄弁家、お前がここでの時間を過ごした後に得ることになる栄誉ある役割、それを――」

「動揺してはいけない、わかっています」 キリアンは立腹とともに言った。

 彼は床に視線を向け、父の硬い表情が放つ非難から逃れた。

「今日は呼吸が浅い、そして肩肘を張りすぎている。そして大界のデーモゴスのように喉元を張りつめさせている。そのように振舞っていては、自ら傷を負うかもっと酷いことになるだろうが!」

「すみません、父さん」 キリアンはそう言い、全力で声のかすれを隠した。「こんなにすぐに決闘があるとは予想していませんでした。それも教授と、とは」

「予想外の物事を常に予期しておくのだ」 エムブローズは獰猛に言葉を挟んだ。

「光の魔法は予想外でしょう」 キリアンはそっと言った。「何かを創造するというのは、何かを破壊するよりも良いことかもしれません」

「筆術師と光術師の甘言で死から救われると思うな!」 エムブローズは吼え声を上げた。「オリークの心は戦いの中で屈しはしない。魔道士狩りは決して心を改めない。奴らは滅ぼさねばならんのだ!」 火山が黒い溶岩と白い炎を吹き出すように、インクの文字列が弾けた。「お前は歴史上最も偉大な墨魔道士の一族に連なる者だ。それゆえ、多くの敵がお前の高名を奪おうとするだろう。決してそのような機会を与えてはならない!」

「わかってるよ」 キリアンは床へと、鋭く呟いた。

「何と言った?」

 キリアンは素早く背筋を伸ばし、顔を上げた。「『理解しています、父さん』と言いました」

 そして触れられそうなほどの沈黙が訪れ、キリアンは学部長の顎の筋肉の境目が数度動いたのを感じた――薄い唇を歪めた背後で、こっそりと歯を軋ませている。貫くような父の視線が自分を値踏みしているのを感じた。この緊張を切ることができればと、キリアンは傍の机に向かうと本の前の席についた。明らかに目的をもって開かれたその章の題名は、「哀歌と鎮魂歌:敗北した戦闘詩文」だった。

「お前の言葉は鋸歯の刃のようでなくてはならない、骨から肉をはぎ取るような。やがてお前は獲物を狩り、はわらたを抜いて食らうのだ。それが敵を打倒する唯一の方法だ。わかったか?」

「はい、エムブローズ学部長」

 エムブローズは踵を返して立ち去ろうとしていたが、堅苦しく硬直したキリアンの返答に動きを止めた。

「これはお前自身のためなのだ、息子よ。いつかお前にもわかる時が来る」

激しい落胆》 アート:Andrey Kuzinskiy

 キリアンは午後の残りを、戦闘詩文を朗読して記憶することに費やした。だがそれは彼の声を肉体的にも感情的にも衰弱させるだけだった。水を満たした杯が要請に応えて現れ、彼はそれを貪欲に飲んだ。だがそれは回復を助けるどころか、彼の小さな膀胱を刺激するだけだった。言葉を発するのは今や難行に近く、喉から広がる痛みは耐えられそうになかった。白の魔法が助けになってくれるかもしれない、キリアンはそう思った。だがもう一度医務室に入るのは不名誉以外の何でもなく、また彼は最も基礎的な呪文以上の学習を禁じられていた。

 彼は机に額をつけて突っ伏し、無力に床を見つめた。そこに、磨き上げられた黒いブーツの間に、クイントリウスがくれた本が近づいてきた――自ら動いて。やがてそれが動きを止めると、黒いインクの一塊が滴り落ち、泡立つ頭部の黒い生物の姿をとった――使い魔の墨獣、ドーコー。

 ドーコーの漆黒の皮膚が、訪れていた書物の本文に揺れた。そして戦闘詩文以外の何かでキリアンの心を高揚できればと、にやにや笑いを向けて共感を示した。だがキリアンは笑みを返せなかった。事実、その本を見下ろし、不意にとてつもない恐怖に満たされていた。声が失われようとしている、そして自分はシルバークイルなのだ。声なくしてどうやって演じることができるだろう?

 気にかかる思考がファネッサへと揺れ動いた。彼女の提案を受け入れるべきかもしれない。他にどんな選択肢がある?

 結論に達し、彼はその本とドーコーをローブの中に滑り込ませ、部屋を出た。


 暁の虹、キャンパスにかかる巨大なスターアーチの最下部の石の影にキリアンは身を隠していた。遠くから見つめる中、ウィザーブルームの生徒三人が「虹の端」亭に入ろうとしていた。分厚い木の扉が開き、ドーム状の建物が生き生きとしたプリズマリの弦楽器の音楽を吐き出した。入り口から中へと姿を消す前、ウィザーブルームの生徒の三人目が振り返って彼の存在に気付いた。

 その緑の肌、輝く黄金色の瞳、艶やかな葉の髪は即座にわかった。同じ二年生の友人、ダイナ。前の学期、二人は居残り沼にて極めて厳しい試練を経験した。だが悲しいことに、それ以後は数語の言葉を交わしただけだった。

「誰か待ってるの、キリー?」 距離は離れたまま、ダイナは尋ねた。

 その愛称にキリアンはひるんだ。それは可愛いというより陰鬱に響いた。キリー。喉に昇ってくる痛みを感じ、彼は話すのを躊躇した。その代わりに、ダイナへと頷いてみせた。

「もう中にいるんじゃない?」

 キリアンはもう一度周囲を見渡した。ファネッサの姿はなく、彼は近づこうと決めた。

「一緒に行きたいのは山々なんだけど」 ダイナは彼のために扉を押さえていた。「先約があって。同じウィザーブルームの。私、新しいことをしてみようと思って――友達を作るの。ヴィックスっていう名前の四年生。いい人よ、だいたいは」

「だいたい?」

「私にはいい人だけど、少し乱暴なところがあってね。お茶を何度か淹れてあげたのよ」 彼女はそう続け、肩に蔓で留めた緑色の缶を示した。「もしだったら試してみて、とっても強いの。何が入ってるかは聞かない方がいいわよ、蔦掴みの歯を味わいたくないならね」

「つまりそれが入ってるのか?」

「聞かない方が身のためよ。さ、行きましょ」 ダイナが彼の手をとり、ふたりは店内に入った。

 虹の端亭は大きな円形の建物で、屋根は高いドーム状になっていた。窓の周辺には外の光が差し込んでその周囲や異なる区画への通路を照らしているが、内側は薄暗く、音楽の調子に合わせて色を変える蝋燭に宙から照らされていた。バーカウンターは建物の中心に位置し、その上に浮遊するステージでプリズマリのバンドが音楽を演奏していた。それらを円形の卓と丸椅子が取り囲み、泡立つ杯から酒を飲み、味付けした肉を食べる生徒で埋まっていた。

 ファネッサは一瞬で発見できた。まるで大饗宴を楽しむ女王のように、彼女は長テーブルの先端に座っていた。

「あの人を探してたのね、キリー」とダイナ。「一人にしても大丈夫?」

「いや――」 キリアンは返答しかけたが、ダイナは既に歩き去っていた。

 キリアンは柔らかな笑みを浮かべるファネッサへと視線を移し、すぐに向かった。

「これはこれは。どなたがお出ましかと思えば」 ファネッサが大仰に言った。「キリアン・ルー、規則破り……それもなんと彼女連れでとか?」

「違う! ダイナは……その……そういうのじゃ」 キリアンはどもった。喉の痛み、そしてファネッサの訳知り顔の笑みがそれ以上の説明を遮った。そして不満とともに、彼女の向かいに座った。

「でさ……聞いた?」 ファネッサが切り出した。「ラジネスの奴、週に一度、決闘やるつもりだって」

「本当に?」 キリアンはかすれ声で尋ねた。

「そ。だから何度も何度も何度も、力量を示さないといけないよ」

 キリアンは深く息を吸い、その先に待つものを思って憤った。自分の魔法はもっと暴力的なものに成長していくのだろう。

「雄弁家になるための必須項目、なんじゃない?」 彼女は続けた。「義務の人生。自由なんてない。それに、きみはエムブローズ学部長の一人息子だもの」

「話してくれた例の飲み物、もらってもいいかな」 キリアンは割って入った。

 その必死な様子を楽しむように、ファネッサは微笑んだ。「言わなくても大丈夫よ、キリー。言わなくても」

 彼女は立ち上がってバーカウンターへと向かい、キリアンはその様子を見つめた。自分だけが聞いているはずの言葉をファネッサが繰り返すのは二度目だった。だが彼女の涼しい笑みがその思考を消した。ただの偶然かもしれない。

 彼女の視線から逃れ、キリアンはクイントリウスが貸してくれた本をローブから取り出した。ドーコーがその中から実体化して覗き見た。墨獣はキリアンが少し良い気分であると察し、嬉しそうに笑みと目配せを向けてきた。そしてその黒い掌を使って、ドーコーは沢山の絵が載ったその本のページをめくった――多くの異なる形と位置に定めた、手と指の絵。描画それぞれの下には肯定の言葉が書かれていた――親切心、美徳、愛、更に他にも沢山。キリアンは卓の下で「光」の印を作り、目を閉じた。何かを創造する、自らに向けてそう意識を集中させた。まもなく瞼の裏に橙色の光の輝きが見え、卓上の蝋燭の熱が増すのを感じた。できた。

「ここで見るのは初めてだな、ルー」 肩越しに、よどんだ男の声が聞こえた。

 振り返らずとも、ウィザーブルームの生徒が満足そうに眺めているのがわかった。彼らは常に沼の匂いを漂わせている。だがこの男は、花のような香りを身体に散らしていた。誰かにいい印象を与えるためだろうか。キリアンは座り直し、本をローブの中に戻した。

「ダイナとは仲いいんだってな」 ウィザーブルーム生の声色は疑っているようだった。「一緒に過ごしたって?」

「過ごした」 キリアンは返答した。「居残り沼で。課題を手伝っただけだ」

 ファネッサを見ると、自分たちを観察しているのがわかった。これからの展開を期待しているのだ。

「課題」 ウィザーブルーム生の声色は脅しを帯び、乱暴な、嫉妬深い性格が現れた。「今もか?」

「ヴィックス」 少し離れて、ダイナの声が聞こえた。

 キリアンは立ち上がって振り向き、相手に対面した。逞しい長身の四年生。緑の、蔓のような髪が青白い顔に張り付き、翠緑の瞳がキリアンの漆黒のそれにひらめいた。その手に掴んだ棘だらけの害獣が悶え始めていた。

「やめろ」 キリアンは相手を宥めようと最後の努力を試みた。「ダイナはただの友達だ」

 ヴィックスはにやりとし、吸血鬼の牙をひらめかせ、そして衣服に走る脈が不意に緑色の光に輝きだした。

「一日に二回も決闘なんてね、キリー」 ファネッサが席につきながら言った。彼女は泡立つ紫色の液体が入った杯を卓に置き、キリアンへと滑らせた。キリアンはそれを受け取った。「有名人ね」

「やめてくれ」とキリアン。「頼む」

「断る」とヴィックス。「始めよう」

 主に生命力を奪われ、害獣は叫びを上げた。緑色の魔力がその四年生の背中から、のたうつ木のように放たれた。その葉は形を曲げ、巨大で半透明な害獣の上半身を形作った。

 「虹の端」亭は常に、魔法の決闘の勃発に備えている。卓と椅子が決闘の場の周囲に浮いて固定され、建物がそのまま闘技場へと変化した。ダイナとファネッサを含め、生徒たちは彼らの上で卓に座したままでいた。バーカウンターとステージも同じく浮上し、決闘者同士が相手に罵声を浴びせる余地を作り出した。

 この決闘の噂は素早く伝わる、キリアンはそうわかっていた。勝者として伝えられるのが最良だろう、特にシルバークイルと父の耳には。そのため、彼は素早く杯の中身を飲み干し、それが安堵をくれることを祈った。ただちに効果はあった。

 蜂蜜味の液体の暖かさが喉を覆い、高揚感と新たなエネルギーをもたらした。彼は唖然とし、回復したと感じた。違う……遥かに良い。かつて感じたこともないほどに。その飲料が身体に行き渡り、最初の攻撃を焚きつけた。

「鈍くてしけた沼野郎、嫉妬しすぎて青ざめてるな? 自分の臭さを吸い過ぎて、顔色悪いんじゃないのか」 その言葉が口から発せられるや否や、黒い魔力の波がキリアンの背中から溢れ、長い、骨ばった脚と蜘蛛の胸郭へと変化した。その脚は彼をヴィックスの頭上に高く持ち上げ、相手は軽蔑の表情で見上げた。頭上の生徒たちからの喝采と驚きの声が聞こえた。

「萎びて枯れろ、ウィザーブルーム」 キリアンはそう嘲った。そして豊富な肺活量を用いて太いインクの糸を何本も吹き出し、それは相手に絡みつこうとする格子状の網へと変化した。ヴィックスは全ての攻撃を器用にかわし、刺々しい呪文の球を投げ返した。キリアンはその急襲を避け、インクと呪詛を立て続けに返した。

 自分の力の荒々しさに、その内にある脅威にキリアンは驚いた。あらゆる攻撃がひとつ前のそれよりも破壊的に感じられ、一切の良心の呵責もなく放たれた。彼がもたらす黒く分厚い災いの網に辺りの全てが覆われるまで、長くはかからなかった。

 今やヴィックスは疲労に息を切らしていた。害獣のエネルギーは尽きかけていた。キリアンを打倒しようと最後の力を振り絞り、若きウィザーブルーム生はむち打つ木の根の群れを床から召喚し、相手に迫ろうとした。その動きに彼は一瞬無防備になり、キリアンは(ラジネスが講義でそうしたように)好機を見た。そして鋭い一本の「t」を舌から放った。黒いインクの矢が店内を駆け、ヴィックスの胸に突き刺さった。続けてキリアンは素早くヴィックスを網で捕らえ、蠅のように無力化した。

「小物のイボがやきもちとかさ? 陰気にいじけた意気地なしだな」 キリアンはそう囁きながらゆっくりと近づいていった。「愛しいダイナが憐れんでるよ。どれだけ臭いを隠しても、あの娘がお前になびくわけない!」

 その言葉とともに、辺りに伸びるインクの全てが、矢も含めて、ヴィックスの身体へ侵入していった。敵の瞳の色が金から黒へと消えゆく様を、キリアンは見つめた。

「キリー!」 ダイナが怯えた声で叫んだ。

 キリアンが顔を上げると、ダイナは怯えた顔で懇願していた。それ以上進まないでと。彼は視線をファネッサへと移した。その表情はダイナと正反対で、悪魔のような喜びを浮かべて戦いを見つめていた。

「キリアン・ルー! お父さんを喜ばせなさい!」 ファネッサは歓声を上げ、とどめを刺せと促した。

 再びキリアンはヴィックスへと向き直った。その黒い瞳は今や恐怖に見開かれ、魂は砕けようとしていた。彼の犠牲者の心は奈落の底へ落ちようとしており、それはキリアンに取り返しのつかないことの恐ろしさを思い出させた――暗闇の中、孤独に苦しむのだ。

 良心が反逆した。こんなことはしたくない。あなたを傷つけたくはない。

 キリアンは口を開いて呪いを呼び戻そうとし、だが狼狽した。声が全く出てこなかった。更に力を込めて試すも、人道的な感情が喉につかえているようだった。まるで内なる何かが――ファネッサがくれた調合薬によって目覚めさせられた、暗く悪意ある何かが――彼の奮闘をもたつかせているように。もう一度ファネッサを一瞥すると、彼女はダガーのようにこちらを見つめ、とどめを刺さないキリアンへと憤慨していた。間違いなく、これは彼女の仕業だった。

 ヴィックスを救う時間はもう僅かしか残されていなかった。声も他の方法もなく、キリアンは再びローブから沈黙の書物を取り出してページを開いた。同じ思いのドーコーは手助けできる機会を今か今かと待っており、素早く行動に移った。彼はインクを含んだ二つの手に変化し、簡素な一文を作り出した。

 あなたは、そのままで、いい。

 最初の会話で、キリアンはこの男が嫉妬に強く焚きつけられていると感じた。そして見落とされることへの深い怖れを。キリアンとダイナが手をとり合う姿が、両方の感情に火をつけたのだ。彼を救うのは、キリアンが彼に吹き込めるのは、自信。それこそ自分が創造できて、長く続くであろうもの。

 キリアンは素早くその一節を自分自身の手で繰り返し、意識を集中させた。すぐさま白い光が彼から波打って発せられ、蜘蛛の脚を彼の身体の中へ戻していった。そして、まさしくあの校医が彼を救ってくれたように、キリアンはのたうつインクの呪文を引き抜いていった。だがそうしながら、彼はそれらに純粋な白の魔力を吹き込み、善い意図で満たし、それをウィザーブルーム生徒の心へ送り返した。ヴィックスの両目が二つの太陽のように輝き始め、そしてその身体にも癒しの黄金の光が波打った。恐怖は喜びに取って代わられた。若者が頭を横たえる寸前、キリアンはその唇に笑みすら見た。かくして、決闘は終わった。

 喝采が頭上から降り注ぎ、音楽が再開し、酒場は元の状態に戻っていった。キリアンは落ち着くのを待たず、化粧室へと駆けこんだ。

 中に入ると彼は洗面台に直行し、蛇口をひねると両手一杯に水をすくって口に運んだ。今や喉は燃えるように熱く、そして飲むほどにその熱も増すばかりのように思えた。

「そう……あれは何だったの?」 ファネッサが入ってきて、後ろ手に鍵をかけた。ゆっくりと尋ねるその声には悪意があると言えた。「あの男にとどめを刺せたのに」

「それは……正しいことじゃ……ない」 蛇口に口を近づけたまま、キリアンは立腹して言った。

「やって来た獲物を狩り、はらわたを抜いて平らげる。お父さんはそう教えなかった?」

 キリアンは強烈な視線を投げかけた。自分だけに向けられた言葉を彼女が引用したのはこれで三度目だった。僕を追いかけていた?

「ええ、ずっと追っていた」 彼女はそう認めた。「私たちはずっと見ていたのよ。とっても長い間ね」

 キリアンは彼女から後ずさりだした。今や困惑し、そして次第に怖れながら。

「あの飲み物――何を入れた?」

「特別なものは何も――エールを少しと、薬草と、きみが持つあらゆる罪悪感を押し殺すオリークの魔法を少しね」

 ファネッサは両手を差し出し、ゆっくりとキリアンに近づいていった。眩しい火花がその両手の間に弾け、回転する紫色の炎球へと成長した。その球は拡大してねじれ、やがて輝く黒い兜の形をとった。キリアンはそれを見て身体を硬くした。オリークの仮面。ファネッサもまた紫色の炎に包まれた。それはシルバークイルのローブを燃やし尽くし、その下の物騒な、灰色のオリークの鎧を露わにした。敵が自分のところへやって来たのだ、最も無防備になったこの瞬間に。

「良心を持つ墨魔道士は雄弁家になれない」 ファネッサは笑みとともに言った。

 その兜は彼女の手を離れ、キリアンの頭上に浮いた。

「きみは将来有望だって私たちの首領は思ってる」 彼女は続けた。「けれどきみの真の運命への道は、ストリクスヘイヴンの誰もきみの為に用意してあげられなかった恐怖に満ちているわ。今の自分を見なさい――ラジネスのせいで、お父さんの期待のせいで、きみの声は犠牲になった。そこまで大口をたたいて虚勢を張って何になるの?」 そう語りかけながら、彼女はキリアンの周りをまわった。「きみはあの可哀相なウィザーブルーム生徒との決闘で、長い訓練時間もなしに、怖れもなしに、同情もなしにあの力を発揮した。あれこそ、きみが本当のきみになるために必要なものよ」

「本当の僕、それは何だ?」 仮面から目を離さず、キリアンは尋ねた。

「自由よ」

オリークの誘惑》 アート:Billy Christian

 仮面は自らキリアンの両手へと降りてきた。ゆっくりと、彼はそれを掴んだ。互いの間に、緊張の瞬間が過ぎた。彼女がくれたあの飲み物は、力をくれる以上の仕事をしたようだった――キリアンは彼女の提案に対して、不自然なほど敏感になっていた。脳内に圧迫感が強まり、頭蓋骨が弾け飛ぶのではないかと思うほどだった。後悔、失望、重い期待――全てを終わらせたかった。そして沈黙の中で、オリークの紫色の炎の中に消えるというのは、良い考えに思えた。

「その仮面をつけなさい、キリアン・ルー」 今や、ファネッサはキリアンの背後に立っていた。彼女自身の黒い兜がその頭部に顕現し、変身を完了した。「私たちに加わりなさい。一緒に、きみの進む道に立ちふさがるもの全てを破壊しましょう」

 その瞬間、ドーコーが現れた。彼は今も沈黙の呪文の形をとっていた。墨獣はキリアンと兜の間に浮遊し、必死に答えを探し求める友の痛ましい瞳を見つめた。心得た頷きひとつでドーコーはインクの粒へと溶け、キリアンの目の前に簡素な一文を書いた。

破壊ではなく、創造を。

 キリアンは深呼吸をし、重みが肩から降りるのを感じた――本当の自分は何になりたいのか、それを遂に受け入れ、不意に自由が訪れた。彼はゆっくりとかぶりを振り、オリークの勧誘を拒否した。仮面はキリアンの両手から即座に消失した。

「惨めな小僧」 ファネッサが呪った。その言葉を体現して、インクの魔法がキリアンの頭上で水音をたてた。小さなインクの塊それぞれが鋭い囁き音を立て、彼の頭上で尖った鍾乳石の形を成した。「きみはオリークに相応しくない。卑しい、自惚れた馬鹿だわ。そしてそんなふうに死ぬのよ」

 不意に、外から悲鳴と呪文の爆発が響いた。扉の向こうで別の戦いが勃発していた。だがこれは最初のそれよりも遥かに大規模だった。

「私がひとりで来るとか思ったの?」 ファネッサが小気味良さそうに言った。彼女は手を伸ばし、すると身体全体がインクと紫色に燃える炎にうねった。「私たちの魔道士狩りが全員始末してあげる……きみの小さな彼女さんもね」

 ドーコーは再び三つの手の形に変化し、そしてキリアンは振り向くことなく自分の手でそれを真似た。光は、光を、もたらす。直ちに辺りの全てが眩い白の魔法に波打った。黄金色に光ってうねる球が彼を包み、ファネッサが放った鋭い槍を跳ねのけた。その光が触れた全てが太陽のように輝いた。そしてその太陽のように、キリアンは宙へ高く浮かび上がった。

輝く抵抗》 アート:Manuel Castañón

 ファネッサは呪いを彼へと放ったが、どれもその光を貫けなかった。キリアンは同じ手ぶりを繰り返して盾を作り、そして光の球は膨張していって彼女を圧倒し、押さえこんだ。キリアンはゆっくりと近づき、彼女の荒々しく怯えた両目を見つめると、歯の裏を舌で叩いて柔らかな「t」の音を放った。黄金色に揺らめき、高潔な意図に満たされた一本の矢が現れた。それはゆっくりと宙を滑り、ファネッサに当たって浸透した。

 あなたに慈悲を。

 彼女はこの世のものとは思えない悲鳴を上げ、そして両目に燃え上がる炎は引いて静かな黄金の水面へと変わった。そしてその時、化粧室の扉が弾け飛んだ。節足動物の脚と装甲を持つ生物が一体、投石機から放たれたように身体を縮めて勢いよく飛びこんできた。それはファネッサの上に舞い上がり、身体を伸ばし、キチン質の音を鳴らす脚が彼女を捕まえた。前向きに突進し、それは壁を突き破って空へと逃走した。

 キリアンとドーコーは急いで追い、建物に空いた巨大な穴から外へ出た。だがすぐに止まり、敵の軌跡が残した雲の破れ目を見上げた。ファネッサと魔道士狩りの姿はなかった。だが更に二体の魔道士狩りが加わり、戦いはまだ続いていた。歯をむき出しにして、おぞましいその生物は槍のような尾を凄まじい正確さで振るい、接敵した生徒たちの身体を切り裂いていた。一方で、まるで来たる攻撃を予期しているかのように、怪物へ向けられた攻撃は全て避けられていた。ストリクスヘイヴンの人々は速やかに敗北へと向かっていた。

 幸運にも、キリアンはこの生物について学んでいた。父がそうさせていた。分厚い頭蓋骨から伸びる輝く棘が、魔法を察知して容易に回避するための鍵だった。

 ドーコーがすぐさま行動に移り、身体を伸ばして二十粒もの黒い水滴に変化し、キリアンを円形に取り巻いた。一つ一つがその本に載る手の形状を模し、キリアンの前を流れるように通過し、そして彼は自らの手でそれらを真似ていった。ドーコーは速度を上げ、キリアンもそれに合わせて更に素早く手を動かした。やがてドーコーは回転する黒いインクの渦巻きとなり、サインはひとつの流れとなった。

今この時、あなたに平穏を。光が闇を追い払いますように。

 すぐさま、魔道士狩りの棘が発する激しい輝きは弱まり、波打つ白色がとって変わった。眩しさに、魔道士狩りたちは見えない敵から必死に身を守ろうと鉤爪を荒々しく振るった。キリアンの呪文が水のようにそれらの背中を流れ下り、尾へ向かい、末端に達し、動きを止めさせた。

「キリアン・ルーだ! あいつがやってくれた!」 ヴィックスが叫んだ。彼は今や完全に回復し、棘の生えた枝で怪物に切りつけていた。彼とキリアンの目が合い、瞬間、二人は戦士同士の尊敬を交わした――生まれたばかりの友情。「何でもいいから攻撃しろ!」

 負傷した魔道士たちもその合図に従い、身を震わせる獣を大きく取り囲み、知る限りの攻撃呪文を放った。五十人もの生徒たちが、ストリクスヘイヴンの全大学の多種多様な魔法を怪物へと浴びせ、甲殻を貫いて破壊した。最後の攻撃はダイナからで、緑色に脈打つ巨大な球を怯えたその生物に投げつけ、粉々に砕いた。怪物たちの死が確認されると、魔道士全員の目が空に舞うキリアンへと向けられた。彼らの目には畏敬の念が湛えられていた。勝利、そしてそれをくれたのはキリアンだった。


 少しして、キリアンは壁に背を預けた。戦いで完全に消耗していた。ファネッサと魔道士狩りと戦うために全てを捧げたのだ――声を含めて。今もそれが二度と戻らないのではと怖れていた。

「もうお店の中じゃないけど」 ダイナの声が壁の裏側から聞こえた。「飲み物が必要そうね、キリー」

 まるであの戦いなどなかったかのように、ダイナはダイナらしい無頓着な様子で姿を現した。手には小さな木の鉢を持ち、その中の発光する液体が彼女の顔を魔法の緑色の光で照らしていた。その怪しい薬から立ち上る香気にキリアンは吐き気を覚え、実際そうしかけた。だが彼は断らなかった。無言で祈り、彼女が差し出してくれる薬に身構えた。

「私のお茶は危険だなんて言う生徒もいるけど」 ダイナはキリアンの顎に指を当て、上へ向けさせた。「そうは思わない。私の調合には、あなたの声のような病気を癒すための薬草が沢山入っているんだから。この薬も私の特製、ほんのちょっと副作用があるだけよ。さあ」

「やめておけ」 不意にヴィックスが声を上げた。その声は今やずっと軽く、にやりと歯を見せていた。「沼で採れる薬草は人間の内臓を……溶かすものもある。校医の所へ行った方がいい」 近づいてくる彼を、ダイナは肩越しに見つめた。「お? それは俺がもらったやつじゃないか。ありがとう、ダイナ。手助けが要るか?」

 ヴィックスはキリアンへと手を差し出し、キリアンはそれを取った。

「噂通りだったな」 キリアンが立ち上がろうとすると、ヴィックスはそう切り出した。「お前らシルバークイルは物騒な輩だ。あのな、魔道士狩りの攻撃が来る前、お前と一緒にいたあの女生徒がわめいてた。ストリクスヘイヴンは燃えて俺たち全員はオリークの手で死ぬんだ、とか。邪悪にも程がある台詞だったな。あいつは逃げたのか?」

 キリアンの胸を、とても馴染みある失敗の痛みが貫いた。自分の内に住まう途方もない力に覚醒し、それを受け入れた。それにもかかわらず、敵を逃してしまったのだ。父の言う通りだったかもしれない。光の魔法は、敵に正義をもたらすには力不足なのだと。

「ま、いいだろ」

 キリアンは困惑し、呆気にとられてヴィックスを見た。

「あなたは、彼女を変えたのよ」 ダイナが合わせた。

 ヴィックスはキリアンの手をとったまま、もう片方の手を温かく重ねた。「お前が感じさせてくれたようなものをあの女も受け取ったなら、決して同じままではいられないだろう。その変化はあの女だけでなく他のオリークにも広がって、そいつらの心を動かして、悪の道に背を向けさせる。お前はあいつらを光の中に連れて来る方法を見つけたんだ。影の学部長でも、それは否定できないことだ」

 キリアンは微笑み、二人からの称賛に赤面しかけた。その会話を聞きつけて、ドーコーが現れてキリアンの肩にとまった。泡立つ墨獣は相棒に愛のこもった突きを入れて祝い、二人の言葉を心に留めて信じろと勇気づけた。キリアンがずっと否定してきたその光は、これまで彼の黒の魔法がやってきた以上の物事を成した――変化を作り出したのだ。

 遠くで取り囲む喝采が聞こえ、キリアンは地平線に視線を移した。第二の太陽の眩しさをこらえて見ると、仲間たちが戦いに疲労し、だが微笑んでいた。彼が振るう光の力を目撃した、不屈の仲間たち。その列を目で追っていくと、不意に父の視線と目が合った。エムブローズは腕を組み、断固たる表情で、数人の教授たちとともに群衆の中央に立っていた。彼らもまたぎりぎりで到着し、キリアンがこの日の勝利を収めた様を目撃したのだ。シャイル学部長とラジネス教授が父の両脇に立ち、他の皆とともにキリアンの勝利を祝していた。

 キリアンは背筋を伸ばし、顔を上げ、父の両目を見据えた。それは反抗の主張ではなく、和解の申し出だった――正反対の理念ふたつがその中間で対面し、歩み寄ろうという希望。

 宇宙は広大で、雄弁術はそれを形作る唯一のものではありません。その言葉はキリアンの心に大きく響き、そして彼は意図を全力で込め、それを父の心臓へと放った。エムブローズの両目に一瞬の光が閃いた。その言葉は届いたとキリアンはわかった。けれど受け入れてもらえるだろうか?

 父と子の間にわずかな時間が過ぎ、そしてキリアンはエムブローズの口元がごくわずかに持ち上げられたのを見た――それは、笑みらしきものと言ってもいいような、柔らかな承認の合図だった。それだけでなく、その行動は父にわずかに上を向かせ、暖かなエネルギーが息子に向かって流れた。不意に、キリアンは掌に鋭い痛みを感じた。見ると、淡い色の皮膚に親書きが眩しく燃えていた。

「僕は、創造します」 キリアンは朗々と声を上げた。

 インクが消えゆく中、新鮮な大気を吸い込むと、そこには待ち受ける新たな運命が満ちていた。影から踏み出し、太陽の光の中へ。その時が遂に来たのだ。心は決まっていた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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