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MAGIC STORY
イニストラード:真夜中の狩り
サイドストーリー第3話:目が、全ての目が
2021年9月17日
闇の中、世界は平穏だった。月は三日月へと欠け、雲に覆われ、街路を縁取る白霜をかろうじて判別できる明かりだけがあった。ヴァドリックは何か問題はないかと道や穀物畑に両目を光らせていたが、気は楽だった。単純な仕事をして、夫のヘイリンのもとへ帰るのだ。
自宅であるネファリアの灯台からこんなにも離れるのは好きでなかった――星図と研究とイーゼルと画架と配偶者から離れるのも――だがイニストラードでも最も秀でた星術師のひとりとして、避けられない責任があった。ジェンリク亡き今、やるべき仕事はとても多い。古い友人を失ったのは真に辛かった。
《星の大魔導師、ヴァドリック》 アート:Kieran Yanner |
その助力の依頼はラムホルト、夫の故郷から届いたものだった。愛する者の英雄になれる機会は単純に見逃せるものではない、自分の研究から引き離されることになっても。
更に重要なことに、少々の冒険は必ずや頭をすっきりさせてくれるし、研究に集中させてくれる――少なくともヘイリンによれば。彼は馬に乗ったまま藪や野苺を叩き切り、茨橋を越え、ウルヴェンワルドから勇敢な人々が切り出した農場を通っていった。
最後の角を曲がると、ラムホルトの農村の姿がその慎み深い栄光を空に投げかけていた。
二百フィートほどに近づいた所で、クロスボウの矢が一本、頭をかすめて近くのハンノキにその羽根の半分まで突き刺さった。これはヴァドリックが望んでいたもてなしではなかった。
「申し訳ない」 外套をまとう人影が、貧弱な矢来に設置された木製の守衛所から叫んだ。「その……お前のすぐ背後の闇の中に、確かに」
彼らのような田舎者は常に、闇への恐怖とともにある。それがイニストラードだ――闇の中には恐怖すべきものがあった。だがあらゆる影の一片までもが、狼男や幽霊を隠しているわけではない。そうであっても、更に恐ろしいものであっても、理解することや戦うことは可能だ。恐怖し、縮こまる必要はない。最も下劣な怪物であっても、魔法と知恵を駆使して打倒はできる。迷信ではそれはできないし、もっと悪いもの、不十分な考えと闇に狙いを定めた十分なクロスボウでも無理だ。
「ネファリアのヴァドリックだが」 彼は呼びかけた。声には自然と傲慢さが滲み出ていた。「殺人事件の調査のために、この村の婆や母親たちに呼ばれてきたのだがね」
「ようこそ。私は確かにその……」 その声はくぐもった呟きへと消えた。
ヴァドリックは振り向いたが、言うまでもなく背後には何もいなかった。数本の細い木が、休耕地を見張るように立っているだけだった。入念な護りが彼自身と馬をありふれた危険から守っており、彼の感覚は四十年の魔術仕事にとって研ぎ澄まされていた。死した獣は察されずに近づくことは叶わない。
手綱をひらめかせると、彼の馬は村へと入っていった。
年経た枝指
とってもこわい
言うこと聞かない子をみてる
なまけていたら
おそってくるよ
お手伝いしてないのは誰だ?
夜は更け、冷たい霧が漂い、夜の冷気とともに眩しい氷の粒があらゆる表面に降りつつあったが、子供たちの一団が歌い、笑いながら道を駆けていった。彼らはどうやらふざけながらヴァドリックの後を追い、時に彼の目の前を駆け抜け、あるいは蹄を避けたが、常に手の届かない所にいた。その童謡は掛け合いになっていた。ひとりが最初の節を歌うと、次の誰かが二つめを、そして全員が三つめの節を歌うのだ。
年経た枝指
まだいるよ
うろの中にはぜったいいるよ
のぞいちゃいけない
叫んだら
みーんな忘れてしまうから
ヘイリンはそのような不思議な童謡を沢山知っており、時に夕食後に皿を洗いながら歌っていた。だがヴァドリックはこの歌を聞いたことはなかった。
馬を宿に預けると、集会所はすぐに見つかった。宿は村でも最大の家と作業場よりもやや大きく、集会所はその宿よりも更に少し大きかった。ラムホルトは柵の中に三十件もない家と集会所の集まりで、思うに配達人と商人が住んでいるのだろう。残りの人口はきっと畑や牧草地に付随する、簡素な石造りの家に散らばっていると思われた。
その集会所は質素で頑丈、石材を十フィート積み上げて丸太で支えてあり、屋根は雪や雨を落とすために急角度に設計されていた。その最上部には、簡素な木製の鐘楼が座していた。集会所の窓はとても古いステンドグラスで、ヴァドリックが思うにこの街の歴史らしきものが描かれていた。古の森の伐採と、古の獣たちとの戦い。集会所の前はテーブルと椅子の置かれた公共の場所になっていた。晴天の日には村人たちが食事のために集まるのかもしれない。
ヴァドリックは中に入った。全ての隅に獣脂のランタンが置かれて照らされ、巨大な石の炉床で温められ、クロスボウと槍を持った農夫二人が守りについていた。彼は直ちに理解した、この場所はラムホルトの人々を守るためにあるのだと。一体何度、どれほどの世代の間、ラムホルトの住民たちはこの分厚い石壁の中に安全を求めて籠り、夜明けや助けを待ったのだろう?
集会所の入り口に、十人の女性が椅子を半円形に並べて座っていた。老婆と母親たちの議会。老婆たちは年齢を示す外套をまとっていた。最年少の者は淡く鮮やかな色を、最年長の者は漆黒を、その中間は段階的な濃淡や色を。その中にひとり、男がいた。赤いケープ、茶色の革の衣服。脇にはレイピアを提げ、幅広の大剣を背負っていた。ただの男ではない、審問官。扉に背を向けて座っていた。
「ああ、丁度いい」 ヴァドリックが近づくと、男はそう言った。「エールが欲しかったところだ」 彼は振り向いてヴァドリックを見ると顔をしかめた。「召使ではないな。大魔道士か? ここで何をしている?」
「同じ質問をそのまま返そう」 ヴァドリックは言い返した。審問官への本能的な嫌悪を差し引いても――奴らは虚勢ばかりの能無しだ――この男の口調は気に入らなかった。村は召使を置きはしない。それで充分やっていけているのだから。
「気を悪くしないで下さいな」 二番目に年長の老婆が言った。「あなたがた、どちらも」 その声は低く響き、濃灰色のフードの影の下からはっきりと届いた。
「大魔道士が一体ここで何をしているのか、誰か説明してくれたら直ちに機嫌を直そう」
「我々が呼んだのですよ」濃灰色をまとう老婆が言った。「ネファリアのヴァドリックさん、こちらはレム・カロラスさん」
「評判は聞いています」とヴァドリック。「それと、不可解なのは私も同じです。私を呼んだのなら、何故怪物殺しがここに?」
「我々があなたを呼んだのです、ネファリアのヴァドリックさん。レムさんを呼んだのはダイン・サルヴァシーという者です。どうかその身が安らかに、永遠の眠りにつきますように」
「レム・カロラスだ。あるいは審問官カロラスと呼びたまえ」
傲慢極まりない男だ。
《確固たる討伐者、レム・カロラス》 アート:Francisco Miyara |
ヴァドリックは言った、「雇い主が死亡したのであれば、その傭兵は立ち去るべきではないのでしょうか」
「傭兵? 私は聖戦士だ。審問官の刃だ。傭兵などではない」
ヴァドリックは溜息をついた。「では協力することになるのだろうな」
レムは彼をまじまじと見たが、明らかに感銘は受けていなかった。「そう思う」
灰色をまとう老婆が割って入った。「三週間前、アリノスという農夫がいなくなりました。彼は隣人のダイン・サルヴァシーと口論していました。そちらはラムホルトで一番の金持ちです」
「敬虔な男だ」とレム。
「一番の容疑者候補でもあります」 薄紫の外套をまとう女性が言った。「あるいは一番の容疑者候補でした。そしてライ麦の畑で旅人たちが行方不明になりました。更にその後、羊飼いのラキルの死体が牧草地で見つかりました。正確には死体の一部が、です。羊は無傷でした。狼男か、何かもっと恐ろしいものかもしれません。どちらにしても、助けて頂きたいのです。そのため議会はヴァドリックさんを呼びました」
「そしてサルヴァシー氏が私を呼んだ」とレム。「街のために、狼男を片付けて欲しいと」
「彼があなたを雇ったのであれば、潔白ですね」 ひとりの年下の老婆が言った。
「狼男どもは増え続けているようだからね」 別のひとりが相づちを打った。
「馬鹿を言うんじゃありません、全員、正体は分かっているというのに」 濃灰色の老婆が言った。そして簡素な二本の杖の助けを借り、小さな身体で立ち上がった。
「メイリン、そうとは限らないだろうに」 黒をまとう最年長の老婆が、初めて口を開いた。
ヴァドリックの夫はメイリンについて何度も口にしていた。ヘイリンが少年だった頃には既に年寄りだった。厳格で賢明、恐ろしくすらあり、子供たちに計算や歌を教え、また森を恐れることを忘れるなといつも言っていた。ヘイリンいわく、メイリンは男の子として育てられたが、十分に成長するとすぐに女性としての人生を選んだ、そして村人たちはすぐに彼女を受け入れたのだと。
「年経た枝指ですよ」とメイリン。「誰もが、そして空の星が知っています。年経た枝指が歌と物語からやって来て、生者が死者になるのを見にきたんですよ。問題は何故、どうやってかということ」
「婆様の後ろにいるのがそれですか?」 薄紫色をまとう女性が尋ねた。
「何だって?」 メイリンは叫び、踵を返し、杖の一本を掲げて身を守ろうとした。
だが勿論、背後には何もなかった。
「愉快なこと」とメイリン。「棒きれと影を恐れたこの老婆を笑っておくれよ」
「子供らと老婆を驚かす物語は笑っていいさ」 最年長の老女が言った。「けれど年経た枝指は本物だよ。一万年の間に、千の名を持っている。炉辺の蔓の王アヴァル、破壊する者マカス。物騒で恐ろしい守護霊だ。このごろは記憶も薄れ、ただの年経た枝指、ただのお化けだ。そうだった」
「それが何であろうと」とレム。「哀れな羊飼いを引き裂く鉤爪があるのであれば、鋼で切ることのできる肉体があるということだ。ただ私を……私たちをそれが住む場所へ連れて行けばいい。そうすれば私……たちがこの街を恐怖から解き放とう」
広間の扉が勢いよく開けられ、息を切らした男性が駆けこんできた。
「婆様がた」 息を切らしながら、その男は言った。「その、その……」
「何ですか?」
「殺人」 ようやく彼は口に出した。「殺人です」
「枝指だと言ったでしょう。もう誰も私を二度と疑わないでもらいたいものですよ」 メイリンが言った。半月が牧草地にその影を長く投げかけていた。六人の農夫が槍とクロスボウを手に立ち、離れた藪を神経質に見つめていた。レムはレイピアを手に彼らの傍へと急いだ、まるで牧羊犬が群れを守りに向かうように。ヴァドリックの方は、生者を無視して草の上に横たわる三つの死体に目を向けていた。
人間の死体がふたつに狼男がひとつ。後者は死亡して人間の姿に戻っていたが、変身の際に破れた服でそれがわかった。三人とも死因は同じだった――まるで矢で貫かれたようで、だがどこにも矢は見つからなかった。
犠牲者は三人とも男性で、若く、武器も鎧も身に着けていなかった。ふたりは身体の前面に傷を負い、もうひとりは数歩離れて背中に。最年少の男は背を向けて逃げる途中だったのだろう。それは誰もがすぐにわかった。だが彼が逃げた理由は、もう二人の様子からはわからなかった。
《前哨地の放棄》 アート:Zoltan Boros |
「この男が狼男だったというのは御存知で?」 ヴァドリックが尋ねた。
「知りませんでしたよ」 メイリンが返答した。
「狼男ではなかったとしても、これ以上何も知る必要はない」 レムは周囲の畑を見つめたまま言った。「ネファリアのヴァドリック、私をその獣の所へ連れて行け。そうすれば今夜のうちに解決できて、無辜の村人たちはぐっすりと眠れるかもしれないからな」
「私は足跡を追うためだけの犬か何かか?」 レムに聞こえないよう、ヴァドリックはとても小さな声で尋ねた。彼は自身のエネルギーを上に集中し、空から、星々から力を引き出すと、その力を両手で編み上げた。
彼は掌を突き出しながら開き、エネルギーを解放した。すると塵が天から降り注ぎ、月光にきらめきながら、畑全体の足跡に降りた。ほとんどは眩しくはっきりとして、街に続いていた。自分たちが調査にやってきた足跡。だが別の足跡もまたあった。死者三人とそれを発見した衛兵の。更にはもっとかすかで奇妙で、途切れ途切れで不安定によろめいた、また別の足跡が離れた畑へと続いていた。
その追跡呪文は単純なものであり、彼の意志を更に表現してやるための力は十分残っていた。大魔道士の扱いを間違えるなとレムに教えるほどの力が。
「これが何かは皆さんもお判りかと思います」 村人たちに振り返り、ヴァドリックは言った。「ですが私たちと来るのは危険です」そしてレムへと向き直った。「君は来るかね?」
聖戦士の両目が憤怒で満ちた。その口は、もっと重要なことに、ヴァドリックの魔法で消えていた。唇はなく、顎から鼻まで皮膚が続いていた。
「何か問題でも? 君は大魔道士を猟犬と勘違いしなかったかね?」 ヴァドリックが指を鳴らすと、レムの口が再び現れた。そしてヴァドリックは足跡を追いはじめた。振り返ってその聖戦士がついて来ているか見ることはしなかった。
「気を付けて」 メイリンがヴァドリックへと呼びかけた。「枝指を怒らせてはいけませんよ」
足跡は茨や茂みをものともせずに通過し、ヴァドリックは棘を防ぐ羊毛の外套をありがたく思った。同行者も職務に集中しており、黙って辺りに注意を払ってくれているのもありがたかった。その自慢好きですら、すぐに行動に移れるよう注意深く歩みを進めていた。
月は眩しく畑を照らし、草は風を受けて波のように大きく揺れ、ヴァドリックはふと我が家を恋しく思った。だが同時に、月の影は踊り、動き、彼の目をとらえ続けた。背後の影が気になり、彼は常に肩越しに振り返った。
誰も自分の背後に忍び寄ることなどできない。自分はネファリアのヴァドリックなのだ。
レムもまた絶えず振り返っていた。
ふたりはとある石造りの家を過ぎた。遺棄されているものと思われた。ふと、ヴァドリックはその中に緑色の光を見た気がしたが、目をこらすとそれは消えていた。数百ヤード進み、足跡は小さな木立で途切れていた。
「魔法が切れたな」 その木立に入ると魔法の光は消え、レムはそう言った。
「切れてはいない。足跡の終わりに来たのだ」
「何もないが」
ポプラの葉は数か月前に落ちており、雲が立ち込めてくると、暗くなる空に細い木々が影を成した。ヴァドリックは数語を呟き、周囲の地面から魔力を目に流し、闇の中でも少々の視界を得た。
高く、ガラスか金属のように、遠くで風鈴が鳴った。そしてもっと近くで、木製のその音が、周囲の木々から聞こえてきた。
「明かりを作ってもらえないか?」 今回はずっと礼儀正しく、レムが尋ねた。「どうもランタンを忘れてきてしまったようだ」
ヴァドリックは森の中へと進み続けた。その生物はここにいるに違いない、どこかに。木に登っているのかもしれない。
「助かる」とレム。
「何がだ?」
「明かりだよ」
ヴァドリックは光の魔法など何も唱えていなかった。
大魔道士はすぐさま振り返り、障壁を張った。まさにその瞬間、小枝と火花の飛沫が魔法の壁に衝突した。
その生物は彼の背後にいたのだ。
それに違いなかった。
年経た枝指は名前の通りだった。ハンノキのように細く、人間より長身で、皮膚は小さな骨に貼り付くよう、指は小枝のようだった。あらゆる子供が想像する悪夢の生物。足を踏みしめた場所には、霜が咲いて茸が成長した。顔は人間の肉というよりは鹿の頭蓋骨で、顎からは血のように燃えさしが滴り、森のどんな自然の獣よりも沢山の角を生やしていた。だが問題は、その目だった。あまりに多かった。四つ? 七つ? 見るたびにその数は変化し、それぞれが淡い緑色の炎に輝き、全てがこちらを見つめていた。そこにいて、そこにいないもの。まっすぐに見つめたなら、間違いなくそっと忍び寄ってくる。
それは恐怖からなる存在、ヴァドリックがこれまでに見た何にも似ていなかった。村人が逃げ出したのも当然に思えた。先に死んだ二人はその暇すらなかったのだろう。
《年経た枝指》 アート:Jehan Choo |
魔力の壁に安全に守られ、ヴァドリックはこの奇妙な獣について熟考した。全く見たことはなく、書物で読んだことすらなかった。肉体を持っているが、持ってはいない。
その生物は鹿のように吼え、ヴァドリックの壁が崩れた。実に単純だ。
年経た枝指は首を傾げた。枝角からぶら下がる小枝の一群が光に弾け、風鈴のような音が響いた。
ヴァドリックが年経た枝指を見つめている間、年経た枝指もヴァドリックを見つめていた。
「呪われし獣め!」 レムが吠え、枝指の腹部にレイピアを突き立てた。白色の血が、月光のように、その刃を伝って流れ出た。
枝指は咆哮した。この時は百匹もの犬の声だった。その音はヴァドリックの頭を満たし、彼の精神から感覚を失わせた。
ヴァドリックは両手をひねり、精神をひねり、その音そのものから魔力を引き出すと、それを用いて精神を無理矢理正した。これをやったのは過去に一度だけだった。星々の彼方から訪れた獣と戦った時に。
枝指は上半身をねじり、レムを木へと放り投げた。聖戦士はそれでも剣を手放さず、足で着地した。強い。レムは再び突進し、獣の手が放った火花の嵐をほとんど避けた。
ヴァドリックは麻痺呪文を唱えたが、枝指はそれを払いのけた。そして片手をヴァドリックの腰にきつく巻きつけ、やすやすと持ち上げた。もう片方の手はレムへと伸ばされ、だが彼は手首を切りつけた。月光の血が迸り、それでも枝指は同じくレムを掴むことに成功した。
緻密なものを考える余裕は残されていなかった。ヴァドリックは叫び、残る力を引き出して周囲のあらゆる源と混ぜ、それを氷の爆発ひとつに込めて枝指に叩きつけ、相手をよろめかせた。
両者とも身をよじって逃れ、地面に落ちた。ヴァドリックは息をつく間に、レムは立ち上がってその刃を獣の顎に突き立て、そのまま顔面を貫いた。
この時、悲鳴は上がらなかった。
枝指はその場で消えた。
白色の血が水銀のように地面に溜まっていた。ヴァドリックは身体を起こし、ベルトの装具を開き、注射器と瓶を取り出すとその血の幾らかを採取した。
「あれは死んではいないだろうな」 息をつき、レムが言った。
「間違いない」 ヴァドリックはしばし言葉を切った。「それと、ありがとう」
村に戻った時には、太陽が昇っていた。レムは宿へ去り、ヴァドリックは集会所へまっすぐに向かった。
朝の霜にもかかわらず、集会所の前の空間にはメイリンが座り、水を飲んで粥を食べていた。同じ卓には、すり切れた服を重ね着にした見知らぬ女性がいた。見たところ、十代を脱してすらいないようだった。
「おはようございます」 ヴァドリックはそう言いながら、女性二人に近づいて腰を下ろした。
「そうでもないですよ」とメイリン。
「『いじめてみろよ、そうしたら』」 見知らぬ女性が歌った。その声は完璧で、まるで天使のようだった。「『だれかいじめてやるからな』」
「その情報は昨晩欲しかったところですよ」 ヴァドリックは言い返した。
自分自身の裁量に任せられたなら、血を流すことなくやれるだろう。物事を戦いにしようとするのは、騎士の愚かさというものだ。壊すよりも制御する方がいい。それでも、非難するわけにもいかなかった。
「まだ頑張らねばなりません」とヴァドリック。「ただ私なりに行うために、もっと多くの情報が必要です。ああいう生き物というのは、召喚されたものではありませんか? 誰が召喚したのでしょうか? 死亡した誰かではないかと思うのですが」
メイリンはその女性を見つめた。そちらは茶を見つめていた。
「父は迷信深い人でした」 彼女は言った。「いつも羊の歯を暖炉の上に、狼男の歯を寝台の下に置いていました」
「アリノスさんですか? 最初に行方不明になった?」 ヴァドリックは尋ねた。
その女性は頷いた。
メイリンが割って入った。「ヴァドリックさん、この子はアリオーサ。アリノスの娘ですよ」
新たな情報だった。「貴女はあの荒れ果てた石造りの家に住んでいるのではありませんか。小さな農場の、ハンノキの低木林の近くの」
アリオーサは頷いた。
「昨晩、我々の音を聴きましたか?」
「……聞こえた音が何だったのかは、よくわかりません」
ヴァドリックは考えこんだ。「お父さんは裕福な隣人と口論していたそうですね。何についてですか? 借金ですか?」
アリオーサは頷いた。
「貴女がたの土地を奪うと脅していたとか?」
彼女は溜息をついた。「そうです」
「裕福な隣人がある男を家なしにすると脅し、更にその男には財産として差し出せるような年の娘がいる。その男は衝動的に何かをしてしまうかもしれないな」
「だからといって、父が殺人に駆り立てられたなんてことは」
「ここにいたのか」 レムがやって来た。小さな丸テーブルに空きはなかったが、明らかに彼は見下ろすのが心地よいらしく、立ったまま喋りはじめた。「お前が噂話に興じている間、見張りについていた者たちと話をしてきた。昨晩は平穏だったらしい。我々があの怪物を引きつけていたからだろう。取り調べを始めるべきではないか?」
彼はその女性の簡素な食事を見下ろした。「サルヴァシーの家から始めるべきか? 死んだ家長について何を知っているかを聞くか。何もなければ朝食を摂っているだろう。あるいは茶を楽しんでいるか」
「昨晩は君のやり方で行って」とヴァドリック。「殺されかけた。今日は、私のやり方で行こう」
「いいだろう。私は身体を動かそう。お前のやり方とは?」
「ああ」 ヴァドリックは冷淡に言った。「サルヴァシーの館から始めるのがいいだろうな」
ラムホルトで最も裕福な男は、ヴァドリックがこれまで見てきた中でもとりわけ裕福というものでもなかった。その館は二階建てで四つの寝室があり、そのうち二つは石壁に壁紙が貼られていた。
富は彼らを守ってはくれなかった。
暖かな挨拶と食事ではなく、壊されて蝶番からぶら下がる扉がふたりを出迎えた。家は無人だった。ふたりは短い昼間の半分を費やしてその家を徹底的に捜査し、手がかりを探した。人も、死体もなかった。血もなかった。だが暴力の跡はそこかしこにあった――ひっくり返されたテーブルと椅子、誰かが逃げようとして内側から壊れた窓。家族用のクロスボウが玄関近くの床に落ちており、一本の矢がその扉から突き出ていた。
玄関の隅には、白霜と茸が残っていた。
暖炉飾りの上に、手で――おそらく子供の手で、灰を使って文が書かれていた。『うしろにいるよ』
効果はあり、ヴァドリックとレムは同時に振り返った。言うまでもなく、何もいなかった。
「生き延びるために戦っている間に、こんな伝言を誰が書くんだ?」 レムが尋ねた。
「無理矢理書かされた。恐怖によってか、呪文か」 ヴァドリックが答えた。
レムは身震いをした。「獣や悪魔は素直な奴らだ。暴力的だ。大きく、強く、歯が鋭く、そういう奴らならば私は戦える。こんな邪な術はごめんだ」
「解決策として荒々しい暴力を諦めたのは良いことだよ」 ヴァドリックは床に何かを見つけ、調べようと屈んだ。黒い羊の毛、家の中に。中に羊を飼っておくような家ではない。彼はそれを腰の小袋に入れた。
「行こう」とヴァドリック。「アリノスの家を見たい、あの娘が帰宅する前に。ひとつ疑念がある」
その家は留守で、無断侵入というのはいい気分ではなかったが、今は必要だとしてヴァドリックは決然と入った。粗末な家だった。とはいえ五百年も経っているようで、その通りに丈夫だった。扉は木の板のように軋み、床は土だった。とはいえ見捨てられているはずの部屋に、寝台が二つ整えられていた。一匹の白山羊がでこぼこで曇った窓の外で草をはんでいた。
ヴァドリックは中には長く居残らなかった。必要なものは玄関先にあった。
扉から張り出す垂木から、木や鋼で作られた風鈴が、目が眩むような数でぶら下がっていた。その中に、木製のモビールがひとつ吊るされていた。小枝を樹皮の紐で縛って作ったものだった。
「この形は……」とレム。「まるで……」
「アリノスは枝指を召喚してサルヴァシーを追い払い、農場を守ろうとした」とヴァドリック。
「だが失敗した」 レムが同意した。「枝指は支配されなかった。アリノスを殺害し、そしてサルヴァシーと、他にも」
ヴァドリックは手を伸ばしてモビールを外した。「昼のうちにあれを送還しよう。今夜に戻ってくる前に」
「方法はわかるのか? 月の光が決して差さない場所を見つけるのか? 土に触れたことのない花を持ってくるのか?」
「いや。思うに、そんなものよりもずっと単純だろう」
ヴァドリックはモビールを地面に置き、瓶から枝指の血をその上に注いだ。そして片足を上げて振り下ろし、踏み潰した。
ハンノキの木立から、ひとつの鋭い悲鳴が畑を切り裂いて届いた。
「それで終わりか?」レムが尋ねた。「世界から放逐されたのか? これでどうするんだ?」
「ああ、これで解決だろう。今は宿に戻ろうか。私たち両方とも、いい食事にありつけるだろう」
「エールもな」
村に入る頃には、短い昼は既に終わりかけていた。食事を始める頃には、太陽はゆっくりと沈んでいた。レムは羊肉を、ヴァドリックはビーツと芋を頼んでいた。
「ヴァドリックに乾杯」 レムが水の杯を掲げた。良い酒はなくとも、落ち込みはしないようだった。「我々はいい組み合わせじゃないか」
「レムに乾杯」 ヴァドリックも自分の杯を掲げた。「君は緻密さにこそ欠けるが、勇気はそれを補って余りある」
二人が飲み始めたところで、村の鐘が鳴りはじめた。
「もう夜だと農夫に呼びかけているんだろう」レムが言った。
だがその鐘の音とともに、宿の主は剣を掴んで玄関から飛び出していった。
鐘は鳴り続けた。
ヴァドリックは溜息とともに杯を置き、皿に残る炒めた芋を悲しく見つめ、外の騒動へと向かっていった。
「壁の中にいる!」 群衆へと、ある男が怯えて叫んだ。村の老婆たちは集会所前に立ち、あるいは座っていた。三十人ほどの村人が怯えた目で、武器を手に立っていた。
「あれを殺すことができるのは畑や森の中だけです」 杖の助けを借りて立ち上がりながら、メイリンが言った。「壁の中に入ってくる理由はありません」
「あれを見ました!」 その男が言った。
「はっきりと?」 メイリンが尋ねた、まるで生徒を叱責する教師のように。
「いえ、はっきりとは」 その男は認めた。
「私も見ました!」 ひとりの女性が叫んだ。
ヴァドリックは群衆をかき分けた。人々は目的をもって歩く者の前に道をあけた。彼は集会所の前に辿り着くと群衆に向き直った。レムはすぐ背後にいた。
「枝指は元々いた場所へ送り返されたのだが」
「見たのか?」 その男が尋ねた。「はっきりと?」
「いや、見ていない」 ヴァドリックの返答に、群衆の反応は芳しくなかった。「だが儀式を行った、何百回とやってきたように。そしてあの獣の断末魔を聞いた」
その時アリオーサが駆けてきた。息を切らし、だが足取りはしっかりとしていた。
「ちょうど家から来ました」 彼女はメイリンに言うと、男二人を睨みつけた。「この人たちがあれを解放したんです」
「我々が何をしたと?」 レムが尋ねた。
「そんなことはやっていない」 ヴァドリックは機械的に返答し、だが思考は焦りはじめていた。枝指はこれまでに対峙してきたどのような悪魔とも行動が異なっている。何かが違うに決まっている。束縛を破るというのは……
「ああ。我々がやったのかもしれない」
「お聞きなさい」メイリンが群衆へと言った。「夜通しかかるかもしれませんが、力を合わせねばなりません。全員が、目をしっかりと開いて。全員が全員を見つめていれば、決してあれは背後には現れません」
群衆は命令された通りにした。イニストラードの人々は新たな恐怖と思しきものを学び、適応するようになっている。
「いたぞ!」 はぐれた一人が群衆へと駆けてきた。「宿の後ろだ!」
レムはそれをめがけて駆け出そうとしたが、メイリンが目の前に杖を伸ばして止めた。「話を聞きなさい。その危険が何であるかを知らないまま、駆け寄るのはやめなさい」
レムは頷き、現場へと向かえないのを明らかに心地悪そうにしながらも、驚いたことにその老婆の命令に応じるようだった。「枝指がどこかの家へ、どこかの場所へと送り込まれることはありません。何故なら、あれはここから来たものですから。暖炉の霊なのですから」
「暖炉の霊?」 ヴァドリックが尋ねた。「つまりあれは殺すためでなく、護ってもらうために召喚されたと?」
「そうです」
数本先の道で悲鳴が上がった。レムが言った。「どうすればいいか二人で判断してくれ。私は人々を守りに向かおうと思うのだが」
メイリンは手を振ってそれを許可し、レムは離れた喧騒へと駆けていった。
「まず、暖炉に印を書く。守られるべき場所に」とヴァドリック。「次に、捧げものを用意し、入って欲しくない者それぞれ全員に印をつける。彼は……アリノスは二番目の手順を飛ばしたのでは?」
「私は、召喚の魔術はわからないのですよ」とメイリン。
「召喚の文句ならわかると思います」とアリオーサ。「お祖母さんの古いお話にありました」
「彼は妨害されたに違いない。彼は……」 ヴァドリックはポケットからあの山羊の毛を取り出し、アリオーサに手渡した。「これに見覚えは?」
「父が儀式を行う前夜に、山羊が一頭いなくなりました」 彼女は頷いた。「ダイン・サルヴァシーが盗っていったのかと思いました、勝手に、支払いとして」
視界の隅で、レムが戻ってきたのが見えた。彼は怯えた様子の数人を群衆に合流させ、夜の中へ駆け戻っていった。
ヴァドリックは説明した。「アリノスは枝指を召喚した。印を築き、それを吊るした。家とその土地の全てを守るために。次に、生け贄を。恐らく、枝指に捧げるためにあの木立へ山羊を連れて行ったのだろう。ダイン・サルヴァシーはその羊を見て、盗んだ。少し後ろめたかったのか、家の中に入れておいた。そして護るべき場所を知り、だが守るべき人物を知ることなく枝指がやって来た。彼自身の土地に入ったアリノスを侵入者として殺した。同じように隣人たちを。だが全て、家から遠く離れた場所だったが?」
ヴァドリックはほんの数秒考え、自ら答えに至った。「お父さんの家は古いだろう? 私が見てきた中でも最も古い家のひとつだ。昔はもっと広い土地を持っていたのでは?」
「そうです」
レムが戻ってきた。この時は独りで、血を流していた。
「レム!」 ヴァドリックの声に、レムは顔を上げた。
「ここの人たちを守ってくれるか? 私たちがあれの束縛を見に行く間、枝指の相手ができるか?」
「私が何をしていると思っている?」 レムが言い返した。その顔と胸の切り傷から、流血が続いていた。
まさにその時、ヴァドリックは視界の隅に、近くの路地の奥に緑色の目と燃え殻を見た。
レムは数度深呼吸をし、気を引き締めた。ヴァドリックは星々から力を呼び、それをレムへと与えた。その傷が塞がり、呼吸が軽くなった。その力はレムの決意を揺るぎないものにしながらも、全く衰えることはなかった。恐怖は、疲労はある。だが疑いはない。聖戦士というものは強いのだ。
「どこでその儀式をやれば?」 アリオーサが尋ねた。「ここですか? 集会所ですか?」
メイリンはかぶりを振った。「あれは村や町の生物ではありません。野の川の中の岩のように立つ家々を守る生物です。あれはお前の守り手になるでしょう。束縛が続く限り、十年と一日の間」
「でしたら、馬で!」 アリオーサが言った。
儀式そのものは実に単純で、粗野と言ってもよかった、土着の魔法とはそういうものだ。アリオーサは壊されたモビールを直して玄関口に吊るした。窓を隔てて、ヴァドリックは整えられた二つの寝台を見た。何故二つ? 彼女は父の死を受け入れていないのだろうか?
「のっぽさん、ひょろ長さん、この家を護ってくれますか?」 彼女はモビールを回しながら歌った。「この家にひとりで住む者を、見守ってくれますか?」
《新米密教信者》 アート:Zara Alfonso |
残っていた山羊を、メイリンが家の後ろから連れてきた。「これを木立に連れて行くのですか?」
背後から火花の音が聞こえ、ヴァドリックははっと振り返った。年経た枝指がそこにいて、興味深そうに見つめていた。
「その時間はなさそうだ」とヴァドリック。「今回、こいつはさっさと来てくれた」
「ハンノキの年経た枝指さん、私の代わりにこの山羊を」 アリオーサはヴァドリックが予想したよりも遥かに、召喚魔法を知っていた。
「蔦の王アヴァルよ、古き破壊者よ、私がお願いしないなら、誰も傷つけないで」
枝指は吼え、そして白山羊はゆっくりとそれに向かっていった。動物の生け贄というものを見たことがないヴァドリックは目を閉じた。だが引き裂く音も鳴き声も聞こえず、彼は再び目を開けた。
枝指は一本の長い指で、山羊の喉を撫でていた。
不死者と山羊はポプラの木立へと歩き去っていった。もう一体、黒い山羊が、森の中から現れて加わった。
「ご老人、次は何処へ?」 レムが尋ねた。
「何処にも」 ヴァドリックは答えた。「君は君の道を行くのだろう。私は家へ帰る。研究と夫が待っているのでね」
「だが我々は実にいい仲間同士だ!」とレム。「私には腕力と勇気が、君には頭脳と魔力がある! そしてあの小さなきらめく魔法の光だ。私たちをうたうであろう歌は止められないぞ!」
ヴァドリックは馬にまたがると、今やわずかに安全になった夫の故郷を最後に一瞥した。「レム・カロラスよ。いつか彼らに、我々の歌をうたう更なる理由をやるだろう、間違いなくな。だが今は、どんな吟遊詩人よりも大切な声の主が私の帰りを待っている。無事とよい旅を祈るよ」
彼は手綱をひらめかせ、出発しようとした。
「なあ、ヴァドリック!」 レムが呼びかけた。「ジェンリクも君ほどあの光の魔法は上手ではなかったぞ。あいつは誇らしく思うだろうな」
ヴァドリックは馬を止め、振り返った。
「光の魔法については冗談だ。けれどジェンリクについては本心だ」
ヴァドリックはその賛辞に笑みをこらえようとしたが、失敗した。
馬のひづめが敷石を叩く中、ヴァドリックはあの古い農家の、二つの寝台について考え続けた。あの寝台が今も整えられているというのは非常に奇妙だった。あの木立で枝指に合う前に、あの家の中に見えた緑色の光は。アリオーサが生き延びていたのは、無傷でいられたのは非常に奇妙だった。
歌い、笑いながら子供たちが道を駆けていた。
むっつり枝が
ヴィクを殺した
こっち来ないで
こっち来ないで
枝のおじさん
いたずら沢山
怖がる子の声
聞いてるよ
ヒルギン婆さん
子供たち消えた
どこへいったの
どこへいったの
年経た枝さん
泥の中
引きずりこんで
皮を着る
ほどなく、街は背後の遠くへと消えていった。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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