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MAGIC STORY
団結のドミナリア
メインストーリー第2話:砂時計の砂粒
2022年8月11日
アート: Julian Kok Joon Wen |
時の流れは、岩の間を砂が落ちるよりも緩やかに思えた。微細な粒子が関節の中を動いた。暗闇に閉じ込められ、どれだけ長くここに横たわっているのかもわからない。数日、あるいは数週間が過ぎたのだろうか? 驚いた小鳥が飛び立つように、数か月が過ぎ去ってしまったなら? もっと長かったなら? 数年、数十年、無限の――
いや、そんなことは考えたくもない。
誰も自分を心配などしない。自分がここにいることは誰も知らない。誰かに伝えておくべきだったのだ。少なくともジョイラに、あるいはヤヤに。そうしていたなら、彼女らはここを探せば良いだろうとわかる。そして救出してくれるか、自らファイレクシア人を目撃するだろう。
だが見つけてくれたのがファイレクシア人だったなら? もっと悪いことに、誰も見つけてくれなかったなら? この暗闇の中、静寂の中、独りで永遠に待つのだろうか。
砂が流れ落ちた。引っかくような音。ざらついた岩を鉤爪がこすっているのだろうか。
片手から重みが消え、冷たい大気の流れにさらされた。指を動かすことができた。安堵が、そして久遠の闇よりも強い痛みが身体を貫いた。彼は指を伸ばし、この小さな動きという自由を、何らかの動きができるという能力に驚嘆した。何か温かく柔らかいものが指先に触れた。有機的であり、彼の感覚では見通せない。ファイレクシア人ではない。穏やかで、思慮深い。
発見されたのだ。
その温かさが指先から消えた。救出者は離れてしまったのだろうか?
引っかくような音が速度を上げた。岩がこすれ、小石が流れ下った。巨岩が投げ捨てられて遠くに落ちた。身体への重みが和らいだ。カーンは身を強張らせ、するとその途方もない力に周囲の岩が動いた。上半身の強力な機構を動かし、カーンは身体を持ち上げた。幾つもの岩がぐらついて落ちた。岩を気まぐれに飛ばして救出者を傷つけないよう、彼はゆっくりと身体を持ち上げた。
奮闘する中、引っかき音は止まった。救出者の足音が退いていった。相手は安全な距離まで移動したと考えて良さそうだった。
カーンは勢いよく身体を持ち上げ、立ち上がった。解放され、石が流れ落ちた。温かな空気が身体を優しく撫でた。彼は肩を回し、その動きを楽しんだ。転がる岩が灰色のもやを蹴り上げ、彼は身体の砂粒を振るい落すと両目をこすった。
トンネルの先にアジャニが立っていた。松明の灯の中に、眩しい白色の毛皮。無傷な方の水色の目の瞳孔は、夜行性の捕食者のようにきらめいていた。両肩は誇らしそうに、まるでカーンを発見したことに喜んでいるようだった。そして口を閉じたまま、彼は友好的な笑みをカーンに向けた。
ためらいながらもカーンは頷いた。これまでアジャニに会ったのは数度きりであり、彼の種族において歯をむき出しにすることは威嚇を意味する。そのためこの小さな笑みは、人間のどれほど大きな笑みよりも好意的だった。
「いかにして私を発見したのですか?」 埃っぽさに、カーンは咳払いをした。内部の機構が心地悪く音を立てた。「誰にも伝えていなかったのですが」
アジャニもまた咳払いをした。胸の奥深くから、気まずいような様子で。「カーンさんからの返信が来ないということで、ジョイラさんが……心配するようになりまして。そこでラフ君に頼んで、手紙に追跡魔法をかけてもらっていたのです。貴方が――貴方だけが――開封した際に起動するような。そのようにして私はキャンプを発見したというわけです」
当惑にカーンは黙った。自分が手紙を読み、だが返信せずに放り出す様子をジョイラは毎回知っていたのだろうか? 新たな研究のために紙の山を脇によけるたびに? あの作業場所の散らかり具合をアジャニは見たのだろうか? 訪問者があるとわかっていたなら、決してあのような惨状にはしていなかっただろうに。
彼はアジャニの視線から目をそらし、身体の関節の損傷を調べることにした。ああ、槍先が。身体の中に残っていたのを忘れていた。
「カーンさんが手紙を移動させるたびに、ジョイラさんは貴方が生きていることを確認できました。ですが話をしようとは思っていませんでした。貴方が必要とする時間を与えようと、急かさないでいようと決めていました。カーンさんが……狼狽するのは、よほど個人的な事情のある時だとわかっていたのです」
カーンは槍先を身体から抜こうと奮闘した。落盤によってそれは更に深くに埋まってしまっていた。
「ですが手紙の動きが止まり、ジョイラさんは貴方の無事を案じるようになりました。そうして私がここに来たのです」
カーンはうめいた。彼は槍先を前後に動かし、上半身の装甲の隙間から外そうとした。極めて繊細な作業すら行う彼の指は、だが深くまでは入らなかった。自分が何度なく手紙を手にし、返信を考え、だが止めていたことをジョイラは知っている、それが未だに信じられなかった。そう、何度となく。「ジョイラは元気ですか?」
「マナ・リグの工房にいますよ」 アジャニは肩をすくめた。
「ウェザーライト号は?」
「正当な持ち主のもとに返されました。シャナさんが今の艦長です」
「それは良いことです。シャナさんであればどのような困難も乗り切れるでしょう」 かつてシッセイに仕えていたカーンにとって、その子孫の手にウェザーライト号が渡るのは喜ばしいことだった。カーンが苦闘を続ける槍先をアジャニは顎で示した。「ところで、もしよければ私が」
カーンは肩をすくめた。
アジャニはカーンほど大柄ではないが、それでも槍先を調べるためにはうつむく必要があった。彼は驚くべき繊細さで鉤爪をカーンの関節に差し込んだ。「ご存知でしょうが、あらゆるプレインズウォーカーがこのような時期を経験します。表舞台から退くのです――特に、ひとつの世界の運命を変えるという役割を果たした後には。私は何度となく見てきました。壮大な狩りの後には食事をし、眠る。それは自然なことであり、恥じる必要はありません」
「私は食事も、睡眠も必要としませんが」 カーンはそう言った。
「だからといって、立ち直りが必要でないという意味にはなりませんよ」 アジャニはカーンの身体からあの槍先を取り出した。
ウルザによって戦争機械として解き放たれた際、カーンは「立ち直り」を許可されたことはなかった。ウルザいわく、それは不必要であると。そして彼はカーンの疲労には関心を持たず、他のもっと興味深い計画に目を向けるのだった。
アジャニは槍先を注意深く見つめた。薄暗い明かりの中、その金属はかすかな緑色に輝いていた。「遭遇したのは崩落だけではないようですね。カーンさん、ここで何があったのですか?」
その質問に返答したくはなかった――アジャニを信頼して良いかどうか判断できていない今はまだ。シェオルドレッドに触れた際の映像が今も彼の内に脈打っていた――ファイレクシア人の工作員は至る所に、ドミナリアのそこかしこに隠れている。今は待とう。「私はどれほど長く埋まっていたのでしょう?」
「数か月です。位置を特定するには時間がかかりました」
数か月が失われた。準備に費やせたはずの数か月が。
分離したシェオルドレッドの部品たちが、麻痺した彼の腕を、背中を駆け下りた。蜘蛛のようにそれらは殺到した。身体を再構成する時間は十分にあっただろう。ローナも。それは確かだった。
「怪我をさせてしまいましたね」 アジャニの鉤爪は表皮の所で裂けていた。崩落から自分を掘り出した際に負ったものに違いない。「私のキャンプへ戻って手当をしましょう。精密機器が今も動くかどうか確認しなければいけませんので」
最も恐れている疑念をカーンは口にしなかった。酒杯とあの粘土板はまだあるのだろうか?
カーンが埋まっていた数か月の間、キャンプは乱されてはいなかったが変化していないわけでもなかった。小さなテントには白カビがはびこっていた。
アジャニは背を丸くすぼめていた。プレインズウォーカーはこの洞窟を嫌う。次元間の技術を直接感じ取れなくとも、時が歪む様相はこの空間に言い知れぬ恐怖をもたらしている。カーンも同じく、その圧迫感を察していた。
カーンは散らかったキャンプにアジャニを連れてくると、最も大きなテントに身を屈めて入った。酒杯と粘土板がしまわれた箱はそのままの場所にあり、鍵もかかっているように見えた。アジャニの視線を気にし、カーンはそれを無視した。
カーンは水の入った樽と――飲用、とはいえ彼はもっぱら発掘物の洗浄に使っていた――ぼろ布を探し出した。彼は傷の手当のため、それらをアジャニへと手渡した。
「カーンさんはなぜここに?」 アジャニは手をすすぎ、傷の中から砂を洗い出そうとした。
機器の確認と修理を行いつつ、カーンは返答した。「アーティファクトを探すために。コイロスの洞窟には他にない特質があるため、最も貪欲な考古学者や熱心な研究者にすら乱されていないのですよ」 彼はテントの中をぐるりと回り、酒杯と粘土板の入った箱へと近づいた。何気ないように。箱は無傷、だが彼はあえて開くことはしなかった。代わりにカーンは特殊な感覚を伸ばした。粘土板はただの粘土に感じられた。アルミニウム、珪素、マグネシウム、ナトリウム、その他の微量元素。酒杯が彼にうなり声をかけた。そこにある、だがその強力な魔法により、解読はできない。
カーンは箱を押しやった。そして彼はアジャニへと向き合い、見たものをひとつ残らず説明した。
「シェオルドレッドは逃げたのですか?」 テントの狭い空間を、アジャニはそわそわと歩き回った。「カーンさん、皆に警告しなければ」
「試みましたよ、何度も」
「シェオルドレッドを見たのでしょう」
アジャニを信頼したかったが、彼はかぶりを振った。「私が発見したファイレクシアの基地へ行くことはもうできません。ファイレクシアがドミナリアに帰還している物的証拠は何も持っていないのです」
「ありますよ?」 アジャニはあの槍先を取り出した。「カーンさん、ケルド人とベナリア人の和平を目的とした会談が執り行われます。ファイレクシア帰還を真剣に受け止めてくれる国があるとすれば、そのふたつです。その指導者たちと話をするのはいかがでしょうか」
アジャニの言う通りだった。ドミナリアの国家の中でも、ケルドと新ベナリアはきっと自分の警告を聞いてくれるだろう。ケルド人の長であるラーダは、無骨な戦士の国家を恐るべき軍隊へと作り変えた。新ベナリアの騎士団を率いるアロン・キャパシェン、その正義への情熱はひとりを十人の闘士に値する戦力に変えるという。「行く前に、発掘物と機器を回収させて下さい」
アジャニはベルトから下げた護符を軽く叩いた。「ウェザーライト号を呼び出す装置です。ここに送り込まれる前にジョイラさんから頂きました。シャナさんも了解してくれるでしょう」
「ウェザーライト号は速いかもしれませんが、十分ではありません」 カーンは酒杯と粘土板の箱に幾つかの機器を載せると、その全てを背負い袋に詰め込んだ。「次元渡りを提案します」
他のプレインズウォーカーが久遠の闇をどう見ているかはわからないが、カーンにとってそれは押し潰したベルベットのように感じる、だらだらと続く空間だった。ごく小さな刺すような感覚が、時折痛みとなる。全く動いていない一方で眩暈に襲われ、かつその中で未知の目的地へと繋がる綱をたぐって進む感覚。そして彼は柔らかな傷口から冷たい大気の中へと飛び出した。
カーンは膝の高さまである草や橙色のケシ、紫色のアザミの中に立っていた。内陸にはまだ新しい農場が見え、開墾されたばかりの大地がアブラナの花で黄色く染まっていた。山々に農家が点在し、斜面には翠緑の牧草地と霧をまとう雨林が広がっていた。
彼が人間であったなら、ひとつ身震いしていたかもしれない。
反対側には巨大な石像がとある港町を守っており、その建物と街路は白亜の崖に刻み込まれていた。何世紀も昔、ファイレクシアのポータル船がこの石像の頭部を切断したに違いなく、その船体が彫像の首の上に横たわっていた。今やスイカズラがはびこったそれは街の色鮮やかな日よけとなっていた。入り江の中心には水に削られた島が突き出ていた――石像の首は、今や鳥たちの家だった。
アジャニはカーンを引き連れ、白亜に刻まれた簡素な家々の間の小道を下っていった。小さく古いそれらとは対照的に、新たに建造された庁舎は大きくどっしりとしており、幅広の窓と華麗な柱のバルコニーを備えていた。
「会談の場所をご存知だったのですか?」 カーンが尋ねた。
アジャニは立ち止まり、首をかしげた。「人の声を追ってきました。議論だと思いますが」
カーンには何も聞こえなかった。レオニンの感覚は素晴らしい。
壮大ではあるが無人のロビーを抜け、アジャニはカーンを連れて狭い階段を上っていった。幾つもの部屋に繋がる廊下は狭苦しく、松明だけがそれを照らしていた。ふたりは青銅張りの両扉を押し開き、大理石の長机が占拠する明るい部屋に入った。広々としたバルコニーが海に面し、その手すりにはムナオビツグミの雄がとまっていた――橙色の胸部に黒の襟元、目の周りと頭部も黒の、美しい鳥。
部屋の片側には、ベナリアのキャパシェン家の代表者たちが座していた。卓についている貴族はアロン・キャパシェン――黄色味がかった肌の中年男性――その絹の衣服にはキャパシェン家の象徴、七つの窓を持つ塔の意匠が刺繍されていた。彼の背後には騎士たちが整列していた。金で縁取られた銀色の鎧、ステンドグラスの盾を構え、鎧の胸には同じ華麗な模様が収められていた。
その向かいには灰色の皮膚に重厚な革鎧をまとい、更に重々しい武器を手にした大柄なケルド人戦士たちが寛いでいた。彼らの将軍、ラーダはキャパシェン家の貴族と向かい合って座していた。ケルド人の灰色の皮膚に黒い髪、堂々とした体格の女性。だが耳の先端は尖っており、身体に描いた青い模様はスカイシュラウド・エルフのものだった。
色白の肌に黒の顎鬚を生やした新アルガイヴの男性が率いる高官たちが、争う勢力ふたつを隔てる大理石製の机の両脇に並んでいた。
アジャニとカーンが到着したまさに直後、ジョダーとヤヤが姿を現した。これからまさに交渉が始まろうという時だったに違いない。ジョダーは宙を切り裂いた魔法の扉から直接進み出た。書物や骨董品で散らかった彼の執務室は、ポータルが閉じると同時に消えた。ヤヤは閃光と石炭の匂いとともに、部屋に直接次元渡りで現れた。
「しばらくぶりだねえ、ジジイ」 ヤヤとジョダーは親しさを感じさせる抱擁を交わした。
若々しい容貌と豊かな黒髪から、ジョダーはヤヤの孫息子ほどに見えるかもしれない。だが彼の方が数千歳も年上なのだ。「家宝の銀食器でも狙いに来たのかい?」
「何だね、もらっておきたいようないい銀なんてここにはないよ――この髪だけさ。あんたの懐はもう確認させてもらった。糸くずばっかりでやりがいがないね」
ジョダーは微笑んだ。「気にしていないんでね。君の舌は指より素早いようだ」
ヤヤの視線がカーンとアジャニに向けられた。「おやまあ、これは驚きだ。あんたたちも仕事があって来たのかい?」
アジャニは真剣な面持ちでヤヤを眺めた。「カーンさんがコイロスの洞窟で見たものについて、話をしなければなりません。ファイレクシア人がドミナリアに戻って来ています」
交渉の席での緩やかな雑談は衝撃と沈黙に終わった。ジョダーとヤヤは視線を交わし、そしてカーンへと注意を向けた。ケルド人、ベナリア人、アルガイヴ人たちはただちに議論を始め、様々な訛りとアクセントが重なり合って恐怖を口にした。ベナリアの騎士たちだけが持ち場に留まり、その不動の姿勢は彼らの自制心の強さを示していた。
ヤヤの顔は蒼白だった。「そんなこと、ありえるとは思えないよ」
「私は何千年もの間、この世界を歩んできた」とジョダー。「そして物語を読み、歴史を調べてきた。多くの遺跡も訪れてきた。言っておくがこれは自慢ではない、けれど私の言葉が真実だというのもわかるはずだ――ファイレクシア人は久遠の闇を渡れない」
カーンは口を開いた。「シェオルドレッドは世界の間を旅し――」
「今それができるのはプレインズウォーカーだけだ」 ジョダーは鼻筋を押さえた。「カーン。覚えている限り、それは貴方がもたらした現実だろう」 ジョダーが過ごしてきた年月――カーンを創造したウルザにも匹敵する――その疲弊が若い容貌を塗り潰した。自分がシェオルドレッドを目にしたこともあり、ジョダーが真実を否定するとはカーンには思えなかった。おそらく、ほとんどのファイレクシア人は久遠の闇の旅を生き伸びることはできないのだろう。だがシェオルドレッドは生き延びた――有機的組織を焼き尽くされても、損傷し弱体化しても、いかにしてか成し遂げたのだ。
アロン・キャパシェンが立ち上がり、早足で近づいてきた。その動揺が見てとれた。「ファイレクシア人は古の歴史の存在です。私には、そのように断言するに至った理由がわかりません」
カーンは答えた。「新たな侵略のための基地を発見しました。率いていたのは新ファイレクシアの指導者のひとり、シェオルドレッドという名の法務官です。ミシュラ一派が仕えており、ファイレクシア人は何十人もの一般市民を完成させています。どれほど多くのファイレクシア人がドミナリアの国家に入り込んでいるのかは知るよしもありません。今ここに、私たちの中にいるかもしれないのです」
「その件については警告したではありませんか?」 新アルガイヴの若き貴族が立ち上がった。金糸と毛皮が縁取る正装から見るに、重要な高官であるに違いない。「ファイレクシアの潜伏工作員は社会のあらゆる階層に入り込むでしょう、今すぐに行動に移らない限り。そしてどうやら既に入り込んでいるというではありませんか!」
アート: Mila Pesic |
「ステン、君は心配性すぎて耳を傾けてもらえないんだ」とジョダー。「カーン、ファイレクシア人は今どこに?」
まるで答えを知りたがっているように、ムナオビツグミが丸い瞳で見つめた。
だがカーンは解答を持っていなかった。「わかりません。私が動けなくなっている間に脱出されました」
ジョダーは溜息をついた。「外交的情勢は微妙で、今すぐ交渉を中断はできない。ファイレクシア人の居場所がわかっていれば状況は違うかもしれない。だがそういった確実な情報がないのであれば、どうやって奴らを根絶できる?」
ヤヤも続けた。「それにもしファイレクシア人がドミナリアにいたとしても、歴史上あいつらは征服よりも前に仲間割れしてた。ベナリアとケルドの紛争を放っておいたら、それはファイレクシアの狙い通りじゃないのかい」
あのムナオビツグミは手すりの上を跳ねた。
「カーン、聞いているのか?」ジョダーが尋ねた。
カーンは意識をジョダーへと戻し、あの槍先を卓の上に置いた。「聞いていますよ」
「この武器は見たことがある。ミシュラ一派のものだ」 ジョダーは穏やかに言った。
「カーンが嘘をついたことがありますか?」 アジャニがうなり声を上げた。「シェオルドレッドが人々を完成させている、そう彼が言っているのです。つまり我々は危機にあるということです」
「信じましょう」 アロンが言った。「ですが兵士たちにドミナリア中の内緒話や噂話を追わせることはできません。ケルドとの交戦や陰謀団の再興もあり、戦力をまかなえないのです」
「こっちの軍も事情は同じさ」 ラーダは一声、大きく笑った。「その点に関しては合意できたようだね」
ジョダーはラーダへ、そしてアロンへと視線を移した。「長い間、ファイレクシア人は脅威ではなかった。カーン、君の記憶は長く保つのは知っている。私もそうだ。今日の問題を――キャパシェン家とケルド人の紛争を――解決できたなら、ファイレクシア人との戦いにその兵士たちを向かわせる話ができるだろう」
シェオルドレッドの巣で、たくさんの人々が悲鳴を上げていた。あの法務官を称える恍惚の祈りの下、彼らの声はか細く、苦痛は鋭かった。「シェオルドレッドは今も命を奪っているのですよ?」
ジョダーはカーンの肩に手を置いた。「今話し合っている内容は、多次元からの侵略に比較すれば些細かもしれない。だがこの紛争でも命は失われているんだ。彼らの問題でもある」
「一緒に行く気はあるよ、カーン」 ヤヤが言った。「そいつらを探しに行く。けど今は、手元の問題に集中させておくれよ」
辺りの注意が卓へ、そして交渉へと戻る気配をカーンは感じた。
あのツグミが飛び去った。
ヤヤが声をかけた。「ステン、誰かを呼んでカーンとアジャニを客室へ案内してやってくれないかね」
カーンの部屋は簡素なものだった。必要最低限の、とはいえ上質の調度。寝台、広い机、椅子がふたつ、そして磁器の鉢が置かれた洗面台。カーンは寝台を押しのけると机を部屋の中央に移動させた。そして背負い袋を開き、あの酒杯がそのまま箱に保管されていることを確認した。
「ジョダーさんとヤヤさんが助力を渋る、最も首尾一貫した理由は」 カーンは口を開いた。「私たちもファイレクシア人の居場所を知らないということです。居場所を確認できたなら、あのふたりの援助を取りつけられるでしょう」
「そして他の人々も」 アジャニは言葉を切り、その力強い身体を丸くした。「ですがどのように?」
「占術装置です」 カーンは卓の上に片手を掲げた。彼はまず投影の板、水晶で覆われた銅の一枚板を作り出した。そして二種類の素材の狭い隙間を液体で埋めた。装置の残り部分、機械部品の複雑な組み合わせには集中を要した。魔力が駆け、カーンの身体が低く振動した。
アジャニは水色の片目から注意深い視線をカーンに向けた。「それは?」
「離れた場所の様子を見るためのものです」 カーンは声に誇りを滲ませた。これは自分自身で開発したものであり、同様の機能を発揮するような装置は他にはない。カーンはジョイラを強く思い浮かべた。彼女の顔ではなく、肉体的な存在ではなく、その本質を。彼女をジョイラとする特質を。相手の状況を通し、いつもジョイラはその人物の本質を見ていた。何かを疑ってかかることの有用性を、いつも他者に伝えようとしていた。
水晶の中、マナ・リグが現れた。最初はぼんやりと、だが奥行きが、そして色が加わった。シヴの荒廃した砂漠の中、崖の端に座しているのは、小さな町ほども大きくそして複雑な金属の建造物。映像はひとつの場所へ、その中にあるジョイラの工房へと狭まった。彼女はうつむいて作業机に向かい、赤毛はひとつにまとめて肩に垂らしていた。そして考え込んでいるのか、結合の外れたスイッチを手でもてあそんでいた。
「シェオルドレッドを見ることはできますか?」 アジャニが尋ねた。
シェオルドレッドの姿を思い浮かべるのは実に簡単だった。蠍に似た身体から、人型生物の身体が伸びている。その声は親しげに、カーンの頭の中に反響した。『カーン様……素晴ラシイ計画ヲ』
装置の映像が霧のようにぼやけて消え、すぐさまカーンは後ずさった。アジャニは彼を一瞥した。「我々に探られないよう、居場所に防御魔法をかけているのでしょう」
「理にかなった用心ですね」 不幸にも、というべきだが。
ウェザーライト号を呼び出す護符をアジャニはベルトから引き抜いた。彼はそれをカーンの手に乗せた。「これが必要となるでしょう」
カーンはその護符を吟味した。複雑ではない装置。「複製できます」
口を閉じ、アジャニは微笑んだ。「なお良いですね」
護符へと、カーンは感覚を伸ばした。複製を開始すると、彼の指先から金属がうねり出て全く同じ護符の形を成した。アジャニは元の護符をベルトに戻し、カーンは複製に繋げる鎖を作り出した。そしてそれを首にかけると。装飾品をまとうという行動を奇妙に感じた。通常、彼はそういった物を慎んでいた。
アジャニの肩の背後、窓枠にあのツグミがとまっていた。
ファイレクシア人をおびき出すことができるなら、それらの居場所を発見する必要はない。何処にいるかを知ることができる。ファイレクシア人はドミナリア最強の武器を無効化したがっており、その中には酒杯も含まれている。その在処の噂を流し、彼らを表舞台に誘い出すのだ。だがそのためには、酒杯をどこか安全な場所に隠さねばならない。
「ヤヤさん個人と話すのはいかがでしょう」 アジャニが提案した。「説得できるかもしれません。ヤヤさんは根っからの外交官というわけではありませんから」
カーンはあのツグミを見つめた。じっとして、耳を傾ける様を。「かもしれません」
アート: Allen Williams |
カーンは扉を開け、交渉の場へと入っていった。大理石のテーブルにステンがインク壺を置き、ジョダーとヤヤがそれぞれラーダとアロン・キャパシェンに羽根ペンを手渡した。署名が終わる前に場を妨げるつもりはなかった。バルコニーからは春の涼やかな海風が流れ込んでいた。
「貴女は見事な指導者ですな」 アロンが言った。「共に新時代を迎えられることを誇りに思います」
ラーダは笑みを浮かべた。「お前は突飛な喋りをするのが好きなんだね」
「そして貴女はただの乱暴者のように見られるのがお好きなようだ」 アロン・キャパシェンが応えた。「貴女を愚かな戦士だと舐めてかかった者は、即座に後悔するに違いありません」
ジョダーは微笑んだ。「ラーダ、アロンはこの協定を他の貴族一家に伝え、裁可を求める。私も同行し、数か月以内にこの手順が完了できるよう努める。その間、氷霜丘陵におけるあらゆる戦闘行為は中断だ」
渋々というようにラーダは両手を掲げた。「わかったわかった。その聖地とやらはもう奪い取るほどのものじゃない――どんなアーティファクトが眠っていようとね」
空中に水色の光の粒が踊り、そよ風がかき乱された。その光は渦を巻いて円盤を形成し、眩しい青色からテフェリーが進み出た。申し分なく年を重ねた姿――中年に達して丸くなった両肩、髪には灰色のものが混じり、暗褐色の肌は健康そうな血色をしていた。
「またプレインズウォーカーか?」 アロンは憤慨し、椅子に座り直した。
「面白いことが起こるに違いないね」とラーダ。
ジョダーは立ち上がった。「何があった?」
「ファイレクシア人です――奴らが神河にいたと」 テフェリーは両目を閉じ、かぶりを振った。「カルドハイムでケイヤが見たものによれば――」
「奴らは次元を渡れるってことかい」 ヤヤはそう言い、口をつぐんだ。
一瞬して、ジョダーが言った。「大変な状況だ、控え目に言っても」
ヤヤとジョダーにはそう説明したのではなかったか? それを、自分の目で見たと。シェオルドレッドの接触を身体で、心で感じたのだ。なのにテフェリーが現れ、又聞きの情報を伝え、ジョダーとヤヤはその主張を信じると? 「ファイレクシアの居場所」を求めようとすらせずに?
つまり自分は彫像のようなものだったのだろうか。テフェリーが警告した脅威は、ドミナリアのものですらないというのに。
だがそれは一切問題ではない。重要なのはただひとつ。「ファイレクシア人が複数の世界を移動できるのであれば、その侵略計画は我々の想像以上に広がっており、統制されているということです」
ラーダは身体を強張らせた。「なら戦わなきゃいけないってことだ」
アロンはかぶりを振った。ベナリアの騎士たちは落ち着かない様子で、武器に手を伸ばしたがっていた。まるで行動に出たがっているかのように。「再びのファイレクシアの侵略を目にすることになろうとは、考えてもみなかった」
「真の黄昏が来る」 ラーダの戦士のひとりが囁いた。「そんな生物とどうやって戦えばいいんだ?」
ステンが言った。「どれほど悪くとも、更に悪いものが来るでしょう」
ジョダーはヤヤに、彼なりに最も控えめな「助けてくれ」の表情を見せた。ヤヤはカーンとアジャニに向けて手を振った、この中断の原因であるテフェリーを追い払ってくれというかのように。ラーダとアロンはまだ署名していなかった――そしてこの状況ではできそうもない。ジョダーはアルミニウム片を噛んでしまったような顔をしていた。
「どうやら、私はあまり宜しくない時に来てしまったようですね」とテフェリー。
「そりゃあもうね」 ヤヤは意味深長な表情を向けた。
「この場合、相互不可侵条約は――」アロンが口を開いた。
「自分たちの国と住人に目を向けるのが一番いいんじゃないのか――」 ラーダが言った。
カーンはテフェリーを扉へと向かわせ、テフェリーはそのまま従った。
テフェリーは次元渡りで疲弊しており、カーンとアジャニは彼を自分たちの客室に隣接する部屋へと案内した。
外では春の雨が崖を叩いていた。石の裂け目にはローズマリーが根を張り、その花の香りがガラスのない窓から漂っていた。ローズマリーの香りを嬉しく思うのは、自分がそれを好むからだろうか? それともウルザがそのように設計したためだろうか? 答えは知るよしもない。
テフェリーの存在はいつも、自分の起源を考えさせる。その全てが喜ばしいわけではない。
「ニアンビさんはお元気ですか?」 カーンはそう尋ねた。
「ジャムーラを放浪する部族に医療術を提供しているよ」 その言葉は娘への誇りを放っていた。「ジョイラは?」
「しばらく話をしていません」 自分の表情に、人間のような可動性と細かな感情を表現するための柔軟性をウルザが与えてくれていたなら、カーンはそう願った。そうであったなら、この件について話したくはないとテフェリーに伝えるのは簡単だっただろうに。
アジャニはテフェリーとカーンを一瞥した。まるで両者の間の気まずい沈黙が、爪弾く弦として見えたかのように。「何か他に困り事があるのですね」
「ケルド人とベナリア人の前で言いたくはなかった」 テフェリーは頷いた。「だが奴らはタミヨウをさらった。プレインズウォーカーですら今や安全ではないのかもしれない……時間をかけすぎたんだ、アジャニさん」
アジャニは凍り付き、驚きをありありと顔に浮かべた。「タミヨウさんが?」
テフェリーは弱弱しく頷いた。「その件については、休息をとってから話そう」
アジャニが拳を固く握りしめ、その顔に憤怒と悲しみがよぎる様をカーンは見つめた。そのふたりが親しいとは知らなかった。
「私も休んだ方が良さそうだ」 一瞬の後、レオニンはそう言った。
カーンはそれを解散の合図と受け取った。部屋に戻ると、彼は酒杯と粘土板の入った箱を開いた。そして粘土板を取り出し、再び錠をかけ、それを机の上に置いた。調査のためにこれはここに、だが酒杯は――新たな隠し場所が必要だ。
どこか安全な場所が。そして丁度良い場所を彼は知っていた。
カーンは占術装置、水晶に覆われた銅板に掌をあてた。ジョイラの姿が現れた。もはや工房にはおらず、眠っていた。枕に顔をうずめ、乱雑な三つ編みにまとめられた赤毛が頬にかかっていた。カーンはその映像を消した。
牡蠣湾の衛兵たちを避けるのは簡単だった。ここの人々はかつて名の知れた海賊だったかもしれない、だが組織的で陳腐な監視の業務には適応していなかった。巨体のカーンは影の中、あらゆる光の反射を避けて進んだ。彼は狭い路地へ滑り込み、闇の中を探りながら崖の頂上へと向かった。
彼はファイレクシアのポータル船、その背へと登っていった。劣化した金属は紫苑やキリンソウといった野の花で柔らかく覆われ、若きツタカエデの丘へ続いていた。カーンの脛をシダがこすり、湿った大気が身体にまとわりついた。
ヤヤとジョダーの鋭い感覚から十分な距離まで来ると、カーンは焼けつく久遠の闇へと傷跡を開いて踏み入った。身体の表面に熱がうねり、彼はその場所を通過してシヴとマナ・リグへ、ジョイラの工房へと直接入った。死んだような沈黙は、あらゆる機器がジョイラの目覚めを待っているかのようだった。
カーンは備品の倉庫へと向かった。そして酒杯の入った箱を最下部の棚にしまい込んだ。その前に置かれた長いパイプには埃が積もっていた。最近ジョイラがこれを必要としてはいない証拠。次に彼はふたつの装置を作り出した。ひとつはパイプが動かされたなら作動する警報、もうひとつは箱そのものが動かされた際に通知する重量感知の警報。それらをここに設置し、酒杯は厳重に守られる。あるいは可能な限り厳重に。そしてカーンは久遠の闇へと引き返した。
アート: Adam Paquette |
木立の丘へと戻り、カーンはうねる道を牡蠣湾へと下っていった。青白く細いカバノキの間に、ほんやりとした光がひとつあった。ランプを高く掲げた人影。カーンは立ち止まり、だがランプの光が彼の身体に反射した。目撃された。人影が近づいてきた――ステン、交渉の場にいた新アルガイヴの貴族。
一羽のヨタカが声を上げ、低いさえずりが木々の間を抜けていった。
用心が足りなかったのだろうか?
「散歩ですか?」 ステンが尋ねてきた。
「ええ」 カーンは頷いた。「私は眠りませんので。こんな遅くまで起きておられるのですか?」
「いえ、早起きですよ」 近づいてくるにつれ、ステンの姿がはっきりとした。髭は剃られ、髪は整えられている。「夜明けの時だけは、心から自分は安全だと感じられるのです。平和を。パンを焼く匂いが街じゅうに漂い、人々が目覚めはじめる。自分たちは戦乱のさなかにはいないと感じられます」
空が白みを帯びはじめていた。大気は露とシナモンのように感じられた。
「他のプレインズウォーカーさんたちから耳にしましたが、貴方はファイレクシアの感染に耐性をお持ちだとか?」
「そうです」
「つまり、信頼できるプレインズウォーカーは貴方だけかもしれないということですね」 ステンがまとう毛皮のマントは露に濡れていた。「侵略の兆候を察しているのは貴方だけではありません。ダリアン陛下は私に、ファイレクシアの工作員を発見するよう命じられました。明らかにこれは広く知られてはいない事実です」
「そのような工作員を発見したら、どうするつもりですか?」
「やるべきことをします。できるべき唯一のことを。ひとたび完成された者は――失われたも同然です、本人がそれを知っていようといまいと」
「完成されたことを知らない?」
「本人ですら知らないのです。思うにファイレクシアにとってはその方が有用であり、発見されにくいのでしょう――自分たちがそうだと知らないならば」
それはもっともだと言えた。自分たちの重要事、家族、世界そのものに敵対する行動を、そうとは知らずにとり続ける。ファイレクシア人はそういった無自覚の工作員たちをあらゆる場所に潜入させている。とはいえそのような人々を、既に大いに利用され痛めつけられた人々を殺すのは……ダリアン王がステンを選んだのは、彼の無慈悲さからに違いない。
「そのような工作員を捕らえたことはあるのですか?」
「いえ、今はまだ」 ステンは夜明けに染まる海を見つめた。漁船が波の間を滑り、日に焼けた帆が広げられていた。「テフェリーさんの知らせが皆を怯えさせています」
カーンは頷いた。「怯えているでしょう。ベナリア人とケルド人は融和できると思いますか?」
「わかりません」 ステンはそう認めた。「ですがこれだけは約束できます――新アルガイヴは戦うと。ドミナリアを守るため、貴方とともに立ち上がります」
カーンは頷いた。説得力のある情報源として誰かが信頼してくれた、そのことに安堵して。軍事的助力を喜んで提供してくれる最初の仲間を見つけたのだ。「詳細は後ほど話し合いましょう」
街の中に入ると、目覚めている者はまだ少ないように思えた――パン職人たちが発酵した塊をオーブンに入れ、子供たちが山羊の乳をしぼり、鶏に餌をやっていた。時に、カーンは彼らの苦難を想像した――可愛がっていた鶏を夕食のために失う、あるいは貴重なミルクをこぼしてしまう。こういった人々が死してずっと経ってからも、自分はその生き様について考え続けるのだろうか。
自分が年老いたように感じた。年老いて、疲弊したように。そしてこの静かな朝、子供たちの美しい一瞬は耐えられない悲劇のように思えた。
カーンが庁舎に到着すると、アジャニは既に起き出しており、藤の蔓が伸びた土手の間を行き来していた。そして立ち止まり、その身体は張りつめて震え、尾をひとつ打ちつけた。それは意図しての動きではないとカーンは推測した。人間の傍で過ごす彼が、いかに獣的な仕草を抑えているかは見てきていた。アジャニの水色の目が薄闇の中で光を受け、その瞳孔が捕食者の緑色に輝いた。
「カーンさん、もう人間の皆さんは目を覚ましましたかね?」 アジャニが尋ねてきた。「ジョダーさんとヤヤさんは今日もまた交渉に同席するようですが」
ファイレクシアの脅威を前にして人間同士の些細な喧嘩を優先し続ける、そんなジョダーに対する忍耐力は尽きていた。「起きている方もいます。先ほどステンさんにお会いしました。彼は新アルガイヴの戦力を約束してくれましたよ」
「ではヤヤさんと話をしましょう。交渉が再開される前に」 アジャニが言った。
「これはカフェインっていうんだがね。あんたたちも聞いたことがあるなら、今はもっと私に気を使ってほしいものだよ」
「聞いたことはあります」とカーン。
「苦いものです」とアジャニ。
テフェリーが部屋に入り、バルコニーへ続く扉を開けた。冷たい海風が部屋を洗い、春の鳥の歌声を運んできた。一羽のカモメがバルコニーに着地して首をかしげ、テフェリーが手に持つパンを意味ありげに見た。続いてムナオビツグミが手すりにとまり、跳ねて進んだ。昨日と同じ鳥だろうか? この橙色の胸の鳥は臆病で、森に棲むものだ。それがカモメの傍に?
「どちらの国境に誰が何の税を課すのかなど、重要ではありません」とアジャニ。「ファイレクシアとの戦いを優先させるべきです」
「その通りです」 カーンはツグミに視線をやった。「そして酒杯をファイレクシアの手から遠ざけることが」
「酒杯?」 アジャニははっとした。「あるのですか?」
「所有しています」 カーンは頷いた。「新ファイレクシアへ持ち込み、その源からファイレクシアの脅威を根絶する計画です。ひとたび機能を確かめられたなら」
「カーン、それは協力して対処すると合意したはずだ。独りで行っては駄目だ」 テフェリーは真剣な面持ちだった。
「待ち過ぎたと言ったのは貴方ではありませんか。力を貸すと約束してくれて、そして待てと言った。もはや待つことはできません」
あのツグミは見えない餌をついばむふりすらしなかった。
カーンはその鳥を手で掴んだ。「あなたが何であるかは知っていますよ」
「カーン――」 ヤヤが言いかけた。
鳥の胸部がはがれるように開き、ケーブルが弾け出た。血と粘液に濡れたそれがカーンの頭部に巻き付いた。べたつく粘体が身体を流れ下り、触手の芯にある大口が侵入口を探してカーンの頬を撫で、その歯が滑らかな金属を引っ掻いた。カーンは鳥の滑る身体を掴みなおし、顔から引きはがそうとした。だがそのワイヤーは頭部に完全に巻き付いており、首筋で固く分厚く締まっていた。そのクリーチャーの歯がカーンの唇をとらえた。それは何本もの針に似た組織を彼へと突き入れた、まるで何かの物質を注入しようとするかのように。そしてそれらは折れた。
ヤヤが叫んだ。「カーンにくっつかれたら燃やせないよ!」
「私が――」 アジャニが前に出た。
粘液がそのクリーチャーから滲み出てカーンの表面を焼き、金属を腐食した。痛み。触手が首筋の関節や首周りを這った、まるで彼を割るための位置を探るかのように。カーンはうめきながら、指でそのクリーチャーのぬめる身体と自分の顔を掴んだ。彼はむしり取って放り投げ、それは部屋の反対側の壁に激突して滑り落ちた。そのクリーチャーは扉へと這って向かった。
逃がしはしないとテフェリーが両手を掲げ、するとそのクリーチャーは揺らめく領域に包まれて速度を緩めた。アジャニが駆け出して鉤爪を突き立て、床に釘付けにした。それは悲鳴を上げて悶え、傷口から酸を吹き出した。
腐食の粘液による蒸気を顔から上げたまま、カーンは両手を重ねて伸ばした。彼は鳥かごを作り出し、その柵が天井から下へ伸びてひとつのドームを形成した。アジャニは床からその小さな怪物をむしり取り、鳥かごの中へと投げた。
柵に閉じ込められ、それは金切り声をあげた。
ヤヤが腕を組んで行った。「どうやらジョダーには、税よりも懸念しなきゃならないことがあるようだね」
ファイレクシア製の鳥を、カーンは交渉の机に置いた。ジョダーは身を乗り出し、目を見開いた。鳥かごの中のクリーチャーは威嚇するような声を発した。アロン・キャパシェンは蒼白だった。鉄の自制心を持つベナリアの騎士たちはじっと動かずにいた。ラーダは両目に光を宿して見つめ、彼女の戦士たちは一斉に祈りの言葉を呟いた。ステンは口を閉ざし、だが自分の意見は正しかったと満足そうだった。
「奴らはここにいる」 ジョダーが呟いた。「私たちの中に」
「言ったではありませんか――」
ステンがそう言いかけた瞬間、ベナリアの騎士三人がその鎧の内から弾け飛んだ。彼らの両目からはぎらつく黒い油が迸り、顎は膨張し、大きく開いた口に留め付けられた金属製の歯が現れた。鎧の隙間から金属の繊維が悶え出た。一体が大理石の机へ跳び上がり、鉤爪の手は倍に膨れ上がっていた。それは両手を机に叩きつけ、真二つに割った。
それは言った。「交渉は終わりだ」
もう一体が悶える触手でアロンを掴み、蜘蛛が糸で蠅をそうするように包み込んだ。
カーンは進み出た。テフェリーとアジャニがその脇についた。ヤヤは両手を掲げ、掌に炎を呼び起こした。ジョダーは魔力を集中させて色彩のリボンで大気を歪め、それらで障壁を作り上げ、変化していないベナリアの兵士たちをファイレクシア人から守った。
アート: Dominik Mayer |
「ジェラードの名にかけて!」 ひとりの女性が叫んで剣を掲げ、ジョダーの障壁を迂回してかつての僚友へと切りかかった。ファイレクシア人の騎士は自ら真二つに分かれてその攻撃を避けた――それはふたつの肉塊に分かれ、ぎらつく内臓であったものから何本もの脚が生え出た。そして両方の塊が反撃した。
「昇天の第一の風は、鍛錬する者の風なり!」 ラーダが声をあげ、扉へと後退した。彼女は――アロンと同様――丸腰で交渉の場にやって来ていた。
「不純なるものを焼き尽くす風なり!」 ケルドの戦士たちが叫び、ラーダを守るように取り囲んだ。彼らはラーダへと迫る触手を払いのけ、ファイレクシア人の肢を叩き切った。だが床に転がったそれらは自ら立ち上がり、脚や歯を生やし、後退するケルド人へと悶えながら向かった。
アルガイヴ人たちも抵抗し、レイピアを持ってケルド人に加わった。戦いの経験もその想定もなかった貴族の武器。ステン自身は一本のダガーを所持するだけだった。同僚と分断された彼は壊れた机の破片に隠れ、やがてヤヤの守りの炎に到達した。カーンはアロンに迫った。
アロンを拘束していたファイレクシア人が、蒸気バルブを開けたような低い笑い声を発した。それはアロンの身体を抱きかかえると、窓から近くのバルコニーへと跳ねた。アジャニは憤怒にうなり、それに続いた。
アジャニ! カーンは追うわけにはいかなかった――身軽なアジャニとは異なり、この重い身体で跳んだならバルコニーは壊れてしまうだろう。カーンは胸の底で低いうなり声を発し。引き下がった。テフェリーが罵り声をあげた。
彼は言った。「私にこの距離は跳べない」
ケルド人たちは扉まで後退させられていた。
「大魔道師、お前を放って逃げる気はない」 ラーダが叫んだ。「ケルドはドミナリアとともに立つ――ドミナリアのために。お前とともにこの罰当たりどもと戦おう、全ての人々を守るために」
「行け!」 ジョダーが叫んだ。「今は生き延びろ、いずれ共に戦うために!」
「数が多すぎます」とカーン。「この部屋に閉じ込めます!」
ラーダはすぐさま頷いた。
真鍮張りの両扉が勢いよく音を立て、プレインズウォーカーたちと大魔道師、そしてファイレクシア人たちを閉じ込めた。
ヤヤは頭上で両手をうねらせ、ジョダーをファイレクシア人から守った。その炎は危険なほどの熱に白く燃え上がった。ヤヤの魔法であればこの状況ですら勝てる、カーンは確信した。彼は熱の中を進んだ。それは彼の関節に悶えようとする触手を焼き、殺していった。
「一日中こうしていたいね」 ヤヤはそう言い、金属と肉が悶える塊へと火球を放った。「ジョダー?」
「魔力は十分だ」 ジョダーの両目が赤熱し、皮膚までも輝きを発していた。「だがポータルを作るためには、向かう先を決める必要がある。安全な場所だ」
「アーギヴィーア」 ステンが息を切らしながら言った。彼は自分に迫る触手をダガーで切り裂き、踏み潰した。血と油が靴底から広がった。続いて彼は次に迫り来る触手に対峙し、突き刺した。「新アルガイヴの監視塔へ」
「申し分なく安全ですね」 カーンはテフェリーと共に、ジョダーの所まで下がった。
ジョダーのポータルが彼の背後に回転して現れた。それは宙そのものを切り裂いた出入り口のようで、小さな円形の部屋がその先に見えた。
ジョダーは反対側からポータルを支えるべく入っていった。
「こいつらは私に任せな」 悶える触手を焼きながらヤヤが言った。「全員がポータルを通ったならこの部屋を燃やし尽くしてやるよ、ファイレクシア人の欠片すら残らないような炎でね」
「感謝致します」 ステンもまたポータルへと下がった。
「私からも」 テフェリーはそう言い、うねる渦を通って消えた。
燃え盛る炎をまとう両手を掲げ、ヤヤはにやりと笑った。そして部屋が点火された。ファイレクシア人たちの、湿って不自然な悲鳴が響いた。
カーンはポータルに足を踏み入れた。その魔法が身体の表面を刺激し、彼を飲みこみ、向こう側へと吐き出した。ひとつの影が宙をひらめき、去っていった。カーンはそれを探そうと顔を向けたが、その小さな部屋の中に動くのは自分たちだけだった――ステン、ジョダー、ヤヤ、テフェリー、それと自分自身。
最後にポータルをくぐったヤヤが、カーンの隣にやって来た。
ジョダーはポータルを閉じると、力尽きたように床に崩れ落ちた。これほどの人数を輸送するのは、彼ほどの力があっても簡単ではない。
人間たちは皆床に腰を下ろし、荒く息をつき、汗と血にまみれていた。一方のカーンは立っていた。彼は部屋の中にあのひらめく影を探した。ここは塔の一室のようで、アーチ型の小さな窓が並んでいた。中央にはひとつの台座があり、その上には操作盤らしきものがあった。頭上では水晶の中に黄金色の光が揺らめき――いや、水晶ではない。パワーストーン。
その表面をひとつの影がよぎった。
「私たちを追いかけてきたものがあります」 カーンはそう言った。
「逃すわけにはいきません。街に大惨事がもたらされるかもしれません」 ステンは操作盤中央のスイッチを叩いた。歯車が重くきしんで動きだし、監視塔が揺れた。壁の内側で鎖が動く音が響いた。鋼の鎧戸と非常扉が閉ざされ、あらゆる外の光が消えた。彼らの部屋はすぐさま重く、狭苦しく感じた。ステンは鍵をカーンへと手渡した。「カーンさんはファイレクシアの腐敗を受けない唯一の存在です。唯一、これを持つに相応しいでしょう」
ヤヤはジョダーへと肩をぶつけた。「相応しいのは自分の方だ、ってあんたは相も変わらず思ってるんじゃないか?」
「何千年も経ったんだ。思ってなんていないさ」 ジョダーの笑みが消え、彼はカーンへと向き直った。
「塔が封鎖されたなら、誰も、何も外へ出ることは叶いません」 ステンが言った。
テフェリーは鋼の鎧戸へ視線を向けた。「ここに閉じ込められたファイレクシアの装置を確保し、破壊しなければ。そして我々の中に関与している者がいるのか否かを特定しなければならない。相手をどう倒すかを考える前に、誰を信頼して良いのかを知る必要がある」
「賛成だ」とジョダー。
彼らはその部屋を捜索したが、同行してきたファイレクシアの小型装置は逃走してしまっていた。石の割れ目のどこかから小動物のように抜け出たのだろう、カーンはそう推測した。彼はウェザーライト号を召喚する護符の鎖にステンから預かった鍵をぶら下げ、仲間たちへと向き直った。不安の身震いが身体を駆け抜けた、まるで電気を受けたかのように。ジョダー、ヤヤ、テフェリー、ステン……誰を信頼すべきか、いかにして判断できるというのだろう?
ファイレクシア人が既にドミナリアにいるのであれば、誰が信頼できるというのだろう?
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
Dominaria United 団結のドミナリア
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