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Magic Story -未踏世界の物語-

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孤独のジェイス

R&D Narrative Team / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori

2017年9月6日

原文はこちら

 その男は目を開けた。

 彼はあおむけに横たわって、穏やかな緑色の梢を通して暗くなりかけた青空を見上げていた。竹の茎が温かくゆったりとした微風に優しい音を立てていた。打ち身の痛み(と、ひどい頭痛)を通して、下の地面は柔らかく分厚い落ち葉だとわかった。竹林の中、ここは静かだった。大気はかすかに潮の香りがし、遠くで波の音が聞こえていた。

 左で、何かが小枝を折る音がした。彼はびくりとしてその源へと顔を向け、そして凍り付いた。


アート:Jonathan Kuo

 それは鮮やかな青と黄の羽毛に覆われた、トカゲに似た生物だった。後ろ足で立ち、大きすぎる鉤爪で卵を一つ掴んだまま、その生物は一瞬だけ橙色の瞳を地面の男へと向けた。そして小さな舌打ち音を立てた後に歩みを再開し、急ぎ足が数枚の落ち葉を蹴り上げた。一瞬後、それは出現と同様に素早く姿を消していた。

 男はその遭遇を理解するまでに一瞬を要した。奇抜なトカゲ、だがそれ以外に自身の現在の状況についても、何もかもが奇妙な既視感に占拠されていた。

 彼は首をもたげ、自分の姿をよく見ようとした。青い外套、長いズボン、そして堅い革の胸当て。

 何一つ、見覚えがなかった。

 男はうめきつつ苦労して身体を起こした。そして立ち上がると、トカゲらしき生物が向かった道をよろめきながら辿った。

 竹林はまばらなヤシの木々へと変化し、その隙間が広がるとともに森の豊かな土壌は薄く砂がちになっていった。男は波音が大きくなるのを察し、水の方へと急ぎ駆けた。

 出た先は、どこまでも続く海岸だった。靴が踏み締める砂は粉のように柔らかだった。大気は濃く湿気に満ちており、乾いた地面に立っているにもかかわらず、ずぶ濡れになったように彼は感じた。砂浜と海の間には幾つかの岩が自然のアーチを形成しており、豊かな密林は砂の端に過酷な防壁のように迫っていた。

 男は顔を上げた。太陽は遠くへ沈みかけており、上空を飛ぶ海鳥の鳴き声が聞こえた。

 彼は砂浜の両側を見た。

「誰か?」

 穏やかな波が靴にかかった。

「誰かいませんか!?」 彼は呼びかけた。その声には恐怖が潜んでいた。

 内心事項を論理的説明とともに確認していくにつれ、男は次第に狼狽へと近づいていった。

 どうやってここに来たのかもわからない。自分の名前もわからない。この密林がどこなのか、何故この砂浜にいるのか、もしくはあのトカゲらしき生物が一体何なのかもわからない。それに何故打ち身だらけなのだろう? 何故頭痛がするのだろう? そしてここを脱出するには一体どうすればいいのだろう?

 知らない場所の映像が心にひらめいた――色と光と、遠くという概念。首筋に疼きが走った――そして清々しく涼しいエネルギーがうねり、身体全体がばらばらになろうとするのを感じた。粒子がちらついて消え、彼の物理的肉体はこの場所と別のどこかの間に揺らいだ。それは楽しく、馴染みがあって......快適だった。以前にもやった事があるのだ。身体が消えかけて砕ける――恐ろしいものの筈、だがそうではなく、自分らしいと感じた。彼はその感覚を追求し、自分の身体が更に消えるよう祈った。そうすればもっと何か思い出すかもしれない――だがその時、通過しようとしていた何か扉らしきものから、強い力で後方へ引き戻された。次第に離れ、降り、やがて彼は出発しようとしたその砂浜に背中を叩きつけられ、勢いよく地面に落下したとわかった。


アート:Chase Stone

 円で囲まれた輝く三角形が頭上の空中に現れ、男は熱くなった肺で喘いだ。

 心地良い寒気は引いた。身体はそのままで、両手は汗でべたつき、そして膝は砂に沈んでいた。

 狼狽して荒々しい呼吸を彼は整えた。胸の中で、痛むほどに心臓が高鳴っていた。

 男は混乱に拳を握りしめ、一つ深呼吸をし、考えつく限り最も具体的な罵倒を叫んだ。一語の長く、十分な言葉、そしてそれに彼は奮い起こせる限りの混乱と憤激を注いだ。

 ようやくそれを止めると、ただ砂浜を洗う波の律動だけが聞こえていた。

 夜が訪れていた。

 彼は自身の肉体的状況を確認した。打ち身と筋肉の痛みからして、まず必要なのは休息だった――食料と水は明日でもいいだろう。

 砂に座って彼はしばし、どうやって自分がここに来たのかを思い出そうとした。だが思い出せるのは、最初に目を開けた時の揺れる竹だけだった。

 次に、自身の名前を思い出そうとした。

 沢山の名前を憶えていた。ラズロ、サム。そういった名前、だがそのどれも自分のものとは思えなかった。

 そして彼は、どうやってここに来たのかを、別の方法で探ることにした。

 辺りには誰もおらず、そのため彼は自分の丈夫な胸鎧と外套、手袋を外した。シャツと下着を脱ぎ、それを手際よく広げ、砂の上に置いた。肌に涼しい風を感じ、彼は安堵の息をついた。そして自分の所有物を見下ろし、素手の右手を初めて見て、ふと止まった。

 右の前腕に、途切れない一筋の傷跡が走っていた。外科手術のようにまっすぐなそれは、何者かが意図的につけたことを示していた。

 男は更なる手がかりを自身の身体に調べた。最近の戦いで負った打ち身、だがもう幾つかの深い、まっすぐな傷跡が背中に走っているのを感じた。これも腕の傷と同じく古いものだろうか? 誰が自分にこれを?

 男は片方の手袋を傷の上にはめ、この証拠を覚えておいて後で考えようと決めた。そして砂の上に横たえた衣服を見つめた。

 これを着るのはどんな人物だろうか?

 その者はどこかもっと寒い場所から来た、それは間違いなかった。布地は分厚く、雨(雨は覚えていた!)と厳しい寒気に耐えるように作られていた。外套はひどい状態で、それ自体は派手なものではないながら、その模様は微妙に残されていた。下着は汗に濡れており、つまりしばらくの間熱気の中を歩いてきたに違いなかった。最も興味深いのは靴だった。幾らかの砂粒がその底に入っていたが、靴から出てきた砂は周囲の砂浜のそれとは異なっていた。この手がかりは荒く、大粒で、地面の柔らかな白色に比較すると濃い黄色をしていた。

 男は顔をしかめた。必需品がなかった。ナイフも、食糧も、縄も、個人的な持ち物は何一つなかった。この人物が誰なのかはともかく、どうやら武器を持つ気はなかったらしい。

 自分はこんなにも危険に旅をするような愚か者だったのだろうか? そうは思わず、だがその事実は懸念すべきものだった。あるいは武器は奪われた? 多分違う――他の誰かが近くにいるようには思えなかった。

 外套の模様が彼の注意をひいた。

 それは......心当たりがあった。

 何故これに心当たりが?

 月はもう夜空に高く昇っていた。眠るべきだろう。その模様の意味は後で考えよう。

 彼は朽ちた丸太をまたぎ越えて砂浜に横たわった。心のどこかで、彼は先程のトカゲを懸念した――あれは卵だけではなく人も襲いはしないだろうか? そして不安な思考が続いた――もしあれが人も襲うのであれば、間違いなくあの時にそうしていただろう――けれどあるいは、もっと大型の獲物を好む同類がいるかもしれない。

 自分がひどく無防備だと感じた。

 彼は外套を身体にかけて無理に目を閉じ、この島のどんな生き物にも一晩見つかることなく眠れることを必死に願った。

 首筋の疼きを感じながら、男は両脚を抱えて眠りに落ちた。彼は砂浜に手足を投げ出し、寝返りをうちながら熟睡した――彼自身が与り知らぬことだったが、完全に不可視となって。


 男は翌朝の太陽とともに目覚め、そして、未だ自身が何者かはわからなかった。そのため、自身の肉体的必要を満たすことに集中しようと決意した。

 彼は新たな家に自らを適応させるところから始めた。


アート:Titus Lunter

アート:Titus Lunter

アート:Titus Lunter

 島の大きさを把握した後(一周を徒歩で一日)、彼は風を防ぐことのできる岩陰を住処とした。そして砂浜で見つけた木々で即席の小屋を建てた。手に入れた枝木を持ち上げ、はがした木の皮で支柱を縛りつける重労働に、記憶を失う以前の自分は全くもって運動を怠っていたに違いないと実感した。使われていなかった彼の筋肉は薄く、以前の自分は武器も道具もなしに、いかにしてここで生き延びようと思ったのだろうと訝しんだ。労働で筋肉をつけ、そして血豆と日焼けに苦しみながらも、彼は覆いつきの寝台をどうにか組み上げた。

 食糧についてはもう少々の試行錯誤を要したが、食べ物の好き嫌いがわかった時には興奮した。彼は尖った石から単純なナイフを作り上げて味見に用いた。カキは気に入った。柑橘らしき実や、長い緑色の果物と小さな赤色の果物も。だが紫色の根菜は嫌だった。舌が痒くなり、これはアレルギーだと発見した。何と面白いのだろうか!

 彼が本当に必要としていたのは、炎の起こし方だった。

 太陽は素早く沈み、わずかな雲が地平線に流れていた。

 二つめの血豆が右の掌にできはじめていた。彼は苦しく唸り、痛みと膿にもかかわらず疲れた手で力の限り素早く木の枝をこすりつけていると、首筋に雨の一滴が落ちてきた。彼は背後の浜に打ちつける波を数え(一分ごとに六回)、その律動を心の中で繰り返すと、木の枝をこする音が波に連動した。両手は酷使されて熱を持ち、額には集中の皺が刻まれた。

 枝が流木に接する部分から薄い煙が立ち上り、彼は笑い声を発すると、その小さな炎を保とうと試みた。

 木の枝が真二つに折れた。

 そして細い煙は消えた。

 彼は衝撃に目を見開き、失望の弱音が、挫折の怒りとなって喉から漏れ出た。

「役立たずの島!」

 男は砂に座りこみ、膝の上に両肘を乗せ、丸太の上に置いたままの折れた枝を見つめた。その両脇には、小枝と落ち葉が悲しく山積みになっていた。

 そして彼はうめき、身体を傾けて砂浜にあおむけになった。

 遥か頭上で、一羽のアホウドリが物憂げに弧を描いていた。

 彼はもう一度うめいた。

「何で俺は、アホウドリが何なのかを知ってるんだ?」 大声の問いかけ。

 返答はなかった。

 男は身体を起こし、目を狭めて小枝の山を見つめた。

 意志で火を起こせないだろうか?

 彼はズボンから砂を拭い、身を乗り出した。日焼けの肌が痛むのを感じた。そして目の前の山をじっと見つめた。

 集中すると、曇り空の寒気が骨にしみた。裸の背にまた一滴の雨粒が流れ落ちるのを感じた。

 炎が必要だった。炎が、この世界のどんなものよりも、何よりも絶対的に――

 疼きが背骨に走り、首筋の体毛が逆立った。

 細い煙が丸太から上りはじめた。

 彼は飛びのいた。煙? 煙だ!

 心のどこかで彼は怖れていた――これは真実だろうか? だが他の部分ではそれを気にしないほどに興奮していた。男は驚いて笑い声を上げた。「やったぞ!」

 煙が噴き上がった。男は膝をつき、笑い続けながらその炎へ小枝と枯葉をくべ始めた。泣いていたかもしれない。ひたすらに嬉しかった。

 男は急ぎ立ち上がり、更に多くの枝、葉、流木の破片を投げ始めた。燃料が尽きるとしても気にしなかった。炎が必要だった。

 今や炎はこぢんまりとした焚火にまで成長していた。男の表情が大きな笑みに広げられた。小さな笑い声が漏れ出て、頭上の髪に指を通した。そして自身の作品を鑑賞すべく下がった。

 その炎こそ、彼がこれまでに見た最も美しいものだった。もっと美しいものを見たこともあるのだろうが、それを思い出せない今、目の前の美に対してそれらは無意味かつ比較できるものではなかった。これこそ、どのような絵画よりも美しく、どのような宝石よりも尊かった。

 胃袋のうめきがその時間を遮った。

 そうだ、食べ物! 何か食べなければ!

 少し前に、彼は砂浜に打ち上げられた魚を発見していた。それは不恰好で原始的な見た目の魚で、薄い四角形の鱗に覆われ、その死んだ顔が空虚にこちらを見つめていた。

 男はその魚を串に刺し、炎の上に掲げた。

 そして座り直すと、片面が焼けるのを待って回転させようとした。

 だが魚はただ彼を見つめているだけだった。

 鱗は燃えなかった。焼けなかった。焦げなかった。魚は炎に洗われており、だが火が通った様子は一つたりとてなかった。

 男は混乱した。

 片手を炎に近づけたが、熱くはなかった。

 混乱は恐怖へと変化し、彼は手を炎へと直接突っ込んだ。

 炎は、魚の死骸と同じく冷たかった。

 手を胸元まで引き、男は恐怖に炎から後ずさった。

「何だよ? これ、こんなの、どういう事だよ!」

 炎は眩しい青色にひらめき......青? ......そして不意に消えた。

 けれど、煙が出ていたのに! 炎が木切れを燃やしていたのに! とはいえ炎の姿が消えるまで、一度たりとも彼は熱を感じなかった。

 男の怖れは完全な狂乱となった。

 彼は椰子の木まで後ずさり、串刺しの魚を恐怖とともに見つめ、その状況を素早く吟味して一つの合理的な結論に至った。

 自分は記憶も食料も隠れ処も、技術もなくこの島に捕われ......そして今、その何よりも恐ろしいことに、自分は現実の掌握を失いかけている。

 そして重々しく結論づけた。自分は狂ってしまったのだ。


 魚の出来事から少し経ち、男は受け入れるようになった。記憶を失った今、物事はとても単純なのだと。

 本当に記憶が現実と切り離されてしまったならば、自分がどうやってここに来たのかも、以前の自分が何者だったのかも、気にする必要などないのだ。今経験できる現実だけが真ならば、正気にも意味はなかった。

 それがわかって、何と気分が楽になったことか!

 そのため、彼は一人の人物が孤島に閉じ込められた時に行うであろう事を始めた。

 彼は新たな道具を作ることに喜びを覚えた。枝で編んだ籠、単純な罠、カキの殻を開けるための鋭いナイフまで。男は毎日新たな道具を作ろうとし、そしてその一つ一つに誇りを覚えた。自身の問題に対して新たな解決法を作り上げる時間が無限にあることに、楽しさすら感じた。

 探検し学ぶ中、彼は道中に幻覚を見るようになった。

 はっきりとした姿のものもあった。通常それらは人型生物で、それぞれの顔と声があった。

 雪のような白い肌に優美な白い髪の女性が、背後に浮遊しながら、彼の行動を日誌に書き記している。青い衣と銀の鎧をまとった、厳しい表情の役人。隻眼のレオニン。

 孤独の中で彼は時折、視界の隅に紫ずくめの女性を見た。彼女が歩いてくると、どこか不安に胸を引かれた。

 幻だとはわかっていた。現実ではないと。

 俺に対して何の力もない、そうだろう?

 彼は現れては消える幻覚を無視したが、時折、彼らは無視されることを拒んだ。

「今回は本当にできたのか?」

 その幻覚は、彼が何かに苦戦していると必ず現れた。

 幅広の肩、きらめく鎧の下には汗が輝く濃い色の肌。釣り針を細く切り出そうとしていた時、その幻は肩越しに見つめてきた。

「いいか、君はその作業には向いていない。私に貸すんだ」 幻覚の声は不機嫌そうで、だが敵意はなかった。

 恩着せがましいくらいに。

 男は苛立った。

「自分でできるよ」

 その幻は溜息をついた。「君自身も向かないとわかっているだろう。私に貸すといい、君は砂浜の向こうで思索していてくれ」

「自分でできるって言っただろ」 男は苛立ちを声に出した。

「いや、できないだろう。私は命令し、実行し、君は隣に控える。それが上手いやり方だ」

 男は幻へと釣り針を投げつけることで応えた。それはその人物の目を素通りし、背後の砂へ落下した。


 退屈な時間が増すと、幻は更に頻繁に現れるようになった。

「方針及び手続の項目十二、条項四」

 彼は驚きに唖然とした。杖をついた黒髪の女性が砂浜の数フィート先に立って見つめていた。彼女は白いドレスをまとい、その胸には太陽の紋様があった。その背中にかけた黒い外套が砂をかすめ、その女性は何かの任務にあることは表情から明らかだった。

 彼女は杖の把手を、苛立ったように指で叩いた。

「『方針及び手続の項目十二、条項四』です。『ギルドが公務上認めた代表者は公的令状を使用し、第一ギルドが所有する住居もしくは事業所から第二ギルドへの通過を認められる』。この法は有効であると同意されますか?」

 その女性は罠から罠へと彼を追いかけ、解除する時は肩越しに覗き込み、そしてトカゲを調理しようと野営地へ持ち帰る間はずっと睨み付けていた。

 彼は熱した石炭とともにヤシの葉、根菜、トカゲを埋め、午後の食事とすべく調理した。その間に幻は消えており、男は安堵の溜息をついた。

 しばし座ったままで頭上の水鳥の声に耳を傾けた後、彼は海岸でかがり火を焚くことで退屈を潰そうと決めた。

 遠くの船が煙に気付いてくれることを願い、彼は朝に幾つもの薪を炎にくべていた。これまでその兆候はなかったが、今日にはあるかもしれない。

 楽観は難しくなっていった。

 彼はヤシの葉を編んだ帽子を砂の上に置いた。炎と真昼の太陽の熱は共に圧倒的だった。彼は炎から離れ、海に入った。

 浅い所の水は温かく、それでも熱からは逃げられた。海水は日焼けした箇所に沁み、波の下には小魚が勢いよく泳ぐのが見えた。

 両脚が潮に引かれるのを感じた。

 唇の端に塩の味がした。

 海岸のかがり火が立てる煙と、打ち上げられた海藻の匂いが混じり合った。

 それはどれも......現実だと思えた。

 狂気に苛まれた者が現実を感じられるはずがない。

 男は、現実というものの認識について考えた。

 この現実について、もう一つ別の解釈が可能だった。以前あった、自分の身体の奇妙な消失と再出現、そして偽物の炎。

 もし俺が見る幻が、魔法のせいだったら?

 魔法が存在することは知っていた。炎を操る、雷を起こす、何もない場所から木を生やすことのできる人々が存在することは知っていた。だが彼らの名はわからなかった。顔もわからなかった。

 自分についての何もかもを忘れてしまっていた......自分を自分たらしめる、そのような重要なものまで忘れてしまうものだろうか?

 男は濡れた手を髪に滑らせた。そして水に深く浸かり、髭の頬を波に洗わせた。

 その思考は......正しいように思えた。「俺は魔法が使える」、それは「俺は男だ」や「俺はクロコダイルが嫌いだ」というのと同じくらい単純かつ真のものとして現れた。

 彼は目を閉じ、自身の内へと意志を向け、あの首筋の寒気とその内に波打つ力を見つけ出そうとした。心の中を探し、作り出そうと念じた。

 目を開けると、目の前の水面に、自分自身の幻が立っていた。

 その姿の顔に表情はなく、だがそれ以外は自分そのもので、穏やかに――ありえないことに――水面に立っていた。

 男は驚き、唖然とした。

 その幻影は肉体のように確固として、そして細部は驚くほどに正確だった。自身の名前こそ憶えていなかったが、自身の身体は正確に憶えていた。張りつめた筋肉、顔の無精髭、水ぶくれになった肩の日焼け。あの傷跡まで――彼の傷跡まで――見えた。充実した生活の小さな証。

 男は手を伸ばし、幻影の脚に触れようとした。指はまるで空気のようにそれを通過した。

 信じられない。

 腰ほどの水深に男は立ち上がり、両手を下ろした。

 そして顔一杯の笑みを浮かべた。

 集中すると、首にあの寒気を感じ、そして幻影は消えた。

 笑みは歓喜の叫びに弾けた。

 男は砂を蹴り上げながら、砂浜へと駆けた。

「記憶のかけらが出てたんだ! 幻覚を見てたんじゃない――幻影を作ってたんだ! 俺は、魔道士なんだ!」

 彼は片手を伸ばして念じ、幻影の荷馬を作り出した。それは柔らかな青色のもやから形となり、ゆっくりとした足取りで男の周りをまわった。手を伸ばして触れようとすると、それは斑模様の身体を容易く通過した。幻影はそのまま速度を上げて過ぎ、海岸の狼煙を跳び越えて大股で駆け、その姿は砂の過酷な白色の上に曇天の夜のような優雅な筋となった。

 何もかもに夢中になり、彼は声をあげて笑った。自身の能力に、馬鹿馬鹿しさに、だがこの時は何よりも、この砂浜の他の住人は、この作品を現実だと思い込むということに笑った。馬が近づくとカモメは飛び立ち、昆虫はその背中に止まろうとした。そして砂に足跡は残さずとも、この創造物はこれまで彼が作ったどんな炎や槍、網よりも現実に思えた。抑えきれない想像力、願うほどに限りなく広がる精神。名前も過去もいらない。今この瞬間、彼はまさに彼だった。

 男は馬の幻影を消し、象を作り出し、象を消して海の怪物を作り出し、海の怪物を消して昼を夜へと変え、果てしなく続く無数の星々で海岸を満たした。

 彼は笑い、そして泣いた。

 幻の星の海に囲まれて、幸せな涙の時は終わり、彼の心は沈んだ。

 彼は果てのない夜の中に立っていた。小さな光の輝きが散らばる、完璧な無の中に。

 途方もなく、孤独だった。

 星と夜の幻影を消すと、またも無人の砂浜があった。


 次の日、彼は自分以外の人間の声を知らないことに気が付いた。


 その日、彼は寝台を離れることはなかった。


 男はあの竹林へ戻ってきた。

 来た時の衣服をまとい、そして目覚めた時と同じむき出しの地面に横たわった。

 そして頭上の青空を見つめた。

 彼は自身へと、ここから離れるように念じた。だが何も起こらなかった。

 目を閉じて、友や故郷の様子を思い出そうとした。だが何もなかった。

「俺をここから去らせてくれ」 彼は誰ともなく言った。

 風は頭上の竹林を揺らし、男は顔に手を当てて、弱々しく泣いた。

 狂っているのではないのかもしれない。もしかして俺は死んでいるのかもしれない。ここは何か恐ろしい来世なのかもしれない。もしかしたらこれまでも俺は存在なんてしていなくて、何か、この永遠に苛まれているのかもしれない。

 ここから離れられないなら、少なくとも、誰か話せる相手が欲しかった。

「随分ひどい姿だこと」 楽しむような声が頭上から聞こえた。

 男は手を動かした。女性の幻影が立っていた。鴉の濡れ羽色の黒髪、気怠い瞳、軽蔑するような表情。身体の前に組まれた腕には、紫色をしたサテン地の長手袋をはめていた。

「いい筋肉になったじゃない、でもその髭はいただけないわ」 唇が軽蔑するような冷笑に歪んだ。

 男はかぶりを振り、目の端に涙が浮かんだ。

「貴女が誰なのか、わからないんです」

「そうでしょうね、坊や」

 彼女は男の姿を一瞥した。「あのときも私のことはわからなかったし、今もわからない。お互いを信じ合えないなら、信頼を築くのは難しいわね」

 この幻影が現実でないことを気にするのはやめた。何よりも、話し相手が欲しかった。

「ここに来る前、俺は誰だったんですか?」

「あなたが思っていたような者じゃない、それは確か。誰も本当のあなたなんてわからなかった、私以外は。あなたは決して指導者でも探偵でも学者でもない。人を騙して遊ぶ馬鹿な子供だったのよ」

 男は出かかった言葉を飲み込んだ。

「あなたはその魔法と幻影で世界を欺いてきた。けれど私は決して欺けなかった」

 むせび泣きたかった。戻って眠りにつきたかった。この全てが無くなるまで、飢えて死にたいと思った。

「貴女が誰なのか、わからないんです」 彼はようやく、かすれた声で認めた。

 女性は膝をつき、爬虫類のような冷たい笑みで彼と目を合わせた。

「あなたが今までに出会った中で、最高の存在よ」

 男は叫び、手を振って彼女を追い払った。女性の映像は青色の靄にまたたいて消えた。彼女はいなくなった。

 心臓が高鳴っていた。額には絶望の皺が刻まれていた。

 絶望は張りつめ、憤怒となった。

 彼は立ち上がり、拳を握りしめ、竹の幹へと殴りかかった。その衝撃に拳から血が流れた。

 だが気にしなかった。彼はゆっくりと歩き、鼓動を宥めようとした。

「必要もない幻影はもう沢山だ!」 口に出して言うと、心の裏側の何かが魔法的に肯定した。もう幻を見ることはないだろう。

 自分の心を制御したのだ。自分の能力を使いこなしたのだ。

 男は心を泳がせた。果たして自分が見た幻影は自分の内にある何かの顕現なのか、それとも誰か近しい存在の記憶の欠片なのだろうか。

 恋人だったのかもしれない。友達だったのかもしれない。

 友達......いたのだろうか。

 友達と呼べるような誰かが側にいる......そんな事がありえたのだろうか?

 そして、一つの考えが生まれた。

「俺が何者だったのかはどうでもいい......今、俺が何者なのか、だ」

 はっきりと口に出して言うことで、現実らしく感じた。

「俺が何者だったとしても関係ない。俺はなりたい者になる」

 彼はそれを心から信じた。

 何をすべきかを把握した。

 生きるに値する存在であることを示す。


 男は奮闘を開始した。

 五日間、休まずに身体を動かし続けた。


 疲労と達成感があった。

 男は炎の前に座り、採集した果物を食べていた。そして雲のない星空の下、小さくも頑丈な筏が近くに座していた。

 彼は備蓄品にもたれかかり、心の内でその内容を今一度確認した。二週間分の真水(そしてその後に使う太陽熱蒸留装置)、網、槍、日光から身を守るための外套の残骸。果物を二籠、帽子、ナイフ、予備の帆、補修用の竹と縄。これから死へ向かって船出するのかもしれない、それはわかっていた。だが彼は、海の向こうに何があるのかを知りたくてたまらなかった。そこには、誰かがいるに違いなかった。

 興奮していた。怖れていた。ただ一つ知る場所から、海の向こうにある何かを知るために向かう。そしてその考えは彼を奇妙な高揚で満たした。発見できることが山ほどあるのだ。

 男は微笑んだ。彼は炎の前に座り直し、鋭い岩でカキの殻を開けた。そしてこの島を称えるべく、殻の半身を掲げた。

「ありがとう、役立たず島」


 海での初日は難なく過ぎた。役立たず島は水平線に消え、果てのない青色が目の前に広がっていた。

 男は確信していた。あの見捨てられた島であれだけ生き延びたのなら、航海も生き延びられるだろうと。

 最初の夜はよく眠れた。

 次の夜も問題なく過ぎた。

 だが三日目、海は灰色となり波立った。

 そして四日目の昼、波はマストよりも高くなった。

 大粒の雨が肌を叩きつけ、頭上の空も下の海も同じく獰猛に荒れ狂った。

 水の壁が小さな筏を上下に揺さぶり、目に冷たい飛沫がかかって彼はよろめいた。男は筏の端を掴んで固く目を閉じ、心ではなく海を制御する力があればと願った。

 頭上で稲妻が走り、即座に雷鳴が続いた。

 男は恐怖した。彼は腰に縄を縛りつけ、逆端を筏へくくりつけた。

 筏が波に高く持ち上げられた。そして水平線上に、ごつごつした岩山のような島が見えた。

 あそこに誰かがいるだろうか?

 男は風をとらえようと帆の脇を引いた。だがそうしようとした時、筏は滑り落ちて水の谷に挟まれた。次の波が頭上にそびえた。

 顔を上げ、迫りくる波を見て彼は息をのみ、そしてそれは筏に激突した。


 彼は筏の残骸にまみれて目を覚ました。今は夜、そして海は凪いでいた。

 あの島は遠くにあった。岩だらけで草木はなく、その上はぎらつく白色だった。

 雪か? 楽観的に彼は考え、そしてよく見てうめいた。鳥。

 彼は自身の現状を確認した。筏はばらばらになったが、ありがたい事に備蓄品を入れていた籠は今も彼が掴む筏の破片に縛り付けられていた。

 岩山の島を覆う白色、鳥の排泄物は月光にぎらついていた。ほとんど美しいと言ってもよかった。ほとんど。

 疲労と挫折の中、男は新たな家を目指して水を蹴った。


 彼は水から身体を引き上げると、潮間帯の岩へと倒れ込んだ。海鳥とトビトカゲの合唱の只中であったが、彼は一日中眠り続けた。


 男は睡眠と覚醒の間を行き来した。起き上がって探検する気力はなく、だが心から確かなことがあった。自分は完璧に住みよい島と徹底的に酷いそれを交換したのだと。

 そこは海鳥の悪臭と音に満ちていた。

 内心、彼は役立たず島に留まるべきだったと思っていた。カキと魚網と頑固な幻影と過ごす幸せな人生。

 だが心のどこかで知ってもいた、自分は何かしらの方法で単純に......ここを去ることができると。

 あの最初の日の経験を反芻してみよう、男はそう決心した。

 もしかしたら今なら、何かあるかもしれない。

 男は岩の隣に仰向けになり、目を閉じた。自らの内にある何かを見つけねばならなかった。自分は何かありえないことができる、そう感じさせるものを。

 彼は深呼吸をし、周囲の波音と頭上から突き刺す陽光を認識から消し、心の中で一つの井戸を思い描いた。

 その壁は滑らかな灰色の粘板岩、だがその端に手を滑らせると、それはかつて水ではなく、果てのない物と場所、匂い、味、人々、友、恋人で満たされていたと感じられた。人生ひとつの記憶。そして今それらは失われていた。

 彼は井戸によじ登り、心の中を潜っていった。緩やかに抑えられた降下で、静かに自身へ沈んでいく。井戸の深さは変わっていないと思ったが、物証と記憶に縁どられていたのは上部だけだった。雨の多い豊かな密林、細かい砂とよく見る鳥。そのすぐ下の壁には、竹が、魚の鱗にゆらめく陽光が、そして完璧な、幻影の、雨の灰色をした荷馬が並んでいた。それらの記憶は誇らしい学習と達成に満ちていた。

 男は微笑んだ。多くはなく、けれどこれは自分そのものだった。

 彼は降下を続けた。

 馴染み深さは消え、彼は違う類の知識へ向かっていることを感じた。ここで壁は、ある所ではベルベット、ある所では革、そして他にもある箇所は痛そうな棘に覆われており、彼はこの相違をいつか調べようと心に留めた。それらの表面に手を滑らせると、別の人生で積み重ねてきた知識の広さと多様性を感じた――学んだことは決して思い出せないながら、ありがたいことに保たれていた。ここにあるのは言語、算術、靴紐の結び方、コーヒーの淹れ方(何という残酷な事実だろう、この男は熱いコーヒーが大好きなのだ)。男はほくそ笑んだ。壁には実に多くの情報が編み込まれている、そしてそれでも、素晴らしいことに、まだ多くの余裕があった。

 男は静かに降り続け、そして井戸の粘板岩は分厚い霧の雲へと変わった。

 ここにあったものは今や失われていた。

 けれど、一つだけ残っていた。

 それは銀色の宝石のようにそこに浮かんでいた。心の井戸の中に埋め込まれた輝く一つの光だった。

 脱出できるかもしれないものを見つけたのだった。

 彼を彼たらしめる部分を。

 それが何かはわからず、だが以前にも同じものを感じた。そしてこれが最後の機会だとわかっていた。

 男は空へと顔を上げ、上昇した。知識の壁を過ぎ、愛する役立たず島の記憶を過ぎ、井戸を出て、目覚めた身体へ戻ってきた。

 彼は目を開け、周囲の岩の上で鳴いては羽ばたく鳥を無視しようと努めた。

 深呼吸をし、心の深淵で発見した、あの輝くものへと呼びかけた。

 身体がよろめくのを感じ、そして四肢が明滅して消えていく中、彼は狼狽を抑えようとした。彼の破片はここから離れようと、穏やかな青色のもやの中、視界からまたたいた。またも彼は荒々しく乱暴に後方へ引かれるのを感じ、そして落下の衝撃があり、この新たな島の岩に打ちつけられた。円と三角形のあの紋様が頭上に現れ、今一度その姿が肉体に凝固すると、男は息を吐いた。

 失敗したのだ。

 男は辺りを見た。空ろな波、排泄物で覆われた岩と海鳥、そして焼け付く太陽だけがあった。

 結論は単純だった。長くは生き延びられないだろう。

「脱出する方法は考えられる」 割れた唇と渇いた口で彼は言った。「考えてやるからな」

 そして男は岩の上に横たわり、目を閉じ、今一度心へと、答えを探しに降下していった。


 遠くの叫び声で彼は目を覚ました。

「待て! 岸に誰かいるぞ!」

「マルコムをやりますか?」

「いや。小舟を用意しな。まず近くで確認したいからね」

「艀を下ろすぞ!」

 巨大な木造船が一隻、鳥が占拠する岩に近づいていた。幾つもの帆に、入り組んだ格子状に編まれた大量の縄。鮮やかに染色された帆布は、役立たず島で目覚めてから初めて遭遇する色調で彼の視界を攻撃した。船首には一つの石像が無造作に縛り付けられており、船尾の脇には優美な文字で船名が記されていた。「喧嘩腰」。

 彼は目を閉じた。

 疲労に圧倒され、数分して彼はオールが水を叩く音を聞いた。

 低い、女性の声が波のうねりに負けじと届いた。

「逃げるなとは言ったけど、ちょっとそれは議論の余地があるね。プレインズウォークで窓へ飛び込む感じ、違う?」

 あまりの疲労に、声の源へ顔を向けることもできなかった。近くにいた。誰かが怒声を向けているに違いなかった。

「船に新しい船首像が欲しい所なんだよ、ベレレン! 誰の命令でここにいるのか、正直に言いな。そうすれば痛くないように殺してあげるからさ!」

 ベレレン? それは俺の名前なのか? 眠気のもやの中で彼は訝しんだ。

 水飛沫を上げて足音が近づいてきた。カモメの鳴き声。重く、無造作に錨と落とす音。その女性は自分で調べようと小舟を下りてやって来たに違いない。

 真上から、彼は小さく息をのむ音を聞いた。

 俺の見た目はそんなに酷いのか? 彼は訝しみ、そして心で認めた。こんなに気分も具合も悪いんだ。見た目だって悪いに違いない。

 塩の塊と眠気を破り、男は瞬いて目を開けた。

 そして、その巨大な木造船の船長としか考えられない、堂々とした女性に目が釘付けになった。

 際立っていた。


アート:Chris Rahn

 長身でしなやかな女性。鮮やかな翠玉色の肌、触手の髪が風に興味深そうに踊っていた。ゴルゴン、何故かはわからないがそう知っていた。とはいえ、その目を見つめても恐怖は感じなかった。

 その女性は流木の上に横たわる男を見下ろすと、黄金色の瞳を大きく見開いた。そして驚きの視線で彼を見つめた。

 興奮と恐怖を彼は同等に感じた。この女性は俺が何者なのかを正確に知っている。

「ジェイス、お前、一体どうしたってんだい?」


『イクサラン』 物語アーカイブ

プレインズウォーカー略歴:ジェイス・ベレレン

プレインズウォーカー略歴:ヴラスカ

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