MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 10

サイドストーリー第5話:薄暮の再誕

Rhiannon Rasmussen
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2021年10月1日

 

 イニストラードの森は友好的な場所ではない。深く、暗く、ねじれた木々が伸ばす枝と葉の囁きは冬の満月のきらめく光すら覆い隠す。沼の多くと同じように、人間が生きるには適していない。屍と亡霊に祟られている。

 それでもアルグリはまだ覚えていた。かつては、木がその根を自ら引き抜いて、通りかかる自分を転ばせようとはしなかった。飢えた目で見つめられているという感覚は、森の奥深くへ踏み入りすぎた時だけのものだった。今は、街のわずかな安全から樹冠を一瞥するだけでも、背筋に恐怖の震えが走った。

墓地の侵入者》 アート:Chris Rallis

 アルグリの人生にこの変化が訪れていた。彼女と夫はなめし革職人であり、この仕事が発する悪臭から、街のすぐ外に居住していた。工房は小さいが品物は上々で、彼女たちはそれを誇っていた。夫が獣皮を処理し、アルグリはその革で鎧やポーチや水袋を作り上げるのだった。

 不幸の最初の前兆が訪れても、彼女たちは作業に没頭し続けていた。しばしの間、仕事は順調だった。誰もが守りを求めていた。人狼の攻撃は頻繁になっていた。肉に飢えたグールを街の外れでよく見かけるようになった。だがそれでも、単純に窓を板張りにしておけば、外出時間を厳格に守れば、大丈夫だと思っていた。その愚かな希望はグールの襲撃で打ち砕かれた。それらはただの心なきゾンビではなく、協調して動き、肉と油の匂いに獰猛に熱狂して扉に殺到した。

 アルグリは生き延びたが、決して幸運からではなかった。夫と末息子は彼女をかばってグールの前に立ち、その間に彼女は工房に火をつけた。長子はその火事で死んだ。

 幸運だった、そう言う者もいた。生き延びたのだからと。

 彼女は家族の亡骸を工房の穴に埋葬し、炭と土が腐敗の匂いを不死者から隠してくれるよう、天使に空しく祈った。

 祈りは聞き届けられなかった。あるグール呼びが残酷な興味をその街へと向けた。教会の墓地、工房、葬送の列、その全てが遊び道具だった。そして彼女の家族は無残な姿となって、グールの呼びの言葉に踊った。

 アルーティオに出会ったのはその頃だった。彼の娘は殺され、同じグール呼びに目覚めさせられていた。二人は協力し、アルーティオの禁断の儀式を用いてそのグール呼びを殺すと死者たちを再び埋葬した。できたばかりの墓の前に立ち、アルーティオは葬られし王について初めて語った。

「葬られし王に見守られ、死者は死者のままであり続ける。墓所はあの方のものだ。土はあの方のもの、そして埋葬された者たちは安らかに眠る。幽霊、グール、屍術師――我らが王はその領域を乱す者と交渉することはない」

 家族の安らかな眠りのために、自分がやがて世界から去る時に安らかな眠りを得るために……だからこそ多くの者が大義を捨てた今でも、ここに留まっているのだ。アルーティオの心地良い言葉に誘われ、死して長い王を目覚めさせるために森へと入っていく人々の数は、不仲か悲観からゆっくりと減っていった。だがアルグリは諦めていなかった。

 アルグリはフードを深くかぶり、自分や仲間を目撃するかもしれない人々や物事から両目を隠した。三人ともこのために長い時間をかけてきた。関節は痛み、痩せ衰えた山羊は強情だったが、彼女はそれを宥めすかし、根がもつれて霜の降りた獣道を連れてきた。今、自分が立つ空き地は馴染み深く感じた。家族を思うと今も胸が張り裂けそうだった。特にここでは。この闇の中で松明を持ち、忘れられた王を呼び出すのだ。家族を沈黙の忘却にかくまってもらうために。

 それが彼らに与えられる最良のものなのだろうか。もっと何かしてあげられるはずだった。

 今夜が――今夜の儀式が――葬られし王を呼び出す最後の機会だった。アルグリはそれを心していた。静かなスルタも技術と道具を手に心していた。荒々しいアルーティオは大仰に罵り、道に唾を吐きながらも告げた――今夜は運命の夜。葬られし王を召喚し、自分たち全員を守るのだと。今夜は星々が正しい位置に並び、涙ぐむ月が正しい位置につく最後の時なのだ。自分たちの占いと計算はアルーティオの古びた本のそれと一致しており、今夜、力が集まる――そしてこの先千年は起こらない。

 三人は空き地に集合して場を準備した。そして膨れた月が空を満たすと、厳粛な静けさをもって儀式を進めた。デーモンの映し身としての一頭の山羊、蹄と角。その血で土を浸して新鮮な墓とする。灰とヴェール。沈黙の闇の中、アルーティオが儀式の文句を呟いた。

 懇願するような祈り文句の最後がアルグリの唇から出ると、風そのものが止み、暗い興奮が彼女に走った。

有頂天の呼び覚ます者》 アート:Tuan Dong Chu

 祈る三人は待ち、顔を地面に押しつけ、両腕を伸ばし、山羊のくすぶる胸骨から、あるいはその下の血まみれの地面から葬られし王が現れるのを待った。だが何の動きも現れず、息詰まるような沼地の匂いもなく、ヴェールも動かなかった。炎は消えなかった。山羊の血はゆっくりとごくありふれた錆色に凝固し、描かれたルーンは汚れて判読できなくなった。

 三人は風が再び吹きはじめるまで待った。月は移動し、一列に並んで描かれた印に間違った影を投げかけた。最初に立ち上がったのはスルタだった。

「だからあんたは馬鹿なんだよ、アルーティオ。ついて来たアルグリ婆さんも。風が葉を鳴らしてあたしらの失敗を笑ってるよ」 その言葉とともに彼女は踵を返し、腰に手を当て、夜の中へと歩き去った。

 アルグリは身体を起こし、自分が見逃した何かを求めてアルーティオを見上げた。彼が持つ本の断片に何か予言されていないだろうか。

 その暗い表情が、全てを告げていた。

 失敗したのだ。最後の最後で、自分たちの嘆願は、儀式は、生贄は。アルーティオの腐りかけた本は、スルタの鋭い短剣は、アルグリの山羊の血は自分たちを守ってはくれなかった。そして今、希望であったものの、準備してきたもの全ての灰の前に立ち、アルーティオは顔をしかめた。そしてスルタを追って消えた。アルグリは理解した。自分たちの努力は全て、無駄だったのだと。

 イニストラードに希望などない。

 燃え殻と飢えた山羊の屍、その血のルーンにアルグリは膝をついた。これを買うために一か月を切り詰め、ここに連れてきて、自分たちが信奉する生真面目な王を蘇らせるために殺したのだ。この陰鬱な屍の中には、臓物と灰と夢みる死があった。そして最後の仲間が立ち去ると、彼女はすすり泣き、夜が更けるにまかせた。この失敗とともに、ここで死なせて欲しかった。孤独と恥から逃れ、家族のもとへ行かせてほしかった。

 涙ながらにどれほど願っても、死は訪れなかった。生贄の炎の燃え殻は消えて闇に取り残され、アルグリはゆっくりと実感した、ここにいるのは自分だけではないと。背後に、衣擦れのような音と呼吸音があった。幽霊やグール? 違う、それらは息をしない。それに山賊や死体漁りであれば、悲嘆にくれる無力な自分に襲いかかっていただろう。アルーティオとスルタとともに終えた感情のない動きよりも強い、希望が沸き上がった。葬られし王なのだろうか? その最後の試練なのだろうか? それでもアルグリはベルトに差した生贄の探検の柄に手を触れ、振り返り、見つめる者に対峙した。

 淡い月光がかろうじて差さない、腐った倒木に、黒髪の女性が腰を下ろしていた。戦士の分厚い上着をまとい、片手を脇腹にあて、黒い傷を押さえていた。もう片方の手には奇妙な形状の又になった槍を休めていた。教会に展示されている槍よりも更に古かった。参列を止め、世界の暗い隅へと信仰を向けるようになる前に見たものよりも。だが槍それ自体は何の意味も持たない。アヴァシン教会の多くは略奪されていた。ならばこの女性は盗賊であり、アルーティオやスルタに傷を負わされたのだろうか? アルグリは用心して体重を移動させた。自分は老いたが、この厳しい世界で老いは同時に賢さと危険な相手であることを意味する。そうは見えないかもしれないが、アルグリの内にはまだ戦意があった。

忘れられた大天使、リーサ》 アート:Dmitry Burmak

 その奇妙な女性は首を傾げた。表情は穏やかだった。

「危害を与えるつもりはありません」 その女性は言った。傷にもかかわらず、声は明瞭だった。そして消えつつある生贄の炎を示した。「貴女の儀式ですね。何を呼び出そうとしていたのか、お判りですか?」

「静寂をもたらす不死の王を。私たちを吸血鬼から、人狼から守り、立ち上がる死者に永遠の眠りを与えるために」 アルグリは声の震えを隠せなかった。この女性の静かな優雅さには、何か危ういものがあった。武装せず身体を休めていながらも、その身のこなしは熟達の戦士のそれだった。

「不死、確かにそうです」 その女性は身をのり出した。「ですが葬られし王は決して何かを守るような者ではありません。ここにおり、飢えています」 松明がちらつく中、アルグリはその女性の背後の影を見た。白と灰色の斑で、見つめる中でその影は広がり、猛禽類の優雅な翼となった。

 天使が、目の前に座していた。

 アルグリはよろめいた。膝をついてしまいそうだった。アヴァシンの古い描写――光をまとう救い主、守護者――それが心に閃いた。

「天使様」 アルグリは許しを請いたかった――生贄について、悲嘆について、希望を失ったことについて――だがそのどれも声には出なかった。「私を裁きにいらしたのですか?」

「裁きではなく、談判のために」 その天使は首を動かした。「私はかつて悪魔たちと語りました。私は風であり、沈黙でした。悲しむ貴女を見つめておきながら、何も言わなかった私を許してください」

「何故ここに?」

「貴女も分かる通りです」 天使は山羊の残骸を示した。「貴女の呼びかけには、応えざるを得ませんでした」

 アルグリの内に再び希望が沸き上がった。鋭く、辛く、愚かに。「貴女様が……葬られし王なのですか?」 思わず、彼女はそう尋ねた。

 天使の微笑みは嘲りではなく、優しかった。「違います。ですが私もかつて、その者と談判を試みました。不死者を鎮め、幽霊を消し去り、平穏をもたらすために。あの者のあらゆる噂と記録の通りに。ですが間違えてはなりません。あの者がもたらす静寂とは、あの者の声を増幅させるためだけのものであり、投げかける覆いは他者を黙らせ盲目にさせるためだけにあります。その息苦しい世界での唯一の喜びは、あの者が感じる喜びだけなのです」

 アルグリは息をのみ、口の中が渇いた。彼女は短剣の柄をきつく握りしめた。「私の家族は全員死んでしまいました。葬られし王は、彼らの眠りを確かにしてくれるはずです」

「貴女もまた、安らぎのある人生を送るべきです」 天使は同情と信頼を目に宿し、アルグリの挑戦的な視線を受け止めた。「そして声を上げてください、血を流すことなく」

 アルグリの年老いた膝が再び震えた。安らぎのある人生――そのようなものが果たして存在しうるのか――半ば忘れた夢だった。

「私はそのために何をすれば良いのですか? これでも足りないというのですか?」

「素早く行動しなければなりません。貴女の言う王は召喚され、この森を徘徊しています。救い主としてではなく、悪魔として。そしてあの者は貪欲です。貴女のご友人も、殺されたかもしれません」 天使は槍を支えに立ち上がったが、それとともに上着を貫く傷が開き、定命と同じく、その神聖な存在もまたひるんだ。

 髭に白いものが混じるアルーティオ、蔑む目のスルタを彼女は思った。森の中で追われているのだろうか。そして夫の死を思った。アルグリはその奇妙な天使に手を差し伸べ、立ち止まらせた。「その傷では誰も守れません。忘れておくべき仕事に手を出す愚か者かもしれませんが、私が学んできたもののひとつに傷の手当があります。お座りになって下さい。そのまま行かれては、間違いなく死んでしまいます」

 ゆっくりと、その天使は再び座り、翼を背中に畳んだ。「御歳に相応しい知啓ですね」 天使は痛みに顔をしかめて言った。「帰還してすぐに二度目の死を迎えるのは、無駄というものでしょう。わかりました。ですがどうやら、私は長いこと不在にしていたようです。この森に覚えはなく、大地は恐らく以前よりも残酷です。アルグリさん、どうか手当の傍らに教えて頂けますか。私が不在の間、イニストラードに何が起こったというのでしょうか?」

「不在?」 アルグリは尋ねた。彼女は肩から外套を脱ぎ、フードの部分を引き裂いて包帯を作った。「他の天使様たちと同じく、狂気に駆られてしまわれたということでしょうか?」 彼女は舌打ちをした。「神聖なる存在にも、安らぎは訪れないのですね」

「殺されたのです」 天使はそう言った。少しの沈黙にアルグリは訝しんだ、何か隠していることがあるのだろうと。他の天使も被ったねじれた腐敗から帰還したのだろうか?

「私は彷徨い、風に散りました。貴女とお仲間さん方はひとつだけ正しかった――葬られし王は死ぬことはないのです。それはあの者との私が取引した結果のように思えます。私も真に死にはしません。私の妹たちは……狂気に駆られたと?」

「もはや狂ってはおられませんが、亡くなられました。多くの天使様が。ですが白鷺の飛行隊が残っています。私たち全員を守って下さるにはとても足りません」 アルグリは天使の肋骨を強く縛りながら、自らの苦しみを簡潔に凝縮しようと試みた。大患期の話は短い。ガヴォニーの陥落、横柄に活気づいた吸血鬼たちの隆盛、人狼、幽霊、魔女の蹂躙――その中を通して生きる苦痛よりもはるかに短い物語に、破滅が注がれた。大天使シガルダとその飛行隊を除く天使たちは堕ちた。不死者たちの侵入、屍の取引、一度は宥められた人狼たちの狼藉放題。家族の死。最初は暴力的に、そして浅い墓穴からグール呼びの気まぐれに仕えるために。「これだけのことがあって、葬られし王に呼びかけないわけがありましょうか」 反抗するように声を荒げ、アルグリは尋ねた。「アルーティオと私は記述を解読しました。そして願いました、他の誰が私たちを守ってくれるというのでしょうか?」

 その天使はアルグリに、ほんのかすかな笑みだけを向けた。理解の笑みを。そしてその重荷を理解してくれたというだけでも、アルグリの目頭が再び熱くなった。「アルグリさん、私の隣を歩くために、私を信じていただく必要はありません」 その天使が言った。「それでも貴女の王のところへ私を連れて行っていただけるのであれば、灯と短剣を掲げ、自らの身を守らねばなりません」

 天使はアルグリの衣服から破った包帯の上に鎧下を締め直し、立ち上がり、老女へと手を差し伸べた。「リーサといいます。かつては薄暮の飛行隊を率いておりました。行きましょう、アルグリさん。イニストラードの未来のために、この王を今一度埋葬しましょう」


 アルグリの松明は森の深い闇に大した効果はなかったが、何にせよその不十分な明かりでもリーサはありがたかった。世界は様々に変化したが、変わらないものもあった。人間は今もなお不屈の頑固さを発揮している。自分とそう変わりない粘り強さ、リーサはそう思った。多様な祝福だ。

 あの吸血鬼の愚行、アヴァシンの手によって死んでからどれほどの時が流れたのだろう? 千年、あるいはそれ以上だろうか? 教会がアヴァシンの名のもとに隆盛するに十分な年月だ。妹たちに糾弾され、追放され、アヴァシンに殺され、数世紀に渡って霊気を漂流しながらも、妹たちの死の知らせはとてつもなく重かった。自らの内に、押し殺した悲しみ以外のものは見つからなかった。

 妹たちは決して理解しようとはしなかった。何故自分が悪魔たちとの交流と対話を求めたのかも学ぼうとはしなかった。悪鬼たちが世界を航行する手段を自分が知りたがる理由を、互いに何を学び合えるかを、そして今……妹たちは、リーサが理解しようとした力の一閃に、その機会を奪われていた。力づくで与える均衡、輝かしい妹たちはその信念に生き、その信念に死んだ。シガルダを除いて――けれどその審判は、あるいは、できるならば対話は――待たねばなないだろう。

 あの葬られし王は自分をここに引き寄せた。そして自分たちの繋がりを通して、飢えの目覚めが感じられた。長い眠りから覚めた後に、馳走を探すのは自然なことではないだろうか?

 最初に発見したのはアルーティオの無残な骸だった。アルグリはこの人物を自分たちの教団の指導者だと表現した。秘本の断片から知識を得て、研究したのだと。その屍は噛み砕かれて地面に半ば埋まっており、ローブは今も彼自身の血に濡れていた。

冥府の掌握》 アート:Naomi Baker

「お仲間さんのひとりですか?」 リーサは尋ねた。

 アルグリは靴でその骸をひっくり返し、顔をしかめた。「そうです」 彼女はそれだけしか言わなかった。老女の松明が照らすその打ちひしがれた顔に映るのは、悲しみか、それとも諦めだろうか?

「近くにいます」 リーサは梢を見上げ、地面の揺れに耳を澄ました。葬られし王の領域。彼女はそれを感じた、大空そのものを震わせる――

 そして悲鳴が上がった。

「スルタ!」 アルグリは叫び、だが躊躇した。進み出たのはリーサで、茂みを突っ切り、その素早い足取りの下で霜に覆われた茨や松の葉が砕けた。彼女はあの儀式の場所とは全く異なる小さな空き地に出た。冷たい沼に木々が半ば沈んでいた。

 月光に照らされて、葬られし王は待っていた。リーサは彼を覚えていた。何時間もかけて語り合ったのを覚えていた――聡明で、計算高い。道理をわきまえている。デーモンの中では貴族、彼はそう主張していたが、デーモンには違いなかった。

 銀の月に縁取られ、そのデーモンの巨大な角と破れた翼の被膜は、黒い空に留まる月光の穏やかなきらめきを背負っていた。防腐処理された聖者の骸から埋葬布が外されるように、その姿から塵が落ちた。そして振り返って自分たちを見たその両目は、空虚な細い顔の中に輝く二つの星だった。

 悪魔は身を屈めてスルタを掴んでいた。彼女は自分を握り締める悪魔の手を繰り返し叩き、その攻撃の度に悪魔の皮膚から塵の弧が待った。

 リーサの背後で、アルグリは悪意の凝視を受けて凍り付いていた。だが葬られし王が目を向けるのはその灰髪の老女ではなく、その手の中で金切り声の憤怒を上げるもう少し若い者でもなかった。悪魔が振り向いた相手は、リーサ自身だった。

「薄暮の翼のリーサ」 葬られし王の声は滑らかなぬかるみ、流砂への、空っぽの墓への誘いだった。「よりによって、ここで古き友に会うとは。何たる喜びか」

「その者を離しなさい」 リーサは命令し、距離を縮めた。彼女はその槍を悪魔へと掲げた。「貴方は既に人間を一人殺しました。貴方は談判を、平和を、知識を語っていたではありませんか。今こそ、その言葉を行動に移す時です」

 悪魔は針のように鋭い牙を見せて破顔した。「ああ、だが知識など空腹にはさして役に立たないとわかったのでな!」 その言葉とともに、悪魔の歯がスルタに沈み、おぞましい引き裂き音が悲鳴を押し殺した。リーサの槍が悪魔の肩を突いたが、遅すぎた。

 葬られし王は彼女の槍を払いのけ、召喚者の最後の血まみれの名残をのみ込んだ。首筋を鳴らし、悪魔は背筋を伸ばしてリーサへと迫った。悪魔は死の悪臭を放っていた。

 脇腹の傷がうずき、彼女は横に避けると転びかけた。運が良かった――自分たちの両方とも、召喚されたばかりで本調子ではない。葬られし王の尾が彼女の行く手を払い、悪魔は自らの身体をひねった。

「ああ、少々頭がすっきりしたな」 悪魔の声は低いながら楽しんでいるようだった。霜に覆われた土に足の爪を埋めながらも、その鉤爪がリーサの頭めがけて走った。彼女は影から月光の中へ駆けて悪魔の側面に回り、首筋か腹部を貫こうと狙った。

「空腹だというのに理解しろと言うのか?」 葬られし王はあざ笑った。「さあ。この滅多にない楽観主義者どもは我等を共にもたらしてくれた。その儚き命に決意を揺さぶられるなど。この者らの血が我等に尽くすのだ」

 リーサは自らの光を呼び起こし、槍の二又の刃にその力を走らせた。攻撃は命中し、悪魔の背中に当たり、しなびて羽ばたく翼の片方を浅く切りつけた。この時、悪魔が浮かべた陰険なしかめ面は苦痛のそれだった。地面そのものが彼女の足元で歪んだ。リーサは跳び、そして地面が崩壊した。植生が瞬時に灰と化し、腐敗した。リーサは翼を広げた。

「我は寛大だ」 葬られし王は呼びかけた。「だが空腹だ。その三人目を寄越せ。それで最後にしてやろう。お前が望む同盟を組んでやろう。哀れで小さな人間どもを育もう。闇と光、薄暮の王国が繁栄するのだ!」

見捨てられし者の王》 アート:Kekai Kotaki

 長いこと使っていなかった両腕は痛んだが、リーサはそれを伸ばし、葬られし王の高慢な顔に槍先を定めた。翼が傷んだ。脇腹が痛んだ。一瞬、彼女はただ同意したいと願った。多くの悲劇をものともしない人生とは? 大変動をものともしない人生とは? かつてのリーサと同じ不可能性を求める、既に全てを失ったひとりの老女は?

 それは全てだった。

「貴方が何を優先するかは、その行動が示しています。ですが埋葬された者の王よ、また別の機会を差し上げましょう。次の千年が過ぎたなら」

 飛行はぎこちなく感じ、だが新鮮な大気は活力をくれた。彼女は忘れかけていた内なる古き力を、無となっていた間にも携えていた全ての力を、刃に込めた。ハヤブサのように彼女は降下し、葬られし王はリーサの翼へと切りつけたが、その速度は遅かった。

 リーサは槍を悪魔の背骨深くに突き立てた。その悲鳴は悪魔の足元の地面を割った。そして悪魔は崩壊していった。身体が折り畳まれ――そして翼の最後の被膜をひとつ震わせ、消え去った。死んだのではない、消えた――今のところは。

 リーサは悪魔が残した浅い墓穴の隣に着地した。

 アルグリは天使を見つめていた。空き地の隅の木に背をつけ、その手の松明は震えていた。

 リーサは首を傾げた。何かがおかしい――地面が動いている。

 地面が呼吸をした。貪欲に息を吐いた。

 リーサは警戒を叫んだが、遅すぎた。アルグリの周囲で地面が弾け、汚れた泥が老女を掴んだ。葬られし王は身体をひねり、除けた木の根の間から抜け出した。首筋の傷からきらめく黒曜石の砂が溢れ出た。その残忍な表情は今や引きつり、威嚇にうなっていた。

 アルグリは叫んだ。かすれた声で、リーサすら思い出せないほど古い言語の言葉の断片を。救い主を求めて探し出した呪文であるのは疑いなかった。そして老女の呼び声に応えるかのように、アルグリの裂かれたローブに影が集まった。

 恐慌の中、アルグリは自らが知る儀式文を読み上げた。それは最悪の時に発する嘆願だった。葬られし王への懇願であり、その武勇、その強さへの頌歌だった。老女が詠唱すると、闇が悪魔に染み入った。その傷が塞がり始め、裂けた翼には薄膜が張り、再生していった。

「アルグリさん! 黙ってください!」

「愚かな老いぼれよ」 葬られし王は軽蔑するように笑った。悪魔はアルグリを掴んで揺さぶり、その掌握の中、老女は黙り力を失った。「おお、どうした脆い存在よ。突然我を称えるのが恥ずかしくなったか?」

 リーサは老女の必死さを感じた。大気に苦味があった。敗北。絶望。その老女は両手で松明を掴み、苦痛に歯を食いしばっていた。その全ての痛みが、その全ての努力が、全てが無駄となる。

 老女は顔を上げた、だが自らの死に向かってではなく。目が合ったリーサは、アルグリの凝視に希望ではなく、反抗を見た。

「リーサ様! もし必要なものが私の命であれば、差し上げます!」

 両手で、アルグリは松明を葬られし王の大口の上顎に突き入れた。

 リーサは墓を一跳びで横切り、その炎を、その戦いを、その希望を自らに引き込んだ。希望は何とも異なる燃料のように、彼女を曙光のように眩しく温かく輝かせた。木々の霜を融かす炎をリーサは燃え上がらせ、放った。自らの槍から、刃から、腕そのものから――葬られし王の喉元へと。

 悪魔には叫ぶ余裕すら与えられなかった。骨が折れ、窒息音が続いた。その身体が再び折り畳まれ、荒く騒々しく、墓場の塵が零れた。終わりだった。葬られし王はアルグリを掴んだまま、重々しい音を立てて倒れた。リーサは槍をひねって抜き、悪魔の太い首を切り裂き、その頭部を身体から完全に切り離した。

 悪魔の身体は崩壊しなかった。リーサは首の後ろに刺す痛みを感じた。自分たちはまだ繋がっているのだ。彼女は眩しい翼を背中に畳み、前に踏み出した。

 アルグリは悪魔の鉤爪から抜け出し、よろめいた。リーサは老女に手を差し出した。彼女はそれを取ると、小さな悲鳴を上げてひるみながらも立ち上がった。

「助力に感謝致します」 リーサは打ち負かした悪魔の残骸を示した。「素早い判断でした」

「昔ほど素早くはありませんよ」 アルグリは呟いた。「この者は喋りすぎていましたから。アルーティオはお喋りを召喚したのです。ああ、アルーティオ……」 老女は両手で顔を覆い、息を詰まらせてすすり泣いた。「こんなこと、こんなことのためにお前は死んで……馬鹿者ですよ。私たち全員が。山師ってだけではなくて、馬鹿者ですよ!」

「貴女は最善と思うことを為したのです」 リーサは穏やかに言った。「貴女はそのナイフを友に振り上げませんでした。彼らを守るために、私と共に来て下さいました。彼らの死は葬られし王の爪によるものです。来たるものを予測できなかったことで自らを責めないで下さい。貴女が見つけた記述には、あの悪魔の悪意や飢えについて書かれていましたか?」

「いいえ」 アルグリは手で顔を覆ったまま答えた。「光と取引をした秘密の王。ただ沈黙だけを求める賢明な存在、目覚めた死者が自らの領域を闊歩するのを嫌う、と」

「ええ。私もかつてはあの悪魔を不憫に思いました。もし貴女の呼び声がなければ、私は来ることはありませんでした。貴女の声こそ、長い時の中で私が最初に聞いたものでした。アルグリさん、貴女の行動は決して無駄ではありません」

 アルグリはかぶりを振り、だがその圧し潰されるような悲嘆は鎮まった。リーサは倒れた悪魔を見つめた。

「この悪魔の身体は消え去るはずなのですが」 リーサは呟いた。「私が実体を持ち続ける限り、この悪魔もそうなのかもしれません。世界に縛られて。ここに残したまま立ち去るのは躊躇われます。一体どのような力を今も……」

 アルグリは顔を上げ、そして萎びた顔の涙の跡の背後に、リーサは再び火花を見た。希望のかすかな光を。「この悪魔と共に行くのはいかがでしょう。この悪魔を貴女様の鎧にするというのは。身体は革と骨ではありませんか? 以前、私は革職人でした。近頃は何ひとつ無駄にはしません。アルーティオの本と、スルタの道具があります。リーサ様、我が天使様、お仕え致します。私の命を救って下さったのですから」

 リーサはその言葉を、その考えを、悪くないと感じた。妹の大天使たちを思った。自分には小さな飛行隊しかなかったが、妹たちには多くの天使が付き従っていた。人間との繋がりから妹たちが力を得る様を、そしてほんの数分前、アルグリの希望そのものが自分に押し寄せた様を思った。その忠誠は自分が探し求めていたものではない――だが今ここにさらけ出されているのは、理解から成された誓いだった。闇と争いの中で築かれた繋がりだった。

 その希望は、その誓いは、他の人々にももたらしてやれるかもしれない。新たな世界への新たな秩序を。

「私が求めるのは忠誠ではなく、協調です。新たな、生まれ変わった万軍です」 リーサは槍の石突きを泥に休めた。「押し殺した沈黙をもたらすための協調ではなく、この傷ついた世界に平穏な均衡をもたらすために。多くの声が多くの耳に届き、理解されるように。アルグリさん、この行いに手を貸して下さいますか?」

 息をのみ、アルグリは再び膝をついた。苦痛からではなく、悲嘆からでもなく、希望から、目の前に輝く天使へと。「勿論です。生きて希望を持ち続けます、リーサ様。私の人生が続く限り、共に行きます」

 リーサはこの最悪の時に、争乱の時に、絶望し迷った者に呼ばれて帰還した。この小さな誓約の前には更なる試練が、更なる苦難が待ち受けている。冷たい月光の中、リーサはこれらの言葉に、自分たちが共にする知識の中に、古い希望が再び点るのを感じた。悲嘆の誓い。希望の誓い。

 終わりが溢れる世界に、こうして、遂に、新たな始まりが訪れた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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