MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 07

メインストーリー第4話:収穫祭

K. Arsenault Rivera
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2021年9月22日

 

 扉を三度叩く音に、オリヴィア・ヴォルダーレンは殺意を覚えた。無論、これまで殺意を覚えていなかったというわけではないが、時に人々は自ら悪い状況に身を置こうとする。ならば何をしてやるべきだろう? このような物事を単純に容認してはならない。それは召使をつけ上がらせるだけでなく、決して楽しいものではない。

「お入りなさい。私に無駄な骨折りをさせないことね。美容の時間を邪魔されるのは我慢ならなくてよ」

 彼女は目を開けはしなかった。そうしたなら、何もかもが駄目になってしまう。あの乙女の顔の皮を剥ぐために十五分を丸々費やしたのだ。それを無駄にするつもりはなかった。落ち着くために、そして真の美を得るためには、血の時間をとらねばならない。

「我が最も輝かしく強大なる淑女、オリヴィア・ヴォルダーレン様」

 彼女の唇が小さな笑みに動いた。その通り。宜しい。

「人間たちに関する知らせをお持ちしました」

 オリヴィアの笑みと良い気分は、消えた。自らの顔に被せたあの乙女の皮を動かさないように、気をつけて顔をしかめた。「それは大切なお知らせなのかしら?」

「そう考えます」 使いの者はそう言った。声から察するに、フォイアーだろう。組み直す骨がないのだろうか? 納骨堂の調度係としては実に優れている、だが何故この男がここに? 「人間たちが何かを秘密裏に進めております。昼と夜の均衡を正そうとしている、私はそう考えます」

黄昏の享楽》 アート:Antonio José Manzanedo

 彼女は罵り声を上げようとし、だが止めた。顔の皮を乱すわけにはいかない。剥ぎ取るのにあれだけ苦労したのだから。「そのために人間は何をしようとしているのか、お前の考えは?」 オリヴィアが身振りをする度に、風呂のようにその身を休める血の飛沫が跳ねた。「太陽を鎖で繋ぎ留めるというものではないでしょうに」

「最も輝かしく強大なる淑女ヴォルダーレン様、人間たちはとある祝祭を行うようです」

「祝祭」

「はい、祝祭でございます」オリヴィアの疑念を察してなお、彼はそう繰り返した。「近頃、確かな情報源を求めてガヴォニーへ向かいましたところ――」

 この男は骨の話だけをしていればいいというのに。

「――奇妙な光景に遭遇したのでございます。吸血鬼の人形です。巨大で、我等の姿を酷い様相に飾りつけたもので、貴女様の誇らしき、言葉では言い尽くせぬ姿をしたものまでも」

「我が姿の人形? そのようなものは我慢なりません」

「全くでございます、我が最も輝かしく強大なる淑女ヴォルダーレン様。全くでございます。私はぬかりなく放浪の傭兵に扮しまして、何の準備をしているのかと尋ねました。とある親切な女性が、それは収穫祭のためだと言っておりました。感謝の証に、その場でその女性を殺害しまして人形を燃やしました」

 オリヴィアは眉をひそめた。「お前が燃やしたと? フォイアー、もう少し常識を持つのですね。ここに持ち帰るべきでした。そうすればもてなしに使えたでしょうに」

 続けた彼の声には、わずかに恐怖の震えがあった。「いかにもその通りでございます、我が最も輝かしく強大なる淑女ヴォルダーレン様。次はそのように致します」 彼は咳払いをした。「ですが通してお聞き頂けましたら、更なる興味を持って頂けるかと存じます。私が材料を掘り返しておりましたところ、旅人の一団を目にしました――余所者のようでしたが、それを率いる者はわかりました。アーリン・コード……」

「ふん、あの雑種」

「同感にございます。あの者が調査を率いておりました。加えまして、髪を燃え立たせた女性が――」

 オリヴィアは芝居がかった溜息をついた。

「月銀の鍵と呼ばれるものについて盛んに尋ねながら、よく見ようとしておりました。つまり彼らは既にそれを所持しているものと思われます」

 ああ、あの古い物品か。あれを掘り返してくるとは、人間はよほど必死になっているに違いない。オリヴィアは身体を起こした。「それは収穫祭ではなくて?」

「いかにも、収穫祭でございます。何が行われるというのでしょうか? 他の血統に詳しい者に尋ねるべきでしょうか?」

 オリヴィアは唇に、つまりは若き乙女のそれに拳を触れて考えこんだ。「その必要はありません。進めさせておくのです」

「ですがヴォルダーレン様――」

「最も輝かしく強大なる淑女ヴォルダーレン様、です。フォイアー、お前が欲しがっていた材料を誰かが手に入れたとしたら、どうします?」

「ふむ。殺すでしょう」

 わかっていない男だ。「そうですわね、それは明白です。ですがいつ殺すのですか?」

「直ちに、です。侮辱を向けられたに等しいのですから」

 オリヴィアは声をあげて笑った。「だからお前は視野が狭いのですよ、かわいらしい子」 やがて彼女は顔面から面をはがし、渇いた皮膚に血をこすりつけた。「誰かがお前のために何かをしている時、決して邪魔をしてはなりませんよ」


 集まった参加者たちの思いはひとつだった。イニストラードは耐えねばならない。

 あらゆる職業や地位の人々が、近隣のケッシグの丘陵から、ガヴォニーの名高い尖塔と陰気な原野から、ネファリアの港と地下道から、ステンシアの光差さぬ街路と歪んだ塔からやって来ていた。古のセレスタス、その決して動くことのない腕の下、彼らは人形を、蝋燭を、儚い花や果物の籠を手に行進した。

 イニストラードは耐えねばならない。これを最後にしてはならない。

「何を作ってあげようか?」 南瓜を彫る職人は、集まった子供たちを前にして言った。お日さまが見たい、子供たちはそう答えた。太陽。そう、太陽――南瓜彫り職人の手は優雅に、希望と喜びをもって動いた。中は既に空洞になっていた。こういう時は先を考えて準備しておくのが重要だ。何の師匠であっても、同じことを言うだろう。ここから光が出る、ここに太陽がある――南瓜を切った塊が霜の地面に落ちた。中に一本の蝋燭を。そして術師でもある南瓜彫りは、頭上で浮遊する蝋燭の一本を呼び寄せた。

「願いごとをして」 南瓜彫りは子供たちに言った。「何でもいいよ、なるべく大きなものをね」

 そしてその子供は、言うまでもなく、太陽が永遠に続くことを願った。だがそれを明かしはしなかった。願い事を誰かに言ってしまったら、きっと叶わなくなってしまう。

 南瓜彫りはその少女へと、蝋燭を掴むように言った。少女が手にとったその箇所には太陽と月が刻まれていた。少女は息をのみながら引き寄せ、術師は微笑んだ。それを南瓜の中へ。そして完成した作品が少女に手渡された。

「さあ。君だけの太陽ができた。絶対に消えない太陽だよ。良い収穫祭を!」

 そしてその少女は自分だけの太陽を抱え、急ぎ足で駆けていった。世界は少しだけ明るくなったのだと。そうなるのだ。

 特に、誰もが今、自分だけの太陽を必要としている時は。

 術師デイダミアは少女が去るのを見つめ、自らに言い聞かせた。だからこそイニストラードは耐えねばならない。だからこそ、最後にしてはならない。

 カティルダは、最後にはならないと言っていた。

 セレスタスを見上げ、その通りであるようにとデイダミアは願った。そしてその願いもまた育てねばならない。まさしく蝋燭のように、灯し続けておかねばならない。

 それがただ子供たちを楽しませるためのものだとしても。

 気が付けば、辺りには薄い霜が降りていた。少し離れた場所では、仲間の魔女たちが挑戦的な歌をうたいかけ、ためらう声から旋律を優しく引き出していた。デイダミアの二つ先の屋台では、友人のシャナが香辛料の効いた林檎酒の杯を掲げていた。祝祭には陰気な参加者もいるかもしれない。そして太陽が正しい位置に戻らなければ、数か月のうちに全員が死んでしまうだろう。けれど今は、ぴりりとした林檎酒の喜びがある。

 デイダミアは頷いた。シャナはひとつの呪文を素早く呟き、林檎酒の杯を宙に浮かべてデイダミアの卓に向かわせた。次の太陽を彫りながら、デイダミアは素早く飲んだ。シャナの瞳は、今の状況がどうなっているのかと尋ねていた。自分たちの仮面をつけるまでどれだけ待てばいいのか。だがカティルダの言葉ははっきりしていた。鍵を待つ。それまでは目を開き、参加者たちの安全を保つ。

 そしてそのためにデイダミアは、子供たちのために太陽を彫り続けながら、群衆を眺め、木々を、そして護りを確認した。同じく、子供たちの背後で心配そうに立つ親たちのためにも。

 自分の太陽を待っていた少年が、急ぐようにデイダミアへ叫んだ。その通りにした――南瓜が台に置かれるや否や、その少年は英雄たちを見ようと駆け出した。群衆も同じく離れていった。収穫祭が始まって初めて、目の前のテーブルは無人になった。

 シャナの卓からも同じく人が消えた。デイダミアも英雄たちを見にセレスタスへ向かいたかった――もう少し林檎酒を飲んでも大丈夫だろう。そしてシャナも理解してくれるだろう。

 デイダミアは歩いていくと自分で林檎酒を注ぎ、そしてその時、林檎の香りが大気に満ちると同時に、感じた――護りが落ちる鋭い痛みを。

 程なくして、遠吠えが届き始めた。


 林檎のせいかもしれない。香辛料のせいかもしれない。南瓜のせいかもしれない。あるいは、何千もの人々が集まって自分たちの死に打ち勝とうとしている、その雑多な匂いのせいかもしれない。

 原因はともかく、彼らが近づく匂いをアーリンは察知できなかった。

 気付いた時には既に手遅れだった。シャーマンの狼たちが防壁を叩きつけるまでその存在に気付かず、彼らが門に迫るまで遠吠えも聞こえなかった。感謝の歓声は恐怖の悲鳴に変わった。自分たちの姿を見ようと集まっていた子供たちはすぐに母親のそばへと戻った。

 魔女たちも同じく叫び、木と骨の仮面をつけながら、群衆をセレスタスの威圧的な腕の下へと誘導した。「ここは危険です――向こうへ!」

 そしてほとんどの人々はその言葉に耳を傾け、肉体と恐怖の大河となって、入念に配置された屋台や卓をのみ込み、南瓜や老人や林檎酒の瓶を踏みつけていった。ケッシグの土を浸すのは血か酒か、それは誰にも分からない。 重要なのは、狼たちが迫ってきており、セレスタスはそこから離れているということだけだった。

 今やアーリンにもそれらが見えた。染めた獲物の毛皮をまとう吠え群れのシャーマンたちが森の中に立っていた。彼らが呪文を詠唱すると、その魔法の鈍い真紅の輝きは次第に強まっていった。最も素早いものは防壁を迂回し、飢えたように駆けた。ありえないほどの巨体、究極的な脅威がぼんやりと見えた。固い革の鎧をまとった狼たちがいた。

 全員が見えた。何百体だろうか。

 胸が苦しくなった。

収穫祭の襲撃》 アート:Yigit Koroglu

「アーリンさん」 ケイヤの声だった。「かなりまずいんじゃ?」

「人間を守りさえすれば」 アーリンの返答は意図したものよりも強張っていた。指導者というのはもっと確固とした声を発するものではないか? 「ケイヤさん、鍵をお願いします。確実にカティルダさんに届けてください」

「任せて」 ケイヤに念を押す必要はなかった――すぐにテフェリーが彼女へと鍵を手渡した。彼女は駆け出し、霧の中へと消えた。これでいい。狼たちはケイヤを見つけられはしないだろう。

 息が詰まるようで、だがアーリンに余裕はなかった。赤い光が恐ろしい影を投げかけ、群衆に純然たる恐怖を塗りつけていた。攻城塔と見紛う巨体の人狼が、魔法の防壁の端に拳を叩きつけた。

 亀裂音が響いた。

 アーリンは群れから目を離せなかった――人狼たちとともに進んでくる狼たちから。もし長く見つめていたら、きっと知る顔を見つけてしまう。その考えは彼女を恐怖で満たした。「チャンドラさん、エーデリンさん――」

「言われるまでもなく!」 チャンドラが答えた。

 そしてその通りだった。エーデリンは既に騎乗しており、チャンドラに手を伸ばして鞍に乗せた。ふたりは何も言わず、最前線へと向かっていった。

 護り手であり導きの光であれ、それがアーリンを突き動かす信念の核だった。そして今以上に、護り手としての役割を果たすのにふさわしい時はない。

 ならば何故、自分の一部は彼らに加わりたいと思っているのだろう? 何故この野生の心臓は胸の中で脈打って、自分の慎重な制御に逆らっているのだろう?

 アーリンの視線はすぐに答えへと辿り着いた。

 彼がここにいる。

 亀裂音が続いた。そして。

 頭上で、魔法がステンドグラスのように砕けた。彼女はそれを見上げた。血が上着を濡らし、涙が頬を伝った。

 ネファリアの岩に砕ける波のように、狼男の壁がはぐれた参加者たちに襲いかかった。血飛沫が宙を舞い、死へと変身した巨大な顎に骨が噛み砕かれた。ひとつの遠吠えが、アーリンの自己嫌悪と飢えに火をつけた。

「アーリンさん」

 耳に高鳴る鼓動に、隣のテフェリーの声は半ばのみ込まれた。だが彼の手がアーリンの肩を掴んで引き戻した。彼女はかぶりを振り、きつく目を閉じた。「テフェリーさん、私は――ここには守りたい人たちが――」

「わかっている」 彼の声にも怖れはあったが、その声には勇敢さがあり、彼女は幾らかそれを受け取った。「言うのが遅れたが、日没を長くさせてもらうよ」

 彼女は怪訝な顔をした。だがテフェリーは杖を地面に突き立て、深い内心に燃やす自信を語るような笑みを向けた。「ドーンハルトの集会の魔女たちよ!」 彼は声を上げた。「儀式を始めてくれ!」

 テフェリーの二本目の杖が地面に当たるや否や、衝撃波が放たれ、テフェリーの全身の筋肉が強張った。彼が向けた視線に、アーリンはこの仮初めの時間を無駄にはできないと察した。

 イニストラードの最後の日没、その最後の光とともに、自分の夢は潰えてしまう。

 できることをしなければ。


 エーデリンは天性の指導者だ。

 間に合わせの戦線に駆けながら、アーリンはこれまでになくはっきりとそう感じた。集まった衛兵たちは息をするように自然に彼女の命令を心に留めた。聖戦士たちは背中合わせに立って槍や盾を構え、武器を狼たちの力強い胸に叩きこんでいた。持ちこたえるよう彼女が命令すると、聖戦士たちは下がって盾の壁を張り、逃げ遅れた参加者を守った。

 トヴォラーはそのような命令を出さなかった。その必要はないとアーリンはよく知っていた。彼は野生の狩りのためにここにいる。そこに法はない。彼とともに駆けるのは、自らの心の野生の歌に耳を傾け、それが消えるまで追いかけること。トヴォラーとともに狩りをしてそれを学んだ。彼は無口な男だと思われているが、自然に身を任せて駆けるのを常に楽しんでいるのだ。

 そして身を任せて駆けてきた――これまでにない速さで。エーデリンが叫ぶ命令、チャンドラの篭手が放つ炎の奔流、ありえない太陽の黄金色の光。これら無くして、人間たちに勝機はないだろう。人間の姿であっても、人狼たちはあまりに手強い相手だった。人間の姿であっても、凶兆の血はどんな鍛冶師よりも大柄で逞しい。大多数がまだ変身していないのは、ある意味ありがたかった。強すぎる腕で振るわれる武器とやり合うのと、筋肉の壁とやり合うのは全く別なのだ。

 だがそれが簡単とは言わない。アーリンの右で、凶兆の血の一体がその鎚を聖戦士の盾の壁に振り下ろし、男三人を仰向けに倒した。そして鎚が再び叩きつけられると、聖戦士たちは苦痛にうめき、盾の下に身を隠した。

 聖戦士たちが即死しなかったのは、その攻撃が不思議に途切れ途切れであるためだった。アーリンの子供時代の数少ない楽しみは、旅の商人の訪問だった。その売り物に、横向きに切れ目の入った紙製のランタンらしきものがあった。その中には、騎乗した聖戦士の姿があった。ランタンを回転させると、聖戦士が馬で走る様子が見えるのだ。魔法じゃない、商人はそう言っていた。単純な光の仕掛けだと。アーリンはそれがとても欲しかったが、両親は絶対に買ってはくれないとわかっていた。止まっては動くその様子に、彼女は魅了された。

 その狼男もほぼ同じように動いていた。鎚を頭上に振り上げ、振り下ろす――そこには動きを完全に止める、貴重な数秒があった。倒れた聖戦士たちが身をよじらせて抜け出すには十分だった。狼男の影ですら、その動きに合っていなかった。

 テフェリーさん。後で礼を言わなければ。

仮初めの時間》 アート:Andreas Zafiratos

 反射的に、アーリンは自分の狼たちを呼んだ。だが彼らは応えないとわかっていた。襲撃者の中にはあまりに多くの狼がいる。自然はその側を選んだ。

 だから自分は、人間の側を選ぶ。

 斃れた聖戦士のメイスを拾い上げ、彼女はその狼男に飛びかかった。筋肉は望むだけの力を与えるが、関節は常に弱点となる。彼はこれから犠牲者となる者たちに向けて叫ぶのに忙しく、膝の裏に迫るメイスには気付いていなかった。彼女はその一撃に体重を込め、吠え声と砕ける音が応えた。その狼男はよろめき、振り返り、そして聖戦士たちが背後で立ち上がった。

 凶兆の血はうなった。姿は人間かもしれないが、両目は人間のそれではなかった。既に半ば変身しており、長すぎる牙が伸びていた。「お前。トヴォラーのお気に入りか」

 アーリンは顔をしかめた。「私の何も知らないでしょうに」 そしてメイスを持ち上げた。「今のうちに出ていきなさい、これはお前たちが勝てる戦いではないのだから」

 狼男は巨大な胸の内から轟く笑い声を上げ、そのため迫る聖戦士たちの刃に気付かなかった。最初に脚を貫かれてもよろめかなかったが、既に傷を負った膝を攻撃されると、狼男は吠えた。そして肋骨の間に刃が刺さり、だが狼男は倒れる前に近づきすぎた聖戦士の頭を巨大な手で掴んだ。

 アーリンは待たなかった。

 メイスが骨を砕いた。

 惨状の中に立ち、両手を血に濡らし、彼女にできるのは祈りを呟くことだけだった。聖戦士は感謝を告げたが、アーリンは何か成した気分にはならなかった。何か正しいことを成したようには。

 何も正しくなんてない。

 トヴォラーのお気に入り。

 乱戦の中へと、彼女は走った。

 それが間違っているから駆けた。間違っていると知っているから――彼のお気に入りだったことなどない。そんなわけはない。彼の教えを受けた二年の後、トヴォラーに傷を与えて血を流させて、夜の中へ逃げ去ったのではなかったか?

 アーリンはその記憶から逃げた。だが記憶は優れた狩人だった。足元の血はまるで、あの夜の彼の血のようだった。参加者たちの悲鳴はまるで、ケッシグ人の森の住人の悲鳴のようだった。両手の血は決して消えはしない。

「こんなこと、してしまうの?」 かつて彼女はそう尋ねた。

 だがトヴォラーにとっては、これこそ自分たちであり、アーリンであり、アーリンが常にそうであるべきものだった。

 土を濡らす血、肉の味、恐怖の匂い。ただそれだけ。

 アーリンは息をのんだ。見た死体は――見た人々は――まるであの森の住人と同じだった。

 そして再び、トヴォラーがいた。襲撃の中央に、彼は動かず立っていた。炎よりも眩しい両目が今や森を、そしてまっすぐに彼女を見つめた。

「トヴォラー!」 アーリンは叫んだ。「こんなことはやめて!」

 彼はにやりと笑い、かぶりを振った。「断る」

深夜の災い魔、トヴォラー》 アート:Chris Rahn

 メイスを手にしたまま、彼女は進んだ。背後では混乱が続いていた。聖戦士たちは人狼の喉を切り裂き、魔女たちははぐれた人々を守り、武装した略奪者たちが相手にそびえていた。チャンドラの炎がその場面を明るく輝かせていた。

「アーリン、もう日が沈む。加わるならまだ間に合うぞ」 トヴォラーが言った。彼はアーリンが手にした武器に目もくれず、怖れた様子もなかった。

 けれど、そうさせる。

 深い、喉からの吠え声とともに、彼女は振るった。

 トヴォラーはメイスの先端部を手で受け止めた。

「どうして私があなたの群れに加わりたいなんて思うの?」 彼女はうなった。メイスに更なる体重をかけていったが、トヴォラーは難なくそれを受け止めたままでいた。

「以前はそうしただろう」 彼はメイスを押し戻し、彼女をよろめかせた。「ここはお前の居場所だ」

「私の居場所を決めるのはあなたじゃない!」 アーリンはもう一度メイスを振るったが、彼はそれを手で掴むと彼女の手からもぎ取った。トヴォラーがそれを地面に落とすと、倒れた衛兵の盾に音を立てた。だが彼は全く気にした様子はなかった。

 太陽は空に低く沈みつつあった。テフェリーですら、永遠に太陽を留めてはおけない。

 トヴォラーは彼女を睨みつけ、アーリンも睨み返した。

「お前の仲間がお前を気に入るのは、自分たちと同じだと思っているからだ。だがお前は同じじゃない」

「私のことなんて何も知らないでしょう!」 彼女はそう叫び返した。

 そしてこの時、彼はアーリンへと迫った――鉤爪を大きく上から振り下ろした。アーリンは屈んで避けたが、結果として彼女はトヴォラーに接近し、肩から腰に走る傷跡の縁がはっきりと見えた。「本当にそう思うのか?」

「ええ」 アーリンはそう答え、トヴォラーの顎を拳で殴りつけた。衝撃の震えが腕に走り、だがそれ以上に価値があった。彼の表情から得意な笑みが縮んだ。アーリンは拳を振るい、殴り続け、彼をよろめき後ずらさせた。「トヴォラー。もうやめて。まだ時間はあるわ」

 トヴォラーの歯から血が滴った。彼はそれを地面に吐き捨てた。「冗談を」

「冗談じゃないわ。止めて。儀式を終えさせて。夜はあなたたちのもの、狩りをしていればいい。けれど人間は放っておいて」

「人間の方がそれを良しとするとでも?」 トヴォラーは言い、立ち上がった。

「人は生きる。重要なのはそれよ」

 トヴォラーが再び迫った。だが彼女は身構えていた。アーリンは素手で彼の両の拳を受け止めた。そのまま耐え、筋肉がうめき、踵が地面に埋まった――長くは続けていられない。

「お前がどれだけ遠くへ来てしまったか見るがいい。お前の狼たちは真実を知っている――俺たちと奴らの戦いだ。ずっとそうだった」

 それに続いた吠え声がわかった。そのうなり声を知っていた、彼から目を離したなら、何が見えるかをわかっていた。だから見なかった。耐えられなかった。既に、心臓が引き裂かれそうなほどに彼女の胸は痛んでいた。見てしまったら、崩れ落ちてしまうだけだろう。

 そして気を散らされている場合ではなかった。眼をきつく閉じ、アーリンはトヴォラーの鼻に頭突きをした。彼はしばしよろめき、彼女はもう一発を見舞った。

 だが彼の身体に走ったさざ波が、怖れていたものを告げた。時間切れだ。トヴォラーの血まみれの歯が次第に伸び、その笑みはますます不快な鼻面となっていった。周囲の至る所で、他の者たちの遠吠えがこの瞬間の混沌に火をくべた。

「アーリンさん! こっち手伝って!」

 チャンドラの声はたやすく聴き取れた。だが返答する方は、そうはいかなかった。「なんとか頑張って、皆を守ることに集中して!」 トヴォラーを睨みつけながら、彼女が最大限言えたのはそれだけだった。

 トヴォラーの身体が高く、大きく膨れていった。彼女自身の身体が制御に抗おうとした。歯がうずき、武器を探る中、溢れそうなエネルギーに両手が震えた。斃れた衛兵の手が掴んでいた剣が役に立ってくれそうだった。後で、彼のために祈ろう。

 だが今は? 生きることだ。

 襲いかかってくる彼の内には喜びが、その強打には歓喜があった――激しく、無謀というだけ。彼女は剣の腹で攻撃を次々と受け止めた。だがこの姿の彼は素早く、アーリンは全力で払いのけた。だがすぐに腕が、肩が、背中が、疲弊しきった魂が痛みだした。防御をひとつ失敗し、彼女は無防備になった。トヴォラーの鉤爪が頬を裂いた。血の匂いが一瞬、苦痛を上回った。鼻孔が燃えるように熱くなり、銅の味を感じた。苦心して得た制御を、深い、原初の飢えが圧倒しようとした。

 けれどそうはさせない。

「お前は一匹の狼だ、アーリン」 人ではない形の口が発したその言葉はくぐもっていた。「どれほど熱心にそれを偽り続けようともな!」

「狼じゃないなんて言ったことはないわよ!」

 彼は再び迫り、飛びかかった。彼女はかろうじてその攻撃から離れた。

「ならば見せてみろ!」

 トヴォラーは後ろ脚で立ち、薄明りの中でも、アーリンが与えた傷が今やはっきりと見えていた。それを目にした彼女は、再びあの場所に戻っていた。アーリンが自分たちの一員であると示すために、トヴォラーは人を殺せと彼女に促したのだ。ありえない選択。たやすい、そして無様な解決策。彼を殺すべきだった? そして自分が吠え群れの長になるべきだった?

 だが物事はそのようには進まなかった。トヴォラーは死なず、アーリンも勝利はしなかった。両者とも、それを証明するための傷を負った。

 燃えていた。彼女の全てが。戦いの騒音の中、トヴォラーに挑戦したあの夜と同じ太鼓の音が聞こえた。そして群れの視線が集まり、アーリンは孤立無援に立った。そう、自分は正しく、彼は嘆かわしいほどに間違っている。

 痙攣がひとつ、腕を揺さぶった。筋肉が何か更なるものへと引っ張られ、だが彼女は自由な手でそれを掴んだ。唇から一言の祈りが零れた。こうするためには、彼がどれほど間違っているかを見せつけるためには、屈してはいけない。身を委ねてはいけない――

「受け入れろ。なぜ我慢している?」

「それは――それは、今もまだ――」

 言い終えることはできなかった。喋るのも困難になっていた。そこで、またも。吠え声があった。ここにいるよ、狩りに行こう。そこで、またも、肉と骨が呼んだ。そこで、またも、自分が知る最高の自由が。こんなにも近くにある。こんなにも。

 彼女は目をきつく閉じた。分別が戻ってきた。だが一瞬して目を開くと、その時には、狼たちが近づいてきていた。

 「稲光」。「根気」。「赤牙」。「大岩」。

 狼たちは揃ってアーリンを見つめていた。全員――「根気」以外が――歯をむき出しにして。

 「根気」は身体をアーリンの脚にすり寄せ、ズボンを噛んで引き、顔を上げ、そして下げた。一緒に来て。狩りに行こう。

 トヴォラーに真二つに裂かれる方が、痛みは少なかったかもしれない。狩りに加わるということの意味を、どうすれば伝えられるだろう? 疑いの目で自分たちを見る人間は善い者たちで、一緒に駆け、狩り、遊ぶ人間はここでは悪い者たち。そんなことをどう説明できるだろう?

 彼女はふらついた。涙が目を刺した。「できないのよ」 軋む声で、彼女はかろうじて答えた。

 「大岩」はそれを聞くだけで充分だった。その名の通り彼が体当たりしてくると、アーリンは打ちのめされて倒れ、肺が空になり肋骨にひびが入った。うつぶせで泥に横たわり、狼たちが近づいてくる音だけが聞こえ、トヴォラーが髪を掴む感覚だけがあった。

「俺たちが正しい。お前はここで死ぬか」

 背中に膝が、喉元に鉤爪が押し付けられた。呼吸すら怪我を招く。

「本当のアーリンを見せてみろ。俺たち全員が見たがっている」

 つまり、彼はそれを求めている?

 見せてやれる。

 求められたからではなく、狼たちが是非とも見たがっているからでもなく、自分が何かを証明したいからでもなく。

 何故なら、ある意味彼の言葉は正しいから――自分たちふたりは狼であり、この今を終わらせるには、これしかないのだから。

 血によって、牙によって、鉤爪によって。

 太陽が地平線の下に沈む。昼は夜へと変わる。

 そしてアーリン・コードもまた。

月の憤怒、アーリン》 アート:Anna Steinbauer

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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