MAGIC STORY

団結のドミナリア

EPISODE 06

サイドストーリー:ウルフの薫陶

Brian Evenson
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2022年8月15日

 

 ウルフは、認めたくはないが、魔道士よりも研究者に向いていた。魔法の実践においてはよく言って初歩の段階であり、ルーンを正確に書けたことすらほとんどなかった――だがそれも、いつかはできるようになるかもしれない。それまでは学級では顔を伏せ、多くの注意を惹きつけないよう努め、厩の片付けや誰もやりたがらない作業をこなすことで自分を有用に見せる。その一方で彼は現状の打開を願い、必死に勉強していた。

アート:Adam Paquette

 けれど、周りの目を逃れられるのもそれまでのようだった。やがて講師のひとり、赤ら顔をしたドワーフの工匠スレンゲルドが授業の後に彼を呼び出した。

「ウルフ、君は魔法が得意ではないね」 低くかすれた声で彼は言った。

「すみません、先生」

「工匠術も芳しくはない」

 ウルフは頷いただけだった。

「何が得意なのかね?」

「わかりません」

「ではなぜここにいるのかね?」

「魔道士になりたいんです」

「君にはむしろ農学が向いているのではないかね? 厩でよく働いていると聞いているが」

「僕は魔道士になるために入学したんです」 ウルフは屈することなく言った。父は反対し、農場の後継者として家に留まってほしがっていた。母は賛成してくれたかもしれない――噂によれば母の家系には魔法の才があったらしい、けれど母はウルフが子供の頃に亡くなっていた。どこから見ても困難な戦いだった。

 ドワーフの講師は目を狭めた。そして机から奇妙なランプを取り上げ、ウルフの両目を照らし出した。ウルフは瞬きをして顔をそむけた。そしてランプが元の場所に置かれた時、ドワーフの表情は和らいでいた。

「君があの者らの一員ではないかと懸念していたのだが、そうではないようだ。それは何よりだ」

「何の一員ですか、先生?」

「ファイレクシアの工作員だ」 ウルフの表情が変わらないのを見て、彼は続けた。「この次元を手に入れようと目論む、機械の地獄の住人どもだ。奴らは人のように見えるが、その実は肉と機械の醜い混じりものだ。我々が大切にするもの全てを壊したがっている」

「それがラト=ナムに、アカデミーにいるのですか?」

「どこにでもいる」 ドワーフは頷き、眉をひそめた。「君の方は、得意な物事から始めようか。調査だよ。君にはそれができる。私は許可をする。取引だ。君は授業を受け続けて構わないが、私のためにちょっとした調査をしてもらいたい」


 それはありふれた頼み事のように思えた。他の生徒たちの話をウルフは耳にしていた――講師のひとりから、何らかの務めを割り当てられた者は少なくなかった。スレンゲルドの担当科目は裂け目の時代以前の古い世界。そのため通常の課題として、酒杯の爆発についてのレポートが課せられていた。だが今、彼にはもうひとつの特別な課題があった。

「コロンドールだ」 スレンゲルドは低くうなった。「君がどれだけ優れた研究者であるかを見てみたい。どんなものでも見つけ出せ。注意を払うべきは、ありふれたものではない。側道だ」 そしてウルフが退出しようと背を向けた時、彼は付け加えた。「この課題について同級生とは話し合わないように」

 酒杯の爆発を調べる中、図書室の同じ区画では他の生徒たちが使い込まれた何冊もの本をめくっていた。長年に渡って多くの生徒たちが同じ課題に取り組んできたのだろう。そのためレポートにはすぐに事足りた――だが彼は更に一、二冊を読み込み、もう少々の内容を付け加えた。これまでの学生新聞には載っていなかったであろう詳細を。コロンドールの調査はもっと困難だった。酒杯の爆発に関する情報を見つけた区画では、コロンドールについてはごくわずかで当たり障りのない記述があるのみだった。どんな子供でも知っている、決まりきった物語。調査範囲を拡大しても大差なかった。ある書架の下段、関係あると思われる書物が置かれているはずの場所には空隙があるだけだった。本は失われており、所持者の明白な記録はなかった。収納場所を間違えられている? あるいはそれ以上の何かがある?

 あるいは、これは何らかの試験なのかもしれない。スレンゲルド先生自身が本を隠し、自分がどうするかを見ようとしているのかもしれない。

 続く数週間、ウルフはあらゆる空き時間を図書室の中で過ごした。棚から棚へと巡り、表題を見つめ、場違いな本を正しい位置に戻した。当初、書物が紛失したような様子はなかった。後に彼は、そもそもそれらが存在したのかと訝しむようになった。やがて彼は主要書架から離れ、暗くかび臭い小部屋へとやって来た。そこでは巻物や古い秘本が、棚に並ぶというよりは積み上げられていた。だがそのどれも、概略以上にコロンドールに触れているものはなかった。

 そしてひとつの小部屋の隅に、傾いて積み上げられた本の山を彼は見つけた。壁際には最上部にあったと思しき数冊が落下していた。その中に、白かびに覆われた一冊の古い書物があった。表紙はすり切れていた。彼はそれを取り上げて汚れを拭い、ぼろぼろの表紙に幾つも生えている円形のカビを見た。題名はかすれてほとんど判別できなかった。いや、これは本当にカビだろうか? 彼は訝しみ、その円を指先でなぞった。すり減った、あるいは壊れたルーンでは? その書物を開くと、内容は古ヴォーデイリア語の仰々しい筆跡で書かれていた。幾つかの単語はわからなかった――この言語は馴染みがなく難解だった。言い回しも曖昧かつ不明瞭で、正しく読解できているのか彼は定かでなかった。だがどうやら、ある神話的存在に言及しているらしい――コロンドールの悪魔王、ソルカナー。かつてはマローの魔術師、森の守護者であったソルカナーは、プレインズウォーカーのジアドロン・ディハーダによって呪いを受けた。ディハーダの忌まわしき下僕と化したソルカナーはあの伝説の黒き剣を振るい、ダッコンと獅子のカルス――カルサリオン家の祖だ――と戦った。その書物は呪いの詳細と、それが解かれるであろう様々な方法について記されており、そのひとつはディハーダの死によるものだった。ウルフは笑みを浮かべた。カルサリオン家はコロンドールの正当な支配者であったが、その王国は後にソルカナーに奪われていた。ソルカナーの真の歴史、そしてその呪いを解く方法は、コロンドールを解放したいという者にとっては極めて貴重な情報かもしれない。この発見はスレンゲルド先生も感心してくれるだろう。本当に発見を成し遂げたと認めざるを得ないだろう。これからやるべき事は、発見した実際の内容を整理し、まとめ上げる。そうすれば先生も自分がここに属するべき人物だと認めてくれるだろう。

 だが彼の笑みが揺らいだ。全部が作り話だったとしたら? もしこれが本当に重要な秘本なら、もっと貴重なものとして厳重に扱われているはずだ。この本がただの子供向けのおとぎ話、あるいは空想だったとしたら?

 スレンゲルド先生に見せる前に、第三者の意見を聞くのがいいだろう。


 ウルフは高等クラスの担当であるサイラス・ブロッテンの研究室の扉を叩いた。名のある作家で、古ヴォーデイリア語とそれが記された時代の専門家でもある。しばらく返事はなかった。もう一度とウルフが手を挙げたその時、咳払いの音と穏やかな声が聞こえた。「はい?」

 扉を開け、ウルフは部屋に入った。ブロッテンは分厚い詰め物の椅子に座り、膝の上に古い巻物を広げ、すぐ隣の机の上には合金製の灰皿にパイプが置かれていた。一瞬だけ彼は当惑し、そして笑みを浮かべた。「ああ、厩の手入れをしてくれている子か。私の馬に何か悪いことがあったのでなければ良いのだが」

 ウルフは顔を赤らめて言った。「いいえ。質問があるんです」

 ブロッテンは巻物を閉じて置いた。「君が生徒だということをうっかり忘れていたよ。農学の予定についてかな?」

「違います、先生。僕は魔術を勉強しているんです」

 ブロッテンは片眉を上げた。「む……少しだけなら時間を割いてあげられるだろう」そして椅子を示した。「座るといい」

「見つけたものがあるんです」 ウルフはあの書物を差し出した。

 ブロッテンは気だるそうにそれを受け取り、ざっと目を通し、数語を読んだ。不意にその態度が一変した。彼は背筋を伸ばして座り直し、頁を遡り、最初から読みはじめた。そしてウルフへと顔を上げた。「これをどこで見つけた?」

 図書室で見つけたと明かすと、ブロッテンの視線は鋭くなった。「何を探していてこれを見つけたのかな?」

「僕の先生から受けた課題で、です」

「どの先生だ?」

「スレンゲルド先生です」

「ああ、ドワーフの工匠の。一年生の課題か」

「ちょっと……違います」だがウルフは続けるのをためらった。

「大丈夫だ」 ブロッテンは穏やかに言った。「言ってくれていい。私も講師なのだから」

「特別な課題です。コロンドールについて調べろと言われました」

 ブロッテンは頷いた。「うむ。これは素晴らしい発見だ。実のところ、私に預けてくれるのが一番だと思うのだが」

 ウルフはためらい、かぶりを振った。「それは無理そうです、先生」

「無理?」

「まず僕の先生に見せるべきだと思うんです」

 ブロッテンはしばしその書物を掴み、両手を見つめ、だがウルフへと返した。「君がそう望むなら」 そして興味を失ったかのように背を向けた。「帰ってくれて構わないよ」


 書物を受け取ったスレンゲルドの手は震えていた。「どれだけの間これが失われていたことか。一体どこで見つけたのかね?」彼はウルフをじっと見つめた。「君には見た目以上のものがあるのかもしれないな」

「先生はこの本をどうするんですか?」

「私かね? 何も。見つけたのは私ではないのだから、私が持っておくのは賢明とは言えないだろう。私自身の規則だが、自分で掘り出したものは自分で保管しておく。いや、保管しておくだけでは駄目だ。どこか安全な場所に隠しておくのだ」

「どこにですか?」

 スレンゲルドはかぶりを振った。「君が決めるのだ、とはいえ私には告げるな。誰にも言うんじゃない、いいかね? 君がそれを持っているということもだ」

 当惑し、ウルフは頷いた。彼は書物を取り上げて退出しようとし、だが振り返った。「先生、これは公開するべきではない知識だったりしますか?」

「いや、そうではない。少なくともおおむねは」 スレンゲルドはウルフの腕を叩いた。「いずれは公開できる。私は友人に手紙を書くところから始めるつもりだ。時が来て、確実に信頼できる者がわかったなら公開しよう」


 厩の中、清掃のためのシャベルや熊手を立てかけておく壁には狭い隙間があった。ウルフは油紙であの書物を包むとそこに隠し、二掴みの藁をその上から押し込んだ。

 彼は普段通りの行動を心掛け、図書室へと戻った。コロンドールについての書物が他にもないかと探したが、収穫と言えるものは何も得られなかった。数日後の夜、無益な捜索を終えて戻ると自室の扉が半開きになっていた。近寄って見ると扉の枠はひび割れ、鍵は壊されていた。

 ウルフは動きを止めて耳を澄ましたが、中からは何も聞こえなかった。奇妙だった。夜のこの時間、同室の三人は部屋の中にいるはずだ。

 慎重に、彼は扉を押し開けた。最初に目に入ってきたのは、本の頁が床に散らばる様子だった。そして寝具が乱されて切り裂かれていた。クローゼットも開かれ、その中身が乱雑に零されていた。誰かが呪文を練習して暴走させてしまったのだろうか?

「いるのか?」 彼はそう声をかけ、だが扉を大きく開いて息をのんだ。

 部屋の隅は血まみれになっていた。そして続くものを見た時、ウルフは自分の心臓が止まったかのように感じた。同室のひとりがそこに横たわっていた。腕は傷だらけ、喉をかき切られて。別のひとりは壁に顔を向け、自らの血の海の中に倒れていた。部屋に少し踏み入ってようやく見えた三人目は最もひどかった。四肢をもぎ取られ、それらは壁の近くに念入りに積み上げられていた。

 ウルフは逃げ出した。


 あの書物は手つかずだった。けれどどれだけ長くもつだろう? いや、スレンゲルド先生が欲しがるか否かはともかく、渡さねばならない。何が起こったかを伝えなければ。一緒に、何が起こったのかを探るのだ。

 油紙に包んだ書物を胸に抱き、彼は厩から戻った。うつむいたまま歩き、目立たぬよう努めた。生徒たちはこの時間も外に出て談笑しており、自分は場違いには見えないだろう。それでも、背後からつけられているような気分だった。

 建物に入るや否や彼はスレンゲルドの研究室へと直行し、ノックもせずに飛び込んだ。スレンゲルドは机に座していたが椅子は回され、窓の方を向いていた。「先生」ウルフは声をかけた。「先生! 同室の皆が死んだんです、全員が! この本が狙われています。僕たちは……」

 その言葉は途切れた。スレンゲルドは彼の言葉に振り返りはしなかった。動きすらしなかった。

「先生?」

 息が詰まったように感じた。彼はゆっくりと前進し、机の前で止まった。もう一歩、そしてもう一歩、やがて師のすぐ背後まで来ると彼は手を伸ばし、相手の肩をゆすった。

 すぐには何も起こらなかった。だがそしてそのドワーフの身体が傾き、椅子から床へと滑り落ちた。身体を仰向けにすると、スレンゲルドの顔は蒼白で、恐怖に凍り付いていた。何が起こったのかはともかく、穏やかな死ではなかった。


 ウルフは訝しんだ。何処へ行けばいい? いや、それを考えながら動き続けなければ。誰を信頼すればいい? 誰かに伝えなければ、そして何が起こったのかをすぐにでも把握しなければ。そうしなければ、遅かれ早かれ自分も死ぬだろう。

 彼は浴室へ向かい、そこに閉じこもった。しばしそこに留まり、落ち着くために深呼吸をした。やがてようやく手の震えが止まった。他人に見えないよう、彼はローブのポケットにあの書物をねじ込んだ。

 この本を持って逃げる、けれど何処へ? 誰に渡せばいい? 別のアカデミー? あるいはここに留まって大魔導師様に渡す? けどその人も殺されていたなら?

 いや、逃げられるうちに逃げる方がいい。

 それに、ここに留まったなら、殺人犯扱いをされるのでは?

 どうするべきかわからなかった。全くわからなかった。誰かと話をしなければ。助けになってくれそうな人と。


「どうしたね、素朴な学者くん?」 ブロッテンはそう尋ね、ウルフを見つめた。その表情には心配が刻まれていた。「何があった? まるで幽霊のようではないか」

「先生が死にました。みんな」

「死んだとは誰が? 落ち着け、厩務員くん。意味のわからないことを言うのは止めたまえ」

 ウルフは目にした物事を断片的ながらも説明した。ゆっくりと、ブロッテンはその内容を何とか繋ぎ合わせた。

「どうすればいいのかわからないんです」 ウルフはそう言い終えた。

 ブロッテンは頷き、考え込みながら研究室内を歩き回った。「私ができる助言としては」 ようやく彼はゆっくりと言った。「その本を手放すことだ。相手は明らかにそれを狙っている」

「どうして? どうしてこの本が狙われるんですか? 相手、というのは誰なんですか?」

「君がその質問の答えを知る必要にかられないことを願おう。君は若く未熟であり、その書物を守れる立場とはとても言えない」 そして、まるで今思いついたかのように続けた。「私に預けてくれるなら、それが一番安全かもしれない」

 反射的に、ウルフはローブのポケットに手を伸ばしかけた。先生たちの言葉に耳を澄まし、従うことに彼は慣れ過ぎていた。そうしないというのは困難だった。だが手は途中で止まった。彼は躊躇した。

「今持っているのかい?」 即座にブロッテンは尋ねた。「あるいは在処を教えてくれないかな?」 そしてほんの一瞬、ウルフはブロッテンの表情にあからさまな欲望を見た。

「その、僕は……」 彼は扉に向かってゆっくりと後ずさった。

 だが扉に辿り着く前に、変身が始まった。ブロッテンの表情からあらゆる感情が失われ、額の中央から顎に向かって血管が浮き上がった。湿った音を立ててその顔面が割れ、マントのように肩にかかり、首ではなくケーブルの束と、酸で処理された金属の頭蓋骨が露わになった。両目は緑色で、ぞっとするような光を宿していた。ファイレクシア人、ウルフは恐怖とともに悟った。自分は誤った人物を頼ってしまったのだ。敵の大口へとまっすぐに入り込んでしまったのだ。

 ブロッテンはそこに立ち、頭蓋骨には血と黒い油の混合物が玉になっていた。彼は顔面であった皮膚を何気ないように引き裂いて床へと投げ捨てた。発せられたその声は今や元のそれとは異なり、冷たく機械的で、人の暖かさは一片残らず失われていた。

「その本を渡せ。今すぐだ!」

 ウルフは後ろへ跳びのいた。彼はかろうじて部屋から出ると、背後で扉を固く閉めた。直後にブロッテンが飛びかかり、苛立つ咆哮と閉じた扉に体当たりをする音が届いた。

 ネズミのように彼は廊下を駆けた。一瞬の後、扉が開くのではなく壊されてブロッテンが飛び出した。

「それをよこせ!」 彼はウルフを追いかけながら叫んだ「そうすれば生かしておいてやろう!」

 ウルフは急いで角を曲がり、驚く数人の生徒の間をジグザグに抜けていった。直後に恐怖の叫び声が聞こえた。振り返って見ると、生徒のひとりがエネルギーの稲妻をブロッテンであった生物へと放った。それは胸に命中し、肉の穴をあけて中に絡まってうごめくワイヤーを露出させた。その一本が閃くように発射され、その生徒の片目に突き刺さると頭蓋骨を貫通した。別の生徒は悲鳴をあげて逃げようとしたが、ブロッテンは素早く追いついてその指から刃を伸ばした。

 そしてウルフは次の角を曲がった。遠くで生徒の甲高い悲鳴が聞こえ、そして不意に途切れた。彼は教室を横切って後部扉から出ると、階段を一段飛ばしで駆け上がった。登りきったところで彼は立ち止まって息を整えたが、直後に重い足音が聞こえた。ブロッテンは何らかの手段で追跡していた――あるいは自分で信じていたほど巧みに逃げてはいなかったのかもしれない。彼は廊下を駆け、その先にはかすかな顔見知りの二年生がいた。

「逃げて!」 ウルフは叫んだが、その女生徒は立ちすくんでいた。殺される、ウルフはそう思った。だが駆け抜けようとした所でその生徒は黒い涙を流していると気づいた。油を。

 彼女はウルフに襲いかかった。彼は必死に避け、走り続けた。

「助けて!」 彼は叫んだ。「助けて!」

 油の涙を流す生徒が近づき、ブロッテンも迫っていた。ローブを掴まれるのを感じ、彼は振り返って蹴とばした。相手はつまずいて転び、ウルフは左右に避けながら速度を上げて再び角を曲がり……だがその先は行き止まりになっていた。

 彼は引き返そうとしたが、遅すぎた。あの女生徒が道を塞いでいた。すぐにブロッテンも追いついた。

「厩務員くん」 ブロッテンの声に、ウルフはゆっくりと後ずさった。逃げ道はないのか? 彼は焦った。何かできることはないだろうか?

「選択肢をあげよう」 ブロッテンが言った。「私は親切な人間だ。厳密に言えば、人間以上の存在だ」 彼は一歩踏み出した。「本を渡してくれれば、速やかかつ楽に死なせてあげよう。拒否するなら、目一杯痛く引き裂いてあげよう」 更に一歩。「どちらにしても君は死ぬ。だが後者の死に様の方が明らかに苦しいだろうと保証するがね」

「一歩でも動いてみろ、この本を駄目にしてやる」

 ブロッテンは笑みを浮かべ、だがその金属の顔は苦痛に引きつったように見えた。「それはまさしく私たちがしようとしていることかもしれないな」 また一歩。「その本をよこせ」

「嫌だ」 ウルフはそう答えて目を閉じ、終わりが到来するのを待った。

 だがそれは来なかった。代わりに、轟音とともに隣の壁が砕けて飛び散った。塵と煙が辺りを満たし、その中から巨体の影が現れた。人型、けれど人間ではない。トカゲの皮膚と鱗、恐竜のような姿。ヴィーアシーノ。「逃げろ!」 その男はウルフへと叫んだ。「ここは俺が相手する。あの人を見つけろ!」

「誰を?」

 だがそのヴィーアシーノは背を向けた。ブロッテンを睨みつけ、彼は跳びかかった。あの女生徒が彼とブロッテンの間に入り、ヴィーアシーノは怒鳴り声をあげて彼女を弾き飛ばした。

アート:Joshua Raphael

「いかん!」 ブロッテンが女生徒へと叫んだ。「本を! あの馬鹿者を逃がすな!」

 負傷し、脇腹に油を滲ませながら、女生徒はもがいて立ち上がった。「逃げろ!」 ヴィーアシーノが再び叫び、この時ウルフは従った。


 ウルフは判断した。今は隠れた方がいい、一番よく知る場所に――図書室に。彼は書棚の間を縫うように進み、驚いた司書をかすめ、古く明かりの少ない区画へと急いだ。彼は歩みを緩め、静かに進んだ。この本を見つけた小部屋に隠れるべきだろうか? それは危険すぎる。ブロッテンに話してしまっていた。ならば別のどこかだ。

 そして、コロンドールについての書物が抜かれていた低い書架を思い出した。彼は素早くそこへ向かった。入り込める大きさはあるだろうか? 彼は数冊の本を取り出し、少し離れた別の場所に入れた。彼は小柄であり、入り込むだけの空間はあった。四つんばいにならなければわからないだろう。きっと大丈夫だろう。

 彼はそこに横たわって待ち、呼吸音を落ち着かせようと試みた。いつまで隠れていればいいのだろう? 間違いなく誰かがもう騒ぎに気付き、ファイレクシア人から学校を守るために動いているはずだ。

 全員が、ファイレクシア人でない限りは。

 いや、そんなことは考えたくもなかった。それは怯えすぎというものだ。まだ人のままの誰かがいると信じなくては。

 書架で物音がした。ひとつかふたつ先の棚。彼はじっと押し黙った。外から見えるだろうか? いや、大丈夫だ。近くを通っても誰にも見えやしない。安全なはずだ。

 足音が一瞬退き、そして戻ってきた――ゆっくりと近づきながら。今やこの棚の列にいる。彼は息を止めた。足音は次第に大きくなり、やがて一組の足がすぐ目の前を通過し、去っていった。

 彼は音もなく息を吐き、力を抜いた。

 その時、足音が止まった。

 一瞬の後、油に汚れたあの女生徒の顔が、目の前で彼を見つめていた。今や頭皮からはもつれたケーブルが生え出て、髪に混じっていた。

「本を渡しなさい」 その女生徒は非難の囁き声を発した。

 女生徒は手を伸ばしかけ、だが不意に立ち上がってその顔は見えなくなった。もう一組の足が現れた。悲鳴、そして身体から離れた女生徒の頭部が床に落ちて跳ねた。数秒遅れてその身体が続き、肉とワイヤーの塊となって床に崩れた。

 ウルフは驚きに息をのんだ。

 彼は素早く抜け出した。死体の隣に立っているのは白髪交じりの男だった。長い茶色の髪には灰色の筋が混じり、両手首には革が巻かれていた。見るからに強く、巨漢と言ってよく、両手で扱うものであろう剣を片手で持っていた。熱くうねるエネルギーがその刃を取り巻き、生徒の内に潜んでいた油を滴らせていた。それは見たこともない金属の表面で、焼け付く音を立てていた。男が振り返ると、ウルフはその右頬、目のすぐ下に上座ドルイドの印を見た――初めて見るはずの珍しいその印は間違いない。コロンドールを調査する中で彼はその記述を読み、選ばれたごくわずかな者にだけ与えられると知っていた。けれどそんな印を持ち、そんな見た目で、長い間失われていたと言われるそんな剣を持つような人物はひとりしかいない……ありえない……

「あ……ありがとうございます」 ウルフはかろうじて声に出した。

 その男の表情にはかすかな悲嘆があった。「この子に罪はなかった。恐らく自分が何を埋め込まれていたのかも知らなかったはずだ」

「貴方は?」 ウルフは尋ねた。

「何?」 その男は答え、だがそして夢から覚めたかのように顔をしかめて身構えた。「お前を助けた者だ」 彼は死亡した女生徒のローブで剣の血を拭い、鞘に収めた。そしてウルフの腕を乱暴に掴んだ。

「何をするんですか!?」

「黙れ、動くな」 男は速やかにウルフの頭髪に手を通し、両肩を叩き、そして脇腹、腕、脚へと続けた。やがて手を放した時、そこには小さな金属片らしきものがあった。

「なるほどな」 そう言うと、男は金属片を床に落として踏み潰した。「追跡機だ。これで奴らに見つかるのは困難になるだろう」 彼はウルフの腕を掴み、歩き出した。

「動き続けろ、手遅れになる前にここから出るぞ」


 その男はウルフを先導し、ゆっくりと書棚の間を進んだ。「あれは持っているんだな?」

「何をですか?」

「あの本だ。なぜ俺たちがここにいると思う?」

 持っていると答えるのが賢明だろうか? それとも警戒するべきだろうか? 「その……在処は知っています。欲しいんですか?」

「欲しいかって? いや。お前が持っていろ。俺は手ぶらでいなきゃいけない」 男はそう言って剣を抜いた。恐ろしいほどの鋭さ。近くの閲覧机にいた生徒が短い悲鳴を上げて退散した。「そうでなくとも、奴らは本を持つ者を狙ってくるだろう。そいつらに持たせたら何と言うだろうな?」

「ん……ありがとう、とか?」

 閲覧机には誰もいなかった。図書室の扉に近づきながら、その男はウルフへと待つよう合図した。彼は腹這いになり、扉の下の隙間から覗き見た。

「五人分の足が見える」 ウルフの隣へ戻り、男は囁いた。「待ち伏せだ」

「どうするんですか?」

「どうするかって? 殺すんだよ」

「殺し方なんてわかりません」 ウルフは小声で言った。

 男はウルフを上から下まで眺めた。「知らないだろうな。気にするな、これから学ぶことになる」


 ファイレクシアの潜伏工作員たちは待っていた、身体からはケーブルや金属細工を生やして。そのひとり、エルフの生徒が講師であった者へと尋ねた。「この中にいるのですか?」

「追跡機の反応が途絶えたのがここです」

「本当にサイラスを待つ必要があるのですか?」 別の工作員が言った。

 だが誰も動かなかった。

「図書室の出口は他に?」 エルフが尋ねた。

「ありません」 講師であったものが答えた。「それは確かです。奴らは袋の鼠です」

 彼らの隣の壁が爆発したのはその時だった。辺りは炎に包まれ、廊下全体が燃え上がり、五人のうち三人が転げた。もう二人は武器を抜き、壁の穴へと急いだ。一瞬の後、彼らはたじろぎ、動きを止め、貫かれ、煙を上げて横たわった。

 残る三人がうめきながら立ち上がった。

「穴の方に行くべきではありませんね」 エルフが言った。

「待ちましょう」 講師が同意した。

「ああ、そうだな」 背後から低い声が響いた。振り向いた彼らを待っていたのはひとりの男、その剣が炎を脈打たせていた。工作員たちは自身の武器を探ったが、男の呪文は既に完成しており、廊下全体が炎に包まれた。少しの間彼らは炎の中で悶え、悲鳴を上げていたがやがて沈黙した。

「こっちだ!」 男が叫び、別の廊下を駆けていった。ウルフが見るに背後の炎は燃え広がりつつあった。

「消さなくていいんですか?」 ウルフが尋ねた。

 男はかぶりを振った。「いい陽動になる」

 ふたりは駆け、近づく者を察したなら教室へと隠れた。一度だけ、半開きの扉の先に、ウルフは人間のできそこないのような一体の生物を見た。奇妙にいびつで配置のずれた身体、天井に頭が届きそうなほどの長身。ウルフは吐き気を覚えた。男はそれが通り過ぎるのを待ち、そして部屋の内部から扉の取っ手を鳴らした。外の廊下から、その生物が脚を止めてうなる声が聞こえた。それが引き返して扉を開けた瞬間、男はその腕を切り落とすと核部分に刃を突き刺してひねった。それは火花と煙を発して倒れた。

 ふたりは壊れて焼け焦げた廊下に行き当たった。戦いの跡。そこで、全ての中に、ウルフを救ってくれたあのヴィーアシーノが倒れていた。腹部を切り裂かれ、彼は死んでいた。男は厳粛な面持ちでその隣に立った。「お前は立派に戦った」彼はそう呟いた。「お前の死を無駄にはしないと約束しよう」


 ようやく入り口が見えてきた。もう大丈夫、ウルフはそう思った。彼は駆け出そうとし、だが男が彼の腕を掴んで止めた。

「駄目だ」 男はうなり声をあげた。「簡単すぎる。何かがおかしい」

 男は前進するのではなく、近くの教室の扉を開けて入った。少しの後、彼は机をひとつ持って戻ってきた。そして片手でそれを出口近くの空間へと放り投げた。

 床に触れるや否や、その机は不意に現れた十本ほどの刃に切り裂かれ、破片と化した。はぐれた数本の刃が壁に跳ね返り、ふたりへと向かってきた。ウルフは縮こまり、だが男は剣でたやすく叩き落した。

「言っただろう」

「じゃあ、どうやって脱出すればいいんですか?」 再び立ち上がりながら、ウルフは尋ねた。

 男は肩をすくめた。「ルーンは解除された。もう通れる」 そして彼はウルフを見た。「感じるだろう?」 だがウルフが首を横に振ると、男は怪訝な表情をした。「お前には魔法の才能がほとんど無いのか? トレイリアのアカデミーで魔法を習っているというのに?」

「僕は……その、研究者としては優秀なんです」 彼は男の手が剣の柄に触れる様子を見つめた。

「お前が潜伏工作員のひとりなら、俺があの机以上にばらばらにして確認してやるところだ。本当のことを言え、何でここにいる?」

「皆、厩を掃除するための人員が欲しいんだと思います」

 その言葉に男は力を抜いた。「なるほどな。魔道士って奴は自分の手を汚すことを何よりも嫌うものだ」


 ふたりは扉から玄関へと出たが、そこには待ち受けている姿があった。

「サイラス・ブロッテンか」 男が言った。「驚きはしない。本は持っていけ、だがこの少年に手は出すな」

「ジャレッド・カルサリオン」 ブロッテンの言葉に、ウルフは驚きとともに自分の推測が正しかったと知った。「いやいや? お前がそこにいる今、本やその少年はどうでもいい。カルサリオン、お前こそが最高の宝だ。そして探す手間が省けたというわけだ」

 ジャレッドはウルフを一瞥した。その視線にはこれまでとはどこか違い、少しの好奇心があった。「この少年も俺も渡しはしない」 ジャレッドはそう告げ、剣を抜いた。

アート:Manuel Castañón

 ジャレッドの剣がひらめき、同時にブロッテンの両肩が盛り上がって中に隠れていた鎧が表面へと弾け出た。ブロッテンは胸に触れ、すると棘のある湾曲した一本の刃が不意に突き出た。彼は手でそれをひねり、抜いた。それは展開を開始し、棘だらけで華麗な一本の剣へと変化した。

 ふたりは一進一退の攻防を繰り広げた。戦士としての腕はジャレッドが上、だがブロッテンは持ちこたえ、その機械の身体は疲労することがなかった。油断なく間合いをとり、そして接近し、カルサリオンは獰猛な戦鬨をあげて突撃するとブロッテンを壁まで追い詰めた。決着がつくと思われたその時、ウルフは奇妙なものを目にとめた。ブロッテンの腿が裂けようとしていた。

「脚です!」 ウルフが叫んだ。ジャレッドは冷静に跳びのき、同時に円形の刃がブロッテンの脚から飛び出した。それは恐るべき速度で宙を駆けてジャレッドの腿を浅く裂いた。離れていなかったら真二つにされていただろう。ジャレッドは傷を手で押さえたが、不意にブロッテンが追撃して彼を後退させた。

 ウルフはジャレッドが倒れるのではと怖れていたが、その男は持ちこたえていた。自分は逃げるべきとはわかっていたが、先程ジャレッドを救ったのだ。もし自分がいなくなったら、誰が次にあの人を救うことができる?

 腿に傷を負いながらも、ジャレッドが繰り出す怒涛の攻撃と反撃は今なお彼の方が有利だと示していた。ブロッテンは罵り声をあげて剣を振り下ろし、ジャレッドは自らの剣を同等の勢いで掲げて受け止めた。ブロッテンの刃は砕け、ジャレッドは破片をものともせずブロッテンの胸へと自らの剣を突き立てた。

 よろめき、油を吐き、ブロッテンはうつぶせに倒れた。

 荒く息をつきながら、ジャレッドは靴先で相手を仰向けにすると屈みこんだ。

「シェオルドレッドはなぜお前をここに送り込んだ?」

 ブロッテンは泡立つような笑い声を返しただけだった。

「他の工作員は誰がいる? 誰が完成された?」

「それを言うとでも?」

「大魔導師は、あの男までも墜ちたのか?」

「あれはまだお前と同じ人間だ、カルサリオン。勝者の側につく理由はいくらでもある」

 ブロッテンは手を伸ばし、だがジャレッドはそれを無表情に払いのけた。「ディハーダも知っている」 ブロッテンが言った。「お前を待っているぞ、ジャレッド。あの女のところへ戻れ」

 そして彼は笑みを浮かべて油まみれの人工的な歯を見せつけ、死んだ。


 ようやく、ウルフは自分を殺そうとした者の残骸に近づいた。それは今や壊れた機械にしか見えなかった。ジャレッドはブロッテンの衣服を裂いて腿に巻いていた。既に血が染み出していた。

「僕たち、これからどこへ行くんですか?」

「俺とお前でどこかへ行くわけではない」 ジャレッドの声には疲労があった。「お前はその本を安全な場所へ。コロンドールへ持っていけ。あそこにはまだ善い奴らがいる。そこで落ち合おう」 彼はウルフの背後を指さした。「俺はこの中へ戻る。まだ人のままでいる者を助け、そうでない者を殺す」そしてウルフへと視線を戻した。「街道を避けて進み、その本を誰にも見せるな」

 少しの間、ふたりは立ったまま見つめ合った。そしてウルフは頷いた。「ありがとうございます」その言葉にジャレッドは簡素に頷き返し、背を向けると今や荒廃したアカデミーの中へと戻っていった。

 ウルフはひとつ深呼吸をした。そして門をくぐり、外の世界へと踏み出した。


 ラト=ナムのアカデミー地下深く、施錠された私室にて、大魔導師は悪意の笑みを浮かべた。その全身が震え、ゆっくりと変化を始めた。恰幅の良い身体が細くなり、伸び、配置を変え、やがてそれは灰色の皮膚をした女性となった。いや、女性の姿は上半分だけ。その下では何本もの触手がうねり、ねじれ、床の上で悶えていた。

「ふうむ」 彼女は独りごちた。「其方があの書物を見つけ出したとは何という幸運か、ジャレッド。この地で今一度英雄を演じたとあっては、コロンドールは其方を待ちわびるであろうな」

アート:Nestor Ossandon Leal

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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