MAGIC STORY

ストリクスヘイヴン:魔法学院

EPISODE 05

サイドストーリー第2話:束縛の鎖

Reinhardt Suarez
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2021年4月9日

 

「なんでここにいるかわからないんだ」 マラフはそう言い、茶をもうひと口すすった。「個人指導なんていらないよ、それも他の生徒からなんて――や、悪気はないんだけど」

「大丈夫、私も気にしないから」 ダイナはティヴァシュ教授からの通達に目をやった。『クアンドリクスの前途有望な生徒でありながら、マラフは召喚術への稀な親和性を見せている。だが残念なこと心構えが欠けており、過ちをおかす傾向にある』 マラフが音を立てて空のカップを皿に置くと、彼女は顔を上げた。そしてティーポットへ手を伸ばし、残り火で温めた。通常、湿潤なセッジムーアの沼地で炎は利用できない。けれどウィロウダスク教授はダイナの指導任務のため、この空間に魔法をかけて代用の研究室を作ってくれた。それはダイナによく合った。彼女は逆回り講堂の退屈な講義室よりも、沼地のさざめきと泡の音の方が好きだった。

魂浸し、ダイナ》 アート:Chris Rahn

「おかわり、いる?」

「もらうよ」 マラフは杯を持ち上げ、なみなみと注がれた液体を一気飲みした。「ティヴァシュ教授は何か恨みがあるのかもしれない。だって僕は最高の生徒なんだから。どうして上のクラスに進ませてくれないんだ? 他の一年生とやり合うなんて、赤ん坊だらけの部屋にいるみたいだ」

『集中させること。可能性を最大限に引き出すには、適切な意欲が必要となる』 ティヴァシュ教授の覚書きはそう締めくくられていた。

 ダイナはマラフの杯を再び満たした。

「君は相談相手としては本当に優秀だ」 マラフは喜んで琥珀色の液体を飲み干した。「誰もが魔法に秀でてるわけじゃない。そして僕の鋭い直観が言ってるんだ、君は他の道を追求するのが良さそうだって」

 ダイナはマラフの杯に最後まで注ぎ終えた。

 これでいい。

 それから三分半ほどが経って、マラフは先程の大言壮語が嘘のように這いつくばり、泣きわめいていた。「死んじゃうよ!」

「馬鹿なこと言わないの」 ダイナは素材を漁る彼の隣に立った。「蜘蛛が耳を這ったくらいで死にそうな声を出さないで」そして彼女は少し考えた。「毒じゃなければ、だけど。それ毒蜘蛛?」

「知らないのかよ!」

「大丈夫、たぶん毒はないから。たぶんね……ところで、何を探してるか覚えてる?」

「マグウォートとラニー羊歯の根」

「よくできました!」 ダイナはそう言って、マラフが動きやすいように下がった。子供のようにすすり泣いてはいるが、少なくともアターカップの魔法の中和剤を忘れたわけではないようだった。「私は今のうちに、次の授業の予定を決めておくから。来週、同じ時間でいい?」


 滑らかな壁に手を走らせながら、ダイナは逆回り講堂の廊下を進んでいった。ストリクスヘイヴンの各大学の大講堂は、それぞれの使命を精一杯体現するように作られている。そしてその意味で、逆回り講堂は甚だしく成功していた。少なくとも、ウィザーブルーム大学の生徒のほとんどは信じるものだった。生と死。成長、腐敗、再生。けれど、ウィザーブルームの生徒のどれほどが気付いているのだろう? 自分たちの教室や寮の部屋となっている木々が、生きているだけでなく耳を澄ましていることを。

 ダイナは実験室へ入った。ウィザーブルームの学部長ふたり、リセッテとヴァレンティンが、宙に浮く青い炎に熱せられたるつぼの中身を見つめていた。

「貴女が言ったようにはならないではないか」 ヴァレンティン学部長はそう言い、立腹した際の独特の態度で部屋の奥へと向かっていった。

「時間を下さいな」 リセッテの声は蜂蜜のようにゆっくりと流れた。

 ヴァレンティンは尖った指先を打ち鳴らした。「どれほどの時間を与えれば良いのかね?」

「十分な――あら、いらっしゃい。ダイナさん」

「マラフ君との授業は終わりました。ティヴァシュ教授はいらっしゃいますか?」

「大学間会議に出ていますね」とリセッテ。「何故あんなにも熱心に出席したがるのでしょうね。わかりません」

 ヴァレンティンは踵を返して戻ってくると、再びるつぼの中を覗き見てうなった。彼はダイナを一瞥し、だが挨拶はしなかった。「リセッテよ、ティヴァシュの目的は飲食だ。ライムのケーキ、エルダーベリーのパイ」

「食べたいものがあれば、ギヨームが厨房で何でも作ってくれるでしょうに」

「いかにも。だが知っての通り、ティヴァシュは甘やかされるのが好きだ。宇宙の寛大な恵みのように、あれらの甘味がそこで彼を待っている。些細な人物は些細な物の前に黙るものだ」

「ティヴァシュ教授のノートをお預かりしますよ」とリセッテ。「返しておきましょう」

 ダイナは教授のノートを中央の机に置き、るつぼの中でうねって泡立つ銀色の液体をこっそりと見た。リセッテが火山灰をひとつまみ加えると、混合物は音を立てて深い橙色へと変わった。状況が違えば、教授たちが唱えようとしているこの呪文は何かと尋ねただろう。だが今ではなかった。

 折しも、彼女には別の予定があった。

「よろしくお願いします。私はもう行きます」

「プリズマリのパーティーですか?」 リセッテが呼びかけた。「教授がたも皆行く予定です。急ぎでないなら、一緒に行きませんか」

「ふん」 ヴァレンティンがうなった。

「教授がたのほとんど、です」

 ダイナは窓の先に広がる庭園を見た。講堂の巨大な根が作り出すアーチの下に、一番派手な衣服で着飾ったウィザーブルームの生徒たちが集まっていた。ある生徒は喋ると蜘蛛の巣のように揺れる、薄く透き通ったヴェールを被っていた。呪文の構成要素を詰めたポーチやベルトを花で飾っている生徒もいた。

 際立っているのはドライアド、この着飾る機会に特別な愛を抱く者たちだった。大界にある故郷では、衣服を着る必要はない。ストリクスヘイヴンでは着ているが、それが適切であるからというだけだった。けれどこういった類の行事は、流行の斬新さに浸る自由をくれた。自分たちが生まれた木立や谷で産する珍しい織物で着飾り、跳ね回るドライアドの姿は見慣れたものとなっていた。

 ダイナは茶色一色の外套を肩へと引き上げた。

「いえ、結構です。作業がありますので」

「作業? こんな遅くにですか」 リセッテは眉をひそめた。「お友達と過ごすのも良いものですよ」

 二年前にダイナをストリクスヘイヴンへと連れてきて以来、リセッテはひっきりなしにダイナを誰かに紹介しようとしてきた。だが胞子、カビ、菌類の収集という趣味をダイナと共有する者は少なく、いたとしても多くは孤独を好んだ。今となっては、呼吸をし、話ができる者であれば誰であろうとその対象になっていた。

「君はあらゆる生徒にそのような酷い助言を与えるのかね?」 ヴァレンティンが割って入った。「若きダイナは意欲を見せているのだ、我らが生徒のうち、もっと嘆かわしい者たちとは異なってな」

「友達を持てというのが酷い助言ですか? 貴方にだって友人はいますのに」

「友? 誰かね?」

「私ですよ!」

 ヴァレンティンは額に皺を寄せ、首をかしげて考え込んだ。「うむ。君には誤った考えを与えてしまったようで申し訳ない。許して頂きたい」

 リセッテはかぶりを振った。「ダイナさん、行って楽しんでらっしゃいな」


 セッジムーアを渡り、荒れ果てた居残り沼へとひとり歩きながらダイナは考えた。リセッテ学部長はこれを「楽しむ」とはみなさないだろうと。その反面、プリズマリ大学のパーティーに出席することも、ダイナは全く楽しいとは思えなかった。リセッテ学部長は理解していないようだが、実際に他の生徒たちと心を通わせたいなら、機会はいくらでもあるのだ。翌朝に不審な意思決定の結果とともに目覚めるのを気にしなければ、「虹の端」亭で献酒して一晩過ごせばいい。そして直前短期集中講座のために終夜営業のファイアジョルト・カフェもあり、そこには頑張りすぎる人たちがいる。

 リセッテ学部長が自分への責任を感じているのは理解していた。毎週、お茶の時間をともにしながら、あの人は沢山のことを語ってくれていた。けれどもしかしたら、自分は単純にそういった物事を求めていないのかもしれない。そして、もっと重要な作業があるからかもしれない。

「こんばんは」 ダイナはそう言って、アセナスの木に手を触れた。この特別な木を発見してから一箇月、つまり秘密の計画を始めてから一箇月が経っていた。細長い枝は物憂げな小川のように辺りを見下ろし、膨れた幹の中は空洞で、窮屈ではあるが完璧な工房になった。そして沼の奥深くに位置するため、この計画を可能な限り秘密裏に進められることを保証していた。この一帯は内部を探る、あるいは外部と接触を図る魔法を弾くようになっている――友人とのお喋りに時間をかけるのではなく、自分の過ちを熟考させるために。それであっても、ダイナは急いで中に入り、入り口の隠蔽魔法をかけ直した。

「どんなことしてたの?」 彼女は腰を下ろしながら、木へと問いかけた。

 反応はなかった。木々は滅多に反応してこない。

 ダイナは簡単な明かりの魔法を唱え、すると周囲に丸く配置された試薬が照らし出しされた。その中央には古い秘本が座していた。表紙は騎士の肩甲のような、波打った薄い金属板でできていた。そしてアルケヴィオスのどんな職人技も敵わない繊細な鎖が、柔らかな羊皮紙のページをまとめていた。ダイナは最後のページを開いた。

『ストリクスヘイヴンの大図書棟は多元宇宙で最も充実した書庫と言われている。最底辺の魔術師の痒み止めの小技から死せる太陽の力を得る悪魔の儀式まで、あらゆる種類の呪文が記録され、その図書館の高遠なアーチの下のどこかに安置されている。大図書棟がいかにしてその責務を果たしているかを正確に知るのは、ストリクスヘイヴンの創始ドラゴンたちと、あるいはアルケヴィオスの神託者その人だろうか。にもかかわらずほとんどの出資者は、たった一冊の稀少な呪文書が、彼らを追い詰めると考えている』

 ある日ダイナは本棚でこの特別な一冊を発見した。それは招いているようだった。中を読んでくれと懇願してくるようだった。興味から彼女はそれを開き、そして遭遇してしまったものの重大性に引かれた。この書物は手引きであり、日誌であり、生と死とその間に閉ざされた領域に夢中になった名もなき魔道士の瞑想録だった。

『強大な王たちの頭蓋骨を足蹴にして進み、絶対服従の無数の軍勢を指揮した。だがどれほどの征服も、私自身が求めるものに対する戦況を変えはしなかった――私が常に求めてきたもの。死からただ逃れるだけでも、命をただ複写するのでもなく、命なき所から真の命を。それは力というものの究極的な証拠、神の座の最も明確な証。人が想像しうる究極目的は、成し遂げられないからこそ甘い。賢者を自称する者たちはこぞってそう言う。』

『それが間違いだと証明してやろう。』

 その言葉は、生の領域と虚無――絶望した魂が住まう、言語に絶する闇の場所とを繋ぐ呪文の序文だった。

 ひとつひとつ、ダイナは呪文の構成要素を読み解き、周りに置いた材料の中から一致するものを取り出して鉢に入れていった。月蛾のような幾つかはこの沼でたやすく手に入った。他は、例えば長毛スロアーの指関節の骨は、ウィザーブルームの教授たちの研究室に出入りする必要があった。特にリセッテ・ヴァレンティンの両学部長は自分たちの実験に熱中しすぎており、難しくはなかった。ひとつまみ、ひと切れ、彼らは自分たちの試料が少しだけ取られたことに気付きもしなかった。

アート:Randy Vargas

「イーシスの根」 彼女は呟き、材料一覧の最下部を指さした。アルケヴィオスにイーシスという名の植物はなく、ページに描かれた優雅な、羽根のような葉も見た覚えはなかった。

 数週間をかけたが、ダイナの調査は実を結ばなかった。イーシスというのは別の植物種の古い名前なのかもしれない。あるいは絵が不正確なのかもしれない。そういった仮定からの調査も全て行き詰まり、アルケヴィオスにイーシスの木は存在しないという結論を出さざるを得なかった。アルケヴィオスの外の場所で手に入れる? ダイナは調査の方向を転じた、理論的にひとつの次元から異なる次元へと渡れるかもしれない秘儀的儀式を行い、アルケヴィオスから、イーシスが豊かに育つ場所へ行く。だが間違いなく、そういった呪文はほぼ理解不能で、彼女の能力を遥かに超えており、死よりも酷い運命を約束していた。

 調査は行き詰まった。だがマラフとの授業の直前、薬品学の講義にて。黒と無色の霊薬の差異についてオニキス教授が単調に話す中、ダイナは部屋の隅のテラリウムを密かに見つめ、何か特別なものがないか探っていた。そして光の向きか、あるいは不可思議な本能からか、彼女の目はその片隅の小さな羊歯の塊に引き寄せられた。それらの中に、一本の苗木があった。幽霊のように白い葉があのイーシスの木にそっくりだった。授業が終わるとダイナはすぐ行動に移り、生徒たちが今夜の集まりについて噂をし合うどよめきの中、根の一片を抜き取った。

 工房に座し、ダイナは掌に乗せたイーシスの根の欠片を見つめた。人間の手指の爪よりやや大きい程度で、蒼白で、今なおしなやかだった。こんな小さなものが。彼女はそう思い、他の材料と共に鉢へと落とした。残るは、呪文をまとめるだけだった。ナイフを取り出すと、彼女は指先を刺して一滴の血を混合物へと落とした。そして数分の間砕き続け、中身はかすかな月光のように輝く薬剤となった。

 片手にあの本を、もう片手に鉢を持ち、ダイナは工房から出て次の目的地へ向かった。霊光の魔法がその本分通りに行く先を照らした。夕闇は、沼地に活気をもたらす。濡れた木の幹の辛辣な匂いが強まっていた。視界のすぐ外で、様々なものが泥の中を滑るように進んだ。湿った葉が頭上で震えた。見られているのだ。

 子どもの頃にも、こんな夜があった――静かで見事、けれど差し迫る破滅の気配がある。アルケヴィオスに広まっていたあの鬱枯病が彼女の木立に達した時、その影響に気付いた者はわずかだった。その木立を住処としていたものは、とらえがたく執拗な憂鬱の餌食になった。何年もかけてそれは掌握を静かに強め、夢を奪って絶望に置き換えた。心が苦悩に屈すると、肉体も続いた。動物たちは横たわって二度と立ち上がることはなかった。ドライアドは痩せ衰え、萎れて枯れ木と化した。

 そして最後には、草も生えなくなった。

 花も咲かなくなった。

 鳥はその優しい歌をうたうこともなくなった。

 虫も姿を消した。

 あらゆる色が灰色に変わり、全てが沈黙した。

 アルケヴィオス全土の学者たちの努力にもかかわらず、その病の源や経路はわからなかった。リセッテ学部長はその学者の一人であり、ダイナの木立にやって来て、病が手遅れになる前に彼女を救い出してくれたのだった。だが学部長の恐るべき専門知識をもってしても、木立そのものを救うことはできなかった。今、もしかするとそれを変えられるかもしれない。けれど簡単ではないだろう。

 ダイナは小川沿いに進み、小枝と泥でできた害獣の巣穴にやって来た。ウィザーブルームの生徒のほとんどは、害獣の存在は仕方ないものと思っている。誰も、完全に無視はできないのだ――害獣は魔法エネルギーの途方もない源なのだ。だがこの小さな、いぼだらけの生物は辺りに置いて最も喜ばしいものではない。冷たく、ぬめぬめして、礼節と衛生をはなはだしく損ねる。ダイナはどれも気にしなかった。

「こんばんは、バスティオン、ヴェドレディ、キアラ、ネニアク」 水際の泥に転げる害獣たちに、彼女は声をかけた。「元気にしてた?」 害獣たちは木々と同様、直接の質問に答えることは滅多にない。それでもダイナの周囲を跳ね回り、外套に泥を跳ねかけた。「お願いがあるの。ちょっと一緒に来てくれないかな」 集まった十匹全てに薬剤を塗りながら、一抹の不安があった。害獣たちは信頼してくれているし、彼らなりに好いてくれているかもしれない。彼女はネニアクを撫でた。それは数年前に死んだ、同じ木立の姉妹の名前だった。害獣はげっぷをしてダイナの手を舐めた。「成功したらここに戻って来られるわよ。どこへも行かなかったみたいに」

アート:Randy Vargas

 彼女はあの呪文書を地面に置き、害獣の一匹一匹にらせん模様を描いた。あらゆる生命がひとつの点から広がる象徴。そして詠唱を始めた。最初の数音節は簡単に言えた。だが続く言葉は、頭蓋骨の中を木槌が鈍く叩くような感覚をもたらした。ダイナは耐え、喜びをもたらす感覚に集中した――父の木のざらついた幹。生まれた直後に、自分を迎えてくれた存在。

 もしもこの実験が成功をみたなら、木立を取り戻せるかもしれない。皆を。植物、動物、そしてドライアドを、覚えている通りに。命なきところから命を。

 枝が折れる音が響き、彼女の集中を途切れさせた。少し先で、一本の枯れ木が轟音とともに倒れた。その幹は……何かによって真っ二つにされていた。ダイナは本を閉じ、光を消し、水際の泥の中をそっと進んだ。月はなく、星明りが沼のもやをかろうじて貫くだけだった。

 木の幹をこれほど正確に割ってのける沼の生物はいない。ストリクスヘイヴンの何かに違いなかった。

「不満か?」 叫ぶ声が届いた。「この言葉の意味もわからないんだろ」 一瞬の後、滑らかな黒い塊がダイナの目の前の地面に当たった。インクの魔法? もう一発の弾が闇の中から放たれ、害獣たちが楽しそうに戯れる水際のすぐ近くで跳ねた。間違いなくインクの魔法、シルバークイル大学を代表する呪文。けれどシルバークイルの誰かがこの居残り沼で何を? 答えは明白だった。罰を受けた生徒だ。

「当たってないのか! 何処にいる?」

 インクの渦が闇から二本の鉤爪のように放たれ、高木の枝を掴むと引き裂いて地面に落とした。この時、木々はダイナに語りかけた。彼らの咆哮がダイナの心に満ちた。我々が何をした? 何故このようなことが? 痛みに泣き叫ぶ声に、ダイナは行動に移った。別の生徒の姿を見たら侵入者が動きを止めることを願い、彼女は隠れ場所から出て霊光の呪文を唱えた。

 不幸にも、彼女の不意の登場は真逆の効果をもたらした。

「誰だ?」 声は悲鳴を上げ、一瞬の後、インクの魔力がうねってダイナへと向かってきた。反射的に彼女は夏の魔法の一節を詠唱した。ドライアドに由来し、だがあらゆる自然指向の魔道士たちが覚えている術。それは直撃を防いでくれたが、それでも純粋な威力にダイナは突き飛ばされた。急ぐ足音が近づき、一瞬の後、二つの手が彼女を立たせた。目の前で、シルバークイルの黒と白の上着に身を包んだ少年が、驚きを顔に浮かべていた。

「君が……見えなかった」

「暗いからよ。人間の目だと、こんなに光のない所では見えないから」

「違う、僕が言いたいのは……」 その声は途切れて消え、彼の視線はダイナからその背後の一点へと動いた。

 害獣たち! ダイナは焦った。もしあの子たちが傷ついたら……ダイナは陰惨な様子を覚悟して振り返った。だが地面にあったのは害獣の死骸ではなく、漆黒のインクの球がまるで生きているように震える様子だった。表面の一点から別の一点へ、緑の霧が跳ねていた。

「何の魔法だ?」 その少年は囁き声で尋ねた。

 ダイナは返答しなかった。彼女が見つめる中、その球は震えて何本もの触手を弾けさせ、沼の柔らかな地面を穿った。靴底を小さな指が掻くように、足元の泥が動きだしたのがわかった、

「ここから離れないと」

「僕の質問に答えてないだろう!」

 何も言わず、ダイナはその少年の手首を掴んで引き、連れ出すようにその場所から逃げ出した。返答は後でいい、そもそも返答できるものだろうか。あの儀式は精密かつ正確に進めなければならなかった。けれど今や腐敗してしまった。木々の悲鳴が耳をつんざいた。虚無! 何処へ連れて行くの? 痛い、痛いよ……

 木々の苦悶にダイナは膝をついた。今度は少年が彼女を立たせて引き、身を隠せる茂みまで連れてきた。

 辺りのそこかしこで、木々の枝がむち打つように暴れていた。

「質問に答えてもらおうか」

 近くで見てわかった。この少年には心当たりがあった。シルバークイルの学部長ふたりのうち、雄弁でカリスマ的なルー学部長の息子。話をする時の厳しい、毅然とした顔つきは同じだった。大学全体の集会で、学部長が決意と義務について燃え立つような演説をする姿をダイナは(もちろん、列の後方から)何度も見ていた。

「キリアン君でしょ。お父さんは――」

「親父の話はいい」 彼はそう言い放ち、そして表情を和らげた。「今は別の問題がある。事実から始めよう。さっきのは何だったんだ?」

 隠してもいいことはない。ダイナは鞄からあの呪文書を取り出した。

 キリアンは本を開き、そのページをめくった。「禁忌の魔術だ」

「わかってる」とダイナ。「だからここに隠れてたの、誰も来ないはずだから」

「隠れてやればいいってもんじゃない」

「あなたが邪魔しなければ――」

「何の邪魔だ? 何をしようとしていたんだ?」

 ダイナは言いかけて止めた。この世界で私が愛する全てを救うため――それは誇大妄想狂の、あるいは少なくとも非常にばかげた宣言に思えた。例え真実だとしても。そのため彼女は質問をはぐらかした。

「待って、聞こえない?」

 キリアンは黙り、耳を澄ました。「いや」

「本当よ。戻って見た方がいい」

 茂みから出て、ダイナとキリアンは来た道を戻り、害獣の巣があった場所へと向かった。この時はキリアンが魔法の光球を作り出した。短い時間が過ぎただけだったが、ダイナの呪文の影響は明白だった。木々の幹と柔らかな地面には深い傷が穿たれ、まるで巨大な獣が鉤爪で辺りを引っ掻いたかのようだった。一帯の木々は切り倒され、あるいは根こそぎにされていた。害獣がいる様子はなく、巣の残骸が小川の水面に浮いているだけだった。

「ここから出ないと」とダイナ。「ヴァレンティン学部長が逆回り講堂にいるわ。助けてくれる」

 キリアンはかぶりを振った。「僕はここに一晩いなきゃいけない」 彼は右腕をまくり上げ、手首のシルバークイルの印を見せた。それは居残りの印、生徒たちに居残り沼で規定の時間を過ごさせるためのものだった。もし逃亡しようとしたなら、その印は周囲と反応し、生徒を沼の中心へと戻す。「プリズマリの選手があろうことか僕の目の前で墨獣を奪った。僕のせいでチームは点を取られて、シルバークイルはメイジタワーの試合に敗北した。そういうわけで親父にここへ送られたんだよ」

「試合に負けたから、居残り沼に?」

「違うね。僕が集中してなかったからさ」とキリアン。「君は帰ればいい。僕は自分で何とかする」

「こんな所に放ってはおけない」

「じゃあ、君の過ちを正す手助けをさせてくれ」

「私たちの、でしょ」とダイナ。「絶叫して見境なく呪文を唱えたのを忘れたの?」

「そうだな」 キリアンは頷いた。彼は前方、斑模様の地面を指さした。折れた枝が散乱し、はっきりとした新しい痕跡が沼を通過していた。「移動している。僕が先に行こう」

「ねえ。何かが前から襲ってきたら、あなたが真っ先に攻撃されると思うけど」

「確かに。けれど――」

「だから、私の前にいるのは危険だし、私にとっても明かりがずっと先にあるのは困るのよ。もし後ろから襲われたら?」 ダイナは痕跡の幅広さを身振りで示した。「横に並んで歩くのがいいと思うの。その方が理にかなってるでしょ?」

「僕はただ――いや、気にしないでくれ」

 呪文書を手に、ダイナは歩きながらページを眺めた。儀式の意図は明白だった。害獣たちは魔法エネルギーの宝庫であるため、それらの精髄はエレメンタルのそれと同じく原始的なものであり、つまりアルケヴィオスのあらゆる生命に繋がりがあると教授たちは推測していた。ウィザーブルームの生徒が全員習う、最も単純な呪文のひとつは、害獣の魔法的精髄を引き出し、その身体と魂を純粋な魔法へと転じるというもの。本に記されていた儀式は、この魔法に繋がる導管を確保し、元々の生命の状態へと変化させ戻すというものだった。

『ここに戻って来られるわよ、どこへも行かなかったみたいに』

「何か見つかったのか?」 キリアンが尋ねてきた。

「ううん」 収録されている他の呪文を見たが、呪文を解く方法も打ち消す方法も書いてはいなかった。「これを書いた魔道士は、同じことを何度も何度も試そうとしていたみたい」

「死者を起こす?」

「命を蘇らせる」

「そいつは、誰を失ったんだろうな」

「あなたは誰を?」

「どうして……その、僕はそんなに顔に出るのか?」 キリアンはうなだれ、そして長い編み髪に半ば隠れたダイナに微笑みかけた。「母さんは僕が小さい頃に亡くなった。けど、失ったってのはちょっと違うかな。何せ、ほとんど覚えていないからさ」 彼は髪を撫でつけ、歩き続けた。

 その無頓着な様子はうわべだけ、ダイナはそうわかっていた。愛する者を失う辛さであり、その相手について知ることもできないという痛み。自分がどれほど空虚であるか、心から気付かされる。まるで水が底なしの裂け目へ吸い込まれるように。どんな広い笑みも大きな笑い声も、それを持つ者の傷を隠せはしない。

「私も、お母さんの顔は知らない」ダイナは肩を並べて言った。「私の木立は、全滅したの」

「家族全員が?」

「ドライアドに家族はいないの。命の終わりに、ドライアドは同じく死が近い木を見つける。そしてその根に横たわって、土に身体を還す。やがて、新しいドライアドがその木から出て来る。知っているのは自分の名前だけ――母親と同じ名前。ドライアドにあなたたちみたいな両親はいない、けれど社会はある――木立の姉妹と植物と動物、その全て」

「けど、その全てが」

「そう。あの鬱枯病が来て、ほとんど誰も助からなかった」

 二人は痕跡を追い続け、やがてそれは広がって空き地へと入った。そこに足を踏み入れるや否や、低い吠え声が少し先の茂みから発せられた。

「今のか?」 キリアンは脅威へとインクの稲妻を放とうと身構えた。

「ううん」 ダイナは空気の匂いをかいだ。「あれは蔦掴み」

「何でわかるんだ?」

「麝香レモン。蔦掴みはそれを食べるから、身体からその匂いがするの」

 キリアンは息を吸いこんだ。「この悪臭はそれか?」

 茂みから重々しく姿を現したのは、確かにその特徴を持つ巨大な獣だった。とはいえ太い腕と巨大な鉤爪は、長く硬い体毛に隠れてはっきりとは見えなかった。その獣は二人を見るや即座に咆哮を上げ、だがその声はかすれて苦痛を伝えてきた。

「怪我してる」 ダイナはその毛皮に斑になった血を指さした。「助けないと」

「野生の獣だぞ!」

「わかってる」 その蔦掴みには平穏に近づきたかったが、キリアンの言う通りだった。獣の足取りは不安定で、動きは遅かった。不意に動いたなら刺激してしまう。弱った蔦掴みでも、腕の一振りで自分とキリアンの全身の骨を砕いてしまいそうだった。「援護してくれる?」

 キリアンは頷いた。

「大丈夫よ」 ダイナは囁きかけ、ゆっくりと近づいていった。「助けになりたいの」 彼女は掌を獣にあて、蔦掴みの身体に侵入した魔法を鎮める呪文を詠唱した。だがその腐敗はあまりに強く、根絶するには力不足だった。ダイナは全力を尽くしてその影響を追い出そうとしたが、蔦掴みは太い腕を張りつめさせ、苦痛の咆哮を上げるだけだった。それは鉤爪を伸ばし、ダイナへと振るった。

 直ちにキリアンは片手で彼女を掴んで引き寄せ、片手で蔦掴みの顔面へとインク魔法の棘を叩きつけた。獣は声をあげ、よろめいて後ずさり、横向きに倒れた。苦しい呼吸に胸が上下していた。キリアンがダイナを立たせると、二人は揃ってその獣へと近づいた。キリアンの魔法の黒い粒が蔦掴みの身体から浮かび上がった。

 ダイナは膝をつき、蔦掴みの顔面から血で固まった毛を除けた。それは鳴き声を上げながら、目で彼女の動きを追った。「何を見たのか教えて」 彼女は獣に語りかけた。

「それは……?」 キリアンは尋ねようとした。

「私の魔法の力じゃ、癒すことはできない」ダイナは静かにそう言い、蔦掴みの額に手の甲を当てた。ドライアドであれば、植物との交信は容易にできる。だからこそ自分たちは完璧な自然魔道士なのだ。けれど動物と関係を確立するのはずっと難しかった。ダイナは集中し、長く暗い地下洞窟を浮遊しながら下っていく自分を想像した。終点に着こうという時、気づくと彼女は梢からこの空き地を見下ろしていた――蔦掴みの目を通して見た世界。不意に小枝が折れる音に、彼女の視界は眼下に這ってくる一体の生物へと向けられた。それは巨大なワームのように動き、柔らかな地面に深い痕跡を刻んだ。動きながら土を、腐植を、そして食べかけの腐肉を自らへと取り込んで大きさを、力を、速度を成長させていった。

 蔦掴みが枝から枝へと跳ね、その生物に対峙する様をダイナは見ていることしかできなかった。蔦掴みは地面に降りるとそれに突進し、相手の身体に歯と鉤爪を沈めた。ダイナは舌に土の味を、歯の間に骨の破片を感じた。

 侵入者の反撃は素早かった。長く黒い触手が身体から弾け出て蔦掴みを貫き、木々へと叩きつけた。ダイナは蔦掴みが被った肉体的な痛みと、突風の中の葉のように軽々と投げつけられた困惑を余すことなく感じた。やがて、その生物は蔦掴みを藪に投げ捨て、進み続けた。

 ダイナは蔦掴みから離れた。幻の骨折と切り傷で全身が痛かった。「北東へ向かってる」彼女は落ちつこうと努めた。「セッジムーアの方へ」

「学校の方へ? 魔法のエネルギーに引き寄せられてるのか?」

「目的を探しているのかも」とダイナ。「生まれたばっかりで、どうしてここにいるのかも、何をすればいいのかもわかっていないから」

「巨大で危険な赤ん坊みたいに?」

「巨大で危険な赤ん坊ね、私とあなたの」

 キリアンは光球を痕跡に沿って進め、二人はその後に続いた。蔦掴みの記憶が、ダイナの頭から離れなかった。あれが沼から出てしまったなら、自然だけでなく無数の生徒が危険にさらされる。それでも、あの実験は一種の成功をみたのだ。あの生物は霊気からもたらされた新たな命では? あの魔法はまさしく、真の蘇生を約束する兆候かもしれない。自分の木立のドライアドは、アルケヴィオスにどれほどの善いものをもたらすだろうか? 深淵から持ち帰ったどれほどの知識を人々のために生かせるだろうか?

 そして皆を帰還させるために、自分は誰を捧げるのだろうか?

 キリアンが彼女の手を握り、我に返らせた。「あれだ! 見えた気がする!」

 ダイナは前方を見た。遠くで、キリアンの光球が巨大な姿を直接照らしていた。その生物は、背の高いシルヴァティカの古木に巻き付いていた。暗闇の中でも、ダイナが見る限り蔦掴みと戦った時の倍の大きさがあるようだった。何故あれは移動を止めて沼地のここに留まっている? 自分たちが来ることを知っていた?

 自分たちを待っていた?

 キリアンは光を消し、ダイナを引っぱって痕跡から離れると倒木の背後に隠れた。「やみくもに突入はできない。そうだ――僕たちが最初に見たあの黒い球。あの生き物の身体は沼でできている、けれどその心臓は――」

「あなたの魔法ね」

「君の魔法でもある。その心臓に触れることができれば、呪文を破って、中和して、そうすればあれはばらばらになるかもしれない」 キリアンはまた一瞬考えた。「インクの魔法を解消するのはできるだろうけど、そのためには触れるくらい近くにいかないと。あの身体を燃やせるかな?」

「ううん。この沼は湿気が多いから」とダイナ。「けど考えがあるの」

 キリアンは微笑んだ。「教えてくれないか?」

「あなたに? そうね。一緒にやるのがよさそうね。いい?」


「これを食べて」 キリアンと二手に分かれる前に、ダイナは乾いた茶葉の塊を彼の掌に押し付けた。「そうすれば暗闇でもよく見えるはず」

 キリアンはそれを頬張り、飲み込んだ。一瞬の後、彼の両目がかすかな青い光を帯びた。彼は瞬きをし、そして驚いた様子で辺りを見渡した。

「すごい! どうして今まで使わなかったんだ?」

「ライオンの掌草は人間が飲むと副作用があって」

「どんな?」

「次の日、トイレが近くなるの」

「えっ」

「その次の日もね」

 そして作戦における各自の役割に向かう直前に、ダイナは言った。

「死なないでね、いい?」

「そのつもりはないよ。僕には勝算がある」

 その「勝算」とやらのお陰か、キリアンの足は少しも緩まなかった。彼は直情的で向こう見ず、それはダイナが常に否定的に考えていた振る舞いだった。けれど同時に、そうだからこそ自信を持って何かを言えるのかもしれない。盲目的だとしても、愚かだとしても、相応の報いが待っているとしても、その姿勢はダイナが決して持っていない、けれど常に欲しがっていたものだった――自分は正しいことをしている、そう自分に納得させるためのものに他ならなかった。

 今や彼女は再び独りになり、アザミの茂みを通ってあの怪物を迂回した。この木立の反対側のどこかで、キリアンが最適な場所を確保して出番を待っている。腐敗の悪臭がダイナの鼻孔を満たした。あの怪物の身体にここまで近づくのは、何層もの腐植に埋もれるようなものだった。あえて直接触れる気はなかった。不活性な状態でいる所に早すぎる刺激を与えたなら、取り返しのつかないことになりうる。そうではなく、ダイナはその生物から数歩離れて土に片手を埋め、ストリクスヘイヴンで最初に習った呪文のひとつを朗唱した。

 リセッテ学部長が説明していた。自然とは、調和に引き寄せられるもの。魔法とはただ、扱う要素を壊すことなくこの調和をほんの少し変えてあげるひとつの方法。大切なのは、小さく始めること。大きな山も、始まりはひとつの小石から。大海も、始まりは雨の一滴から。

 ダイナは息を吸い、そして呼吸をするたびに、心が外へ伸びていく様を想像した。水と土、植物と骨、最小の要素――その生物の身体を構成する全て。小片が掴み合うように集まり、力を強め、土の欠片が互いを取り込み、やがて花崗岩のように堅くなる様を想像した。

 取り過ぎないように気をつけて。リセッテ学部長はそう警告していた。全てのものには代価が必要。

 授業では、ダイナはひとつかみの土を大好きな花であるカマキリ蘭の像へと変えることができた。その技には、呪文を強化するために数体の害獣を必要とした。だが今、魔法エネルギーの備蓄はなく、二番目の供給源を使う必要にかられた――自分自身を。彼女は詠唱を続け、耐えながらも言葉を途切れさせずにいた。刺すような痛みの奔流に、身体のあらゆる部位が弾けるようだった。何千というイラクサの棘が皮膚の下を刺激しているようだった。

 その生物が動きだし、身体を木から解こうとした。だがその一部が外れて落ち、地面で砕けた。深い傷から黒い触手が弾けたが、それらは明らかに鈍く、動くごとに腐植の塊がはがれ落ちた。ダイナが呪文を維持している限り、動きは遅くそして脆い。この作戦におけるキリアンの完璧な目標となっていた。彼女は目の前の暗闇の先に彼の姿を探した。だが不意に、生物の身体から不格好な二本の付属肢が弾け出て、木々の間を探った。これでは、やがて見つかってしまう。自分の呪文で死ぬのとどちらが先だろうか?

「僕が集中していないって?」 キリアンの叫びとともに、純粋なインクの魔法でできた鎌型の刃が二本、生物の身体を切り裂いた。破片が飛び散った。「僕は僕だ、あんたはそれを受け入れられないってだけだろ!」 暗闇から更に二本、それらも命中した。作戦は上手くいっている! 彼の役割は、その怪物の核へ辿り着くことだった。けれど素早くやらなければいけない。ダイナの胸は、まるで何千本もの燃え立つ剣を突き刺されたようだった。

「あんたは独善的すぎるんだよ!」 キリアンは倒木に飛び乗り、またもインク魔法の稲妻を放った。この時は槌の形をして、怪物へと直接投げつけられた。その身体の大半が壊れて砕けた。「いつも言いたがってるだろ、お前らには価値がないって、自分の学校にはふさわしくないって!」彼はその倒木を蹴り飛ばした。「あんたの学校じゃない、僕たちの学校だ!」 キリアンは旋回し、インクの刃を腕から伸ばし、それをその生物へと振り下ろした。

 ダイナはメイジタワーを観戦したことはなかった。選手は皆、キリアンみたいにこんな滑らかに動くものなの? 彼の動きは絶妙に美しいひとつの模様を描き、眩惑的であると同時に力強かった。だが不幸にも、最後の動きでキリアンは接近しすぎてしまった。身体の塊を動かし、その生物は黒い鉤爪を振るった。キリアンの胸に二筋の傷が走った。

「キリアン!」 地面に崩れ落ちる彼を見つめながら、ダイナは悲鳴を上げた。彼女は呪文を中断し、怪物からの突風のような攻撃を避けてキリアンの隣に駆けた。ダイナはキリアンを引きずってその生物から遠ざけ、近くの木の根元まで来ると、成長の魔法を大声で唱えて木の根に彼を包ませた。そして立ち上がり、敵であり自らの創造物でもあるものに対峙した。固化魔法の影響を振り払うように、生物の身体は震えていた。それは彼女の遥か上でのけぞり、大口を開けてその中の砕けた骨を見せつけた。

 そして、大津波のように、その生物は彼女に向かって倒れ込んだ。


 ダイナは鼻をくすぐる高い葦の中に立っていた。水が足首を優しく洗い、冷たい泥が爪先をくすぐった。甘い柑橘の香りが大気に満ちており、深呼吸を促した。

 ここは、我が家。

「あなたは本当に苺の季節が好きね」 誰かの声が聞こえた。ダイナの左、木々の向こうから人影が歩み出た。知らない姿、けれど同時に心の奥底からよく知っていた――長身の美しいドライアドが、まるで宙を浮遊するように近づいてきた。その頭を冠のように飾る枝の先は黒くひび割れていた。その皮膚は緑から毒々しく混じり合う朽葉色、琥珀色、斑の灰色へと変化していた。「この場所、知っているでしょう」 ドライアドはそう言って、隣の木を撫でた。

 わからないはずがなかった。ここは私の木立。もっと詳しく言えば、生まれた木。その詳細まで、覚えている通りだった。完璧にそうだった。

 完璧すぎるくらいに。

「私たち、本当にここにいるの?」 ダイナは尋ねた。

「いるかいないかは問題かしら?」 そのドライアドが答えた。「あなたがずっと望んでいたものでしょう?」

「ええ。鬱枯病が来る前と何もかも同じ。私はずっと……」

「私」 そのドライアドは木の根元に腰を下ろした。「ありそうもないことを求め始めたら、不可能なことだって問題外にはならなくなるもの」

「私がどれだけ、あなたと話したいと思っていたかわかる?」とダイナ。「どれだけずっと探していたか」

「ええ。間違った場所で、もう知っている答えをね」

「そうじゃない! 私が知りたいのは、どうして私だけが残されたか! どうして他の皆じゃなくて私なの? 理由があるはずでしょう!」

「理由?」 ドライアドが言った。「目に見えない造物主の策略の中で、何か重要な役割を果たしている証拠ってこと? 私だって単純な答えが欲しいわよ、それであなたの心が休まるなら」

「けれど、もし皆を蘇らせたなら、どうして私はまだ生きているの? 私、方法を見つけたのよ!」

「見つけた? なら、どうして皆がそれを望んでいるって思ったの?」

「わ……私……」 ダイナは反論しようとし、だが言葉は見つからなかった。長い間ずっと、彼女は消えゆく故郷の記憶にしがみつき、後には失った全てを救い出す決意とそれらを結び付けた。その願いにしがみつくことで、生きられた。やがて、それはダイナが何のために存在するか、ダイナが何者かを定義した。けれど、もしそれが間違っていたら――自然そのものだけでなく、救いたかったものたちに対する冒涜だったら?「それなら、私はどうすればいいの?」

「今、それを必要としている相手を助けられるわね」 ドライアドは彼女の左を見て、ダイナはその視線を追った。そこに、根の檻に絡まって、キリアンがいた。その表情は痛みに歪んでいた。「この子はあなたにとっての何?」

「私たち、会ったばかりで……けど、友達なの」

「いい関係から始めたのね。もちろん、あなたの今の状況次第」 そのドライアドは頭を木の幹に預け、目を閉じた。「全てを元通りに戻す時よ」

 ダイナは理解した。自分の目を閉じ、心を可能な限り外へ放った。この記憶の境界を超え、自身が世界へと産み落とした生物の黒い心臓へ。自分の身体がこの虚空に浮かぶ様を思い描き、ダイナはその呪文をひとつにまとめる自分の血の一滴に集中した。身体をそれに引かれるに任せ、やがて目の前の宙に雫が静止した。彼女は手を伸ばして指先で触れ、すると鋭い歯が触れる感覚が手に這い上がった。不意に、腕全体がまるで氷の海に突っ込まれたかのように感じた。寒気が首筋から顔へ、鼻へ、目へ、口へと伝わっていった。

 そしてダイナは落ちていった。どこまでも、終わることなく落ちていった。


 ダイナは咳き込みとともに不意に目を覚まし、壁に映る黒い影へと腕を振り回した。敷布を掴み、彼女は周囲の様子を見た。居残り沼の風景は消え、寝台脇の卓に置かれたランタンが柔らかな黄金色の光を放っていた。細長いこの部屋は知っていた。逆回り講堂の保健室。リセッテ学部長の高等治療術の授業で、床に臥せる生徒の治療を行ったことがあった。寝台から少し離れた椅子にヴァレンティン学部長が座し、フードの下からダイナを見据えていた。

「先程、君を誉め称えたのは早計だったようだな」

「その……キリアン君は……」

「彼の部屋で回復しつつある」

「私はどうやってここへ?」

「あの少年は粘り強いな。化膿しかけた傷を抱えて沼から君をここまで引きずってきた。ライオンの掌草の不快な副作用は言うまでもなく」

「沼はどうなったのですか?」

「君たちが弄んでいた力についてかね? 安心したまえ。あの脅威がまだ残っているなら、君は今ここにはいない。死んでいただろう、若きルー君もともに」

 ヴァレンティン学部長は全てを知っている。そして間違いなく、キリアンもシルバークイルの学部長たちに話さざるを得なかっただろう。彼の視点から、沼での出来事を。一方ダイナは、ストリクスヘイヴンで過ごす時間は終わりだと確信していた。何故自分があの選択をしたのかはわかっていた。ただ、違う結果があったらと願ったのだ。けれど、そう選択したからこそ学べた――過去はそっとしておくべき、と。代価は払われた。

「先生方を失望させてしまいました。こんなつもりは――」

 ヴァレンティンは溜息をついた。「失望? 実のところ、驚いてすらいない。君たち生徒は意図的に物事を悪化させようとはしないものだ。実際に悪化させてしまう時は特にそうだ」

「動けるようになったら、すぐに荷物をまとめて出ていきます」ダイナは卓に手をかけて寝台から出ようとしたが、全身に痛みが走り、再び横たわらざるを得なかった。

「これもまた、ひとつの学びを得る慣例だと知りたまえ」 ヴァレンティンが言った。「この夜、君は確かに何かを学んだだろう――そう、君は生徒であり、我々は教師なのだ。我々は、骨身を惜しまずに教えを組み立てる。君たちは、厳密に従う。その力学の外へ踏み出すのは……危険を伴う。そのような教訓は君の将来において価値あるものとなるだろう」

「つまり……私、学校にいてもいいのですか?」

「ふん」 学部長はうなった。「何をおいても、ストリクスヘイヴンは新たな始まりの場所だ。そして新たな学びとは、しばしば二度目のチャンスという形でやって来るものだ。完全無欠な者など存在しない」学部長は言葉を切り、指先を打ち鳴らした。「私は、誰かがつまずいたからといって、それを原因に罰するようなことはしない」

アート:Andrey Kuzinskiy

 セラフィナ・オニキス教授は炎に空気を吹きつけ、踊らせた。夜が始まった頃、卓上の蝋燭は長く固かった。今やそれは芯にまで溶けたが、試験の採点はほんの数人しか進んでいなかった。自分自身が指導者の採点を受ける側だった頃から、どれだけの年月が経ったのだろう? アナ婦人は厳しい師で、癒しの技の腕前で広く知られていた。けれどそれが何をもたらした? 夫は離れていった。子供たちは母を避けた。患者の手によって速やかに命を絶たれた。中でも最悪なのは、彼女を最も嫌ったひとりを除いて、あらゆる人々から完全に忘れ去られた。オニキスは羽ペンをインクの瓶に浸し、目の前の用紙全体に線を引いた。「お粗末」、余白に彼女はそう書き添えた。

 教室の扉を押し開けて、リセッテが入ってきた。ストリクスヘイヴンの同僚であり、ウィザーブルーム大学の学部長。彼女はオニキスの机へと闊歩し、一冊の重々しい本を乱暴に置いた。

「これは貴女のものだと思いまして」 リセッテの瞳は憤怒に燃えていた。

 目の前のものに、オニキスは息をのんだ。この本は永遠に自分の手を逃れていると思っていたからではない。相当な時間をかけて、彼女は大図書棟の本棚を漁っていた。驚いたのは、このような都合のいい方法で手に入ったためだった。何にせよ、あったのだ――だからこそこのストリクスヘイヴンで、恩知らずな子供たちに手を焼いているのだ。既に自分たちは地位と名声を得た魔術師だと思っているような。

 興奮してリセッテを警戒させたくはない。落ち着いて冷静な態度を保つのが最良だった。特に、敵になる可能性のある相手と対面している時は。友人であろうと、家族であろうと、ただちに敵となりうる。オニキスはそれを深く、そして繰り返し学んでいた。

「わざわざ、ありがとうございます」 オニキスはかすかな笑みを浮かべてみせた。

「貴女が何者かはわかります――どのような人物なのか」 リセッテは脅すように言った。「貴女をこの学校から遠ざける努力をやめるくらいなら、むしろ死にます」

 オニキスは姿勢を正し、本の表紙に指を走らせた。「心しておきます、学部長」

 それ以上は何も言わず、リセッテは出ていった。残されたオニキスは本をめくり、時折指を止めては目を通し、追憶した。実験対象に立候補した者たちの名を思い出した――生前の、あるいは死後の名前を。

 オニキスは最後のページで手を止め、その呪文に目を通した。それは、他の全てと同じく、ひとつの過ちだった。命なき所から命を。指先で、彼女はイーシスの葉の輪郭をなぞった。優しく、まるで遠い昔の恋人の頬を撫でるように。触れた箇所から黒色の腐敗が広がり、全てのページを食らい、やがて残ったのはそれらを束ねる鎖だけだった。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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Strixhaven: School of Mages

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