MAGIC STORY

エルドレインの森

EPISODE 03

第3話 二つのもてなし

K. Arsenault Rivera
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2023年8月10日

 

 ローアンへ

 君が元気に過ごしてくれているなら良いのだが。

 そうではないだろうとは分かっている。君は怒って苛立っているのだろう。僕にはわかる。もう何の意味もない。

 君が旅立って以来、毎日君の心配ばかりしている。あの山では自制を失って暴走した――君は助けてくれようとしたのだけれど、君自身を死に追いやりかけた。僕たちがやり合おうとしているものは、ひとりで立ち向かうべきものじゃない。僕たちは家族だ。

 どうか帰って来てほしい。君が傷ついているのはわかっている。けれど一緒になら、きっと何かの方法が見つかるはずだ。

 君の片割れとして

 ウィル

 ローアンはその手紙に一度だけ目を通した。片割れらしい小奇麗な文字が書面から見つめ返していた。君は怒って苛立っているのだろう。僕にはわかる。一緒になら、きっと何かの方法が見つかるはずだ。

 もしウィルが理解しているなら、彼はここにいるはず。そして力になりたいというなら、やはりここにいるはず。だがそうではなく、ローアンはただ独りでウィールドラムの宿屋に座っている。ケンリス家の装いをまとう使者が、返信を受け取るために待っていた。

 ローアンは返信を考えようとした。私が怒っているのは当然でしょう。私たちの世界が崩れ去ろうとしているのに、明確な解決策は何もない。あなたは家に籠ってそれが現れるのを待っているけれど、私は待つのには飽きたということ。なのにどうしてそんなに私を怖がるの?

 使者が近づいてきたが、ローアンの返信はまだ白紙だった。彼女はそれを三つ折りにし、片割れがよこした召使へと手渡した。「これを渡して、そして伝えて。もし本気なら私の所に来なさいって」

 そっけない笑み。頷き。伝令は立ち去った。

 ローアンは飲み物へと再び向き直り、水面に映った自らの顔を見た。あの山でウィルをあんなにも怯えさせた顔。

 彼女は、そう恐ろしいものだとは思えなかった。

 アーデンベイルの残骸が放浪の騎士を出迎えた。丘や谷間には霧のヴェールが漂い、その下に横たわる金属の死体を覆い隠していた。もし足取りを一歩でも誤ったなら、馬から転げ落ちてファイレクシア人の塹壕へと真っ逆さまだろう。

 城へ近づくにつれて、すみれ色のうねりが更に多く見られるようになった――忌まわしき眠り。砕けた城門の前に立つまでには、足元に細心の注意を払わねばならなかった。

 とはいえローアンはそれほど注意はしなかった。

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アート:Magali Villeneuve

 稲妻を一本放つと、オーク材の巨大な門に穴があいた。ローアンはそれをくぐった。木材が燃える匂いが外套にまとわりつき、彼女はすみれ色が満ちる階段を上っていった。

 そして五歩も進まないうちに、騎士たちの姿が見えた。

 立派な騎士たち、だが彼らの鎧には手入れの不足から緑青が浮いていた。全員が、ローアンが最後に見た時そのままに強く逞しい姿をしていた。彼女はその兜を、その鎧の一式を、その騎士たちを知っていた。仲間たちが武器を構えて立っていた。

 何より最悪なのは、全員が忌まわしき眠りに飾り立てられていることだった。見えざる人形遣いの糸のように、それはあらゆる手足や武器から立ちのぼっていた。騎士たち自身は動かないが、その霧が抜け目ない意志を持つかのように彼らを動かしていた。ローアンに弓術を教えた師のひとりが矢を放ち、それはごくわずかに狙いを外れて飛んでいった。

 この戦争はまだ私から何かを奪い続けるのだろうか? ローアンの胸が痛んだ。

「私よ」彼女はそう呼びかけた。「ローよ! 皆、起きて!」

 またも矢が放たれたが、今回ローアンはそれを叩き落とした。胸が詰まるようだった。戦うしかないように思えた。

 剣を構え、階段を駆け上がってローアンは戦闘に突入した。

 寛大な心を持つ野伏のサクソン卿、そして獣使いのジョシュア卿。ふたりはかつて、起きている時は常に共に過ごしていた。そして眠りに囚われた今もそれは同じだった。サクソンは骨の斧を振るい、ローアンは避けねばならなかった。その隙にジョシュアが戦鎚を彼女の脚へと振り下ろした。痛みがローアンの視界を燃え上がらせた。呼び起こしたように、あの頭痛が戻ってきた。

 ローアンはジョシュアから急ぎ離れた。ふたりの足元を狙い、彼女は次なる稲妻を放った。衝撃にふたりは吹き飛ばされ、近くの壁に金属音とともに叩きつけられた。忌まわしき眠りが彼らの四肢から力を奪っていた――それが功を奏した。今のような時に負傷を避ける最良の方法は、動かないことだ。

 ジョシュア卿がローアンにそう語っていた。

 鳴り響くような頭痛と王冠のように重い悲嘆の中、ローアンはまたも放たれた矢を避けた。剣、鎚、鎌、棍棒、あらゆる武器が掲げられて階段を上る彼女に向けられた。かつての仲間たちが、彼女の骨を折るために全力を尽くしていた。ローアンにできる最善の動きは、それらを回避すること――だがそれでは十分でない時もある。一度ならず、彼女は稲妻を放たざるを得なかった。更なる一発ごとに、前の稲妻よりも大きな穴が残された。

 そして更なる一発ごとに、彼女は興奮していった。

 否定したかったが、それが真実だった。ローアンは友人たちを心配しながらも、この新たな力がもたらしてくれた旋律を自分の血が歌っていると気付いた。そして結果的に、更に力を引き出すのが容易になっていた。もう十分だと何度自分に言い聞かせようとも、自制を失ってはいけないとわかっていようとも……

 あまりに簡単すぎた。

 階段を上りきる頃には、騎士たちは彼女の下方で横たわっていた。ローアンはかつて城であった焼け焦げた廃墟の様子を見つめた。

 そしてそこには、更なる数の騎士たちが待ち構えていた。異なる様々な旗の下に彼らは立ち、武器を手にして彼女へと向かってきた。何か月もの間アーデンベイルは無人だったが、この騎士たちは鎧ではなくそれぞれの宮廷の正装をまとっていた。それを見たものは誰であれ魅了されてしまいそうだった。豪奢なすみれ色の絨毯が、揺らめく影のヴェールの先へと伸びていた。

 剣を握り締めてローアンは進み、その手と刃に火花が音を立てた。近づく者は誰であろうと――そう、できるだけ素早く戦いを終わらせるのが良いのではないだろうか? それが慈悲というものではないだろうか?

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アート:Nestor Ossandon Leal

 階段の時と同様、その騎士たちは襲いかかってくるとローアンは予想した。そしてその通りだったが、直接的ではなかった。ローアンへと真正面から突撃するのではなく、彼らは踊りながら迫ってきた。片手にパートナーを抱えている者たちもいた。踊りが下手な者たちですら、アーデンベイル城の廃墟の中を不気味な優雅さで動いた。二人組の踊り手は一瞬だけ手を離してローアンへと切りつけ、そして奇妙な舞踏を再開した。

 ひとりの突進を避けたとき、頭上が無防備になった。矛槍が振るわれた。ローアンは腕を掲げて防ごうとしたが、誰かがその手を掴んで不気味な祝賀のさなかに引き込んだ。何十人という騎士たちが押し寄せた。まどろみが渦巻くひとつの庭園。彼らに身体を触れることなく動くのは不可能だった。剣がローアンの手からもぎ取られ、息が止まった。断固として動かなければ恥をさらす。

 二人一組の踊り手たちが歯車となり、群衆が彼女を動かしていった。剣が迫ってくる。それはわかっていたが、何とか脱出する方法を見つけねばならない。

 ローアンは揺らめく眠りのヴェールに片手を伸ばし――

 ――そして青白い掌が自らのそれに重ねられた。「熱烈なる女王の宮廷へようこそ、ローアン・ケンリス殿」

 不意に、無言の踊りが停止した。そして一斉に騎士たちは膝をついた。

 ローアンのその相手は立ったままでいた。不気味で恐ろしい美の存在、杯のように虚ろなその顔が彼女を見つめていた。両目があるべき場所からは煙が立ち昇っていた。その人物が軽く頭を下げると、その口元に残忍な笑みが浮かんだ。「お待ちしておりましたよ」

 ローアンは習慣的に剣へと手を伸ばし――そして群衆の中で失ったと思い出した。ひざまずく人々の中にそれは見当たらなかった。「あなたはアショクね。聞いたことがあるわ」

 アショクは笑い、尖った歯を見せるだけだった。

「ここで何をしているの?」ここ、とはエルドレインなのかアーデンベイル城なのか、尋ねながらローアンにもわからなかった。

「私は貴女がここに探しにいらした人物の友であり、相談相手なのですよ。その方はこれまで並外れた仕事を行っておりましてね」アショクはローアンの隣を滑るように進み、触れた大気が冷たくなった。そしてアショクが彼女の背後で単純な身振りをすると、騎士のひとりが彼女の剣を取り出した。彼は両掌の上にそれを乗せてローアンへと差し出した。アショクは彼女の肩を掴んだ。「受け取るのです。それこそ貴女が探していたものではありませんか?」

 こんな絵を以前に見たことがあった。父と母が新たな騎士への叙勲を行っていた。ふたりの頭上には王冠があった。あの夢で見た王冠。

 ローアンの首筋の毛が逆立ち、彼女はその剣を受け取った。「皆を解放しなさい」彼女はそう言った――だがこの謎めいた人物へとまだ剣を向けはしなかった。

「それは、本当に貴女が求めるものですか?」

「そうよ。皆私の友人なのよ。あなたに弄ばれる前からずっと苦しんできたわ。眠る人たちを操れるのね。つまり私たちに呪いをかけたのはあなたってこと?」

 アショクの笑みは鋭い歯の列をふたつ見せた。「ヴェールの先に、貴女がたに呪いをかけた方がお待ちですよ。お話をご所望ですか?」

 ローアンは歯を食いしばった。アショクに案内されるのを待たず、彼女は自ら踏み出した。アショクが薄膜のような灰色に触れると、それを晴らしてローアンを迎えた者がいた。

 ヴェールの先には豪奢な饗宴の卓が置かれており、上座には黒をまとう美しい女性が座していた。その女性はローアンへと杯を掲げてみせた――もう片方の手には、半透明の紫色がうねるガラスの林檎が見えた。魔法。「ローアン・ケンリス。ようやく会えて嬉しいしとても光栄よ。母親によく似てるって言われたことはあるかしら?」

 アショクがローアンのために椅子を引いたが、ローアンは無視してまっすぐにその女性へと向かった。「あなたが何者かはともかく、度胸があるのは確かね。母は何の関係もないでしょう」ローアンは頭上に剣を掲げ、そして力強く振り下ろした。そして女性の寸前で止めた。これは力を制御できている証。ローアンが何よりも求めるのは、世界からこの女性を――この呪いを取り除くこと。「ここに私を呼んだのは、たちの悪い冗談を言うためだけ?」

 その女性はローアンを止めようとはせず、立ち上がろうともしなかった。彼女は杯に口をつけた。「可愛いローアン。ここに呼んだのは、あなたの内にある炎が素晴らしいからよ」

 騎士は、戦場で用いられるあらゆる武器に対する心構えを持っている――剣、槍、矢、鎚。持っていないのは――そう、ローアンはそんな訓練を一度も受けていなかった――このような無邪気な率直さに対してだった。剣を手にした手が震えた。「何ですって?」

 女性は笑みを浮かべた。そしてマニキュアを施した指先でローアンの拳に触れ、そっと剣を遠ざけた。「皆、あなたを怖れているのではなくて? 仲間も、人々も、あなたの片割れ君ですらも」

 ローアンは息を呑んだ。「皆のこと、何も知らないくせに」

「でもそれは間違いだ、とは言わないのね」その女性は決して目をそむけなかった――蜂蜜酒のように濃厚な視線。「あなたのお父様の家族は、あなたが変わってしまったと言っている。片割れ君はあなたがそこにいても分からない。あなたはひどい苦痛を抱えているのに、片割れ君がやろうとしているのはあなたを『直す』ことだけ。そうではなくて?」

 ローアンは口を開き、だが何の言葉も発せられなかった。

 立ち上がるその女性をローアンは止めなかった。母が何度もそうしてくれたように、女性はローアンの頬にかかった髪の一筋を払った。「家族に背を向けられるのがどんな気持ちかは知っているわ。けれど私はそんなことはしない」

 どうして……どうしてこんなふうに感じるのだろう? どうしてこの人はそんなふうに見てくるのだろう? 自分で認める以上に、ローアンの息は震えていた。

「あなたは皆を守るためにとても懸命に戦ってきた。あの襲撃以来、あなたは王国や父親の家族に目を配ることだけを考えてきた。二度と誰もあなたを傷つけないように」その女性は再び腰を下ろした。「どうして私があなたをここへ呼んだのかを知りたいのよね。どうして私が忌まわしき眠りを作り出したのかを。あなたと同じく、私も皆を守りたかったのよ。あの侵略者もこんなものには立ち向かえなかった。それが人々にも広まったのは……不運だったけれど、その不幸の中にも私は美しいものを見つけたわ。それが何かを知りたくはないかしら、ローアン・ケンリスちゃん?」

 口の中が渇いていた。今までになく激しい頭痛がした。この女性が自分を死なせたがっているとしたら、間違いなくそうしているだろう。そして、忌まわしき眠りが本当にあの侵略を止めるためのものだったなら……

 母は急ぐよう促した。父は敵の前に立ちはだかり、望みなき最後の抵抗を試みた。

 もし、それを止めることができたとしたら? この女性がそうしたように、侵略者たちを眠らせることができたとしたら?

「そうね」ローアンは頷いた。「知りたいわ」

 香辛料入りのワインのように温かな笑みをその女性は浮かべ、あの異邦人へと向き直った。「アショク、お願いできるかしら?」

 瞬きひとつ、一瞬の暗闇。それ以上のものはなかった。ローアンが再び目を開けると、その女性の隣に両親が立っていた。あの夢の中で見たままの姿の父。晴れやかで誇らしげな母。ローアンは言葉を失い、両親の腕の中へと駆けた。

 だが自らの腕をふたりに回した瞬間、両親は消え去った。

 ローアンはすすり泣いた。それは騎士のものではなく、大人の女性のものでもなく――

「現実みたいでしょう?」女性がそう問いかけた。

 ローアンは自身の手を見つめ、頷くことしかできなかった。両親の体温が、まだ少しだけ残っていた。「あの夢を……送ってきたのはあなたなの?」

「ええ、相談役の助けを借りてね」

「お父様が仰っていたわ、私の血がここで見つかるだろうって」ローアンの声が震えだした。「あなた、私は母親に似てるって言ったわよね。それって、リンデンお母様のことじゃないわよね」

 その女性の微笑みは奇妙にも懐かしかった。その理由にローアンは思い当たった――全く同じように微笑むから。「ええ、そうよ」

「私と片割れを殺した人、私たちの血を飲もうとした人ね」ローアンはそう言った。一語一語が自らを切りつけた。

「私たち姉妹は知恵では知られていないの――知られているのは野心ね。あなたの母親は私たちの中でも一番残酷だったわ。誤解しないで、あなたのお父様が妹を倒してリンデンがあなたたちを救ったのは正当な行為よ。でもねローアン、それであなたの血に流れている魔法が消えるわけじゃないの。あなたはそれを善いことに使えるのよ。私たちの血筋の償いをして、他にはない祝福を王国にもたらすことができるのよ」

 心に怒りがあった。ローアンは既に血に濡れた両手を見つめた。自分自身のその部分を、どれほど長く否定してきたのだろう? あの山を吹き飛ばした力。自分自身を制御することの難しさ。その核にあるのが、魔女の血だったとしたら? そしてこの女性が見せてくれたあの夢は……あれほど幸せな気持ちになったのは、いつ以来だろうか?

「どうして誰も、あなたの存在を教えてくれなかったの?」

 その女性は舌打ちをした。「私たちに倣って欲しくなかったのでしょうね。けれど今となっては大して問題にはならないわ」

 ローアンは息を呑んで耐えていた。内なる嵐はもはや抑えきれないほどだった。

「あなたがここに来るまでに見た全員が――王国で夢を見ている全員が――同じ物事を経験しているのよ。失ったものが何であろうと戻ってきて、愛しいものすべてに取り囲まれて、王国の勝利を祝っている。あらゆる混乱から離れた、絵のように美しい草原。愛する人の膝の上。どこでも望む所にいることができて、そこが居場所なのよ。ずっといるべき場所。心配も、恐怖もない」

「人に必要なのは夢だけじゃないわ」ローアンはかろうじて声に出したが、そうしながらも空ろだと感じた。両親と共に、永遠に夢の中で過ごす機会を与えられたとしたら……この忌まわしい血が、王国全体にそれを与えてあげられるのだろうか?

「そういう人は起きていればいいわ。けれど逃避を求めるなら、ええ、私はそれを与えられる方法を見つけた。彼らの身体は私の意向に仕えるけれど、心は別の所にあるのよ」

 ローアンは呼吸を落ち着かせようとした。「忌まわしき眠りは相手を選んでいなないわ。ひとりひとりに近づいて尋ねたわけではないでしょう。あなたの意向が何であろうと――」

「私の意向はあなたと同じよ、ローアン。王国に平和でいて欲しい。それを導きたいの。力が欲しいのよ」その女性は続けた。「脅威を退ける力を、私自身の未来を確かなものにする力を。この世界には力ほど確実で重要なものはない。力があれば忠誠を得て、強くなれて、立ち塞がるどんな困難にも耐えられるようになる。それを掴み取るには勇気と、敵についての知識が必要よ。それを得たなら、さらに多くのものが貰えるわ。わかってきたんじゃない? それこそが、あなたの片割れ君を誰も尊敬しない理由――そしてあなたを恐れる理由。あなたの考え方は私の妹に本当にそっくり。でも私はあなたの可能性を知っているわ。妹のそばにはいてあげられなかったけれど、あなたのそばにはいてあげられる」

 ローアンは視線を床に落とした――城の最後の改築で、父がタイルを選ぶのを手伝った。その日輪の図案を彼女は気に入っていた。

 人々は両親を尊敬していた。ふたりは優れた戦士で、情け深い心を持ち、自分たちの地位を勝ち取った。

 けれどウィルは何を成し遂げた? 情け深い心は持っている、けれど他がなければ誰も……

 そして人々を幸せにしておくことこそ、自分ができる最も情け深いことなのでは? この女性が――伯母なのだろうか――王国へと成したことは言うまでもない。ここに来るまで、忌まわしき眠りは呪いだと思っていた。けれど今は、祝福かもしれないと。王国はあまりに多くのものを失った。それを完全な姿に留めておくことは正しいことであり、称えるべきことではないだろうか? そして眠っている限り、人々は幸福で健康なままであり続ける。このような眠り人の軍隊があれば……

 王国を一つにまとめることができる。自分たちの生まれという呪いを、美しいものに変えることができる。

「理解したようね?」女性が言った。「私にはそれがわかるわ」

 ローアンはきつく目を閉じた。直すことができる。すべてを直すことができる、そのためにはただ……「その……教えてくれるの?皆をこんなふうに平和のままに、安全なままにしておいてあげる方法を。またプレインズウォークする方法を教えてくれるの?」

「灯は消えましたよ」長い息の音とともに、アショクが言った。「貴女の灯は。そんなプレインズウォーカーは他にも沢山いますがね」

 女性は立ち上がり、歯を見せて笑った。「でも他は喜んで教えてあげるわ。あらゆる統治者には後継者が必要なのよ」彼女もまた、両腕を広げた。「私はエリエット。おかえりなさい、ローアン」

 ローアンはエリエットの肩に頭を預け、この数か月で初めて力を抜いた。彼女は訝しんだ――

 こんなふうに自分を理解してもらったのは、いつ以来だろう?

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アート:Mila Pesic

「必要なのは、下を見ずにいることだけだ」

「言うのは簡単よね、経験者は!」ルビーが叫んだ。登攀の途中で、ルビーはそれが自分の金を借りているかのように茎にしがみついていた。ある意味それは正しい――ピーターは負傷のためこの木を登れなかったが、持ち金をすべて渡してくれた。そのため彼らは案内人を雇うことができたのだ。

 その案内人、トロヤンはふたりよりも先行していた。彼は小牧場ほどもある葉の上に立ち、ケランとルビーが登ってくるのを見つめていた。「それはちょっと違う。私は豆の木を登ったことは一度もないんだ」

「何かに登るのは得意って言ってたじゃないですか!」ケランが叫んだ。空気は薄く、声を出すと肺が痛むほどだった。トロヤンはいかにも豆の木に登るのが得意そうだった――青い肌で颯爽として、力強い緑色と青色をまとい、上着には腕が沢山ある謎めいた生物が描かれていた。彼が掲げる看板には「熟達の流浪人にして冒険家」とすら記されていた。だからこそ雇ったというのに! そう、そして豆の木を登る方法を知っているかと尋ねた時の返答は、とても自信に満ち溢れていた。

「そうだとも。かつては沢山の尖塔を登ったし、すべての競争に勝ってきた。豆の木は楽しい気分転換だ」

 ケランは顔をしかめた。両腕は痛み、肩は疲労し、呼吸は次第に困難になっていた。だがトロヤンはどういうわけか、自分たちよりも高所にいるというのに何ともないようだった。「けど……僕たちは……助けて、もらうために、雇ったんですよ!」

「そうよ」ルビーが言った。「仕事をしなさいよ!」

 トロヤンは溜息をついた。「わかった、わかった。それはもっともだ」彼は葉のへりに腰かけ、重い背負い袋を膝の上に下ろすと油のような滑らかな液体の入った薬瓶を二本取り出した。その栓は球根のようないぼに覆われていた。「いざという時のために取っておいたんだよ。何せこのあたりでは入手困難なんでね。けれど君たちは太っ腹に支払ってくれているから……」

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アート:Lucas Graciano

「得意げに言わないでくれる?」ルビーが文句を言った。

「二本は出せるだろう。けれどまずはここにたどり着いてくれ」トロヤンはそう言い終えた。

 ルビーはうめき声をあげ、ケランもそれを繰り返した。英雄になるというのは思ったほどいいことじゃない。けれどトロヤンの薬が何をするものなのか、興味あるのは確かだった。

 その興味にケランは全力を注いだ。筋肉が焼けるような15分間の後、彼は葉の上に立った。トロヤンは親切にも手を貸してくれた。そして彼はケランへと薬瓶を投げてよこした。栓を抜くと泡が浮かび上がってケランの皮膚についた。そのひとつが鼻の頭に弾けると、彼は沼地の水の匂いを感じ、喉がかすかにざわめくのを感じた。草を食むのを羊が我慢できるわけがないが、今のケランはその羊よりも我慢できなかった。喉が渇いていた彼は即座にそれを飲み干した。

 最初に変化したのは舌だった。小さな痛みが伸びる感覚に変化し、やがて騎士が旗を広げるように口から飛び出した。続いて皮膚が湿り気を帯びて滑らかになり、両脚に力が溜まるように感じた。口を開くと、発せられるのは水っぽい鳴き声だけだった。ケランはくすりと笑った。

「実にいいだろう? 心配はいらない、一時的なものだ」トロヤンは自分たちの上、開けた空を示した。「さあ行け。跳ぶんだ。着地の時は気をつけろよ」

 ルビーの手が葉のへりにかかり、ケランはそれを掴んで引き上げた。今や丸く膨れた彼の両目と丸まった舌を見て、ルビーは絶句した。「あなた、私の友達に何をしたの?」彼女はトロヤンにそう尋ねた。

「心配いらないよ、ルビー。僕は大丈夫だ」ケランは微笑みでその言葉を強調した。「これを飲めば、きっと上まで跳んで行けると思うよ」

 ルビーはケランとトロヤンの両方を睨みつけた。「あなたって、ほんと色んなことを信じろって言うわね」

 ケランはもう一本の薬瓶を掲げた。「カエルっぽくなれる薬さ。これに関してはこの人を信じていいんじゃないかな」

「ここから上に行きたいなら、跳ぶ必要があるからな」トロヤンが割って入った。

 ルビーは溜息をついた。彼女は薬瓶を一瞥し、かぶりを振った。「ケラン、私はあなたに掴まらせてもらうわ。その薬がそんな貴重なものなら、取っておいた方がいいと思うの。背中向けてくれる?」

 ケランは言われた通りにした。「これってどこで手に入れたんです? 魔女に作ってもらったんですか?」ルビーが背中に登ると彼は言葉を切った。「待って。あなたはフェイじゃないですよね?」

 トロヤンは笑い声をあげた。「違うとも。全く違うよ。もう少し支払ってくれたなら、どこで手に入れたかを明かしてやってもいいかもな」

「けち」ルビーが呟いた。

「聞こえているよ」

 ケランは声をあげて笑った。これほど高い所にいるというのに、下を見ても怖くはなかった。こんな気分の時は怖くなどない。稲妻の恵みを受けたような、それとも目に見えない何かの仕組みからか、彼は自分が生きていると感じた。こんなに好意的な人たちに囲まれるのはいつ以来だろう? それも、家族以外で。

「いいか?」彼は尋ねた。

「いいわ」

 オリンシャーの農場育ちの少年ケランは、空へ跳んだ――そして空は身を低くして彼を迎えた。泡立つ沼の水が足から噴き出して彼を高く、更に高くへと進ませた。雲を突き抜けたところで、自らが発したカエルの鳴き声が耳に届いた。雲の先にあるのは?

 月光に照らされた城が待っていた。

 地面が近いなら、そこに向かって飛んでいくのは然程怖くない。ケランは少し慌てただけで着地することができた。彼は顔面から突っ込んだものの、ルビーは無傷だった。冷徹にそびえ立つ城の建築に見惚れながら、彼女はケランへと手を貸した。「本当にやって来たってこと? ストームケルドに」

「おっきいなあ」その大きさに、ケランは口をぽかんと開けて唖然とするばかりだった。巨人は大きいもの、けれどどれほど大きいかを何らかの形で実感したのは初めてだった。巨大な扉は、そのひとつひとつが人間にとっての塔ほどもあった。「見ろよ、あの扉の下の隙間から歩いて入れそうだ」

「人間の訪問者は多くないに違いないわね」ルビーが言った。「巨人にとって私たちはハツカネズミみたいなものよ。食べ物をぜんぶ盗みにやって来る」

「僕たちを捕まえられればの話だけどね。夜に来たのはいい選択だったよ。全員寝てるんじゃないかな」

 ルビーは笑みで応えると道を辿りだした。敷石のひとつひとつが馬ほどもあり、渡るには数歩を要した。「私の言うことを聞くのは常にいい選択よ、英雄くん」

 彼は追いつこうと急いだ。「トロヤンを待たなくていいのか?」

「高い所に登った新記録を達成したいなら、ついて来るでしょ」ルビーは冷やかすように言った。「当然よね!」


 前庭を横切るだけで一時間以上を要した。トロヤンは途中で追いついた。汗だくで疲れ切っていたが、ひるむことなく三人は入り口までの道を進み続けた。

 だが彼らの足元の地面が震えだした。

 ルビーはうずくまり、ケランは頭を守った。トロヤンだけが立ったまま、身体を揺らしながら指を立てていた。ルビーがその袖を引っ張った。「こんな所で地震が起こるのかどうかわからないけれど、そうだとしたら身を守りなさいよ!」

 トロヤンは得意そうに笑いながらかぶりを振った。「揺れを数えるといい」

 目を丸くし唇を尖らせ、ルビーは抗議を示しながらも従った。かすかな音楽の最初の音色を聞き、理解とともに彼女の不満は消え去った。「ああ」

 洗練された社会に未だ慣れていないケランは、彼女に倣おうとしたが成功しなかった。その震えはしばしば止まっては再開した――けれどどうしてふたりは数えているのだろう? 理解しようと、彼は額に皺を寄せた。

 ケランが数える手をルビーが押さえた。「踊っているのよ」

「ワルツだな、具体的には」トロヤンが付け加えた。「つまり、運が悪いことに、彼らは起きているということだ」

 ワルツを踊ってる? それが何なのかケランにはわからなかった。だが母と義父が家の周りで大きな足取りでくるくると回っているのを見たことがある。きっとそんな感じだろう。

「踊ってるなら、僕たちには気付きそうにないってことだ。こっそり入れるよ」

 ふん、というルビーの短い返事の意味を彼は理解するようになっていた――自信はないけれど、その挑戦から身を引くつもりもないということ。「そう願いましょう」彼女はそう言った。

 三人は入り口を目指して更に歩いた。豆の木の上で最も小さな者だけに開かれる巨大な門。木の天井の下を彼らは通過した。その先に待っていた世界は、王国の王たちも物乞いに思えるほどだった――どんな胸壁よりも高い、美しい大理石のアーチ。頭上に広がる夜明け空の天蓋、肺に響く陽気な音楽、何本もの井戸がいっぱいになるほどのワインを湛えた金色の酒杯。最も目をみはるのは巨人たち自身だった。ジャケットと鎧をまとう巨人も、絹織物のガウンをまとう巨人も、堂々とした姿だった。そしてもし巨人に関する噂をすべて信じていいのであれば、ひとつ奇妙なことがあった。

「巨人はもっと巨大なことをするべきじゃないの?」ルビーが尋ねた。彼女は叫んでいたが、その声は音楽にかき消されそうだった。

「踊りだって、巨大なことなのかもしれないよ」ケランはそう答えた。地面が震えるたびに、彼はそれに合わせて跳ねた。心のどこかで思った――父には羽根があるのだろうか。もしそうなら、大きくなった時に自分にもきっと。ケランはそう願った。

「少年の言う通りだ。巨人だって時には祝祭を催してもいいだろう。あれほどの戦争を乗り越えたのだから、祝祭は間違いなく必要だ」トロヤンが言った。

「まあ、私はそうは言わなかったけれど――ただ他の人たちが――」ルビーはそう言いかけたが、立腹して言葉を切った。「何にせよ、少なくとも私たちには気付いていないわ。ケラン、巨人が鏡をしまっておくとしたらどこだと思う?」

 その通り、巨人たちは冒険者三人に気付いていなかった。そしてそれが状況をかなり悪化させていた。舞踏には様式こそあるものの、巨人の全員が優美な踊り手というわけではない。次に足がどこに下ろされるかを三人は精一杯推測したが、それも時々失敗した。一度ならずルビーはケランを死の寸前から救い出し、一度ならずトロヤンも彼女を同様に救った。

 ケランの心臓が再び高鳴っていた。ここは危険だ、言うまでもなく。だが奏でられる音楽と周囲の笑い声は、楽しいものでもあった。故郷では、自分は村で一番小柄な少年だった――けれどここでは三人とも小さく、そして自分の素早さが恩恵をくれた。足踏みから足踏みへと駆け、驚きに両目を見開きながら、彼は銀の輝きを探した。「わからない。誰かの部屋にあるんじゃないかな?」

「それを真夜中に尋ねてまわるの?」そう言うルビーは懐疑的だったが、一瞬してその考えと態度を変化させた。「まあ実際、悪い考えじゃないわね」

 すべてがこのように大きすぎる場所では、部屋がどこにあるのかを判別するのは困難だった。彼らはようやく階段を見つけたが、滑りやすい石を登ることができるのはトロヤンだけだった――そしてその彼も多大な奮闘を要した。それでも彼は綱を投げてよこし、ケランとルビーは一段ずつ登っていった。そうして二十段以上の階段を上ったところで、その先には寝室ひとつすらないかもしれない。

 だが半分ほど登ったところで、三人は不愉快にも一羽のガチョウに遭遇した。

 農場で長年過ごしてきたケランは、このひどい生き物に対して心を閉ざしていた。彼は王国に生きとし生けるものすべてを愛していた――ガチョウを除いて。そしてそれにはもっともな理由があった。地元のガチョウは、地元の悪ガキたちと同じほど彼らを悩ませる唯一の存在だった。むしろガチョウの方が悪いかもしれない。

 そして、自分ほども大きなガチョウよりも悪いものがあるだろうか?

 市場へ運ぶ荷車ほどもあるガチョウ。

 金で飾られたそのガチョウは、飼い主の数歩前をよたよたと歩いてきた――女巨人。装いからして、この城の主に違いない。そして巨人たちが気付かずとも、ガチョウは三人に気付いた。それはけたたましい鳴き声をあげながら、次なる一段を越えようとした彼らを見据えた。

 ケランの心は、この異形に対処するための的確な答えを知っていた。

「逃げろ! 逃げないと死ぬぞ!」

 彼は矢弾のように駆け出したが、その靴は大理石の上で無益に滑った。ルビーはケランよりも幸運だった――彼女は段を飛び降り、待ち受けるトロヤンの腕の中に着地した。そして振り返ったが、目に映ったのはケランが大理石へとうつぶせに倒れ込む姿だった。ガチョウのくちばしが斧のように下ろされ――

 二本の指が彼の外套の背中をつまみ上げた。

 ケランは宙高くに持ち上げられ、両脚をばたつかせた。ガチョウが彼の踵をついばんだ。もしもあえて下を見たなら、ガチョウの口の中の恐ろしい映像がケランの心に焼き付いて一生消えなかっただろう。だがその運命を回避できるほどには彼は懸命だった。代わりに、ケランは巨人のしかめ顔に視線を定めた。そして両手を掲げて肩をすくめた。「ご……ごめん、黙って入って」

「何だお前は?」女巨人が尋ねた。声の勢いにケランは揺さぶられた。「私のパーティーで何をしてるんだい?」

「探求の旅さ!」ケランはそう答えた。この状態で英雄らしい格好をするのは難しいが、彼はできる限り努力した。「魔法の鏡を探して――」

 巨人はあざ笑うように唇を歪めた。「嫌だね」

「淑女様!」ルビーが叫んだ。彼女は両手を円筒状にして口にあてていた。そして声の限りに叫んでいるに違いない。「悪いことをするつもりはありません! ただ鏡に質問させて欲しいだけなんです!」

「私がその嘘を聞いたのは初めてだと思ってる? 嘘ばかりの小さい奴ら。私の誕生日の夜に押し入ってそんなことを要求するとか、何様のつもりだい?」

「誕生日おめでとう!」ケランは興奮して叫んだ。

「お前に言われたくもないよ」

 ケランは自分たちの背後から大きなため息の音を聞いた。「ベルーナ、揉め事を起こしているのではないだろうね」彼らの不本意な女主人、ベルーナは振り返った。その肩の向こうに、ケランは王冠をかぶった男性を見た。その杯は既に半ば空で、頬は赤らんでいた。華麗に着飾ってはいるものの身長はベルーナの半分ほどしかなく、豊かな髭は緑色をしていた。その姿を見て、ベルーナはお辞儀をした――そしてケランをガチョウの喉に落としかけた。「ヨルヴォ様。害虫に対処していただけです」

「お前さんが話しているのが害虫かね」

「はい、陛下」ベルーナはそう言い、ケランをもうひとりの巨人へと見せた。間近に見てケランは確信した――その髭は実のところ植物でできている。そして自分より小柄にもかかわらず、ベルーナは話を大人しく聞いている……もしかして巨人の王様? ケランはその名前すら知らなかった。ただ侵略の間にギャレンブリグから姿を消したのだと。はるばるここに来て何をしているのだろう? この人は他の巨人とは似ていない。もしかして誕生日パーティーに出席するために? この王様が上機嫌であることをケランは心から願った。そうでなければ……ガチョウが待っている。

「むしろ若者に見えるがね」王は言った。「この子をガチョウに食べさせる気じゃあないだろうね? お前さんの誕生日に。黄金の卵が必要というわけでもあるまい」

「こいつはあの鏡を盗もうとしたのです」彼女はそう反論した。「それに私の誕生日ですから、こいつをどうするかは私が決めて良いはずです」

 王はケランに注意を向けた。「若者よ、何故ここにいるのだね?」

「フェイの王様から探求を受けたんです」タリオンについて言及することで、この状況が穏やかに解決することをケランは願った。王様は王様同士、敬意を払い合うものだろう? 「僕と友達は魔女をふたり見つけて倒すつもりなんですが、どこへ行けばいいのかわからないんです。鏡に聞けば教えてくれるんじゃないかって思ったんです」

 王は髭に手を触れ、頷いた。「お前さんたちを客人として扱うべきであろうな」

 ケランは歯を見せて笑った。「そうですよ!」

「ベルーナ、わしはこの者らを鏡に合わせても何ら害はないと考える。この三人で鏡を動かすのは不可能であろうし……うむ、この者らは今や客人だ」王は意味ありげな目配せをしてみせた。「慈愛の王によろしくと伝えてくれるかね? 長旅から帰ってきているのだろう」

 ベルーナのうめき声は聞こえなかったが、ケランはそれを感じた。「ヨルヴォ様、見境なくもてなしをするのは……ですが、わかりました」

 ガチョウの頭を撫でて王は去っていった。ベルーナは自身の掌にケランを乗せた。彼女はルビーとトロヤンもつまんで同じように乗せ、言葉なく歩きだした。その歩幅はとても広く、彼らはあっという間に目的地へと辿り着いた。

 そこは、本当に寝室だった。

 ベルーナは三人を鏡の前に下ろし、腕を組んだ。「さっさとやりな。アルビオリクスがお前たちを食べないのは運がいいよ」

「ガチョウにアルビオリクスなんて名前つけてるの?」ルビーが呟いた。

 ケランは震えを押し殺して鏡に近づいた。そこに映った少年は――外套をまとい、旅で少し痩せて――ほんの数週間前のその少年よりも大きく見えた。英雄に近づいたかのように。

「偉大なる鏡よ」ケランは問いかけた。「魔女ヒルダの場所を教えてください」

 何も起こらなかった。

 ケランは眉をひそめた。

「それが知らないことを教えなきゃいけないんだよ、人間くん」ベルーナが言った。「価値のある情報を鏡がただで教えるわけないだろうに」

「ふむ、その鏡が聞いたことのないものか」トロヤンが繰り返した。彼は片手をケランの肩に触れた。「インドレロンの鏡よ、私はトロヤンという。そして私はここエルドレインの生まれではない」

「え?」ルビーが聞き返し――だが既に魔法が機能し始めていた。

 冬の息吹が銀色の表面を曇らせた。ケランは手を伸ばし、それを拭わなければいけないと感じた。結露の下、豪奢に輝く氷の城が崖の上にそびえているのが見えた。

「待って……その場所わかるかも。ラレント湖だわ。兄さんに釣りに連れて行ってもらったことがあるの」ルビーはそう言い、眉をひそめた。「けれど戦争の前に行った時は氷なんてなかったわ。そんな短期間で、魔女はどうやってあんなお城を建てたの?」

「わからない」ケランは言った。「けど君が案内してくれるなら、わかるかもしれない」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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