MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 01

メインストーリー第1話:森の魔女

K. Arsenault Rivera
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2021年9月2日

 

 ケッシグで狩りはするな。犬どもに見つかるぞ。

 大患期の直後であれば、それは真実だったかもしれない。鞭を振るおうとしてもウルフィーに食われるのだから。だがもはや真実ではない。あの犬どもは死に絶えつつあり、森は奪われたがっている。ファルケンラスの狩りは恐ろしいほどに不屈で、貪欲で、逃げ惑う獲物へと鉤爪を突き立てるまで追跡を終えないことで名高い。ファルケンラスの一族でいるというのは、誰もがお前の狩りを目にするような高所を我が家とすることに等しい。

アート:Darek Zabrocki

 クラウスも何ら変わりなかった。足が茂みを叩きつけ、滑らかな顎からウルヴェンワルドの落ち葉へと血がしたたり落ちた。音を立てて矢が耳をかすめた。このような状況にもかかわらず、彼は笑みを浮かべた。見られている、いいだろう。旅の修行僧に変装していたのは少々の侮辱だったかもしれない――追いかけてくる狩人の群れは、神聖なる憤慨を盛んに口にしていた。彼らがこんなにも沢山の矢を持ち歩いていたとは知らなかった――タン、タン、タン。周囲の木々に、巨人が拳を叩きつけたような音が鳴った。

 倒木が前方を塞いでいた。彼は跳び越え、その際に追跡者たちを一瞥した。五人。二人は長身で大柄、携帯するクロスボウはむしろバリスタと言える大きさだった。抜け目ない。だがまもなく持ち物など問題ではなくなる。

 その考えに、胸の奥底から笑いが引き出された。錬金術的に精錬された血液の一滴一滴が、夕闇を呼んでいる。そして夕闇は遂に答えてくれていた。彼の内からコーラスが上がった。見えざる神の到来を請う祭儀。救いの時は近い。

 本当のところ、彼は決して窮地に陥ってはいなかった。犬は煩わしい。信者は煩わしい、他の吸血鬼も――だがこの人間どもは全く問題ではなかった。ハヤブサはネズミを怖れない――そのネズミが鋭い鉤爪を持っていようとも。

「それほどまでに死を望んでいるとは思いませんでしたよ」 彼は肩越しに声を上げた。あの古老の血がこれまでにない大胆さをくれていた。自分がどれほど簡単に心臓を取り出せるかを知ったなら、村人どもはこの先果たして眠れるだろうか? おそらく眠れはしない。だからといって数週間後に戻ってきて確かめるのを止めたくはない。投資の進行状況を追うのは重要なことだ。

 そして恐怖を振り撒くのは、常にひとつの投資だ。

 彼の言葉に返答する代わりに、狩人たちは矢を放った。最も太い二本が稲妻の速さで宙を駆け、雷鳴のように轟音を放った。両方とも彼の頭をまっすぐに狙っていた。いい狙いだ。とはいえ彼は鹿でも熊でも、間抜けな森の生物でもなかった。超自然的な速度があれば一本を避け、もう一本を宙で掴んだ様が見えただろう。これは窮地か? いや、だが獲物どもは図々しくなりつつあると思わないか?

 だがクラウスは良い気分だった。太っ腹とすら言えた。満たされており、何も知らない村人たちに売ったタリスマンはまだ血で汚れている。危険を承知で、彼は張り出した枝へと跳んだ。体重が支えられると確認すると、彼は振り返って下方の狩人たちに対峙した。

「紳士淑女の皆様がた。非常に熱心な追跡を、心から感謝致します」

 見るがいい。彼らの顔に刻まれた恐怖を、怖れの深い皺を。哀れなものだ。

「しかしながら、美味な食事であるところの皆様が空を見上げたなら、時が来たと理解して頂けるでしょう」 既に彼は感じていた。衣装の下で身体が張りつめ、牙は長く鋭く伸びつつあった。このような時に、人の姿は邪魔にしかならない。他の吸血鬼の血統は実感していないようだが、ファルケンラスは違う。問題となるのは強さだけ。強さは血からもたらされ、血は人としての生き方の残滓と自分たちとを永遠に分かつ。これを活用するのが最も好ましいのではないか? 血が自分をどこまで連れて行くのかを見たくはないのか?

 身体が沸き立つようだった。

「日が沈みます。狩りは終わりです」 そう言いながら、彼の口元は既に変化を初めていた。人間とは異なる形に。身体は引き延ばされ、この農夫たちの誰も見たことのないような、怪物的で恐ろしい姿へと。深く飢えたうなり声とともに。

 彼らの恐怖は実に美味だった。広がった瞳孔、自分を見つめながら荒くつく息! 雲のヴェールを月が一瞬だけ裂いた。銀色の光が彼の恐ろしい容貌を更にはっきりと、更に恐ろしく見せた。これから来たる殺戮の雰囲気が大気に満ちた。

 クラウスは歯をむき出しにした。

 これはただ自然なこと。

 そして、あるいは、次に起こったこともまた自然だったかもしれない――狩人たちが訳知りの視線を交わすと、彼らの口元にはクラウスのそれと同じほどに陰惨な笑みが広がった。一人また一人、彼らは武器を捨てた。最も大柄な、人間というよりは木の厚板のような男が、クラウスと同じほど深く飢えた声色で笑った。

 身構える余裕などなかった。心待ちの狩人たちを月光が撫でると、彼らの身体は肉体の束縛を解き放って真の姿を現した。巨体の獣、その舌は鼻面を舐め、野生的な身体を形作る緻密な筋肉の塊は毛皮で隠せるものではなかった。最大の二体は彼がこれまでに見た犬とは程遠く、まるで縫い師の夢のようだった。それらの胸はかつて彼が父と共に醸したビールの樽のようで、両腕は彼が立っている枝のように太かった。

 クラウスは言葉を失った。

「そんな詩が通用するのは、人間だけだ」 彼らの頭目がうなった。

 クラウスは逃げるべき時を心得ていた。模範とするハヤブサのように、素早く空へ飛び立つべき時を。彼は枝から跳んだ。即座に姿を変えることさえできれば――

 だが、できなかった。

 犬どもは、本気でやれば、空中のものであろうと何でも捕まえられる。

 顎が胸を噛み砕いた。何が起こったのかを把握するよりも早く、彼は地面に横たわっていた。狼どもは取り囲み、彼を見下ろした――齢二百歳の吸血鬼など、大きな肉の塊でしかないかのように。

「こんな、ことは」 彼は途切れ途切れに言った。「ありえない。夜は――」

「夜は、それを受け入れる者に属する」そう言った直後、頭目の口元が鼻面へと変化した。

 それが、クラウスが最後に耳にしたものとなった。


 目の前で、吐く息が白くなる様を彼女は見つめた。

 やろうと思えば、現れては消えゆくあらゆる姿形を見ることができた。用心深い天使の翼、吠えたてる狼、旋回する蝙蝠。誰かが、どこかで、こういった映像に基づいて彼女は何者かを見出そうとしたかもしれない。そのような物事を聞いたことがあった――空に何を見たかを尋ね、それを元にして相手が何を怖れているのかを見定める僧侶たち。

 自分が何者か、アーリン・コードはわかっていた。だがそれを他の誰かと語る気はしなかった。特に、近頃は。イニストラードは今も昔も故郷だが、このようなことは初めてだった。目にするそこかしこが凍り付いていた。子供の頃に登った大木には氷が貼り付き、悲嘆にくれる村人の外套やコートを白い塵が薄く覆い、踏みしめる落ち葉の感触は何か違うものと化していた。日時計は六時近くを指していたが、村の中央に鎮座する時計はまだ四時半ごろだと告げていた。日没が、日に日に早くなっていた。

 それとともに、月が。

 いつも、月が。

群れの希望、アーリン》 アート:Anna Steinbauer

 今、長老の古い家の中で座りながらも、彼女にはそれが感じられた。古老の妻に、最善を尽くしてこれらの殺人事件を調査すると話している今も。

「毎晩ですよ?」 その女性の声はまるで軋み音のようだった。「夜になると、互いに呼びかける声が聞こえるんです。シンボルに祈っていれば大丈夫と、安全だと、フィニアスはいつも言っていました。ですが昨晩……」

 別の部屋では、フィニアスの血が壁を赤く染めていた。アーリンは息をのんだ。彼女の視線は、暖炉のすぐ上に掲げられたアヴァシン教のシンボルへと移った――半分は硬い石、もう半分は針金と藁でできている。大患期はイニストラードから多くのものを奪ったが、信仰はそう簡単には揺るがない。アヴァシンが死に、信仰の対象がひどく堕ちたとしても。

「おかしいとしか言えません」 その女性――アガサが言った。「私たちを守って下さるのではなかったのですか。何もかもが――ここしばらく、まるで……」

 アーリンは両手でアガサの手をとった。時に、口にも出せない物事に対峙した時は、人と人との単純な結びつきがその声となる。アガサは鼻をすすった。彼女はシンボルへと顔を上げ、そしてその視線をしばし床に落とした。

「誰も、ひとりではありません」 アーリンはそう語りかけた。「いかに闇が深く見えようとも、夜明けは来ます――いずれは」

「言うのは簡単です」

 簡単などではなかった。特にアーリンにとっては。天使が高く掲げた槍を、彼女はありありと覚えていた。大患期から数週間、彼女の狼たちは人間社会に全く関わろうとしなかった。そして彼らを責めることはとてもできなかった。人の中を歩くことは、彼らの悲嘆と重荷を吸い込むに等しい。森は生命をくれるが、街道と教会と村は終わりのない死だけをもたらす。

 イニストラードのあらゆる場所に死があるが、それに背を向けるのは人の努力という美に背を向けることだった。確かに、森で生きるのはたやすく単純だ。だが狩りの勝利は、侵食する夜に立ち向かう村の勝利には遠く及ばない。子供たちが闇を恐れずにすむ場所を築くには長い年月を要する、けれどその報償は何世代も生き続けるのだ。

 だからこそ彼女はケッシグの村や町を訪れ、闇に対抗する彼らに力を貸すべく行動していた。

 アガサがもう一本の薪を暖炉に投げ入れた。そして古くすり切れた椅子に座り直すと、夫の外套を身体に強く巻き付けた。彼女の息も白くなっていた。その中に何を見たのか、尋ねようかとアーリンは考えた。

「コードさん」

「はい?」

「暗くなってきたと思いませんか?」

 アーリンは息をのんだ。窓を一瞥するだけで、アガサの怖れを確認できた。答えは二人とも知っていた。前夜に夫があまりに生々しく死亡したことで、アガサはひどく脆くなっている。ケッシグの人々は、口にしたくない物事から身を守るために、しばしば迷信に頼る。

 ここは嘘をつくべきではない。「ええ、そう思います」

 アガサは膝を抱えた。「グスタフとクラインが言っていましたよ、こんなに日が短ければ作物は育たないと。寒さもですが、どのみち日光が当たらなければ」

「収穫はもうすぐです」とアーリン。「備蓄を増やさなければならないでしょうが、この季節を乗り切る食べ物は十分なはずです。足りない分は狩人たちが調達できます」

「この季節は」 アガサが繰り返した。「ですがその次は? そして、どうなりますか、もしも狩人たちが全員……」

 アガサは別の部屋へと手ぶりをした。アーリンは喉に血の味を感じるようだった。その匂いは彼女の本能的な部分に呼びかけた――狩人たちの中にはとても多くの狼がいるのだから、これまでにない量の獲物を手にできるだろう。そう言いたい部分に。

「吸血鬼の仕業だって言うんですよ。信じられますか? ここに吸血鬼ですよ?」とアガサ。「番人たちが追っています。犯人の心臓を見たいかどうか尋ねてきました。殺すのは簡単なことだろうと言っていました」

「ここに来る途中、その人たちを見た気がします」とアーリン。「何か……少しカカシに似たものを作っていました。けれどずっと大きくて、牙があります。彫像のようなものでした」

 アガサは弱弱しい笑みを浮かべた。少し状況が進展したように感じられた。「それは魔女の行いですね。あの人が力になってくれるとフィニアスが。そう考えたのです」

 アーリンはもう一杯の茶を注いだ。冷たい空気の中で湯気が杯から立ち上り、高く高く昇っていった。ハーブの鮮明な香りが灰色の小屋を明るくしてくれた。

「これをどうぞ。涙を流し過ぎたら渇いてしまいます。気付いておられないかもしれませんが」

 アガサは再び微笑み、唇に杯をあてた。「良いですね。何が入っているのかはわかりませんが、温まります」

「我が家の、古いレシピです」 実のところ、それは前回森に入った時に、彼女の鼻に良いと感じたものが主となっていた。「もし中身を明かしたら、祟られてしまいます」

 アガサが、笑いのようなものを発した――短く息をひとつ、そしてもう少し長いものを。「それは聞くわけにはいきませんね」

「ええ、お断りします」 アーリンは自分の杯にも注いだ。「そこで――考えがあります。このお茶を飲みながら、お互いの家族の話をしませんか。私は兄弟の話を、貴女はフィニアスさんの話を」

 アガサの頷きは、大きすぎる羊毛のセーターに半ば隠れた。「わかりました。私も――お話しします」

「嬉しいです」とアーリン。「その後に、その魔女について教えて頂けますか」


 アーリンはこの森を知っていた。森もアーリンを知っていた。視線を移すたびに、記憶が蘇ってきた。ここには――樫の木に、古い狩りでできたひっかき跡。二日間に渡って、彼女と狼たちは一体の白鹿を追って森を駆けていた。普通の鹿よりも見つけるのは容易いと思うかもしれない。だがその鹿は何かが違っており、その匂いをとらえたと思った瞬間、うっとりとしてしまうのだった。ある時は崖まで追い詰めたにもかかわらず、狼たちは鹿を逃がした。時に、目にするだけで、何かが特別だとわかる存在もある。

 それは狼たちが語ってくれたのではなかった。目の前で見たのだ。両目は血と水気に潤う桃色、毛皮は雪のようにまばゆい白で、彼女はしばしばそれを夢に見た。腹の底で、飢えが増すのを感じた。四つ足でいるなら、何かを味わうのは簡単だ。噛みつき、引き裂き、掻きむしるのは簡単だ。隣に構える森林狼たちは、低いうなり声ときしんだ歯で意図を伝えた。彼らもまた飢えている。

 だがその鹿には月に関わる何かがあった。自分たちの胃袋に訴えない何かが。イニストラードにおいて無垢の美というのは、無垢そのものと同じほどに稀だ。そして彼女はそれを滅ぼす者にはなりたくなかった。アーリンは人間の姿へと戻った。狼たちは座った。不機嫌そうに、だがそれはいつものことだ。アーリンが祝福を囁くと、彼らはそれ以上何も言わなかった。

 白い鹿は放っておきなさい。

 狩りへ戻りなさい、狼たち。

 結局のところ、別の食事を見つけるのはそう難しくなかった。あまり神聖でない肉で胃袋を満たし、身を寄せ合い、五体全員が眠りについた。

 そして翌朝に全員が目覚めると、彼らの目の前の地面に剣が突き立てられており、その上には頭蓋骨がはまっていた。その骨には白い毛皮がまとわりついていた。アーリンはその剣を、鹿の肉にしみついた匂いを、この伝言を知っていた。

 自分の優しい性質をトヴォラーは決して好まなかった。

 彼がどこにいるのか、何をしているのかはもはや問題ではなかった。遠い昔に袂を分かったのだ。彼は彼の群れを、自分は自分の群れを見つけたのだから。

 狼たちはアーリンに触れたがり、遊びたがった。「魔女を見つけて」 そう語りかけると狼たちは手助けができると喜んだ。森を数分駆ければ一体が呼び声を発して呼び、そこには不思議な形の枝があり、狼は期待をもって自分を見つめるのだろう。もちろんその狼に感謝を伝える。そういった奇妙な枝にも、それぞれの手がかりが込められているのだから。

アート:Rovina Cai

 森の奥深く向かうほどに、辺りの匂いは変化していった。アーリンの鼻孔にツンとした匂いが燃え、温かいシナモンの香がすぐに続いた。人間の姿へ戻ると、その枝が更にはっきりと見えた。これが手がかりだ。一連の三日月型と円が並び、丁寧に整えられている。その先端、枝からぶら下がるのは――磨かれたオパールの欠片。彼女は目を狭めた。その形は装飾的に彫られているのか、それとも……。フィニアスは秘密の合図を追ってその集落を見つけたと、アガサは言っていた。

 アーリンは仲間狼の頭をくしゃくしゃと撫でた。「よくやったわ。行きましょう――あっちよ」

 その狼は一度飛び跳ねてから身を低くし、そして稲妻のように駆け出した。一瞬の後、アーリンも姿を変えて続いた。この子は群れで最も足が速い。狼は人間のような名前を持たないが、これだけ長い時を共に過ごした相手に名前をあげないのは間違っているように思えた。脇腹に走る白い線、そして印象的な速度に、彼女は「稲光」と名前を与えた。そのつがい相手、「赤牙」は少し後方を無理のない速度で続き、来たる危険を常に警戒していた。「根気」は――その名は聖堂の入り口で毎日彼女を待っていたためだ――「赤牙」と三度競争し、時には先頭にも立った。「大岩」、群れでも最大かつ最も人懐こい狼は、舌を盛んにひらひらさせながら最後尾についた。

 今や何を探せばいいかわかっていたので、シンボルを追うのはとても簡単だった。彼女は狩りへと身を解放した――踏みしめる落ち葉、森の冷たい大気、感覚が生き生きと輝いた。四つ足で走るのは、二本足でそうするよりもずっと自然に感じられた。人間の姿で走らない方がいいのではないか、時にそう考えた。

 「大岩」の興奮した吠え声は始まりに過ぎなかった。全員がそれを感じた。この手つかずの野生のスリル。この瞬間の喜びに、イニストラードの危険は遠いものとなった。アーリンも彼らに加わった。今だけは少なくとも、自由を感じたかった。

 だが遠吠えを終えるや否や、彼女はそれを見た。純白の鹿が精巧な銀で装飾され、一本の枝の下にいた。その薄桃色の両目が彼女を見据えた。

 アーリンはただちに止まった。首筋の毛が逆立った――そして狼たちにも止まるように吼えた。何かがおかしい。二体いるなんてありえない、そしてよりによってここで遭遇するなんて……誰かが、自分たちを騙そうとしているに違いない。

 騙されるつもりはなかった。鹿は単純に自分たちを伺うようにうろついており、深呼吸をすると、幾つかのことがわかった。まず、鹿らしい匂いが全くなかった。汗の匂い、染料の匂い、魔力の匂いすらあったが、全くもって鹿ではなかった。次に、鹿らしい行動もしていなかった。森のあらゆる生き物は、狼の群れから逃げる。唯一の例外は他の狼男だけ。だがこの鹿は、それでもなさそうだった。

 鹿はゆっくりと傍を歩いていた。「赤牙」が鼻面を低くしてうなりながら近寄ると、鹿は後ずさり、今一度アーリンと目を合わせた。そして首を傾げた様は、彼女が欲する最後の手がかりだった。

 アーリンは狼たちへと吼え、離れているよう命令した。そして一本の木の背後に隠れると人間の姿に戻った。「根気」が革袋を放り投げてよこした――中に衣服が入っているのだ。

「カティルダさんですか?」彼女はそう呼びかけた。「身支度を整えますので、少々お時間を頂けますか」

 周囲の森が笑い声を上げているようだった――変身しながら、背中がぞくぞくした。周囲を見ると、自分たちはセレスタスの巨大な石のアーチの下にいるとわかった。この建造物はいつもどこか、時計の内部構造を思い出させる。時に、その桁が中央の壇を動かすと言われている――そしてこの壇そのものが、人の村で見るどのような庭よりも大きいのだ。自分で目撃したことはないが、これを動かしているに違いない古の儀式について、アーリンはあらゆる類の考えを巡らせていた。

 森のかなり奥深くまでやって来たのは間違いなかった。地面から飛び出す壊れた輪を見たなら引き返しなさい、母はいつもそう警告していた。子供の頃、その広く平らな表面の上に登ってみたいと彼女はいつも思っていた――スレイベンの人々は毎日、そんな所から見る光景とともに目覚めるのだ。自分でそこに登ってみたら、気ままな貴族みたいな気分になれるかもしれないと。今や大人として、彼女は穴だらけのその表面の彫刻を不安とともに見つめた。幾つものレンズにはまた異なる心地悪さがあった。セレスタスについて警告していた母は正しかった。これが果たしていた目的が何であろうと、過去に残しておくべきものだ。

アート:Jonas De Ro

「私のささやかな悪戯を許して貰えるなら、服を着るまで待とう」 返答が届いた。その声は魅惑的でもあり、よそよそしくもあった。アーリンが思うに、村の年長の婦人が、遠い昔に自分のパイを盗んだ犯人を見つけたような声色だった。「この森の狼はあまり行儀が宜しくないのでな。大抵は襲ってくる」

 アーリンは木の影から姿を現した。それまで木々と下生えだけだったその場所に、今はひとつの集落があった。枝と皮がテントの形状を成し、これまでに見てきた三日月と円と同じ模様で飾られていた。浮遊する蝋燭が不気味な光で辺りを照らし、奇妙な案山子がそこかしこに立っていた。アーリンは眉をひそめた。蝋燭案内――母はそう呼んでいた。ある昔話では、森の中で迷った男の子を救い、一緒に歩いて収穫祭へ向かったという。別の昔話では、毛皮を求めてウルヴェンワルド中を歩く狩人たちが語られている。ある年、狩人は誰も戻ってこなかった。その次の年、彼らの家族の心配から、三体の蝋燭案内が生まれたという。自分の目で、それもこんなにも沢山見ることになるとは思っていなかった。蝋がしたたるその顔に刻まれた笑みは……こんなものが馴染むのは、イニストラードだけだろう。

 だがこの集落には、人もいた――二十人ほどだろうか。女、男、あるいはそのような区別を避けている者も。彼らは精巧な頭飾りをまとい、蝋燭案内の前で呪文を呟いていた。黒い肌の男は南瓜ににやつく顔を切り込んでおり、その頭飾りに揺れる月長石が蝋燭の光にまたたいていた。女性二人が熱く泡立つ大釜を囲んでいた。空気は冷たいのかもしれないが、数ヤード先から煙が立ち上るのが見えた。そして同じく、美味しそうな匂いも感じられた。

 そして彼女たちの前には、膝の上に杖を乗せ、苔むした切株に座すひとりの女性がいた。枝の頭飾りのたくさんの輪に白髪を通し、浅黒い皮膚には薄く三日月と円が描かれ、その容貌に馴染んでいた。この女性の目にとまったのは狼たちなのかアーリンなのか、正確にはわからなかった――だがこの女性は全てをとても楽しんでいた。

「私たちは大抵の狼ではありません」 アーリンはそう言い、目を狭めて集落を見た。「そしてあなたがたも、ありふれた魔女ではないようですが」

 ありふれた魔女のわけはない――ここの空気に悪の気配はなかった。ぞっとする頭飾りの影がどれだけ姿を歪めていようと、奇妙な化粧が容貌を変えていようと、彼らが人間であることは間違えようもなかった。快適な様子すら感じられ、とはいえ彼らが何をしているのかはわからなかった。この場所の魔法は、典型的な魔法の匂いとは異なっている。何かが放置されて発酵したような、年月の匂いがあった。

「それは尋ねる相手による」 カティルダが言った。「あの大天使が現れる以前、我々はありふれた魔女であった。あれが現れ、我々は影の中に隠れた。そしてあの天使が消えた今、我々は再び光の中に出てきたのだ」

 アーリンは首を傾げた。「そこまで年を重ねられているようには見えませんが」

「この姿、この名でいる必要はない」 カティルダはその杖で、アーリンが立っている近くの木を指し示した。「一個のどんぐりそのものは、一本の樫ではない。時間と、水と、太陽で……そうなりうる。我々もそれは同じ」

「つまり、あなたがたは何かを再生させていると」とアーリン。「皆さんは何者なのですか?」

アート:Bryan Sola

「かつてそうであったもの、そしてこの先そうなるもの。闇が殺すことができないもの。我々はドーンハルトの集会」その女性は三人の声で話し、音節ごとに両目が閃いた。杖の先端が輝いた。彼女はそれで地面を叩いた。周囲の茂みが生命を得てすぐさま成長し、奇妙な姿をとった。数秒のうちに、アーリンはそれが何なのかわかった。あの白鹿の誇らしげな頭部。「だが狼よ、お前は何者だ?」

「アーリン・コードといいます」 枝の鹿とは目を合わせず、彼女は返答した。鹿の両目は花でできていたが、ベラドンナの匂いはよく知っていた。「夜明けが来なければ、ドーンハルトの集会もありません。そして今のままでは、長くないうちに失われてしまうでしょう。解決策を求めてここに来ました」

「お前は何も差し出していない」 魔女が杖でもう一度叩くと、鹿の頭部の割れ目を、蔓が満たした。鹿は二歩前進し、カティルダへと頭を下げた。奇妙な君主にかしずく下僕。「だが今それは置いておこう。私が与える解決策は、お前の周囲の森やお前の脈打つ人間の心臓と同じほどに明白だ」

「稲光」が尾で地面を叩いた。アーリンは自分がそう忍耐強い人物だとは思っていなかった。この魔女、カティルダ、彼女のような人々と取引をし、はっきりとした返答を引き出すには?「もう少し明確に言って頂けますか? 私の視界は昔ほど鮮明ではないのです」

 その魔女は杖で鹿の頭部に触れた。その場所から、枝と花の冠が現れた。「まさしくこのような時のための儀式が存在する」

 鹿が飛び跳ねて去っていく様子をアーリンは見ていなかった――彼女はカティルダに視線を定めていた。「簡単な儀式などない、私はそう学んできました」

「そこに力がある――共同体とその伝統を確かなものとする儀式だ。長い年月を経て、何百という人々が信念を加えていき、一人の魔道士が夢見るあらゆる行いを遥かに超える力となる。あの大天使は我々をこの伝統から離した。それらに戻らねばならない――収穫祭に」

 アヴァシン様は何も、誰からも離させなどしなかった――だが今は言い争う時ではない。アーリンの胸の内がどれほど熱く燃えていようとも。「収穫祭? 昔話のような、ですか?」

「まさにそのものだ」

「スパイスのお茶とパイを?」とアーリン。胸の内の炎が更に熱く燃え上がった。アヴァシン教の司祭として、アーリンはあの大天使の守護がどれほど強かったかをよく知っていた。「それが、どうやって私たちを救ってくれるのというのですか?」

「収穫祭とはそれ以上のものだ。太陽と月の両方に、空を支配して輝くべき時がある。収穫祭は人類の時だ――次の年を勇敢に生きるための、我々の祝祭だ。我々はあまりに長く恐怖の中に生きてきた、あまりに長く、自分たちを守ってくれる外の力に頼ってきた。互いを守らねばならない。集まり――」

「待ってください」アーリンは両手を挙げて制した。「どれほどたくさんの人々を集めるつもりなのですか?」

「来る限りの多くを」 カティルダは、村の司祭の忍耐強さをもって言った。「力を合わせ、我々はセレスタスの下で集めた力を引き出す。そしてそれを通じて、平衡を取り戻すのだ」

 アーリンはかぶりを振った。怒りが爆発しそうだった。「イニストラードの夜の怪物全員に案内状を送るようなものです。一か所に多くの人間を集めるのは、襲ってくれと言っているようなものです。もう死はあまりにたくさん見てきました。あなたがどこかの本で読んだ昔話に、多くの生命を賭ける必要は――」

「本で読んだのではない」 カティルダが返答した。今や彼女は鋭い雰囲気をまとい、切り株の上に立っていた。アーリンが驚いたことに、カティルダは長身の女性だった――先程、彼女が称えた樫の木のように逞しかった。壌土のかすかな匂いがアーリンの鼻をついた――だがありえない。カティルダはグールではない。「アーリン・コード、護りを知っているであろう。守護者たちが闇を払うために学んできた内容と引き換えだ。夜明けを取り戻したいのであろう? 宜しい。だが我々が失った希望を取り戻さない限り、お前にそれはできぬ」

 「赤牙」がうなり声を上げた。「稲光」もまた。彼らの不安がアーリンの胸に響いた。この交渉を上手く進むのは無理だ。老いた魔女を見下ろしながらも、状況が変化する様子はなかった。

「その儀式はどのように機能するのか、話して頂けませんか」とアーリン。「私たち全員が殺されてしまうのではないと思いますが」

「私たち?」 魔女はそう返答し、だがその言葉に長くこだわりはしなかった。代わりに、彼女は杖でセレスタスのアーチを指した。「解決策は、先程言った通り、すぐそこにある。セレスタスを用いるのだ。その中心に据えられているのは眩い金色の錠――起動するためには月銀の鍵が必要だ。あれが何のためにあるか訝しんだことはないのか? 我々の祖先はただこれのために用いていた――昼と夜の平衡を正すために」

「ケッシグの森には、そこかしこに敵がいます」

「いかにも、炎をかき立て――」

「――希望の炎を」 アーリンが割って入った。「それで、もしそうしなければ? 別の方法を見つけられれば――」

「他に方法はない」 カティルダは断固として言った。「セレスタスが起動されなければ――そして正しく起動されなければ――夜は昼を乗っ取るであろう。幽霊、グール、吸血鬼、狼男――お前たちは我々を食し、やがて――」

「私はそんなことは――」

 だが一つの音が森を切り裂き、彼女は声を詰まらせた。粗く深い、一つの咆哮。彼女の内なる狼を目覚めさせる音。群れが応え、そして彼らの喜びを、狩りへの熱意をアーリンは感じた。

 彼女も、その咆哮をよく知っていた。初めて聞いたのは遠い昔、自室に縮こまって、自分を守るためのシンボルをじっと見つめていた時だった。そして彼女は家族から離れ、真夜中の湿った土を両手両足で駆け、全身全霊でそこへ向かった――何故ならそれは、恐怖のない世界を語っていたから。

 初めてその吠え声を聞いたのは、二十年前だった――彼女が初めて血を味わった、初めて自由を感じた夜。

 それは今もまだ、彼女の内に渦巻いていた。

 トヴォラー。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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