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MAGIC STORY
エルドレインの森
第4話 ルビーと凍てついた心
2023年8月11日
ケランとルビーがエッジウォールに戻ったのは、爽やかで明るい日のことだった。ダンバロウの粗野な家と巨人の城の驚異を見てきた後では、この場所は楽園でもあり粗末な小屋でもあるようにも思えた。ケランはエッジウォールのその所を一番気に入っていた。故郷のオリンシャーへ戻ったなら、何が待っているかはよくわかる――織り機の前に座る母、羊の世話をする義父。村の人々は完璧な調和の中でそれぞれの日常生活を送る。オリンシャーには忌まわしき眠りの痕跡も、どんな驚きもない。
ここエッジウォールでは、どちらも豊富だ。
その一つめが、街じゅうに広まったすみれ色だった。かつてその呪いの筋は街路や裏道の飾りのようなものだったが、今では流れや小川を作り上げていた。それが過ぎ去ると何十という眠り人が残された。犠牲者の人数はもう数えきれない、重く沈む心でケランはそう実感した。バルコニーにもたれて、書面や毛布の下に隠れて、開いた窓のそばに立って……
ルビーですらその光景にうろたえた。口には出さなかったが――彼女は本当に勇敢だ――街路を進みながら、鋭く息をのむ音をケランは聞いた。紫色の糸の束を避けて慎重に飛び跳ねる様や、強張った姿勢の中にケランはそれを感じ取った。「足元に気を付けて」ルビーは喜びからではなく、ケランのために笑みを浮かべて言った。「私たちの英雄くんが眠りに落ちるわけにはいかないわよ」
「そんなふうに呼ばないでくれよ」ケランは返答した。「母さんがいつも言ってたんだ。自分のやったことなんて大したことじゃないようにふるまえば、他の人もそうするだろうって。君だって僕と同じくらい勇敢だろ」
ルビーは笑い声をあげた。「お母さんは素敵な女性みたいね、けれどあなたは間違っているわ。私の家族の英雄はピーター兄さんよ。自分の力だけで妹を養いながら、街で一番の狩人でもある……」彼女は呪いの糸をまたいだ。「本物の英雄よ」
「英雄になるには、色んな方法があるんじゃないかな。ピーターにはピーターの、君には君の方法がある。僕も、きっといつかは」
「ええ、きっと。あなたはもう探求の旅に出ているもの」ルビーは通りを抜け、街はずれの小屋へと向かっていった。無慈悲な人物であれば、それはエッジウォールには属さないと言うかもしれない。けれど窓に飾られた街の色彩は、そんなことはないと誇らしく告げていた。煙突からはリンゴの木を燃やした煙が立ち上っており、ケランの腹が鳴った。
「そもそも、英雄ってどんな人だと思ってる?」ルビーが尋ねた
「常に正しいことをする人。他の人たちの生活を良くしてあげられる人さ」
ルビーは扉に手をかけて止まり、考え込むような目つきをした。何か言うのかとケランは待ったが、その暇はなかった。窓の中からピーターがふたりを目撃して中へと招いた。鋳鉄のフライパンで鹿肉が焼ける音を立てており、英雄とは何かという命題は、夕食は何かという命題に親切にも道を譲った。夕食と、計画に。
ラレント湖へ行きたいと告げると、ピーターは連れて行ってくれると同意した――ひとつの条件をつけて。
「俺が持ってる一番分厚い外套を着ていくこと。そして鼻の感覚がなくなったら引き返すこと。どんな状況でもだ」
「けど、その時点で何も終わってなかったら?」ケランが尋ねた。
「その場合は、お前たちが戻ったら俺が行こう」ピーターは言った。「その城については聞いたことがある。中心に辿り着いた者は誰もいないらしい。俺以外の狩人も、盗賊も。イモデーン卿はここへ来る前に行こうとしたらしい。曰く、その城の跳ね橋を40歩歩いて渡るよりも、僻境に挑戦する方が簡単だった――とな。炎の魔法で身体を温めていても、だ」
部屋に沈黙が降りた。ケランはルビーを、ルビーはケランを一瞥した。
「引き返すつもりはないよ」彼は言った。「それはできない。こんなに沢山の人が呪いにかかってるんだ。王様は言ってた、魔女を打倒した者は呪いを打ち払うって――」
「お前じゃなきゃいけない、とは王様は言わなかっただろう、ケラン君」ピーターが言った。「力を借りるのは恥ずべきことじゃない。君はまだ子供だし、ルビーもまだ若い。獣を倒すべき時と、獣を放っておくべき時を知らなきゃならない」
再びルビーの視線を受け止めたケランは、彼女も自分と同じ意見であると知った。
ピーターの言うことが正しいとしたら?
最終的に、ルビーは条件をのんだ。兄から熊の毛皮を肩にかけてもらったが、フードは被ったままでいると彼女は固持した。ケランには羊毛の上質なコートが渡されたが、それを見て彼はうめき声を発した。その羊毛はオリンシャー産だった。
それでも日が暮れると彼はそれを誇らしくまとった。ピーターは驚かせたいものがあると言い、きまりの悪さを克服したケランは分厚い襟元に顔を埋めた。街の広場で、子供たちが赤いフードと羊毛の外套をまとって集まっていた。何十人という数――そして羊毛を着込んだ女の子、赤をまとう男の子もいた。全員が身動きひとつせず、少年と少女があらゆる困難を乗り越えて邪悪な人食いの魔女を倒す人形劇に見入っていた。
ゆらめく蝋燭の明かりの中、ルビーの目に涙がこみあげるのが見えた気がした。だが彼女はケランの視線に気付くや否やそれを拭った。この神聖なる瞬間にもはや言葉はなかった。
アート:Julie Dillon |
ラレント湖はエッジウォールから一週間という長い行程の先にある。ピーターがふたりを案内して進んできたが、湖そのものに近づくと彼はここで止まって野営をすると宣言した。誰がそれを責められるだろうか? 城まではあと丸一日もかかるというのに、ケランは体温を保つために足踏みをし続けなければいけないほど寒かった。これまでの人生で経験してきた中でも、これよりも寒いのは二日間だけだった――それも最も厳しい冬の月に。誰も凍り付かないよう、彼は家族とともに羊に身を寄せた。内心では、人が凍るなんてことがありえるのだろうかと疑問に思っていた。水は凍るしビールも凍るかもしれない、けれど人は。
その疑問は今や小さくなっていた。だがケランはそれを持ち出しはせず、ルビーも同じだった。
ピーターはもっと警戒していた。「俺は行かなくて本当にいいのか?」彼はそう尋ねた。
「兄さんはまだ回復中でしょう」ルビーはそう答えたが、その声にケランは切ない嘆きを聞き取った。「それに……試してみたいって思うの。自分がどこまで行けるのかを」
ふたりはピーターに別れを告げた。彼はふたりを抱き寄せて無事を願い、炎のそばで見送った。それからしばらくの間、ルビーは何度も振り返っていた。橙色の光に照らされた兄の影を探していたのかもしれない。この場所のすべてが青と緑と紫色をしていた。頭上の空にはその三色が貴婦人の外套のように重なり、混じり合ってうねっていた。凍り付いた湖の水面下では不気味な青い光が揺れ動き、盛んにふたりの注意を引いた。氷の下に、ケランは黄色い両目を見たような気がした――だが即座にそれらは消えた。
最も印象的なのは城だった。鏡の中に映し出されたそれを見てはいたが、実際に目で見るのは全く別であり、その大きさをケランは初めて実感した。主塔は湖を見下ろす崖の上に立っているが、設計者であってもそこで立ち止まることは耐えられないだろう。その建築家は狂気に襲われたに違いない――幾つもの門の先は新たな砦。どこへも通じていない跳ね橋。新たな門へ続く果てしない外壁。落とし格子だけでもケランは五つを確認した。
自分たちは魔女の小屋に忍び込み、豆の木をのぼり、巨人の要塞に扉の下をくぐって入った。
それでも、まだ城に押し入ってはいなかった。
ふたりの目の前にはきらびやかな水晶で舗装された道が伸びていたが、それは招いているというよりは脅しているように見えた。それでもケランはためらわずに足を踏み出した。大きな善の前では怖れは何の役にも立たない、彼はそう自身に言い聞かせた。
だがルビーは粗い砂利道の端で足を止めた。「今までとは……違う感じがしない?」
「そう思うからだよ」ケランは手を差し出した。「少なくとも今回は何かに登る必要はないさ」
ルビーは笑い、白い息の雲を吐き出した。彼女はケランの手をとって道に踏み込んだ。「あんまり大声でそれを言わない方がいいわよ。トロヤンが雪だまりの中から飛び出してくるかも」
「それも悪くはないんじゃないかな。あの人が何度も話してくれた場所、すごいなって思わなかった?」
ルビーは冷たく嘲った。「あんなの作り話に決まってるでしょ、ケラン! 私はずっとエッジウォールで暮らしてきたけと、『苦痛のサーカス』なんてものは一度だって聞いたことなかったわ。そもそも何よそれ、意味がわからない」
「僕もわからないよ。フェイがそれを作ったのかも」ケランは失望を声に出さないよう努めたが、いつも通り明敏なルビーはそれを察した。
「本当にもっとフェイの土地を見たいのね。違う?」ルビーは彼の手を握りしめた。「これが終わったら、あなたはきっと街の人気者よ。間違いなく」
ケランの方はそこまで確信していなかった。心のどこかで彼は訝しんでいた――自分は人間というにはあまりにもフェイに近い。けれどフェイというにはあまりに人間に近いとしたら? 自分はフェイの慣習について知らなすぎる、タリオンと話をするたびにそれを指摘されていた。蔓で編んだ柄の使い方もまだわかっていない。同じだけど違うのだとしたら?
何か言うべきことをケランは考えた。
だがすぐに何者かが彼に呼びかけた――女性の声が凍てつく風に運ばれてきた。
『騎士、盗賊、君主候補たちがこの道を進もうとして失敗してきました。子供ふたりに成功する望みはありません。引き返しなさい』
頭上の空が暗くなり、風は強まった――鉄のピンで留められていなかったなら、ケランの外套はその小さな身体からはぎ取られていただろう。
ルビーは熊の頭を下げて凍てつく風から身を守った。簡素な羊毛製ではあるがケランも同じようにした。
「そんな簡単に引き下がれるものか」彼は宙へ向かって叫んだ。だが声を発すると大気は切りつけるように冷たく、返答として沈黙が降りると彼はその努力を後悔した。
『勇敢なる者は短命に終わります。子供だからといって情けをかけられるとは思わないことです。我が領域は脅威から守られます、その脅威が何であれ。引き返しなさい』
ヒルダが言葉を発するごとに、周囲の大気は更に冷たくなっていった。強すぎる風に抵抗しながら進まなければならなかったが、それでもふたりは歩みを止めはしなかった。
前進しながら、ケランはしばしばルビーを振り返った。彼女の顔はほとんど見えなかったが、そのフードの赤色は見ることができた。もう鼻先の感覚はないだろう。「君はこれ以上進んだら駄目だ」
だがルビーは彼を睨みつけるだけだった。「そして魔女に勝たせるの?」
「僕が辿り着いたなら勝ちはしないさ」ケランは襟巻の中へと話すことで温かさを保った。「もしふたりで進み続ければ……」
『死が待っているでしょう』ヒルダの声が届いた。『これは最後の警告です。自分自身の言葉に耳を傾け、引き返しなさい』
雪のヴェールはあまりに濃く、ケランに見えるのは白と灰色だけだった。それでも彼は城を探そうと見渡した。遠くに、ごくかすかな青い染みがあった。一マイル先かもう少し近くか。
冷え切った目でケランは瞬きをした。引き返すことはできる――けれどそうしたら誰も永久に目覚めない。そして父が何者かを知ることはできない。
「探求の旅の……英雄が……どんな奴かも知らないくせに」彼は声をかすれさせた。ルビーが笑い声をあげ、ケランは少しだけ勇気を得た。
『知っています。彼らはいとも容易く死んでしまいます。あなたがたが最後にはならないでしょう』ヒルダが答えた。その声は吠えたける風にかき消された――そしてその中にいる生物に。
最初の動きはあまりに素早く、若者ふたりには見えなかった――視界を横切る空色の筋、ガラスが割れるような音。足元に氷の槍が突き刺さって、ようやくふたりは自分たちが見ているものを把握した。前方にうねる雪が次第に固まり、鎧のような姿を作り上げた。ケランの倍ほどもある霜の戦士がふたりを見下ろしていた。その掌に新たな槍が形を成した。
危険な突きがケランの心臓をまっすぐに狙い、ルビーが彼を引いてその攻撃から遠ざけた。それでも槍先はケランの上質な外套を貫いて雪の地面に刺さった。耳に風が吠え、雪が目を突き刺す中、ケランは慌てて離れようとした。
だがオリンシャーの羊毛はその耐久性で名高い。故郷のその繊維が――もしかしたら我が家の羊から刈り取られたものか――ケランを繋ぎ留めていた。どれほど力を込めても、槍が突き刺さった生地を引き裂くことはできなかった。
「槍が刺さっただけよ!」ルビーが叫んだ。「外套を脱いで逃げて!」
だがそれはできなかった。指がかじかんで外套を留めるピンを外すことができず、そしてできたとしてもどうなる? こんな寒さの中では間違いなく凍ってしまうだろう。
ケランは闇の先にいる氷の戦士を睨みつけた。その片手に新たな形が現れた――斧。
「ルビー、先に行け!」
「何を言って――きゃあ!」
宙高くに持ち上げられ、ルビーの抗議は途切れた。氷の戦士がもう一体姿をなして彼女を掴み上げていた。霜の筋が走る剣がその喉元に押し付けられた。
そんな。違う。こんなはずじゃない。苦難に直面するのはともかく、そこから抜け出す方法が何かあるはずだ。物語では、英雄は絶対に何かしら見つけ出す。だがケランは武器を何も持っておらず、何の魔法も知らなかった。母は何の魔法を教えてくれなかったし、父は一度も……
氷の戦士が構えた。
「父さん、お願い」ケランは懇願するように言った。彼は最後にもう一度蔓の柄へと手を伸ばし……そして黄金の光が灰色のもやを切り裂いた。この寒さの中でケランの内なる何かが春のように眩しく感じられ、それは柄へと流れ込んでその形を変化させた。直感のままに彼は動き――
アート:Fajareka Setiwan |
――そして得たばかりの剣が霜の戦士の腕をまっすぐに切り裂いた。
手の中にある繊細な刃をケランは唖然として見つめた。自身の絶望から生み出したもの。柄を取り囲んで、その光は棘茨のように鋭く見えた。一瞬だけ彼は見惚れたが、今はこの状況から抜け出さなければいけない。
ケランは戦士の股の下をくぐり、ルビーへとまっすぐに駆けた。躊躇する間もなく、彼はルビーを掴んだ戦士の腕も切り落とした。それに比べれば、落下してきた彼女を受け止めるのは簡単なことだった。
「ケラン、やったのね!」ルビーは目を大きく見開いた。「フェイの力なんでしょう。本当にやったのね!」
「そうさ!」もし別のことを言ってしまったら、台無しになってしまいそうだった。大声で名前を付けたなら、その効果が消え去ってしまうような気がした。
ケランはルビーを道に下ろした。氷の戦士たちは苦痛に吠えながらどこかへ去り、雪の中に武器が残されていた。ルビーは剣を拾い上げてケランと背中合わせに立った。だが待ち続けるほど、まっすぐ立っているのが困難になっていった。当初の高揚感が次第に消えていった。握り締めた魔法の剣が鉄のように重く感じられた。それに、更に寒くなっているような? 奇妙な眠気が忍び寄り、忌まわしき眠りの呪いに違いないと彼は不安になった――だがすみれ色の煙はなく、ここには自分とヒルダのそれ以外の魔法はない。だとしたらどうしてこんなに……?
ケランの瞼が重くなっていった。「ルビー……僕、もしかしたら……」
「ケラン?」ルビーは振り返った。「ケラン!」
けれど、こうなる前に休んでおくべきだったのかもしれない。寒すぎて、疲れすぎて、そして……
ここまで頑張ってきたんだ。少し眠ったっていいだろう。
ケランは倒れた。
今回はルビーが彼を受け止めた。
アート:Leanna Crossan |
青と白と緑がうねる中、赤をまとった少女がいた――そして雪の中、彼女が運ぶ少年と。
両腕に抱きかかえられ、ルビーの外套の温かさに本能的に丸くなり、ケランはとても脆く感じられた。降りしきる雪片ですら彼を壊してしまうのではとルビーは心配した。息はとても浅く、心臓の鼓動を感じられなければ死んでいると思っただろう。
『その子を連れて帰りなさい』
ケランを見下ろし、それは良い助言だとルビーは思った。兄も同じことを言うだろう――自分たちは失敗したのだと。ケランを連れて帰り、それから自分たちに何かできることは他にないかと考える。あるいは、別の英雄がいつか来てくれるかもしれない。炉のような心臓と融けた鉱石のような血の、この寒さにも歩みを遅らせることのない誰かが。
一か月前ならためらわなかっただろう。人生とは、自分と自分のものに気を配ることだった。生き続けることだった。
けれど今はそれだけではない。自分たちふたりよりも大きなものになっていた――あの人形劇がそう教えてくれた。赤いフードをかぶったあの子供たちは――自分がケランをここに置いて帰ったらどう思うだろう? ケランが目覚めて、父親の真実を知ることはできないだろうと知ったなら何と言うだろう? 忌まわしき眠りが絶対に消えない世界で、どうやって自分を恥じずに生きていけるのだろう?
ルビーは歩きだした。
音を立てて雪を踏みしめ、耳元に風が甲高く鳴った。足取りがこれほど重いと感じたことはなかった。一歩一歩が戦いだった。
『その子に借りがあるわけではないでしょう』
「助け合うのに、借りのあるなしは必要ないのよ」剃刀のような風に向かってルビーは返答した。
反応はなかった。しばしなんの言葉もなかった――突風と雪と、彼女の息遣いの音だけがあった。ケランの呼吸音すら聞こえなかった。彼女の睫毛が霜に覆われていた。まだ遠いが、一歩進むごとに――ひとつの戦いに勝つごとに城は近づいていた。
もう一歩。脚が痛んだ。
『その少年は小さく弱い。あなたは逞しく強い。あなたには狩人の血が流れている。その少年を捨て去れば私のもとへ辿り着けるかもしれません』
ガラスを呼吸しているようで、それでもルビーは呼吸を続けた。「喋ってなさいよ……寂しいって思ってたところ、なんだから」
魔女の不興のような強い突風がルビーを打ち倒し、彼女とケランは雪の中へ転がった。冷気はルビーが必死に戦って維持してきた力を奪った。手足の一本一本が、屠殺前の豚のように重く感じられた。
それでもルビーは手足を掲げた。それでも立ち上がった。それでも少年を雪から持ち上げ、今一度抱きかかえた。その間ずっと、ケランを置き去りにしようという考えは一度も浮かばなかった。
片足をもう一方の前に。
「私が何を考えてるかわかる?」風に向けてルビーは叫んだ。「あなたも寂しいんでしょう。だからそんなふうに冷やかしてくるんでしょう。他に話し相手がいないってことよね?」
またも強い突風。叩きつける雹。ルビーは身をかがめ、最悪の衝撃を外套が受け止めた。
『立ち去りなさい』
ルビーはケランを更に強く抱きしめ、進み続けた。
骸骨のような門が目の前にそびえた。どれだけ長く歩いてきたのだろう? 永遠のようにも思えた。ルビーは振り返り、氷の荒野に残る足跡を見た。ピーターが言っていた――最も外側の跳ね橋に辿り着くまでは一番簡単なところ。困難なのはそれを渡ることだと。
跳ね橋へ向き直ると、それが見えた――純白の雪に覆われた幾つもの塊。死体が隠されているのだ。自分とケランが同じ運命を辿ったなら、小さすぎて見落とされてしまうだろう。ピーターですら見つけることはできないかもしれない。
鼻先の感覚がなくなったら引き返せ、兄はそう言っていた。そしてそうすると約束した。
実のところ、しばらく前から感覚はなくなっていた。
ルビーは跳ね橋へと踏み出した。
ここには風を和らげてくれる山も、雹やみぞれを防ぐ建物もない。開けたその場所に出た瞬間、四方八方から悪天候が彼女に襲いかかった。指が震えた。そして動かそうとしてもできなかった。けれどケランを離さずにいるには、歩き続けるには指を動かす必要はない。
更に一歩。
『それでも進み続けるのですか。愚かなことです』
「そうかもね」その点について反論はできなかった。まだ跳ね橋を四分の一ほどしか進んでいないにもかかわらず、既に足を持ち上げるのが困難になってきていた。
『あなたはここで死ぬでしょう』
「……実際にそうなるまでわからないわよ」ルビーはもはや足を持ち上げてはいなかった。できなかった。酔っ払いが酒場から帰るように、雪の中をすり足で進んでいた。「やってみないといけないの」
『ですが何故? 何故なのです?』魔女が問いかけた。その声が切迫した様子を帯びるのは初めてだった。初めて、狼狽しているように聞こえた。『あなたには何の理由もないはず――』
「私の友達があなたを倒したがっているからよ。そうすれば父親に会えて王国を救えるんですって。私は友達をがっかりさせるわけにはいかないの」
三分の一まで進んだ。そこに至るまでに、既に五つの死体を通り過ぎていた。
『あなたはそのために自らの命を捨てようと……?』
「それが正しいことだからよ」
更に一歩。もう一歩。膝が力を失った。
もう歩けない。大したことはない、まだ這うことはできる。
ルビーは無理をして転がった。彼女はケランを背中に乗せ、自分の両手を前に伸ばした。それは雪の中に埋もれた。あまりに冷たく、あまりに疲れて、あまりに不格好。それでもやらなければ。
『無意味です。あなたもわかっているでしょう』
「彼だって同じことをしてくれるでしょうね。それに無意味だなんて思わないはずよ」
上手くはいかない、心の底でルビーはわかっていた。けれど何にせよ進み続けようとするつもりでいた。自分が意識を失っても、雪に埋もれても、いずれケランが目覚めてくれるだろう。彼に流れるフェイの血が助けてくれるかもしれない。彼が城に着けばそれがわかる。ルビーは這い進もうと手を伸ばした。
だが触れたのは、差し出された掌だった。その指は純白、爪は丁寧に尖らせて整えられていた。手首には水晶の腕輪がきらめいていた。「私の手をとるのです」
あの声。魔女。けれどここで何をしているのだろう?
ルビーは震える息をついた。兄はかつて魔女に会った――そしてあんなことになった。彼女はかぶりを振った。「嫌よ。私は――」
「私に悪意はありません」魔女が言った。「ですが信じて頂けないのであれば、私がそれを証明してみせましょう」
魔女は隣に膝をついた。ルビーが予想していた以上に、その女性は悲しそうな雰囲気をまとっていた。豪奢な白い装いも、大きな冬の冠も、どんな魔法も、その薄い色の両目に浮かぶ孤独を隠せてはいなかった。
彼女たちを取り巻く嵐がゆっくりと晴れ、やがて雪が穏やかに降り注ぐのみとなった。
その完全な静寂の中、魔女はケランに身体を寄せた。「可愛い子供たち、これほどの苦難を背負って……」魔女はふたりの額それぞれに口付けをした。「冬の館へおいでなさい」
アート:Miranda Meeks |
ルビーの皮膚に魔法がうずき、彼女は集中を失っていった。「何をしてるの……?」
「あなたたちを守ります」魔女が言った。冷たい指が髪をすくのをルビーは感じた。「あなたの言う通りでした。私は怖れています。寂しいのです。それを忘れていました。ですがあなたたちが示してくれました、この城に籠ることで私が何を捨ててしまったのかを」
ルビーの視界が薄れていった。
「お眠りなさい。目覚めた時、あなたたちは真実を知るでしょう」
数時間後、若者たちはきらめく氷の部屋で目を覚ました。壁と同じ素材で作られた二体のゴーレムがその眠りを守っていた。分厚く豪華な毛布がふたりを包んでおり、目の前には水晶の盆の上に朝食のごちそうが並べられていた。香辛料入りのリンゴ酒、温かなスープ――骨身を温めるために摂りたいと思うあらゆるものが、きらめくガラスの覆いの中に置かれていた。あとはそれに手を伸ばすだけ。
ケランは考えることなくそうした。胃袋は鳴り、頭痛がしていた。食事を前にした若者が他にどうするというのだろう? だがルビーがその手を制した。「あの魔女が用意したのよ」
「あなたたちへの悪意はありません」部屋を横切って返答が届いた。魔女は椅子から立ち上がり、一冊の本を置いた。彼女は自分のマグとソーサーを手に取り、ふたりに向かい合うように座った。「ふたりとも元気なようですね。よかった」
「これが悪い冗談じゃないって言えるの?」ルビーが尋ねた。「あなたは私たちを救ってくれたけど、しばらく私たちを安心させるためだとしたら? もしかしたら私たちを食べようと――」
「食べる? どうやらアガサに会ったようですね」
「僕たち、その魔女を大釜に放り込んでやったんですよ!」ケランが言った。ルビーの考えがどれほど正しいのか、そもそもどうやってここに着いたのかも彼はわからなかったが、それを言うのは野暮だと感じた。
アガサが倒されたという事実にヒルダが狼狽したとしても、彼女はその様子を見せなかった。「自業自得です。かつて、私は彼女たちとは違うと信じていました。もうふたりの魔女とは、です。姉妹たちは常に力を欲しています。私がずっと欲してきたのは孤独だけでした」
ケランはルビーを一瞥した。ヒルダの声はかすかに覚えているが、それは安心をくれる声だった。彼はルビーの手を握りしめた。「他の人といるよりも独りでいる方が好きだとしても、友達を持つのはいつだっていいことですよ」
魔女は微笑んだ。微笑みが似つかわしくない顔。「そうですね。たとえ、とても疑い深い友達だとしても」
ルビーは唇をとがらせた。「私はケランに気を配ってるだけよ!」
笑い声は微笑み以上に魔女に似つかわしくないものだった。「あなたたちに対して悪意はありません――ですが良い印象を与えるのは難しいですね。もうふたつ贈り物をすれば、私の意向をわかって頂けますか?」
それが何であるかを確かめようというように、ルビーは腕を組んだ。一方のケランはリンゴ酒とパイを手にとった。ヒルダに悪意はないと言っていた――もしあるなら、自分たちを外に放置していただろう。それを置いても、母にいつも教えられていた。こんなもてなしを断るのは失礼というものだ。
だがヒルダの次なる行動を見て彼は手を止めた。丁寧かつ軽やかな手つきで彼女は氷の冠を頭から外すと、それをふたりの前の卓に置いた。
「これです。気持ちが軽くなりました。これを慈愛の王へ届けるのです、私を打倒した証拠として」
「本気ですか?」ケランが尋ねた。
「けれど活動を続けるなら、打倒されたってことにはならないでしょう」ルビーが言った。「お城を拡大し続けて人々を凍死させることはもうないって誰が断言できるの?」
「私が断言します」ヒルダは窓を示した。「もしでしたら外を見て下さい。この冠がなければ、私は自分たちの小さな家を維持するので精一杯なのです」
ルビーは懐疑的な顔をして窓へ向かい、ケランも続いた。朝日が城壁に踊り、石を流れる細流の水を照らし出していた。崖からは既に雪解け水が滝となって流れ下っていた。城は融けはじめていた。
「本気だと思うよ」ケランはルビーに言い、そしてこの城の女主人へと向き直った。「そんな力を諦めるってのは、勇敢なことだと思います。母さんがいつも言ってたんです、魔女も怖い人ばかりじゃないって」
「あなたのお母様の言葉は嘘ではありません」ヒルダが言った。「それを置いても、とても励みになりました」
ルビーは腰かけた。ようやく、彼女もリンゴ酒を幾らか味わった。
ケランは冠を手に取るとそれを膝の上に置いた。「僕たちにくれるもの、他にもあるって言ってましたよね?」
「知識の贈り物です」ヒルダは言った。「あなたたちがここに来るまでの会話を聞いていました。慈愛の王に仕えているのですね。この城を出たなら、間違いなくかの王の城門のひとつが待っているでしょう。ですが今回は、何も知らずにあなたたちが足を踏み入れることはありません」
「どういう意味?」ルビーが尋ねた。
ヒルダは窓の外に視線を向け、そして続けた。「私たち魔女だけで忌まわしき眠りを作り出したのではありません。それは私たちの力を超えるものでした」
「え?」ケランが言った。
「あの侵略者が到来した時、私たちそれぞれが対処するための異なる考えを持っていました。その膠着状態を打破したのがタリオン様でした。エリエットの眠りの呪いこそ、侵略者に対抗する最も確実な手段だろうとあの方は主張したのです。私たち三人だけではそのような強力な呪文を唱えることは決してできなかったでしょう。そのため、そのような手段は考えたこともありませんでした。かつて私たち魔女は四人いました。そうであれば幾らかの希望もあったのかもしれません。ですがあの子は二十年前に命を落としました。四人が必要だったのです。タリオン様は強いかもしれません、ですが私たちがその魔法のためにあの方を必要としたように、あの方も私たちを必要としました。そうしてあの方は王国を救う手段を私たちにもたらし――そのための賜物を授けて下さいました。フェイは常に賜物とともにあるのです」
ケランは息をのんだ。「ですがタリオン様は言ってました、魔女たちが世界中を眠りにつかせたって」
ヒルダはケランの髪を撫でた。「あれは侵略者を止めることだけを目的としていました。その後に制御不能となったのはエリエットの仕業です。私はそう確信しています。姉はあれほどの規模の呪いを発動する機会に飛びつきました――あらゆる人々を自らの言いなりにするということです。慈愛の王が賜物を与えずとも、自ら行っていた可能性すらあると私は考えます」
「けど……これは英雄らしい探求のはずなんです」ケランの唇が震え、声がうわずった。「僕たちは正しいことをしてると思ってました。タリオン様も眠りの呪いを作ったひとりだったなんて」
「あなたがたの行いは正しいものです」ヒルダが言った。「私たち四人が作り出した混乱を片付けるため、タリオン様はあなたを遣わしました。物事を正すというのは高貴かつ善き行いです。とはいえそれは、承知の上で行うことこそが最良です」
ルビーに肩を押さえられても、ケランは震えを止められずにいた。タリオンが忌まわしき眠りを作り出した。フェイは嘘をつかないはずでは? 『三人の魔女がこの地を眠りに苛んでいる』……
ケランは膝に乗せた冠を掴み、部屋から駆け出した。
道もわからないまま、ケランは曲がりくねる廊下を抜けて螺旋階段を降りた。背後でヒルダが呼んでいたが、頭に血が上ってその言葉は聞き取れなかった。やがて城の外に辿り着くと、ヒルダが言っていた通りだとわかった――門がそこにあった。
ケランがその扉に手を伸ばした時、ルビーの手がまたも彼の手首を掴んだ。彼女は汗だくで息を荒げていた。後を駆けてきたのだろう、けれどそこにいた――ケランと一緒に。
「言ったでしょ、一緒にって」
ケランは何の言葉も発することができなかった。あまりに重苦しい気分だった。彼は頷き、歩いてその門をくぐった。
英雄ふたりは共にフェイの土地へと踏み入った。偽りの城と偽りの希望の土地。変わらず優美な姿で、タリオンが玉座にて待っていた。『勇敢なる冒険者たちよ。其方らが勝ち取った大いなる栄光を――』
ケランはタリオンの足元に冠を投げつけた。
慈愛の王はその極めて貴重な賜物を見つめると、ケランへと眉をひそめた。『其方の父の心がようやく姿を見せたようだな。何を悩んでいる?』
「嘘をつきましたね」
タリオンはサンザシの杖を振った。フェイの小間使いが冠を拾い上げて持ち去った。そして今一度、タリオンは玉座にて姿勢を正した。
『フェイは嘘をつかぬ』王は言った。『それは我らの呪いであり禁忌。もし我が嘘をついていたなら、我が血は零れた乳のように凝固しているであろう』
「眠りの呪いについて知りました」ルビーが言った。「その案を出したのは王様だって知っています。私たちを利用したんですね?」
タリオンは玉座に背を預けた。その顔に得意そうな笑みが浮かんでいるような? そうかもしれないとケランは思った。そしてその笑みが嫌だと感じた。『ああ、その件か。極めて崇高な目的のために利用される、それはそんなにも悪いことだろうか? 騎士の剣は血を飲もうとも文句は言わぬ』
「それとこれとはわけが違います!」ケランは反論した。「僕たちの心が純粋かどうか尋ねましたよね。僕の父さんを見つけるために力を貸してくれるって――」
こんなふうに我を失うのは何と恥ずかしいことだろうか。フェイの王の前で叫びながら、ケランは声がかすれるのも、涙が流れ落ちるのも止めることはできなかった。彼は憤慨しながら両目を拭った。「王様のこと信じてました。父さんのことを知ってるって、本当に信じてたんです」
『知っている』ケランの涙にもタリオンは一切動じなかった。『其方がこの探求を完了したなら、その者について我が知る内容を教えよう。それとも理屈が気に入らないとして、王国を救うことを拒否すると?』
ケランは拳を握り締めた。「そうは……言ってません……そんな単純じゃありません!」
『我が地に何ひとつ単純なものなどない』タリオンが答えた。『エリエットはアーデンベイル城にて見つかるであろう。あの魔女を打倒すれば其方は呪いを断ち切ろう。呪いを断ち切ったなら、其方の父について告げよう。あるいは魔女を倒さずに田園の生活へと戻り、自らの血を受け入れたあの時のような帰属意識を絶つか。選択するのは其方だ』
杖が振るわれ、フェイの世界はまたたいて消えていった。
今一度、ふたりはヒルダの城の外の崖の上に立っていた。
そしてケランは――むせび泣いた。
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
Wilds of Eldraine エルドレインの森
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