MAGIC STORY

エルドレインの森

EPISODE 05

第5話 破られた誓約

K. Arsenault Rivera
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2023年8月14日

 

 少年ケランの前に城の廃墟が現れた。彼とルビーはその功績によりポニーの乗騎が贈られたばかりだったが、馬にまたがっても自分が英雄だとは感じなかった。程遠かった。アーデンベイル城を取り囲む、かつては誇らしく広がっていたであろう丘や谷を眺めながら、ケランが感じるのは諦めだけだった。

「覚悟はいいかい?」彼はルビーへと尋ねた。

 彼女も自分のポニーに乗っていた。その名にちなんだ色で飾り、外套を脇腹へとはためかせていた。そのように見せつけているのには理由がある――融けない氷の刃をその生地の下に隠しているのだ。ヒルダは「自分と同じくらい大きな」剣が欲しいというルビーの要求を、馬鹿にするのではなく可愛いと言った。そしてあの氷冠の最後の魔法を用いてルビーに祝福を与えた。ルビーは自慢したいほど喜んだ……だいたいにおいては。

 今は自慢していなかった。ケランのその顔を見たなら、誰が自慢などできるだろうか。「ええ、いいわよ。けれど、もっと話す時間が必要なら――」

「いや。僕たちは正しいことをする。それだけだ」

 アーデンベイル城の門に向かう間、襲ってくる敵はいなかった。不気味な静けさが平原に広がっていた。ケランは嵐の前の静けさだと感じた。人間が察する何時間も前に、家畜たちは一斉に帰ってくる。

 そして破壊された目の前の扉を見ると、それは当然かつ正当であると感じた。嵐の前の静けさと言ったが、その嵐は自分たちなど食らい尽くしてしまいそうで、扉を蝶番から引きちぎっていた。眠りの呪いの中心部は腐敗し、堕落し、木材を食い尽くしていた。その先に歩き回る眠り人たちは、ここまでに旅の間にケランを悩ませてきた悪夢だった。

 ここは救いや休息の場所ではなく、ましてや栄光の場所でもない。

 傷がただれる場所。

 入りたくないとケランは思った。けれど成し遂げるという誓いを立てていた。そして自身の血の中にある何かが、まるで騎士の盾のようにその誓いを断固たるものにしていた。

「眠ってる衛兵の間を通り抜けるのは無理だ」ケランは言った。「傷つけてしまうだけだ」

 ルビーは眉を上げた。「いい考えはあるの?」

 ケランは外套の中に手を入れ、そしてそれを高く掲げた――トロヤンが渡してくれた、二本目の蛙変化の薬。

 ルビーはにやりとした。「ほんと、あなたの考え方は好き。けれど今回はあなたが私に掴まるのよ」

 ルビーの笑顔には、楽しかった頃を思い出させる何かがあった。「わかったよ。穏やかに着地してくれよ」

「約束はできないけどね」

 ケランは二頭の馬をとある杭に繋いだ。餌は二袋分あれば一日もつだろう――それ以上の時間は必要とならないことを彼とルビーは願った。馬たちに簡単な別れを告げると、ケランは城壁の下でルビーと合流した。

 数秒後、ふたりは宙を舞った。ルビーは合図を待つような性格ではなかった。

 ルビーの着陸技術はケランのそれよりも上で、力強い両生類の両足で着地した直後に彼女は人間の姿へと戻っていった。城門を通らずに誰かが入ってくるとはエリエットも予想していなかったに違いない。周囲に眠り人はいなかった。ふたりを監視する閉じた目はなかった。

「よしよし。トロヤンもそう悪くはなかったってことかもね」ルビーは声も足音も抑えていた。「どこへ向かうの?」

 ケランは眉間に皺を寄せて考えた。「僕が魔女だったら、自分用に玉座の間が欲しくなるだろうね」

「ヒルダさんが言っていたわ、エリエットは注目を浴びるのが好きだって」ルビーは頷いた。「きっとそこには沢山の人がいて、魔女にブドウとかを捧げているんでしょうね」

 ケランはその言葉に首をかしげたが、何にせよ最初に見つけた扉を開いた。「何でブドウ?」

「さあ。けどこういうのはいつもブドウなのよ」

 ふたりの前には大口を開けるように廊下が伸びていた。そこは暗く陰鬱、色あせて汚れた幾つもの肖像画が飾られていた。床と壁は石造りのため、中の大気は冷えていた。松明掛けには沢山の松明が差し込まれていたが、点されているものはなかった。光源は扉から差し込む陽光と、床に漂う眠りの呪いが発する光だけだった。

 英雄ふたりは共に、紫色の煙がうねるアーデンベイル城の廊下をたどっていった。無人の寝室、略奪された作戦室、襲撃された武器庫をこっそりと進んだ。静寂の中で耳を澄ましていたため、走り去るネズミの鳴き声がドラゴンの断末魔の叫び声と同じほどに大きく聞こえた。

 そのため、その女性の姿を見るよりも先に足音を聞いたのは当然だった。柔らかい、けれど柔らかすぎるわけでもない――革のブーツが軋む音、靴裏が石にこすれる音、罵るようにつく溜息すらも。

 ケランとルビーは扉の両脇に身を隠した。剣を握り締めながら、まずルビーが覗き込んだ。そして驚いた表情で、ケランにも同じことをするよう身振りで示した。

 ケランはそれが何故かを理解した。うねる呪いの雲に取り囲まれて演説台の前に立つのは、オリンシャーですら知られている女性――ローアン・ケンリス、覇王の長女であるその人がアーデンベイル城へやって来たのだ。

 ケランは笑みを抑えられなかった。ローアンも自分たちと同じ結論に至ったに違いない。自分の幸運が信じられなかった。

 嬉しい知らせがケランの分別を圧倒した。彼は部屋から飛び出し、ルビーは剣を玩具のようにぶら下げたまま続いた。「ローアンさん!」ケランは声をあげ、そして相手が振り返るときまりの悪さに顔を赤くした。彼は咄嗟に続けた。「そ――その、ケンリス様! 呪いに気をつけて――」

「あなたたちは誰? ここで何をしているの?」奇妙だった――ローアンの表情は。

「魔女を倒しに来たんです。ローアン様と同じく」ルビーが言った。「何かの呪文でそこから動けないんですか?」

 ケランはその考えに至っていなかった。ルビーがいてくれるのはありがたい――彼女はいつも素早い判断をしてくれる。何かがローアンをここに縛り付けているに違いない。呪いだろうか。それが彼女の周囲にうねる様子から見るに、きっとそうだ。

「その呪文を破る方法、僕たちが見つけてみせます」ケランが申し出た。ここには大釜も、融けない氷も、見える限り魔法の印もない。本と杖、外れた頁とインク壺だけ。ケランは解決策を求めて辺りを見渡した。「僕とルビーはそういうのすごく得意なんですよ」

「私たちは英雄ですから」ありがたいことにルビーが付け加えた。

 だがローアン・ケンリスは全く笑わず、それどころか助力に感謝すら告げなかった。彼女は演説台に両手をかけ、その指先が稲妻をまとった。

「あなたたちはここを離れた方がいいわ」冷たく平坦な声。

「ああ、つまり自分で解決できるかもしれないってことですか。けれど僕はここにいなきゃいけません、少なくとも」ケランが言った。「この呪いを解くって約束したんです」

「それは外からでもできるわ」ローアンが言った。「あなたたちは来るべきじゃなかった」

 ローアンの声に、ケランの首筋の毛が逆立った。舌が口の中に貼りつき、今一度彼は目の前のページを見た。赤茶色のインク。真実がぎざぎざの手書き文字で記されていた。

『23回目 昔ながらの方法以外では、まだ誰も眠らせることはできていない』

 読んだ内容を理解する時間はなかった。ケランがローアンへと顔を上げると、彼女は弾ける光に身を包んでいた。

 ケランの視界が白く染まった。


『ケラン、ケラン! 起きなさい! 起きないと牢屋の水をかけてあげるわよ! 本気よ!』

『……え?』

 状況を把握するよりも早く、何かがケランの顔面を叩いた――冷たい、とても冷たいものが。ルビーが目の前に立っており、その足元には空のバケツが置かれていた。

「気が付いた?」

 ケランは咳き込んだ。両手首を拘束していた縄はすでに切断されていた。ルビーが氷の剣で切ってくれたのだろう。けれど……?

「ここは何処だ? それにどうやってその剣を取り戻したんだ?」

「周りをよく見なさいよ、英雄くん。ローアン卿が私たち両方を昏倒させた。私が目を覚ました時、あの人は何か夢の魔法をあなたにかけようとしていたの。けれどその時……」

 ケランはうつぶせで床に眠る衛兵を一瞥した。石の階段から彼らの小さな牢へと、金属の衝突音や木のきしみ音が届いていた。

「……騎士団が到着したの。ローアン卿は対処するために出ていって、それで私は剣を取り戻してあなたを起こしたってわけ」

 ケランは立ち上がると身体を拘束していた鎖を頭上に持ち上げ、床に落とした。動きの邪魔にならない小さく短い鎖もあったが、それはそのままでいいだろう。「本当にローアンさんが敵になったの?」

「それがあなたを助けることだって考えていたみたい」ルビーは眉をひそめて言った。「魔法をかけようとしている間、ずっと言い続けていたわ。呪文を唱えるのに成功したなら、自分の行いに感謝するでしょうって」

「それは、すごくいい夢じゃあないな」ケランは息を吐いた。「ローアンさんは上に?」

「魔女も一緒だと思うわ。誰かがローアン卿の名前を叫ぶ声が聞こえたけれど、間違いなく不吉な感じだったから」

「よし、じゃあ向かおうか」


 心の最奥で、ローアン・ケンリスはわかっていた――この夢は長くは続かない。どれほど沢山訓練をしても家族を守れなかったように、どれほど甘い考えでもこの休息を永遠まで伸ばすことはできない。エルドレインを救うための魔法を学ぶ、エリエットと共に過ごす時間は終わる運命にあったのだ。

 とはいえ、数週間以上はあって欲しかった。

 片割れが率いる騎士たちが門を破って突入してくると、ローアンの前腕に火花が散った。エリエットは玉座から離れず、廃墟じゅうの何十という眠り人を操ろうと必死になった。すみれ色の糸がその両手から発せられ、戦士たちの四肢に巻き付いた。ローアンはあの子供たちを眠らせ、彼らの夢を織り上げるので精一杯だというのにエリエットはひとつの軍隊へとそれを行っていた。

 気を散らすべきではないが、利用できるものは何であろうと助けになる。アショクはどこかに用事があると言って王国を離れていた。エリエットに残されているのはローアンだけなのだ、少なくともアショクが戻るまでは。

 騎士の密集隊が扉を破った。彼らを撃退するため、エリエットは玉座の前に二列の眠り人を配置していた。エリエットは夢の魔法の達人かもしれないが、戦術を学んでいたローアンはこれが散々な結果に終わるとわかっていた。この規模の密集隊に対抗するには、二列では足りない。

「エルドレインの覇王の名において命令する、降伏せよ!」前衛に立つ女性が叫んだ。ローアンは訝しんだ。その声には聞き覚えがあった。あの木の腕は? そうだ――眠り人たちの頭上を払う炎が彼女の疑念を裏付けた。イモデーン。あの女性のような愚かな者であれば、何も知らない眠り人を炎で攻撃するのが良いことだと考えるだろう。軽率だ、あの山の時と同じように。

 ローアンは血の中の火花に集中し、それを大きくしていった。そしてそのエネルギーを一本の恐ろしい稲妻に変えてイモデーンの足元に放った。石が砕け、城の床に新たに穿たれたクレーターから煙が上がった。

「エルドレインに覇王はいないわ」ローアンは声を轟かせた。「尻尾を巻いて、王様気取りのあいつのところへ帰りなさい、イモデーン。それともその身体で岩を貫きたい?」

「お前!」イモデーンは叫んだ。「よりによってお前がここで何をしているの?」

「ああ、ローアンちゃん」玉座からエリエットが声をかけた。「私のためにその害獣を遠ざけておいてくれるかしら?」

「ここは通さないわ」ローアンはそう約束した。そして玉座へ続く段に上がると、片割れの姿が見えた。このすべてが今日終わる――何らかの形で。

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アート:Ryan Pancoast

 ウィルは前衛のすぐ後ろで白馬に騎乗し、剣は抜いていた。鎧の肩と腕の部分は霜に覆われていた。騎乗して戦いに参加しているにもかかわらず、兜をかぶるという分別はないらしい。片割れの姿を見るのは……片割れの姿を見るのは、まるで自分の一番嫌いな部分が他の誰かになって、それを見ているかのようだった。

 なお悪いことに彼は眉をひそめ、なお悪いことに不信と心痛に満ちた声で呼びかけた。「ローアン? 一体何をしているんだ?」

 息が詰まった。ウィルにそのような目を向けられ、言葉には表せない痛みがあった。片割れが、自分を怖れているような。今の自分とは別の何かになって欲しいと、ある日目覚めたなら片割れが知るかつての女性に戻ってくれないかと願っているような。彼が知るローアンは死んだといつわかるのだろう?

「王国を救う方法を学んでいるのよ」

「何を言っているんだ。魔女と協力して? 王国に呪いを? 君はそんなことをする人物じゃない」ウィルはそう言った、軍馬の上で目に涙を浮かべるのが、覇王にふさわしい姿だとでも思っているのだろうか。「帰ってきてくれ」

 理解して欲しかった。自分は決して元通りにはならない、そう片割れには理解して欲しかった。痛いほどに。

 けれど理解しないのだろう。

 他にどうすれば良いかわからず、ローアンは騎士たちへと突撃した。彼女の剣は盾を打ち破り、槍を折った。乱戦の只中に血が踊った。今ここで、咲き誇る鋼鉄の花弁に囲まれ、彼女は四肢を動かす以外の思考から解放されていた。受け流す。突き返す。避ける。放つ。

 片割れまで辿り着く頃には、ローアンの鎧は既に血に濡れていた。彼女はウィルとその馬に剣を突きつけ、降りるよう促した。「帰る場所はもうないのよ、ウィル」

 冷静な両目が彼女を見つめた。その足がようやく床に下ろされた時、ウィルの両肩には鎧だけでなく懸念の重みがのしかかっていた。彼は武器を抜かなかった。「それは違う。ヘイゼルとエリックは僕たちを必要として――」

 イモデーンに話すような話し方。それを自分の片割れに向けて。もう一瞬たりとも我慢はできなかった。「お父様もお母様も死んで、王国はばらばらになって、それでもあなたは話をすれば解決するみたいに振舞ってる。そうじゃないの! 話をしたって絶対に解決なんてしないのよ!」

 胸へと荒々しく切りつけられ、遂にウィルも剣を構えざるを得なかった。彼ですら、その力ずくの議論には太刀打ちできず――自らの刃を掲げて受け流した。だがそう役には立たない。ローアンの方が強いのだ。常にローアンの方が。

 容赦のない連続攻撃にさらされ、ウィルは一歩また一歩と後退していった。配下の戦士たちは道をあけて彼を通した。そう命令されているのかそれとも彼女を怖れてか、他の騎士たちはローアンを止めようとはしなかった。

 ローアンを止めたのは、放たれた氷の矢だけだった。攻撃の隙を縫ってウィルが放ったのだ――両足が氷で拘束されていることに、それを動かそうとして彼女は初めて気が付いた。

 ローアンは荒く息をついた。周囲で戦いが荒れ狂う中――騎士と眠り人、友人と友人――ウィルは涙をこらえていた。

「ロー、ごめん」彼はそう言った。「君が必要としている時に、助けてやれなくて」

 そんなことを言って欲しかったのではない。両目の端を突き刺すような感覚があった。胸に痛みがあった。一本の矢が頭上を通過し、背後の眠り人に命中した。ウィルを長く見つめ続けることはできなかった。かと言って、言葉を発することも。ローアンは肩越しにエリエットを振り返った。

 だが見えたのはエリエットだけではなかった。ローアンの気持ちが沈んだ。あの子供たちが牢から抜け出し、更に悪いことに玉座を攻撃していた。赤をまとう少女は自らの倍もある剣をエリエットへと振るい、少年は黄金色の蔓の鞭で戦っていた。

 エリエットは強大な魔女かもしれないが、戦士ではない。子供たちの対処と眠り人の制御を同時に行うことはできない。

 ローアンは再びウィルを見た。彼は眉をひそめていた。「あの魔女を守りたいのか?」

「あの人は私たちの伯母よ。ウィル、この魔法はずっと私たちの血に流れていたのよ」まるで子供のような自らの声にローアンは驚いた。「この力でエルドレインを救えるのよ。誰ももう苦しまないし、誰も死ななくていい。私たちが守ってあげられるのよ」

 しばし、ローアンは彼の表情を哀れみと受け取った。それは人生で最も長い瞬間だった――希望という名の縄が首に巻きつけられ、そして足元の台が蹴り出された。

「もう君のことがわからないよ」

 指先に火花が凝集していった。ローアンは再び前衛へと稲妻を放ち、またひとつ床を穿った。今一度の怒りの波、今一度の失望の波、今一度の心痛の波。何度も何度も、彼女は不実なかつての友人たちを攻撃した。自分がどれほど傷ついているかを知りながら腐るにまかせた者たちに、自分が血を流す様を見ながら傷に塩を塗り込んだ者たちに――力を知らしめてやる。

 怒りとともに舞い上がった塵が晴れると、ようやくローアンは息をついた。

 そしてそこに見たのは、打ち負かされた騎士たちではなく、氷の繭だった。穴だらけでひび割れ、傷つきながらもそれは彼女の猛攻撃に耐えていた。

 手を一振りしてウィルはそれを消し去った。「そんなことは上手くいかないよ」

「分かっていないくせに!」動揺と自暴自棄から、ローアンはこらえきれずにウィルへと突撃した。魔法でできなくとも、剣でなら上手くいく――間違いなく。戦闘でウィルが自分に勝てたことはないのだ。

 彼女は切りつけたが、見覚えのある堅木の手がその剣を受け止めた。イモデーンに突き飛ばされ、ローアンはよろめいた。

「分からないの?」イモデーンは険悪な声で言った。だが武器を失ってもローアンの勢いは止まらなかった。彼女は生身の掌で木の拳を殴りつけた。「彼は王国を再統一しようとしているのよ。今や私ですら理解しているのに」

「それはどうかしら」

 ローアンの首筋に氷が触れ、肺に煙を感じた――どこか美しい彼方へと連れて行かれそうな薄霧。集合した軍勢の前に、黒色のヴェールが凝集してアショクの優雅な姿をとった。

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アート:Raymond Swanland

 ローアンは笑みを抑えられなかった。エリエットはこれほどの人数を一度に制御するのは慣れていないかもしれない、けれどアショクにとっては第二の天性だ。眠り人たちは先程までとは全く異なる優雅さで攻撃し、迫り来る打撃を左右に避け、恐るべき正確さで相手に対処していった。

「友達がいるのはウィルだけじゃないのよ」ローアンはイモデーンへと答えた。

 これに対抗するのは簡単ではない。中央のアショクは眠り人たちに取り囲まれており、眠り人たちは喜んで守りについていた。攻撃するにはこの密集隊を突破しなければならない。

 イモデーンはローアンへと渾身の一撃を放った。ローアンは避ける気はなかった。鼻が砕け、世界が回転し、口の中に金属味が満ちた。近づくことができるならその価値はある。ローアンが知っていて、相手が知らないことがある――騎士たちがアショクに勝利することはできない。エリエットが全員を眠らせるまでの時間を稼ぐだけでいいのだ。

 ローアンはイモデーンの顔面へと剣の柄を叩き込んだ。その騎士の鎧に火花を散らすには、一瞬の集中で事足りた。イモデーンは吼え、板金鎧を引きはがそうともがきながら戦いから後退したが、ローアンが対峙する敵は彼女だけではなかった。少なくとも十人ほどの騎士たちがウィルを守るために集合しており、他は眠り人たちを押し留めていた。

 13対1。

 いい戦力差だ。

 ウィルが言った。「彼らは皆、僕たちの両親が信じたことを信じてここにいる――ひとつのエルドレインだ。自分の望むままに人々を動かすなんて駄目だ!」

「自分にはその力がないからそんなことを言うのよ。交渉事がオーコを止められたの? オリークを止められたの?」

 ウィルの護衛三人が倒れ、彼らの身体はまどろみ眠る人々の山に加わった。他の誰かが切りつけ、ローアンへと今一度の好機をくれた。彼女は突撃し、接敵する寸前に脇へと避けた。そして距離をつめ、相手の騎士の側頭部へと剣の床を叩きつけた。敵が崩れ落ちると彼女の拳を血が覆った。

 あと半分。

 少し離れて、アショクの煙の中に黄金色の閃光が見えた。あの少年が金の鎖のようなものを振り回しているのだ。彼は小柄な身体で眠り人たちの間をすり抜けていた。

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アート:Anna Steinbauer

 心配することはない。アショクに対してひとりの少年――何ができるというのだろう? 間に合わせの鞭が描く金色の弧は派手かもしれないが、それで助かるわけではない。説得もこちらに通じはしない。ローアンはウィルへと注意を戻した。

「ファイレクシア人と話をしていたら、今もお父様とお母様が生きているって思うの、ウィル?」彼女は今一度ウィルへと襲いかかった。

 昔からふたりは実戦形式の訓練に明け暮れ、昔から互いの考えを知っていた。ローアンはウィルのあらゆる芸当を知っており、だがそれはウィルの方も同じだった。そして壁まで後退させられ、彼は必死になっていた。ローアンを取り囲む空気が冷え、ぎりぎりで盾が作り出されるとともに床に氷が張り、彼女はよろめいた。「君にとって力はそんなに重要なのか?」

「重要なのは力だけよ」ローアンはウィルの肘を切りつけ、彼は剣を落とした。一本の槍が彼女へと向かってきたが、眠り人のひとりが身を投げて防いだ。そして反撃で――膝への鎚の一撃――敵もまた倒れた。「わかる? いくらでも連れてきなさいよ、ウィル。問題にもならない。見なさいよ、あなたの軍は眠りに落ちているわ」

 追随者であるウィルは言われた通りにした。そして逃げ場がないと実感する彼をローアンは見つめた。見込みのない氷の矢が一本放たれたが、ローアンはたやすく避けた。

「終わりよ」

 だがその時、ウィルは笑みを浮かべた。「僕も言わせてもらうよ、『それはどうかな?』」

 それは使い古された戦術、だがローアンは引っかかった――彼女は背後を振り返った。

 氷の矢は真の標的に命中していた。アショクの胸に。

 ローアンは今や理解した。あの少年はそもそもアショクを倒そうとはしていなかったのだ。ウィルが攻撃を命中させるまで、アショクをその場に留めておこうとしていたのだ。そしてその矢の威力は高かった。ウィルが一本の矢に自らの多くを込めるというのは、滅多に見られるものではない。

 アショクは苦痛の悲鳴をあげ、その身体に氷が広がっていった。煙がアショクを飲み込み、そしてその姿は消えた。アショクはまだ灯を持っている、よろめく感覚とともに不意にローアンはそう悟った。

 そして煙が晴れると、あの少女がエリエットの喉に刃を押し当てていた。

 ローアンは愕然とした。

 この苦境の中にあって、エリエットは冷静沈着を保っていた。荒廃した玉座の間を横切って、魔女とローアンの目が合った。呪いの糸が一本、ほとんど気付かれることのないそれがふたりを繋いでいた。

『逃げなさい』エリエットはローアンへと告げた。『時は来たなら、また会えるわ』

 ローアンはエリエットに向かって歩いた。『でも、もう誰も失うわけにはいかないの』

『誰も失わないわよ。彼らが私を殺すことはないでしょう。とっても甘いから。今は時を待つのよ』

 糸が切れた。心の奥底でローアンは独りとなり、大切な人に剣先が突きつけられている様を今一度見つめた。

 エリエットの助言に従わなければ、ウィルが自分を確保するだろう。片割れは自分を幽閉するだろう。そして治療師や心優しい愚か者たちが列を成して話をしにやって来るのだろう。自分を理解しようとするために。その間も、エルドレインは分裂したままなのだろう。ウィルはここに様々な旗の騎士たちを集めているが、それでもすべてではない。そして自分が大丈夫なふりをすればやがて許されて、ウィルは覇王の座に就き続け、自分は……

 自分は、いつまでも反逆する女性であり続けるのだろう。もっと悪いことに、自分はいつまでも、片割れが優しく赦す女性であり続けるのだろう。

 違う――もう後戻りはできない。帰る家もない。

 もう一回。一撃を放つだけの力が残っている。

 ローアン・ケンリスは深呼吸をした。ストリクスヘイヴンの時のように、力を自らに通した。光が押し寄せた。

「ローアン!」ウィルが叫んだ。

 彼もまたローアンに手を伸ばした。だが今なお彼女を怖れており、それが問題だった。

 これほどの力を制御するのは困難、それでも彼女は試す必要があった。額に皺を寄せ、歯を食いしばり、ローアンは自らから放出されるエネルギーをより合わせた――そして外ではなく、下へと狙いをつけてすべてを放った。

 巨人が倒れるよりも大きな轟音が響いた。

 ローアンは宙へと舞い上がった。

 上空から見ると、呪いの糸が城を中心として集まり、まるでひとつの蜘蛛の巣のようだった。

 ロイズは何と言っていただろう? 『眠る時間をとらないと、予想もしない時にそれはやって来るよ』

 それはエルドレインにとっても同じ。これまでに、エルドレインはどれほどの打撃を乗り越えてきたのだろう? どれほど多くの夢が砕かれたのだろう? エルドレインが強さを取り戻したいというなら――ひとつになりたいというなら――それらの夢からひとつの新たな夢を築き上げなければ。

 エルドレインは休まなければ。

 それはローアンも同じ。

 いつか、エルドレインのすべてに祝福の眠りをもたらそう。


 戦いが終わり、ケランには解決すべきことが沢山あった。

 覇王ケンリスは彼とルビーを呼び寄せ、こんなに勇敢な子供たちとは初めて会ったと言ってくれた。そしていつでも宮廷に来てくれと、家族のように歓迎すると。だがその間もずっと王の顔は曇ったままで、しばしば地平線を見つめていた。ローアンを探しているのだろうとケランは思った。自分も――もしこの全てを成したのが自分と血を分けた相手だとしたら、同じようにしていただろう。だから、少し上の空なケンリス王を責めることはできなかった。傷ついているに違いないのだから。

 ルビーは兄と一緒であることを条件にその申し出を受け入れた。王は笑みを見せて頷いた。そう、ルビーと彼女の兄、両方の訪問を王は喜ぶだろう。

 今後の計画が話し合われる中、ケランはそっと抜け出した。自分には他にやるべきことがある。ルビーはあらゆる褒美を得るだけの働きをした。氷の剣で魔女に立ち向かうなんて、物語の中で沢山うたわれるような出来事だ。エッジウォールではすぐに赤い外套が品切れになるだろう。ルビーは楽しんでくれればいい。自分がこれからやろうとしている事は、彼女が受けるべき栄光を遠ざけてしまうだけだろうから。

 アーデンベイル城の外で、ケランはフェイの世界へと踏み入った。


 静かな農場が、もっと静かな村のはずれに広がっている。天気と土との戦いしか知らない場所。ここオリンシャーの放牧地や牧草地に英雄の噂は流れていない。

 家族の農場へと続く踏み固められた道を歩くケランの耳に、その静寂は奇妙だった。遠くから聞こえる家畜の鳴き声や薪割りの斧の音をこれほどありがたいと感じたことはなかった。あらゆる物事を経験した後では、静寂はしなびたコートのように思えた。この場所のすべてがそう思えた。

 いじめっ子たちのそばを通ると、彼らはいつものようにケランを睨みつけた。厄介なことに、もうその必要はないとわかっていながらも、ケランは心のどこかで彼らを怖れていた。だが今の自分は強い。ケランは背筋を伸ばして背を高く見せた。通り過ぎ、そして何もされないと確信してようやくケランは息を吐いた。

 最初に出迎えてくれた家族は犬のへクスだった。小奇麗に植えられたカブの列を幾つも跳び越え、涎をたなびかせながら、人懐こい鳴き声をあげてやって来た。へクスが頬を舐めると、ケランは安堵の溜息を小さくついた。どこへ行ってこようとも、自分について何を発見しようとも、へクスは自分のことをわかってくれる。

 へクスを肩に担ぎ上げ、ケランは丘を上っていった。言うまでもなくヘクスは鳴き続け、そのため何かが起こっていると家族が察するまで長くはかからなかった。肩に斧をかつぎ、ロナルドが家の背後から現れた。義父はケランの姿を目にして斧を落とした。「母さん、母さん! 帰ってきた、ケランが帰ってきたぞ!」

 ロナルドはケランへと駆け寄り、ケランは義父の両腕にすっぽりと抱きしめられた。そのため別の腕に抱擁されるまで、母がやって来たことに気付かなかった。農場を振り向くと羊の穏やかな鳴き声が耳に届き、空気にかすかな土の味を感じた。そして母の声、義父の力強い腕――そう、色々あったけれど、ようやく帰ってきたのだ。

 両親は温かくケランを迎え、家に入るよう急かした。母は喜びの涙を流していた。彼女はケランのために作ったというコートを見せた。これに使う糸を紡ぐためにどれほどの時間をかけたのだろう? これほどのものを、自分が帰ってくるまでにどうやって完成させたのだろう? とても深い藍色からまばゆい黄色まで、糸の一本一本が鮮やかで美しかった。金色の場所を見て彼は驚いた――本物の金糸。彩色と素材だけでもひとつの村を困窮させるほど、だがその細部の豪華さはエッジウォールのような都会すらも落ちぶれさせてしまうだろう。全体に刺繍されているのは、オリンシャーを囲むブナやニレの木と、その間でたわむれるヘラジカの群れ。袖口を取り囲むのはサクラソウの花。片方のポケットの下には、澄んだ池の前にひとりの少女が座り、水面に映る自分の姿を見つめていた。そして裏地! そこにはまたもその少女の姿があって、肌に青い筋のある男性を追いかけていた。

 ケランは唖然として口を開けたままでいたが、今一度母に抱き着いた。「すごく綺麗だよ、母さん。けど受け取れないよ、外じゃ着られないよ! 汚れちゃうよ!」

 母は声をあげて笑い、ケランの顔にかかった髪を払った。「優しいのね、ケラン。でも大丈夫、私が魔法をかけたから」

 ケランはコートに視線を戻した。彼は布地に指を押し付けた。まるで楽器の溝のように、それを感じることができるかのように。「本当?」

「そうよ、お母さんは魔女の見習いとして5年を無駄に過ごしたわけじゃないのよ」彼女は笑みとともに言った。「ロナルド、お茶を用意してくれる?」

「勿論だ。だがまずはブラウンさんの所へ貰いに行かないと。グレッチェンが新しいのを手に入れたって聞いた……」

 その言葉も終わらないうちに、義父は自身のコートを着て――ずっと地味なものだ――扉から出ていった。それが閉じられると、ケランは母へと眉を上げてみせた。「何かあったの?」

「賢くなったみたいね?」母はそのコートを見つめた。

 ケランは食卓を隔てて母の向かいに座った。そう賢くなったとは感じていなかったが、何が起こっているのかはわかっていると思った。それでも、母には緊張を解いて欲しかった。「僕に何を話そうと思ってるの?」

「あなたのお父さんと私について」母は言った。「実のお父さんよ。フェイの王様から聞かされたのだろうけど、私と同じことも知っておくべきだと思うの」

 ケランは笑みを浮かべた。彼の心臓も高鳴っていたのだ。「実のところ、王様は何も教えてくれなかったよ」

「そうなの? でもあなたの探求は――」

「王様に言ったんだ、僕は家へ帰りたいって。話は母さんから聞くって。僕がそれにふさわしいって母さんが思った時に」

 沈黙が過ぎ、母の目に涙が浮かんだ。彼女はケランの手を握りしめ、ケランも握り返した。そして心を決め、母は話しはじめた。

「お父さんに出会ったのは、修業時代のことだったわ。森に出てベラドンナを集めていた時、その花畑の中に横たわる男の人を見つけたの。まるでその花に毒なんてないって見せつけるみたいに。その人はこっちに来て隣に座ってくれと言って、私は冗談だと思ったの。けれど、話をしてくれたら私が欲しがってるベラドンナを全部あげるって言ってくれて。その人はフェイだって察したから、私は約束させたわ。話をするだけだって。そして……話をしたの。その人の名前はオーコ、エルドレインにやって来たばかりだって。私が知っているどの王国の生まれでもないんですって。だからこの場所についてもっと知りたい、それも可愛い女の子から教えてもらえるならもっといい、なんて」

 コートの裏地に刺繍された、青い筋のある肌の男性。それが改めてケランの注意をひいた。オーコ。本当の父さん。ベラドンナの花畑の中にいた人。

 夢を見ているかのように、母は溜息をついた。「可愛いなんて言われたのは初めてだったわ。それに私たちが知っている王国の外の世界があるなんて私はすごくわくわくして。だから当然、すごく沢山質問したわ。彼は丁寧に、楽しく答えてくれた。私はお返しにエルドレインの話を沢山してあげた。そんなふうに何時間も花畑に座って、そして……また私たちは会わなきゃいけないって気付いたの」

「別の世界……その名前は教えてくれたの?」

「ええ。でも正直に言うけれど、ずいぶん昔に忘れてしまったのよ」母は続けた。「けれどそれは、フェイが絶対の権威をもって支配する所なんですって。人間がそれに挑戦すればいいって言ったら、とても面白いって返してくれて、タリオン様と直接対決ができないことを彼は嘆いていたわ。若い男の人は誰だってそんな話をするものだし、私たちふたりとも若かったから」

 母は椅子に背を預けた。

「それから数年の間、あの人の声を色々なものから聞いたわ。雄鶏や木、焼き菓子だったこともあった。それはあのベラドンナの花畑で会おうっていう合図。あの人は沢山の姿で私の前に現れて、沢山のことを話してくれた。沢山のものを見せてくれた。お父さんの手助けがなかったら、私は師匠の魔女から絶対に逃げられなかったでしょうね――私は大胆で賢い、あの人はそう思わせてくれたのよ」

「しばらくの間は素敵な日々を過ごしたわ。ふたりで行きたい所へ行って、やろうと思うことを何でもやった。魔女から学んだよりも彼から沢山の魔法を学んだ。彼は大地の秘密を囁いて、私に玉座を約束してくれたわ」

「でもその後で困ったことが起こり始めたの。私は魔女のもとから逃げ出したけれど、街の誰も私と関わりを持ちたがらなかった。一度魔女になったら、永遠に魔女のまま。ことわざの通りよ」

「あなたのお父さんは……それにすごく怒って。男の人が私のことをそこまで気にかけてくれるっていうのは、心のどこかではいいなって思った。あの人と駆け落ちしたかったけれど、連れていくことはできないって言われた。そしてここに留まるのは、彼にとっては苦痛だった。やがて……彼は私を悪く扱った人たちを痛めつけるようになったわ。そうなって、今の関係を続けることはできないって気付いたの。どれほどあの人を愛していたとしても」

「私は女王になる気なんてなかった。辛いことがあったけれど、私は平和を望んだ――けれど彼は、私を不愉快な目に遭わせたこの場所を徹底的に壊したいって願ったのよ」

「三年前、あの人は再びやって来たわ。ある夜に糸を紡いでいたら、私を呼ぶ声が聞こえて。私の中のかつての女の子は会いに行きたがったけれど、そこから成長した女性は、そうすれば失ってしまうものがあるってわかってた。私はあなたと一緒にいる方がずっと幸せよ」

 ケランは口を挟むことなく熱心に聞き、繰り返しそのコートを見つめた。

「もっと教えてくれる?」ケランは尋ねた。「父さんがどんな人だったのか」

 母の笑顔は少しだけ悲しそうだった。「勿論よ。あなたが知りたいことは何でも」


 ケランは眠れなかった。頭が物語ではちきれそうだった。父のとても沢山の顔が彼を見つめ返していた。今までに何度会ったことがあるのだろう、そう訝しんだ。あの人は変身するのが好きだから、もう会っているかもしれない――母はそう言っていた。

 けれどそうなら、どうして自分へと名乗り出てくれないのだろう?

 下手に打たれた蹄鉄が馬の走りを邪魔するように、その疑問はケランを眠らせなかった。痛むようだった。疑問が頭から離れなかった。どうして話しかけてくれないの? 僕は父さんにふさわしくないの?

 それを母に尋ねる勇気はなかった。

 眠れるとは思えず、代わりにケランは外へ歩きに出ようと決めたそうすれば厄介な脳内から疑問が消えるかもしれない。痛みが和らぐかもしれない。新しい立派なコートに身を包み、彼は暗闇と荒野の中へ降りていった。

 かつてはそれらを怖れていたが、今のケランはよく知っていた。自分の血から松の匂いがする限り、森は絶対に裏切らない。

 へクスがついて来ていた。今までの夜とは異なり、この長年の友に言うべきことは思い浮かばなかった。話をしたなら、今より悪くなってしまうような気がした――口を開いても、きっと疑問しか出てこない。そして老犬に疑問をぶつけるべきではない。

 だがヘクスはヘクスなりの方法でケランの力になった。5分と進まないうちに、彼は何かの匂いを察したかのように駆け出した。ケランはその後を追うので精一杯だった。夜の冷たい大気に息が白くなり、肌に月光が踊った。

 枝を抜け、皮膚を刺激するイチイの林を越えたところで、ようやくケランはヘクスに追いついた。ヘクスは一度吠え、指し示すような姿勢をとり、そしてまっすぐに見つめたのは……何かの入り口だろうか?

 そうに違いない――三角形が繋がって奥へ続くようにねじれ、曇った鏡のように、揺れる枝の下で支えもないのに立っていた。タリオンの領域へ繋がる門とは似ても似つかなかった。その向こう側はエルドレインとは全く異なっていた。

 ケランははっとした。トロヤンは別の世界について語ってくれた。母も、実の父が教えてくれたことを言って聞かせてくれた。

 これが、その別の世界へ辿り着く手段だとしたら? これがひとつの試験だとしたら? 父はエルドレインではないどこかにいる。この向こうにいるのだとしたら? どうしてずっと会ってくれなかったのか、尋ねることができるかもしれない。そこで会えるかもしれない。

 ケランは足を踏み出した。

 ちょっと見てくるだけだ。そして来た道を覚えておく。それで大丈夫だろう? 本当に故郷から旅立つのではなく、少しどこかへ出かけるだけ。市場へ行くのと何ら変わりない。

 故郷から旅立つわけじゃない。すぐに戻ってくる。

 ケランはヘクスを撫で、その入り口へと踏み込んだ。

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アート:Volkan Baga

『起きて下さいな。まだすべてが失われたわけではありません。貴女のために戻ってきましたよ』

 冷たく、聞き覚えのある声。エリエットは訝しんだ。再びそれを聞くまで、何故こんなにも時間がかかったのだろう。目を開けると、牢獄が彼女を見つめ返した――そしてアショクも。風などないにもかかわらず、アショクがまとう靄からは煙がたなびいていた。

「どうしてこんなに時間がかかったの?」エリエットは鎖を鳴らしながら立ち上がった。外の衛兵がそれを聞いたとしても、反応はなかった。動きすらなかった。自分を見張るよりもずっと楽しい夢をみていることは疑いない。

「準備をする必要がありましたから」アショクはそう返答した。

「ローアンはどこ? 外で待っているの?」

 アショクは唇をとがらせた。「彼女については、成すべきことの準備ができていません」

 エリエットは眉をひそめた。「あの娘に学ぶ機会を与えれば、間違いなく――」

「好機が私たちを新たな方角へ呼んでいます。ここから遥か遠くです。貴女は多くを学び、そしてお望みであれば戻ってきてあの娘を教育しても構いません。その頃には、貴女は女王の地位にふさわしい多くのしもべを手に入れていることでしょう」

 なるほど。それは確かにいい話だ。ローアンはしばらくひとりでも大丈夫だろう――そして自分たちのために新たな土地を確保できるのでればなおさらだ。エリエットは鎖で繋がれた両手を掲げた。

 アショクは手枷の上に手を伸ばした。「遠くへ行くことになりますよ、エリエット。とても遠くへ」

「牢獄から遠くへ? 素敵な人、それはいいことだわ」

 アショクは笑わなかった。アショクは決して笑わない。

 牢獄を暗闇が覆った。石の床に手枷が落ちた。朝になって衛兵が中を探しても、そこに魔女はいないのだろう。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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