MAGIC STORY

イニストラード:真夜中の狩り

EPISODE 05

メインストーリー第3話:ベツォルド家の凋落

K. Arsenault Rivera
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2021年9月15日

 

「言ったよね、その鍵はスレイベンにあるなら大丈夫だって……」

 他の何よりも早く、不浄なる死者の呻き声がチャンドラに応えた。ケイヤは鼻をつまんだ。テフェリーは既に口で息をしていたが、それでも良くはなかった。真昼にもかかわらず、分厚い雲がその影を大聖堂の残骸に投げかけていた。空ですら、その光景を恥じているようだった。

 その様子に、アーリンは胃に不快なものを感じた。昼時に読書をして過ごした尖塔は、今や地面に砕け散る瓦礫と化していた。あんなにも大切にしていたステンドグラスは割れていた。呆れるほどに群れる死者を見るのは、更なる裏切りのように感じた。その中に知人が見つかるかもしれない可能性は考えたくなかった。

 彼女は息をのんだ。蟻の群れが丘を取り囲むように、ゾンビは大聖堂を取り囲んでいた。それを突破するのは簡単ではないだろう。

夜を照らす》 アート:Wei Wei

「鍵はおそらく大丈夫だと思います」とエーデリン。「ですが調査を終えるまでは、何とも言えません」

 既に彼女たちは――むしろケイヤが――幾らかの調査を行っていた。スレイベンにたどり着くには一週間ほどを要した――この時間があれば十分に探せただろうに。かと言って直観だけでは探しようがなかった。スレイベンに到着するや否や、ケイヤは一行から離れて独りで偵察に向かった。そしてどこへ行ったのかはともかく、間もなくして埃をかぶった書物を手に戻ってきた。

「七十七ページを見て」 ケイヤはそう告げた。

 言われた通りに開くと、彩飾されたページに緻密な木版画が印刷されていた。カティルダに似た魔女が、どこかの家族に一つの箱を手渡している。ガヴォニーのベツォルド家、説明にはそう書かれていた。

 大聖堂にいた頃、アーリンはウォリン・ベツォルドと面識があった――いかにも年老いた司教らしい、厳格な人物。彼女の拳が痛んだ。それだけではなく心も。その人物がどこにいるか知っているために……そう、そこにいる。あの群れの中に。それだけでなく、昔の友人がどれほど沢山いるのだろうか。

「あれは司教様ではありませんか」 エーデリンの声がアーリンの思考を中断した。聖戦士は鞘に収めたままの剣で、大聖堂の壊れた信者席を示した。神聖な法衣をまとった人影が、説教壇の前に立っていた。アーリンが恐怖したことに、その人物は群衆に説教をしているように見えた。会衆席はゾンビで埋まっており、それらは手を叩き、頭を下げ、祈っていた。

 大患期はこの場所に真の不浄をもたらしてしまった。かつて、リリアナはエルドラージと戦うためにこれらのゾンビを呼び起こした。生きる死者と並んで戦うというだけでも十分に嫌なものだったが、その後にそれらとやり合うのは最悪と言えた。誰かがリリアナに、残ったゾンビをどうすればいいのか尋ねたという話を聞いたことがある。彼女は「利用法は山ほどあるわよ、創造的に考えなさい」と返答した――その話はそう続いていた。

 それを考えて、心が重くなった。この場所はかつて自分が愛した全てを侮辱している。アーリンはかつての姿をよく知っていた。

 そして、その男がまとう法衣も知っていた。弱弱しく、彼女は頷いた。あの人だ。

「他にどうしようもないわよ」とケイヤ。「あそこに向かうために道を切り開かないと」

 エーデリンは自分の馬にまたがった――その白馬は「いかずち」とか「獅子の盾」か、そんな英雄的な名前だった気がする。だが聖戦士がそれにまたがる姿を見ると、幾らかの希望を感じずにはいられなかった。

「私に任せてください」とエーデリン。「私たち聖戦士は、不浄のものと長年戦ってきました。皆さん四人はウォリン様のもとへ向かうことに集中してください」

 チャンドラはゾンビの群れを一瞥し、そしてエーデリンに向き直った。「待って、あれ全部と戦うの? 無理でしょ。私が後ろを担当するから、三人でウォリンって人の所へ向かって」 チャンドラの周囲の大気が揺らぎ、その得意げな熱意を表すように気温が上がった。やることはひとつ――チャンドラは力を放とうとしていた。

 エーデリンの笑みが戻ってきた「わかりました。私が前を行きます。チャンドラ・ナラーさんは後ろを」

 敬礼の真似ごとがそれに応えた。状況がこんなにも切迫していなければ、アーリンも笑みを浮かべたかもしれない。現状、自分たちが仲良くやれていることは少し楽しく思っていた。だがそんな気分も、荒廃した信者席に目をやると消え去った。

 時間を無駄にはできない。

 エーデリンと聖戦士たちが突撃を先導し、死者という金床に聖なる鎚が振り下ろされた。エーデリンの命令はその剣の切先と同じく、素早く的確だった。死体の首が次々と、果実のように落ちた。一体が飛びかかってきたが、空中でその動きが遅くなった。テフェリーの杖から青色の魔力が流れ出て、中央の柱へ向かう死者たちの進軍を緩めた。ごくわずかな遅延だったが、エーデリンが盾でゾンビを叩き、その喉に剣を突き立てるには十分だった。

 とはいえ切り開いた道も長くはもたなそうだった。

 苦労して確保した進路に入り、ケイヤは幽体化と実体化を繰り返した。アーリンは途中で変身した。死者が伸ばす腕は不味かった。可能な限り彼女はそれらを避け、自然が与えてくれた鉤爪で顔や歯や脚を切り裂いた。それでも毛皮に飛沫がかかり、呻き声は耳に滑り込み、悪臭は喉に籠った。

 だがチャンドラが背後につくと、アーリンは幾らかの安心を感じた。炎の大波がふたつ彼女の手から放たれ、テフェリーの魔法の壁が消えかけた所にもっと密度の高いものが入った。死者ですら炎を怖れる、サリアがそう示してくれていた。死者たちはひとつになって悲鳴を上げ、焼け付く熱から下がり、英雄たちと死者との隙間を広げた。それでも彼女は終わらなかった――仲間たちが進む中、チャンドラはゾンビの群れに対峙し、生命の息吹そのもののように炎を作り出した。そこにいたゾンビたちは、今や風に散る灰と化していた。

 チャンドラがゾンビたちを橙色の炎で浸す中、エーデリンは肩越しにさっと振り返った。紅蓮術師は自らの真髄のまさに中心で、命を救う破壊に取り囲まれていた。

 エーデリンがどう思っているかはともかく、アーリンは確信していた。どんな状況であろうと、チャンドラ・ナラーを怒らせるべきではない。

 教会に突入するのは簡単ではないが、炎と剣に挟まれれば多少は楽になる。周囲の壁は大患期に破壊され、よじれた何かに変わっていた。言葉なきウォリンのうめき声が次第に近づいてきた。かつては神聖なものであった壁には炎がちらついていた。心が痛みながらも、アーリンはそれが浄化の一種であることを願った。

「もう行ける?」 チャンドラが叫んだ。その声は炎の咆哮に飲み込まれていたが、アーリンには聞こえた。彼女は駆け出した。

 エーデリンは壁沿いにウォリンの背後へと回った。司教はかつてアーリンへと教えた祈りを無為に呟いていた。彼女が人間の姿に戻ると、粘液を滲ませた死者の両目が今一度はっとした。その口が彼女の名の形に動いた。司教はアーリンを指さした、あるいはその瑞々しい肉を。前者であることをアーリンは願った。

「ウォリン様、私です」 アーリンは呼びかけた。「おわかりになられますか?」

「デニック?」 それが返答だった。彼女は肩越しに振り返った――チャンドラは皆と共に近づいてきていた。エーデリンと聖戦士たちは円形に広がり、アーリンとウォリンを取り囲んでいた。

「ウォリン様」 かつて知る人物の、忌まわしく変わり果てた姿に向かい、落ち着いた声を出すようアーリンは全力を尽くした。「私たち、月銀の鍵を探しています。在処をご存知ではありませんか?」

 司教は瞬きをした。一度、そしてもう一度。その歯のない顎が閉じられた。

 沈黙。

 エーデリンの剣が死者に叩きつけられ、炎が放たれた。ケイヤとテフェリーはアーリンを見た。

「鍵です、ウォリン様」 天使に祈り、アーリンは両手を司教の肩に置いた。今のところ、司教は目をそらしはしなかった。

「デニック」 それが返答だった。

「アーリンさん、長くはもちません!」 エーデリンが叫んだ。

「鍵です」 アーリンは繰り返した。

「デ……デニック……」

 アーリンは小声で罵った。「司教様から得られる情報は全部得たわ!」

「上等よ」とチャンドラ。「エディ、後ろをお願い!」

 炎が再び大聖堂を占拠すると、アーリンは自分だけが与えられる安らぎをウォリンに与えた。破壊音。そして祈りと、この先への希望を。


 その人物について知っていると思っても、それはしばしば、その人物の一部でしかない。生前のウォリンはその通り、厳格な聖職者だった。彼が神学以外の何かについて語る様子をアーリンは思い出せなかった。ウォリンの返答は常に深く考えられたもので、彼は人生を教会に捧げた類の男だとアーリンは想像していた。時に、彼は自分が指導する若者をガヴォニーへ連れていったが、わかるのはそれだけだった。

 だが人がそんなに単純ということは滅多にない。ベツォルド家が故郷とする静かなガヴォニーの街へやって来ると、彼女たちは尋ねることから始めた。

「ウォリンとデニック?」 一年かけて育ててきた南瓜から霜を払いながら、ある女性が言った。年老いても作物の世話を止めることはせず、そしてその両手は熟練の正確さがあった。「うーん。探し人には遅い時間だね」

 アーリンはその女性の隣に膝をついた。「そうですか? すみません。来るまでに時間がかかりました。雪に足をとられてしまいまして」

「そんなに雪深くもないだろうに」 その女性が返答した。「霜だけだよ。その歳ならもっといい言い訳に使ったらどうだね」

 アーリンは小さな笑みを浮かべずにいられなかった。どれほど沢山の世界を巡ろうと、我が家だと感じる場所はここ以外にない。「そうですね、その通りです」 雪は軽かった――触れるだけで融けた。「ですが、何かご存知ではありませんか」

 その老女は改めてアーリンを見つめた。「遅かったね」

「遅かった?」 アーリンはその言葉を繰り返し、眉をひそめた。

「大患期の前までは姿を見たんだけどね」 老女はそう告げた。「家族の古い館に籠ってるよ。安全のため、そう言ってた。以来姿を見た者はいないよ。あの場所はひどく祟られてる」

 アーリンは肩越しに振り返った。ベツォルド家の館はとある丘の上に立っており、ここからでも大きく開いた窓が見えた。「ですがそんなに恐ろしいのであれば、何故そこに?」

 その老女は手を叩いて土を払った。「デニックというのはウォリンの息子なんだよ」


 大患期はイニストラードの全てを壊したが、作り直されたものもある。確固とした必死の手が、石を取り除いて木や粗末な鉄を使い、街道の歪んだアヴァシン教の聖印を昔の姿に直した。家々は壊されていたが、まるで縫い師がそうするように近隣の破片を用いて再建されていた。人々も同じだった。あるものは内に傷を負い、ある者は単純に子供たちから目を離さず、ある者は義手義足を強く掴みながら、よそ者たちが街を通過する様子を見つめた。

 イニストラードは壊れ、築き、生き延びる。

 善い考え、だが丘の上の館はそれに嘘を突きつけた。近づくとベツォルドの生家は荒れ果てており、邪なものが放たれようとしていた。邪というのはそれにふさわしい言葉、アーリンはそう確信していた。自分たちを見下ろす窓、石壁を這う蔦、そして扉が大きく開かれた様子はまさしくそう思えた。

 見つめたくはなかった。だがそうしなければ。

 五人の中でも、最も平気な様子でいるのはケイヤだった。その家に近づきながらも、彼女は全く怖がる様子を見せなかった。館の大きく開いた扉も、彼女の心をざわつかせはしなかった。ケイヤはそれを上から下まで眺め、眉間に皺を寄せ、そして親指で鼻をかいた。「その人はここにいるの?」

 アーリンは頷いた。

「意地悪な霊の群れと一緒に?」

「いかにもそういう場所よね」とチャンドラ。

「聖印を――」エーデリンが言いかけたが、ケイヤはそれを払った。

「大丈夫。五分だけ待って、そうしたら入ってきて」

スレイベンの除霊》 アート:Matt Stewart

 そして例のごとく、ケイヤは皆の返答を待たずに入り口へと向かった。ケイヤの魔術の鋭い匂いが大気に満ちてアーリンの鼻がうずき、慣れてきた低い響きが続いた。エーデリンは覗き見ようと、壊れた窓のひとつへ向かった。チャンドラも続き、同じ窓を占拠した。彼女たちの様子から、目覚ましいものが繰り広げられているとわかった。

 時に、誘惑に抗うのは困難だ。苦々しいが、トヴォラーも同じことを言うだろう。抑制というのは人間の物事であって野生の物事ではない。情熱と本能に身を任せろ――それらは常に最良を知っている。彼はそう教えてくれた。

 教会は、違うことを教えてくれた。

 彼女は窓に顔をつけた。中では、ケイヤの朧な姿へと灰色がかった白いものが向かっていった。だがそこには幽霊がいるだけではなかった。あの老女の言葉は正しかった。この場所はひどく祟られている、だがそれも長くはないようだった。ケイヤは驚くべき効率でそれらを倒していった。彼女の姿を追うのは困難だった。幽霊から幽霊へと跳び、ここでナイフを背中に突き立て、そこで透明な喉をかき切って。霊たちはその後何処へ行くのだろう、アーリンは思わずそう訝しんだ。それは祝福された眠りなのか、それとも他の何かなのか。

 後で、尋ねてみてもいいかもしれない。

 今のところ、その部屋から超自然的な脅威は取り除かれた。まずチャンドラが突入し、直後にエーデリン、そしてアーリンが続いた。テフェリーは最後尾を務めた。幽霊も彼をさほど煩わせはしないようで、テフェリーは普段通りの気楽な様子で入ってきた。

 だが、館には別の階があった。

 彼女たちが進むと、軋む一歩ごとに噛みつくような息が応え、がたがたの扉の先に響く音は次第に大きくなるばかりだった。チャンドラは扉を開こうと動いたが、エーデリンがその肩に手を置いて止めた。

「私が開けます。後ろにいてください」

 その物腰は物語から抜け出したようだった。勇敢な行為、だが彼女が全体重をぶつけて扉を砕く様子もまた勇ましかった。中に入ると、ケイヤは何気ない様子で幽霊の一体に近づいた。仲間たちが突入してくると、ケイヤは皮肉なお辞儀をして迎えた。

「お探しの人がいたわよ。落ち着いて大丈夫」

 テフェリーの鼻歌は楽しそうだった。「五分もかからなかったな」

「あら、貴方がそう言ってくれるとはね。残り時間を埋める?」

「そんな簡単なものならね」 テフェリーは肩越しに振り返り、共感の柔らかな笑みを向けた。彼は浮遊する一体の霊を示した――三十にもなっていない男性だ。骸骨が瓦礫の破片の下敷きになっている。思うに彼なのだろう。幽霊たちは揃いの粗末な衣服をまとっていた。「お先にどうぞ」

 アーリンは待たなかった。彼女は霊に近づき、その手を握りたいという衝動をこらえた。「デニックさんですか? アーリン・コードといいます。貴方のお父上の友人でした」

 幽霊の目が大きく見開かれるというのは、何と奇妙なことか。「父上の? 父上に言われてここに来たと?」

敬虔な心霊、デニック》 アート:Chris Rallis

 それができる時は、真実を伝える方が良い。どれほど不快な真実であろうとも。「そうとは言えません。お父上は亡くなられました。私がこの手で司教様を眠りにつかせましたが、あの方は最後まで貴方の名を呼んでおられました」

「眠りにつかせた?」 幽霊は当惑するように指を動かした。「つまりそれは……父は不死者と化した、と?」

「ええ」 アーリンは頷いた。「そのままにしてはおけませんでした。ですが、とても重要なことを尋ねに来たのです。貴方の一家が守っていたらしきものを――」

「む。社交上の訪問ではなく?」

「そうです。月銀の鍵と呼ばれるものをご存知ではありませんか。イニストラードがそれを必要としています。夜が長くなりつつあり、それを正す儀式のためにその鍵が必要なのです」

「つまりそれは社交上の訪問だと思うが」 まだ指を動かしながら、デニックが返答した。「誰もがその鍵を欲する。私は見たことはない。私はベツォルド家の正式な血筋ではない、父がそう言っていた」

「そうであれば、お父上は愚かだったというものです」とアーリン。「貴方は今ここに、あらゆるベツォルド家の方と同じようにおられます。そして鍵の在処を教えて頂ければ、一家の義務を他の誰よりもよく果たすことになります」

 何故か、幽霊は溜息をついたようだった。「そう思う。わかった。うむ……鍵については耳にしていたので、私もここで幾らか調査を行った……そして、我が家にはないとわかった。曾祖父がある吸血鬼へと差し出し、保管を願ったのだ。愚かだろうか?」

 ケイヤは再び鼻をつまんだ。

 チャンドラは息をのみ、指を一本立てた。「ちょっといいかな、質問させて。どの吸血鬼?」

 デニックは溜息をついた。「答えたなら、私を眠りにつかせてくれるか?」

「それがお望みであれば」とアーリン。「ですが、イニストラードの危機は去ったと知れば、眠りはより安らかとなりませんか」

 考えるように、彼は首を回した。そして告げた。「マルコフ家だ。その王子が持っている。父は私を心配してくれていただろうか?」

「最悪じゃん」 チャンドラはそう言って扉へ向かいかけたが、アーリンが背後に留まった。

 デニックは喋る相手を欲している。少なくとも、耳を傾けることはできる――少なくとも今しばらくは。


 イニストラードは立ち直る。

 吸血鬼であっても。

 彼らが起こした大混乱と同じほどに、その匂いに胃袋がむかつくのと同じほどに、吸血鬼を憎むのと同じほどに――そこには慰めがあるとアーリンは認めざるを得なかった。大患期に例外はない。遠くない昔、闇の住人たちが人類を一掃しようとしたように、彼らもまた同じ側で戦っていた。

 再びそれができるとアーリンは願った。

 仲間たちは先を進んでいた。チャンドラは物憂げだった。蛇の巣穴に踏み入るという考えは彼女の好みではなかった。ケイヤもだった。だがアーリンは彼女たちとは違うものを理解していた。ここはかつて、人々が希望を見出した場所だった。仲間たちは知っていても、真には理解していないもの。腹の底に凄まじい飢えを秘めながら、より善き物事のために獣の本能に抗う――彼女はソリン・マルコフが好きではなかったが、尊敬はできた。

 そして自分に希望をくれた天使の記憶を、彼女は大切にしていた。その希望があの白鹿のようにとらえがたいものだとしても。

 仲間たちが進む中、アーリンは門のすぐ外で立ち止まった。真二つに割れたアヴァシン教の聖印を蔦が飲み込んでいた。鋭い爪でそれを切り裂くと、彼女はその聖印を正して祈りを始めた。

「天使よ、夜の我らを守りたまえ……」

 驚いたことに、別の声が加わった。エーデリンだった。

 わずかに遅れてテフェリーが、祈り文句を学びながら続いた。

 チャンドラも後から加わった、少々早口で、何度も言い間違え、だが最善を尽くそうとした。

 そして最後に――かすかな溜息とともに――ほぼ終わりかけた時に、ケイヤも加わった。

 全員が言い終えると、仲間たちは柔らかな笑みを交わし、そして進んだ。

 もはや声の届くことのない天使に何故祈るのか、そう尋ねる者はいなかった。


 マルコフ家の館に行ったことがないと告げると、橋を渡ることになると人々は言った。大きく開いた裂け目の上にかかる細い岩の線は平常時でも十分に威圧的だが、大患期はここにも訪れていた。橋は粉々になって浮いていた。城へ近づく唯一の道は、破片から破片へと跳ぶというものだった。マルコフ家の先祖の砕けた肖像が、跳び石を更に恐ろしい様相にしていた。

 中も、さほど良くはなかった。豪奢な杯は分厚い埃に覆われ、村ひとつを物乞いにするほどの価値がする鎧は行く手を塞ぐ岩と化していた。引き裂かれていない肖像も黒ずんでいた。さらに悪いことに、ここには死の匂いはなかった。腐敗も、血の匂いすらも――何の匂いもなかった。

「誰もいないってことない?」 チャンドラが尋ねた。

「その可能性はほとんど無いでしょうね」とケイヤ。「ひどい所だけど、見捨てられて荒れてるわけじゃない」 彼女は頭上のシャンデリアを指さした。「蝋燭が交換されてるもの」

「下僕でしょうね」とエーデリン。「ですがケイヤさんの言う通りです――更に警戒して進まねばなりません」

「けど、そいつがここにいなかったら? そうしたら何も言わずに鍵を盗んでく?」

「いないことを祈るわ」とアーリン。「でも思うにいそう。それでも、きっと話の通じる相手だと思うのよ」

 そう言いながら、彼女たちは突き出たひとつの岩を越えた。それは他の岩とは全く異なっていた。他は鋭くよじれ、見えざる敵を狙う短剣のようだった。対してこの一つはマルコフ家の顔面に開いた傷だった。その溝はどこよりも深く、長く二本が伸びていた。その縁も同様に粗く、心地悪いほどに、嚙みちぎられた跡のように見えた。乾いた血の汚れがその光景を更にぞっとするものに変えていた。

「この見た目は好きではありません」とエーデリン。

「私も好きとは言えないね」とテフェリー。

 ケイヤは不快そうに小さく音を立て、目を狭めた。「もう歯は勘弁よ、何であろうと」

「何があったのかソリンは知っているでしょう。鍵を探しに来たのは私たちだけではないのかも」とアーリン。

「そいつがここにいるのならね」とチャンドラ。

 だが、いる。いるはずだ。城をこんな状態にされ、彼は身を隠している……。アーリンは歯を食いしばった。何としても鍵を見つけるのだ。トヴォラーはイニストラードの心臓をその胸からえぐり出そうとしている。そうさせてはならない。

「ソリンがいるとすれば、玉座の間でしょう」とアーリン。

「この先でしょうね」とケイヤ。「肖像画がこの廊下にずっと並んでる。玉座の間に通じているとしか考えられないわ」

 それは的を射ていた。残っている肖像は多くなかったが、それでも十分だった。前方に立つ扉は言うまでもなかった。巨大で威圧的、うなる蝙蝠の顔が彫られ、今や蝶番から半ば外れかけていた。辿り着くと、アーリンは狼の姿に変身してその扉を開け放った。人間に戻ると、エーデリンが彼女に視線をやった。アーリンは友好的な笑みを向けた。

「大丈夫ですよ、私は良くしつけられていますから」 この冗談は、時に相手を和ませてくれる。最近はこの表現がどれほど正確かは定かでないとしても。森に戻れば、駆け出したくなるだろう。

 だが今日の彼女はアーリンであり、このままでいるつもりだった――たとえ今、埃っぽい玉座の間で、その王子が自分たちを待っているのがわかっていても。

 ソリン・マルコフはその城の壊れた玉座に、足を組んで座っていた。彼は日誌か何かのような、古く特徴のない書物を読んでいた。天井の穴が、灰色の皮膚へと一条の月光を投げかけていた。見捨てられた城、無人の絢爛の残骸に囲まれ、彼は奇妙な光景を作り出していた。

 彼女たちが入ってきてもソリンは顔を上げず、だが彼が発する憤りをアーリンは察した。その声は力強く傲慢だった。「私の邪魔をする目的は何だ。言え、さもなくば出ていけ」

「ソリン殿」 テフェリーが呼びかけた。言うまでもなく、踏み出したのは彼だった。言うまでもなく、彼は威圧的な様を全く見せなかった。宮廷儀礼に従ったそのお辞儀は、どんな貴族も恥じ入るほどのものだった。「再びお目にかかれて光栄に思います。些細な用件で参りました。手短なものです」

 吸血鬼は書物から顔を上げた。「お前の『手短』は信用できないとわかっている。用件を言え、今すぐだ」

 言おうとしながら、テフェリーは肩をすくめた。「月銀の鍵を探しています。夜は長くなりつつ――」

 ソリンは音を立てて書物を閉じた。「断る」

「断る、ってどういうこと?」とチャンドラ。「私たちずっとそれを探してきたのよ。少なくとも話を聞いてくれてったいいじゃないの」

 ソリンが睨みつけると、チャンドラは喋るのを止めた。この男には捕食性の何かと、それでいて魅了されるようなものがあった。アーリンはこれまで多くの血吸いたちに会ってきたが、ソリンのような者は他にいなかった。まるで犬と狼の違いのようだった。

 そう、彼が立ち上がる様子には、本を押しやる様子には、その足取りには、そして断言する態度には、肉食獣のような何かがあった――その手はさりげなく剣の柄に置かれていた。「私がこれまでこの次元に対してどれほどのものを捧げてきたのか、そんなにも熱心に理解したいか。私の一族が」 その言葉は威嚇も同然だった。「永遠の夜という無益な快楽主義に昇りたいと願うなら、私はもう十分に止めてきた。食わせておけ」

 テフェリーはチャンドラの前に進み出て、両手を挙げた。「彼女の言葉を聞く気が無いのであれば、私の言葉を。ソリン殿、この次元は貴方の家族でしょう。私たち全員がそう知っています。貴方が十分以上に力を尽くしてきたことも。私たちは私たちの役割を果たすため、鍵についてお尋ねしたいのです。ここにいるアーリンも、貴方以上に、永遠の夜など望んではいません」

「そうか? ならば言ってみるがいい、お前がこの次元に何を成してきたか。言え、聞いてやろう」 今やソリンは前進し、剣を鞘から抜いていた。アーリンの血の中の獣が、変身を呼びかけた。

 だが変身はしない。今はまだ。彼女は石の床に足を踏みしめた。「私は貴方ほど、この世界に尽くしてはいないかもしれません。ですがこの数年、この地を旅して人々の話を聞いてきました。何故人間が生きねばならないのか、貴方は誰よりも理解しているかと思います。貴方はアヴァシン様を創――」

 そう言い終えるよりも早く、剣が宙をひらめいた。怪我を防いだのはひとえに彼女自身の超自然的な反射神経によるものだった――アーリンは片腕を上げて剣の腹を弾いた。それでも鋼は肉に食い込み、赤い細流が床を塗らし、黒い蒸気が目を刺した。彼女の口内で、歯が伸びていった。黄金の瞳が闇の中で燃えていた。

「お前が」 ソリンは低い声を轟かせた。「その名を口にするな」

「何のためにあの方を創造したのか、忘れてしまわれたのですか?」 アーリンはそう言った。チャンドラは既に炎を燃やしていた。彼女はソリンの向こうで合図した。一言で、四人全員がソリンに襲いかかる。だがそうしたくはなかった。今はまだ。「私たちは天使を必要としています。希望を、信念を必要としています。日の光を必要としています――そのために鍵が必要なのです」

「出ていけ」 ソリンは叫んだ。その声は無人の壁に、危険に反響した。「今すぐだ」

「鍵を持たずには出ていけません」 断固として、アーリンは返答した。「貴方が忘れてしまったとしても、私はそうではありません」

 怒りに屈し、ソリンは次なる攻撃のために剣を振り上げた。アーリンは再び腕を構えた。

 だがその必要はなかった。黄金色に輝くひとひらの羽根が二人の間に落ち、一瞬して鷺の頭部を模した鎌が続いた。ソリンの剣はその天使の武器に跳ね返され、彼は憤怒を露わに後ずさると侵入者を睨みつけた。

 そして、今は真夜中かもしれないが、寒く暗い時かもしれないが、イニストラードの終焉の始まりかもしれないが、玉座の間に流れ込んだその黄金色の光は、アーリンの胸に希望をうねらせた。そう、目の前の天使の聖なる熱情も同様に。

 アヴァシンに祈りはもはや届かないかもしれない。

 だが、シガルダには。

光の勇者、シガルダ》 アート:Howard Lyon

「ソリン・マルコフ」 シガルダの声は豊かで、人間が発する声よりもわずかに反響した。「何処まで堕ちてしまったのですか。石からかろうじて這い出て、隠れ潜むだけとは」

 あの穴は……ソリンが? なんと奇妙なことだろう、この極めて長命の、吸血鬼の王子に哀れみを感じるとは。

 なお奇妙なことに、その男は剣を天使に向けた。「私に何をさせようというのだ? お前は何もかも知っているはずだ。言え、説明しろ。あるいはこいつらと仲良くここから出ていくかだ」

 シガルダは黄金色の瞳で睨みつけた。彼女はその視線をソリンから離しはせず、だがそれでも口を開くと、まるでアーリンはその天使が隣にいるように感じた。「アーリン・コード――貴女の信仰が私をここに呼び寄せました。貴女の心は公明正大です。月銀の鍵は三階、ソリンの私室で見つかるでしょう。行きなさい。私にはこの者のかつての創造物について、話すことがあります」

 チャンドラとケイヤは二度言われるまでもなかった――ふたりは階段へと駆け出した。「ありがとう、シガルダさん!」 豪奢なカーペットを踏みつけながら、チャンドラが叫んだ。敬意に溢れる礼をひとつ向けて、テフェリーもすぐに続いた。

 シガルダが鎌をソリンへと振り下ろし、危険を目の前にして吸血鬼の容貌は更に獣じみた。だがそれでもアーリンとエーデリンは残った。ひとつの確かな、神聖な恐怖に二人は目を離せずにいた。ここは自分たちの信仰対象と共に戦うのが忠実というものではないか? 二人は視線を交わした。エーデリンは盾を掲げた。

「行きなさい!」 天使は叫び、ソリンの剣が鎧を切り裂いた。「私を少しでも信じるのなら、行きなさい!」

 アーリンは息をのんだ。助けに入りたかった。エーデリンが彼女の腕を掴んだ。「邪魔になるだけです」 その呟きに、アーリンの感情が沈んだ。

 そして、エーデリンの言う通りかもしれない。

 だからといって、気分が晴れるわけがなかった。

 階段を上るほどに、エーデリンの後を進むほどに、追ってくる苦痛の咆哮に気をとられないように努めた。どれほどの数が天使のもので、どれほどの数が吸血鬼のものか数えないように努めた。それは、それ自体が、信仰だった。

 書棚と古い武器が並ぶその部屋を見つけたのはチャンドラだった。そして月銀の鍵を見つけたのはテフェリーだった。それは、とある彫像が差し伸べた手の上に座していた。ソリンがその彫像の首を切り落としたに違いなく、だが鎧と翼はそれが誰であったかを明確に物語っていた。頭部のないアヴァシンの彫像は、最高の装いをまとう若きソリンとその祖父の肖像画の下に座していた。

月銀の鍵》 アート:Joseph Meehan

 アーリンは鍵を取り上げた。

 祈りの言葉を呟いたのは、この日二度目だった。

 今回、彼女はシガルダの無事と、自分たちが収穫祭に間に合うように祈った。

 だが祈る相手である天使自身の無事を祈るのは奇妙なことで、時間を歪めてくれというのは更に奇妙だった。

 イニストラードでは何も保証できない――だが自分たちは生き延びるために、耐えるために、そして聖なる日の光を今一度目にするために、全力を尽くす。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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