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開発秘話

Making Magic -マジック開発秘話-

得られた教訓 その6

Mark Rosewater
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2023年10月9日

 

 「マジック開発秘話」の各記事の最後には、私の「Drive to Work」Podcastの最新エピソードを掲載している。私のPodcastで、私がデザインのリードあるいは共同リードを務めた各セットを取り上げ、その経験から学んだことについて語る「得られた教訓/Lessons Learned」というシリーズを放送している。今年、各教訓についての記事を書き始め、もっと詳しく知りたい読者のためにPodcastへのリンクもつけた。過去の5本の「得られた教訓」の記事は以下の通り。

 前回は、『灯争大戦』まで取り上げた。次は『エルドレインの王権』になる。

『エルドレインの王権』

教訓:「アイデアには、対となる適切なアイデアが必要なことがある。」

 時折、デザインをリードしていると、知らなかった重要なことを学ぶことがある。個別のトップダウン・カードのデザインは数多く手がけていたが、『イニストラード』は私がデザイン・リードを務めた初めての完全なトップダウン・セットだった。しかも、ただのトップダウン・セットではなく、ジャンル1つ(ゴシックホラー)を基柱としたたものだった。芳醇さの重要性は知っていたが(それは「マジック開発秘話」の中で頻繁に出てくるテーマだ)、プレイヤーがすでに知っているストーリー要素を利用することがどれほど強力なのか、私はまったく理解していなかったのだ。ある種のストーリーやストーリー要素とプレーヤーの間には感情的な結びつきが形成されていて、それは非常に強力で、明確かつ即座に理解できるデザインにつながる。

 『イニストラード』のデザインを終えた瞬間には、私はセットを作るための別のジャンルを見つけたいと思っていた。当時、私はファンタジーに隣接するものを見つけることを意識していた。何年もかけて、私たちはマジックの中心から離れたジャンルのテーマを実験してきたが、それは私たちのジャンル探求の初期段階だった。私は選択肢の候補をリストアップし、そのトップに童話を挙げた。童話には2つの大きな利点があった。1つ目に、童話は基本的にファンタジーを舞台にしている。王族や魔女やフェアリーやドラゴンや魔法の呪文がある王国が必要なのだ。2つ目は、ファンタジーは普遍的に知られているジャンルだということだ。子供向けエンターテイメントによく登場することがその理由の1つではあるが、物語自体が大衆文化に頻繁に登場するほど典型的なものとなっているのだ。例えば、平均的なアメリカ人は、生涯のうちにシンデレラのプロットを持つ映画を10本観ていることがわかった。私は、童話は次元を作る基柱とするのに完璧なコンセプトだと確信していた。

 時折、開発部の全員が新しい舞台のアイデアを提案できるミーティングを行うことにしている。私は、このジャンルの空間の奥深さと親しみやすさの両方を示す、ポップカルチャーから抜粋した映像でいっぱいのスライドショーを作成した。結果は、大不評だった。懸念されたのは、あまりにも幼稚だということだった。私は、このジャンルは子供向けの娯楽というイメージがあるが、元の題材はもっとダークなものだと強調した。多くのエンターテインメント作品が、童話というジャンルにおけるシリアスな空間を扱ってきた。しかし、上層部は立ち去ってしまった。

 私は何度か再挑戦したが、興奮を呼び起こすことはできなかった。数年後、私たちはまたこのようなミーティングを行い、ショーン・メイン/Shawn Mainがアーサー王伝説を元にしたセットのアイデアを提案した。それは多くの興奮を呼び起こし、スケジュールに加えられた。私は、アーサー王伝説をもとにしたセットは、芳醇さという観点から見ればそれほど認知されておらず、マジックが何度も扱ってきたテーマを扱っているため、特に目新しさを感じないことに気づいた。チャンスだと思った私は、上司のアーロン・フォーサイス/Aaron Forsytheに、アーサー王伝説のセットを童話で補うことを提案した。私は、色々な意味でアーサー王伝説はイングランドの童話を集めたものであり、中央ヨーロッパでは他にも多くの有名な童話が生まれたと主張した。アーロンはサインをし、『エルドレインの王権』はついに童話のジャンルを取り入れたセットとなったのだ。

 重要なのは、童話のセットそのものは受け入れられなかったのに、なぜアーサー王伝説のセットの計画を修正することには成功したのかを理解することだ。答えは、私のアイデアに充分な根拠がなかったからである。私は、当時、開発部のマジックへの見方から少しばかり遠すぎるものを提案していたのだ。マジックは、共同作業である。私以外の誰もイメージできないようなセットは作れない。

 私の仕事には、デザインの大局的な文脈を理解することも含まれる。童話は、その普及の仕方ゆえに、ある種の問題を伴っている。童話でセットを作る鍵は、その認識を相殺するために他の要素と組み合わせることだ。アーサー王伝説はポピュラーなメディアではあまり子供向けにはされていないので、印象が違う。美的に合っていて、全体的なトーンを変えてくれるので、童話をうまく引き立てると言える。今では、うまくいかないアイデアを売り込もうとするとき、ただそれを訴え続けるのではなく、人々の見方を変えるような組となる要素とあわせることにしている。問題は、他の人たちが私の良いアイデアを見られないことではなく、私が自分のアイデアの可能性を見てもらえるような売り込み方をしていなかったことだったのだ。デザインの多くはセールスマンシップであり、『エルドレインの王権』は、より良いセールスマンになるための重要な教訓を教えてくれた。

『イコリア:巨獣の棲処』

教訓:「成功のためには、後に続くチームの準備をしておくこと。」

 『イコリア:巨獣の棲処』の枠は元々『テーロス還魂記』になる予定だったが、当初のエルドレインへの旅が2セット(宮廷と僻境それぞれ1セット)計画されていたため、1セット後になった。枠に空きができたとき、何年も先に予定していた、当初「怪物の島」と呼んでいたアイデアを前倒しすることにした。

 このセットの主な展望は、イニストラードのセットで使うハロウィン・タイプの怪物ではなく、巨大で進化する怪物に焦点を当てることだった。デザインは、ポップカルチャーを見て、セットを埋め尽くすことができるさまざまな種類の怪物の素材を描き出した。モンスターが小さなものから巨大な怪物に成長する「変容」と、1人または複数のヒューマノイドがモンスターと精神的なつながりを持つ「絆」は、このセットの2大テーマだった。これらのアイデアは、それぞれに専用のメカニックがつくほど重要なものだった。

 変容の目標は、当初からプレイヤーが 「自分だけのモンスターを作る」ことができるメカニズムを作ることだった。このメカニズムは『ローウィン』の覇権メカニズムを元にしたものである。覇権はプレイヤーに大当たりしたとは言えなかったが、進化と変容というアイデアはかなり人気があると感じていたので、イコリアをそのアイデアをメカニズム的に生かす場として使いたいと考えていた。変容は当初、特定のクリーチャー・タイプに縛られた少し狭いものだったが、プレイヤーがより柔軟に使える方がより楽しいメカニズムになるとわかったので、幅を広げた。より開放的になるにつれて、複雑さが増していった。

 相棒はハッカソンで思いついたメカニズムだった。毎ゲームプレイする可能性が高いクリーチャーがいるという、統率者戦の楽しさの一部を扱ったものである。このコンセプトが絆というアイデアとうまくいったので、セットに加えた。相棒は、デッキの多様性がマジックを機能させる大きな要素であるため、危険な空間を扱っていた。過去にも似たようなことを試みたことがあったが、いつもプレイバランスの問題で断念していたのだ。しかし、今回はうまくいくと思った。

 『イコリア』の大きな教訓は、私たちが変容を扱ったことでも相棒を扱ったことでもなく、その両方を採用したことにある。展望デザインの要点は、セットの基本的な展望と構造をうまくいくようにすることであり、それによって下流のチームはそのセットを最高のものにすることにエネルギーを集中できるようになる。しかし、その中で重要なのは、自分たちが引き渡したものが、下流のチームで合理的に達成できるものであるかどうかに注意しなければならないということだ。イコリアのデザインがつまずいたのは、展望デザインがあまりにも多くを提出しすぎたからだ。変容も相棒も、今で言うところの「手のかかる」要素であり、適切に実行しバランスを取るには、さらなる時間と注意が必要なのだ。展望デザインは、手のかかる要素を1つだけにすべきなのである。『イコリア:巨獣の棲処』は、セット・デザインチームとプレイ・デザイン・チームが噛み切れないほど多くのものを扱わないようにするためでもある、我々が現在展望デザイン・サミットと呼んでいる(少し進化している)新しい工程を始めるきっかけにもなった。工程の新しい部分を生み出すデザインはそうそうあるものではないので、この教訓は他のものよりも大きなものだった。

『ゼンディカーの夜明け』

教訓:「セットの枠を超えて考えること。」

 初代『ゼンディカー』は2009年に登場した。それは土地とメカニズム的に強く結びついた冒険の次元だった。その「年」の当初の計画では、最後のセットを別の次元を舞台とする大型のセットにする予定だった。クリエイティブ・チームは当時、1年で2つの次元を作れる体制ではなかったので、代替の計画を立てた。ゼンディカーでは、完全なメカニズム的リセットを正当化するほど大規模な出来事が起こるのだ。このイベントでは、エルドラージが捕獲から逃れ、その次元に大混乱を引き起こすことになる。

 『ゼンディカー』ブロックは大人気を博し、我々は2015年にゼンディカーに戻ることになった。『エルドラージ覚醒』で始めた物語を終わらせる義務があると感じ、2度目のゼンディカー訪問は、エルドラージと戦うその次元の住民と、ゼンディカーの解放を助けるプレインズウォーカーの集団であるゲートウォッチの結成を中心に展開されることになった。『戦乱のゼンディカー』ブロックはメカニズム的に通常とは大きく違っており、『ゼンディカー』や『ワールドウェイク』の冒険世界というテーマよりもエルドラージとの戦いに重点が置かれており、人気も低かった。

 3回目の訪問では、プレイヤーたちを『ゼンディカー』に惚れ込ませたそもそもの原因を思い出させることに興味があった。その1つは土地のテーマを再探求することだったが、もうひとつは、冒険の次元という雰囲気を取り戻すことだった。話を続ける前に、「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」をテーマとしたマジックのエキスパンションについて何年も話していたものの、『ゼンディカーの夜明け』の展望デザイン中にはまだ現実化していなかったことを記しておきたい。だからこそ、私たちが冒険のテーマを探求し始めたとき、冒険パーティーというコンセプトに行き着いたのだ。

 「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」(D&D)に馴染みのない人のために説明しておくと、さまざまなスキルや能力を持ったキャラクターをロールプレイするものだ。多くの場合、キャンペーンは冒険を中心に組み立てられており、たいていは何か大きなミッションを伴うものだが、時には冒険のために冒険することもある。D&Dは社会的なゲームなので、他の人と一緒に遊びたいし、冒険パーティーというコンセプトが、ゲームのストーリーの中で全員が協力する理由になる。冒険パーティーが登場する物語は(「指輪物語」など)たくさんあるが、私が冒険パーティーについて考えるときに最も影響を受けたのはD&Dだった。

 D&Dでは、冒険パーティーのキャラクターの種類を多様化したい場合が多い。クラスによってスキルが異なり、使用できる道具や武器も異なる。私が初めてプレイした初期のD&Dでは、ファイター、ウィザード、ローグ(ならず者)、クレリックという4つの基本クラスがあった。その4つのうち3つは、マジックのクリーチャー・タイプだ。これは、それぞれ1人ずつ入れるパーティーのメカニズムの元となった。最終的に、よく使われるクリーチャー・タイプで最も近い類似性がある、戦士をファイターと入れ替えた。

 私は、マジックが通常行うのとは異なる方法で、パーティーがクリーチャー・タイプを参照するというアイデアに最も興奮していた。通常、タイプ系テーマでは、同じクリーチャー・タイプをたくさんプレイすることが重要である。パーティーはプレイヤーに多様性を求めるのだ。このメカニズムはとてもフレーバーに富んでいて、新しいメカニズム的な方向に進もうとしているように見えた。私はそれを使うことに全面的に賛成だった。

 私が『ゼンディカーの夜明け』から得た大きな教訓は、メカニズムは概念空間の外で生きなければならないということを理解することだった。そのセット環境の生態系の中で何かを作り、マジックのメカニズムが周囲のあらゆるものと相互作用しなければならないことを忘れてしまうのは非常によくあることだ。パーティーはこの問題の完璧な例である。まず第一に、それには一定のクリーチャー・タイプの組み合わせが必要だ。当時は、ほとんどのセットで登場する職業のクリーチャー・タイプを使っていたから大丈夫だと思っていた。それよりも少し先を見据えて行動しなければならないのだとわかった。ただそのクリーチャー・タイプを持つカードであればいいというわけではない。将来のセットで作られるデッキに特に適したカードが必要なのだ。これら4つのクリーチャー・タイプは、メカニズムよりもフレーバーに影響されているという事実が、この問題を想像以上に厄介なものにしている。

 もう1つの大きな問題は、このメカニズムが構築フォーマットの一般的な性質に反していることだ。私はクリーチャーを脅威としてプレイする。対戦相手はその脅威を取り除く。一進一退がある。パーティーはプレイヤーに、盤面にクリーチャー1体を出すことを求めるのではなく、それぞれ異なるクリーチャー・タイプのクリーチャー4体を出すことを求める。これは、プレイデザインが簡単に対処できる範囲を超える大きな要求だった。たしかに、4枚にならなくてもプレイする価値があるようなデザインは作ったが、フォーマットの仕組みそのものがプレイヤーがコンスタントにこなすには多すぎることを要求していて、それが価値ある構築向けデザインを作る上での鍵なのだ。

 『イコリア:巨獣の棲処』の教訓と同様に、『ゼンディカーの夜明け』の教訓はビジョン・デザインのやり方を変えた。我々が作っているメカニズムが構築フォーマットに適したデザインがされていて適正にバランスを取りうるようになっていることを確認するために、プレイデザインの確認がより多く行われるようになった。

『ストリクスヘイヴン:魔法学院』

教訓:「馴染み方には幅がある。」

 『ストリクスヘイヴン:魔法学院』が生まれたのは、やりたいと思っていた複数の異なるテーマが、同じセットでうまくいくことに気づいたからである。我々は、魔法学校を題材にしたトップダウンのセットを作りたかった。我々は、「ラヴニカ」とは異なる構造の対抗色の陣営セットをやりたかった(歴史的に、対抗色に特化したセットは友好色に比べてかなり少ない)。我々は、「インスタントとソーサリー関連」のセットをやりたかった。我々は、モードを持つ両面カードを作りたかった。これらすべてが同じセットで相乗効果を発揮することがわかって、我々はそれをスケジュールに入れたのだ。

 興味深いことに、このセットでの私の大きな教訓は、それらのどのテーマとも関係がなかった。まあ、1つ目とは少し関係があるかもしれない。何年もの間、私はすべてのセットが芳醇さを持つべきだと大々的に提唱するようになっていた(上記参照)。プレイヤーを興奮させるには、プレイヤーがすでに精神的なつながりを持っているものを利用する必要がある。我々はそれに独自のひねりを加えることができるが、芳醇さのポケットがあることはデザインにとって役に立つ。

 我々が最初期に手がけていたテーマは、文化的、歴史的、神話的なものだった。最初のトップダウン・セットは『アラビアン・ナイト』で、最初のトップダウン・ブロックは『神河物語』だった。これらのセットは、現実世界のものに着想を得て、それに基づいてカードを作った。その後、我々はジャンル空間の探求を始めた。イニストラードがゴシック・ホラーの次元で、エルドレインがアーサー王伝説/童話の次元であるように。これによって、ユーザーがよく知っているポップカルチャーや元ネタの空間を利用することができた。

 『ストリクスヘイヴン:魔法学院』はトップダウンのジャンルのセットとして始まった。テーマとしての魔法学校は、映画、テレビ番組、本などに登場してきた。しかし、デザインしているうちに、私たちはまったく新しいタイプの芳醇さ、私が「現実世界の芳醇さ」と呼ぶものに出くわしたことに気づいた。そう、プレイヤーたちは魔法学校というジャンルに馴染みがあったが、それ以上に学校に馴染みがあったのだ。ほとんどのプレイヤーは、どこかの学校に通った経験がある。つまり、その知識を生かしたデザインを作ることができるということだ。実際、我々は陣営作りをこれに大きく寄せた。我々は科目を中心に大学を作った。クアンドリクスは数学をテーマとした。ロアホールドは歴史をテーマとした。これらは(ほとんど)誰もが共感できる普遍的なものだ。

 それぞれのタイプの芳醇さにはそれぞれの問題がある。文化的な芳醇さは、誰もが同じように元素材に精通しているわけではないという点が制限になる可能性がある。たとえば、『アモンケット』を手掛けたとき、我々は社内でエジプト神話について人々がどの程度知識を持っているかを尋ねて回り、想像よりも知られていないことを知った。

 ジャンル的芳醇さというものはもう少し普遍的に知られているものだ。多くのヒット映画や、それほどではないがテレビ番組が世界中で人気を博している。ジャンル的共感の最大の問題点は、多くの定着している素材が厄介な歴史を持っている可能性があり、使い方に気をつけなければならないということだ。

 現実世界的芳醇さはまた別の問題を抱えている。日常生活と結びついているので、より多様性が大きいのだ。例えば、我々は「ストリクスヘイヴン」を魔法大学にすることにした(このジャンルの物語の多くは、高校生かそれ以前を舞台としている)。我々は、自分たちの大学時代の経験をもとに、多くのカードをデザインした。我々が学んだのは、我々が学生時代にやっていたことの多くは、多くのプレイヤーにとっては馴染みがあるものでなかったということだ。彼らの学校へ行くという経験は違ったものだった。学校のしくみは国によって大きく異なる。うまくいったものもある。例えば、生物学という概念は、大学の寮がどのようなものかよりもずっと普遍的なものだ。『ストリクスヘイヴン:魔法学院』は、この新たな芳醇さの広がりに目を開かせてくれたが、同時に、何かを自分の個人的な体験に近づけすぎることの本質的な危険性も教えてくれたのだ。

正しい学び

 本日はここまで。各セットをデザインする中で私が学んだことのいくつかについて、この洞察を楽しんでいただけたなら幸いである。今日の記事を楽しんでいただけたなら、ぜひ私のポッドキャストを聴いてもらいたい。30分のエピソードで、もっと深く掘り下げている。今日の記事や私の話した内容に関する意見があれば、メール、各ソーシャルメディア(TwitterTumblrInstagramTikTok)で(英語で)聞かせてくれたまえ。このコラムの第7回を書くつもりだが、それは次の一連の「Lessons Learned(学んだ教訓)」ポッドキャストの収録が終わってからにするつもりなので、少なくとも数ヶ月はないだろう。

 それではまた次回、なにか新しいものを見る日にお会いしよう。

 その日まで、人生が私に与えてくれるのと同じくらい多くの教訓をあなたに与えてくれますように。

(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)

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