MAGIC STORY

団結のドミナリア

EPISODE 08

サイドストーリー:悪夢の欠片

Phoebe Barton
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2022年8月17日

 

 シャナ・シッセイは船室の壁に手を触れ、ウェザーライト号の柔らかな熱が木製の船体に脈打つのを感じた。少なくともここは普段と変わらない。少なくともここでは、この偉大な飛翔艦が向かう先を目にすることはない。少なくともここでは、艦長シッセイの魂が自分をどう裁くかを想像することはない。

 きっと大丈夫。もう少しの間だけ、全てが持ちこたえてくれさえすれば。

「――壊れてしまいます」 ティアナが言っていた。シャナが返答せずにいると、天使がまとう光が激しく揺れた。「艦長、聞いていますか?」

「ええ、聞いているわ」とシャナ。「ティアナ、今は誰にとっても困難な時よ。ウェザーライト号を含めて」

「ウェザーライト号はこのような汚れを受けて平気ではいられません。何処もです。ファイレクシアの残骸は腐食性で、乗組員はそのすぐ近くでの活動を強いられています。船は痛んでいます、艦長。それを感じます」

「このファイレクシアの瓦礫がなければ、既に五回は撃ち落されているはず。連合は私たちを必要としていて、この偽装がなければシェオルドレッドの縄張りの上空は飛べないのよ」

アート:Piotr Dura

「船が壊れたら連合も困ります!」 ティアナの目には、追い詰められた天使の正当な憤怒が燃えていた。「パワーストーン誘導装置の修理を延期せざるを得なくなりましたし、調節ロッドに疲労亀裂が見られ――」

 シャナが聞いたこともない金切り声が空を裂き、ティアナの言葉を断ち切ってウェザーライト号を激しく傾けた。一瞬だけふたりは驚きの視線を交わし、船室から飛び出した。ファイレクシアの瓦礫をまとう作戦が上手くいかなかったなら、成功は自分たちに――いや、全員にかかっている。

「何があったの?」 操舵室に駆け込みながら、シャナは叫んだ。操舵手のバトノは床に横たわり、その頭は自らの血だまりに浸っていた。代わりにラフ・キャパシェンが舵輪を操り、外では夕日が雲を炎のように染めていた。

「骨ドラゴンだと思います!」 ラフは舵輪を勢いよく回し、ウェザーライト号は重々しく傾いた。「後ろから来ました。まだよく見えていませんが、叫んだだけでこれなら、鉤爪で何をされるかはわかりたくもありませんよ!」

「なら高度を上げて」 シャナは手すりにつかまった。何もかも上手くいっていたのに!「相手が何であろうと、こちらの鉤爪を見せてやりましょう」

 またも金切り声がウェザーライト号の船体を叩き、シャナはその中にドラゴンの憤怒を聞いた。戦わずに墜落とあっては、この飛翔艦の矜持に関わる。船が水平に戻ると、比較的新入りの操舵手ウラーテンとアニクスニがバトノを運び出した。運が良ければ彼は生き延びるだろう。運がとても良ければ、その運は彼のために使おう。

「いました、前方です!」 砲座でヴェレナが叫んだ。「セラよ、あれを!」

 指をさした先で、一体のドラゴンというよりも骨の塊のような生物が船に接近しつつあった。無傷なのは翼だけで、繊維質の赤い被膜はウェザーライト号自身がまとう偽装を思わせた。それは魔法のエネルギーに揺らめく真紅の槍をウェザーライト号めがけて吐き出した。ラフが素早く反応して舵輪を動かさなければ貫かれていただろう。

「ヴェレナ、セラの慈悲をあの怪物に見せてやりなさい」 自らの憤怒であれを空から叩き落せたらと願うかのように、シャナはドラゴンへと顔をしかめた。「魔力弾をできるだけ集中的に浴びせて!」

「喜んで、艦長!」

アート:Svetlin Velinov

 音楽のような響きがウェザーライト号全体を震わせ、それは深まり、増加し、緑色の稲妻が弾けてドラゴンへと放たれた。いや、ドラゴンがいた場所へ。それは骨にありえない速度と精密さで避け、魔力の稲妻は雲を貫いただけだった。

「これじゃ駄目」 シャナが言った。「ラフ、もっと接近して」

「鉤爪が届かない距離を保ちますが、保証はできません!」 ラフは掌を舵輪に叩きつけた。「南の経路を取るべきだったんですよ」

「今いるのはここなの」とシャナ。どの経路が安全か、そもそも安全な経路などあるのか、それは誰にもわからなかった。ドミナリアはほんの数年前とは変わってしまっていた。風は清く空は平和だったあの頃。今日このごろでは、あらゆるものがファイレクシアの侵略者の匂いを漂わせていた。

「そうですけどね」 ウェザーライト号をドラゴンの後方に留めながら、ラフは言った。ドラゴンは体勢を整えると、またも真紅の槍を放った。「まずい、掴まって!」

 ラフはウェザーライト号を強引に回避させた。それでも十分ではなく、槍の一本が右舷の翼に熱と炎の咆哮で穴をあけた。衝撃の激しさを鑑みるに、徹底的に修理をしたいというティアナの願いは叶えられるだろう――この先の数分間を生き延びることさえできたなら。

「左ががら空き! 今です!」 ヴェレナが叫んだ。「撃て!」

 ウェザーライト号の砲台から魔力弾の雨あられが再び放たれ、この時骸骨のドラゴンは回避できないほど接近していた。数発がそれ、もう数発はドラゴンの胸郭や尾に散ったが、残るは片方の翼に命中し、鋭く折れる音を立てて裂いた。ドラゴンは吼え、空から落ちていった。それを墓場から蘇らせた魔法がどれほどのものであろうと、片方の翼だけで舞い続けることはできない。

 一瞬だけ、シャナは乗組員たちの素晴らしい働きを喜んだ。彼らは全員がシッセイの模範に従って生きていた。

「艦長、とにかく今すぐ着陸しないと!」 ティアナの声が伝声管から轟いた。「自力で降りなければ墜落します!」

 ラフはシャナの返答を待たずにウェザーライト号を急降下させ、シャナはそれを責めはしなかった。蘇生されたドラゴンを空から撃ち落したというのに、自分たちが墜落するのは無様という他ないのだから。


「今の降下がどれほど墜落に近かったかは知りたくありませんよね」 ティアナが言った。「ですので聞かないでください」

 シャナは土を掴んで握りしめ、拳が朝日の色を帯びた。陽光の最後の名残に照らされたオタリア大陸。広大な平原が険しい山麓へと続く風景は避難所というよりも危険地帯のように見えた。彼女の隣に立つアルヴァードですら、不安な様子を見せていた。

「そうであれば、運命を嘆くのはやめましょう」とアルヴァード。「生き延びただけでも満足です」

「まだましですよ」 ラフが北を指さした。黄昏の光が照らす山々はかすかに見えるだけだった。「パーディック山に降りていたら、楽しいことになっていたかもしれませんからね」

「どれだけ楽しいことになっていたかは、安全に寄港してから話せばいいわ」とシャナ。「ティアナ、発進できるまでどのくらいかかりそう?」

 工匠の天使は、壊れたやかんが発するような口笛を吹いた。「それが問題です。発進はできません。調節ロッドの半数は折れています。この状態でパワーストーンを起動させたなら、ボン! ウェザーライト号は終わりです」

「交換はできないの? 予備の部品は?」

「折れていないもう半分こそが予備の部品です。今あるもので新しくは作れません」

「そんなことは……」 シャナは不安と苛立ちに包まれた。シッセイ、ジョイラ、イルサ・ブレイヴェン、かつてのウェザーライト号の艦長たちが彼方から自分を非難しているような気分だった。「つまり、身動きが取れないってこと? 動けないってこと?」

 しばし、誰も口を開かなかった。ウェザーライト号を失う、その考えは背中にナイフを突き立てられるようだった。犠牲の果てに、逃走の果てに、こんな形でここで終わる?

「まだ終わりじゃない、かもしれません」 山々を見つめ、ラフが言った。「僕が正しければですが」

 シャナははっとして彼に向き直った。「なら、全員のために貴方が正しいことを願うわ。何か見つけたの?」

「あのドラゴンは何かを守ってるみたいでした、魔法の沢山かかった何かを。ここからそう遠くありません。それが具体的に何なのかまではわからないんですが、それが発するものから察した感じですと、ティアナさんが船を修理するために使えるものかもしれません」

「『できない』よりも『かもしれない』の方がずっといいわ」とシャナ。「確かめに行きましょう」

「つまり……私も行くってことですか?」 ティアナは翼で身体を包んだ。「こんな状態のウェザーライト号を置いて行けと?」

「自分で言ったでしょう、ここで新しいものは作れないって」 シャナは答えた。「ラフが見つけたものが使えるなら、貴女もそこに行った方がいいわ。私たちがいない間はアルヴァードがきちんとやってくれるでしょう」

「艦長の言う通りだ」 アルヴァードが頷いた。「行ってくれ。君が少しの間いなくとも、ウェザーライト号はきっと大丈夫だ」

「そうね」とティアナ。「わかりました。この場合は私も向かう方がいいですよね。使えないものをはるばる持ち帰って時間を無駄にするのは良くありませんし」 彼女は笑みを浮かべたが、その両目からは懸念が拭いきれずにいた。

「そうです! きっと上手くいきますよ」 ラフは虚ろな笑い声をあげた。「ちっとも問題なんかじゃありません」


「近づいて見ると」 シャナが言った。「これは問題かもしれないわね」

 低い丘陵地帯に風がうなり、辺りにファイレクシアの侵略者の気配はなかった。その中に、油ぎった黒い煙のドームが音をたててうねっていた。ラフは指を立てて大気の匂いをかぎ、シャナはドームをめがけて石を投げた。石は勢いよく当たって地面に落下し、命中した箇所には跡が残された。

アート:Drew Tucker

「トレイリアのアカデミーでは見たこともないです、けど何とか対処できるかもしれません」 ラフは少し考え、そして集中し、魔法の炎を召喚してドームへと放った。それは海に燃え殻を落としたように、煙すら上げることなく消えた。

「うーん」 彼は膝をつき、木の枝で地面を引っかいた。「シャナさんは魔法に免疫がありますよね。そのまま通り抜けられたりしませんか」

「触れただけでそのまま蒸発するかも」とティアナ。「魔法は尊敬すべきものであって、挑戦すべきものじゃない。決して艦長の命を試すようなものではないの」

「誰も蒸発なんてさせないわよ」 シャナが言った。蒸発する気など毛頭ない。「考えましょう。何か別の方法があるはず」

 シャナはドームを見つめ、そのうねる表面に何か作戦の手がかりはないかと探した。その時、馴染みのない鋭い痛みを彼女は感じた。魔法が無効化された感覚とは違う、けれどそれを鏡映しにしたようなものが、舌に感じる酸味とともにあった。ラフも落ち着かない様子だった。

「ラフも感じるの? ファイレクシア人?」

「そうだとしたら、奴らは創造的になりましたね。離れた方がいいかもしれません」

 だが数歩下がるよりも早く、小さな稲妻のような低く素早い音が弾けた。続いて風のくぐもった咆哮がかすかに、そして山ほども巨大な角笛が吹かれたような音が、世界のうめき声を背景に上がった。稲妻をまとい黒く吼える影がドームの隣に現れ、それらの音はうるさくなるばかりだった。シャナが剣に手をかけると、虹色と暗闇の暴風が次第にひとつの人影へと固まっていった。

 その姿は人間に似ているかもしれない、だが明らかに人間ではなかった。人間は、髪なのか影なのか判然としない三つ編みを十本ほども揺らしてはいない。その乱れた姿から鉤爪の手が沢山伸ばされ、身体は足と思しきもので終わっていた。その人物に平凡な所があるとすれば、額のゴーグルだけだった。

 シャナは剣の柄を握りしめた。

「いいかな、そこのあんたとあんたとあんた!」 三つ編みの奇妙な人物はシャナ、ラフ、ティアナを順に指さして笑い声をあげた。「あれの声を聞かなかったのは運がいいよ。蒸発しちゃうからね、当然の結果だ。親御さんに教わらなかったかな? 危険な魔法で遊んじゃ駄目だって」

「何者だ、下がれ!」 ラフは手を掲げ、魔法の光の模様をまとわせた。影の人物は笑い、そして身振りひとつで魔法の光は蝋燭の炎のように消えた。

「私は……名前は言えないね。ブレイズって呼びな。今さら私の気をひく必要はないよ。あんたたち三人、あそこで殺されなかったんだから。それで充分だよ」

「あのドラゴンは貴女のものだと?」 シャナが一歩踏み出した。「私の船を落としたと?」

「とんでもない、あれが私のものだったら、あんたたちは墜落を生き延びちゃいないよ。ファイレクシア人のせいさ。あいつらの戦争機械が秘密の墓の屋根を壊して、あれはほんのちょっと苛立ったってわけ。素敵できらきらして、疲れを知らない機械だ。可能性と燃え立つような死に満ちて! だから私はここでそいつから隠れてたのさ、何とかするためにね」

 シャナはもうふたりと視線を交わした。ラフは大気が酸っぱくなったような顔をし、だがティアナは翼を大きく広げ、その瞳には確信が満ちていた。

「そこに機械があるというなら、私が必要とする部品が手に入るに違いありません」 ティアナが言った。「急ぎの役目があるのです。飛翔艦が着陸して動けなくなっています。それを修理しなくてはなりません」

「ああ、なるほどね。あの壊れ方はとにかく興奮したよ!」 ブレイズの闇のオーラから影の鉤爪が三本伸ばされ、鋭い爪を鳴らした。「バキッ、バキッ、バキッ。ちょっと我を失ったくらい興奮した! 考えてごらん、興奮するでしょ? けどここにあんたとあんたとあんたがいるなら、助け合えると思うんだけどどう?」

 シャナは唇を尖らせ、剣を下ろした。ブレイズが何者でどこから現れたのかはともかく、まだ自分たちを殺そうとはしていない。ウェザーライト号が地上から動けないままであれば、ファイレクシア人は間違いなく自分たちを殺そうとするだろう。「何を考えている?」

「すごく単純だよ、あんたたち三人でもできるくらいに。私はあんたたちが中に入る手助けをする。あんたたちは私が私を殺すのを手助けするってわけ」


「大切なものを施錠された扉の先に置いてはいけないのはなぜか」 うねる煙の障壁の前に三人とブレイズが立つと、ラフが言った。「鍵をこじ開けることなんて、驚くくらい簡単だからです」

 自分を頼りにする者全員を思い、シャナは気持ちを引き締めた。ウェザーライト号、そして船の外の。無論、その魔法の障壁はラフが正しい手はずを踏めば解除できるような単純なものではなかった。それは彼女自身を粉々に砕いてしまうような、彼方の怪物のものに違いない。混沌の魔法がどのように機能するのかを理解したなどとうそぶく気はなかった。更に、ブレイズはいかにして自身をふたつに分割したのだろうか。一匹の虫のように単純な存在ですら、そんなことは不可能だというのに。それだけではなく、ブレイズのような存在が気まぐれな自身の複製を飲みこむために、なぜ助けを必要とするのか。シャナにとって魔法は理解の範疇を超えたものであり、ブレイズは魔法以上に理解の範疇を超えていた。

「思うに、あいつらはあんたたちに付きまとって、馬鹿な質問を浴びせてくるよ」 ブレイズは土を一掴みして障壁へと投げ、それが音と蒸気をあげる様子に笑みを浮かべた。「考え過ぎたら、あいつらはあんたたちの脳を卵の殻みたいに割っちゃうよ。すごい音を立てる。あんたたちが知っておかなきゃいけないのは、私はその姿の私を吸収し直さないといけないってこと。いい? あんたたちみたいな間抜けでも理解できるくらい単純だよね」

 シャナは剣の柄を握りしめ、不満をのみこんだ。ブレイズの欠片とやり合うのは「殺す」とは言えないかもしれないが、聞く限り極めて簡単というわけでもなさそうだった。だがウェザーライト号の修理と乗組員たちの安全がかかっている限り、やる価値はある。

「ブレイズさんは妨害なんて平気なように思えますが」 ティアナが言った。「岩で歩みが遅くなるような存在には見えません」

「泣き叫ぶ悪夢がずっといい仕事をしてくれる時に、錆びた機械で身を守る必要はないよねえ?」 ブレイズが発した笑い声はシャナの神経を逆立てた。「欠片の私も同じように考えてる。私ら全員にとって幸運なことに、悪夢はちょっとやり合ったことがあるんだよね」

 ブレイズが煙へと向かう一方、シャナはティアナへと振り返った。彼女は翼で身体を包み、まるで身も凍る夢から覚めたばかりのように見えた。天使が見る悪夢とは一体どのようなものだろうか?

「きっと上手くいきます」 ティアナが言った。「セラの祝福あれ」

「それにすがるしかないのかもね」とシャナ。「よし。それでは入りましょうか」

「その通り。あんたとあんたとあんた、少なくとも誰かひとりが生き延びてたどり着く可能性はそれで高くなるんだからね!」 ブレイズはぞっとする数の歯が並ぶ笑みを浮かべてみせた。「それぞれ、反対側に到着するまでひとりで歩く。迷わないこと。困ったことになったからって、そこで目覚めはしないからね」

「断言じゃなくて仮定で言って欲しかったです」とラフ。

「泣き叫ぶ悪夢の嵐の中を進んで、無傷で出られると思う?」 ブレイズの笑い声は死した戦争機械を起こすのではと思うほど耳障りだった。「うわごとを呟きながら出てこなかったら幸運だよ。興奮しない?」

 そのような状況になったとして、一体どうして興奮できるというのだろうか。それ以上に、真の恐怖が――ウェザーライト号を失い、戦に敗北する――既に彼女の目の前にあった。今こうして見据えている現実以上の悪夢など、想像もできなかった。

 ブレイズから影のような触手が数本伸びた。それらはしばし風の中の枝のように揺れ、そして捕食者が獲物を攻撃するように障壁を貫いた。障壁は水が熱い鉄板に落ちたような音を立て、戦傷の苦痛の叫びをあげた。恐怖の波がシャナを襲い、ラフは両耳を塞いで彼女には聞こえない何かを呟き、ティアナはその波に洗い流されたかのように膝をついた。

 一瞬の後、騒音と嵐は止んだ。障壁には四つの、滑らかであるが狭い穴があいていた。ブレイズは虹色の歯を見せて微笑んだ。

「入ったら一本の通路と、会いたくてたまらなかった素敵な悪夢が待ってるよ。他の誰かを追いかけようとしないこと。あんたたちが悪夢を共有したら脳みそが鼻から飛び出るのかな? それは是非知りたいんだけどまあ後にしとくよ。まずは私の欠片とやり合ってもらわないといけないからね」

 シャナは膝をつき、土を一掴みすると両掌にこすりつけた。障壁の外の世界では、悪夢は滅多に現実にはならない。外の世界との繋がりを多く持てば、ウェザーライト号と乗組員たちを救える可能性も高まる。それに失敗することだけが真の悪夢だった。

「ラフ、ティアナ、向こう側で会いましょう」 シャナは言った。「やるべきことはまだ沢山あるのだから」

 近づくと、障壁はうわごとを呟く不可解な嵐のようだった。シャナはひとつ深呼吸をして、ブレイズが開けた裂け目へと踏み入った。


 始まりは眠りよりも深い暗闇だった。光という概念をあざ笑うほど深い闇。引き返す意味はなく、シャナは前進した。過去に戻れはしないように、振り返ることはできない。そもそも方角もわらなかった。

 瞬きをする間に、光のない暗闇は見慣れたウェザーライト号の通路へと変化した。驚きはしなかった。悪夢に出会うならここだろう。自分の悩める人生の中心。

 もう一度瞬きをすると、別の人物がそこにいた。死して久しいシッセイが目の前に立っていた。半分は肉で半分は骨、煙のような影をまとってシャナと同じ剣を帯びていた。シッセイ自身の剣。祖先の偉業を最もよく思い出させるものであり、越えようとシャナが奮闘する模範。

「馬鹿な子孫ね」 シッセイは死者の顔に引きつる笑みを浮かべた。「自分が何をしたと思っているの?」

「私のやるべきことを」 これは自分の祖先ではなく、敬意を払う必要もない。「そこをどきなさい」

「私の記憶を今以上に蝕むために? 貴女には力と、ウェザーライト号の夢を与えた。それをどうしたのか、よく見てごらんなさい」

 シッセイは船の隔壁を剣で貫き、すると油と凝固した血の混合物が溢れ出た。更に幾つもの穴が自ら開き、ファイレクシアの破片でできた触手が弾け出た。それらがウェザーライト号に触れた箇所はファイレクシアの屍毒に汚染され、土気色に変化して腐敗した。

「私は世界を救うために戦ってるのよ」 シャナは言った。「本物のシッセイがそうしたように」

「けれどシッセイは成功した。違いはそこ」 シッセイは再び木の壁を貫き、偽りのウェザーライト号は悲鳴をあげた。「彼女はウェザーライト号を失ったけれど、それはヨーグモスを倒して世界を救った代価だった。貴方はあちらこちらにつまらない密輸品を運ぶとかいう、壮大で高貴な行いのために失いかけている。侵略者と対峙するのが怖いの? それとも貴女はシッセイの血の無駄遣いなの? 戦えるということを示すくらいの勇気は持っていないの?」

 シャナは嘲る悪夢へと顔をしかめ、一瞬の後、剣先をシッセイの喉元に突きつけた。悪夢はただ微笑むのみで、ぎざぎざに尖ったその歯はぞっとするようだった。この存在の喉を切り裂き、祖先の顔を滅多切りにするのはとても簡単だろう。切り裂いて無と帰し、葬り去るのは。

 他のあらゆる恐怖を葬り去ってきたように。戦いの前にティアナへと自らの悩みを押し殺すよう強いたように。ウェザーライト号を空へ戻せなかったなら、自然がそれを土に還すように。

 シャナは剣先を悪夢の首筋に押し付けた。血ではなく、灰色の煙が立ち上った。

「大切なのは私の勇気だけじゃない」 シャナは言った。「皆の勇気。私たちは力を合わせることで強くなる。お前がシッセイのことを少しでもわかっているなら、それもわかっているはず」

「けれど今、貴女は独り」 悪夢をまとうシッセイの顔の半分が、捕食者の笑みを見せた。「友達は貴女を助けてはくれない、その事実を受け止めなさい。そして貴女も彼らを助けることはできない。もう死んでいるかもしれないけれど」

 悪夢のシッセイは蛇のように顎を大きく開き、その喉の奥の暗闇にシャナはおぞましいものを見た。ラフは内臓を撒き散らして横たわり、ティアナは磨き上げられた骨格にだぶつく皮膚をまとっていた。ウェザーライト号の乗組員たちはファイレクシアの怪物へと堕落させられていた。両目から油を流し、棘だらけのワイヤーが巻かれた金属の触手を生やし、その中で悲鳴をあげていた。全員が悲鳴をあげていた。

「やめなさい!」 シャナはドラゴンの憤怒を叫んだ。「やめなさい!」

 続くシャナの攻撃に技巧はなく、ただ暴力だけがあった。彼女は悪夢のシッセイに襲いかかり、剣と悲鳴をもって切り裂き、突き、骨を叩き切って煙の雲を貫き、やがて悪夢は一片残らず消えた。少なくとも、シャナの目には何も見えなくなった。

 偽りのウェザーライト号の光景も消え、闇の通路が戻ってきた。だがこの時は完全な闇ではなかった。彼女の剣が輝き、その光が進む先を照らしていた。

「共に行きましょう」 シャナは呟き、屈することなく前進した。


 シャナが見積もるに、悪夢のシッセイを追い払ってから一時間半は歩いていたが、世界の果ては見えそうになかった。闇の中ではあったが、怖れてはいなかった。ここで死ぬとしても、それは乗組員たちを守ろうとしての死。艦長としてそれ以上にふさわしい死に方はない。

 通路は突然の死のように不意に終わった。瞬きの間にそれは蒸発し、足元は固く馴染みある土へと変化し、頭上には稲妻が走る雲が渦巻いていた。先を見つめると地面は泥の溜まったクレーターと化しており、ファイレクシアの戦争機械が一体、半ば沈んでいた。泥から抜け出そうとして失敗したかのように、それは関節を軋ませた。

 あの通路で見た何よりも悪夢のようだった。

「艦長!」 近くで聞こえた声に、シャナははっとして振り返った。ティアナは生きており、落ち着いているようだった。「無事でよかったです」

「ラフは? あの子は見た?」

「いいえ、私だけでした。それはありがたいことです」 ティアナは身震いをした。「共有すべきでないものがあります。ですがきっと彼は――」

 閃光も雷鳴も咆哮もなく、一瞬前に何もなかった場所にラフが現れた。彼はティアナのすぐ近くに出現し、彼女は驚きに小さな悲鳴をあげた。一方のラフは転げ、驚きに息をのんだ。

「いたわ。よかった」 シャナはラフへと片手を差し出した。「さあ。大丈夫?」

「大丈夫かって? 二度と出られないと思いましたよ!」 ラフはシャナの手を引っ張って立ち上がった。「何時間も歩き続けて、どこにもたどり着けなかったんです」

「何時間も?」 ティアナは眉をひそめた。「私には数分間としか」

「あの中では時間の流れも単純ではなかったみたいね」とシャナ。「外では何年も経っていないことを祈りましょう」

 そして三人が身構えるよりも早く、辺りには爪弾く音が満ちた。まるで軍隊行進曲を冗談めかして歪めたような。障壁の内部から幾つもの影が集まり、ひとつの姿へと凝集した。それはブレイズに似ていたが、消えかけてねじれていた。まるで歪んだ影が壁に焼き付き、そして滑り落ちたかのように。

 それが近づいてくる中、シャナは臆せずに立っていた。ブレイズの欠片、これを殺すためにここに来た。役目を果たす。

「残念だねえ」 欠片のブレイズがけたたましい声で言った。「あの悪夢はあんたたちの馬鹿な脳みそから作ったはずなんだけど。私も腕が鈍ったに違いないね」

「僕は幻影使いですので」 ラフが言った。「現実ではないものとやり合うのは慣れているんですよ」

「ふうん、そうかい。私は死と同じくらい現実だよ」 欠片のブレイズが言った。「そして今すぐ逃げない限り、あんたたちはそれを被るだろうね。親切心だなんて思わないでよ、あんたたちが帰り道を生き残れるかどうかが楽しみで仕方ないんだから」

 荒れ狂うひとつの影が障壁から滑り出て、シャナは身体を硬直させた。悪夢のシッセイのように容易く対処できればと願うだけだった。影は襲いかかるのではなく凝集し、元のブレイズの貪欲な姿を虹色と闇で作り出した。

「そこに……おや、それともそこにいるのは私かな?」 そのブレイズはくすくす笑った。「隠れられるとでも思った? 馬鹿なことはやめて戻っておいで、それとも壊されたい?」

「あいつはあんたたちに何を約束した?」 欠片のブレイズの声は必死だった、まるで虚構だと知った夢のように。「ふざけないで、あいつはあんたたちを利用してるんだよ!」

「ゆっくりしている時間はない」とシャナ。「終わらせるわよ!」

「断るよ!」 欠片のブレイズは悲鳴をあげ、障壁が震えて稲妻がひらめいた。「あいつと一緒にいるってんなら、あんたたち全員を殺すだけだよ!」

 欠片のブレイズはゆらめく影のような四つの手でシャナを指さした。黒く透明な立方体がその指から放たれ、シャナへと向かっていった。だがそれは彼女の魔法的耐性の前に、黄金色のかすかな光とともに散った。シッセイがその子孫へと与えた、最も長く続く賜物。

 光が消えるのを待たず、シャナは突進して切りつけた。だが欠片のブレイズは姿を消すと一瞬後には彼女の背後に立っていた。その掌はラフの頭に押し付けられていた。彼は呪文詠唱の途中で凍りつき、表情は恐怖に引きつっていた。

「腸で遊ぶより簡単ねえ」 欠片のブレイズが言った。「私の悪夢を全部見たと思った?」

 シャナは再び突撃したが、欠片のブレイズは笑みを浮かべただけだった。まるで状況の全てが自分の制御下にあると知っているかのように。だがその笑みは背後からの攻撃を受けて途切れた。ティアナが掌を広げ、天使の力を燃え上がらせていた。触れただけで欠片のブレイズは悲鳴をあげたが、彼女は身をよじって闇の光線をティアナの顔面へと放った。

 だがそれは届かなかった。ラフが唱えかけた呪文が自ら完成してブレイズの光線に激突し、嵐とともに両方が消滅した。その間にラフは欠片のブレイズから離れた。彼が作り出してくれた隙を逃さず、シャナは剣先を欠片のブレイズへと突き刺した。

 まさしく影のように、ほとんど抵抗はなかった。彼女の剣が炎と氷に、恐怖と喜びに燃え上がり、そして欠片のブレイズの悲鳴の中、シャナは悪夢の声の名残を聞いた。シャナが勢いよく剣を引き抜くと、元のブレイズが捕食者の笑みを浮かべて頭上から降りてきた。彼女の顎がまず大きく開かれ、そして縫製の粗末な衣服がちぎれるようにそれは裂け、喉に虚無が渦巻いたかと思うと地震で地割れが開くように、怒涛の勢いで欠片を完全にのみこんだ。何かが焼けるような悲鳴とともに障壁は消え、空の星々が彼女たちを見下ろした。

「これで……終わり?」 シャナは驚きにきょとんとした。「そんな簡単に?」

「まさか」 ブレイズが言った。「私があれを押さえつけてたんだよ。そうでなきゃあんたもあんたもあんたも、今ごろ醜い屍になってただろうね。特にあんたは」

「ええ、その通り……」 ラフは力が抜けたように腰を下ろした。「ティアナさんは幸運ですよ、眠ったり悪夢を見たりする心配をしなくていいんですから」

「私は迷ったのかと不安でした」とティアナ。「この先は大丈夫だと思います。それに……部品を集めはじめないといけません」

 それからしばし、誰も口を開かなかった。世界の静寂は安らぎとなり、やがてブレイズがそれを拍手とともに破った。

「さてさて、ここでそのまま死にたいのなら喜んで力を貸すよ。けどまだ私の手を借りて船に戻りたいなら、ほら立った立った! 約束するけど誰も殺しやしないさ、本当に殺したい奴だとしてもね。それにほら、私はあんたらを誰も殺してないじゃない?」

「頼もしいわね」シャナはそう言い、剣を鞘に収めた。「行くわよ。部品を集めてここから出ましょう」


 ウェザーライト号への帰路につく中、シャナは最後尾を務めた。ティアナに最初に船へとたどり着いてほしいだけでなく、ブレイズに目を光らせておきたかった。これまでに見てきたものから判断するに問題はなさそうだが、用心しておくに越したことはない。

「飛んでいかなくていいんですか、ティアナさん?」 ラフが尋ねた。「そうすれば、僕たちが追いついた頃には修理が終わっていると思うんですが」

「飛んで行ってもいいけれど」 ティアナはしばし翼を広げ、そして戦争機械から回収した部品を抱えた腕を包むように閉じた。「みんなを置いて行きたくありませんから。頭の上に落としてもまずいですし」

「私みたいな怪しいのを放っておきたくない、って?」 耳障りな笑い声とともに、ブレイズは闇のオーラから煙の蛇を伸ばした。「感動的だねえ、天使さん。わかるよ。ほら、私に触ってごらん、何が起こるかな?」

「誰も触らないこと」 シャナがそう言った。

「そうそう、きっと興奮するよ! まず愛しい人に確かに別れを告げる類の興奮だよ。世界を飛び回る前にはみんな別れを告げたんでしょう? 誰か抜けてたとしたらこそばゆい……」

「私たちに必要なのは、再び空へ飛び立つことだけ」 シャナが言った。ウェザーライト号がファイレクシアの侵略者に一撃を加えるたび、彼女は愛する者たちを思っていた。「今ある問題はそれが全てよ」

「早いに越したことはありません」 ティアナはそう言い、だが手で頭を押さえた。「何なのかはわかりませんが、ひどい頭痛がします」

 お辞儀をするように曲がった一本の木を彼女たちは過ぎた。ウェザーライト号の墜落地点はもう近い。小路の曲線に沿って、ふたつの光が跳ねながら近づいてきた。シャナは剣の柄を握りしめ、そしてヴェレナの叫び声が届くと、更に手に力を込めた。

「艦長!」 ヴェレナにはアルヴァードと、機関室のエルメグロンが同行していた。三人全員が傷つき、参っているようだった。「セラよ、無事を感謝します! ですが大変なんです!」

「何があったの?」

「ウェザーライト号が、その――」

 ヴェレナが言い終えるよりも早く、アルヴァードが叫んだ。「まずい、伏せろ!」

 病的な緑色の魔力弾が降り注ぎ、地面を砕いて木々を照らし出した。逃げる余裕はなかった。シャナは咄嗟に身を投げ出したが、わずかにかすめた。ヴェレナとエルメグロンはそこまで幸運ではなく、ラフが防御魔法を完成させる寸前に溶けて消えた。アルヴァードは苦痛にうめき、だがそれはまだ余裕がある類のうめき声だとシャナはわかった。

 ブレイズは大きな笑い声を発した。「うっひゃあ、蝋みたいに溶けたよ。まあ蝋は悲鳴を上げないけどね!」

 シャナは言葉なくアルヴァードを助け起こした。ウェザーライト号は頭上に迫っていたが、それはもはやウェザーライト号ではないことは一目見て明らかだった。棘の生えた船体は焼けた筋肉のように節くれ立ち、体液を滴らせる腸のようにぶら下がるケーブルは告げていた。彼女が知るウェザーライト号は死んだと。

「アルヴァード、何があったの?」

「機関室に問題が発生したんです。機能不全が次から次へと起こって。問題は、ウェザーライト号が私たちに牙をむいたということです」

『言いましたよね』――心のどこかで、シャナはティアナの言葉を聞いた気がした。だがそれを気にしている場合ではなかった。問題はひとつだけなのだから。

「ティアナ、船を下ろせる?」

「下ろすだって?」 ブレイズは怒り狂ったふりをした。「私が見たがってたどんなものよりも素晴らしいショーじゃないの」

「パワーストーンの所にたどり着けたなら、できるかも」 ティアナの両目は決意に燃え、涙が輝いていた。

「なら行くわよ」 シャナはティアナに掴まり、懇願するような視線を向けた。本当に、ごめんなさい。

 上昇するティアナとシャナにウェザーライト号は発砲したが、未だ怪物に適応していないかのようにその攻撃は大きく逸れ、腐敗臭を発する船体から遠ざけることはできなかった。ファイレクシアの腐敗に汚れてはいながらも、ハッチは問題なく開いた。

「気持ち悪くなりそう」 シャナはそう口に出した。ウェザーライト号の内部は記憶にある滑らかな木ではなく、苔のような肉や歯に縁取られた目がはびこっていた。ぎざぎざの棘が乗組員の腕や心臓、脚を貫いていた。「どうしてこんなに速く?」

「何週間か前から起こっていました」 ティアナは低く、無感情に言った。「ゆっくりと始まって、あっという間に完成するというものがあります」

 機関室では生の肉が機械の骨組みを取り囲むように育ち、露出したスラン製の金属は黒化して酸に腐食していた。その中に抱かれたパワーストーンは唯一の光源であり、唯一腐敗していないものだった。スライムフットがそれにしがみつき、傘は焦げて菌糸を伸ばしていた。

 鋭い触手が肉から三本伸び、スライムフットを貫こうとしたが、シャナがそれらの気をひいた。触手は人の頭を貫いて生えているとシャナは気付き、頭の方もシャナに気付いた。

 バトノ、骨ドラゴンとの戦いで負傷してラフが交代に入った操舵手。ウラーテン、どんな重苦しい状況にも風穴を開ける冗談をいつも言ってくれていた。アニクスニ、決して諦めない魂の持ち主。シャナは彼らの目に敗北など見たことはなかった、これまでは。

「艦長……」 彼らは低くうめき、息を荒くした。「私たちを……見殺しに……」

 頭から生えた触手たちがむち打たれた、シャナは避け、切り捨てようとしたがその直前に首筋をかすめた。酸と炎が組み合わさった以上の苦痛。それは毒になるまで濃縮された裏切りだった。

 真の悪夢とはどんなものか、欠片のブレイズはわかってすらいなかった。

「ごめんなさい、必要とされる時に私はここにいなかった」 シャナは次の攻撃を避け、同時にウラーテンの頭をまとう触手を切りつけた。それは血ではなく黒い油を滴らせた。「痛むのはわかります。終わらせてあげるわ」

「艦長が私たちを殺した……」 その言葉は剣よりも鋭かった。

「あなたたちを殺したのはファイレクシア人よ。私は決して忘れない」

 シャナは剃刀の刃で切られた痛みを、まるで曇りガラスを通して見たように感じた――ぼやけた印象だけがそこにあった。苦痛と向き合うのは後でいい。剣の一振りで、バトノに真の死が訪れた。次の一振りで、アニクスニの魂は砂漠の雨のように消えた。

 そこに勝利はなかった。悪夢に対する唯一の勝利は、そこから目覚めること。シャナとティアナは長く、無言の視線を交わした。語るべき全てが伝わった。そして二人はパワーストーンを取り出した。触れたそれは温かく、今なお可能性に満ちていた。

「スライムフット、大丈夫?」 サリッドからの返答をシャナは期待しなかったが、それが身を震わせて足を踏み出す様を見れば十分だった。「いらっしゃい、ここから逃げましょう」

「それに」 ティアナが付け加えた。「この状態では長く飛んではいられないわ」

 ハッチへ戻るまで行く手を塞ぐものはなかった。ウェザーライト号の心の名残が今も戦い続けているお陰、シャナはそう願った。ティアナは直前で立ち止まり、腐敗した隔壁に手を触れ、涙をこらえた。

「最初に大機構、そしてこれ」 ティアナの声は小さかった。「私は天使失格です」

「前に進むことをやめない者は、こんな形で終わらせはしない」 シャナはティアナの肩に手を触れた。「でしょう?」

 ティアナはシャナとスライムフットを抱きしめ、ハッチから跳び下りた。ウェザーライト号は変わり果てた船体と筋ばった翼を震わせ、向きを変え、飛び去った。

 これは敗北、けれどまだ、終わりではない。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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