MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 04

サイドストーリー第2話:姉と妹

Eugenia Triantafyllou
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2021年9月10日

 

 冷えて数時間は経つ焚火の灰の中に、レノールは蛇の死骸を見つけた。小さなものだった。焼け焦げて煤だらけ、だがどうしてか形を保っていた。レノールは手を伸ばし、それを拾い上げた。

秋の君主、レノール》 アート:Fariba Khamseh

「えー……」 シニアがそう言うと、狐の仮面の鼻面が上下した。「やめてよ」

 すると、まるでレノールの手がそれに生命を与えたかのように、蛇は悶えて二又の舌をちらつかせた。悲鳴を上げ、レノールは投げ捨てた。それは灰の中に落下し、完全に止まった――まるで、決して動きなどしなかったかのように。

「そんな勇ましいことやめなよ」 妹は笑った。

 妹はいつも、いたわりを持ってからかってくる。だがレノールは笑みを浮かべられなかった。今朝、また別の家族がいなくなったという知らせがあったのだ。古からの収穫祭が今や復活し、人々に希望をもたらし、光と闇の平衡を修復するものと期待されているのに。

 ドーンハルトの集会の魔女たちは、自分やケッシグの人々に約束したのだ。「光を取り戻すのを手伝ってください」、彼らは村人たちにそう言った。彼らは頭に骸骨をかぶり、顔には泥を塗り、森に身を隠す怪物のような恐ろしい見た目をしていたが、人々は助力に同意した。「光を取り戻す」、そこかしこで人々はそう囁いた。すぐに、それはただの囁きではなくなった。約束と、祈りの言葉となった。

 だが毎朝誰かが姿を消し、昼はかつてなく薄暗く思えた。

 普段ならば、レノールに励ましなど必要なかった。家族の中でも彼女は毎朝最初に目覚め、妹と父の朝食を用意してから畑へ向かう。その後、自分たちの住む小さな村を巡回し、独り暮らしの老人たちや、何らかの不幸で――超自然的なものでもそうでなくとも――家族を失った子供たちの家を訪問した。そして彼女がその日に作った焼き菓子を与えた。人々が幸せでいるという感覚は彼女に安らぎを、あるいは少なくとも規律のようなものをくれた。

 大患期以来、その規律は乱されていた。今、夜が次第に長くなり、昼はあまりに短く終わる。冬の霜は本来の季節よりも数か月早く下り、薄いヴェールのようにケッシグを覆っていた。

 集会の長カティルダは、収穫祭が成功したならその不均衡を正せるだろうと約束し、レノールはそれ以上何も望まなかった。祝祭を監督して欲しいとドーンハルトの集会に頼まれると、彼女は魔女たちが自分に何を期待しているのかを把握した。いつも通りのことを。人々の腹を満たし、晴れやかに飾り、陽気な気分を作り上げる。その単純な仕事は次第にとても難しくなっていった。

 レノールは目の前にある無人の天幕を見つめた。収穫祭の間、きこりとその家族が中に宿泊することになっていた。ケッシグの全土から到着した旅人たちが過ごすための、同じような天幕が辺りには沢山あり、セレスタスを取り囲む空き地に散らばっていた。まだ秋だというのに、忍び寄るような冷気はこの時間には耐えがたくなっていた。

 垣魔女たちの祝福と魔除けがそこかしこにあり、当初、誰もが安全だと感じていた。最も勇敢な者は暗い空の下、分厚い毛皮だけにくるまって外で眠った。月はこれまでにないほどに大きく近く感じたが、ドーンハルトの集会の魔除けが自分たちを守ってくれているとして、祝祭の参加者たちは闇に潜む危険をさほど怖がらなかった。あるいは少なくとも、これまでは。「帰ったのかも」 レノールは呟いた。「寒さに耐えられなくなって、荷物をまとめて家に帰ったのよ」

 シニアは身震いをした。だがそれは陰鬱な天気からではなさそうだった。彼女がまとう狐の衣装は、鮮やかな赤色の楓の葉で飾られている。むしろ、珍しく奇妙な鳥が飛び立とうとしているような姿。レノールはそう思った。

「荷物が残ってるよ」 シニアが天幕の隣、小さな布の包みを指さした。夜の間に降りた霜と落ち葉の下に隠れ、見逃していたのだ。「そうじゃなくても、夜に旅するなんてことある? 私は嫌だな。戻ろ? 明日には帰ってきてくれるよ」

 もちろん、妹の言う通りだった。いなくなった家族は今週二つめで、もう一つの天幕は手つかずだった。荷物を残していくほど急ぐなんてありえない――あるいは、夜の間にケッシグの森を旅するのはもっと危険だ。

 その包みの隣には何か別のものがあった。それは小さく、曲がりくねって見えた。

「また蛇じゃなきゃいいんだけど」 レノールは目を狭めた。夜が近づくにつれて、霧は次第に濃くなっていた。

 シニアが包みへと近づき、霜と落ち葉を蹴り飛ばした。

「わ、素敵!」 シニアはそれを拾い上げた。それは祝祭の仮面だが、街の人々が収穫祭で被るものとは異なっていた。むしろ垣魔女の頭飾りに似て、精巧で、どこか不安にさせられた。だが意味がわからなかった。行方不明の家族とは魔女ではなく、木こりとその妻なのだ。

 その仮面は鱗を固めて作られており、深い金色をしていた。魔女たちの頭飾りのほとんどと同じように、その上には棒が何本も取り付けられていた。ただ陽光や月光を模したものではなく、むしろ漆喰でできた蛇が伸びているように見えた。仮面の両目の下からは、長い木の牙が二本突き出ていた。

「それ置いてよ」 レノールはそう言った。シニアは姉を一瞥したが、それは誰かの持ち物を手にしているのは良くないと思っただけのようだった。たとえその持ち主が――

 何かがおかしい。レノールは妹に向き直った。「わかるよね、今のうちにここから離れないと。戻らなきゃ」

 シニアは狐の仮面を外し、新たなそれを被った。その様にレノールはひるんだ。

「あの人たちに何があったかわからないんだよ」 レノールはゆっくりと言った。「それにお父さんはずっと疑ってる――」

 彼女は言葉を切った。母の件を持ち出す意味はなかった。呪い黙らせ――多くの狼男を癒したあの呪文――が破れた際、怪物たちは血の飢えと獣の本能に我を忘れた。例外はなかった――彼女たちの母を含めて。けれど母は自分たちが知る限り、誰も傷つけることなく森へと消えた。それが小さなひとつの救いだった。そのため、母は熊に殺されたと偽るのは簡単だった。村人たちは哀れみからそう信じているふりをしているだけだとしても。

 シニアはかぶりを振った。「お姉ちゃんは、自分のお祭りを台無しにする人はいらないってだけでしょ」

 レノールの顔が熱くなった。「その仮面外してよ」

 だがシニアはそれを無視した。彼女は仮面の飾り紐を黒い巻き毛にきつく結び、小さく振り回した。「これを残してった人たちは、取り戻しには戻ってこないと思うよ」

 レノールはその仮面に嫌悪感を抱いた。シニアが勝手にそれを被ったからというだけではない。不安を感じた。その目をまっすぐに見つめたくなかった。その目。シニアの目。その奇妙な考えを彼女は振り払った。落ち着かない、それだけ。あの魔女たちの儀式と同じ。

「カティルダさんに話させて」レノールは声を和らげた。妹は時に頑固だが、最後には耳を傾けてくれるものだ。「あの人なら力になってくれるかも。だからお願い、その仮面外してくれない?」

「いいよ」 シニアはその仮面を外し、狐のそれを再び被った。彼女がそれを、そしてレノールは自分の鹿の仮面を作った。それは姉妹の自慢だった。「けどここの人たちが戻ってくるまで、私が持ってるからね」

垣魔女の仮面》 アート:Ovidio Cartagena

 人々の失踪に、カティルダや集会の者たちが関わっているとは思っていなかった。あの女性の目には、信頼できる何かがあった。確かに奇妙な人たち、けれどそこに問題があるだろうか? 魔女たちは長いこと世間から離れており、そのためその儀式が謎めいているのは自然なことだった。自分たちの魔法を、誤った手に渡したくなかったのかもしれない。そして彼女たちの力を考えるに、それはもっともだと思った。レノールは魔女たちが身振りひとつで木々を割り、地面から水を湧き出させて皆の喉を潤す様を見ていた。

 だが別の思考が心に忍び寄った。集会の他の人々がカティルダのように無害でなかったなら? あの魔女は、起こっていることを本当に統制できているのだろうか?

 それは視界の端に再び滑り込んだが、今回のそれはただの記憶だった。昨晩、霧の中に何かがあった。今なお、辺りのそこかしこにその圧迫感があった。まるで頭上を飛んでいるような――分厚い樹冠のどこかに隠れているような――そして枯葉と霜をまとって足の下で動いているような。レノールは身震いをし、何もないと自らに言い聞かせようとした。明日、まだ祝祭は続く。賑やかで楽しい表情をしていなければ。


 街では、あらゆる道が教会に通じている。あるいは人々のそんな言葉をレノールは聞いていた。スレイベンのような地へ旅して、ケッシグの全ての家を合わせたよりも大きな建物を見てきた人々の言葉を。

 ウルヴェンワルドでは、あらゆる道はセレスタスに通じている。その構造物の黄金の輝きは枝と群葉を貫いていた。金属の輪は頭上の梢に届くだけでなく、それを突き抜けていた。夜に自分の天幕の中で横たわると、その輝きが見えた。

 その機械の周囲で、人々はあらゆる類の商売のために天幕と露店を立てていた。寒気ですら、貨幣への健全な食欲を止めることはできなかった。祝福を受けた武器が貴重な家宝と、毛皮が革と、薬が魔法の巻物と交換されていた。この巻物は読んだ者を守ってくれる、商人はそう請け負っていた。レノールがもっと無知であったなら、その言葉を信じていたかもしれない。彼女は魔女たちの手による本物の魔法を見ていたが、その巻物は全くそれらしい感じがしなかった。

 昨晩以来、森の中で眠るのは安全でないと感じた人々はセレスタスの近くに移動していた。彼らは自分たちの天幕を他のそれらの間に立て、兎のように寄り集まっていた。光と群衆が、護られていると彼らに感じさせてくれたに違いない。大気には今も笑い声と音楽がこだましていたが、今その集まりの中には何か狂気じみたものがあった。全てが何か痺れ、鈍ったように感じられ、人々の肩には氷の手のように白霜が降りていた。

 レノールは最善を尽くして仮面の上からでもわかる相手に挨拶し、わからない相手も歓迎し、幸運を祈って生木の枝を差し出した。シニアは背後に数歩離れ、姉にならって微笑んだ。だがレノールは妹が足を引きずる音を聞いた。

 セレスタスの中心、高段の上では、カティルダと集会の者たちが儀式のひとつを執り行っていた。豊富な食物とビールと明るい蝋燭を用意し、彼女たちはごく単純にそれを開始していた。踊りと歌はむしろ咆哮のように響いたが、町民たちが気にした様子はなかった。レノールを含む彼らの多くは、自分たちが咆哮しているように感じた。

 だが最初の数日を過ぎると、彼女たちの儀式は次第に奇妙なものになっていった。かがり火の中、獣じみた姿が魔女たちと共に踊っているように見えた。祈り文句を発するためにその女性たちが口を開くと、黒い泥の塊がその歯に貼り付き舌を汚していた。グリン・ダヌーの接吻、彼女たちはそう呼んでいた。

 日が過ぎるごとに、カティルダの衣装も更に仰々しくなっていった。今日の彼女は、草の肩当てと太陽の栄光を表す巨大な頭飾りを身につけ、飾り紐と何かの獣の牙でできた網状の首飾りをかけていた。真紅の線が二本、血の涙のように目の下に引かれていた。

 シニアを背後に残し、レノールは足を速めた。

ドーンハルトの再生者》 アート:Darren Tan

 高段の上、集会の円の中央には歯が積み上げられていた。レノールが近づいて見ると、全くもって獣の歯のようには見えなかった。

 どう見ても人間の歯だった。

 気分が悪くなった。魔女たちは小声で祈祷を囁きながら、それらの歯を首飾りに繋げて魔除けのようなものを作り、人々へと手渡した。ある者は躊躇し、純粋な嫌気とともに互いの顔を見合わせた。ある者はその首飾りを掴むと急いでポケットに突っ込み、魔女たちの足元に唾を吐いて立ち去った。

「これは何なんです?」 レノールはかろうじてそう尋ねた。

 カティルダが作業から顔を上げた。その表情には驚きがあった。

「歯だ」 率直に彼女は言った。「狼男のな」

「狼男の歯には見えません」 全員の目が自分に向けられるのをレノールは感じた。彼女は群衆を眺めてシニアを探したが、その姿は見えなかった。

「そうだ」 カティルダはわずかに怒ったように、大きく腕を振った。「彼らは死ぬと人間の姿に戻る。だが狼の要素をまだ持っているのだ」

 レノールは母のことを考えないよう努めた。代わりに妹へと、村にいる父へと、高段に集まった人々へと思考を移した。自分は村人たちに希望と光をもたらすことになっている。だがここにいながらも、全ての光が身体から離れていくように感じられた。

 何か言わないと。何でも、けれど何を言えばいい?

「魔女!」

 その声だけでレノールは誰なのかがわかった。ジャッガーは村で一番声の大きな罠師だった――罠師にはあまり相応しくない資質だ。どれほどの人数が同意しているかどうかはともかく、彼は自分が重要人物だと、ここに集まった全員の首領だと思い込んでいた。一歩ごとに彼はガタガタと鳴っているようだった。その音は彼が身に着けた数えきれない数の魔除けから来ていた。ただでさえ長身の男だが、彼は雄牛の歯、ルーン、祝福された銀――あるいはそう言い張るもの――それらを毛皮のコートの上に飾り、群衆の中で際立っていた。うるさく、怒りっぽい男。物事を悪化させるだけの人物だった。

「それはいなくなった村人から盗ったのか?」

 レノールの胃が締め付けられた。数日前だったら、彼女はわずかな疑いもなく、魔女たちを擁護していただろう。だがどれほどジャッガーに呆れた目を向けようとも、彼が間違っているという確信はなかった。完全には。

「いなくなった?」 別の魔女が尋ねた。まるでその知らせが全員には届いていなかったかのように。

「我々は敵ではない」 カティルダが高段から降り、ジャッガーに対峙した。「収穫祭は魔女たちだけでは成功できない。共に行わねばならぬ」

「何も言わない奴を信用できるか」 ジャッガーが吐き捨てた。「お前は俺たちをここに連れて来た、手助けして欲しいと言って。だが何も教えちゃくれない」

「魔女を信用するな! いなくなった家族はどこだ!」 あらゆる所から声が上がった。彼らは返答を求めていた。村人たちは次第に落ち着きを失い、怒りで爆発しそうになっているのがわかった。彼らは救いを求めてここに来たというのに、イニストラードのあらゆる場所にあるものと同じ闇を見ただけなのだ。

「ちょっと待って!」 レノールはジャッガーへと叫んだ。「この人たちは何もしてないよ。証拠もないでしょ」

 ジャッガーはあざ笑いながら歯の山を示した。「証拠? これで足りないのか?」 そしてそれをさらすように身振りをした。「次はなんだ? 死人の肉を食わせるのか?」

「この人たちは私たちを助けてくれようとしているのに」 レノールの努力は空しかった。彼女の心は別の所にあった。シニアは何処に?

「人を生け贄に捧げてな!」 ジャッガーはカティルダへと迫った。印象的な頭飾りを含めても、ジャッガーの方が長身だった。彼は腕の一振りでカティルダを払いのけ、その魔女と集会の者たちが身構えるのをレノールは感じた。

「誰も生け贄になんて捧げてないよ」 シニアだった。その声はどこか近くから聞こえてきた。

 レノールは辺りを見たが、妹は見つけられなかった。秋色をした幾つもの仮面の中、あの狐の仮面は見つからなかった。けれど彼女は確信していた、今のは妹の声だと。

 群衆の中、レノールは赤と橙の葉で飾られたシニアの衣装を見つけた。その長い巻き毛は、妹がこちらに向かってくると左右に揺れた。少なくともそれらは同じままだった――妹はもう狐の仮面を被っていなかった。その場所には、あの新しい仮面があった。

「生まれてこのかた、森には危険なんて全然ないみたいに言うのね」 シニアは高段に昇っていった。

 誰もが動きを止めた。ジャッガーとカティルダさえも。まるで誰かが全員に呪文を唱えたかのように、その場の怒りは弾けた時と同じように素早く収まった。

「あの人たちをさらえるようなものは沢山いるわ。闇には飢えたものが沢山潜んでる。復讐に燃える霊、吸血鬼、グール、狼男」

 今や、群衆からは同意の声が上がっていた。全員が歯の山を見つめていた、まるで初めてそれを見たかのように。彼らの目は焦点が定まらず、だがシニアの言葉に耳を澄ましていた。まるで今重要なのは彼女だけであるかのように。レノールは疑念とともに妹を見つめた。不意に、説明できない恐怖に胃袋がうねった。

「いずれにしても、死人が出たからには大人しくした方がいいわ。闇が大きくなっている間は、何もできない。光を取り戻すのよ」 シニアが浮遊する蝋燭を示すと、それらの内から新たな火花が生まれ、眩しく燃え上がったように見えた。

「光を取り戻せ!」 群衆は叫んだ。

 誰かが手を叩いた。群衆の背後のどこかから音楽が上がった。ジャッガーは口を開きかけたが、もはやカティルダも集会も、誰も彼を見ていなかった。村人たちはシニアを取り囲み、崇敬とともにその両手に触れ、彼女を仲間へと、音楽へと、踊りへと徐々に引き込んだ。

 誰もが楽しみ、希望に満ちていた。まるで初日のように。寒さですら少し薄らいだように思えた。

 だとしたら何故、レノールは恐怖に震えているのだろう?


 その夜ようやく自分たちの天幕に戻ると、シニアはある罠師がくれた毛皮をレノールへと投げてよこした。彼女は今もあの仮面を被っていた。

「温まりなよ。まだまだ何日も続くんだから」 妹はそう言った。

 レノールは寝具の隅から動かなかった。あの仮面が自分を見るたびに、自分たち以外に別の誰かがこの天幕にいるような気がした。仮面ではない。シニアが。シニアが自分を見るたびに。

「シニアさ、帰った方がいいって言ってたよね」 レノールはそう呟いた。

 シニアは衣装を脱いだ。枯葉の破片が地面に落ちた、まるで蛇が脱皮するように。仮面は被ったままでいた。妹がレノールの顔から数インチの所にうずくまると、その息からは死んだものの、灰の、錆びの匂いがした。「もう帰る気なんてないよ、お姉ちゃん。今日ね、『渦巻くもの』が話してくれたの」 その声は深く、かすれていた。まるでここではないどこかから届いたように。他の誰かから届いたように。妹が微笑むと、レノールはその歯の間に二又に分かれた舌を見た気がした。「光はイニストラードに戻ってくるよ」

 前夜にレノールが感じた圧迫感が、更に悪化して戻ってきた。

「お姉ちゃんも感じる?」 まるで自分自身のことのように喜びながら、シニアが尋ねた、「『渦巻くもの』がやって来るよ」

 天幕の中の不可解な存在によって、レノールの肺から息がしぼり出された。心が霞がかった。頭上で木々の葉がかすかに揺れた、まるで何かが隠れているかのように。再びシニアを見ると、彼女は仮面を被ったまま寝具の上に動かず横たわっていた。眠ってはいない、それは確信していた。むしろ、眠ったふりをしているようだった。


 あの仮面を見つけてから二晩が経過した。この夜、靴で蛇を踏み潰したのは十度目だった。それは人の指のように小さく、茶色で、これまでに見たものと同じく胆汁にまみれていた。それは靴の下でわずかに悶えたが、それだけでも彼女はひるみ、そして蛇は動かなくなった。もう慣れたと思ったが、そうではなかった。普通の蛇ではない。

 この数日、どういうわけか参加者の目には、収穫祭の君主はレノールではなくシニアの役割として映っていた。彼女は注目を浴びていた。誰もが夜に最初に点されたランタンの光のように、昼の太陽へと乾杯するようにシニアを見た。かつてないほど堂々としているだけでなく、彼女は人々に奇妙な影響を及ぼしていた。あの仮面を被った彼女へと、人々はレノールどころかカティルダよりも遥かに熱心に耳を傾けた。妹を知らなかったとしたら、シニアは魔女の一人だとレノールは断言しただろう。とても強大な力を持つ魔女と。

 シニアの性格の変化は不自然だったかもしれないが、今彼女が人々に行っていることに比べれば何でもなかった。それを初めて見た時、レノールは恐怖した。妹は誰かの額に触れ、何かを小声で呟いた。するとその村人は息を詰まらせ、白目をむき、のたうつ小さな蛇を吐き出した。悪夢のようだった――それでも他の者たちは、蛇が吐き出されるごとに新たな祝福があると喜んでいるように見えた。

収穫の宴》 アート:Eelis Kyttanen

「光を取り戻せ!」 その叫びが群衆から上がった。彼らの表情はひどく野蛮な喜びに歪んでいた。その様子に、レノールは村人へと狼男以上への恐怖を覚えた。何が自然で何が呪われているのか、もはやわからなかった。レノール自身がどちらなのかも定かでなかった。

 姉としての全力を尽くし、レノールは妹を正そうとした。呼びかけ、父に言うと脅し、自分たちの天幕に連れ戻そうとした。だがもちろん、その度に村人たちが割って入った。人々の波が押し寄せて妹を取り囲み、更なる奇跡を、更なる蛇を願った。更なる光を。彼らにとってシニアは今や君主というだけではなかった。救い主だった。山羊飼いの一団がその夜に姿を消したが、この時は誰も心配したようには見えなかった。大丈夫だとシニアが言ったなら、そうなるのだった。

 レノールは妹をこれまでになく必要としたが、彼女の知るシニアは消えてしまった。この夜レノールが最後に一瞥した時は、カティルダがシニアに集会の頭飾りを差し出し、仮面との交換を持ちかけていた。その頭飾りはねじれた棒ではなく鹿の角が取り付けられ、血と泥と歯の混ぜ物が塗りつけられていた。レノールはあまり近くにはおらず、ふたりの会話は聞こえなかった。だがシニアはカティルダをあざ笑い、背を向けて去っていった。

 レノールは自分たちの天幕に戻ると、まず毛皮の下に隠れ、待った。シニアは何かしようとしている。あの仮面を見つけてから毎晩、妹は寝具から出て、朝の光が弱く天幕に差す頃にようやく戻ってきていた。そう待たないうちに、誰かが凍った落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。空気の動きから彼女はそれがシニアだと察し、息を止めた。彼女はきつく身体を丸め、毛皮の中で可能な限り自らの存在を消そうと努めた。

 シニアは天幕に入ってくると、まっすぐに自分たちの寝具へと向かってきた。レノールは目を閉じていたが、妹が自分を凝視する雰囲気を察した。彼女は呼吸を平静に保ち、表情からは力を抜き、鼓動が自分を裏切らないよう祈った。その苦しい時間はほんの数瞬だったが、数時間にも思えた。レノールがぐっすり眠っているとシニアが確信すると、彼女は天幕から出ていった。そしてレノールは毛皮の下でゆっくり動くと起き上がった。服は着たままだった。

 夜の中、レノールはシニアを追った。レノールが置いてきたのは自分の仮面だけだった。


 妹を追跡するのは思ったよりも困難だった。シニアが高い木々の中に姿を消すのを待ち過ぎたのかもしれない。そして今、彼女は見失ってしまった。レノールは凍りついた下生えの中をしばしうろついた。届く光はかすかに見えるセレスタスの淡い輝き、蝋燭、そして時おりのランタンのそれだけだった。

 その時、再びあの這うような音を聞いた。それが何かはともかく、眩暈がするようだった。感じるだけではなく、今や耳で聴けるほどにはっきりとしていた。それは遠くからだったが、この数日聞こえていたものと同じなのは疑いなく、北西の方角、森の中心から聞こえてきていた。レノールは乾いた唇をなめ、その音を追った。

 そう経たないうちに、彼女は五つの天幕からなる小さな野営地にやって来た。恐らくここに集まっている独り者たちのものだろう。近づくよりも早く、誰かがごぼごぼと息の音を立てるのが聞こえた。まるで顔が水に突っ込まれたかのような。恐怖が、助けたいという欲求と戦った。レノールがある天幕の背後に身を隠すと、二つの人影が遠くに現れた。一つは妹、シニアの影だと彼女は確信した。暗闇でも、彼女の仮面はわかった。だが二つの影が立つ様は、まるで意味がわからなかった。まるでシニアがひとりの男を喉元で掴んでいるようだった、アライグマの死体を掴むように軽々と。彼女はそれを落ち葉と白霜の上に引きずりながら、小さな野営地から離れて森の深くへ向かっていった。

 彼女はそれを追い、分厚い枝の梢に覆われた奇妙な空き地にやって来た。妹がその男を引きずったまま空き地の端の丸い岩に近づいていくと、レノールは歩みを止めた。

 違う、岩ではない。卵。

 それは少なくとも、妹が運んできた男や、横に座って並ぶ他の者たちに負けないほど大きかった。彼らは淡い緑色にきらめき、小さな光球のように闇の中に輝いていた。シニアがその卵に触れると、その場所から卵はまるでひどく硬い花のように開いた。レノールがぞっとしたことに、彼女は意識のない男をその中に押し込んだ。卵は男に向かって閉じ、子宮のように包み込んだ。

 レノールは動こうとしたが、四肢が鈍く重く感じた。膝をついてしまわないようにこらえた。そして遅まきながら、妹は一人ではないとわかった。その大きすぎる卵の影の中に、ひとりの女性が立っていた。仕草ひとつで、彼女はシニアを立ち去らせたように見えた。レノールが思うに、次の犠牲者を運んでこさせるようだった。

 誰かに肩を掴まれるのをレノールは感じた。彼女は叫ぼうとしたが、息が口から出るよりも早く手で塞がれた。耳に、聞き覚えのある声が厳しく囁いた。「動くな。あの女がこっちに来る」

 カティルダは影の中の女性のことを言っている、一瞬レノールはそう思った。だがそうではなくカティルダは静かな決意とともに杖でシニアを示した。森の端が不自然な光にくすぶり、カティルダの杖が殺意のエネルギーを帯びはじめるとレノールは顔に熱を感じた。何も考えず、レノールはカティルダの手に噛みついた。魔女は苦痛に声をあげ、杖を手放した。

「馬鹿者め!」 カティルダは下生えに屈みこみ、うめきながら杖を探った。「私は皆を救おうとしたのだぞ?」

 その時だった。両目を緑色に輝かせながら、影の中の女性がこちらに向かってきた。

バイパーの牙、サリス》 アート:Igor Kieryluk

「カティルダ」 その声は楽しんでいるようだった。「お前か?」

「どうしてあの人を狙わなかったんですか?」 見知らぬその女性を示しながら、レノールが叫んだ。

「仮面をまとっているのはサリスではない」 カティルダは杖を拾い上げた。「お前の妹だ。サリスの力はすべてその仮面の中にある。シニアはそれに食われた。今、救うすべはない」

 足元の地面が震えはじめて揺れ、レノールは立ち続けようと奮闘した。まるで酔った踊り手のように、木々の梢が大きく揺れるのが見えた。

「何が起こってるんです?」

「『渦巻くもの』だ。サリスは闇を払うためにそれを呼び、この数日間、魅了した町人たちを食わせていた」 カティルダは苦々しく笑った。「もっと早く気付くべきだった。あの女は我々全員を殺そうとしている」

 妹へと向かうように地面が割れ、まるで傷の中の血のように黒い土が露わになった。レノールは駆け寄りたかったが、歩くどころか立ち続けることすら困難だった。地割れが達すると、土も木々もそこに落ちて視界から消えた。すぐに、シニアが立つ場所から数インチの所に大穴があいた。

 あの卵は更に眩しく輝き、サリスと呼ばれた女性は杖を掲げ、レノールとカティルダに狙いを定めた。

「時が来た!」 サリスがそう叫んだ。

 レノールの目の前でエネルギーの光線が閃き、一瞬、緑色が視界を埋め尽くした。遠くないどこかでシニアが悲鳴を上げたように思い、そして絶望の波が彼女を打った。もしあの穴が妹を呑み込んで、もう間に合わないとしたら?

 視界が晴れると、それが――あるいはその一部が――穴から現れようとしていた。鱗の皮膚が壁のように、妹の目の前で悶えていた。レノールは唖然としながらその全てを把握しようとしたが、できなかった。どれほど首を傾げても、人間の目ではそれを理解することはかなわなかった。胸にむかつく感覚が昇ってきた。彼女は動けず、恐怖に筋肉が凍り付いていた。

「あれを見るな!」 カティルダの叫びが聞こえた。「話を聞け。お前の妹が仮面を被っている間に食われたら、全員が破滅する。お前の手が必要だ」

 カティルダはサリスの魔法で負傷し、腕を掴んでいた。袖が破れた箇所から酷い傷が見えた。衣服は血に濡れ、その下の肉から膿が滲んでいた。

「シニアを殺さねばならない。あの仮面は自然に外れはしない」

 レノールはまっすぐに前を見据えた。身体じゅうの筋肉が張りつめた。

「妹には触らせません。私があの仮面を外します」

「レノール、お前の妹はもういない!」

「試させてください。サリスの目を逸らしてもらえますか」

 カティルダは頷いた。

「機会は一度だけだ」 カティルダが杖を掲げると、その先端から緑色の火花が飛んだ。

 レノールは揺れる地面の上を進み、妹へと近づいていった。その生物を見上げると、幅広の黒い目が鱗の表面から現れた。ありえないほどに巨大だった。

 あれを見たら駄目。冷静になって。

 レノールは妹の腕に触れ、揺さぶって我に返らせようとした。シニアの手は氷のように冷たく、その両目は眩しく恐ろしい光に燃えていた。その輝きは、計り知れないほど古いものに見えた。仮面の目を通して彼女がレノールと目を合わせると、そこに恐れはなく、法悦だけがあった。

 だがレノールが更に近づくと、シニアの唇から微かな囁き声が漏れた。

「助けて」

 地割れから深い振動が届き、まだその生物の口を見ていなかったとレノールは気付いた。彼女はシニアの冷たい腕を掴み、強く引いた。シニアは逆らわずに従った。すぐ背後で地面が崩れるのを感じながら、二人は木々へと走った。視界の隅で、サリスが杖をカティルダに定めているのが見えた。飢えた蛇のように、木々から蔓が勢いよく弾け出て、垣魔女の喉に絡みついた。カティルダは自由な方の手を掲げ、すると地面から岩が弾け、鋭い先端がサリスを襲った。レノールが向かっていた立木をその一本が裂き、彼女はシニアを連れて跳びのいた。

 カティルダは立ち上がり、サリスに対峙した。不気味な囁きに応えてひとつの突風が木々をむち打ち、落ち葉が集まって剃刀のように鋭い刃のようにうねり、サリスへと襲いかかった。深い切り傷を少しでも防ごうと彼女は体勢を変え、そのためにふらついた。サリスは持ちこたえて反撃する、しばしレノールはそう思った。サリスの杖が再び魔力に鳴った。だが彼女は周囲のそこかしこに口を開く地割れを忘れていた。左足が固い地面ではなくそのひとつに踏み入った。

 サリスの目が驚きに見開かれ、何かを掴もうと必死に腕を広げ、手から杖が落ちた。だが掴めるものはなく、蔓もなかった。一瞬で、サリスの姿は消えた――その裂け目に飲み込まれた。

 レノールがシニアを掴むと、妹は自分の腕の中で弱弱しく震えていた。仮面は彼女の皮膚に融合したかのように見えた。レノールはそれをはがすために端を見つけようとしたが、始まりも終わりもなかった。

 巨大な蛇が動くと、再び地面が揺れた。それが動く様は世界の終わりのように感じ、そしてそれはシニアに迫りつつあった。遠く、遥か遠くの頭上で、『渦巻くもの』はそこかしこの裂け目のように大きく口を開け、姉妹を呑み込もうとしていた。

 シニアを殺さねばならない、カティルダのその言葉がレノールの心にこだました。地割れの向こうのどこかにあの魔女がいるのがわかった。妹の表情はとても穏やかで、それが彼女を不快にさせた。こんなにも安らかな顔をした者を見たことはなかった、怪物のような生物が近づいているというのに。シニアは今も何かを囁いていた。これが終わりだと確信し、レノールは妹の言葉を聞こうと身体を寄せた。

「剥がして……」

 レノールは片手を仮面へと伸ばし、妹の皮膚に触れた。あるいは皮膚と思われるものに。何も考えず、彼女は力一杯引きはがし始めた。爪がシニアの頬に沈み、初めて彼女は悲鳴を上げた。

 上手くいってる!

 彼女は強く引っぱった。

 まるで湿った紙のように、仮面は剥がれはじめた。『渦巻くもの』の湿った息が頭上に熱く、巨大な頭部が曲げられて近づくと、凄まじい腐敗臭が届いた。

 もう少し。

 シニアが叫んだ。あるいは叫んだのは蛇だったのだろうか?

 仮面がはがれると、それは棒と葉で作られた固い物質に戻った。シニアの顔は赤く腫れ、元の面影はほとんどなかった。だが妹の両目からあの恐ろしい輝きは消えていた。

「シニア?」 妹の様子を探り、レノールはきっかり一分間見つめた。

「ありがとう」 シニアの声はかすかだった。彼女は数度瞬きをし、そしてレノールを見定めた。

 そこに大嵐のような音が割って入った。サリスが放った巨獣が、原初の怒りの吠え声を上げたのだった。レノールは反射的に耳を覆ったが、それは苦悶の呻きのようだった。それは文字通りに退いていった――下へ、下へ、それが来た地割れの中へ。最後にひとつ息の音を立て、『渦巻くもの』は身体を大地の深みへと引きずり、卵と取り囲む群葉を持ち去った。最後に地面が一度だけ揺れると、レノールとシニアにその姿は見えなくなった。

 レノールは仮面を手放した。それが洞窟のように開いた穴へ落ちていく中、彼女は残された全力で妹を立たせた。そしてカティルダと共に、姉妹はあの野営地へと身体を引きずって戻った。森のあちこちから騒音が聞こえていた。呼び声、悲鳴、そして幾らかの笑い声すらも。

 すぐに三人はよろめき歩く者たちを目にした。どうやってここに来たのか、今日は祝祭の何日目か、彼らは彼ら同士で訝しんでいた。ドーンハルトの集会の人々が、彼らをそっとセレスタスへと導いていった。誰も蛇を吐くことはなく、下生えにもその姿はなかった。足元にあるのは落ち葉と霜だけだった。誰も覚えていないらしく、森を揺らした耳障りな騒音について尋ねる者は一人もいなかった。失踪者がこんなに沢山いなければ、全く何も起こらなかったようだった。

 だがそうではないとレノールはわかっていた。そしてシニアの表情を見るに、妹は今夜何が起こったかを永遠に覚えているのだ。収穫祭の参加者たちに取り囲まれる寸前、レノールは振り返って森の中を見た。かすかに感じるだけだった――木々のさざめき、地面の下、まるであの存在が通り過ぎていったかのように。

 収穫祭の君主は身震いをし、そして立ち去った。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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Innistrad: Midnight Hunt

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