MAGIC STORY

エルドレインの森

EPISODE 02

第2話 流浪の騎士、新米英雄

K. Arsenault Rivera
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2023年8月9日

 

 谷を越え、ローアン・ケンリスは僻境へと踏み入った。逞しい馬に騎乗し、腰には鋭い剣を下げて指先には火花を躍らせ、風に導かれるままに旅をしてきた。人々は喜んで彼女を家に迎え入れ、自分たちが持つ僅かなものを提供した。彼らの善意をローアンはありがたく頂戴した。真夜中過ぎに何故起きているのかと尋ねられた時には、忌まわしき眠りを癒す方法が見つかりそうな場所について何か知らないかとローアンは尋ね返した。

「本当にいらないのかい?」ロイズが尋ねた。その上質な織物はフェイですら欲する。ローアンはこれまでに幾つかの宮廷に滞在してきたが、どれもロイズの家ほど設備は整っていなかった。フェイは美の創造主に賜物を与えるらしい。「あんたには眠りが必要なように見えるけど」

「眠りなんて、私には何の役にも立たないわ」ローアンはそう返答した。

 ロイズは暗闇の中で両目を輝かせ、息をひそめて小声で言った。「眠りはやって来るよ、望むと望まざるとにかかわらずね。自分の意志でそれに向き合うのが一番さ。けれど勇敢な騎士さん、探求を続けるって決めてるなら、ここから遠くない所に城がひとつある。その主は遠い昔に死んだ――あんたたちの類が覚えているよりずっと昔にね」

「私たちの類?」ローアンは握り締めた剣の柄に力を込めた。

 ロイズは笑みを浮かべるだけだった。月光がその肌に踊って魔法が破れ、八つの瞳にカチカチと鳴る大顎、ストールの下に隠された八本の肢が露わになった。

 この女性の織物が人間もフェイも等しく魅了するのは、何ら不思議ではない。

「あなた――」ローアンは言葉を詰まらせた。

 ロイズは自らの人間の手をふたつ膝の上に置いた。「私は宿を貸して食べ物をあげたよ。あんたとは敵同士じゃない」

 ローアンは掌握を緩めた。この夜彼女は眠らなかったが、織物については少々学んだ。

 朝になるとロイズは城への道を教え、ローアンの幸運と旅の無事を祈った。

 そして今、崩れた城壁と古い胸壁が彼女を迎えていた。

 奥に進むほどに、肺に粉塵がこびりついていった。不死者の召使たちが立ち上がっては彼女の刃に対峙した。そのような光景に、感情を殺してローアンは彼らを屠った。石造りの床が臓物にまみれた。そして彼女はようやく図書室を発見したが、その棚は空のまま立っていた。蒸留器はなく、薬を調合した大釜もなく、失われた秘密もなかった――あるのは略奪者が残していったものだけだった。

 はるばるここまでやって来て、血を流して――何の成果もなし。

 見捨てられた城の中でただ独り、ローアン・ケンリスは嵐と化した。ここにいる自分の姿を片割れが見たならどう思うだろう――それを想像し、彼女の怒りは増すばかりだった。そして自分が涙を流していると気付いた時には、彼女の身体は弱弱しく震えていた。

 どういうわけかその場所には、略奪をまぬがれて寝台がひとつ置かれていた。そこに倒れ込んだ時、ローアンはロイズの言葉の真実に気が付いた――眠りはやって来る、望むと望まざるにかかわらず。

 夢が彼女をのみ込んだ。

 今一度、ローアンはこの城の扉を次々とくぐっていた――損なわれてはおらず、木材は磨かれて新しい。広間の中には吟遊詩人や舞踏家たちがいた。清らかな女たち、美形の男たちが彼女を更に奥へと導いた。従者がローアンの鎧を外した。あまりに滑らかな動作に、彼女はそれを着ていたことを忘れるほどだった。暖かなローブが肩にかけられ、手には蜂蜜酒の杯を持たされた。そのような喜びに誘われ、気が付くと彼女は饗宴の卓を前にしていた。

 父と母が前方に立っていた。生気に満ちて温かく、金色の光に顔を照らされ、ふたりはローアンへと両腕を広げた。「ローアン、やり遂げたのですね」リンデンが言った。

 ローアンは胸が苦しくなった。両親がそこにいる、記憶のままの姿で――傷跡は若い頃に受けたものだけ、血まみれの傷もない。そしてとても幸せそうだった。

 彼女は蜂蜜酒の杯を落とし、全力でふたりへと駆けた。父はローアンを抱え上げてぐるりと回した。母は彼女の髪を撫で、目の端に浮かんだ涙を拭ってくれた。

「私たちに会いに、ここまで来てくれたのですね」リンデンが言った。「何と誇らしいことでしょう」

 ローアンは何度も何度も口を開いたが、話すことはできなかった。

「私たちの助言が欲しかったのだね?」父が尋ねた。

 言葉なく、彼女は頷いた。

 父は王冠を脱ぐとそれを彼女の頭に載せた。「アーデンベイル城に来るのだ。お前の血がそこで待っている」

 埃だらけの城の中、彼女は独り目覚めた。割れた窓から陽光が差し込んでいた。一晩じゅう眠っていたに違いない。ただ独り、死と冷たさに取り囲まれ、彼女は今一度の涙を自らに許した。

 それが終わったなら、父親に言われた通りにしよう。

 アーデンベイル城へ行こう。

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アート:Aurore Folny

「あの、すみません、旦那様。最近、魔女を見ませんでしたか?」

 この男も、ケランがそれまでに尋ねてきた全員と同じように、声をあげて笑った。「ああ、見たとも。道を下った所にひとりいる。エッジウォールで最高のパイを売ってるんだ。ダンカンに言われて来たって伝えな」

 親切にも、その男性はコインを一枚投げてくれた。ケランはそれを小袋にしまい込んだ。彼は肩を落とし、気力は損なわれていたが挫けてはいなかった。これはまだ旅の一歩目に過ぎない、そうだろう? エッジウォールにはとても沢山の人が住んでいる。その中のひとりが何かを知っているに違いないのだ。自分がしなければいけないのは、続けることだけ。彼はうめき声をあげて肩にかけた背負い袋を調整し、長くゆったりとした道を下っていった。

 生まれてからずっと、このような場所の物語を母から聞かされてきた――ドワーフ、フォーン、騎士、魔道士。そんな人々が現実のものだと感じたのは初めてだった。パイ売りの店へ行く途中で、エルフの女性が魔法の木彫りの歌鳥を売っていた。前方では新緑の騎士が鍛冶師と話をしていた。目を向けた至る所に旗やがらくたが飾られていた。頷きながら歩き、ケランは結論づけた。ここに住めたなら最高だ。

 店の行列はすでに二倍、三倍の長さになっているのが見えた。本当に美味しいパイを作るのだろう――けれどその人が本物の魔女だとは限らない。料理はほとんどの人ができる、魔法に最も近いもの。母はいつもそう言っていた。けれどその店をやっている女性なら何か知っているかもしれない。

 ケランは列の最後尾についた。並んでいる間、彼の目は長い距離を駆けていく配達人やリュートを演奏する吟遊詩人へとさまよった。そして合わせて鼻歌をうたった。木の葉を編んだ服を着た子供たちが、笑いながら松ぼっくりを投げ合っていた。ケランは笑みを浮かべて彼らを見つめた。

 だがそしてケランは、店の軒下で眠っていた男が不意に立ち上がる様を見た。その周囲には紫色の煙のようなものが渦巻いていた。男の目は閉じられており、口は開かれていた。身体を左右に揺らしながら、涎が鎧に落ちた。

 あれが、村に前回来た商人が話してくれた忌まわしき眠りに違いない。それに囚われた人物を実際に見るというのは奇妙なものだった。どれくらい長くあのままなのだろう? 鎧に涎が垂れた場所には小さな錆びが浮いていた。どうして誰も手を貸さないのだろう?

 更に悪いことに、慌てた誰かがその眠り人にぶつかった。眠り人は傾き、倒れた――そして誰も彼を助け起こそうとはしなかった。

 ケランはそれを放っておけなかった。彼は倒れた騎士へと一歩を踏み出した。

 だが手首を掴まれる感触がケランの思考を遮った。顔を上げると、赤色の外套をまとった女の子が顔をしかめていた。「そんなことしない方がいいわよ」

 ケランは手を振りほどいた。「どうしてだ? あの人、助けないと」

 女の子はひるんだ。「魔女について色んな人に聞いて回っているのはあなた?」

 ケランは英雄らしい声を発した、あるいはそうしようと試みたが、かすれて無益だった。「そうかもしれないね。誰がその、聞いてるのかによるけど」

 女の子は笑い声をあげ、かぶりを振った。彼女は再びケランの手をとり、引いて行こうとした。「いいわ、英雄くん。私と一緒に来て」

「え? どうするの――ちょっと! あの人はどうするんだよ?」ケランはそう尋ねた。

「忌まわしき眠りは広まっているけど、どうやって広まっているのかは誰もわからないのよ。もし触ったら、あなたもああなるかもしれない。まず魔女に捕まらなければの話だけど」

 ケランは肩越しにあの眠り人を振り返った。女の子が彼を裏道へと引いていく中、誰かがあの男の下に木製の調理用のへらを滑り込ませた。少しの努力で、男は再び直立した。ケランが抱いた安堵は、女の子が先程言った言葉の意味を理解した瞬間に驚きへと取って替わられてしまった。

「待って。魔女が僕を追いかけてきてるってこと?」

 女の子は裏道の左右を確認して返答した。「そうなるでしょうね、あんなふうに尋ね回っているなら。あなた、魔女の注意を引くって考えなかったの?」

「君は魔女のことを色々知ってるのか?」ケランは尋ねた。「もしそうなら、すごくありがたいかもしれない。僕はここに着いたばっかりでよくは知らないんだけど、果たさなきゃいけない探求があるんだ」

「探求?」女の子はケランを素早く値踏みするように見た。「探求に出ているのに、剣の一本も持っていないの」

「英雄には剣が必要ってわけじゃない」義父が唯一持っている剣は錆びていたため、持ってくることはできなかった――ケランはその説明を省いた。「けれど、これを王様から貰ったんだ。どんな剣にも負けないくらい素晴らしいって言ってた。つまり、僕は本物の英雄ってことさ!」

 彼は蔓を編んだ二本の柄を振り回した――出発の際にタリオンがくれた贈り物。人間の鍛冶師が加工した鋼を模したように古木がうねっており、独特の輝きがその神秘的な出自を物語っていた。これを見たものは誰であれ感銘を受けるのは確かだった。

 だがその少女はその“誰であれ”には含まれず、片方の眉をぴくりと動かしただけだった。彼女は溜息をついた。「わざわざ本物だなんて言うなら、本物じゃないってことよ。ともかく、私はあまり役には立たないでしょうね。ダンバロウへ行きなさい。私の兄が、ピーターっていうんだけど、あの場所については隅々まで誰よりもよく知ってるわ。兄なら助けになってくれるかも」

 ケランは照れながらも、感謝の気持ちとともに鞘をしまい込んだ。「お兄さんの所に連れていってはくれないの?」

 外套の下で、女の子の表情が曇った。「しばらく姿を見ていないの。あなたは街の外から来たんでしょう、だからあなたなら会っているかもしれないって思ったのだけど」

「その」ケランは穏やかに言った。「ごめん。僕はわからないんだ。ここまでの道中でピーターって人に会った記憶はないな」

「でしょうね」女の子はそう言って背を向けた。「それじゃ。探求が上手くいくことを願っているわ、英雄くん。もし兄さんに会ったら、ルビーが家で待っているって伝えて」

 頭ひとつ半ほど彼女よりも背の低いケランは急いで言った。「待ってよ! 僕と一緒に来てくれるなら、自分で伝えられるだろ」

 彼女は足を止めた。そして振り返った時、興味深そうな顔がそこにあった。「兄さんを探してくれるの、あなたが?」

「探そうと思う」ケランは言った。「魔女はダンバロウにいるって言ったよね。君はそこにいたことがあるってこと?」

 ルビーは肩から埃を払った。「一度か二度ね」

「それだけじゃないと思うな」ケランは続けた。「もし僕の探しものを手伝ってくれるなら、僕の王様も君のお兄さんを見つける力を貸してくれるかも」

 ルビーは首をかしげた。「だとしたら、あなたの王様って何者?」

 しまった。フェイの王様とは言えない。信用してもらえるわけがない。けれど嘘をつくこともできない。ケランの頬が紅潮した。「王様は、あんまり人に噂されて欲しくないんだ」これは十分真実、そうだろう? 「けれど王様は僕の父さんを探すための力を貸してくれてる。だから僕は探求を果たしたい――父さんが誰なのかを知りたいんだ。だから、きっと王様は君のお兄さんのことも力を貸してくれるよ」

 沈黙。ルビーは彼を見つめていた。ケランは背筋を伸ばして立とうと努めた。「本当にその王様が力を貸してくれるの?」

 ケランは頷いた。「羊から羊毛がとれるくらい絶対に」

 ルビーはしばし眉をひそめ、そして頷いた。彼女の肩から緊張が抜けた。「いいでしょう。誰かがあなたを見守っている方がいいだろうし、私はきっとその適任だわ」


 荒れ野を越え、塚を過ぎ、ふたりは魔女を探して進んだ。

 母に聞かされた物語から、僻境はもっと美しい場所だとケランは想像していた。それともこれは戦争の後だからだろうか。ルビーが説明してくれた――田園に点在する鋭い金属の化け物はファイレクシア人の残骸で、忌まわしき眠りに動きを止められた後に破壊されたのだと。

「あれって、前は生きてたの?」ケランはそう尋ねた。

「それが生きているって言えるのならね。本当に知らないの?」

 一体の前で立ち止まり――まるで歩く破城鎚のような見た目だ――ルビーはその内から浸み出す油と、涙を流すふたつの目がある顔を示した。

 ケランは顔をそむけた。侵略者のよじれた死体よりは、ダンバロウのよじれた木々を見る方がいい。「こいつらってどこから来たんだ?」

「ここじゃない場所からだそうよ、少年王さま曰く。どこか他の王国から」

「他の王国があるの?」森の中を一緒に歩きながら、ケランはその忌まわしい死体を見ないよう最善を尽くし、代わりにピクシーの飛び交う姿、頭上を飛ぶ鳥の黒い飛跡、駆け回るオコジョに集中した。「それってどんな所なのかな?」

「知らないわよ。けれどそういう所があるとしても、私は行かなくていいわ。それに、兄さんと離れてどこかへ行くことは絶対ないのだし」

 ケランは頷いた。「僕も、家族と離れてどこかへ行くことはないよ。そう、ここじゃない場所には」

 ルビーはケランへと眉をひそめた。「それが探求のためでも?」

 嘘をついてしまった。それが嘘だと考える間もなかった。

 ルビーは落ちた枝を驚くほど簡単に避け、ケランが同じようにするのを手伝った。そして彼が土に足を下ろすと、ルビーの靴へと水飛沫が跳ねた。彼女は小さく悲鳴をあげた。周囲の森のどこかでピクシーの笑い声が聞こえた。

 遥かな昔から、努力する女の子をあざ笑うのは無礼とされている。そんな娘たちを守るのが英雄の役目というものだ。

 ケランは眉をひそめ、大声をあげて不愉快なものを追い払おうとした――だがその時、ルビーが籠からリンゴをひとつ取り上げると巨人が岩を放るかのように投げつけた。クロスボウの矢のような速さでリンゴが飛び、ピクシーは哀れな悲鳴をあげた。

 ルビーは口を尖らせた。「あいつら、ほんっと邪魔」そして何事もなかったかのように道なき道を進み続けた。

 仰天したケランは追いかけることしかできなかった。「それ、やばいな。すごい狙いだ!」

 ルビーはわざわざ立ち止まり、ケランの言葉に返答した。「やばいなんて。本気で言ってる? ただのリンゴよ。あなたが王様から頂いた素敵な剣を使えば、もっと色々なことができると思うけれど」

 そう言われ、ケランはつまずかないよう結構な努力を必要とした――足元に茨はなかったが。彼は何か言うべきことを考えようとした。あるいは、この柄を何か役立つものに変える方法はわからないと伝える最良の方法を。だが言葉は、ルビーが難なく追い払ったピクシーのように扱いにくかった。彼は不確かにうめくことしかできなかった。

 だがさしたる違いはなかった――その瞬間、一本の矢が音を立てて彼のすぐ目の前を横切り、鼻先をかすめて近くの木に突き刺さった。ケランは驚いて顔を覆った。聞こえているのは戦の太鼓だろうか、それとも狂ったように高鳴る心臓の鼓動だろうか?

 ケランは恐怖にすくんでいたが、ルビーは変わらず素早く動いた。彼女はケランに体当たりをしてクロイチゴの茂みへと倒した。母の手織りの服が血に飢えた茨から彼を守ってくれた――そして葉が襲撃者からふたりを守ってくれた。

「やばいわね、あれは何?」ルビーが小声で言った。

 茂みが切れた先に、その男の姿が見えた――狼の鎧をまとった人間。その鎧の下には血のように赤い綿入れが、今からもたらされる傷の前兆のように見えていた。致命傷になりかけた矢を放った弓は、茂みの棘のように恐ろしかった。男の腰に下げられた剣はケランの脚ほども長かった。金属でできた狼の口からはうなり声が漏れ、燃え立つその両目以外のすべてを隠していた。

 そして、男はまっすぐにこちらへと向かってきた。

 ケランの息が詰まった。ほんの数時間前、生まれて初めて騎士というものを見たばかり――これは一体何だ?

 狼の騎士はふたりへと向かってきた。

「逃げろ!」ケランは叫んだ。

 ルビーは二度言われるまでもなかった。ふたりは茂みから飛び出し、もがきながら立ち上がると駆け出した。狼の騎士は言葉なき遠吠えを発し、それは森じゅうに響き渡った。恐怖にかられ、近くの巣からカラスが飛び立った。先程ふたりを悩ませていたピクシーたちですら退散していた。

 矢が、今度はケランの肩のすぐ上を通過した。

「今こそ、その魔法の剣を使う時じゃないの」ルビーが叫んだ。「いつまでも走ってはいられないわよ!」

 ケランは息をのんだ。胸がだんだんと苦しくなってきた。彼女に嘘はつけない――けれどこの柄も剣ではないのだ。ただの……柄。能力を磨くのに役立つだろう、タリオンはそう言っていた。言うまでもなく、ケランはこの二本をずっと持って旅をしてきたが、少し強く物を殴る以外には何もできていなかった。あるいは……

 そう、何もないよりはいい。狼の騎士へと向き直り、ケランは柄の一本を全力で投げつけた。

 それは無益に鎧に当たり――そしてケランの手へと舞い戻ってきた。

「うっひゃあ」

「今の何――いえ、いい、わかったわ。私がやる。ついて来て」ルビーが呼びかけた。

 彼女のうめき声にケランは傷ついたが、責めることはできなかった。もし自分がこれの使い方を知っていたならどんなに良かったか。フェイが作った剣でオーク樹の枝を切り裂くことくらいはできたかもしれない。けれど現状は……冗談を言っている場合ではない。「ごめん、まだこの使い方を学んでる途中で……待って、あれは何?」

 侵略者の巨大な死骸の下をくぐり抜けた時、ふたりは何体かの……生き物にはち合わせた。もし幼児が描いた不格好な狼の絵に姿や筋肉や牙が与えられたなら、この生き物のいずれかに似ているかもしれない。それらの前脚と腰は力強く、鼻面は血に濡れていた。

「魔女跡追いよ!」ルビーが答えた。「あなた、魔法はかかっていないわよね?」

 ケランはひるんだ「そ、その、よくわからないんだ!」

「いいわ、今こそ確かめる時よ」

 ルビーは足を止めるか隠れるか、あるいは魔女跡追いを狼の騎士にけしかけるのかとケランは想像した。だがそうではなかった。彼女は魔女跡追いの群れの中へと駆け、それらの間を通り抜け、外套がそれらの顔を撫でていった。群れの中を通り抜けた頃には、ルビーはフードの下で目がくらむような笑みを浮かべていた。

 彼女にとってはとても簡単なことだった。魔女跡追いたちを見て、ケランの腹の中に恐怖がうねった。王様からの贈り物が、父の血が、自分を破滅させてしまうかもしれない。

 けれど自分には母の愛がある、それが守ってくれる――これまで何度も守ってくれた分厚い外套がある。彼はフードをかぶった。ルビーにできるなら、自分にだってできるはずだ。

 可能な限り必死に、ケランは魔女跡追いの群れの中を駆けた。聞こえていた甲高い叫び声は自分の口から発せられたものであると、彼は半ばで気付いた。幽霊のうめき声のような、遊びに興じる子供の笑い声のような。鼓動のひとつひとつがどこかへ行ってしまったようで、愉快だった。その生き物が襲ってくるかどうか待って確かめはしなかったが、群れを抜けた時には安堵で身体が震えていると気付いた。

 魔女跡追いたちは食いついてはこなかった。ごく軽く噛んですらこなかった。ケランは心から笑い声を発した。やった! 本当にやり遂げたのだ。冒険の最初の一歩だ!

 ルビーがケランへと手を差し出した。彼はそれを取り、自分たちがやって来た方角を振り返った。あの狼の騎士が空き地へと踏み入った。

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アート:Pascal Quidault

「そのまま、そのまま……」ルビーが囁いた。「あの男には魔法がかかってるわよ!」

 少年と少女は、ドラゴンが宝石を溜め込むように息を潜めて狼の騎士を見つめた。ふたりを追跡してきた男は、またも言葉なき咆哮をあげた。

 魔女跡追いたちが応えた。ある一頭が気付いたように顔を上げ、すると群れは狼の騎士の方を向いた。うなり声がケランの胸に反響した。狼の騎士は森へと逃げ込み、魔女跡追いたちはそれを追いかけた。

「僕たち、助かったんだ」息をつきながらケランは言った。彼は笑みを浮かべた。「君のおかげだ、ルビー!」

 彼女は駆け出す魔女跡追いたちを見つめていた。まるで、今も自分がそこに立っていることが信じられないというように。「ええ、どうやらそうみたい」

 安堵してケランは振り返り、そして初めてその小屋に気が付いた。

 どうして自分たちふたりとも今までそれが見えていなかったのか、ケランにはわからなかった。戦いの混乱とはどういうものか、母が話してくれたことがある。つまりこういうことだったのかもしれない――何かから必死で生き延びようとしている時には、地平線にいつも注意を向けていられるとは限らない。それでも、見逃していたのは信じられなかった。クロイチゴの茨で作られているようなその家は棘だらけで黒く、故郷の家々よりも二倍は高くそびえていた。すみれ色の窓は中からの光が脈打っていた。すみれ色をした霧の茂みがその家を取り囲んでいた。

「ルビー」ケランはルビーの手をとって注意を向けさせた。「見ろよ! 魔女の家だ、きっとそうだ」

 彼女は一瞥しただけでそれに同意した。「なんてこと、その通りよ。私たちはどうするべき?」

「窓がすごく大きいから、中を覗いてみよう。それからどうやって魔女を倒すか考えよう」ルビーが更なる詳細を尋ねてこないことをケランは願った。

 幸運にも、彼女は尋ねてはこなかった。

 ふたりはよじれた木々と深い茂みをくぐり抜け、その家へと近づいた。ケランの外套に棘だらけの実が幾つも張り付いていた。彼はそのひとつひとつを父からの幸運の祈りだと考えた。最初の魔女を倒すのはもうすぐだ。タリオンは手がかりをくれるだろうか? それとも謎かけをくれるだろうか? もっと見つけ出したい、その思いは暑い夏の日の果物のように魅力的だった。

 茂みのおかげで、ふたりは魔女の家の一番低い窓のすぐ下まで来ることができた。ガラスの下部分は分厚く、小屋の中の人影ふたつを歪めていた。ひとつは、思うに魔女――部屋の中央にある大きく黒いものの周りを歩いており、魔女が守っているらしいその物体からは煙が上がっていた。もうひとつの人影は座り込んでおり、背を窓に向けていた。

「魔女の大釜だ、本物の」ケランは呟いた、「何に使ってるんだろう……」

「人を食べるためよ」ルビーは躊躇なく答えた。「噂を聞いたことがあるわ、人の骨を煮てシチューを作っている誰かがどこか近くにいるって。それにあれは間違いなく大釜で、あの魔女は間違いなく誰かを縛りつけている……」

「魔女っていっても人は食べないだろ。僕の母さんは魔女みたいな人だけど、そんなことは絶対にしないよ」

「だからあなたのお母さんは『魔女みたいな人』であって、『魔女』じゃないのかもよ。そう考えたことはないの?」ルビーはケランの外套を引っ張った。「隠れて。こっちに来るみたい」

 その通りだった。魔女は泡立つ大釜から離れ、ふたりの方へと向かってきていた。ケランとルビーは窓台の下に縮こまり、かろうじてその視線を避けた。窓ガラス越しでも魔女の視線は恐ろしくも貫くようで、ふたりを取り囲む輝きとは異なる紫色を帯びていた。

「で、どうするつもり?」ルビーが尋ねた。

 何か考えているかのように、ケランは片手で顎に触れた。そんな欺瞞は長くとも一秒しかもたない。彼は肩をすくめた。「臨機応変で行こう」

「は?」ルビーは低い声で言い、睨みつけた。「ふざけないで。そこに本物の魔女がいるのよ!」

「魔法を使って勝てるわけじゃないし、僕たちには武器だってないだろ」ケランは地面を漂う呪われた煙に触れないよう気をつけながら、足音を殺して小屋の角を曲がった。「それに僕にできた新しい友達は、間に合わせで何とかすることの大切さを教えてくれたからさ」

「間に合わせもそれはそれで大切だけど、これは厄介なことになるだけよ」ルビーはそう言いながらもケランを追いかけた。

 ケランは手を振り、その場に留まるよう彼女に指示した。そして自分の目と、続いて窓を指さした。「魔女が扉に背を向けたら教えてくれ」

 ルビーは眉をひそめたが、窓の下に隠れたままでいた。その間にケランは扉に耳を押し当てた。中から甲高い歌が聞こえてきた。リズムや旋律にはあまり気を配っていないものの、歌い手は自分の声の響きに魅了されていた。

『お腹をすかせたわたしのもとに、ブリキの騎士さんまいごの子……』

 騎士さん? 魔女は騎士を食べようとしているのだろうか?

『ブリキの騎士さんすぐ負けたけど、騎士さん食べたら歯が折れる!』

 ケランの額に汗が浮かんだ。ルビーの言う通りだった。普通の魔女なんかじゃない――母とは似ても似つかない。今すぐ自分たちが行動しなければ、あの騎士は死んでしまうだろう。けれど何をすればいい?

 考える時間も沢山はない。角の先から、赤いものが飛ぶのが見えた――新しい友達がまたリンゴを投げたのだ。今だ、という合図だろう。

 だがそのリンゴが金属に当たる音がした。

 ケランにできたのは肩越しに振り返ることだけ――だが見るまでもなく彼は理解していた。あの狼の騎士。もう魔女跡追いを追い払ったのだろうか? そうだ――霧の中に潜むその影は、血にまみれていた。

 ルビーだけを小屋の外に放ってはおけない、けれど魔女にあの騎士を食わせるわけにもいかない。もし小屋の中の騎士を救えたなら、外に出て戦ってくれるかもしれない。それに魔女がいなくなれば、狼の騎士も……消えてくれるかもしれない。物語の中では、魔法で呼び出された守り手は大体そうなるものだ。

 ケランは外套から棘だらけの実をひとつ引き抜き、声に出して言った。「父さん、もし聞いてくれてるなら、どうか僕にこれができるだけの勇気を下さい」

 彼は答えを待ちはしなかった。待っている余裕はなかった。上手くいくと信じるだけだった。

 静かに素早く、ケランは扉を開けた。ハツカネズミが猫の縄張りに忍び込むように、彼は魔女がひどい歌をうたい続ける部屋の中央へと急いだ。泡立つ大釜の近くで棒に縛り付けられているのは、鎧をまとった逞しい女性だった。その右腕は堅い木でできていた。朦朧として錯乱した様子で、彼女はケランと目を合わせた。

 だがそんな彼女の内に、ケランは希望を見た。

『りりしい騎士さんどうしましょ? ぶくぶくことこと煮ましょうか――そうだりりしい騎士さんは、美味しいシチューにしてあげましょう!』

 魔女は悪臭を放つ液体をかき混ぜることに夢中で、まだケランに気づいていなかった。彼女は大釜の前に立ち、節くれ立った指を騎士に向けた。そして、ふと歌を中断した。

「さて、味付けはどうしようかね? お前は自分がどんな味に合うかなんてわからないだろうしねえ?」

「焼けて死になさい」騎士が言い放った。彼女はケランを一瞥し、指示するように頷きかけた。

 だが魔女の方は大釜へと戻った。彼女はかぶりを振り、そしてポケットに手を伸ばした。「それはあんまりよくないね。この火はお前を料理するために必要なんだからね。わかるかい、これはひとつの芸術なんだ。適当に何か放り込んだって、美味いものにはならないんだよ」

 大釜に放り込まれた物が何なのかはわからなかったが、ケランは吐きたくなった。だが彼はこらえた。やるべきことがあるのだ――そして今こそその時だ。農場で飼っている雄羊のように、彼は頭を低くして突進した。

 ケランは叫んだ。「料理されるのはお前だ!」

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アート:Marta Nael

 体当たりをした瞬間、魔女がわめく声が上がった。そして大釜へと落ちると悲鳴が。ケランはこの状況の意味を考えないよう努めた。黒い煙の筋が上がり、ひどい刺激臭にケランは涙を浮かべた。彼は騎士へと駆け寄った。自分が何をしたのか、それを考えるのは後でいい――今はルビーの安全を確保しなければ。そしてそのための一番いい方法は、この女性を解放すること。

「戦えますか?」騎士の両手首の結び目をほどきながら彼は尋ねた。その女性の片腕は不思議にしなやかな木でできており、まるで皮膚や筋肉のようにもがいていた。

「ぐ……その……鎚を取ってくれたなら」

 それは自信をくれる返答ではなかったが、ケランが得たのはそれだった。騎士を縛っていた縄が解けた。彼はひどく散らかった小屋の中、戦鎚はどこにあるかと見渡し――あった。それは「イモリの目」「カエルの爪先」といったラベルが貼られた瓶とともに、ありとあらゆる類の臓物や血で覆われた台に立てかけられていた。

 彼がその鎚へ駆け寄った時、ルビーが扉から小屋に飛び込んできた。「あいつ、もう来るわよ!」

「この騎士さんが助けてくれる」ケランは鎚を持ち上げられず、だが引きずることはできた。「この人はまだ戦えるって!」

 彼はその鎚を騎士へと手渡した。騎士は立ち上がった。

 あるいは、立ち上がろうとした。

 ケランはひとつの重要な教訓を学んだ――あらゆる騎士がいつでも英雄になれるわけではない。この騎士はひどく消耗し、ひどく打ちのめされていた。彼女は屈辱へと再び座り込んだ。

 狼の騎士が扉をくぐって現れ、ケランは心臓が喉に詰まったように感じた。血に濡れたその剣はごく最近使われたと示していた。自分たちはこんな所で――?

「立って下さい!」ケランは倒れ込んだ騎士を揺さぶった。「お願いです、きっとできます! 王国を守ってたんでしょう!」

「遠い昔のことよ」騎士が呟いた。それでも彼女は立ち上がろうとし――またも座り込んだ。

 狼の騎士が敷居で足を止めた。

 ルビーは何か汚らわしいものの入った壺を投げつけた。狼の騎士の鎧に粘土が砕けた。彼はルビーへと向き直った。

「ルビー」狼の騎士が声を轟かせた。「ようやく見つけた」

 ルビーは目を大きく見開いた。彼女は隠れ場所から立ち上がるとフードを脱いだ。

 狼の騎士も兜を外した。その下から白髪交じりの木こりの顔が現れた。濃い髭に乱れた髪、だがその目は優しく笑顔は温かかった。彼は両腕を広げた。「ルビー、俺だ」

「ピーター兄さん!」ルビーが駆け寄ると彼は妹を受け止め、抱き上げてくるりと回転させてから床に下ろした。「何があったの? 大丈夫なの?」

「わからない。この場所を見たのも今日が初めてだ。狩りに出て、あのひどい歌を聞いたんだ」彼は続けた。「これは魔女の小屋なんだろう? きっと俺に魔法をかけたに違いない。お前を怖がらせて本当にすまなかった。けれど無事でよかった」

 ルビーは兄へと腕を回した。「気にしないで。魔女跡追いを兄さんにけしかけたことを許してくれるなら、私も許してあげる」

 彼は妹の髪を手荒に撫でた。「お前ならやってくれると思っていたさ。お前は家族でもひときわ賢いからな」そして彼はケランと騎士へ向き直った。「そうだ――君だ。妹を手伝ってくれたんだよな? して欲しいことがあれば何でも言ってくれ、それが俺にできることであれば」

「ほとんどはルビーがやってくれたんだけど」ケランは答えた。「けど……手伝ってくれますか、この大釜を王様のところへ届けなきゃいけないんです。見せる必要があって……」

「言わなくていい。君はそれを運ぶ者が必要で、それは俺ということだ」ピーターは負傷した騎士に視線を向け、そしてひるんだ。「どうやら俺は貴女を酷い目に遭わせたらしいな。本当に申し訳ない」

 騎士はうめいた。「あの老婆とお前とでは、互角の戦いになるわけがなかった」

「ここにいてくれ。大釜を目的地まで運んでからルビーと俺とで薬を作ってやる。ここには材料が一杯あるし、俺は薬草の知識が多少あるんでな」

 騎士は反論しようとしたのかもしれないが、苦痛に心乱れてそれはできなかった。

 ピーターはルビーとケランに手助けを求めた。ふたりが片側を持ち、ピーターがもう片側を持ち上げて重量の大半を支えた。その中で音を立てるものについてケランは考えないよう努めた。三人は力を合わせてそれを敷居の外へと移動させた――だがその先で彼らを出迎えたのはすみれ色の霧ではなく、タリオンの宮廷だった。

 この時、慈愛の王は姿を見せなかった。馴染みある音楽が流れている時にのみ王は姿を現す、ケランはそう知っていた。今回は挨拶や前置きはなく、素早く的確な助言が聞こえた。

『次に其方が探し出すべきはヒルダ。その魔法は強大であり、技は更に強大だ。あの魔女は我が目からも姿を隠している。だがインドレロンの鏡に尋ねたなら、其方にも見つけられるかもしれぬ。鏡はゲラ・グランドスコールによってヴァントレス城から奪われ、あるべき場所から彼方の遠くに置かれている。なに、我が知恵があれば捜索の手間を省くなどたやすいこと。ここから馬で半日とかからぬ場所に、一本の豆の木が生えている。それに登るのだ。頂上で其方は鏡を見つけるであろう』

 王が言い終えるや否や宮廷は消え、夢のように忘れ去られた。三人は今一度、小屋の前に立っていた。

 ルビーがケランを見つめた。「あなたの王様って、フェイの王様だったのね」

「そうなんだけど……びっくりしたよね? あのさ、ふたりとも、一緒に来てくれないかなってお願いしようと思ってたんだ。力を貸してくれるなら本当にありがたいかなって」

「俺は怪我をしてる。役には立たなそうだ」ピーターが言った。「戦えるようになるには何日もかかるだろう」

 ルビーはケランからピーターを、そして再びケランを見た。彼女は溜息をついた。「あなたは兄さんを探すのを手伝ってくれた。だから私も手伝うわ。けれど今は少し休みましょ。騎士さんの傷の手当をして、これからやるべきことを決めないと」

 ケランの指が震えていた。「けど……嫌じゃないのか? 俺がフェイと協力してること」

 ルビーの呆れた顔は、驚いたことにケランへと大きな安堵をくれた。「何言ってるの? あなた、私が思ったより勇敢だったってことでしょ」

 そしてどうする? いいだろう、やっていこう。


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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