MAGIC STORY

ゼンディカーの夜明け

EPISODE 06

サイドストーリー第3話:リバールートの下に

A. Z. Louise
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2020年9月18日

 

 グーム荒野に広がる梢の遥か上空に、バーラ・ゲドのスカイクレイブが浮いていた。それは決して空を去ることのない大いなる月のように、瞬きもせずにオブーンをじっと見下ろしていた。敗北を認めてコーの街へ戻って来い、そう挑発するように。彼はその視線を受け止めずに目をそらし、ねじれた木の欄干から身をのり出すと、茂みの守護隊がリバールートの村から出発する様子を見つめた。十人程からなる部隊が森の地面を進み、茶と緑のつぎはぎの衣服は周囲に融けこんでいた。彼らはすぐに北へと姿を消し、オブーンは怒りが収まらないまま、リバールートの指導者とともに残された。

「オブーン、まだその時ではない」 ネザーンが言った。

「何故待たねばならない?」 長い耳の周りで羽ばたく蛾を、オブーンは苛立ちとともに叩いた。「私も同行してサラカーどもと戦うはずだった。サラカーは私の両親を奪った。そして今、茂みの守護隊が私から復讐の機会を奪っている」

サラカーの匪賊》 アート:Kev Walker

「オブーンよ。君は両親の復讐を果たすことで祖先との絆を取り戻せると考えている。そうかもしれないが、君は守護隊のようにグーム荒野を知らない。そして荒野では誰もここのように君を過保護には扱わない。祖先との繋がりを無くしたまま死んでしまったら、君の魂は失われるだろう。生きてさえいれば、荒野は何かを奪っていくだろうが、命までは奪わない。常にそうだ」

「私がそれを知らないとでも言うのか? 危険を冒してでも、私の実力を示す価値はある」 オブーンは鋭く言い放った。すでに荒野は両親を奪ったというのに、さらに何を? だがネザーンは言い聞かせるようにかぶりを振った。

「君はその危険というものを理解していない。コーの街で長いこと生きてきて戻ってきたばかりだ。学ぶべきことがまだたくさん残っている。そして茂みの守護隊は危険を把握している」

「つまりあの者たちは、共に生活していたからという理由で私をコーのように思っていると? それは公平とは言えぬ」 オブーンはネザーンへと向き直り、自身よりも背の低い相手の表情をさぐった。二人はエルフとしても老齢にあたり、額や目尻には落葉の葉脈のような皺があった。

「私に他者の心はわからない、ムル・ダヤの全員がそうだ」とネザーン。オブーンは口を開きかけたが、ネザーンは手を挙げて制した。「オブーン、私にわかるのは、君の叔父であるダイカーはコーを好いていたということだ。彼自身と君に安全な生活を提供していたのだからな。コーは支配した者の生き方を彼らのそれに取り換えることに秀でている。そしてムル・ダヤの信頼を得るのは難しい」

「だから私は同行すべきだったんだ。実力を示したなら、信頼してもらえるというのに」 オブーンはネザーンを押しやって去った。誰もわかっていない。リバールートの誰一人として、自分たちの土地に余所者が入り込むという切迫した苦痛をわかっていない。エルフの忍耐力でも怒るべき事態だった。

 彼の所有物は両親の生家に置かれていたが、その家は埃まみれで蔓に飲み込まれていた。ネザーンはオブーンをこの家に住ませたがった。リバールートの誰もが住む家と同じく、大樹の高枝の下に押し込まれたこの家に。オブーンは思い出に満ちた家の中に留まる気は全くなかった。誰も自分を信用しない、木の下に這う村の家には。荒野は、失ったものを取り戻す機会で生い茂っているというのに。

 叔父のダイカーがオブーンのために購入した鎧が、その古い家の居間の隅で蔓から下がっていた。コーらしい鋭角的な設計は、よじれた緑の蔓の中で場違いに見えた。ここに来たことは、ある意味ひとつの裏切りだった。叔父はすべてを与えてくれたが、オブーンはこれ以上祖先との繋がりを絶たれたままではいられなかった。生きている唯一の家族をスカイクレイブに残し、彼はその鎧と物騒な鉤の槍を地上に持ち帰ったのだった。

 スカイクレイブの圧倒的な魔力から逃れ、一面に広がる空から隙間のない地上に降り立っても、傷ついてしまった霊的な絆は癒せなかった。そして幼虫が木の根を穿つように、オブーンの内深くに潜む恐怖も決して癒えることはないと思われた。彼は鎧を着ながらその考えを振り払った。コーに特徴的な三角形が肩の上に軽く、馴染み深く収まった。オブーンは巻いた長縄、槍、登攀用のベルトを掴むとひび割れた裏口からそっと出た。蝶番は抗議するようにうめいたが、森の音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。紫色と黒色をした鳥の群れが屋根の上で歌い、昆虫は羽音を立てて村の背後に広がる沼地の藻を食し、どこか下方で子供たちが甲高い声を上げていた。一人のエルフが梯子を避けて足場から足場へと滑り下り、地面へ降りても誰も気づかなかった。

 地面は柔らかかった。オブーンの鋼のブーツも、ゆっくりと豊かな土へ還りつつある落ち葉の上では音を立てなかった。彼は村の下方、唯一の開けた場所へと降りてきた。そこでは灰と濡れた落ち葉が積み重ねられ、火葬の炎が下生えを伝って拡大するのを防いでいる。何世代もの死者の煤がリバールートの木々の幹を痛め、祖先と繋がれないオブーンですら、自らの魂の内に痛みを感じた。まず父が、次に母が、遠い昔に姿を消した。二人は火葬に付されておらず、従ってその魂は上に広がる村へと解き放たれていない。

 オブーンは下生えの中を通り、リバールートの大樹から見れば小さな木々の間を抜けていった。ふと彼は訝しんだ、自分の絆は何度も繰り返し傷ついていて、決して癒えないのではないかと。彼はかつて左の手首を二度折った。コーの癒し手が処置をしたわずか一か月後に、新しい骨も若木のように折れた。それは完治せず、十年経った今も曲がったままでいる。天候が変化するたびに痛み、その傷はオブーンに自らの弱点を思い出させた――リバールートの村が、失ったものを彼に思い出させるように。だが上空の快適なスカイクレイブよりも、ここの自由の方がましだった。少なくとも、彼を拒絶した守護隊の冷たさは正直なものだった。コーは余所者へと愛想よく微笑みかけるが、相手が順応しなければ背中から刺す。

 オブーンは木々にへばりつく巨大な地衣類のように彼らに従った。腰を低くし、コーの衣服をまとい、顔にはコーの文様を描いた。もはやその必要はないことを忘れ、彼はこの朝にもそうしていた。梢の下の大気は湿っており、文様は温かい皮膚の上で柔らかく、彼は手の甲でそれをこすり取った。歩きながら彼はその手を革のすね当てで拭い、ふとグーム荒野のどの方角へ向かえばいいかと訝しんだ。あの荒野は入るものではない、コーやダイカー叔父はそう言っていた。オブーンの母エイヤのような、よく訓練された守護隊員にのみ開かれるのだと。

 荒野の中で、母はこのように自由と孤独を感じていたのだろうか。エルフの視線と評価から離れ、だがゼンディカーの植生があらゆる角度から見つめている。大気は腐敗や新芽や、何かの辛辣な匂いで満ちていた。サラカーの棲処に近づくとオブーンは木の影に隠れ、待ち伏せに入った。サラカーを一体殺した証拠を持ち帰れば、守護隊は次の探索に加えてくれるだろう。力になれる者を置いていくような余裕は彼らにはない。

 静かで慎重な足音。オブーンは息を止め、耳を立てた。二本足の何かが隠れ場所の傍を通過した。覗き見ると、青ざめた緑色のサラカーが木々の間を不格好に進んでいた。身長は平均的なムル・ダヤほど。だがずっと重く、顎からは緩い肉が垂れ、長い尾を地面に引きずっていた。鉤爪の手が、まるで沼底に二十年も沈んでいたようなエルフの槍を掴んでいた。

 オブーンは自身の槍を握り締め、そのサラカーを追った。光と闇が目の前で行き来した。洞窟内のむかつく匂いが玉飾りのカーテンのように覆いかぶさり、湿った闇が彼を取り囲んだ。彼はサラカーを追跡し、目を慣らすために本能的に足取りを緩めた。叔父の教えはリバールートの村に馴染む助けにはならなくとも、今の自分の実力を証明する助けにはなるだろう。

 そのサラカーがオブーンの重い靴音を聞きつけたのは間違いなかった。サラカーは槍を鳴らしながら振り返り、その武器を掲げた。鋼と鋼が激突し、火花が散って薄暗い洞窟内を照らし出した。サラカーの力は予想以上に強く、片手で操る槍だけでオブーンは転がされそうになった。オブーン自身の両手は震えていた。このサラカーを殺すか、殺される前に逃げるか。決めかねているうちにサラカーは軋むような鳴き声を上げ、オブーンの頭を狙って槍を振るった。彼は屈んで避け、恐怖に胃袋を掴まれ、立て直すべく逃げ出した。

 だが数歩走ったところサラカーに荒々しく転がされ、オブーンは壁に頭を強打しかけた。彼はベルトからナイフを探り、必死で肩越しに刺そうとしたが、ナイフは手から滑り落ちて暗闇の中に音を立てた。冷たい金属が首筋に触れ、彼は恐怖に凍り付いた。鱗の足が肋骨に押し付けられ、彼を裏返した。槍先が喉を引っかき、熱い痛みの線がその跡に残った。

 オブーンは頭の方へと手を伸ばし、壁面を押した。滑らかな鎧は地面をたやすく滑り、彼はサラカーの股間を通り抜けた。尾を掴むと棘と鋸歯が掌に食い込んだが、掴み続けることしかできなかった。サラカーの筋肉質の尾が振るわれてオブーンを壁面に叩きつけ、彼はその衝撃に一瞬意識を失い、脇腹から地面に落ちた。サラカーはとどめを刺そうと槍を振り上げたが、洞窟の狭い通路の壁面に槍先が当たり、オブーンに意識をはっきりさせる余裕をもたらした。彼は立ち上がって再び逃げ出したが、地衣類が薄く照らす壁面へと眩暈の中で何度も激突した。

 すぐにオブーンは迷ってしまった。鱗が石をこする音、うめき声、殺戮の音があらゆる方角から聞こえた。どちらへ向かおうとも死を超えた死へと続き、祖先からも生きた同胞からも失われる。その考えに、胃に吐き気が泳いだ。オブーンは石と固い土の間の小さな隙間を見つけ、その中に入り込んで隠れた。木の根が首の後ろをかすめ、聞き覚えのある声が石を通って響いてきた。冷たい水の波紋が背骨を駆け降りるように。

『受け入れるのです』

 震え、彼は我に返った。呼吸は鎮まり、心臓の鼓動も落ち着いていた。オブーンは辺りを見たが、その古びた空気は馴染みあるように思えた。自分はリバールートの木の下にいるというのか?

 完全に静かになったことを確かめ、ようやくオブーンは隠れ場所から這い出した。今やはっきりとした目で、このサラカーの棲処から脱出する術を見つけられるよう、彼は祖先に祈った。とはいえ希望はほとんど持っていなかった。彼はスカイクレイブであまりに長い時を過ごしており、その魔法が彼自身の歴史との繋がりを蝕み、感覚はほとんど役に立たなかった。新鮮な風は入らず、壁面を覆う根はあまりに太くうねり広がって、方角は全くわからなかった。『受け入れるのです』、あの音楽のようなエルフの声が我が家へと導いてくれるのだろうか。再びそれに出会えればの話だが。

 地面はでこぼこで、オブーンは頻繁につまずき、ブーツの踵の鉤が石や固い土を引っかけた。一度、飛び出た岩に鎧の面晶体が当たり、彼は腹部を強打した。一体のサラカーが暗闇の中でうなったが、オブーンは動けず、肺が空になった。彼は水から上がった泥魚のようにもがき、滑る石の地面から必死に立ち上がり、全速力で逃げた。裸足の足音と恐ろしいほどに聞き覚えのある鳴き声がその逃走を追い、洞窟にこだまして彼の頭に満ち、やがて高鳴る心臓の悲鳴があらゆる音を飲み込んでしまうほどだった。再び彼はつまずき、傾斜路を転がり落ちた。石が胸部をとらえ、胴体を打った。乾燥した枯れ枝の束のように肋骨が軋んだ。

 オブーンはどこか柔らかく湿った場所で止まった。それとも柔らかく湿っているのは自分自身か、叩かれて柔らかくなった生肉の塊。傷だらけで息は苦しく、血を求めるサラカーが荒い息音を聞いたかどうかを気にしている余裕はなかった。そして逃げようにも疲れ果てていた。オブーンはとどめの一撃が来るのを待ったが、呼吸が落ち着いた時、彼はありがたくも静寂の中に独りだった。彼はしばし休息し、途切れ途切れの意識の中、やがて疲労のもやをあの声が貫いた。『受け入れるのです』。それは母の声のように、寝物語の声のように優しかった。だが言葉そのものは低く聞き取れなかった。

 笑いがこみ上げ、オブーンの肋骨が痛んだ。母の寝物語はほとんどの母親を怯えさせるものだった。しばしばバジリスクやワームが登場し、時にオブーンはそれらの悪夢を見ては両親の寝台に入り込んだ。その温かさは、かつてないほど遠くのものに感じられた。今の孤独に比べれば、スカイクレイブやリバールートでの孤独は些細なものだった。祖先との損なわれた絆の温かさ、彼はそれを痛感していた。身体中の傷を確認しながら、すがりつけるものが、力をくれるものがあればと願った。

 立ち上がるためには、自らの不屈さだけに頼るしかなかった。そこは陰気な空間で、明かりは頭上に育つ地衣類が放つ微かな緑色の光だけだった。それでも、見る限りその空間は広大で、天井からは根が長くぶら下がっていた。子供のような衝動で彼は手を伸ばしてその根に触れ、髪をすくように指を走らせた。彼はそれを下ろした。今はもっと重要なことを考えなければ。

 それが命を守ってくれたとはいえ、彼の鎧はうるさく、サラカーの足音が上方の傾斜路からこだました。オブーンはコーの鎧を脱ぎ、音を立てないように置くと洞窟の深部へと向かった。何かが踵をとらえた。足を動かすたびに柔らかく乾いた音が鳴り、彼は凍り付いた。骨。この場所は骨で一杯だった。バーラ・ゲド上空の乾いた大気のような冷たい震えが彼にうねり、胸の奥深くの何かが反応した。この場所で、空と分厚い土の層によってスカイクレイブの圧倒的な力から隔てられ、彼は遂にリバールート氏族の魂を感じた。

 目も眩むような安堵が恐怖と相争い、そして取り込まれた。長い年月の間に溜め込まれた、おびただしい死体。腐った衣服と革がオブーンのブーツの下で崩れ、振動は音のない鐘のように彼を呼んだ。あるひとつの震える音が他よりも大きく響き、オブーンを引き寄せた。頭がふらついたが、何度も転んだためか何か古い魔法のためかはわからなかった。どうするか決めかねていると、焼け付く痛みの波とともに何かが脇腹を打った。彼は膝をつき、折れた骨がぞっとする音を立てた。オブーンは尖った破片に両手をつき、サラカーの洞窟は、薄暗い悪夢の風景は消え去った。

 記憶に飲み込まれ、オブーンの視界は母の、揺れる映像にぼやけた。薄茶色の肌、器用な手の甲には暗い色の傷跡が走っていた。長い耳には銀が飾られ、それを縁取る緋色に染めた巻き毛は生え際で黒くなっていた。茂みの防衛隊や辛抱強い狩人が沈黙を重んじる中、母の笑顔と笑い声は常に際立っていた。彼らは足跡も印すことなくグーム荒野へ消え、だが常に帰ってきた。

 荒々しい蹴りがオブーンを地面に叩きつけ、その映像を砕き、母の骨の欠片は乱雑な中へと失われた。彼はそれを手探ったが、骨ではなく覚えのある革と鋼に触れた。彼はすんでの所で母の短剣を取り上げ、首を叩き切ろうとそうとするサラカーを止めた。葉の形をしたその刃は記憶に残っていた。彼はその生物を押し返すために全力を込め、筋肉が悲鳴を上げた。手の中に母の存在を感じられるようだった。その指を掴んでいるようだった。

 サラカーは再び迫るのではなく影の中で回り込み、その足元で骨が鳴った。折れて崩れる音のひとつひとつに、オブーンは腹の底から震えた。彼は必死で立ち上がり、母の剣を片手で掴み、もう片方の手で傷ついた脇腹を抑えた。出血は思ったほど酷くはなかったが、痛みは心臓の鼓動に同調して脈打ち、霊が放つ澄んだ鐘の音が周囲にうねっていた。冷たく湿った空気はオブーンの皮膚に、焼け付くように熱かった。彼がゆっくりとサラカーへ近づくと、それは距離をとり、油断なく槍を構えた。

 この獣とたわむれて時間を無駄にはできない。彼は飛びかかり、刃の腹でその槍を叩き落としたが、武器がなくとも相手の腕の方が長かった。オブーンは跳びのき、危険な鉤爪を避けた。だがサラカーはオブーンの腕を掴み、剣をもぎ取ろうとした。負傷した脇腹に刺すような痛みが走った。世界が傾き、彼は倒れたがサラカーを道連れにした。地面で骨が折れて砕け、石と土のうめきを飲み込むほどの音を立てた。

 サラカーは動きを止め、オブーンは勝機を得た。だが彼の剣は肉ではなくその固い鱗に刺さって止まった。サラカーは転がって離れ、オブーンの手から剣の柄をもぎ取った。石の地面が震えたが、彼は立ち上がるとかろうじて平衡を保って急ぎ立ち上がり、何か見えざる力で背筋を伸ばした。足元で地面は揺れ、うめき続けた。まるで生きているかのように。

 前後不覚の一瞬の後、オブーンは気付いた。彼の必要に応えて、分厚い一枚岩が足元から上昇してきていた。ゼンディカーの奥深くから湧き出る泉となって、力が流れ込んだ。一千匹もの針刺虫が羽音を立てるかのように激しくうずいた。この土の中からムル・ダヤの骨を吐き出させることができたなら、彼らを村へと帰して氏族の称賛を得るだけでなく、両親の形見を取り戻せる。祖先との傷ついた絆も癒されることだろう。

 オブーンは歯を食いしばり、この恐怖の地をこじ開けて氏族の骨に陽の光を当てようと焦った。足場は上昇を続け、頭上では岩が砕けて土が割れた。サラカーは恐怖に悲鳴を上げ、状況を理解できないまま、石と骨の地面にへばりついた。これまで命からがら追われながらも、オブーンを罪悪感が貫いた。これはただの獣、不幸にも復讐に燃えて戦う肉の近くに棲んでいただけの腐肉あさりなのだ。

 何かが折れる、ぞっとするような音がオブーンの思考をサラカーから引き離した。見上げると、天井にへばりつくリバールートの根の一本が上昇する岩に潰されていた。根は割れ、分厚く黒い樹皮の中に青白い繊維が見えた。来たる勝利の味は瞬時に口の中で冷え切ってしまった。骨を取り戻すために木を根こそぎ引き抜くことになる。そしてその木がなくして、リバールートの氏族もありえない。そこに生きるエルフは惨害の中で死に、家々は破壊され、生き様は壊されるだろう。だがオブーンは丸腰であり、助けはなく、一体のサラカーが彼を食事にしようと見つめていた。

 オブーンは焦り、逃げようと周囲に視線をやった。そのサラカーから可能な限り離れ、輝く崖を果敢に懸垂下降するしかなかった。縄を手に、彼は目をきつく閉じて自らをゼンディカーの活力から遠ざけた。地面が急に震えて止まり、オブーンは落下しかけた。サラカーは四つん這いで彼へと駆け、恐怖の叫びが彼の喉を裂いた。牙が肩に迫る中、オブーンの手がサラカーの脇腹に刺さったままの剣に触れた。

 幾つもの燃え立つ炎の点のように、苦痛が彼の身体を刺した。サラカーは肩に噛みついていたが、オブーンがその力を最後の一片まで振り絞って剣を深く突き刺すと牙を離した。それは吠え、よろめいて後ずさった。痛みが脈打つ中、暗く揺らぐ世界に熱を帯びた緑の筋が伸びた。オブーンは強い眩暈に襲われ、地面へと落下した。その冷たさはどこか安堵できるもので、喉元へ上がってくる熱い胆汁を鎮めてくれた。骨の欠片が降り注ぎ、疲労と眩暈の中、彼は闇とそれを切り裂く翠緑の悪意に飲み込まれた。

 緑色の筋はゆっくりと蔓へ、葉へ、枝へと固まっていった。大気は湿っていたが新鮮で冷たく、群葉や花の香りが混じっていた。どこかでナーリッドが吠え、その頭上で鳥がさえずりを一瞬だけ止めた。

「オブーン、まだその時ではありません」 声が聞こえた。オブーンは振り返り、怒りが蘇った。自分にそのような助言は不要、そうネザーンへ言おうとした。

 背後に立っていたのは母だった。取り囲む木々のように確固とした姿で。彼女はつぎはぎの仮面を脱いで顎の下にかけ、口元は笑っていた。赤い髪は帽子に隠され、縄を編んだ鎧が肩を広く見せていた。オブーンは思い出した。母が生きていた頃、ランプの明かりでそれを修理する様子を見つめていた。それまでの世界の全てから離され、コーの中で生きることを強要されるよりも前に。母から、祖先から切り離されるよりも前に。

「この時を……ずっと待っていました」 彼は囁き声で語りかけた。

「知っていますよ」

「皆、私を信用しないのです」 オブーンの声がかすれた。それは怒りに震えながら、怖れと傷心を覆い隠す鎧を削っていった。そのようなものは押し込めればと、隠せればと願った。だがそれらは刺すように痛む傷となって、彼の顔をしかめさせた。「母上。私は自らの実力を示さねばなりません。私が属する、ここの者たちへ。ですが失敗しました。木を倒してしまうところでした。サラカー一体すら殺せませんでした」

「示すべきは彼らに対してですか、それともあなたに対してですか?」 母は尋ねた。オブーンは黙っていた。答えられなかった。「ムル・ダヤが力を示す手段は、無謀さではありません。忍耐です。あらゆるムル・ダヤに生ける目的がありますが、これはあなたの目的ではありません。リバールートをあなたの胸に。そうすればリバールートはあなたを受け入れるでしょう」

 頭上にうねり広がる巨大な枝をオブーンは見上げた。リバールートは苦痛の光景、人生において起こった最悪の物事の象徴となっていた。両親を失い、ムル・ダヤの生き方を失った。子供の頃の家はゆっくりと腐りつつある。這う根のようにゆっくりと、認識がオブーンに満ちていった。この場所を、環境を、憎んでいたのだ。戻ってきたその時からずっと怒り、失望していたのだ。

「この感情をどう止めればいいのですか」

 返答はなかった。梢から見下ろすと、母の姿は消えていた。母は空虚を残していった。ゼンディカーとリバールートの氏族に、決して埋められない穴を。森が彼に迫り、枝や蔓はより合わさって、身を委ねろと彼にかしずいた。どのようにリバールートを許せば良いかわからなかった。ただ胸の内の深い傷を深めるだけだというのに。母の霊を信じたかった。子供の頃のように母の導きに従いたかった。だが葉は陽光を遮り、彼を闇と恐怖へ突き落とした。

 何かがオブーンの皮膚を這い、彼ははっとして上体を起こした。骨の破片がそこかしこに散らばっていた。小さな緑の火花が身体に跳ね、視界に居残る蔓を描き、オブーンの周囲を照らし出した。その光の塵はたくさんの傷の痛みを和らげ、冷たく澄んだ水に浴すようだった。樹液のように、花の蜜のように、これまで経験した何よりも甘美だった。

 オブーンは両目を閉じ、満たされるままに任せた。瞼の裏にリバールートの木が見え、新鮮な空気の匂いと陽光の温かさを感じ、地平線の先に月が沈むのを察した。力線の繋がりとそれらを繋ぐ面晶体が皮膚に触れていたかのように、彼はそれらを強烈に感じた。リバールートの木の蔓は彼の内に埋もれ、彼もまたリバールートに引き寄せられた。まるで鉄のやすりが磁石に吸い寄せられるように。

 繋がりを手にした安堵が即座にオブーンから抜け出て、痛々しい虚無にとって代わられた。父はここにいない、そして心を祖先へと開かせてくれた骨は失われた。エルフの霊が立てる揺らめく鐘の音は静まり、新鮮な悲痛に沈黙させられた。オブーンが目を開けると、新芽の柔らかな緑が空間を照らしていた。あの大きな柱は傾き、洞窟の壁面に衝突していた。その凹凸のある表面に登ると、彼は砕けた壁の先に地底湖を発見した。静かな水面には藻が鮮やかに輝いており、この陰気な空間に対する嫌気が消え失せた。そこには彼が認識していなかった美があった。見ていなかったのだ。最も危険な場所ですら、かつて愛した故郷へと繋がっている。

『コーは支配した者の生き方を彼らのそれに取り換えることに秀でている』。オブーンは自らが理解しないままに変わってしまっていたのだ。そしてこの先も決して理解はできないのかもしれない。だがネザーンと同じく、彼はいくつかの物事を確信していた。大地は自分を認めてくれており、人生の賜物を与えてくれる。その賜物を浪費はできない。もし自分が受け入れたなら、リバールートの木は導いてくれるのだろう。

 その木の根はこの地底湖に届くほど深く伸び、水を吸い上げて幹を巨木へと成長させ、だが同時に横へと伸び、リバールートの木の東に広がる揺らめく沼地まで届かせていた。この湖はそのどこかから繋がっているに違いない。ここの藻は地上から流れ込んだもので、太陽に当たることもなく、やがてゆっくりと萎れてゆく。出口を探さねばならない。だが最初に彼はブーツを脱いだ。あまりにうるさく、そして何度となくつまずいていた。

 オブーンは裸足で立った。足の裏で岩はざらついて冷たかった。歩きながら耳を澄ましたが、水音はサラカーのあらゆる気配を飲み込んでいた。彼は危険がないかとしばしば立ち止まった。サラカーは今も自分を追っているのだ。前方で滝が明るく輝いており、水飛沫は頭上から流れ込んだ発光性の藻で満たされていた。その明かりが照らし出す滑らかに削られた岩は、裸足で登るのは困難と思われた。だがそれでもオブーンには装具があった。忍耐強く注意して進めばいい、だがハンマーとハーケンは使えなかった。その音は間違いなくサラカーに居場所を知らせてしまう。

 岩は滑ったが、楔を差し込む裂け目は豊富にあり、オブーンは絶え間なく流れる滝をゆっくりと登っていった。酸味のある水と苔の匂いが流れ下り、オブーンはかすかな希望を抱いたが、下方からの引っかくような音が胃袋に恐怖を植え付けた。サラカーが近づいていた。肩が、特にサラカーの毒の牙を受けた方が痛んだ。さらには命からがら逃げ、戦った疲労が重くのしかかっていた。彼は一度ならず滑り、楔に助けられたが息もつけなかった。頂上にたどり着くと、落ちたなら死ぬほどの高さがあった。

 流れ込む水路は広く浅く、水と石との間にはわずかな隙間しかなかった。彼は絶えない流れに浅く身を沈め、頭上から垂れ下がる根を掴んで押し流されるのを防いだ。水音がひとつ背後で聞こえ、追跡してきたサラカーが滝から身体を持ち上げると、オブーンは石の壁面に身体を押し付けた。それは水路の入り口をじっと観察し、オブーンの母の剣が今も脇腹に刺さっていた。心臓が喉から飛び出すような衝動に、彼は隠れ場所から飛び出してその剣を掴み取りたかった。だがその直前に母の声を思い出して彼はこらえた。忍耐だ。

 そのサラカーが捜索を終えて背を向け、滝を降りに向かうまでオブーンは待った。彼は息を止め、サラカーの背後にそっと忍び寄った。母の剣の柄を掴み取りたいと掌がうずいた。手が震えぬよう祖先へと祈りながら、彼は手を伸ばした。引き抜くだけでいい。掴むだけでいい、そうすれば母の形見を手に入れられる。

 水の中でのオブーンの動きは想定以上に遅かったが、それはサラカーも同じだった。素早く振り返ることはできず、そして数十年を経て古びた革の柄は強固な握りをくれた。彼は全力を込めてその生物を蹴った。肩の痛みが抗議する中、足の裏で鱗が滑り、サラカーは体勢を崩した。それはよろめき、そして水飛沫を上げて滝壺へと墜落した。オブーンの肺が一瞬で空になり、彼は胸にその剣を抱えて震えた。

 呼吸を落ち着かせると、オブーンは滝の縁から下を覗き込んだ。藻の鮮やかな輝きがはっきりと滝壺を縁取っていた。彼は見張り、待ち、あのサラカーがリバールートの森まで追ってこないことを確認した。暗闇は静かなままだった。不安な鼓動はゆっくりと落ち着き、彼は顎の力を抜いた。痛くなる程に歯を食いしばっていたと、その時ようやく気付いた。彼は自らに活を入れ、沼へと続く裂け目へ向かった。

 オブーンはぶら下がる根と蔓を押しのけ、開けた空の下へ出た。夜は更けていた。高く昇った月が薄い銀色の光を投げかけ、水面上の藻の輝きに重ねていた。後方でリバールートの木が、生家が、見守っているのを感じた。待っているのを感じた。疲労困憊の中、今はただ両親の荒れ果てた古い家に戻りたかった。彼は長い帰路についた。

ムル・ダヤの祖、オブーン》 アート:Chris Rallis

 数日後、オブーンは長い休息と日々の厳しい労働を終えた。そして森の地面から煙が上がり、リバールートの村の枝と通路を満たした。煙の匂いが緋の染料の強烈なそれと相争った。オブーンは両親と同じ染料で髪を染め、耳の先も未だ薄赤色を帯びていた。両手は岩を投げて生じた豆の部分を除いて赤くなっていた。彼が骨の洞窟とサラカーの棲処の裏口を発見したことで、村は総出で木を降りて行動に移った。主要な通路から骨の洞窟までの道が防がれ、骨は村へ持ち帰られ、洞窟は再び封じられた。

 リバールートの村にとって、火葬は最後を締めくくるものだった。死者を解き放ち、形見の骨を箱に仕舞い込む、もしくは炉棚に飾る。多くのエルフが望んだほどの骨を手にできなかったが、どんな骨もオブーンの母の、悲痛なほどに小さな破片に比べればましだった。骨はあまりに細かく砕かれ、残るものはごく僅かだった。持ち帰った骨の多くは風化しきっており、塵と大差なかった。彼らはサラカーが洞窟に棲むよりもずっと前の存在なのではないか、リバールートの村にその噂が流れた。

 霊の煙が流れる中、オブーンはリバールートの地下深くで見つけた剣の、革を新調した柄に指を触れた。母の顔が煙に浮かび、風に吹かれてはまた形を成し、幾度も彼へと微笑みかけていた。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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