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MAGIC STORY
ゼンディカーの夜明け
メインストーリー第4話:苛む歌と囁く警告
2020年9月23日
落下の感覚、アキリはそれを自身の腕力と同じほどに知り尽くしていた。頬を叩きつける風や、胃袋が浮く感覚に恐怖はなかった。ゼンディカーでも最高の綱投げである彼女は、遠い昔に学んでいた。時に、登るためには落ちる必要もあると。
だがこれまで、今回ほどいつまでも長く落下した経験はなかった。希望もなく落下した経験はなかった。
落下しながら、頭上でムラーサのスカイクレイブが小さくなっていった。もしも目を閉じたなら、空中遺跡から突き落とされる寸前の恐ろしい瞬間に見た、冷たく無関心な表情のナヒリとその手の核が浮かぶことだろう。
窮余の数秒間、アキリは届く限りの浮遊する岩棚や傾いた面晶体に縄と鉤を投げた。だがムラーサのスカイクレイブは崩壊を止め、動いていた。それらはありえないパズルのように組み合わさり、アキリの鉤は狙いを外れ、もしくは跳ね返り、身を守る手段は尽きた。
すぐに、周囲は空だけとなった。
これが人生の終わり、彼女はそう悟った。悲嘆と怒りに襲われた。ナヒリに突き落とされるまでの絶望的な数分間、大切な相手を救う、もしくは守るための行動を何ら取ろうとしなかったのだ。
ゼンディカー。ザレス。彼女は目を閉じて友を、大切な人を思った。死の瞬間の凍り付いた悲鳴の表情を押しやり、ともに綱を投げた笑顔を、悪戯心に満ちた眩しい瞳を思った。
その記憶を抱きしめ、地面を待った。すぐにザレスにまた会える。
衝撃に息が詰まった。首と四肢が痛むほどに引きつり、そして跳ね返った。
不意に、アキリはもはや落下していなかった。
妙だと思った。死というのは、想像していたよりもずっと穏やかだった。何かを感じるとすれば、ヘイラバズの枝が身体を叩き折る感覚を予想していた。暗闇だけがあると思いながら目を開けたが、辺りは眩しい青空だった。首を回すと、数百フィート下に切断湾が見えた。その木々は止まることのない波にうねり揺れていた。
「え?」 彼女は呟いた。宙にぶら下がっていた。ありえない。
「捕まえた!」 誰かが頭上で叫んだ。
アキリは再び見上げ、陽光に目を細くした。上空で、華奢な人影が杖にもたれている様が視認できた。その人物は枝の梯子らしきものに立っていた。だがそれもまた不可解だった。
「え?」 彼女は再び呟いた。
《森》 アート:Tianhua X |
アキリは身体が持ち上げられるのを感じ、ようやく気付いた。胸に茨の枝がしっかりと巻き付けられていた。
梯子の上の人物へ近づくにつれ、それは長い黒髪に緑の衣服をまとうエルフの女性だとわかった。梯子のずっと下では、目を眩しく輝かせた人間の男性が、風に髪を舞わせながら注意深く登ってきていた。
枝はアキリを梯子の上、そのエルフから一歩ほど離れた場所にそっと降ろした。
「ありがとうございます」 一瞬して、アキリは礼を告げた。今はそれが精一杯だった。
「大丈夫?」 救い手のエルフが尋ねた。
「はい」 アキリはムラーサのスカイクレイブを見上げた。今やそれはほぼ完全な姿となっていた。まるで自分たちが罠など発動させなかったかのように。アキリのパーティーが命からがら逃げてなど来なかったかのように。まるでザレスの死は無意味であったかのように。「嫌」 その呟きとともに、アキリの膝が震えた。
「落ち着いて」 そのエルフはアキリの肩を掴み、安定させた。「ここにいて」
「貴女は?」
「私はニッサ」 彼女はそう返答し、臆病な笑みとともに付け加えた。「あの遅いのはジェイス」
ジェイスは二人の隣に登ってきて、うめいた。「腕がなまってたんだよ。ラヴニカに空の遺跡なんてないからさ」
アキリは二人を少しの間見つめた。この二人には、数日前までは知らなかった何かがあった。焚火を囲んで語る作り話の類としてずっと無視していたもの。だがこの二人には、暗黙の力とでも言うような、世界ほども広大な秘密があるのを察した。まるで片足をここに置きながらも、もう片方は……どこか別の場所にあるように。
ナヒリと同じように。
「あなたがたは他の世界へ渡れる、そうではありませんか?」アキリはそう尋ね、ニッサの手から後ずさった。
ニッサとジェイスは視線を交わした。「プレインズウォーカーをご存じなんですか?」 ジェイスが尋ね返した。
ウォーカー、神話はそう呼んでいた。プレインズウォーカー。それが私の苦しみの根源の名前。アキリは悲嘆に胸が締め付けられた。「ナヒリに会いました。私を突き落としたのはあの人です」 彼女はスカイクレイブを指さした。
プレインズウォーカーたちはどちらも驚いたようには見えなかった。二人はともにムラーサのスカイクレイブを見つめた。
「ナヒリさんは核を?」 両の拳を握り締め、ニッサが尋ねた。
「ええ」 アキリの心に、ナヒリの冷酷な表情が今一度閃いた。そして死んだザレスのそれが。
「まだ間に合う」 ジェイスが再び登りはじめた。「急ごう」
「ジェイス、待って!」とニッサ。「見て!」
アキリはニッサの指先が示す先を追った。遠くで、白髪の人物が宙を駆けていた。まるで階段を駆け下りるかのように。石術を用いているのだ。ナヒリの姿を見て、アキリの胃が苦しくねじれた。
ニッサは片手を突き出し、棘の矢を何十本とナヒリへ放った。だが二人の距離は大きすぎた。ナヒリは余裕をもってその攻撃を、手首のひとひねりと狙いをつけた岩で防いだ。
アキリはひるみ、縄を構えた。けれど待て。まだだ。
背後でジェイスが息を吸う音が聞こえた。アキリが振り返ると、彼は遠くのナヒリをまっすぐに見つめていた。彼は石鍛冶へと三本の指を伸ばした、まるで攻撃するように。アキリは息を止めて待った。
何も起こらなかった。
そしてナヒリが側頭部を押さえてよろめいた。ジェイスの口元が笑みに歪んだ。
ナヒリはすぐに体勢を立て直し、石の階段で急停止した。彼女はジェイスの方を見た。
その距離からでも、敵意に満ちたナヒリの凝視に鳥肌が立つのをアキリは感じた。
「来ます!」 アキリは叫び、岩がジェイスに叩きつけられる寸前、彼を押しのけた。
そして彼女は再び落下した。この時はジェイスを掴んだまま。
理由もなしにゼンディカーでも最高の綱投げと呼ばれてはいない。アキリはナヒリの攻撃を予測していた。続く動きで彼女は縄を投げ、蔓の梯子に鉤を引っかけた。そしてその勢いを用いたスイングで次の岩を避け、素早くたぐり寄せる動きで、自身とジェイスを茨の梯子に再び着地させた。
空を再び見上げると、ナヒリの姿は消えていた。その視界と怒りから逃れた安堵に、アキリは息を吐いた。
「今のは……」 体勢を整え、ジェイスはアキリへと言った。「凄いですね」
「ナヒリが私たちのパーティーを雇ったのは理由があります。私たちは世界でも随一の冒険家……でした」とアキリ。不安が突き刺した。カーザとオラーは無事だろうか。
どうか生きていて。
「急いで追いかけないと!」 ニッサは枝を降りはじめた。
「急ぎたいのですか、それなら」 アキリは冷静な確信をもって言った。自分はアキリ、恐れなき探査者。この領域の主。ここは私の故郷。彼女は次の縄を回した。
アキリの綱投げとニッサの蔓を行き来して三人は飛ぶように降り、切断湾とヘイラバズの梢を過ぎ、ムラーサの悪名高い絶壁へ向かった。ジェイスに手を貸しながらも、アキリは目もくらむような高さから鳥が空を切るように降下した。この時の落下は熟達して制御されたものだったが、心は悲嘆で重かった。
ナヒリを逃がすわけにはいかなかった。
それでも三人は遅すぎた。彼女とニッサとジェイスが崖の先、森に覆われた広い高台に到着する頃には、ナヒリの姿は消えていた。
ニッサは両手を拳に握り締め、ジュウォーレルの巨木にもたれかかった。彼女はじっと立ち、目を閉じ、首をわずかに傾げていた。
「何をされているんです?」 アキリの小声の問いに、ジェイスは肩をすくめた。
「聞いていたの」とニッサ。少しして、彼女は目を開けた。「ナヒリさんは北へ向かった、けど北の何処かまではわからない。次に何処へ行くか、言ってなかった?」 彼女はアキリへと尋ねた。
アキリはかぶりを振った。彼女も今や地面に降り、ザレスの記憶が苛んでいた。訳ありらしいプレインズウォーカーたちに関わって、時間を無駄にしてしまった。彼らはエルドラージと同じほどに危険な存在だというのに。「改めて、ありがとうございました。助けて頂いて」 アキリはそう言い、縄を拾い上げた。
「どちらへ?」 不安を漂わせ、ジェイスが尋ねた。
「オラーとカーザを見つけなければ」
「その人たちは?」
「友人です。ナヒリが二人までも殺していなければいいのですが」 アキリは言葉をぐっと飲み込んだ。もしも二番目の冒険パーティーを全員失ったなら、二番目の家族を全員失ったなら、自分はどうするのだろうか。
「手を貸して頂けませんか」 懇願するようにジェイスは言った。
「残念ですが」とアキリ。「ナヒリの依頼を受けたのは私の最大の過ちでした。あの人は核を用いて……ザレスを」 アキリは深い溜息をついた。「他の世界から来た人に力を貸すのはもう終わりです」ナヒリが何処から来たのかはわからなかったが、自分が愛するゼンディカーではない。
「私は他の世界から来たんじゃないわ」 ニッサの声は落ち着いていた。「私はここで生まれたの。バーラ・ゲドで。一族は……エルドラージにほとんど全滅させられた。それに、私も世界の至る所の惨状を感じているわ」 彼女は背筋を伸ばし、アキリをまっすぐに見つめた。「ここは私の故郷だし、この先もずっとそう。そしてこの世界を、ナヒリさんが思い描く冷たい石に変えたくはない」 言葉は柔らかだったが、その声と態度には獰猛な決意がみなぎっていた。
そこで初めて、アキリはこの森全体がこの小柄なエルフにかしずいていると気づいた。まるで命令を待っているかのように。
「でしたら、知っておいてください」とアキリ。「あの核は荒廃と死をもたらします。獣も、木々も……」
人も。そう言い終えることはできなかった。
ニッサは心を痛めたようで、だが驚いてはいなかった。「それで、あの人が何処へ行ったかはわからないの?」
「全くわかりません」
「俺は少し」 ジェイスは罪悪感を滲ませて言った。女性二人は驚いて彼を見た。「ナヒリの思考を覗き見た。歌う都へ向かおうとしている」
歌う都の伝説はアキリも知っていた。その遺跡にさまよい入った者は狂気に堕ちると言われている。
「そうしてくれたのは正しい判断だったと思うわ」 ニッサは優しく言い、だが眉をひそめた。「けど、どうしてそこに?」
「そこは古代のコーが築いたんだ」とジェイス。
「え?」 ニッサとアキリは声を合わせた。
「ああ。理に適った結論だ。コーは世界最古の都市を築いた」 だがニッサは再び目を閉じ、耳を澄ました。
「私ならもっと早くそこへ行ける」
「ニッサ、待ってくれ」 不安を感じてジェイスは言った。
だがアキリが見るに、ニッサに待つ気はないようだった。既にニッサの足元からジュウォーレルの根が上昇し、彼女を宙へ持ち上げていた。「ナヒリさんを止めて核を壊す。約束するわ」 彼女はアキリを見下ろした。だがこの時、その静かな決意の下には怒りがあるのをアキリは感じ取った。
アキリは頷いた。「急いでください」
「ニッサ」 ジェイスは声を上げたが、二人は気に留めなかった。
まるで目標へと投げられた綱のように、根はうねって森へと急いだ。
そしてニッサの姿は消えた。
「ニッサ!」 ジェイスは叫んだ。だが一瞬前まで彼女が立っていた場所には、森の響きとそびえる木々だけがあった。彼はアキリへと向き直った。「歌う都へ連れていってもらうことはできますか?」
「できますが、そのつもりはありません」 アキリは頭上のジュウォーレルの太い根へと縄を投げた。ムラーサへ乗ってきたグリフィンを見つけなければ。カーザとオラーは切断湾にいて、自分を待っていることを願った。
どうか無事でいて。
「お願いです、アキリさん」 ジェイスが背後にやって来た。
「私の話、聞いていました?」 縄を掴んでアキリは地面から身体を持ち上げた。「この一日で、私はあまりに多くを失いました」
一人の人生を。ザレスを。
「すみません」とジェイス。「普段でしたらきちんと聞くんですが。ずっと……いえ、正直に言うなら、この何年かは頑張ってきました」
ええ、そう。アキリは根の上に登り、次に鉤を引っかける地点を探した。
「待ってください。ご友人というのはカーザさんとオラーさん、ですか?」
アキリは止まり、青ずくめの男を見つめた。「彼らがどうしたのです?」
ジェイスは目を閉じ、指を額の脇にしばし当てた。「下の湾の方に人が二人いるのを感じます。貴女のはぐれた仲間だと思います。確証はありませんが」
アキリは縄を掴み、地面へと滑り降りた。「どうしてわかるのです?」
ジェイスは肩をすくめた。「俺は魔道士でして。幻影と思考術が得意なんです」
「それでナヒリの心を読めたのですか?」 アキリは尋ねた。ジェイスはばつが悪そうだった。アキリはひるんだ。自分の思考も、この外界からの訪問者に読まれているのでは?
私の心は私のものです。出ていきなさい。聞かれている場合に備え、アキリは憤るようにそう思考した。
そして彼女は登攀を再開した。
「その核をどこかへ持っていくと約束します。ゼンディカーの外のどこかへ」 ジェイスが彼女の背中へと呼びかけた。
そもそも、それはどういう意味? アキリは尋ねたかったが、小さな震えとともにそれを止めた。あのエルドラージはゼンディカーの外の何処かからやって来たのだ。知らない方がいい。
「そうすれば核はもう危険でなくなると?」 代わりに、彼女はそう尋ねた。
ジェイスは頷いた。
アキリは考えた。ザレスは願っただろう、ゼンディカーを救ってほしいと。その思いに心が痛んだ。危険な物を盗んで別の世界へ捨てる? ザレスはその案を喜んだだろう。そしてアキリも認めざるを得ないことに、それは良い結論だった。溜息一つとともに、彼女はジェイスへと向き直った。
「都の入り口まで案内できます、ニッサさんに追いつけるように」 彼女は慎重に言った。「ですが、そこまでです」
「ありがとうございます、アキリさん」ジェイスはほっとして言った。
彼が自分の思考を読んでいるとしても、歌う都へ向かう間、それらしき様子は何もなかった。
自分はジェイスに一度も名乗ってはいなかった。アキリがそう気づいたのはずっと後、切断湾にてオラーとカーザに合流してからのことだった。
ジェイスはアキリを追って、深くそびえるジュウォーレルの森を進んでいった。やがて森はエルドラージがもたらした荒廃へと開けた。その病的な、黒化した風景を見てジェイスの胃は罪悪感にうねった。だがそこにはぬかるみの中で育とうともがく新たな、柔らかな命もまたあった。
彼は進んだ。
彼はアキリを追い、森はムラーサの影のようにそびえる絶壁で途切れた。ひび割れた岩を注意深く渡り、崖の洞窟に身を隠す獣が上げる低いうなり声に、手を置いた岩が時折震えた。
ジェイスはアキリを追ってナー高地へ上がり、その先の深い森へ入った。都へ近づくにつれてジャディの森は更に深く暗くなり、彼は一人旅でないことに安堵した。
進む間アキリはずっと黙っていた。時折「ワームに気をつけて」「辺りにゴブリンがいます。できる限り静かに」などと囁くだけだった。
彼女は悲嘆と不安を抱えており、それを見せないようにと務めているとジェイスは感じ取った。けれど彼の目に、その辛さは明白だった。恐らくは、ジェイス自身もまた悲痛な秘密を抱えているから、かもしれない。
二人は森の中で立ち止まった。前方には時を超えた都の残骸が広がっていた。まるで巨大なスカイクレイブの一つが地上にあるようだった。石の塔は倒壊し、壁は植物や苔に覆われていた。大気は湿って古く、すべてが不気味な音に反響していた。入り口の門は大理石製だった。黒く巨大、歪んで美しく、ジャディの根のように複雑な模様がうねってより合わさっていた。それはジェイスとアキリに迫るようにそびえていた。
「何か忠告はありますか?」
「狂わないように」
「わかりました」 ジェイスは外套を整えた。「案内して頂いて感謝します。それと……ご友人のことは残念です。近しい人を失う気持ちは、俺にもよくわかります」
感情を抑えようと歯を食いしばり、アキリは頷いた。そして背を向けて去ろうとしたが、ふと立ち止まった。
「ニッサさんの幸運が私よりも続くことを願います」 彼女は肩越しに告げ、そして木々の影の中へと消えた。
「ええ」 ジェイスは再び頷き、そして門へと向かった。
それは開かれていた。
内部は廃墟の迷宮だった。苔が前方の部屋や通路を覆い、果ては見えなかった。ジェイスの心が沈んだ。簡単に行きそうにないのは明白だった。挑戦は歓迎だが、今は迷って時間を無駄にはできなかった。
そこかしこで、低く、わずかに調子の外れた音が響いていた。完全に無視することはできなかった。
右の方で何かが動いた。ジェイスは速やかに防御魔法を唱えた。彼は曲がり角の先の音を追い、そして白髪の女性が背を向けているのを見た。
「こんにちは、ジェイス」 振り返らず、ナヒリは言った。「来るのはわかっていたわ」
「俺はニッサの代理として来ました」
「でしょうね」
「あの核はゼンディカーを壊す、ニッサはそう言っていました」
ナヒリは振り返った。その顔には嘲りが浮かんでいた。「エルドラージをこの次元に解き放った人物がそんな事をね」
ジェイスは歯を食いしばった。彼もまた、偶然にもエルドラージの解放に加担したプレインズウォーカーの一人なのだ。「ニッサはそれが最良だと思ったんです」
「今の彼女みたいに?」 ナヒリは眉を上げ、ジェイスは答えられなかった。「私は正しいって確信しているわ。あのふわついた森育ちとは違ってね」
「ここにエルドラージを封じた時のように、ですか」
ナヒリの表情は憤怒に曇った。「よく言うわ」
「核については誰もきちんと理解していないんです」 彼は平静を保ちつつ言ったが、魔法的な防御はしっかりと張り続けていた。「核を貸してください。一緒にその秘密を解き明かしましょう。ラヴニカで」
ナヒリは考えた。そして一瞬、ジェイスは希望を持った。
だが彼女は戦闘態勢に入った。
「絶対に嫌」 ナヒリの返答には敵意があった。そして片手を突き出し、彼の両横の石を動かした。
石はジェイスの障壁に激突し、だが十分に遅かったので避けることができた。彼は急ぎ立ち上がり、次の攻撃へと身構え、周囲に自らの幻影を幾つも作り上げた。
だがナヒリは通路を駆け下っていた。舌打ちし、ジェイスは幻影を解くと彼女を追いかけた。
古の通路を駆け下りながら、彼はらせん状のアーチや壊れた中庭を垣間見た。ナヒリは狭い通路と曲がりくねった広間を通過していった。ジェイスは塵に残されたその足跡を追って駆けた。
彼はねじれ壊れた階段を駆け降りた。古代のコーの都の奥深くへ。
そこで、この都の奇妙な声は心をかき乱す歌と化した。それはジェイスにわからない何かへの鎮魂歌をうたっていた。軽快なハーモニーと深い響きは彼をとてつもない悲しみと思慕で満たし、この追跡を中止することをジェイスは心から考えた。
いや、ナヒリを止めなければ。前方で足音が聞こえ、その速度は落ちていた。彼は追いかけた。
都の奥深くでその旋律は更に騒々しく、複雑になり、歪み、声を上げた。ジェイスは歯を食いしばった。遠くにナヒリの輪郭が見えた。付きまとう歌に関節が痛んだ。
ナヒリに追いつかなければ。曲がった回廊をジェイスはよろめき進んだ。
だが一歩ごとに足は重くなっていった。音楽はうねり、付きまとう歌は更に声を上げ、聞いてくれとせがんだ。ジェイスはふらつき、うめいた。
見つけ……ないと……
今や魔力の青い弧が辺りに見えた。それは音楽と同調して閃いていた。歌はあらゆる音を、あらゆる思考を飲み込んだ。ジェイスは膝をつき、両手で耳を覆った。
見つけ……ないと……見つけ……
彼は意識を保とうと、思考にしがみついた。駄目だ、狂っては、いけない。
それは危険で試したこともなかったが、ジェイスは必死だった。彼は耳から手を放し、かつてより試そうと思っていた呪文を放った。繊細で危険な呪文。耳に入る音を完全に遮断する呪文。
《荒れ狂う騒音》 アート:Magali Villeneuve |
都の歌はありえない強さに達していた。身体のあらゆる筋が痙攣し、心は安堵を求めて悲鳴を上げ、剥がれ落ちはじめていた。
そして、最高潮の中で、その歌は止んだ。
ジェイスは息を吐いた。呪文は上手くいったのだ。
すぐに心が晴れ、関節は緩んだ。ナヒリは前方の床にうずくまり、耳を塞いでいた。ジェイスは立ち上がって彼女へと駆け、両手を突き出し、ナヒリが入るように呪文の有効範囲を拡大した。
ナヒリはうめき、両目を覆った。ジェイスは身構えた。石術師の次の行動を読めず、攻撃を警戒した。
彼はテレパスで呼びかけた。『大丈夫ですか、ナヒリさん?』
ナヒリはよろめきつつ身体を起こし、肩を回しながらジェイスを睨みつけた。『ありがとう、とか言ってもらえると思ってたの?』
『もちろん、思っていません』 内心でジェイスは微笑んだ。
ナヒリは顔をしかめ、足元を見つめた。『前はこんなの聞こえなかった。この歌。でも前は、私は強いから効いてないって思ってた』
ジェイスは頷いた。『この次元はいつも驚きに満ちています』
『ジェイス。核も私もゼンディカーを離れるつもりはないわよ』 ナヒリは背筋を伸ばし、表情には鋭い決意を浮かべていた。
『わかりました』 ジェイスは悟った、ナヒリを説得するには作戦変更の必要がある。『何処へ向かうつもりなんですか?』
『この都の中心へ。都を起動するために』
ジェイスは腕を組み、続きを待った。
ナヒリは目を丸くした。『ルーンが言っていたわ、そこに魔法的な中心点があるって。核のエネルギーを、力線を通してゼンディカー全土へ繋げることができるような』
その言葉はジェイスの興味をひいた。『その変化は世界中に及ぶと?』
ナヒリは頷いた。表情には警戒心が見えていた。
そしてジェイスは、ナヒリが思い描く癒されたゼンディカーを見た。そのゼンディカーは完全に変化していた。広大で美しい都に、何千という住人が働き、売り買いし、栄えていた。繊細な彫刻のアーチや複雑で息をのむような建築物がそこかしこにあった。そして、何よりも、この次元は安定していた。安全だった。
それはジェイスに、ラヴニカを思い起こさせた。
『ナヒリさん、俺は邪魔をするつもりはありません。ですので仕組みをもっと詳しく調べるまで、核の力を使わないと約束して頂けますか』
ナヒリは止まり、考え、そして頷いた。『故郷をこれ以上傷つける気はないわ』
だがジェイスはナヒリの思考がわかった。彼女が言う「傷つける」は、自分やニッサのそれとは異なっている。目的を達成するためには、都市や軍隊を壊滅させるのも厭わないのだ。
彼は同時に、この核の秘密を解き明かそうとするなら、どのように起動するかを理解する必要があると知った。来たる戦いへの有用な武器とするならば、その秘密の力をまず測らねばならない。
そして、いつか再びニコル・ボーラスと対峙する時が来たなら、あらゆる次元のあらゆる武器が必要となるだろう。
そのため、なだめるような笑みで、彼はナヒリへと思考を返した。『案内して頂けますか』
ナヒリとジェイスは歌う都を成す迷宮を進んだ。不安な休戦状態に、二人の間の空気は重苦しかった。ナヒリはジェイスから離れず、彼の呪文範囲に留まるよう努めた。あの狂った、付きまとう声は二度と聞きたくなかった。
ナヒリは片手で苔むした石壁に触れながら歩き、都の中心への道を尋ねていた。もう片手は腰の袋に当てていた。手の下で核は温かく、その力が脈動するのを感じた。思わず微笑むほどに。
だが核はまた、今も囁き続けていた。聞き取れないほど低い囁きだった。ゼンディカーをかつての美しさへと戻した後に、少し時間をとってその囁きの意味を解読するのが良いだろうか。
幸運にも、ジェイスは黙ったままでいた。『二度とやるんじゃないわよ。二度と』、その言葉を繰り返す怒れる思考を見たためかもしれない。
石の響きは見たところ果てのない通路へ、無人の中庭へと二人を導き、ひび割れてねじれた階段を再び登っていった。もうすぐだった。歌う都の中心、魔力の焦点はまもなくだった。遠い昔、自分が作り出すことに加担した全ての傷がもうすぐ癒されるのだ。
最後の階段を登りきると、二人は古の庭園の中央に立っていた。ジャディの根や羊歯、苔、そして鮮やかな紫色の花が生い茂り、それらの間には石の格子や干上がった泉や小路の残骸があった。
ジェイスは両手を挙げてゆっくりと降ろし、静寂呪文を解除した。都の不気味な響きは戻ってきたが、もはや騒々しくはなかった。
「さて、どうするんですか?」 ジェイスが尋ねた。
彼女は袋から石成の核を取り出した。それは手の内で力を約束して輝いていた。囁きが狂ったように、怒れるように増した。
「これ、聞こえる?」 核を持ち上げ、ナヒリは尋ねた。
「聞こえるって何がですか?」 ジェイスは眉をひそめた。
「何でもないわ」 ナヒリは素早く返答した。「行きましょう」
「何処へです?」
ナヒリは目の前の、大きな石の望楼のような構造物を指さした。二人が立つ場所からも、それが崩壊しているとわかった。けれど、ゼンディカーの全てが崩壊したわけではない。
彼女は核をしまい込み、前進した。
何かがおかしい。その感覚は壊れた建造物に近づくにつれ強まり、やがて判明した。望楼は中にあるものを含め、完全に崩壊していた。
「どういうこと」 ナヒリは駆け、崩れた入り口に両手をついた。石の響きは、その傷は新しいものだと告げていた。
「何をしてるんです?」
「直してるのよ!」 ナヒリの周囲で岩が揺れ、動きだした。この損傷を治せる。そうしなければ。
「その必要はないわ」 背後で声がした。ナヒリが振り返ると、古の庭園の廃墟の中にニッサが立っていた。片手で杖を握り、もう片手は拳に握り締めて。彼女は堂々と立ち、両目には穏やかな、けれど危険な輝きがあった。
「焦点はここなのよ」 ナヒリは歯を食いしばった。
「ええ。エレメンタルが壊したわ」 ニッサの返答は冷淡だった。
「あなたがそうさせたの?」 ナヒリは叫んだ。ここへの魔法的な繋がりの損傷を回復するには、数週間とはいかなくとも数日はかかるだろう。
「私は何も強制はしてない。私はエレメンタルに力を貸して、エレメンタルも力を貸してくれただけ。私はゼンディカーの守護者で、彼らはこの次元の生ける体現なの」 その背後に一体の巨大なエレメンタルが現れた。肢は根や葉で、頭部には伸ばされた翼のような巨大な枝角が生えていた。「そうでしょう、アシャヤ?」
《野生の魂、アシャヤ》 アート:Chase Stone |
ナヒリは顔をしかめ、だがあまりに強大なエレメンタルの姿に動きを止めた。彼女とジェイスは後ずさった。
「ニッサ」 なだめるような仕草でジェイスは両手を挙げた。「核は使わないし、誰にも使わせないと約束する」 そしてナヒリを見た。「それを理解するまでは」
「その人がその言葉に納得しなかったら?」とニッサ。彼女はナヒリをまっすぐに見つめた。
「その場合は」 ジェイスは激怒を抑えて言った。「気が付いたら、歌う都の凄まじく精巧な幻の中にいるだろう。あの歌を遠ざけるのは今回限りだ」
「余計な世話を」とナヒリ。彼女は無言で罵った、もう誰も信用はできない。
「戦うつもりはないわ。それは本当」 ニッサはジェイスとナヒリへ向けて言った。「もう十分に戦ってきた。止めるべきよ」
「それには心から同意する。けど……」とジェイス。「ナヒリにも一理ある。彼女の記憶に見た古のゼンディカーは、とても美しかった」
「ごらんなさい、このおせっかいですら私に賛成してるのよ」 ナヒリは満足げに言った。ようやく、道理をわかってくれた者がいた。
「ジェイス、それについては話すことがあるわ。エレメンタルは――」
「また成長するだろう。何もかも」
「何もかもじゃない」 ニッサの返答は静かだった。
「私が知るゼンディカーは強くて、壊れはしないものよ」とナヒリ。
「想像してくれ、安定した世界を」ジェイスは説得するように言った。「乱動を心配しなくていい、それだけでこの次元の人々はどれだけ繁栄できるかを」
ニッサは一歩下がった。もう一歩。「信じていたのに」その言葉はジェイスに向けられていた。表情には恐怖と傷心がありありと浮かんでいた。
「ニッサ」
「私とは戦いたくないのでしょう」 ナヒリは袋の上から核に手を触れた。
ニッサはまっすぐにナヒリを見つめた。「やめた方がいいわ」
だがナヒリはもはや聞いていなかった。自分はエルダー・ドラゴンや不死の吸血鬼と対峙してきたのだ。止まるわけにはいかない。今ではない。こんな小さく脆くあやふやな相手に止められるわけにはいかない。目的のこんなに近くまで来たというのに。
手首のひとひねりで、ナヒリは何十本もの赤熱した剣を作り出した。この数千年の、怒りの最後の一片まで。次のひとひねりで、彼女はすべての剣をニッサめがけて放った。
だがそれが届くよりも早く、かすむ動きが剣を一本残らず宙から叩き落した。
何かがナヒリに激突した。肺が空になり、彼女は地面に叩きつけられた。
ナヒリは転がって立ち上がり、反撃のために構えた。だがそして見たものに動きを止めた。隣でジェイスが息をのんだ。
ニッサは数フィート宙に浮き、髪は背後に流れ、緑色のエネルギーを身体にうねらせていた。その距離からでも、ナヒリはニッサの怒りを感じた。この壊れたゼンディカーを、全てを賭してでも守ろうという意志を。ニッサの前には、全力のアシャヤが立っていた。
守ろうという意志に突き動かされ、その野生の魂は力ではち切れそうだった。両目はエネルギーで緑色に輝き、その凝視がナヒリをとらえた。そして枝のような肢を四本高く掲げ、恐ろしい音を立ててナヒリへと振り下ろした。
ナヒリはすんでの所で転がって避けた。そして腕を振り、周囲の石を巻き上げてエレメンタルに叩きつけた。だがその岩は枝に当たってガラスのように砕け、アシャヤはひるみさえしなかった。それは巨大な頭部をナヒリへと向けた。
エレメンタルは再びその太い腕を持ち上げた。
「逃げるんです!」 ジェイスが背後で叫んだ。
ナヒリはずっと、撤退などというものは臆病者の行動だと考えていた。だがアシャヤは揺るがなかった。今は何よりも、核を守らなければ。
だから、彼女は駆けた。
ともにナヒリとジェイスは避け、跳び、古の庭園を駆け抜け、知る限りの幻影と反撃を繰り出した。だがそれでも十分ではなかった。アシャヤはあまりに巨大で、あまりに素早かった。ジェイスとナヒリはつまずき、あらゆる所で根に転ばされた。階段を滑り降り、歌う都の深くへ戻る以外に逃げ道はなかった。
あの歌が耳に流れ込んだ。ジェイスは直ちに防音魔法を唱え、二人は揃って苔に覆われた通路を駆け戻った。時に、苔のエレメンタルが立ちふさがったが、それらは小型で弱く、ジェイスの対抗呪文や狙いをつけた岩の拳で反らすことができた。
ナヒリの憤怒がその逃走をあおった。だが長い人生でとても久しぶりに、彼女は真の恐怖の一部を感じていた。あのエルフを侮っていた。
都の入り口にたどり着き、古い大理石の門が視界に入った。ナヒリは息を吐き、速度を上げた。もうすぐだった。
だがその時、ナヒリは小柄で覚えのある姿が入り口に立っているのを見た。そして今、ニッサとアシャヤは何十体もの他のエレメンタルに囲まれていた。
ナヒリとジェイスは急停止した。
「どうやって」 ナヒリは息を切らしていた。「そんなに……早く」
「ゼンディカーは私が属する場所。私の魔力と力の中心」とニッサ。「私はあらゆる道と、その使い方を知っている。けど、あなたたちは」 彼女の表情は憤怒に満ち、そして背後ではムラーサの植生からまた新たなエレメンタルが生まれ出ていた。「絶対に理解はできない。この世界から去りなさい」
「ニッサ、待て!」 ジェイスが叫んだ。
「ここは私の故郷なのよ、森育ちさん」ナヒリは身構え、石を呼んだ。背後の歌う都が返答に震えた。「何千年も前からね。あなたに勝たせるつもりはない」
ナヒリは指を広げて石を持ち上げ、攻撃のために全力を込めた。
だがエレメンタルは更に早く、怒れる群れのようにジェイスとナヒリへ突撃した。そしてこの瞬間、ナヒリは悟った。
ゼンディカーの魂を巡る攻防が始まったのだ。無慈悲な戦いが。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
Zendikar Rising ゼンディカーの夜明け
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