MAGIC STORY

ストリクスヘイヴン:魔法学院

EPISODE 02

サイドストーリー第1話:魔法の叫び

Aysha U. Farah
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2021年3月26日

 

「スコールハートさん、退屈ですか?」

 私ははっとして、膝を机にぶつけた。このストリクスヘイヴンにとって私の脚は長すぎて、ユヴィルダ学部長の執務室も例外じゃない。「完全の学部長」は両手を上品に組んで座っていた。この人が振るう、冷静で統制された魔法と同じように。それに今更言う必要があるかはわからないけれど、執務室自体もそうだった。コバルトの壁、濃い青の絨毯、ひんやりとした風に小さく揺れる空色の薄いカーテン。そんな装飾の中で唯一、燭台だけが浮いていた。それと思うに、私が。

アート:Chris Rahn

「すみません。頭から離れない音楽があって」

 学部長は額に小さく皺を寄せた。「私が知っている歌でしょうか?」

「いえ、ご存知ではないと思います」 それは柔らかくてかすかな調子で、しっかりと捉えられなかった。ほんの一節が、今朝目覚めた時から繰り返していた。「歌詞もしっかり思い出せなくて」

「本当ですか? 記憶は今学期の論点ではありませんでしたか?」

 私は手首の腕輪を一本ひねった。「書きとめた方がいいのかも」

 私が冗談を言ったかのように、学部長はくすりと笑った。私は別の腕輪をいじった。これを身に着けているのは、鉤爪を噛みたくなるのを我慢するためといっていい。

 ユヴィルダ学部長は何も悪くない。年配の魔道士なら、私はもっと嫌な人たちに会ってきた。母の友人や取り巻きで一杯のパーティーで、噂話と陰口とおべっかを何時間も我慢してきた。学部長は、複雑な魔法の計算を相手にするみたいに話す。正しい言葉をきっかけにして解くことのできるような。

「スコールハートさん、あなたを落ち込ませようとしているのではありませんよ。その逆です。ここプリズマリ大学で最高の学問が修められるように」

「わかっています」

「あなたはまだ評価を受けていない唯一の生徒です。教授たちいわく、あなたがまだ何も完成させていないためだと」 学部長は言葉を切り、謝罪を待った。けれど私にそのつもりはない。「スコールハートさん、学期が始まってもう一か月になりますよ」

 学部長は私が鳴らし続ける腕輪をきっと見つめたので、手を放さざるを得なかった。「それは……少し違います。完成したものはあります。ただ……提出していないだけで」

「それは何故ですか?」

 私はためらった。「その……良くなくて。まだ、って感じで」

「それを判断させて頂けませんか? 評価とはそういうものです」

 私は肩をすくめた。どんな評価になるかはわかっています、そう言いたかった。そしてそう言っても無意味だということも。母がいつもそうだった。机の上、ユヴィルダ学部長の隣で、一本の蝋燭の炎が目にとまった。それは奇妙な動きをしていた。ちらつきが、他の蝋燭と少しだけずれていた。

「スコールハートさん?」学部長は薄い笑みを向けてきた。「また歌が頭から離れないのですか?」

 私は深呼吸をした。ストリクスヘイヴンのキャンパスは魔法の香りで一杯だけれど、この建物は特に鋭い。私はくしゃみを我慢した。「評価してもらえるようなものは何もできていなくて、言い訳もありません。他にどう言えばいいか」

 怒られるかと思った、さらに悪いことになると。けれどユヴィルダ学部長は表情を和らげた。それは難しいことだと思う。「ルーサさん、何か話し合いたいことはありますか?」

「……どういう意味ですか?」

 学部長の表情は変わらず、けれど苛立ったように水かきが揺れた。空気の動きに、机の上の蝋燭が揃って揺れた。あの一本を除いて。「心配事や、不安がありますか? お家で問題とか?」

 前言撤回。ユヴィルダ学部長もみんなと変わらない。首に熱が昇ってきた。「母には何の関係もありません」

「お母さんは途方もない才能のある、優美な詠唱者でした」 学部長は私の怒りに気付いていないのか、それとも気にしていないだけなのか。「あの方は……あなたの家系で、プリズマリの生徒としては三代目でしたか?」

 執務室に飾られた芸術品の一つに、私の目は否応なしに引き寄せられた。優雅で透明な作りの中を舞い落ちる雪の、完璧な複製品。冷たい、けれど絶対に融けることはない。完璧で安全な、呪文術の一片。母はプリズマリに入った最初の月にこれを作った。私は、それを素手で粉々にしたくてたまらなかった。

「四代目です。母が四代目、私は五代目です」

 スコールハート家の魔道士、なのにひとつの作品すら完成させられない。蝋燭の炎がまた震えて、風に踊った。ユヴィルダ学部長が私の家族について喋り続けるのを放って、私はその動きに没頭した。

「そしてお母さんへの敬意と、あなたが持つ才能に免じて、挽回の機会を与えましょう」

 私は嫌味な反論をこらえた。同じ年ごろの友達なしに育った代わりに、偉い人には仲間のように対処できていた。「はい?」

「明日までに、完成させた作品をひとつ持ってくるのです」

「明日!?」 私はかっとなった。蝋燭の炎が揺れた。

 ユヴィルダ教授の表情は明らかに渋くなった。「完成できた作品があると言いましたね。それを提出するのです。そうでなければ、プリズマリ大学にあなたを置いておけなくなるかもしれませんよ」

 蝋燭の炎が高く燃え上がった。落ち着いて、落ち着いて。こんな時はいずれ来るってわかってた。我を忘れてもいいことは何もない。蝋燭の炎は落ち着き、けれどあの一本だけは、揺れ続けていた。

 だからユヴィルダ学部長の執務室を出てすぐに、蒸気のような音がして赤い光がひらめいて、困ったような声が続いても、私は驚かなかった。

表現の学部長、ナサーリ》 アート:Jason Rainville

「おお、落ち着きたまえ」 乾いた音を立てるような声だった。

「ごきげんよう、学部長様」 肩越しに振り返って、私は面倒くさそうに言った。「蝋燭の炎に隠れて面談を覗き見するのが趣味なんですか?」

「うむ、ナサーリと呼んでくれたまえ、学部長、は我が父だ」

「え?」

「いや」 プリズマリのもう一人の首席魔道士は、暗い色の指でその顎に触れた。「下手な冗談だったか。ともかく、ナサーリで構わない。イフリートは社交儀礼を重んじないのだ」

「ナサーリ先生」 私も社交儀礼は上手じゃない。「ところで、先程の質問に答えて頂けますか」

「ふむ? おお。ユヴィルダ女史のほとんどの生徒は仰天するほど鈍いのだが」

 ナサーリ先生の足は床からわずかに浮いて、床のモザイクタイルと踵の間に炎が固まっていた。焦げ跡が見えるかと少し思ったけれど、先生の魔法はしっかり抑えられていてそんなことはなかった。何といっても、この人は表現の学部長で、その表現についてくるものを厳しく制御している。

「だがルーサ、君は興味深い。私はただ手を差し伸べたいのだ、君が何らかの助言を望むというのであれば。いやむしろ、言うなれば……」

「実践を?」

「私は『しつこく面倒』に進めるつもりであったが、その方が遥かに平静でいられるな」

 私たちは階段を上りきった。ナサーリ先生は私について来させるつもりなのだろうか。先生の執務室はコンジュロートホールの上の方で、住居と工房も一緒にある。ナサーリ先生に手助けをお願いすれば、期限を延ばしてもらえるかもしれない。もしかしたらそれ以上も。猶予がもらえるかもしれない。

「君の一家の魔法は典型的な様式を誇っているが、君には合わないのではないかと思うのだ」

「どういう意味です?」 思ったよりもきつい声で、私はそう尋ねた。

 ナサーリ先生が身体を寄せた。赤と橙に輝く肌、炎が踊る両目――私は後ずさりかけた。イフリートは巧妙で気まぐれ、けどそれを言うなら、オークは乱暴なことで知られている。私は我慢した。

「君には自らが打ち出す以上のものがある」 ナサーリ先生の両目は燃えるようだった。「荒々しい魔法が」

 記憶に叩かれたようだった。同じ言葉が、違う声で。荒々しい魔法。緑の葉、青い空、そして赤。赤い怒り、赤い血。耳に叫び声が鳴って、血管は重くてうっとりするような幸福感が弾けた。

 私はよろめいた。先生は私が階段を転げ落ちる前に掴んでくれた。

「大丈夫です」 尋ねられる前に、私は喘いでそう言った。「ご提案ありがとうございます、でも自分でやれます」

 ユヴィルダ学部長が母の話を出した件で、いいことが一つだけあった。ずっと頭の中を流れていた歌が何かを思い出した。歌詞や題名じゃないけれど、その出所を。母は作業をしながら、誰にというわけじゃなくそれを歌っていた。パレットを片手に、絵筆をもう片手に持って、画架に身体を寄せて小さく鼻歌をうたっていた。兄弟姉妹は外で近所の子たちと走り回っていたけれど、私は絨毯の上に座って母のために顔料を混ぜていた。

「ルーシー、黄色を。できるだけ明るいのをね」 母はそう言っていた。そして私は母が求める最高の色を混ぜようと頑張った。上手くいかない時ですら、母の絵はいつも美しかった。母の作るものは全て美しかった。

 プリズマリの生徒は全員がひとそろいの部屋を与えられる――居住空間と作業場を。私のはキャンパスの西側にあって、オパス歩道の端が見下ろせる。戻ってくると、片方の太陽が湖に沈みかけて、水面にきらきらと光を送っていた。私は自分でアマランサスのリキュールを氷に注いで、少しずつ飲みながら母の古い歌を口ずさみつつ、ユヴィルダ学部長に提出する理想的な候補を見つけようとした。けれど飲みすぎたら、荷物をまとめて逃げ出すかもしれない。

 カンバスの列が作業場の壁に立てかけられていた――何てことのない風景画と肖像画。どれも先月に描いたもので、絵の具を塗るに至っていなかった。私は技術を練習してるってことにしていた。けれど評価に値するようなものは何もない。ユヴィルダ学部長に言ったように、出せるものはない。あの人に何と言われるかは全部わかってる。

 私は作業台にやって来た。製図用紙、絵筆、そして先週壁に投げつけてへこんでしまったノミが散らばっていた。ごみの中央に、秘術彫刻の授業で作った一番最近の作品が座していた。私は溜息をついた。これに賭けるのが一番かもしれない。

 この作品は深くて涼しい青色で、ユヴィルダ学部長の執務室によく合うかもしれない。けれどそれ以外に、勧められるような所は何もなかった。まるででたらめな爆発、砕ける途中で固まった波みたいに見えるだけだった。何故なら、正真正銘それなのだから。私は桶に水を満たすとそれを作業場の床にぶちまけて、跳ねかえって来た瞬間に凍らせた。その効果は、思ったような劇的なものからはほど遠かった。

 母は、水と氷から複雑で華麗な彫刻を組み上げていた。それぞれの構成部位を基礎的な所から編み合わせて、何よりも繊細できらめく作品を構築していた。私は一気に凍らせることしかできない、つまりどんな見た目になるか制御できない。微妙な陰影も、芸術性もない。適当に弾けさせただけの、ただ粗い、洗練されていない魔法。荒々しい魔法。

 私はぞっとして、アマランサスをもっと飲んで、そして氷結呪文を唱え直した。表面が少し滴っているように見えたから。魔力が沸き上がって、けれどそれは鈍くてぼやけていた。酒のせいだと言いたい、けれど……

 母の工房にはビー玉の鉢がひとつ置かれていた。母が作業をする中、私は中身を絨毯の上に流して形を作って遊んでいた。猫、犬、ドラゴン、オーク、どれも戦うための格好をした。手で握って沢山の小さなガラス玉を感じるのが私は好きで、それを混ぜて、ひとつにする。けれどきちんとした輪郭を作ろうとしたなら、ゆっくりと気を付けてビー玉をひとつひとつ並べないといけなかった。

 母が使うような魔法は、私にはそんなふうに感じられた。遅くて、慎重で、鈍くって。

 酔いを感じ始めたその時、誰かが扉を叩いた。

「ルーサ、いるんでしょ。憂鬱な気分が伝わってきたわよ」

 眩暈を覚えながら、私は鍵を開けた。入り口に女の子がひとり立っていた。廊下に沿う魔法の明かりに、黒い瞳が輝いていた。

「フェリーサ?」

 いびつで、はっとするような笑みを彼女は浮かべた。鋭い牙の先端が見えた。「入れてくれない?」

 私は咳払いをした。「どうぞ、入って」

 彼女は滑らかな動きで入ってきた。フェリーサ・ファングは銀と黒の外出用のドレスをまとって、髪を高く結い上げて細い首と少し尖った耳を露わにしていた。去年、私たち二人があの酒場で夜を明かした時に着ていたものと同じドレス。引き寄せられたのはお互い、他に誰もいなかったから。フェリーサは世界の反対側から来ていて、私はというと、友達を作る技術が情けないくらいに足りていなかった。私たちは飲みすぎながら、互いの経歴を語り合った。あるいは嘘を言った、かもしれない。私は名高い芸術魔道士、サマラ・スコールハートの娘として育ったというきらびやかな過去を、彼女はファング一族とその広いお屋敷について語ってくれた。

 それが本当かどうかはともかく、フェリーサは作り話のように生きている――この子は吸血鬼なのだ。優雅で鋭くて、同類の中で見ても独特で残酷な機知を持っている。出会ってすぐに、私はこの子がすごく好きになった。

 今も。少なくともそういうことになっている。実際は、大学を選んでからはほとんど喋っていなかった。

「へえ、広いじゃない!」 フェリーサは声を上げ、スカートをひらめかせて部屋の中央でくるりと回転した。「部屋がもうひとつあるなんて! 不公平じゃない? うちの学部長に文句言わないと……自分の作業場がないなんてありえない。絵を描かないと生きていけないわけじゃないけど……あれ、もしかして製作途中だった?」

「始めたばっかりだから」 私たち二人は作業台の両端に立った。「何か必要なものがあるの?」

「長いこと会ってなかったから――顔を出した方がいいかなって。あなた『虹の端』のお店にずっと来てなかったじゃない」

 その言葉を私はすぐに疑った。喧嘩別れしたからじゃない。彼女の言葉にはこの会話を練習してきたような雰囲気があった。「最近はあんまり飲みたい気分じゃなくて」 私は注意深くそう言った。

 フェリーサは私が手にしたグラスを示した。

「外では、あんまり飲みたい気分じゃなくて」 そう言い直した。

「ふうん」 彼女は彫刻に手を伸ばし、私はその手を叩き落さないようにこらえた。「これ作ったの?」

 私は頷いた。

「素敵」

「素敵、って」 私のその声は、胸の外のどこからともなく出てきたように響いた。

「ええ」 作業場の明かりに、フェリーサの両目が輝いた。「あなたほどじゃないけど」 そして笑い声を上げた――暖かくて、音楽みたいな。すごく、一緒になって笑いたくなるような。「何でここに閉じこもってるかなあ?」 彼女は一歩踏み寄ってきた、手を伸ばしたら触れるほどに。「私だってあなたくらい素敵だったら、学校で悩むことなんかないと思うのに」

 頬の熱が、胸に、腹に、激しく下りていった。私の内に苛立ちが拳を握り締めたようだった。「やめて」

「え?」

「私に魔法を使わないで」 私は彼女から離れた。「シルバークイルの言うことは信用しない方がいって知ってるんだから」

 フェリーサの牙が怒りにぎらつき、けれど彼女は寸前でこらえた。

「わーお。わかったわ。私はただ励ましてあげたかっただけなのに――あなたが頑張れるように、さ」

「それってどういう意味よ?」 私はきつく言い放った。

 フェリーサは虚飾魔道士――鼓舞や非難の言葉を使う。その結果、相手の感情は安定を失って激しく上下する。教えるのは難しい、複雑な類の魔法。コツがわかっていてもいなくても。瞼の裏に、そして喉の奥にそれが張りつめるのが感じられた。

 腹の中で煮えていた、今日のあの執務室以来の怒りが業火にまで弾けた。「やめてよ! あなたの嘘や励ましなんて、何にもいらない!」 魔法が私の内でうねり、骨格を押し上げた。赤い血と青空が見えて、周りの悲鳴が聞こえた。そしてフェリーサを見ると、知らない相手を見るような視線が向けられていた。「お願い、帰って」

 彼女は出ていった。

 私は震えていた。腕と脚が少しがくがくしていた。次のアマランサスを注いで一気に飲んだ。素敵。素敵って。素敵だから何? 母の芸術は素敵なんてものじゃなかった。凄すぎた。力があった。ただ素敵なだけのものをユヴィルダ学長に出しても、何を言われるかははっきりわかっている。

 自分の作品に手を伸ばすと、それは誰か他人のもののように思えた。鉤爪がぎらつき、腕輪が音を立てた。工房の床に叩きつけて粉々にすると、彫刻はまるで何千もの小さなベルのように音を立てた。

アート:Bayard Wu

 オパス歩道は夜には無人になるけれど、魔法の明かりが道沿いに燃えて、私を先導してくれた。過去の芸術作品の列また列を私はふらふらと過ぎていった。感謝として生徒が寄贈していったもの。どれも美しくて、我慢ならない。卒業の時には誰もが何かを残していく――それが伝統だった。

 母の作品を見つけるのは難しくなかった。見ただけでその魔法がわかった。

 母の最高の製作物がそこにあった。無から流れ出て無へと消える、途切れることのない滝。その魔法は完璧、けれど壊すのは簡単。指を触れると、何十年もずっと流れ続けているのが感じられた。私はそれを解きほぐすことも、叩き壊すこともできる。

 意地悪な喜びが沸き上がった。サマラ・スコールハートは有名で愛されている。けれどその作品は、価値のないその娘のようにたやすく壊してしまえる。

「私ならそのようなことはしない。散らかってしまうからね」

 細い炎の縄が私の手首に巻き付いた、炎というよりむしろ蒸気が。けれど私が振り払おうとするとそれは熱を持ち、更に熱くなっていった。やがて火傷になり、私は叫んだ。

 ナサーリ学部長は私を解放し、寛容な手を差し伸べた。「見せてごらん」

 その声は怒っているようには聞こえなかった。けれど自然な威厳に満ちていた。従わないなんて思いもしないような。魔法じゃなくて、権威。先生の皮膚は触れると本当に冷たく、その親指が私の手首を撫でると、火傷は消えた。「生まれたばかりのようだ」

 私は引き下がった。音が響きそうなくらいに、自分が空ろに思えた。「ついて来ていたんですか?」

「いかにも」

「え」

 正直それは予想外だった。そして「ついて来ていて良かった」みたいな叱責が続かないのはもっと予想外だった。

「じゃあ、フェリーサを私にしかけたんですか?」

 ナサーリ先生は輝く両目を狭めた。「それは誰かね」

「シルバークイルの虚飾魔道士。友達です――でした。突然やって来て、激励の魔法を私にかけようとしたんです」

 ナサーリ先生は喉で音を鳴らし、それは羊皮紙を貪る炎の音を思い出させた。「それはむしろユヴィルダ女史のやり方に聞こえるな。それは役に立ったのかい?」

 私は鼻を鳴らした。「心を弄ばれるのは好きじゃありません」

「誰だってそうだ」

「それが好きな人だっているに違いありません。そうでなきゃ、シルバークイルの誰も仕事を持てませんから」

 ナサーリ先生の両目が更に眩しく燃え上がった。「ふうむ。だが虚飾魔道士の訪問は、その者がそうしたいからなのか、それとも他に選択肢がなかったからなのか、どちらかね?」

 もう酔いは醒めていた。「知りませんよ! 誰かが何かをする理由なんて!」

「ああ、それは永遠の謎だとも。繊細な芸術からは離れて議論しようか。私は少々の破壊は好きだが、君が芝生を駄目にするのを見逃したら、庭師のゴーレムに皮を剥がされてしまうだろうな」

 一瞬の後、私は差し出された手をとって、母の滝へと導かれるがままにされた。「つまり、ユヴィルダ学部長が私の友達に魔法を使わせた……何のために? 評価で大切なのは、私が自分だけで作品を作ることなのに!」

「ふむ」 ナサーリ先生はいったん口を閉じ、そして続けた。「あるいは、あの人は君の成功を求めているというよりも、関係する人物に目を向けてほしいというのかもしれない」

 私はその意味を理解しようとした、そして理解できた時、怒りが再び私の中できつく渦巻いた。「それは母です。もちろん」

「スコールハート家はこれまでも、多額の寄付をしてくれているのだよ」

 それは知っている。当然知っている。けれど私がストリクスヘイヴンに入れたのは母の名声があるから、そう思ったことは一度もなかった。ストリクスヘイヴンに入るのは、スコールハート家の女子はそうするものだから。でも私は自分の力で入ったのだと思っていた。特に深く考えることもなく。

 ナサーリ先生がいてくれてありがたいと思った。先生が一緒にいなければ、何をしたかわからない。先生は私の内の、押し殺した衝動を感じている。荒々しい魔法を。

「秘密をひとつ教えてもいいかい?」 魔法の光が先生の炎をぼやけさせた。

「私に……ですか? 秘密を守るのは得意ではありません」

「構わない。君を信じよう」 先生は口に指を当てて、囁く真似をした。「君のお母さんのことは、決して好きではなかったのだよ」

「え!?」 先生が何を言うか予想したとしても、それは決して予想できないものだった。「でも……あの人は天才です。彼女の絵のひとつにどれほどの値段がつくかご存じですか?」

 ナサーリ先生は融けた金属のような、橙色の舌を出してみせた。嫌いな相手に子供がそうするように。「もちろん知っているとも。だがあの人自身は……君の家族を悪く言うつもりはないが、私のクラスではいつも威張り散らして不機嫌だった。誰かが必要ならば笑いかけるが、そうでない時はガラス板のように」

 私は先生をじっと見つめた。母をこれほど乱暴かつ正確に評する言葉を聞くことになるなんて。「じゃあ、今こうしてくれているのは何故なんですか?」 そう尋ねた私の声は思ったよりも大きく、不満が湧き出していた。「私は先生の担当じゃないですし、母のことだって気にしなくていいのに。どうしてわざわざ私に構うんですか?」

 そよ風がナサーリ先生の足首を包む炎を揺らした。「地震というものがどのような感じか、知っているかね? 揺れそのものではなく、それが始まるという気配だ。嵐の前の大気の味、大波の前の引き潮。君にはそんな感じがある。君が授業で振るう魔法は――綺麗で、整然として、秩序立っている。全く似合わない」

 その言葉は私の内に穴をあけ、そこから恐怖が湧き出した。私自身が一番恐れる、私の内の全て。ナサーリ先生はそこに手を伸ばして掴んで、外に取り出してしまえる。

 私は後ろへとふらついた。「先生にはわかりません」

「では説明するのだ」 再びあの命令。強制ではなく、炎で鍛えた意志というだけ。

 胸で息が詰まるようだった。「どこから説明すればいいのか」

「どこからでも」

 私は一瞬、目を閉じた。「私は早いうちに魔法の才能に目覚めました。八歳の時です。オークとしてはとても早くて。不器用な子供でした。大きな手足に魔法、悪化するだけでした。ひどい癇癪持ちでした。物を……投げて。壊して。欲しいものが手に入らなかったら泣き叫んで。子供にはよくあることかもしれません。けれど私は、思っただけで物に火をつける子供でした」 無理に私は笑おうとして、けれど苦しかった。「兄弟と一緒に庭で遊んでいた時でした。その一人が――一番下の弟、トムリンが……私、あの子にすごく腹を立てていました。何をしていたのかはほとんど思い出せません。何か変なことをしてきた、多分棒で私をつついていたんだと思います」

「すごく腹を立てていました。あの子をやっつけてやりたくて。そしてそうしたんです」 その記憶に逆らうように、私は歯を食いしばった。「それは――いいことだって感じました。正しいって。そうして良かったって。弟は命に別状ありませんでした。元気になりました。けれどもう誰も私を信じなくなりました。近所の人たちは誰も、子供を私のそばで遊ばせなくなりました。だから兄弟姉妹が森で他の子たちと遊んでいる間、私は家の中にいました。魔法を制御することを教えられて」 言いなさい、ルーサ。「自然にできることではありませんでした。でもできるんです。できました。今の今までは」

 ナサーリ先生は私の隣で小さな声を出した。興奮した私の歩調は速く、もうオパス歩道は終点だった。そして私たちはプリズマリのキャンパスの、居住区画の端に立っていた。その先は暴風区画――魔法の薄煙が立ち込める暗闇。放棄された研究や、基礎的な構成要素に戻ろうとしない唱えかけの魔法の墓場。ここは立ち入り禁止ってことになっているけれど、みんな来ている。フェリーサはここで行われる恐怖の戦いを定期的に見に来て、言葉を尽くしても問題が解決できない上級生たちが魔法に頼る様子を観察していた。

 ここはまさしく、思った通りに動かない壊れたものの廃棄場所。

「その話を他人に明かしたのは初めてだね?」

 私は暗闇を見つめた。「同情はいりません」

「宜しい。私はそのような感情を君に向けはしない」

 私は先生を見つめた、その顔に笑みを予想して。これもまた冗談。けれど先生の表情に冗談めかしたものは何もなかった。優しいものは何もなかった。

 当惑して、私は笑いだした。私の内の全てがきつく、きつく張りつめていっても。「ああ、そう! 励ましをありがとうございました!」

 ナサーリ先生は額に皺を寄せた。「励ましが君の助けになると考えたなら、ご友人の虚飾魔道士のところへ送り返していたが。そのような過去を持つ魔道士が自分だけだと思うのかね? 魔法というのは汚れなき技などではないのだよ」

「素晴らしいです」 私は鼻を鳴らした。「自分がよくいる存在だって知ることができて良かったです。思うのですが、そういう魔道士はみんな幸せに成長していったんですか?」

「まさか」 ナサーリ先生は歩道と暴風区画を隔てる縄を持ち上げ、ありえないような優雅さでその下をくぐった。「多くの者がそれで破滅した。君がここでそうしたように」

 その言葉は、叩かれたように痛かった。「私はそんなことは――!」

「君はひとつの間違いを犯し、そして自らの内に隠れて消えた」

「ひとつの間違い?」 私の声は空ろの中に響いた。「私、弟を殺そうとしたんですよ、しかもそれを楽しいって思って!」

 ナサーリ先生は縄をゆっくりと降ろし、私たちを隔てた。「ええ、君に私は殺せない。どれほど楽しもうとも」

 私は牙をむき出しにした。「本気で言ってますか?」

 先生は私と同じような笑みを向けてきた。物騒で、力を見せつけている。「やってみなさい」

 先生は私を煽っている。この十五年間、そんなことは誰にもさせなかった。けれど先生が両目に浮かべる軽蔑には我慢ならなかった。期待はずれ、失望。先生は私のことを価値のある、興味深い人物だと思ってくれた。価値のある何かだと。そして私はそれが間違いだと証明してしまった。

 だから、私は怒った。燃えた。

アート:Colin Boyer

 横隔膜から力が破裂して燃え上がり、ひとつの叫びとともに熱い魔法の塊が弾け出た。正確には呪文ですらない、ただ感情を荒々しく吐き出したもの。完全に制御不能、殺すためだけのもの。

 ナサーリ先生は私が見たことのあるどんな生き物よりも素早く動いた。乾燥した草に火がついたようだった。先生は後方の宙に跳んで、掌を合わせて私の魔法を受け止めた。その勢いで先生は更に空高くに飛ばされて、衝撃波が地面に当たって私の顔に三つ編みが打ちつけた。先生は宙で優雅に旋回して、後方宙返りをして着地した。先生が吸い上げて暴風区画へ放り出された魔法は宙に浮いたまま、静電気のように弾けていた。

 敷石に私は膝をついた。「うそ、ちが、いや」 私の内の何もかもがすくい出されていた。大図書棟の上階ギャラリーのように私はからっぽに響いていた。私は、学部長に攻撃をしたのだ。

「立ちなさい」

 私は目にかかった髪を払った。怒り狂いたくなるくらい、先生は穏やかだった。「先生に攻撃するなんて!」

「私がそうしろと言ったのだよ」

「そういう問題じゃないです!」

「プリズマリから君を放り出したりするものか、ルーサ・スコールハート。ユヴィルダ学部長もだ。もし退学したければ、自分自身でそうしなければならないよ」

 顔を上げると、今も宙に浮いたままの魔法を背に先生は立っていた。これまで生きてきてずっと、誰かが私に何かをくれるとしたら、曖昧な励ましと自制する方法ばかりだった。ナサーリ先生は手を差し伸べ、暴風区画の縄を超えさせてくれた。

「けど、ユヴィルダ学部長に提出するものがないんです」 私はそう言った。震えていた。拳を握り締めてそれを隠そうとした。

 暗闇の中で、ナサーリ先生の身体全体が燃えていた。ここで一番眩しいものだった。「何も?」先生は魔法が弾けた所を一瞥した。「何もないようには見えないがね」

 私は鼻を鳴らした。「けど、あれは芸術じゃないです。ただの癇癪です」

「私が最初に提出した作品が何か、知っているかね?」

「いえ。何ですか?」

 その笑みの中で、ナサーリ先生の溶鉄の舌がぎらついた。「地震だよ」

 私は笑った、今回も、先生が冗談を言っているのかよくわからなかった。私は宙に浮いたままの魔法に一歩近づいた。それは……形がないというわけではなかった。密度があった、星座のような。手を伸ばして――

 そして引っ込めた。あの歌。魔法に触れた瞬間、母のあの歌が耳に鳴り響いた。大音響で――叫びと言ってよかった、そしてまだ歌詞はない――けれどその内の深いどこかで聞こえたと思った。私はそれを形にできる――きっとできる。

 けれど、一夜ではできない。

 私はかぶりを振った。「これをユヴィルダ学部長に提出はできません」

「そうだろうね」 ナサーリ先生の眉は炎でできていて、それでも冷たく笑っているように見えた。「言わなかったかね? ここにいたいと望む限り、退学にはならない。ユヴィルダ女史はもはや君の指導教員ではない。私だ。そして君は合格だ」

 私は一瞬言葉を失った。そして口が動いた。「ユヴィルダ学部長は……喜ばないと思います」

「私が何とかしよう」

「どうしてですか?」 そう叫ばずにはいられなかった。「どうしてそこまでしてくれるんですか? 私は非凡じゃないですし、特別でもないですし、私は――」

「同類だよ」 ナサーリ先生はそう言って、貫くように私を見た。激しい視線に私は怯んで逃げたくなった。「君の内なる魔法こそ、私の身体と魂を形作るものだ。そしてそれを、無へと燃え尽きさせはしない」

 私は息をのんだ。疑念ばかりでぐちゃぐちゃだった。「私にそんな価値は」

「まだ無いかもしれないね」 ナサーリ先生は口を曲げた。「だが、私は長期投資が得意分野なのだよ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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