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MAGIC STORY
ゼンディカーの夜明け
サイドストーリー第1話:赤の経路
2020年9月4日
備考:これは2部に分かれた、先に続く物語の第1回です。
タジームの大陸、ウマーラ川の深い峡谷の中を、二人組だけが鉤と綱を用いて飛んでいた。その二人、戦慣れしたコーと長身でしなやかなマーフォークが動きを止めるのは、振り子のようなスイング移動の合間だけだった。無重力状態の一瞬、それはまるで世界の全てが二人を中心に回っているように。ここゼンディカーでは、それもありうるのだ。
遠くハリマーの岸辺、その荒れ狂う海に確固として立つ彼らの家、海門。そこから何日もかけてマゴーシの上陸場へと辿り着き、それを最後の休息地としてこの数日間、二人はほとんどの時間を旅に費やしていた。とある落ちた面晶体の噂を二人は追っていた――忘れられて久しい世界のアーティファクトを。
自然の法則をものともせずに綱と鉤で跳ぶことは、ひとつの不安を煽るとともに別の不安を隠してくれる。一瞬の不注意で眼下の荒れ狂う川へと落ちる、一方で深遠で難解な世界の真実は後回しにされる。
《清水の小道》 アート:Daarken |
アキリの先導用の鉤先が使い込まれたアンカーに噛み合い、綱が張りつめ、決して落ちることはないという自信と共に彼女は飛んだ。スイングの最下点にて、世界の全ては音と色の大洪水と化した。轟く川は白と翠緑、真紅と琥珀の切り立った崖は両脇にぼやけ、コーの綱の響きが空気を切った。アキリにとって、飛ぶというのはただ掴まっていることを意味した。
アキリと仲間のザレスはウマーラ峡谷を進んでいた。ウマーラ川が数千年をかけて削った、長く堅固でざらつく岩の谷。切り立った崖はその縁から川まで何百フィートも落ち込んでおり、峡谷の壁面には自然と人工のアンカーポイントが満ち、急ぎたい綱投げのためにそれらの中でも最良のものは鮮やかな色に塗られていた。峡谷の上から吹き下ろす猛烈な風は、ハリマー湾へと水運で急ぎたいのであれば理想的だった。このとてつもない峡谷は、ゼンディカー全土でも数少ない安定した場所。アキリのような手練れにとっては、この峡谷を進むのは歩くように簡単なことだった。
スイングしながら綱を引き、アキリはその勢いに乗って身体を前へ、上へと進めた。手首を軽く鳴らして彼女は離れ、飛んだ。飛行と落下の狭間、無重力の一瞬は身体を休め、息をつく大切な瞬間。アキリはその両方の後、次のアンカーを目視し、鉤を投げると落下を始めた。
些細なこと。ありがたくない瞬間。そこには常に恐怖という古い友がいた。鉤を外すか(ありえない)、大地が壊れるか(大いにありえるが、この峡谷を構成する岩を見るにありそうもない)、そうすればアキリは飛べず、墜落し、終わる。あるコーはこのウマーラに呑まれた。またあるコーはゼンディカーが自分たちをどう考えているかを失念していた。こういった場所を渡るために生まれてきたような者たちですら、時にそうなる。
アキリの投げた鉤は引っかかり、アンカーを噛み、留まった。その衝撃が綱を通して響いた。腕へ、心臓へ、そして怖れることなく彼女はスイングした。この動きは失敗できない――飛ぶのだ。
背後からの叫びで、アキリは思い出した。誰もが落ち着いてこの動きができるわけではないのだ。
昔からの友人であり仲間のザレスは高く飛ぶたびに叫び、怒鳴り、鉤がアンカーにはまれば喜び、彼女をけしかけた。
「アキリ!」 ザレスが背後で叫んだ。「赤だ! 赤の経路!」
赤の経路は険しいものの、ウマーラ峡谷を素早く登れる経路だった。アキリは熟知していた――「戦乱」の頃に彼女自身がこの経路を設置したのだ。手練れの綱投げ仲間たちのために偵察し、作り上げた。当時、それは峡谷の高所をうろつく飢えた獣やエルドラージの落とし子を凌ぐためのものだった。今や、綱投げたちは腕試しや誇示のために赤の経路を進む。良い変化だった。
数度揺れて勢いをつけ、準備は整った。次のスイングの最高点でアキリは綱を掴み、宙で身体をよじってザレスを振り返った。風に白髪が顔へと打ち付けた。
後方で飛びながら、ザレスは今も痩せたマーフォークの泥棒に見えた。何年も前に彼女の鉤を盗もうとしたザレスが、今や少し大人びた鱗になり、彼自身が鉤を投げている。その子供らしさはほぼ無くなったが、決して全て失われてはいなかった。
「続きなさい!」 アキリは旧友へと叫んだ。彼女は落ち、身体をよじり、二本の鉤を投げた――赤の経路は両の崖にアンカーがあり、次の動きのために彼女は両腕の力を必要とした。ザレスはその動きについて来られると信じていた、足並みは遅くとも。
そう、常に恐怖はある。けれどこの解放感たるや!
アキリとザレスの上機嫌な叫びがウマーラ峡谷にこだました。先には危険が待ち受けている――ゼンディカーでは当たり前のこと、落下した面晶体の噂を追って海門を旅立った自分たちにとっては特に――だが今、それは遥か彼方のように思えた。
揃って、ザレスとアキリは飛んだ。
《恐れなき探査者、アキリ》 アート:Ekaterina Burmak |
夕方遅く、アキリとザレスは峡谷の高いふちで夜営した。物憂げな、橙に焼けた太陽が茹でた卵黄のように地平線に広がり、眼下のウマーラ川の音は穏やかに、途切れず響いていた。峡谷上の平原は地平線まで伸び、遥か北に尖ってそびえる山脈が分断してはいるものの、そこで低い丘陵へと変わり、やがて荒廃した暗き防壁へと至る。山の根元は地平線上に浮いていた。まるで誰かが岩と砂を両手で掴んで宙へ投げ、土の雨が降る途中で凍らせたかのように。
あながち外れではないかもしれない、アキリはそう思った。
アキリは吹きさらしの低木の幹に背を預けて座り、疲労した腕に綱投げの軟膏を塗っていた。ザレスは少し離れて立ち、夕日を見つめていた。沈む光球を前に彼の姿は暗い輪郭となって、長く鋭いその影はくっきりと伸びていた。
ザレスと再度旅に出ることは、予期せぬ形で彼女を揺さぶっていた。海門への彼の帰還は嬉しく、だが重苦しい事実を思い出させた。タジームだけでなく、ゼンディカー全体で何が行われてきたかを。世界の間を渡り、しばし輝きをその世界に当て、跡には破壊を残して去る――専らそういった行動に身を捧げる者たちがいるということを。
陽は沈み、気温は下がりつつあった。ウラモグの下の海門、古の鎖から逃れた獣の影の中、その寒気をアキリは思い出した。
アキリは震えた。あれは地面の下にどれほど長く繋がれていたのだろう? 牢獄とされたこの世界に、何がそれを投獄したのだろう? そしてこのゼンディカーを、世界を喰らうものの牢獄にしたのは誰なのだろう?
圧倒的な怒りが弾けるのを、アキリはかろうじて抑えた。だからこそ。海門がある。ムラーサへ登る。だからこそ今、こうしている――忘れてはいけない!
忘れてはいけないことばかりの人生は、ウマーラの赤の経路のように消耗する。アキリは緊張を解いた。深呼吸をしよう。湿気はあるが、気持ちのいい夕暮れだった。空は澄み、だがエメリアの面晶体の欠片がひとつ、そこから流れ落ちる滝のヴェールが見えるほどに低く降りていて、きらめく飛沫が宙にどこまでも広がっていた。小さな緑の植生がその下に縮こまっていた、草原の中のオアシス。鳥たちが面晶体の周囲を舞い、突き刺すような鳴き声を上げるとそれはウマーラ川の轟きの中にかろうじて届いた。牢獄のゼンディカー、廃墟のゼンディカー。傷ついた世界ゼンディカー、それでもなお美しい。
「アキリ」 ザレスが彼女へと呼びかけた。「俺たちが追ってるものってさ」
「例の面晶体ですか?」
「なんで落ちたんだと思う?」
「考えられるとしたら」 アキリは空を、エメリアを見上げた。「単純に落ちた、ですね」
ザレスはうめき声を上げ、アキリの視線を追った。「そういうふうになってるものが、理由もなく落ちるわけがない」
「確かにそうですね」
海門の学者たちは面晶体の性質と、それが宙に浮き続ける理由について言葉を濁していた。彼らは望遠鏡を手に座し、それらの小さな変動と動きを地図に落とし、探検家を雇い――幾つかはアキリも案内した――エメリアへ昇る経路を図にし、階層や空標の命名を議論した。だが面晶体が何故そこに留まっているのか、もしくは何故落ちるのかを彼らは知っているのだろうか? 知らないのだ。それらの機能や、製作者を知らないのと同じように。
アキリはそういった学術的な怖れとは無縁だった。海門の図書館や学問所は彼女にとっても有用だったが、それは探検協会のレインジャーや綱投げに食料と水を無料で提供してくれるからに過ぎなかった。不思議だと思っている? もちろん。怖い? 怖れている? 突然の死を怖れるほどには。怖れているし、怖れていない。
「そんな仮説を出せるなんて、あなたは自慢の仲間ですよ」とアキリ。彼女は立ち上がり、綱投げの軟膏をザレスへと放り投げた。彼はそれを受け取った。「あなたが海門へ戻ってきた時、面晶体の研究をしている学者に紹介もできたのですがね。あの人たちはいい書物や標本を間違いなく持っているでしょうから。売りさばいたならいい値段になるような」 アキリは陽気に、穏やかに言った。
ザレスは声をあげて笑った。「あのなあ。そうとは聞くけど」
アキリは彼を信じていた。そのようなザレスはもういない。海門とその探検協会に戻ってきた今のザレスは以前と違う人物であり、今は違う時代だった。
そう、彼女はそれを願った。
夜営の夕食で――野生の玉葱とぶつ切りの芋、燻製肉と近くで摘み取った香草の濃厚なシチューで、アキリとザレスは昼間の疲労から回復した。
「赤の経路をよくついて来られましたね」アキリはザレスに言った。彼はふつふつと泡立つシチューをかき混ぜていた。「ですが後方の鉤を外すのがまだ上手くありませんね。明日は緑の道を行きましょう、あなたが練習できるように」
ザレスは頷いた。彼は味見をし、少しの塩を煮汁へと加えた。「肩がさ。投げる練習の最中に転んで痛めた」 彼は肩を回してみせ、その動きが確かに限られているのがアキリにもわかった。大袈裟にしているのでなければ。「そうでなきゃ赤い道の最速記録を取りに行くんだけどな」 ザレスは微笑んで言った。
アキリはそうは思わなかったが、口にも出さなかった。代わりに、彼女はザレスの装具に付けられた鉤を指さした。「ありふれた鉤には見えませんが、どこで盗んだのです?」
「スカイクレイブで。オンドゥの地溝を走ってたコーから」 ザレスは装具に手を伸ばし、一つを綱から外した。「勇敢な綱投げがこいつらを遺跡で見つけた」 彼はアキリへとその鉤を投げた。「あそこでしか見つからない。勇敢でないと、もしくはそういう奴と仲良くないと」
アキリはその鉤の裏表を何度も調べた。それは細かく整然とした模様が刻まれていた。曲がりくねって渦巻く迷宮を思い出させるような幾何学的模様。鋭角に直角、菱形に正方形。自然ものではない、だが思い当たるものもない――ありえないひとつを除いて。
「あなたが見つけたのですか?」
「いや。俺は勇敢な奴と仲良かった」 悲しげな笑みが彼によぎった。「まあとにかく。あんたの期待だって裏切らない奴らだ」
「それでも」 アキリは眉をひそめて言った。
「俺の肩のことは俺がわかってる。他人の言うことを全ては信じるな。だろ?」
ザレスの如才ない笑み。アキリはそれをよく知っていた。どこからも陽気さがにじみ出ている。彼は落ちるときもそうなのだろう。
「綺麗ですね」 彼女はその鉤をザレスに投げ返した。「この模様」
ザレスは頷いた。「面晶体の模様に似てるな。オンドゥで沢山見た――地面に埋まってるのも一つあった」彼はその鉤を裏返し、小さな笑みを浮かべた。「ほら」そしてその鉤をアキリへと差し出した。「やるよ。俺にはまだ他のがあるから」
「ありがとう、ザレス」 アキリはその鉤を受け取った。彼女は背負い袋から最もよく使う綱を引き出し、スカイクレイブの鉤をしっかりと取り付けた。ザレスがその荷物をどこで手に入れたのかを尋ねはしなった――事実、知らない方が良いのかもしれない。彼女はその鉤を背負い袋にしまい、蝋を塗った箱から地図を取り出した。そして乾いた地面に地図を広げ、近くの石で四隅を押さえた。
ザレスは夕食を盛り、向かい側に座った。「明日、それとももっと先か?」
「明日です」とアキリ。「この滝まではほんの六マイルです」 彼女は印のつけられた、だが名もなき滝を示した。「件の面晶体があるとされる場所です」
「あいつらを心配する必要はあるのか?」
一瞬、アキリは戸惑った。だが――
皮膚のない巨人が、太陽を遮る。その巨体から海水が滝となって流れ下る。地平線ほどもある腕を広げて、海門が震えて、熱に揺れて――
――何のことかはわかっていた。
「いえ」とアキリ。「あれらはもうこの世界から消え去りました。私たちが勝利したのですから」
ザレスは食べながら地図を眺めていた――だが真に見つめてはいないとアキリは気づいた。それを通して見ている。その視線を彼女は知っていた。その遠さ、見るべきでないものを見た、その――
炎の橙、直ちに腐りゆく肉の悪臭、そして生者の断末魔が夜を汚す。剣は重く、流れる血でべっとりと濡れていた。エルドラージは触れるだけで殺した――あるものは存在そのものすら消した。仲間たちは白い灰へ崩れ、宙に満ちて息を詰まらせた。落とし子の第一波に圧倒されかけたが、どうにか持ちこたえた。そして大気はエネルギーに満ち、次の波が襲いかかってきた。
「戦乱」の間、ザレスがいかに未熟だったかをアキリは覚えていた。彼が海門解放の戦いに入れられたのは、単に槍が持てたからに過ぎず、あまりに多くの兵が死んだために彼女の部隊に割り振られたのだった。ザレスは歳のわりに長身で、他の徴収兵たちは彼をもっと年長だと、経験豊富だと思っていた。
エルドラージが世界に弾け出た時、アキリはザレスよりも幾らか年上に過ぎなかった。祖先と同じように鉤と綱で飛ぶことを覚えた、自分は無敵だと、ゼンディカーは広大な遊び場だと信じる一人のコー。剣の扱いも機敏で、勇士たちの集団の中でも熟達していた。当時既に、アキリの技と優美さはゼンディカー中に知れ渡っており、それは我を忘れる心地だった。血族や愛する者たちが側にいたことで、エルドラージの巨人たちが大地の下から現れたという知らせを最初に聞いた時も、怖れなかった。それも自分がまとう栄光をまた一つ手に入れる機会に過ぎないのではと。彼女と仲間たちは生者の軍に加わり、皆が「神」と呼んだそれに意気揚々と飛び込んだ。
そう思っていた。
「アキリ」 ザレスの声に、アキリは我に返った。「その、悪かった、あんなふうに皆と別れたこと」 柔らかな囁き声。彼がそのような声を出せるとは思ってもみなかった。「俺、平和なのって心地が悪くてさ。だから遠くへ行けば自由になれるって思ったんだ。海門から、カーザとオラーから離れて。何もかもから離れて」――古傷に触れるたび、顎の小さな筋肉が脈打った――「それと君からも」
波音は決して静まらない。人間とコーとマーフォークが、塵を産むエルドラージのドローンやもっと劣等な落とし子と、荒々しく野蛮な戦いを繰り広げる。その頭上で、プレインズウォーカーたちの魔法の轟音と閃きが、もっと恐ろしい獣たちを引き裂く。
怒ってもいいはずだった。ザレスが姿を消した様を、その際に盗んでいったものの件も。カーザがどれほど彼のために泣いたかを。オラーはつい最近、ザレスの逃亡について忌々しく口にしていた。そしてもし戻ってきたなら殺してやると。けれどそれこそがオラーであり、大袈裟に怒っているだけなのだとアキリは知っていた――彼のその愛情と怖れを隠すためなのだと。アキリ自身も彼へと、自らの若い頃へと怒ってもいいはずだった。別れを告げずに去る代償を彼女は辛い思いで学んでいた。だが許せることはひとつの才能なのだとも理解するようになった。ゼンディカー、この傷ついた小さな世界において、受け身のままでは癒えはしない。それは行動を必要とするのだ。世界を作り直すにしても、自らを繕うにしても、治癒というのは仕事だった。許しも同じ。
「ザレス。あなたが戻ってきてくれたこと、私は嬉しいのですよ」
ザレスは顔を上げた。数日前に海門に堂々と戻ってきて以来初めて、彼女はよく知るザレスを見た気がした。
「今まで、俺に帰る場所なんてなかった。いいよな。こう、この先いろいろましになってくような感じで。海門に戻ってわかったんだ、生き延びる以上のことをやってきたんだって」
「生き延びる以上のことをしましたよ」とアキリ。「世界を救ったのです。これからは、皆に力をもたらして、そして生きるのです」
小さく、ザレスは微笑んだ。二人は食事に戻り、静かな時が過ぎた。ウマーラ峡谷の頂上、その木陰に並んで座る二人は、遠くの地平線に太陽が沈んで明かりが消えゆく中、とりとめのない話を続けた。
翌日、二人は面晶体が落下したという地点へ到着した。その滝は――報告では干上がっているとのことだったが――豊かに流れ下っていた。
「ふむ」 膝を曲げて屈み、息を切らしながらザレスは言った。「ここには何もないな」そして立ち上がり、自分たちが昇ってきた岩山の小さな頂を眺めた。椀状で中空の円形をした山頂には見たところ水源のない池があり、それは浅い流れとなって眼下の峡谷へこぼれ出ていた。山頂は霧に覆われ、高所のため日の光は強烈だった。よじれた草が途切れ途切れに生えているだけで、オアシスとはとても言えなかった。完全に場違いな所へと現れた大地の一片だった。
「おーい、アキリ!」ザレスは叫んだ。「そのでかい岩はどこにあるんだ?」
アキリは少し離れて立っていたが、池に近づいていった。そこから流れ出す滝を二人はこの日の大部分を費やして登ってきたのだ。両手と両腕についた白いチョークがなければ、アキリが一日がかりの岩登りを先導してきたばかりだとは誰も思わないだろう。その顔には懸念が浮かんでいた。彼女は両手を腰にやり、周囲を見て、確かめようとしていた。何かの呪文? それとも乱動の影響が長びいていて、面晶体を視界から隠している?
滝に繋がる池は色鮮やかに美しく、この不毛の山頂で唯一の特色あるものだった。眩しい赤、青、緑、黄色の光に彩られながら、澄んで透明な水は息を止めたように静かだった。ザレスの言う通りだとわかるまで、深い調査は何ら必要なかった。
「面晶体は岩ではなく、アーティファクトです」 アキリは言い返した。困難な旅を三日続け、綱を投げ、こうして遂に目的地に登って、何も見つけられないとは。その「でかい岩」ひとつすらも。
「少なくとも、いい池はあったけどな」とザレス。
アキリは唸った。いい池ではあった。「この水は飲まないで」
「毒か?」
「可能性はあります」 アキリは岸の小石を池へ蹴り入れた。それは水へ飛び込み、そして消えた。「むしろ魔法でしょうか」
「その面晶体も同じように?」
「大いにありえますね」
二人は立ちつくし、風に吹かれるまま黙っていた。物悲しい風音だけが響いた。
「で、どうする?」 ザレスが尋ねた。
アキリはザレスを、そしてその先を見た。滝の水飛沫が風に吹かれて舞い、黄金色のもやの向こうにタジームの大地が広がっている。見えるものの先、それが彼女の答えだった。
「海門へ戻ります」
この遠方からは見えずとも、海門の標とその下の都市は想像できた。輝いて、遠く、けれどとても有望な。ハリマー湾の入り口にある、きらめく街。
「やることはまだあります」とアキリ。「戻ります。あの街へ」
ザレスはアキリの隣に並び、東の地平線を見つめた。「少なくとも、いい景色だ。悪いことばっかりってわけじゃない、やることが終わってなくともさ」
そんな彼に、アキリは柔らかな笑みを向けた。「それではザレス。我が家へ帰りましょう」
《ウマーラの空滝》 アート:Jesper Ejsing |
マゴーシの上陸場。海門からは遠く、建物は細長い集会場ひとつと幾つかの小屋だけであっても、ここは遥か内陸における文明の標だった。壮大なマゴーシ滝の頂上、その上陸場はウマーラを行き来する旅人や交易商人には有名な休憩所であり、探検家にとっては共同のベースキャンプ兼経由地となっていた。
上陸場に、マゴーシそのものの低い響きが絶えることはない。マゴーシの滝はこの峡谷でも最大であり、ウマーラ川が切り立った三百フィートの崖を落ちる箇所に形成されていた。古の地殻変動がこの場所で世界を裂き、ひとつの区画を持ち上げてもうひとつを落としたのだ。辛抱強く数世紀をかけ、海門の調査隊は街が解放された後、その絶壁に長く連なるジグザグの道を刻んだ。不安定ながら、その道は峡谷の下から上へ登る比較的安全な道を旅人にもたらした。マゴーシ滝はゼンディカーの歴史を響かせている。とても古い何かが世界へと酷い行いをし、死んだ者もいたが多くは生き延び、何も変わることはなく、ゼンディカー次元は熱病にかかりながら震え、揺れ続ける。そして、世界と人々は適応する。
アキリとザレスは久しぶりに固い椅子に座って過ごし、食事をとった。それらは金を出して買い、もしくは探検から持ち帰った物品と交換したものだった。冷えた飲料すらあった。マーフォークの楽団が、マゴーシの滝の途切れることのない咆哮に負けまいと勇敢に演奏をしていた。何十人ものコー、マーフォーク、人間が上陸場の集会所内を動き回っては、食べ、会話し、物品を値切り合い、旅の中で手に入れた些細な知らせや噂を交換し合った。外ではおとなしい家畜の足音と鳴き声が響いていた――数マイル先にある次の上陸場までの旅に雇える――風がその獣の匂いを運んできた。
「文明、か」 ザレスは溜息をつき、杯を空にした。彼は氷をかみ砕き、手で首筋をさすった。「もう一杯もらってくる」彼はそう言って杯を鳴らした。「それから水浴びだな――鱗を湯で洗う気持ち良さってのを忘れてたよ」 ザレスは共有の財布を掴み、紐を引いて開こうとした。
アキリは食事を終え、顎でその財布を示した。「何か買いたいなら、自分でお金を調達してください。この食事と、帰りの物資を調達して空になりました」 アキリは眉をひそめ、ザレスの背負い袋を見た。それは大きなテーブルの上、彼女の装具の隣に置かれていた。「とにかく、私が把握している限り最後です」
「なあ、ここの奴らの懐を軽くしてこいって言うわけじゃないだろ」
「私たちは海門の代表者と言えます。もはや飢えた徴収兵ではないのですよ」
「その通りだ。アキリ、俺たちは海門の貪欲な構成員だ。学者どもには金が入ってくる。俺たちが俺たちの取り分を手に入れるのも違いはありゃしない」
「学者さんたちはその働きに応じた分担金を受け取ります」 アキリはテーブルからいそいそと自分の道具を回収した。「それは私たちも同じです。さて、それまでは」 アキリは背負い袋に手を入れ、そこから小さな財布を取り出すとザレスの前に投げた。それは重く、黄金らしい音を立てて落ちた。
「まじか」 ザレスは声を出して笑った。彼はその小袋を掴み、開き、中を探り、一枚のコインを取り出した。
「働き口を見つけました。これは報酬の半分、残りは終わってからです」とアキリ。「珊瑚兜へ向かう隊商が明日出発します」
「少なくとも通り道だな」とザレス。彼はその財布からもう数枚のコインを取り出し、握り締めて立った。「朝早くか?」
「それ以外にはないでしょう?」
ザレスは笑った。「わかった。じゃあ俺はもう一杯」 彼は立ち上がった。
「ザレス!」 アキリは彼を呼び止めた。彼女が財布を逆さにすると、小石がその中からあふれ出た。ザレスは笑い、両手を挙げた。
「ばれたか、じゃあ君の分も買ってこようか?」
「それと蒸し団子も少し」とアキリ。「ソースが入っているのを」
ザレスは席を離れ、飲料と食べ物を手に戻ってきた。彼は腰を下ろし、アキリの分を渡すと、二人は食べにかかった。
それから時間が経ち、夜が更けて集会場内は混み合ってきた。アキリとザレスは崖際のデッキに移動し、食事はこれで終わりと、揚げ物と冷えた飲料を空にした。二人は久しぶりの会話を楽しんでいた――実際に久しぶりだったのだ。飲み物があるおかげか、それとも長い旅の後の何気ない雰囲気のためか、だが概して何気ない会話の途中、ザレスはこの夜の時間を終わらせるような質問をアキリへと投げかけた。
「海門へ戻ったらさ」 ザレスはそう切り出した。「何か秘密の任務の話があるんだろ。どこかのスカイクレイブの探検を」ザレスは椅子に背を預けた。「だから俺たちはその面晶体を追ってここまで来た、だろ?」
アキリは否定しなかった。「ムラーサへ。落ちたばかりの面晶体から何か役立つものが発見できればと海門は期待していました。ですが、見つけるべき面晶体は恐らくそこに」
「そのムラーサに何があるんだ? あそこのスカイクレイブは古いし枯れてる」
「わかりません。後援者は十分な資金を出す気でいます、何かがそこにあると踏んで。何かとてつもないものが」
「アキリはそんな奴だったか?」 ザレスが尋ねた。「いい世界になるって予感だけで自分の夢を賭けるとか」
アキリは頷いた。「大金です。誰も直感でこれだけの金額を使ったりはしません。これは賭け――ムラーサで見つけるものが、この世界を直す助けになるという賭けです」
「賭けは俺の領分だ。けど」 ザレスは身体をのり出し、声を落とした。「夜のうちにここを発って、どこか別の土地へ向かうこともできる。君と俺と一緒に、君の技と俺の魅力でさ? 何も求めなくたっていい」
アキリはかぶりを振った。「これは私たちの世界です、その痛みも苦しみも。世界を治すのは私たちの戦いであり、義務であり、生き方なのです。逃げることはできません」
「帰ってこられないかもしれないんだぞ」
「ええ。ずっと同じ戦いをしてきました……長い冬の後に花が咲いても、季節外れの寒波に萎れるものは多く、もしくは妬んだ庭師に刈られてしまう。ですが春は何度も訪れるのです。やってみるのです、どれほどかかろうとも」
「それで何も見つけられなかったら?」
アキリは飲み物を一口飲んだ。
「つまり希望、か、少なくとも。君ならそれを持ち帰れるだろうな。何か夢を見られるものを」
「希望? いいえ」 アキリの返答は冷たくはなかったが、断固としていた。「人は希望から燃えさかる剣を作れはしませんし、その思いを食事用のナイフにできるわけでもありません」 アキリはかぶりを振った。「皆に希望を与えたくなどありません。力を授けたいのです。皆に、ゼンディカーに生きる全ての人々に、痛みから武器を形作る手段をあげたいのです。この先ずっと、それを使って世界を癒すために」
ザレスは何かを企むように背を丸めていたが、再び椅子に寄りかかった。アキリは頑固で、真剣だった。
「さて、満腹になりました」 まとっていた頑固な雰囲気をアキリは自ら解いて言った。彼女は空になった杯と皿を示した。「私はもう寝ます。また明日」
「俺もついて行くからな」 ザレスはそう言い、黙った。
「本当ですか?」
「いてくれって言っただろ。だから行くさ」
アキリはザレスを見つめた。一瞬、そしてそのまましばらく。ザレスが見ているのは栄誉ある強者にして名高い綱投げ、恐れなき探査者のアキリではなかった。海門の暗闇から彼を連れ出してくれた若きコーの役人、名もなきアキリだった。その灰色の肌には死した友人と崩れた大地の灰が塗られていた。火明かりに照らされた両目は恐怖に虚ろで、それでも彼を前へと引っ張った。死んだ男の槍を手に握らせて諭した、触れただけで世界を殺すものと戦わなければいけないと。そうでなければ戦いが終わった時、誰も生き残ってはいないのだと。
「俺も行くよ、アキリ」 ザレスはそう繰り返した。
「よかった」とアキリ。「よかった」立ち去りながら、彼女はそう静かに繰り返した。
夜はとても長く、ザレスは一睡もできなかった。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
Zendikar Rising ゼンディカーの夜明け
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