MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 09

メインストーリー第5話:夜来たる

K. Arsenault Rivera
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2021年9月29日

 

「森では気をつけて動け、アーリン」

 父の声は強く堅固、だがわずかに軋むものがあった――樫の枝がその重みで割れるような。父は仕事場に立って――今、彼女にはその姿がはっきりと見えた――自らが手がけた品々に取り囲まれていた。ランタンに蛾が群がるように、壁を聖印が覆い尽くしていた。父は顔を上げはしなかった。

 瞬きをすると、その姿は消えていた。

 年月が経ち、多元宇宙を旅し、アーリンはようやく故郷に帰る勇気を持てた。「大岩」と「稲光」はその行動の重みをわかっていた。そして言うまでもなく、もしも人間の両親に拒否されたとしても、少なくとも自分の群れがあるのだ。彼らの存在は不変で、その忠誠は得難いものだった。彼女は導き、彼らは関係をくれた。そこには強さというものがある。

 そうして、彼女は古い鋳造所に向かう坂を上っていった。

 だが、そこには何もなかった。残骸だけがあった。黒焦げの基礎が地面から突き出ていた。子供の頃に落書きをした一枚の壁が残っていた。

 村人たちは彼女がわからず、何があったのかを語りたがらなかったが、アーリンはやがて突き止めた。

 火事だ。鋳造所で何か事故があったに違いない。家は全焼していた。何ということだろう、助けられなかったとは。

 瞬きをすると、現在に戻っていた。

支配を懸けた決闘》 アート:Ryan Pancoast

 目の前にトヴォラーがいた。姿がどれほど変わろうとも、その両目は変わりなかった。燃え上がり。素早く、焼き印のように眩しい。彼は歯をむき出しにした。笑みだ、彼女はそう思った。

 これが初めてではなかった。何年か前、仲間たちが取り囲む中で対峙した。彼女はトヴォラーを殺そうとしたができなかった。彼はアーリンを引き留めようとしたができなかった。彼は白鹿の皮をまとっていた。あの戦いで駄目になったのをかすかに覚えている。怒りにまかせ、肩からそれを引き裂いたのだった。彼女も同じく、あの時は怒り狂っていた。

 だが、今ほど怒り狂ってはいなかった。

 アーリン・コードは、トヴォラーの顔からその笑みを拭い去ることだけを考えた。

 前へ。力強い両脚が彼女を宙に舞わせ、顎は彼の喉に噛みつこうとした。だがそうはならず、顎は上腕にかろうじて防がれた。それでも口の中を血が満たした――濃く、豊かな金属臭。アーリンの鼻孔が燃えるように熱を帯びたが、トヴォラーは身をよじり、彼女の動きを利用して地面に投げ飛ばした。

 だが飢えた狼はそう長く倒れてはいない。後ろ足が地面につくと同時に体勢を立て直し、アーリンは再び彼へと迫った。

 彼は両腕を大きく広げた。それとともに胸に走る傷が動いた。瞬きをすると、彼の毛皮に白いものはなく、傷は赤い、とても赤い血を流していた。

「帰ってこい」 彼はそう言った。

 あの時、そう言った?

 それは問題ではない。

 咆哮が喉から放たれた。彼女は再びトヴォラーに向かい、鉤爪を振りかざした。胸と腕の筋肉が張りつめた。

 彼は動かなかった。鉤爪は毛皮と肉を引き裂き、かきむしって傷を与え、それでも彼の笑みは消えなかった。どうしてそんな?

 考え込む時間はない。トヴォラーが突進し、腰に体当たりをした。彼女の肋骨が軋み、折れそうになった。すぐに離れる気はなさそうだった。アーリンは地面に足を深く突き立てた。トヴォラーが自分を持ち上げようとしているなら、そのためには多くを諦めねばならない。ここからなら、背中に攻撃を浴びせられる。トヴォラーの毛皮に血が川のように流れ、新たな傷を与えるたびに彼女は野生の奈落の深くに追いやられた。

 それでも、彼がアーリンを止められないように、彼女もトヴォラーを止められなかった。傷を三つ与えたところでアーリンは持ち上げられ、割れた木の幹へと叩きつけられた。蝋燭が舞い、またその衝撃で倒れた。木の長い裂け目を炎が舐めた。

 こちらを抑えつけておけると思ったなら、愚かというものだ。木の塊が肩に刺さろうとも問題ではない。アーリンは幹の一端に足をかけ、肩はもう一端に合わせた。うめき声をひとつ上げ、彼女は抜け出した。そしてその木を裂くと、トヴォラーの脚に突き立てた。

 それでようやく、彼の笑みを消し去ることに成功した――大きな咆哮が祝祭の場に満ちた――戦いの混沌を引き裂くほどのひとつの咆哮が。巨大な手を震わせて彼がその木を掴んだ。小さな満足とともに、アーリン・コードの獣の部分は悟った。彼の存在を揺さぶったのだ。

 勝利は長く続かなかった。歯が彼女の肩に沈み、体重が押しつけられた。一度に把握すべき物事は多すぎた。アーリンは倒れ――死んだ衛兵から外れた兜で頭を強打した。耳が鳴った。一瞬、何も聞こえなくなった――祝祭の参加者たちが逃げ惑う悲鳴も、エーデリンが叫ぶ命令も、チャンドラの炎の咆哮も。

 そして自分に迫る狼たちのうなり声も。

 何と見慣れた顔だろうか! 狩りの最中に、何度となく見た顔だった。「赤牙」はその名の通り、首周りの毛を逆立てていた。足元には「大岩」がいた。「稲光」は既に傷ついた彼女の肩にしっかりと噛みついていた。遊びながら何度となく見た鼻面は、今や捕食者の恐るべき存在をもってのしかかっていた。

 そして再び、トヴォラーが迫った。

 彼女は立ち上がろうとした。眩暈によろめき、すぐに肩が裂けそうに痛んだ。吐き気が喉に上ってきた。

 トヴォラーの口元が動いた。何を言っているかは聞き取れなかった――耳鳴りが教会の鐘のようにうるさかった。

 何と奇妙な教会だろう。聖歌は悲鳴、焚かれた香は戦場の悪臭。

 彼女は目を閉じた。

 スレイベンの大聖堂。ウォリン司教が座していた。『世界は暗闇の中に生まれ、世界は暗闇の帰還を願っている。だからこそ、我々は自分たちの光を点し続けねばならない』

 彼女を大魔道士の座に推薦したのはウォリンだった。

 司教様は今の自分がわかるだろうか? 彼の幽霊は今の自分を見てもわかるだろうか?

 耳鳴りが収まった。トヴォラーの語り――それはまるで別の部屋から聞こえてくるようだった――だがそれ以上に、自分の狼たちの声が聞こえた。いつもならば、次の食事へと導く低い吠え声。

 だが、その吠え声とは少し違わないだろうか?

 彼女は再び目を開けた。

 そこにトヴォラーはいた、脚から木の塊を引き抜きながら。血がアーリンの鼻面にしたたり落ちた。

「帰ってこい……」

 ここは帰るべき場所ではない。

 アーリンは再び身体を起こそうと、彼に頭突きを喰らわせようとした。だが「大岩」の歯が沈みこみ、彼女を押し戻した。

「戦う必要はない」 トヴォラーが言った。

 天使よ。アーリンは嘔吐したかった。舌で鼻面を舐めた。頭を負傷したことで、かえって狼の言葉が理解しやすくなっていた。

「狩りに加われ。これこそがお前だ。わからないのか? もう隠れる必要はない」

 今、トヴォラーは片手を差し伸べていた。それを払いのけたくてたまらなかった。彼は自身を制御できるが、そうしないことを選んでいる。その態度の全てがそう示していた。だからこそ、狼の姿でも何とか喋ることができるのだ。

「教会はお前の内にある狼を嫌っている。だが俺は違う。群れは違う」

 そしてその時――神聖な意志がそれをもたらしたのかもしれない――アーリンは何かに気付いた。

 「根気」は群れ仲間とともにいなかった。

 アーリンは吐き気をのみ込んだ。そうすれば……そう、確かに「根気」の匂いが近づいているのがわかった。戦いの中心の血と汗に匂いに比較すれば微かだが、そこにあった。アーリンの視界は今も揺れていたが、それでも目をこらして見れば――

 いた。消えゆく陽の光の中、「根気」は自分を待っていた。他の狼たちからは離れて、アーリンの右手がかろうじて届かない場所に。だがその一瞬、互いの目が合った。「根気」は大股で近づいた。

 トヴォラーはなおも強要していた。「帰ってきたと言え。今すぐだ。ここが我が家だと。そうすれば離してやろう」

 柔らかな毛皮が掌に触れた。ほんの一瞬だったが、胃袋が落ち着いた。

「アーリン。そうしろ。俺たちはお前といたい。お前はここの一員なんだ」

 彼女は再び目を閉じた。そこに、あの大聖堂のステンドグラスがあった。

 光が揺らいだ。森の中の空き地、その中に四体の狼がいた。

 アーリンは向かっていった。光の中へ。そして狼たちは彼女を取り囲んだ。

 アーリンは目を開けた。今や彼女は理解した。トヴォラーは、聞きたい言葉を聞くまで離すつもりはない。

「ただいま」 その短い言葉を発するだけでも多大な努力を要し、だがかろうじて声に出した。

 その言葉は嘘ではない。

 森は帰るべき場所であり、狼たちは、教会は、それらすべてが帰るべき場所なのだ。

 自分が立ち上がるのを助ける彼も、自分を強く抱きしめる彼も――これも、また、帰る場所なのだ。変身したばかりの若きアーリンにとって、この単純な仕草はかつて世界そのものを意味した。そして今もまだそうだった。トヴォラーの内には今もまだ多くの優しさがあるのだと知った。

 だが獰猛さは、残酷さは――彼を圧倒してしまった。今のトヴォラーがどれほどの優しさを示そうと、今日の行いを拭い去れるものではない。自分の面倒をみてくれたトヴォラーは無辜の者を襲ったトヴォラーとなり、アーリンの気持ちは彼から離れていた。

 それでもなお、わかっていた。トヴォラーの気持ちは自分から離れていないと。

 ふらつき、流血し、今よりも優位に立てる余裕も機会も多くはない。これは不意打ちだ。正当ではないと言う者もいるかもしれない。

 だが彼の襲撃を止められるなら、世界においてこれ以上に正当なものはない。

 彼女はトヴォラーの胸骨に鉤爪を深く突き立てた。

 トヴォラーはよろめいた。そしてゆっくりと理解した。それだけではなく、彼女を引き寄せた。

「イニストラードは私の帰る場所よ、トヴォラー。生きている限り、私はそれを守る」

 続いたのは喘ぎだけだった――既に傷ついた肩へと、トヴォラーの残忍な鉤爪が食い込んだ。

 手をトヴォラーの身体に埋め込んだまま、アーリンは立ち上がった。「襲撃を止めさせて」

セレスタス防衛》 アート:Andrey Kuzinskiy

 トヴォラーの両眼がこのようにかすむのを見るのは、何と奇妙なことだろう。命は十分助かる、それは確信していた。シャーマンが彼の手当をするだろう――だがこのように彼がよろめく様を見たことはなかった。あの空き地で最初に戦った時にもなかった。トヴォラーを単純に、肉体的に傷つけただけではない。彼の内なる何か壊れたのだ、ここからは感じることができない何かが。

「嘘をついたな」

「襲撃を止めさせて」 彼女は繰り返した。

 トヴォラーはきつく目を閉じた。何を見ているのだろうかとアーリンは訝しんだ。あの日に森で見つけた少女だろうか、それとも他の何かだろうか――彼をこの途方もない冷酷さに駆り立てた何かだろうか?

 それが何であろうと、彼は敗北を認めたようだった。喉からのくぐもった声で、トヴォラーは言った。「いいだろう」

 アーリンは彼を下ろし、手を引き抜き、上体を起こして座らせた。痛みに屈む姿を見たなら、他の者たちは彼を生きたまま食らってしまうだろうから。

 トヴォラーは再びアーリンを見た。彼女はかぶりを振った。

 遠吠えがすぐ後に続いた。狼だけが理解できる、撤退を告げる声が。

 ついて来るか、彼はそう尋ねはしなかった。


 蟻が死体を這うように、だがその逆で。狼たちは収穫祭の虐殺の、白骨から去っていった。

 その名は既に生まれていた。今や傷つき打たれて立つ聖戦士の唇から、助けを求める者を探して死体をかき分ける魔女たちから、その言葉は既に作り出されていた。虐殺。

 長く見つめていることはできなかった。大患期とあまりによく似ていた。ある意味、もっと悪かった。あらゆる子供じみた飾りは今や壊れ、嵐の後のように散らかっていた。彫刻を施された南瓜は死体に潰され、林檎酒は血の池にこぼれ、入念に建てられた屋台はその持ち主の死体で二つに割れていた。

 ほんの一時間前、ここは希望の地だった。

 今はどうだろうか?

 アーリンは息をのんだ。助けたかった。魔女や聖戦士たちと共に、倒れた者の手当てをしたかった。だがカティルダが儀式を完了しなければ、手当てをする相手は誰もいなくなってしまう。そこかしこで潰れた人形は彼女にそれを苦々しく思い知らせていた。

 イニストラードは耐える。

 アーリンは進んだ。


 魔女と生き残りの衛兵たちが負傷者を手当てする一方、蝋燭案内はその奇妙な笑みを浮かべたままで、死者たちへと道を示していた。

 そして、死者は多すぎた。

 カティルダの祝祭は最悪の形で大いに成功していた。これほど多くの死体が一度に横たわる様子は、かつてアーリンには考えられもしなかった。両親も決して信じられないだろう。彼らは決して参加しなかっただろう。鼻であしらい、安全に離れていただろう。そして、今彼女は両親の真の意図を知った――その安全と怖れは一つであり同じものなのだと。

 それは間違っている。

 誰もが人付き合いを避け、自分たちのことだけを考える。イニストラードはそうしてこのようになった。吸血鬼は定命を搾取して永遠へと昇りつめ、狼男は自分たちが守るべき人々を狩る。分断がこれをもたらした。狼たちが、昼と夜の均衡を保つことの重要性を理解していたなら、彼らは代わりに祝祭を守っただろうに。

 だがそう考えるのはとても辛いことだった。

 彼女は前に進んだ。悼むのは後でいい。死者を称え、何が起こったのかをその家族に説明するのは後でいい。これが何かを意味するのであれば、儀式は完遂しなければならない。

 セレスタスの下に集う者たちは、その価値があると理解しているに違いないのだ。

 身体が痛み、大股の一歩ごとに前足と肩が悲鳴を上げた。だがそれでも彼女は駆けた――セレスタスを目指す唯一の狼。泣き叫ぶ声は、悲鳴は聞かずに――ただ走る。

 だが聞き逃すことのできない声がひとつ届いた。

「アーリンさん!」

 チャンドラが声を上げた。エーデリンの白馬がアーリンの右に追いつき、必死にセレスタスへと駆けていた。数時間前であったら、馬に追い抜かれるというのは何よりも嫌っただろう。だが今、そこには安堵だけがあった。

 何故なら、チャンドラが片手を差し伸べてくれていたから。「ひどい怪我じゃない、一緒に来て! テフェリーさんはもうみんなと先に行ってる。追いつかないと!」

 手を伸ばし、一緒に。

 それが前に進む唯一の方法。

 人間の姿に変化し、アーリンはチャンドラの手をとった。


 詠唱がまず彼女たちを出迎えた。言葉の意味はわからなかったが、その音はそびえる樫の木と古い大河の形をしていた。一筋の輝きがセレスタスの腕を駆け上った。エーデリンにもたれかかりながら、アーリンは思った。それは炉の炎から出されたばかりの、父の鋏に似ていると。

似姿焼き》 アート:Cristi Balanescu

 場違いな笑みが浮かんだ。失血でふらついただけかもしれないが。

「チャンドラ、見た感じ……」

「見た感じ、だいたい終わりみたい」 そのようだった。アーリンは前方を見つめた。

 チャンドラの言う通りだった。何を行っているかはともかく、それは完了しつつあるに違いなかった。セレスタスの高段を取り囲む群衆の先、細部はほとんど見えなかったが、それは人々に心配よりも喜びをもたらしていた。

 彼女たちは群衆にまっすぐに突入した。エーデリンの鎧とチャンドラの炎が自分たちのシンボルとなってくれた。離れなさい、戦いはまだ終わっていない。炎の塊がそう告げた。眩暈の中、周囲の人々の顔はあまり認識できなかった――だが彼らの目に宿る希望は輝いていた。

 その全員が、詠唱を一緒に呟いていた。

 何と奇妙な韻律だろう。軽快で昇り調子、喧嘩腰で不気味。間延びした音節が耳に忍び寄り、踊り、思考を引っ張っていった。もしこれが魔法なら、全くもって古いものだ。今やそれらは血管に深く沈んでいた。

 彼女たちは中央のプラットフォームへと更に近づいていった。ドーンハルトの集会の仮面が幾つも、方々に動いているのが見えた。プラットフォームの端には五人が、詠唱に合わせて太鼓を叩いていた。中では五人が激しく揺れる踊りを指揮していた。そして中央に、二人がいた。カティルダは仮面でその顔の大半を隠し、月銀の鍵を何か神聖かつ純粋なもののように掲げていた。その隣でケイヤが身構え、何かを探して地平線を見つめていた。

 アーリンたちの姿を認めると、ケイヤは大きく手を振った。

 目の前に木の橋が現れた。まずチャンドラが馬から降り、エーデリンに素早く手を貸すと二人でアーリンが降りるのを助けた。聖戦士と紅蓮術師に両脇を支えられ、アーリンはふらつくことなく歩けた。ありがたかった。

 一歩。また一歩。足元で木がたわみ、軋み、それもまた森の不気味な歌の一部となった――詠唱は今や彼女たちの肺に息づいていた。

 一歩、また一歩。天使たちはこれをどう思うだろう? 教会はどう思うだろう? 聖歌とも、祈祷とも全く異なっている。何か違うもの、だが同じほどに現実味があった。聞いたこともない言葉が、どうしてこんなにも滑らかに口から発せられるのだろうか? 自分の骨にずっと刻まれていたとでもいうのだろうか?

 一歩、また一歩。魔女たちが目の前に集合した。一斉に、彼女たちはチャンドラに、エーデリンに、アーリンに向き直った。曲がった枝と骨の下で目が合った。魔女たちの虹彩には銀色がうねっていた――そう、全くもって古い魔法。

 一斉に、魔女たちは声を合わせて告げた。「アーリン・コード」

 彼女は息をのんだ。

 チャンドラとエーデリンは彼女の肩を挟んで視線を交わした。力を合わせ、二人はアーリンを祭壇に昇らせた。目の前には陽光と蜂蜜にふさわしい黄金の鉢が、乾燥させた薬草と古びた骨に取り囲まれていた。

 イニストラードじゅうの目が彼女に向けられた。

「来ました」 アーリンは答えた。そう言うのが正しい気がした。

「血と牙の子よ。其方は夜と昼が出会う時、境の曙光に立っている。その力を我等に貸し給え」

 ずっと以前に子供時代は卒業した、彼女はそう言いかけた。だが古い儀式の腰を折ってはいけない。自分が思うよりも、カティルダは自分について知っているに違いないのだ。「何をすれば良いのですか?」

 彼女はそうカティルダに尋ねた、だが集合した群衆の全員が今やひとつとなってその言葉を発した。カティルダが操っている、アーリンはそう確信した。全てのものからその魔女の匂いがした。

「昼のために其方の血を注ぐ気はあるか? 恐怖の内に生きる者を、其方の牙で守る気はあるか?」

 彼女は視線を動かした。魔女から魔女へ、テフェリーとケイヤへ、チャンドラとエーデリンへ。誰も、その正確な意味を理解しているようには見えなかった。

「そうします」 彼女はそう返答した。自分は理解している、そう確信した。

鍵の秘密》 アート:Alix Branwyn

「日金の錠を聖別せよ」

 血と牙で、ということだろうか? 今もふらつきながら、祭壇で身体を支えながら、アーリンは肩で痛む傷に触れた。そしてそれを鉢の内部にこすりつけた――表面に触れると驚くほど温かかった。次に、彼女は薬草のひとつを手にとって噛みついた。苦味が口に満ちたが、血の味が和らぐのは歓迎だった。彼女はそれを赤い小さな染みの上に置いた。

 鉢が小さく震え、響きを発した。

 合わせて、セレスタスもまた。巨大な歯車が生き返り、軋んだ。頭上で、錆びと根の束縛を断ち切ろうと腕が、その影が動いた。足元の地面も揺れたが、アーリンは祭壇で身体を支え続けた。ありがたい。これがなければ転んでしまっていただろう。

 カティルダが合図すると、ケイヤが月銀の鍵を置いた。

「集会は、根と魂を差し出そう」

 アーリンの腕ほどもある節くれ立った一本の根をカティルダは取り上げた。それはイニストラードそのものと同じくらい古いように思われた。時に、見るだけでその古さがわかるものもある。アーリンがその由来を訝しむ前に、カティルダはその先端を指で弾いた。するとそれは即座に灰へと崩れた。カティルダはその灰を鉢の中、アーリンの血の真向かいにこすりつけた。

 これが根。けれど魂とは? あまり良さそうな響きではない。

 尋ねようとした時、カティルダと目が合った。魔女からは無言のオーラが発せられていた――ここでは疑問も、中断もあってはならない。儀式は続けねばならない。

 そして彼女を納得させたのは、カティルダの両目だった。銀色の輝きが発せられ、そして流れ出した。魔女の口がだらりと開き、同じく銀色の流れも――そしてそれらが合わさって、鉢へと注がれた。

 他の魔女たちが腕を繋ぎ、次第に力が抜けていくカティルダの身体を支えた。アーリンの胸を恐れが支配した。これは……ずっと続くのではないわよね? アーリンは魔女たちからケイヤへと視線をやった。『大丈夫なの?』 口の動きだけで、アーリンはそう尋ねた。

 だが、その答えを得ることはなかった。

 何故ならケイヤは頭上の何かを見ていたために。そして祭壇に大きな影がかかった。

 死のような香りがした。

 それは人間の目にはとらえられない速度で起こり、だがアーリンには追えた。赤と金の光線が空から稲妻のように落ち、ありえないその色にカティルダは息をのんだ。その光線の中には、オリヴィア・ヴォルダーレンがいた。間違えようもない。その女性を他の誰かと見間違えるわけはない。月銀の鍵に伸ばされたその手には、そして彼女がまとう鎧のそこかしこには、ヴォルダーレン家の紋章が飾られていた。

 そして、鍵を渡す意味はなかった。

 アーリンは月銀の鍵に飛びつき、胸に抱き、地面を転がった。それを守るためには、皮膚の痛みなど些細な代償だった。だがオリヴィアが頭上の空に舞い上がった。その腕には、ぐったりとしたカティルダが抱えられていた。オリヴィアは冷笑とともに見下ろし、肩を上下させて酷く騒々しい笑い声をあげた。

「行き詰ったようですわね。私はあなたがたの魔女を。あなたがたは私の鍵を」

 アーリンは膝をついて身体を起こした。鍵はまだしっかりと抱えていた。何かが変化したように感じた――今や鍵は冷えていた。「両方ともお前のものじゃない」

「何を言います。その鍵はまさしく私のもの。お判りでしょうが、何としても必要なのですよ。私に必要ないのは、老いぼれた震える魔女です」

 すぐに、ケイヤがアーリンの隣にやって来た。仲間の存在は嬉しかったが、ケイヤがもたらした知らせはアーリンの背筋を震わせた。「カティルダさんの魂に何かが起こったわ。儀式の間に見えたのだけど、魂が身体を離れて、そして……」

「そして?」

 ケイヤは顔をしかめた。「オリヴィアが現れた。その後どうなったのかはわからない」

 チャンドラがその隣で、両手をひねり、宙に浮く吸血鬼を睨みつけていた。「吹き飛ばしていい?」

「駄目よ。カティルダさんに当たるかも」とケイヤ。

 頭上で、オリヴィアは芝居がかった溜息をついた。極めて退屈した未亡人の動きで、彼女はカティルダの胸を鉤爪で引っかいた。すくみ上がる魔女たちに、呆然とする群衆に血が降り注いだ。「至極単純な提案でしたのに。答えを待つのに飽きてきました。私自ら計画する祝祭のために鍵を渡すか、それともただうろたえてお友達を死なせるか」

 アーリンは睨みつけた。「私たちが儀式を終えたなら?」

「その時間はあるの? 方法はわかるの?」 小声でケイヤが尋ねた。

 時間。彼女は近くのどこかにいるテフェリーに思い当たった。だが彼を見つけたとしても、十分な時間は稼げないだろう。日没を遅らせるのは大仕事だ――数日間は動けなくなったとしても、驚くには値しない。

 別の方法があるはずだ。

 アーリンはもう二人の魔女を見た。「儀式は?」

 だが二人はかぶりを振るだけだった。「カティルダさんでないと」 一人が答えた。「あの呪文は古すぎて――」

「結構です!」 オリヴィアが叫んだ、彼女は次なる一撃のために手を振り上げ――

 足りないのは時間だけではない。考えられる情報も、見つかる手段も、無理矢理解決する力も足りない。

 イニストラードは生き延びねばならない。

 アーリンは動く方の腕で鍵を放り投げた。

 オリヴィアの目が輝いた。またも、それは一瞬で起こった――彼女は空いている方の手で鍵を掴み取った。それを見つめ、オリヴィアの顔はますます喜びに輝いた。指先から煙すら上がった。

「カティルダさんを下ろしなさい!」 アーリンは叫んだ。

 喜びはしかめ面に代わった。「間もなく花嫁となる者に向ける言葉遣いではなくてよ」

「取引は成立でしょう」 ケイヤだった。アーリンはその言葉に、この状況を受け入れている彼女に少し驚いた。だが助けは助けだった。「カティルダさんをこちらに渡して」

「良いでしょう。受け取りなさい」

オリヴィアの真夜中の待ち伏せ》 アート:Chris Rallis

 いつか、この瞬間を思い返す時、違うように行動していたならと考えるかもしれない。もしもう少し素早く動いていたなら、ここまで悪くはならなかったのでは? もっと早く行動していれば、何か別の手段を選択していれば――何が起こっていただろうか?

 結構な高さから物が落とされることと、吸血鬼が物を投げることは全く異なる。カティルダの身体は凄まじい速度で祭壇に向かってきた。

 アーリンにできるのは、カティルダの落下を止めることだけ――それらの間に飛び込む――だがそれにも限界があった。カティルダがアーリンに激突すると骨が砕け、そしてアーリンは祭壇に身体を強打した。

 視界が晴れた時には、吸血鬼の姿は消えていた。飛び去っていた――既に暗い空に、小さな黒い点がかすかに見えた。

 鍵は奪い去られた。

 セレスタスは沈黙していた。

 イニストラードに夜が降りた。

 ここから永遠に続くであろう夜が。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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