MAGIC STORY

ストリクスヘイヴン:魔法学院

EPISODE 09

サイドストーリー第4話:青緑のリボン

Innocent Chizaram Ilo
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2021年4月23日

 

 1つ、1つ、2つ……

 ジモーン・ウォーラはキワノサワーに浮かぶ泡を数えていた。定期試験の終了を祝して専属バリスタのエリナが魔道士たちに無料で飲み物を振舞うという知らせに、ファイアジョルト・カフェは埋まり始めていた。店内にはたくさんの笑い声とお喋りの雲が立ち込めていた。一週間続いた試験、問題や課題の難しさや内容のなさ、そして最も重要なものとして、今夕に開催されるメイジタワーの学期末試合について。

クアンドリクスの神童、ジモーン》 アート:Ryan Pancoast

 ジモーンは数えるのを止めた。

 彼女は強烈な集中でグラスの縁に視線を移し、中の飲料を、重なり合って渦を巻く三つの六角形に分割した。そして渦の速度を遅くしていくと、やがてそれらは融合した。零れなかった。グラスも割れなかった。キアン学部長は間違いなく満点をくれるだろう。形状とフラクタル入門。学期半ばの学部長の最初の講義を思い出し、ジモーンは笑みを浮かべた。水から完全な固形を作り上げることについては、自分がクラスで最も優秀だった。キアン学部長は鼻先の眼鏡を直して言っていた。「来年クアンドリクスへの進級を考えているなら、そう教えて下さいね」

 3つ、5つ、……ジモーンは再び泡を数えはじめた。

「ジモーン、ジモーン。ジモーン!」

 三度目の呼びかけで、ジモーンは顔を上げて友人ふたりの姿を見た。混み合う入り口から身体を押し込みながら、アマカとニアニルーゴが手を振っていた。ジモーンは両目を輝かせ、友人たちへと手を振り返した。

「席とってくれるために、威張った二年生とたくさん戦ったりした?」 ニアニルーゴはジモーンを掴んで抱きしめた。

「新入生がストリクスヘイヴンに入ってきても、私たちはそんなふうにはならないよね」 アマカはジモーンの隣に腰を下ろし、エリナへと合図をしてインプの店員を呼んだ。

「あら、私たちは絶対威張り散らすわよ」 ジモーンはそう言ってニアニルーゴの抱擁を解いた。「何でこんなに時間かかったの?」

「聞いてないの?」 ニアニルーゴは小声で言い、そして卓にやって来た店員インプにはもっと大きな声で告げた。「キワノサワーを二つお願い」

「聞いてないって何を?」 ジモーンは尋ねた。

「聞いてるわけないじゃん。この子提出したらすぐ出ていったんだから」 アマカが割って入った。

「席とるために早く来たかったんだけど?」 ジモーンは唇を尖らせた。

「ともかく、五つの大学の学部長十人全員が、魔法のデモンストレーションをやるんだって。正しい大学選びのための最後の一押しってわけ」

 店員のインプが飲み物を運んでくると、エリナの指示通りに「本日は飲み物が無料です」と書かれたレシートを置いた。

「クアンドリクスに行くって言ってたけど、気が変わったりは……」

 ジモーンが睨みつける視線に気づき、アマカは続く言葉を噛んだ。ジモーンは大きな笑い声を上げ、ニアニルーゴが続いた。すぐさま、三人は揃って笑い、飲みながら大声でお喋りを始めた。ニアニルーゴ、アマカ、ジモーンが出会ったのは、ストリクスヘイヴンに入学してから一週間後、大図書棟でのことだった。三人はそれぞれ念動力についての最初の課題に取り組んでいたが、すぐに熱い議論に突入した――炎、大気、水、あるいは土、どの要素が最も重要なのだろうかと。あまりに声高に議論したため、ツリーフォークの司書イサボウに退出を促された。そして今、年度の終わりを迎え、この先も仲良くしていけるのかと三人は不安だった。それぞれ異なる大学を選んでいた。ジモーンはクアンドリクスを、アマカはプリズマリを、ニアニルーゴはシルバークイルを。

「ジモーン・ウォーラはあんたかね?」 のたくるような声が尋ねた。

 ジモーン、アマカ、ニアニルーゴはお喋りを中断した。

「ジモーン・ウォーラはあんたかね?」 その声は再び尋ねた。

 その声は床の方から聞こえていると三人は気付いた。そこにいたのは「遅配のワラダー」、栗材の旅行鞄はまだ届けられていない荷物で満杯だった。

「うん。私がジモーン・ウォーラだけど」

 ワラダーは目を狭めてジモーンを見上げ、相手が嘘をついていないと確かめるように視線を合わせた。そしていかなる理由か、飲み物の雫がネクタイに黄色く跳ねたこの少女が確かにジモーン・ウォーラであると確信し、言った。「二週間前にあんたに届け物だ。差し出し主の名前はない。軽いやつだ。包装は渦巻き模様の煉瓦が描かれた光学紙。もっと早く届けたかったが、知っての通り……」

 事務所での仕事はどのようなものか、いかにして荷物が遅延してしまうか、ストリクスヘイヴンの全体をくまなく歩くのはどれほど骨が折れることか――この小柄な亀人は耳を傾ける者全てにそういった物事を聞かせるのを愛している。ストリクスヘイヴンの誰もがそうしているように、魔法やインプを使えば仕事がもっと簡単かつ能率的になるのは疑いなかったが、ワラダーはそれに言及したことはなかった。

「謎のお届け物」 ニアニルーゴが目を見開いた。

「ジモーン、二週間前って誕生日じゃ」 アマカが言って、グラスを掴むジモーンの両手をつついた。

 ジモーンは最後に残る飲料を一気に飲み干し、口元のグラスへとげっぷをした。送り主が誰なのか、正しく知っていた――この七年間ずっと、同じ包みを受け取っていた。ワラダーが表現したものと同じ包みを。

「椅子をこんな高くしなくても良かろうに」 ワラダーが不平をこぼした。「飲み物を置くのに天井に届かせる必要はないだろうに」彼は旅行鞄を開くために体勢を整え、殻が椅子の脚をこすった。「ジモーン嬢ちゃん、椅子から降りてきて署名して荷物を受け取ってくれんかね」

「ジモーン」 アマカが指先で卓を叩いた。「急いで。メイジタワーはもう始まるよ」

「そうだよ。もうみんな競技場へ向かってる」 ニアニルーゴが付け加えた。

「先に行ってて、前の方の席が取れるように」 カフェの客は既に減りつつあった。ジモーンは期待と不安が入り混じった真剣な視線で、ワラダーが鞄の中から包みをあさる様を追った。


 祖母のニミローティ・ウォーラから謎めいた荷物を初めて受け取ったのは、ジモーンが七歳の誕生日を迎えた時だった。両親、ジヒルとディーポーは盛大なパーティーを開催して新しい部屋を披露した。七歳になった、そして遂に自分の部屋が持てる! 自分の娘はこんなにも速く成長するのか、ジヒルは扉の横でぶつぶつと言い続け、そして自分とディーポーはすぐ下の階にいるのだから怖がることはないと繰り返した。その間ディーポーは窓の鍵を今一度確認し、ベッドのシーツに皺ひとつないと確認すると、ようやく娘とジヒルとともに長い抱擁を交わした。扉が閉じられると、ジモーンはベッドに飛び込み、シーツを宙に投げ、それにくるまった。くしゃくしゃのベッドで眠ってみたい、ずっとそう思っていた。

 何かが窓を引っかいた。リス? そう思いながら膝立ちで近づいた。窓は開けないようにという両親の言いつけは忘れ、ジモーンは窓を開けると、窓台の隅に一つの包みが置かれていた。包装は、渦巻き模様を描く煉瓦の光学紙。夜の風がその包みを既に傾かせており、ジモーンは急ぎ拾い上げて窓を閉じた。パーティーで皆がくれたたくさんの贈り物の一つだと思い、彼女はそれを破って開いた。ベルベットが張られた箱の中には、緑と青の縞模様のリボンが8本と、一枚の手紙が入っていた。

ジモーン、お誕生日おめでとう。

これは私たちだけの秘密ですよ。

ニミローティより

 

 この夜以前、ニミローティについては断片的に知っているだけだった。ジヒルとディーポーが「おばあちゃん」について呟く話の小片を。以前、居間には一人の女性の絵が飾られていた。こちらに背を向け、その灰色のドレッドヘアーを頭の上に盛り上げていた。それは誰なのかとジモーンが尋ねると、ディーポーは絵を外した。断片的な話から、ジモーンは話を組み立てた。自分の祖母はストリクスヘイヴンの名高い教授だったが、何かが起こった――物忘れをするようになり、呪文を取り違え、講義の最中に退出し、ある魔道士の頭に壺を叩きつけかけた――そしてストリクスヘイヴンを去り、それ以来姿を見た者はいないのだと。その夜から六年後、茶色の鼻のインプ二体がジモーンへのストリクスヘイヴン入学許可証を届けにくると、ディーポーは入学に反対した。ジモーンは歳のわりに聡明で、自分の身は守れる。そうジヒルが二週間を費やして説得した。

 翌年、別の包みが同じ手紙とともに届いた。だがリボンは13本だった。その次の年には21本、そしてその翌年には34本、55本……今、ジモーンはベッドの上で、そのリボンと箱の中の手紙を見つめていた。魔道士のほとんどは今も外で、メイジタワーの試合について議論しており、寮の中はほぼ無人だった。勝利したのはシルバークイル、だが決勝戦でその選手の一人がクアンドリクス大学の主将に催眠魔法をかけた。これは明らかな違反だが、メイジタワー審判協議会は反則とはみなさなかったのだ。ジモーンは口から暖かな息を吐くとリボンを数えはじめた。89、144、233……

 377本。数え終わると彼女は握り締めていた拳を開き、そして手紙を拾い上げた。

『ジモーン、お誕生日おめでとう。』

『あなたがストリクスヘイヴンに入ったことで、これを届けるのは難しくなっています。影にはあらゆる目が潜んでいます。』

『だから、これが最後になるでしょう。リボンを善いことに使ってください。』

『ニミローティより』

 寮の扉が軋んで開き、他の生徒たちが揃って入ってくると、ジモーンはリボンと手紙を箱にしまい込んだ。全員が眠りについたなら、枕の下に隠してあるこれまでの誕生日プレゼントと同じく、リボンを編むつもりだった。


 黒板に無数に曲がりくねって並ぶ数字の列に、イムブラハム学部長は目を狭めた。彼は独り言を呟き、額の汗を翼で拭った。そして宙に浮かべていた書物へと戻り、包む空気を波立たせて、コーヒーで汚れたページを開いた。学部長は手にした白墨を折り、それを窓から投げ捨て、そして頭を垂れた。呟きがクラスに広がったが、イムブラハムが顔を上げるとただちに静まった。

「『理論』について知らなければならない最も重要なことは何か。理論とは、未だに我々が見出していない『本質』でしかないということです」 学部長はそう切り出した。「ええ、クアンドリクスの二年生の皆さん、フラクタルを唱えて時間を費やすと予想していましたね。現実的なものを。でしょう?」 彼は得意そうに笑った。「ですが私とともに理論を学んで頂きます。この講義は何故必要なのか、誰か答えられる方はいますか?」

「『理論』は、現実を組み立てる材料だからです」 クラスの返答の只中に、小さな声が挟まった。

 イムブラハム学部長は唖然とした。遠い昔、別の生徒が同じ答えを返していた。「今のはどなたですか?」 目が飛び出る勢いで、彼は教室内を見た。誰も自らの返答を認めないことに諦め、彼は音を立てて本を閉じた。「もう一時間になろうとしていますね。本日の講義はここまで。また来週、ヴォルザーニの推論を試行錯誤しましょう。まさしくクアンドリクスで我々が何十年もそうしてきたように」

 二年生魔道士たちは急いで立ち上がり、机と椅子を押しやってトーラスの講堂から出ていった。次の講義は発達の庭園、キアン学部長の「形状とフラクタルの中間系(召喚と反召喚)」。ジモーンは気付かれないようにそっと出ていこうとしたが、イムブラハムが彼女を手招きした。ジモーンは膝をひねり、胸に本の山を抱え込む両手を強張らせた。

「イムブラハム学部長」 ジモーンは学部長へ近づいた。

「あなたはあの方によく似ていますね」 学部長は翼を持ち上げた。

「誰ですか?」

「あなたのお祖母さん、ニミローティ・ウォーラ殿です。同じ講義をずっと昔に行いました」

 ジモーンは肩の力を緩め、本の重みを和らげた。イムブラハム学部長は喋り続けたが、やがて生徒と学部長との間の空気が緊張を帯びると口を閉じた。発達の庭園へと急ぐキアン学部長の姿がひるがえり、その緊張を和らげてイムブラハムへと別の話題を提供した。

「もう行きなさい。キアンは魔道士が講義に遅刻するのを快く思いませんからね」

 ジモーンは頷いて歩きだし、だが出口で立ち止まってイムブラハム学部長へと振り返った。「その人は、私のお祖母さんは、どんな人だったんですか?」

「私が教えた中でも最高の生徒でした。そして教授になった時には、更に素晴らしい同僚でした。皆、彼女のことが大好きでした……大学を去るまでは」

「ありがとうございます」

「それと、彼女も自分の考えを発言することを怖れませんでしたよ」

 二人は心得た笑みを交わし、ジモーンは急いでトーラスの講堂を出た。発達の庭園に着いた頃には、既にキアン学部長が魔道士たちに自己紹介をさせていた。ジモーンは全員がキアンを半円に取り囲んで座る中に身体を押し込んだ。

「ジモーン・ウォーラさん、初日から遅刻ですよ」とキアン。「自己紹介をして頂けますか?」

 不意の注目に取り乱したが、ジモーンは自己紹介をしようと立ち上がった。

「ジモーン・ウォーラといいます。私は……」

「あなたの名前がジモーン・ウォーラ、それともあなたがジモーン・ウォーラ、どちらですか?」 キアンが指を鳴らした。「若い魔道士は常に、自分自身を体現しようと奮闘します。この点において、ジモーン・ウォーラというのはあなたの名前以上のものです。今や、それがあなたなのです」

 自己紹介が終わると、学部長は講義を始めた。まずは一年次の復習、そして水から動物や植物や建築物のような込み入った形を作る複雑な学習へ。実技のために、学部長は南の泉へと魔道士たちを集めた。

「手ではなく、目で形作るのです。それを忘れないように」 魔道士たちが初めて複雑な呪文に挑む中、キアンは彼らの間を歩きながらそう繰り返した。

使役学基礎》 アート:Randy Vargas

 その本のページの端は赤いインクで汚れ、文章は消えかけていた。幾つかのページを読むためには、陽光に傾けねばならなかった。ジモーンは波打つ表紙から埃を拭い、「ヴォルザーニの推論:フラクタル理論の拡張解釈」を開き、椅子に腰かけた。この本を頼んだ時のイサボウの表情といったら。司書は思わず枝を落とし、錆色の葉を畳んだ。イサボウの枝が最遠の棚へその本を探しに向かった隙に、ジモーンは貸出記録の巻物を覗き見た。最後の署名はニミローティ・ウォーラ、十四年前だった。彼女はメモ帳を取り出し、先頭に「VC」と書いたページを開いた。イムブラハム学部長はヴォルザーニの推論の講義を終えて次の問題へと移っていた。学部長も魔道士たちも、未だそれを解けずにいるためだった。

 ジモーンはメモの文章を呟いた。

 ヴォルザーニの推論は、予測不能なマナ転換の無限連鎖に関する古い魔法/数学的儀式である。(イムブラハム学部長)

 それは宇宙のまさしく本質、究極の無限へと至る鍵を有している。未だ解かれていない。ほとんどのストリクスヘイヴンの教授たちは研究を止めている(唯一、イムブラハム学部長が、クアンドリクスの二年生の魔道士へと一週間だけ教えている)。それがとても強大で、とても破滅的なものになりうるため?

 一分間はゆっくりと一時間になり、一時間は四時間になった。昼の鐘が昼食時間を告げる頃には、ジモーンは本の半分少々を読み進めていた。イサボウが葉を鳴らして魔道士たちへと昼食へ向かう前に本を戻すよう促し、ジモーンを未解決の方程式と仮定の世界から現実へと揺さぶった。彼女は昼食へ向かおうとメモ帳を閉じ、だがその時、先のページから奇妙な紙の端がはみ出しているのを見つけた。ジモーンはそれを引っぱり出した。手書きのメモだった。

『リボンの包み。一つ下がって永遠に続く数。光の道で語りかける生きた本。』

 これがニミローティの手書きであるのは間違いなかった。ジモーンはその紙を四つ折りにしてメモ帳に挟み、本を返すためにイサボウへと急いだ。

 外の階段で、彼女はアマカとニアニルーゴに偶然会った。友人同士は黄色い声を上げて抱き合った。途切れない講義に課題、学期が始まって以来ほとんど顔を合わせてすらいなかった。やがて黙ると、次に三人はそれぞれが選んだ大学について尋ね合った。思い描いていた通りだったと、そして講義にどれほど深く埋もれていたのかと言い合いながら、三人は食堂へ向かった。

 アマカが尋ねた。「ジモーン、何を読んでたの?」

 ジモーンは返答しなかった。彼女の心はメモの中の紙と、ニミローティの意図と思しきものの間をさまよっていた。「生きた本」

「ジモーン!」ニアニルーゴがジモーンを突いて現実に戻した。「アマカが聞いてたんだけど……」

「いいよ。ジモーンはクアンドリクスの心のどこかでフラクタルを唱えてるんだから」

 ジモーンは笑みを作り、自らの内に湧く千と一つの不安を隠した。


 その女性は泉の前に座っていた。背をこちらに向け、青と緑の縞模様のリボンを灰色の髪に編みこんでいた。ジモーンはその女性を救おうと急いだ、アリスモドロームが崩れかけているのだ。塔は中央から波打ち、彫刻は砕けて塵と化した。何かがジモーンの背中を引っ張り続けていたが、やがて彼女はその女性の灰色の編み髪を掴んだ。崩壊は止まった。その女性が振り向いて顔を見せようとしたその瞬間、ジモーンの目がはっと開かれた。溜息をつき、汗まみれのまま、彼女は溜息とともに再び眠りについた。


 キアンの執務室は本の重みで歪んだ本棚がずらりと並んでいた。ジモーンが入室すると、教授は卓についており、次の講義のために書き物をしていた。紙から顔を上げないまま、彼女はジモーンへと座るように合図した。キアンはもう一ページを満たすと、羽ペンを置いた。

「ジモーンさん。今日は顔を見せて頂けたのですね。私は何と幸運なのでしょう!」

 教授の声色は明らかにからかっていた。講義の後に来てくれと言われてから一週間が経過していた。

「私……」

「わかっていますよ。クラスに課題、不安も」

「不安?」

「ええ、不安を」 キアンは立ち上がって窓のカーテンを開いた。「あなたとイムブラハム学部長が何をしようとしているか、それを私に悟られるのではという不安です」

「イムブラハム学部長?」

「ええ。ヴォルザーニの推論については、あの方が指導しているのでしょう?」

「違います、キアン学部長。事実イムブラハム学部長の魔法理論の講義は次の議題に移っています」

「でしたら何故、二日前に『ヴォルザーニの推論:フラクタル理論の拡張解釈』の閲覧を願い出たのですか?」

 ジモーンは椅子から立ち上がった。「もう退出しても宜しいですか?」

「え?」

「この会話を続ける意味があるとは思えません。私個人の研究は私の人生であり、大学の詮索を受けるべき問題ではないと思うのですが」

 キアンは椅子に座り直し、目の前の若き魔道士を見つめ、そして溜息をついた。「戻って結構です、ジモーンさん」

「ありがとうございます」 ジモーンは上着を整え、退出しようとした。

「最後にひとつ。この件は、彼があなたのおばあ様に行っていたものと同じです――オリークがおばあ様を捕らえるまで」 キアンは言葉を切り、ジモーンにとってのその事実の重さを推し量った。「ジモーンさん、あなたは素晴らしい才能をお持ちです。いつかとても強大な魔道士となるでしょう。ですが未知は未知のままにしておかねばなりません。誰もヴォルザーニの推論を解いてこなかったのには理由があります」

「もう一度言いますが、イムブラハム学部長はこの件に何の関係もありません」

 ジモーンは扉をそっと枠に重ねるように閉じた。静かに、動かない大気のように。


 今夜の月は内気だった。雲の背後に隠れ、ストリクスヘイヴンの全てが眠りに落ちるその時を待って現れた。ジモーンは辺りを見渡し、誰も尾行してきていないと確かめた。この時間に生徒は寮から出るものではなく、誰かに見られたらまずいことになるかもしれない。啓蒙の松明は目と鼻の先にあった。ニミローティの書きこみが正しければ、ここが、その本が話してくれるはずの場所。ジモーンは第四塔の下の階段に座って待ち、身体に結びつけた青と緑のリボンの紐を弄んだ。遠くで一羽のフクロウが鳴き、夜の大気が足元で渦巻きを描いた。

「ジモーン・ウォーラ。ニミローティ・ウォーラの孫娘よ。この暗く不気味な夜に、こんな所に何の用かね?」 その声は金属製の四本の脚を細かく動かす、埃だらけの書物から発せられていた。

 ジモーンは立ち上がった。「『絶叫写本』と呼ばれているのはあなたですか?」

騒々しい写本、コーディ》 アート:Daniel Ljunggren

「そうだとも」 その書物は固くお辞儀をした。「本当にそっくりだな、お祖母さんに。我らは実に多くの時をこの階段でともに過ごしたものだ、あの人が……」

「あの人が何です?」 ジモーンは尋ねた。「祖母に何か恐ろしいことがあったと、皆がほのめかしています。でも誰も完全なことを教えてはくれない」

「む? 誰もニミローティが被った災難について話していないのかね? イムブラハムとキアンの学部長も?」

 ジモーンはかぶりを振った。

「ニミローティはヴォルザーニの推論を解明していたのだ。スパイを通してオリークがそれを知ると、奴らは彼女を捕らえた。彼女はストリクスヘイヴンに戻ってきたが、その人物は、もはやかつての素晴らしいニミローティ教授ではなかった。彼女は自らに記憶喪失呪文をかけたのだ。ヴォルザーニの推論を思い出せないなら、オリークに明かすことは何もないと。そしてストリクスヘイヴンを去り、二度と戻ってこなかった」

 かじかむ寒さにジモーンは掌をこすり合わせ、無言で祖母を、オリークに抵抗したその勇気を思った。だが別の思考が心によぎった。もしこの写本が嘘をついていたら? 謎めいたメモ、リボン、あの夢――全てが嘘だったとしたら?

 そして写本は不意に向きを変えた、まるで他の何かを「見ている」ように。「我が知恵が他のどこかで求められているようだの。おやすみ、ジモーン」

「待って下さい。祖母のメモが私をここに連れてきたんです。ヴォルザーニの推論をあなたが明かしてくれるのでは?」

 写本は甲高い笑い声を上げた。「これ以上明かすことなどないわい」そして霧の中へ消えた。

 ジモーンは階段を下りはじめた。一歩前に、一歩後ろに。二歩前に、一歩後ろに。三歩前に、一歩後ろに。五歩前に、三歩後ろに。彼女は数え、階段に集中した。風が渦巻き、強烈な力が熱く背骨を下り、やがてひとつの暗い影が啓蒙の松明にかかった。ジモーンは身体から青と緑のリボンの編み込みを解いた。それらはまるで自らの意志を持つように、無数の模様へと織り上げられていった。やがてその動きが止まり、ジモーンの手の中に滑り込んだ。彼女はそれを振り回し、紫色の雲に覆われたふたつの太陽、カルーとエッザに狙いをつけた。

 影の中で物音がして、ジモーンははっと止まった。彼女は調べようと振り向き、だがつまずいて頭を松明に強打した。意識が消えゆく中、彼女は恐怖とともに訝しんだ。祖母を見ていたスパイが私も見つけたのだろうか、と。


 ジモーンの頭から背骨へと、熱い衝撃が走った。彼女はうめいて目を開こうとしたが、激しい痛みが襲った。彼女は諦め、闇の中へと戻った。

「エクスタス様、あの娘は目覚めましたか?」

「いや、まだだ。待つのだ」

「ですが時間はありません」

「十四年も待ったのだ、ピータよ。もう少しくらい待てるだろう」

 その部屋にいる人物の一人が、ジモーンが横たわるベッドの隣に椅子を引いた。もう一人は壁にもたれかかり、仮面を正した。全ての窓が開いていながらも、部屋は暑苦しかった。その者たちの仮面から立ち上る紫色の煙だけが部屋の中を照らしていた。

「ここはどこ?」 少しの後、ジモーンは尋ねた。鈍い痛みは少し消えていた。咳き込もうとしたが、まるでトウガラシが詰め込まれたように胸が痛んだ。エクスタスとピータは驚いて跳び上がった。

「ごきげんよう、ジモーン」 エクスタスが言った。「私の名はエクスタス。そして……」

「知ってるわ。あなたの評判はよく聞いてるから」 ジモーンは身体を起こして座った。「ストリクスヘイヴンでは、あなたのようにはなるなと教わるもの」

 エクスタスは忍び笑いをもらした。「すまないね。我々が送り出した魔道士狩りが君を驚かせたようだ。勧誘した新人を連れて来る際には、通常もっと穏やかな手段を取るのだが。さて、君はとても大きな力を保持しているため――」

「まだ私の質問に答えてないでしょ。ここはどこ?」 ベッドの足元に、編み込まれた青と緑のリボンが山になっていた。

「君がいるべき場所だよ。君のことはずっと追いかけていた。あの荷物と手紙についても把握している」

「あなたが送ったの?」

「いや。ニミローティは常に我々の一歩先を行っている。あの老女は、君だけが受け取って読めるように仕立てた」

「それで――私を痛めつけて、知っていることを喋らせる気?」

「まさか。オリークは構成員を加えたり仕事をしたりする際に相手を痛めつけはしない。全員の自由意志を尊重している」

「じゃあ、私の祖母に何をしたの?」

「何もしていない。ヴォルザーニの推論はニミローティが背負うには重すぎる。それが彼女を狂乱させた。我々はその重荷を和らげるべく手を差し伸べたのだが、彼女は聞く耳を持たなかった」 エクスタスは言葉を切って息をつき、ジモーンの反応を推し量った。

 ジモーンは寝台から飛び降り、リボンの編みこみを掴んだ。

「落ち着きたまえ、ジモーン。こちらに戦う気はない」

 エクスタスとピータはともに両手を宙へ掲げた。

「知っている内容を話してくれたまえ」 エクスタスは続けた。「そして我々が知る内容を教えよう。そうすればともにこの宇宙を支配できる。時と空間を支配できる」

「悪魔と取引するようなものだわ」 ジモーンは怒鳴り、青緑のリボンを鞭に変えて二人に放ち、部屋の奥側の壁に叩きつけた。「そんな力を持ったら、あなたたちはストリクスヘイヴンを塵にしてしまう」

断固たる否定》 アート:Lorenzo Mastroianni

「その方が良いと思わないか?」 ピータが割って入った。「ストリクスヘイヴンは魔法を溜め込み、手放そうとしない。我々がそれを破壊すれば、この世界の誰もが魔法を学べる。そのような世界を想像するといい――魔法が少数の手にだけに留まらない世界を」

 突風が扉を蝶番から引きちぎった。

「その子から離れなさい!」 キアン学部長の声が轟いた。その背後にはニアニルーゴとアマカの姿があった。

「おやおや。どうか冷静に」 エクスタスが囁いた。その声は冷めており、態度に警戒心はなかった。

 閃く速度でエクスタスは火球を作り出し、キアンへと放った。だが学部長はそれを宙で停止させ、その火球を回転させ、火の勢いを煽るとそれをエクスタスに投げ返した。ジモーンは青緑のリボンの編みこみをうねらせ、時間と空間の小さなひび割れを作り出すと、それはエクスタスの寸前で火球を止めた。続けて彼女は窓台のアロエと羊歯から水を引き出し、火球を消した。

「そんなことをして頂く必要はありません」 キアン学部長へとジモーンは言った。「私を解放してくれるところでした」

 キアンの両目が部屋の中を走った。そのオリークからニアニルーゴへ、アマカへ、そしてジモーンへ。学部長はエクスタスの唇の端に薄い笑みが浮かぶのを、そしてジモーンとピータが交わす慎重な視線を察した。

「無論だ」 エクスタスが言った。「だがきっとまた会えるだろう、ジモーン・ウォーラよ」


 ニミローティは窓の傍に座っていた。背を向け、青と緑のリボンを灰色の髪へと編みこんでいた。

「今日は意識があまり明晰ではないですね」 聖所の世話人はジモーンにそう言った。「はっきりしている日には、お孫さんのことを語り続けてくれます。世界最高の魔道士だと」 世話人は彼女へ微笑むと、かぎ針編みを続ける老人がより糸の玉を解く手助けをした。「必要がありましたら呼んでください」

 失われし者の聖所にて会いましょう、そう記された手紙がニミローティから届いた時の興奮をジモーンは思い出した。ここは魔法に冒された者の療養所。エクスタス・ナーとのやり取り以来、その手紙はジモーンに喜びをくれた唯一のものだった。キアンとイムブラハムの両学部長は、彼女とオリークの首領との間に何があったのかを詰問した。更には何故か、ジモーンはオリークの新入りだという噂がストリクスヘイヴンに広まっており、友人のニアニルーゴとアマカも、大図書棟で偶然会っても彼女を避けるようになっていた。

 ジモーンはゆっくりと窓へ向かい、ニミローティの肩にそっと手を置いた。老女ははっとして振り返り、微笑んだ。

「こんにちは」 ジモーンは声をかけた。「ジモーン・ウォーラっていいます」

「どなた?」その老女は歯を見せて笑い、尋ねた。

「あなたの孫娘です。見てください、同じリボンを持っているんです。おばあちゃんが私にくれたんです……」

 ニミローティは隣に座る少女を見つめ、そして白紙になった記憶をあさった。この、とても愛おしくてとても異質な、ジモーンという名が隠された場所を何とか思い出そうと試みた。ニミローティは敗北に溜息をつき、言った。「あなたが誰なのかはわからないわ。けれど、私が愛する誰かだというのはわかるのよ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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