MAGIC STORY

ゼンディカーの夜明け

EPISODE 04

サイドストーリー第2話:マゴーシの階段

Miguel Lopez
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2020年9月10日

 

備考:これは全2回の物語の第2回です。第1回を未読でしたらこちらからどうぞ


 陽が昇るよりも早く、マゴーシの上陸場に朝の暖気が届いた。今の季節らしく、だが同時に快適ではなかった。二十人程のマーフォークから成る隊商が上陸場の囲いに群がり、柱平原の雄牛に荷を積んで固定し、この先の下り階段のために目隠しをした。彼方の地平線から太陽がじわじわと昇る中、マーフォークが連れた雄牛たち安全かつ冷静に下れるよう、アキリはや装具、目隠し、引き綱を確認した。マーフォークを率いるはザレスの担当だった。彼らは不安を見せていたが、ザレスは彼らを安心させるよう最善を尽くしていた。

「もし落ちるなら、川に向かってだ」 アキリが雄牛を確認しつつ歩いていると、彼の声が届いた。怯えた商隊長からひと続きの質問が放たれ、笑わずにはいられなかった。先程アキリは彼を安心させるために十五分を費やしていたのだった。

「そんなことをしたら、残りの報酬は貰えないと思いますよ」 アキリは一本の紐をきつく締め、雄牛の背に積まれた木箱や物品の包みを固定する綱を確認した。「ですが、簡単になるのは間違いないでしょうね」

「こいつら、何を運んでるんだと思う?」

「私に予想させたいのですか、それとも自分が言いたいのですか?」

「こいつは奥地の果物だ」 ザレスは目配せをし、深紫色の実をほんの一握り取り出した。「食うか? 多分エルフが育てたのだ。いい気分になれるぞ、朝寝みたいに」

 アキリは彼を諭そうと指を立て、だが近づいてくる商隊長をザレスが顎で示すと止まった。

「いけませんよ」 アキリは低い声で言った。そして商隊長へと向き直り、微笑み、全て順調だと、いつでも出発できると請け合った。その間も視界の隅にザレスをとらえていたが、彼は雄牛の列へと向かい、マーフォークの商人たちと短い会話を交わし、笑い合い、獣の装具を少し修正し、何かと親切にしていた。疑念の目でザレスを見たくはなかった。信用していないのではない。彼女はザレスを、その心の在処をよく知っている。だが失望はあった。止めさせなければとアキリは決心した。だがその前に、自分たちは――

 地面が揺れた。短く細かいわずかな震え。まるで太陽がわずかに近づいたかのように、ふっと朝の熱気が強まった。雄牛たちは鼻息と鳴き声を、マーフォークは不安な会話を止めた。ザレスですら動きを止め、揺れる地面に足を踏み締め、両手は腰に下げた二本のナイフに触れた。蒸し暑い夜明け以来、彼らの不安以外は穏やかなものだった。だが世界は不意に自らを知らしめた。揺れが続いたのはほんの数秒だったが、それは一時間にも、一日にも、はたまた一瞬にも感じた。

 揺れが過ぎ去ると、不安そうに周囲を見渡さなかったのはアキリだけだった。確かに驚きはしたが、怖がりはしなかった。一方でマーフォークたちは抑えた声でこれは凶兆ではと囁き合い、商隊長は苦労して雄牛を宥めていた。アキリは冷静だった。毅然としていた。

 乱動。海門でエルドラージが倒されてから少しの間は収まっていたそれが戻ってきていた。少なくともこれはひとつの暗示だった。忘れるなとゼンディカーは言っているのだ、「戦乱」はその上に生きる人々を救っただけであり、世界そのものを救ったのではないのだと。乱動は決して小規模では来ない。それはゼンディカーのとてつもない力の先触れであり、世界そのものの力なのだ。乱動は確かに不安だが、アキリはその揺れを歓迎していた。乱動の行いとともに生きていれば、目の前の脅威がどれほどかを理解できるのだ。

 両手をナイフの柄に触れたまま、ザレスがこちらへ向かってきた。「乱動は止まったと思ってたんだが。この先活発になると思うか?」

「いいえ。ひとたび過ぎれば終わりです。思い出してください、問題なく階段を行けるでしょう――とても頑丈ですから。このウマーラは安定しているからこそ、小さな揺れを感じるだけで済んでいるのです」

「海門は?」

「ハリマー湾と外洋から来る揺れの波に対処することになるでしょう。ですが街は持ちこたえます」

 ザレスは隊商とマーフォークたちを見た。「じゃあ俺たちは? エレメンタルは? それと――」

 ナイフの柄を掴むその手は汗ばんでいた。だがザレスは落ち着き、冷静なままでいた。

「おやめなさい」 アキリは手を伸ばして軽く触れ、ザレスの手をその武器から離させた。「乱動は通過しました。通過させておきましょう。私たちはただ階段を下って珊瑚兜へ向かい、海門へ帰れば良いのです」

 ザレスは頷き、息を吐いた。「じゃあ、仕事を続けよう」

「仕事を続けましょう」 アキリはそう返答した。彼女はザレスからマーフォークの隊商へ視線を移した。彼らは商隊長を取り囲み、張りつめた小声で話していた。「揺れは小さいものだったでしょう」 アキリは彼らへと声を上げた。「これから行く道は同じ岩でできています。何も怖れることはありません」

 マーフォークたちは雄牛の間に散り、各々の会話を続けた。商隊長がアキリとザレスに近づいてきた。

「今のは乱動だ。ただの揺れではない。感じただろう?」 彼はザレスへと尋ねた。マーフォークの商隊長はその顎に触れた。「あの音だ。震えが来る前の」

 ザレスは頷いた。「ああ、俺も感じた。痛むが、酷いものではなさそうだった」

「何であろうと」 アキリが商隊長へ向けて言った。「今いるここはゼンディカーでも最も安全な場所です。ここから海門まで、安定した地面が続きます。最大の懸念は暑さですね」

「それと盗賊だな」 ザレスが割って入った。「同じくらい用心しないといけない」

 商隊長は尻込みした。

「この人のは冗談です」 アキリはザレスを睨みつけた。「皆さんは大丈夫です。今日のうちには珊瑚兜に到着できますよ」

 商隊長は目の前の二人を交互に見た。アキリは気強く、ザレスは微笑んでいた。彼はかぶりを振って自らの仕事へと歩き去った。

 隊商はその少し後に出発した。雄牛は一頭また一頭と長いジグザグの小道に踏み出した。

 階段の途中、隊商がすぐ近くにいたが、マゴーシの滝の轟音に隠れてアキリとザレスは内密の会話を交わした。

「あれは不吉です」とアキリ。「『戦乱』以来、あれほどのものは感じていませんでした」

「顔が割れるんじゃないかと思った」 ザレスは顎をさすった。「怖がるのももっともだ。深い。あの乱動は気になる」

 アキリは鉤と綱を調整した。「気をつけて下さい、ザレス。今日が何事もなく終わるとは思えません」

 二人とも乱動の性質を知っていた。かつてそれとともに生きてきたのだ。身体が熱にうなされるように、ゼンディカーは何か深い苦痛に反応して乱動を起こしている。敵ではない、だが恐ろしいものとなりうる。乱動は一種の警告なのだ。

 マゴーシは流れる。階段はひたすら続く。隊商、アキリ、ザレスは下り続けた。彼らも足元の階段も、マゴーシが放つ濃い霧の中に消えていった。

トリックスター、ザレス・サン》 アート:Zack Stella

 出発して一時間もせず、隊商は階段の中程よりもずっと上で不意に停止した。流れ下るマゴーシの霧は全てを包み、獣も人もずぶ濡れだった。この真夏、霧に包まれて涼しいはずの階段はじめじめと湿って不快で、道からの視界は全くきかなかった。風があれば、ここからは壮大な景色が見える。マゴーシから曲がりくねって続くウマーラ峡谷、それがハリマー海へ注ぎ、更には内海の先にある海門の光まで一望できる。だが珍しく風のないこの日、道がしがみつくこの崖は水浸しで、霧の壁の先に次の下り階段だけが見えていた。雄牛はうめき、息を鳴らし、引き手は全力でそれらを宥めた。滝の咆哮は全てを包み、確実に隊商も雄牛も苦しめていた。

 アキリは最後尾の近くを歩きながら、マーフォークのひとりと会話していた。話題は珊瑚兜とその自慢の料理について――魚、サメ、海藻、甲殻類――マーフォークの居住地で出されると思われるものは何でもある(だがその商人が断言していわく、何処とも違うと。産地が近い海門のご馳走よりも美味なのだと)。その商人が勧めた店に行ってみようとアキリが決心したそのとき、ザレスが列の前方から名を呼ぶ声が聞こえた。彼女は会話を辞してザレスが屈む場所へ急いだ。彼は商隊長や随員とともに、転んでうめく雄牛を取り囲んでいた。その雄牛は狭い階段に横たわり、道を完全に塞ぎ、隊商の列を分断してしまっていた。

「足首を折ってる」とザレス。彼はアキリにひとつの石を差し出した。「丸石を踏んで滑ったらしい。水で削られて摩耗したんだろう」

 表情を曇らせながら、アキリは石を受け取った。「可哀そうに」

「むう」 ザレスは痛ましい同情を浮かべ、その雄牛を見た。「落とさなきゃいけないだろうな。それ以外にどかす方法はない」

 ザレスの推測を認めるように、商隊長は肩を落とした。そして随員たちに告げ、雄牛の背から荷物を下ろす作業を開始させた。彼は詫びるような表情でアキリとザレスを振り返った。その背後で、部下の一人が素早く確かな手つきで雄牛の首を落とし、その苦しみを終わらせた。

「他の雄牛にこの荷物を分配し、それから死体を捨てなければ」

 アキリは頷いた。「進めて下さい。そしてお手伝いできる事がありましたら言って下さい」

 商隊長は彼女に礼を言うと部下の所へ戻り、アキリとザレスは端に立って見つめていた。商人たちは急いだが、普段の状況ですら雄牛の荷を下ろすのは時間がかかる。死んだ雄牛の荷物を下ろし、轟く滝のすぐ傍の狭い階段に長く広がった別の雄牛たちに分散させるのは、遥かに骨の折れる作業だった。

 ザレスは崖の壁に背を預けて水筒の水を飲んでいた。アキリはその隣で、腕を組んでもたれていた。二人に会話はなく、だがマーフォークの作業を見つめていた。

「珊瑚兜へ行ったことはあるのですか?」 アキリはザレスへと尋ねた。

「一度もないね」

 アキリは理由を尋ねなかった。それは自身の領分ではない。ザレスが水筒を差し出すとアキリは受け取り、一口飲んで返した。

 悲鳴がひとつ滝の轟音を裂き、一瞬して幾つものそれと、雄牛の荒々しい鳴き声が続いた。死骸の隣にいたマーフォークが背を向け、逃げろと叫びながら隊商を置いて駆けだした。

 アキリとザレスは壁の所に立ち、騒ぎへ向かおうとして、見たものに凍り付いた。

 アキリは訳がわからなかった。ザレスはその生物を知っていたが、それでも信じられなかった。うねる霧の中のその大きさ。舌らしきものから水を滴らせ、探るようにそれは現れた。頭の影は霧にぼやけた陽光を遮り、道を深い闇の中に落とした。その舌は火事の家の床に這う煙のように、静かに前へとうねった。その生物の大きさを考えるに、ありえないほど滑らかな動きだった。生物というものを縛る法則に逆らっていると思えるほどだった。

 アキリとザレスは行き詰まり逃げまどうマーフォークたちをかき分けて進み、霧と滝の咆哮に隠れたまま太い筋肉を伸ばすそれを目指した。

「皆さんからあれを遠ざけて」 アキリはザレスにそう指示した。彼女は背負い袋から一巻きの綱を緩め、それを綱投げの装具に取り付け、ザレスがくれたマキンディのコーの鉤を取り出した。

 ザレスは二本の刃を抜いた。「アキリ、これと戦えるとは思えない」

「やってみるのです」とアキリ。彼女は身構え、駆け、そして道からうねる霧の中へと跳び、その先に待つものと対峙した。


 霧の中に潜んでいたその怪物の姿を、どう表現すればよいだろうか? その巨体を一言で表現できるだろうか? その口に並ぶ歯の数を? あまりにも大きすぎる。代わりにアキリはその長い身体の獣をほんの一瞬だけ見た。それは海蛇の類だった、この大河が隠すに相応しい巨体の。

 マゴーシの落水が轟音を上げながら、その巨体の長い身体に叩きつけた。ありえない動きだった。それはマゴーシを苦もなく上下していた。これは伝説の獣、分類などない独立したもの、他の何とも異なる存在。仲間も近縁もない。それ自体が世界。

 蒸し暑い朝にあの乱動が警告していたのはこれなのだろうか? もしくはこれは、マゴーシの滝壺の深淵から何百フィートも伸びるこの巨体の海蛇は、乱動そのものが恐るべき姿をとったものなのだろうか?

 海蛇は階段から頭を引き、アキリを呼ぶマーフォーク二人に舌を巻きつけて飲み込んだ。この海蛇はゼンディカーの深淵にずっと潜んでいた自然の獣なのだろうか? それともこれも封じられた別のもので、「戦乱」の間に逃れ、この世界を苛むために放たれたのだろうか? 今から飲み込まれる者たちにとってそれが何の問題になる? 海蛇は再び頭を階段に近づけ、更なる獲物を探した。

 答えは何でもいい、アキリは悟った。必要なのは、答えではなく瞬間だ。

 アキリは見えざるアンカーからぶら下がり、揺れながらマゴーシの奔流の中へと先導用の鉤を投げた。古の道具が水の背後のどこかにある手がかりを捉えると信じていた。長ナイフは腰に固く括りつけていた。このような綱投げには両手を必要とする。そして最初に跳んだ際に見て、この怪物を傷つけるには近づく必要があるとわかっていた。背は分厚く、粘液で覆われた皮で守られ、固く尖ったヒレがそれを分断していた。果てしなく長い身体は滝の中に腹部を隠し、マゴーシの叩きつける水柱の中で攻撃するのは不可能だった。アキリはその海蛇とは異なり、これでも重力に縛られている――綱で飛ぶことはできるが、もし滝に近づき過ぎたなら、間違いなく水に叩き潰されてしまう。

 アキリはそのまま勢いに乗り、マゴーシの向かい側の岩へと着地した。高さとしては先程飛び降りてきた道の少し下。彼女は額をその岩につけ、湿った岩を唇がかすめた。日中の熱は今も崖から放たれていた。遥か下方の岩に打ち付ける水の低い響きが、これほどの高所でも聞こえた。

 悲鳴。隊商やその雄牛の悲鳴が聞こえた。その声は――

 海門の闇夜、あの恐怖があった。敵は死に際してすら静かだった。彼女の剣がのたうつそれの中央の塊に埋もれると、それは濃漿のような血を吐き出して死んだ。音すら立てず。だが仲間たちの悲鳴は波音や高所に飛び交う魔法とともに響き、飛び交った。

 

――断固とした目的を持った、今この時へ。

 頭を攻撃すればいい、もしくは目を見つければ――海蛇には目があるものだ――もしくは分厚い皮のどこかの柔らかい箇所を。先導の鉤をマゴーシの崖のアンカーに沈め、両腕でスイングし、海蛇の背中に着地する。そうすれば、その防御をかいくぐれる。殺せなくとも、マーフォークたちが逃げる時間を稼がなくては。

 アキリは岩の上で振り向き、身構え、跳んだ。比類なき優雅さで先導用の鉤を投げ、スイングの途中で見たアンカーを狙った。無重力の一瞬、アキリは怖れた。鉤の狙いが外れるか、当たったとしても噛まないか、そうしたら鉤の先端が岩をかすめ、自分は落ちる。不安のさなかに時間は遅くなり、落下と共に身体に打ち付ける風の一片一片までもが感じられた。落ちるつもりは全くないが、その時は迅速であってほしかった。

 鉤が命中し、引っかかり、霧の大気の中で彼女はスイングに入った。心配は消え去った。アキリは前進に移り、両膝を曲げて上げ、先導の鉤を外すと空いた手で長ナイフを抜いた。

 勢いが彼女を前へ、上へと運んでいった。アキリは思わず腹の底から鬨の声を上げた――恐れが、怒りが、この世界の苦痛を止めてやると叫ぶ場所から。そして海蛇の背に衝突し、純粋な執念と研ぎ澄まされた反射神経でしがみついた。

 彼女は外した鉤を、海蛇の背中に突き出た近くの棘へと投げた。それは数度巻き付いて留まった。アキリはその綱を上腕に巻きつけ、海蛇の背に自身を固定した。これで綱の長さが許す限り、棘を中心に動くことができる。

 ナイフを手に、アキリは前方へと滑らかに駆けた。軽い靴底の棘が海蛇のねばつく皮膚を噛み、十分な足がかりをくれた。この巨体は今も隊商に目を向けており、彼女には気付いていなかった。轟く滝はアキリを海蛇の背から流し去ろうとし、彼女は苦労して頭部を目指した。下は見なかった――それは遥か先、彼方にあると知っていた――投げ出されたなら自分だけでなく、道に残っている者たち全員の確かな死を意味する。それに消え去りそうな遠方を見るのには辟易した。海蛇はまるで物憂げに彼女の下で動き、その巨体は何ら苦もなくマゴーシの落水を昇った。アキリは両膝をつき、支えの綱を握り締めながら、力一杯に海蛇の外皮へとナイフを突き刺した。これには幾らかの効果があったようで、血の出ない傷口はうごめいて閉じ、ナイフを小枝のようにたやすく真二つに折った。

 アキリは掴まり続けた。海蛇はマゴーシの落水を昇った。水が叩きつけ、彼女を揉んだ。聞こえるのは咆哮だけだった――世界の咆哮、その獣の咆哮、想像できない、残酷な、無限ではなくとも永遠の苦痛の咆哮。海蛇の体節の前で彼女はしがみつき、水から弾け出た。まるでゼンディカーそのものが攻撃してくるようだった。打ち付ける落水、苦々しい冷たさ、そして獣そのものが、世界の怒りだった。

 重い足どりでアキリは進んだ。綱を張りつめたまま彼女は別の鉤を取り出して前方へ投げ、頭に近い棘をとらえた。二か所で固定されながら、アキリは前へ進んでそれを見つけた。恐らく四十フィートほど前方、残忍な口の上顎、突き出たその上はでこぼこと隆起しており、手がかりや鉤のアンカーになりそうだった。そこから、自分でも傷を与えられるような弱点を見つければ、この海蛇を遠ざけられる。隊商から、そして――

 ザレス。彼が生きており、階段に立ち往生しているマーフォークたちを救ってくれることを願った。アキリは折れたナイフを収め、張ったばかりの綱を強く引きながら、上昇しのたうつ海蛇の背を登った。次の手がかりで彼女は息を整え、綱を外し、次の点を目視して投げた。

 そして綱はアンカーをとらえた。アキリはにやりとした。初めてだった。「いいぞ」 綱投げの隊長は頷いた。岩をこするような低い声だった。「はまったか? 引いて確認しろ。それに全体重を預けるんだ。その綱がお前を支えると信じなければならないぞ!」

 

――そしてまた登る。両手でたぐり、何でも掴む。海蛇の頭部に近づくにつれ、悪臭が彼女の感覚を狂わせた。腐敗と飢えという名の風が叩きつけた。うねり吐き気を催す突風、だがそれでもアキリは登り続けた。ここまで来ると、どれほど些細な動きでも投げ出されそうだった。この頭だけでも、自分の何倍あるのだろう? マーフォークの雄牛一頭を丸のみできるのであれば、自分などは飲み込んでも全く気付かないかもしれない。

 海蛇が再び道へと首を突き出し、雄牛を噛み砕くとアキリは掴まった。頭を引くと、数人のマーフォークが道連れになっていた。アキリが手を貸す暇もなく彼らは落ち、その悲鳴はマゴーシの咆哮にかき消された。

 マゴーシの咆哮の中で、何もかもが失われていこうとしていた。

 アキリは折れたナイフを抜き、目標を見つめた。目。黒く、光のない球が口の脇から覗いていた。見える側に二つ、恐らくは見えていない側にも同じく二つ。攻撃して目を潰し、気を反らし、退かせてマゴーシの深みへ戻す――それが作戦だった。

 轟々と落ちる滝の底から、第二の頭が伸ばされるのをアキリは見ていなかった。一つめの頭よりは小さいがそれでも彼女よりも大きく、それは落水に逆らって迅速に動いた。叩き潰してしまうような流れの中、口を物憂げに開いて。

 海蛇はアキリを無視してはいなかった。それどころか彼女の英雄的な奮闘の間、第二の頭で下から見つめていたのだ。そして残酷さゆえか好奇心ゆえか、攻撃の前にここまで近づかせていた。

 アキリは折れたナイフを振り上げて攻撃しようとしたが、寸前にそれは海蛇の第二の頭、悪臭を放つ太い舌に奪い取られた。振り返ると同時に、彼女はそれが迫りくるのを見た――前腕ほどもある牙、白く血の気のない歯茎、小さな歯が並ぶ食道—それを避けられたのは、人並外れた反射神経があってこそだった。

 鋭い目でアンカーを目視しながら、アキリは跳んだ。

 第二の口が彼女を宙でとらえた。歯と口内の棘が鎧をかすめた。アキリは驚き、そして恐怖に叫び、そしてアンカーを見失った。

 第二の口は彼女を横に、宙へと放り投げた。

 アキリはもはや飛んでいなかった。

 落ちていた。


分かたれし水流、ヴェラゾール》 アート:Daarken

 ヴェラゾール。ザレスはその海蛇の名を知っていた。霧からその頭部が出るや否や、隊商のマーフォークは全員が正体を認識した。ヴェラゾール。ウマーラの災い、マゴーシの悪魔、ハリマーの死。マーフォークの家に置かれた、珊瑚でできたヴェラゾールの小像をザレスは思い出した。子供の頃、彼の家族もそうしていた。マーフォークが家を持ち、そしてそれが生きるためだけの場所ではなかった頃のこと。

 ヴェラゾールは伝説であり、神話であり、ある者にとっては神だった。止めることなどできない。川を殺そうとする、海を壊そうとするようなものだ。腕を振り上げて世界を叩いてみろ。そう、それができるのは――

 熱と灰塵の一夜、照らすのは炎と、遥か頭上に爆発する虹色だけ、その一つ一つが一瞬の夜明けのように。

 

――だがそれはザレスではない。アキリでもない、その優雅な身のこなしと技があろうとも。

 だから、ザレスは走った。彼は崖の道を大急ぎで戻り、ヴェラゾールが振るう舌から離れ、目の前にもたつくマーフォーク数人を押しのけた。

「そんなのに構うな!」 ザレスは叫び、雄牛たちを転回させようと半狂乱のマーフォークを引っぱった。「放っとけ! 逃げろ!」

 雄牛たちは狼狽して鳴きわめき、つまずきながら後ずさった。ザレスは壁際に避けてそれらの突進を避ける余裕があったが、マーフォークのひとりはそこまで幸運ではなかった。ザレスは倒れたマーフォークに近づこうとしたが、ヴェラゾールの舌が霧の中から放たれ、熱い太い筋肉が脈打ち、その身体をさらっていった。

 一瞬前にそのマーフォークが倒れていた所から、ザレスは後ずさった。マゴーシは轟き、震え続けた。逃げるのが賢明だが、それができない一つの、何よりも高くそびえる理由があった。

――アキリ。

 彼女は今もどこかにいて、この怪物と戦おうとしている。

 ザレスはこの伝説の海蛇が潜む霧へと顔を向けた。二度と友人を捨てて逃げることはしない、怖れていようとも――この戦いには勝てないかもしれない、それでもアキリの隣で戦う。

 来たる春に咲く花になるために。

 

 慎重とも言えるほどゆっくりと、ヴェラゾールは滝のもやから頭を突き出した。その口先が、幾つもの伝説や怪物と戦い、傷つき、だが飲み込んできた武装船の竜骨のように水を分断した。ザレスのナイフは、彼自身の大きさでは危険だが、ヴェラゾールに対しては無益な破片だった。それでも彼はそれらを掲げ、そして止まった。どこかで、轟く水音を通して、彼は骨まで凍みるような音を聞いた。恐ろしい音、どんな海の深みや吼える風よりも冷たい音。

 それはアキリの悲鳴だった。


 アキリの初めての落下は、未加工の羊毛が詰まった柔らかなマットレスへの短いものだった。それは意図的な落下だった。綱投げの最初の訓練の一つ、落ちるというのはどういうものかを学ぶためのもの。

 二度目の落下はタジームの遥か北方、綱投げの訓練中でのことだった。浅い峡谷の両脇に堅固なアンカーが並び、谷には無数の小川が注ぐ湖のように、静かで深い水が満たされていた。そこでアキリはいかにして落下の恐怖を抑え、やがて無視することを学んだ。落下の「頂点」で貴重な瞬間を無駄にしないためだった。その高さでアンカーが抜けたなら、綱が切れたなら、投擲が外れたなら、身を守るための時間はほんの一瞬だけ。綱投げは恐怖でその時間を無駄にしないことを学んだ。

 三度目の落下は――その遥かな谷で耐えてきた数百回は数えない――初めての、本当の落下だった。「防壁」の絶壁、高さ百フィートにて手強い略奪者の一団を追っていた時だった。彼女が迫ろうとした時、背負っていた帆凧が「防壁」の強烈な上昇気流に巻き込まれ、留め金が割れ、アキリは宙に放り出された。この日以来、彼女は帆凧を背負わなくなった。そう、確かに帆凧が自分を救ってくれた。制御を回復した後、それを用いて安全に地面へと滑空できた。だが、そもそも安全を奪ったのも帆凧だった。

 四度目の落下が、これだった。

 アキリは焦らなかった(焦ったが、それを抑え、何十年もの訓練と深い経験で押し殺した)。

 彼女は一番近くのものを見た(マゴーシの隣、濡れて霧に覆われた階段の道。その道と滝の水柱から出入りする海蛇の滑る身体。引っかける場所はあまり多くない)。

 そして鉤を投げた(二十フィート? 三十? いずれにせよ遠くへ)。

 それは引っかかり、アキリは続くスイングに入ると、隊商と海蛇の身体の遥か下の道に着地した。それでも峡谷の底からは数百フィートあった。息を切らしながら、それでも洗練された動きで彼女は綱を解いて後退した。素早く確認したところ骨は折れておらず、だが両脚は切り傷と、海蛇の口中で刺さった棘で覆われていた。苦痛を無視し、彼女は棘を引き抜いて投げ捨てた。歩くことはできる。傷の手当てをしたら、階段を登って――

 空気が変化した。着地した時は涼しかったのが、不意に熱くなり、悪臭が満ちた。

 手当てをしながら、アキリは顔を上げた。

 海蛇の第一の頭がゆっくりと下げられ、アキリを影の中に落とした。彼女はナイフに手を伸ばしたが、それは落下の中で失ってしまっていた。

 何もできず、アキリは凍り付いた。

 大口がゆっくりと開かれた。


 ザレスは道の縁に急停止し、ぎりぎりまで身をのり出し、アキリの姿を探した。そして見たものに思わず口から悪態がこぼれ、それは崖の強風にかき消された。

 ヴェラゾールはアキリを追い詰めていた。彼女は綱を用いて四十フィート下に着地し、だが巨大な海蛇、その大きい方の頭が彼女の直上にあった。巨体が宙にむき出しにされ、波打っていた。更に悪いことに、ヴェラゾールの第二の頭は自分たちを狙っていた。それは小型だがザレスから見れば怪物に変わりなかった。

 ザレスは後ずさった。畜生。隊商のために時間は稼いだが、ヴェラゾールは満腹になるまで攻撃を止めはしないだろう。ひとりでは、この伝説の海蛇に対抗する手段はない。アキリと一緒になら、対抗はできなくとも、少なくとも生き延びられるかもしれない。

 あれの気を散らす。ヴェラゾールを攪乱する、そうすれば逃げられるかもしれない。雄牛の死体がひとつ、丁度良く近くにあった。

 ザレスは再び罵り、歩き、恐ろしい作戦が形を成してまたも罵った。彼はナイフを鞘に叩き入れ、固定し、両手を叩いた。

「お前たち」 彼はマーフォークの一団へ呼びかけた。「小さい方の頭が来る。手伝ってくれ。あれの気を散らして逃げるぞ」彼は叫び、雄牛の死体を指さした。

 彼らは躊躇したが、ザレスに守られつつ、急ぎひとつとなって協力した。かなりの苦労とともに、彼らは雄牛の屍を道の縁へと押し出した。それはぐらつき、縁を乗り越え、ヴェラゾールの第一の頭に当たった。そして跳ね返ると長い、とても長い落下を続けた。第一の頭が金切り声を上げ、後退し、彼らをまっすぐに見上げた。

 ザレスは大慌てで後ずさり、どうにか背筋を伸ばして立った。マーフォークたちは不安な様子で話していたが、叫びが上がり、そしてヴェラゾールの第一の頭が下から現れると悲鳴が上がった。ぎざぎざの口が大きく開かれ、赤熱した息を吐き、ザレスはヴェラゾールの内にゼンディカーの怒りを見た。世界の化身、だがそこに封じられていたおぞましいものによって歪んでしまった。黒く光のない瞳はあの生気のない、常軌を逸したエルドラージを――ザレスの種族がかつて神々と呼んだ恐怖の存在を――そして乱動を映していた。牢獄と囚人、その両方が互いによって取り返せないほどに汚されたのだ。今、彼がそれに対峙する番だった、そして自分がやるべきことはわかっていた。

 ザレスは呼吸を整え、じっと身構えた。周りのマーフォークたちは半狂乱に逃げ出そうとしていた。ザレスは騒ぎの中で視界を大海蛇の動きに保った。身構え、待った。

 ヴェラゾールがのけぞり、頭を突っ込んだ。

 ザレスは海蛇に向かって駆けた――二歩、あるいは三歩、目の前にいたマーフォークの商人を押しのけ――そして跳んだ。ヴェラゾールの開いた口はザレスの跳躍を挟むようにこすり、棘が衣服に引っかかりかけたが、彼を捕らえることはできなかった。止めることはできなかった。

 ザレスは宙へと飛んだ。それは彼の、初めての本当の落下だった。


 海蛇が上の道に迫る様子を、アキリは下から見つめていた。海蛇の攻撃に崖全体が震え、砕けた岩と塵が塊となって舞い上がり、彼女は叫んだ。マーフォークやその破片が岩や階段の欠片とともに落ち、雄牛の死骸や珊瑚兜へ向かうはずの交易品が宙に舞い、アキリはその様子を恐怖とともに見つめていた。

 その姿を見て、短く途切れる叫びが漏れた。

 ザレスが、落下していた。

 彼は無言でアキリの場所を通過していった。目を閉じ、装具も綱も持っていなかった。アキリはつまずくように前へ進み、頭上で海蛇が哀れな隊商を飲み込む様を無視し、鉤と綱を手に飛び降りた。

 彼女は落ち、ザレスが伸ばした手を掴んで彼を引き寄せた。その直後に彼女が投げた鉤がアンカーを掴み、二人は息をのむ衝撃と共に止まった。

 二人は揺れ、空気を求めてあえいだ。アキリは痛みにうめき、ザレスは黙っていた。頭上のどこかでは恐怖の暴食が続き、だがその遥か下のこの場所では、二人だけだった。海蛇の身体すら見えなかった。底までの距離はわからず、マゴーシの轟きが全てを包み込んでいた。


 しばらくして、アキリはザレスが自分に話しかけていると気づいた。全てをかき消すマゴーシの轟音に、その言葉は聞き取れなかった。彼は再び叫んだが、聞こえなかった。やがて、彼はアキリの耳へと唇を寄せ、今一度口に出した。

「こうするしかなかった」

 そしてアキリも、彼は正しいとわかっていた。憤慨していたが、ザレスの言う通りだった。彼の推論が今日の悲劇を始め、終わらせたのだとしても。ザレスに選択肢はなく、彼女にもなかった。どちらにもなかったのだ。留まっていれば海蛇は自分たちだけでなく、逃げなかった者全員を殺していただろう。ザレスは彼女を行動させ、彼を救わせた。そしてそうしたことで、彼女の不面目は少し和らいでいた。少なくとも友は生きている。少なくとも、自分たちはまだ戦える。

 大丈夫、そうザレスに告げたかった。正しいことをしたと、だが告げられなかった。正しいと思われる選択肢などなかった。冷酷な計算以上の余地はなかった。ザレスの選択は、自分たちの奮闘は続くことを意味した。だが彼の選択は辛い選択であり、自身が破滅させた者の魂を背負っていくことになる。アキリは黙ったまま、すすり泣く友を抱きしめていた。「戦乱」が明けた朝と同じように。同じ二人が、また、二人だけが生き残った。

「他にできることはなかったのです」 アキリはザレスと、自らにも向けて囁いた。この瞬間の残酷な真実。ゼンディカーにおいて、目の前に突きつけられる選択肢はどれも冷酷なもの。その選択肢を変えるには、世界を変える他にないのだろう。

 少しの時間が経ち、風が、霧と熱と大蛇ヴェラゾールを運び去っていった。

 アキリとザレスはマゴーシの底へと辿り着いた。二人は一日待ったが、誰も来ることはなかった。

 二人は珊瑚兜には立ち寄らず、海門へと戻っていった。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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