MAGIC STORY

エルドレインの森

EPISODE 01

第1話 純なる心

K. Arsenault Rivera
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2023年8月8日

 

 エルドレインにはひとりの王がいた。善き王であり、その傍らには善き女王がいた。夫妻には四人の善き子供たちがおり、その王国に住まう人々は幸せに暮らしていた。末永く、安心して暮らせるだろうと信じていた。

 だが善き王は死した――最期の時まで家族を守って殺された。女王もまた。彼らのあらゆる迷信も、護りも、善性も、ファイレクシアの侵略の前には何の意味もなかった。平和を享受するはずの後世は今、荒れ野や草原を掘り返した集団墓地の中に横たわっている。

 その侵略を跳ねのけた騎士たちは――傭兵へと落ちぶれた者も、未だ武勇にしがみつく者も――ウィルを「少年王」と呼んだ。そして、他の呼び名にしてくれとどれほど願おうとも、ローアンは彼らを責めることはできなかった。

 ふたりが会うために訪れた騎士はわかりやすい例だった。その女性がまとう鎧のへこみや裂け目は、書物の文字のように確かに武勇の物語を伝えていた。堂々とした顔には、勇壮なる奉仕で得た傷跡が銀色に輝いていた。手にした鎚は優にウィルの身長ほどもあった。ファイレクシア人との戦いで失った片腕の代わりに、魔法の木でできた腕があった――答えと同じくらい沢山の疑問を投げかけるフェイからの贈り物。

 そしてこの女性を取り巻く疑問は沢山存在する。この六か月というもの、彼女は「略奪団」を追い払う対価として近隣の村々に貢ぎ物を要求してきた。だが件の略奪団というのはそう、常に彼女の旗を掲げているように見えた。にもかかわらず、町の人々は彼女に好意を抱いていた――そしてこの好意が、ウィルに彼女との交渉を駆り立てたのだった。

「イモデーン卿」ウィルは頭を下げ、その騎士へと片手を差し出した。「貴女にとっても耳よりな話をお持ちしました。私を貴女がたの中に迎え入れて頂き、感謝致します」

 その騎士は間に合わせの玉座で身動きすらしなかった。伝え聞くところによると、彼女はファイレクシア人の死体からそれを作り上げたらしい――鋭い棘や刃だらけの形状は確かにそう見えた。彼女は脚を組んで座り、ウィルを睨みつけた。

「イモデーン女王、でしょう」

「女王、ですか。それでは対等の立場として取り決めを行うのはいかがでしょうか」ウィルは友好的な笑みを向けたが、その仮面のひび割れをローアンは見てとれた。

 イモデーンの略奪者たちは笑い声をあげた。彼女も肩を上下させて笑った。「話をするまでもないわよ、少年王くん。私がこのつまらない面会に許可を出したのは、君が噂の通りに哀れかどうか見たかったから。そしてその通りね」

「口を慎み――」ローアンはそう言いかけたが、ウィルが片手を挙げて制した。ローアンの腹の内に怒りが渦巻いた。

 片割れの顔から笑みが真に消えることは決してない。「哀れ、私をそうお考えですか?」

「そうじゃないって考える理由が見当たらないわよ。侵略の間、君はどこにいたの? 間違いなく戦場じゃないわよね」

「口を慎みなさい」今度こそローアンが割って入った。自分たちは戦場にいなかったかもしれない、けれど城の中で自分たちの戦いを繰り広げていたのだ。

 ウィルはローアンを払いのけた。「では、決闘でいかがでしょうか? もし私が『そうじゃないって考える理由』を示すことができたなら、膝をついて頂きます。略奪を止め、王権の真似事も止めて下さい。王室への貢献に敬意を表し、我々の家臣および勇士のひとりであり続けることはできます。適切な振る舞いをして頂く限りは」

 ウィルの冷静さはローアンの怒りを熱くするだけだった。血の中に力がうずいた。彼女は拳を握っては解き、握っては解き、感情を押し殺そうと努めた。

 イモデーンは顎の傷の一本をかいた。「で、私が勝ったら?」

 ウィルは背後にいる使者たちを身振りで示した。彼が何を言おうとしているかをローアンは分かっており、その内容が既に嫌だった。「私も皆も、貴女に従いましょう。エルドレインの冠を放棄しましょう。貴女は名実ともに、覇王となるでしょう」

 ウィルはその内容を相談してくれてはいなかった。そうしていたなら、何て馬鹿な案だと言っただろうに。確かに、ウィルは多少の戦いには持ちこたえられるだろう。けれどイモデーンのような女性に対しては、蟻がライオンを相手どるようなものだ。母ならやれただろう、父も――けれどウィルに?

「私にやらせて」ローアンは片割れへと囁いた。「私ならやり合える」

「僕は大丈夫だよ」

「あの鎚なんてあなたより大きいじゃないの。ウィル、お願いよ。これ以上私たちが傷つく必要なんてない」

 ウィルについて、ひとつのことは認めよう――彼の視線は数か月前よりも断固としていた。彼は言った。「それが安定をもたらすなら、僕は自分の血を流すことを厭わない。それに、僕が退かないとわかったなら考えを変えるだろう」

 そんなことをしたら、あなたが失うのは血だけじゃなくなる。

 この女は目の前で倒れた相手に敬意なんて払わない。

 私が今ここにいるのに、どうして信頼してくれないの?

 エルドレインの大気には死が立ち込めている――家族の絆が、ローアンに節度ある態度をとらせた。自分の片割れを笑い者にすることはできない。こんな公衆の面前では。それを置いても、ウィルは毎朝たゆみない訓練を続けている。もはや、ローアンがかつて知っていた不器用な少年ではないのだ。

 イモデーンのような略奪の騎士は、戦闘のために土地を開拓してきた。そうでなければ、その部下たちは軍事行動の合間にどうやって怒りを鎮めるというのだろう? この地の草はすっかり摩耗し、土は固く踏み締められている。傍らでは、イモデーン率いる反逆者たちが不細工なつぎはぎの鎧をまとい、座ってローアンたちを見つめていた。彼らを結びつけるのは信念だけ。それでもローアンの目に、彼らの姿は自分の戦友たちよりも満足そうに映った。確かにアーデンベイルの騎士たちの方が上質な衣服をまとっているかもしれない。そして彼らには眠る場所がある――けれど彼らの信念と忠誠はかつての王に向けられている。

 善き王に。

 ローアンは息をついた。

 彼女の片割れは位置についた。

 らっぱ吹きが角笛を鳴らした。

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アート:Chris Rahn

 長い間、騎士たちは戦場と栄光の場とで槍を突き合ってきた。覚えている――何度となく父の膝の上で跳ねながら彼らを見つめ、見たものすべてについて質問を投げかけ、いつか自分もあのひとりになるのだと絶対の自信を持っていた。そして父はいつも、間違いなくそうなれると勇気づけてくれた。初めて馬上槍試合に出た時、ローアンの喜びは家族全員の心に火花を散らし、それは炎へと燃え上がって更に勢いを増すかのようだった。

 ファイレクシアはそれを奪った。

 今、ウィルが戦闘の構えをとる様を見つめながら、父の顔がウィルのそれに重なった。イモデーンは破壊をもたらす棘だらけの怪物となった。

 ローアンは剣の柄を握る手に力を込めた。その重さ、指に当たる革の感覚を通して、自分自身を今の瞬間に落ち着かせようとした。きっと大丈夫、今回はあの時とは違う。

 先に動いたのはイモデーンだった。彼女は巨大な鎚を手にウィルへと突進した。ローアンはひるんだ――だがウィルは落ち着いており、彼は地面を滑りやすくするため氷を吹きつけた。イモデーンは勢いのまま足をとられると、そのまま体勢を立て直すことができずに顔面から氷へと倒れ込んだ。彼女の部下たちですら笑い出さずにはいられなかった。

 だが栄誉ある決闘という希望は失われた。イモデーンは馬鹿にされて快く思うはずがない。

 彼女の鎚頭から炎が弾け出た。戦場を覆う氷は融け、渇いた地面はわずかな水分を喜んで飲み干した。イモデーンは立ち上がり、同時に力強い片腕で鎚を頭上へと振り上げた。

 ウィルはその叩きつけをかろうじて回避したが、ぎりぎりで身を投げ出したに過ぎなかった。完全に初心者の動き――彼もまた、体勢を立て直す前に地面へと倒れ込んだ。

 そしてイモデーンは、ウィルが立ち上がるよりも速く鎚を掲げた。

 ローアンは息を詰まらせた。恐怖が彼女を追い詰めていた。一秒ためらうごとに、内側から焼かれていった。

 これは嫌だった。これは私という人物じゃない。

 駄目。抑えて。

 そしてあの時、父の死を目撃して感じた怒りのすべてが、その後に感じた悲しみのすべてが、一本のワイヤーを流れる電流として、一切の妨げなしに彼女の内を駆け抜けた。

 だがその怒りとともに、悲しみとともに、別の何かもまたやってきた。何か新たな、恐ろしいもの……いや、そうではない。だがそれは毒のように血管を駆け巡り、ローアンを燃え立たせた。

 彼女の指先を離れたものを稲妻と呼ぶのは、大釜を指ぬきと呼ぶようなもの。その光景には天そのものが震えた――黒雲が遠ざかり、元素の王の堂々たる突撃へと道をあけた。雷鳴が彼女たち全員に膝をつかせた頃には、まるまる5秒が経過していた。

 そして土埃が落ち着いて初めて、ローアンは自らの行いを目の当たりにした。

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アート:Alexandr Leskinen

 これから何世代にも渡り、人々はこれを嵐切りの山と呼ぶのだろう。稲妻の刃で、ローアンは最も近い山頂の側面に巨大な亀裂を刻みつけたのだった。巨人ですら、どんなに努力してもこれに匹敵することは望めないだろう。

 指先がうずき、心臓の鼓動は胸骨の中で引っかかるようだった。信じられないというように彼女は手を、そして巨大な亀裂を見つめた。こんな力はありえない。どこで見つけたのだろう?

「ローアン?」ウィルの声は怯えているようだった。彼も亀裂を見つめた。イモデーンですら恐怖に血の気を失っていた。ローアンを見つめる様子は、まるで人々が……

 恐ろしいものを見つめるような?

 ローアンは言葉に詰まった。何を言うべきかわからず、そのためただ背筋を伸ばして立っていた。剣を手にすれば、まだ力を発揮できる――

 だがローアンがそうしようとした瞬間、イモデーンは鎚を捨てて背を向け、逃げ出した。止める手段を双子が見出せないうちに、彼女の姿は森にのみ込まれた。

 いや、正確には違う。ウィルには止められただろう。一本の氷を放つだけでよかった、けれど彼は地面に座り込んだままローアンを見上げていた。そして助け起こされた時も、彼は決してローアンから目を離さなかった。「何をしたんだ?」ウィルはそう尋ねた。

 ローアンは答えを持ち合わせていなかった。「私に戦わせてくれれば良かったのよ。自分でやるなんて無茶なんだから。きちんと訓練してないってわかってるくせに――」

 背中に視線を感じた。幾つもの剣が抜かれる音。戦士としての彼女の感覚ははっきりしていた。イモデーンは逃げたかもしれないが、部下たちはそうではない。そして明白な監督者を失った彼らは皆、自分の力で名を上げる機会を探し求めている。

「その話は後」ローアンは言った。「この窮地を脱出してからよ」


 かつて仲間たちとともにエンバレスに仕えた、善良にして高貴なる騎士。饗宴のワインをがぶ飲みし、誰よりも大声で自慢話を語る。彼女の腕は力強く、その心はもっと力強かった。

 その女性は何か月も前に死んだ。イモデーンはその残骸だった。

 彼女は逃げていた。恐怖が足を動かし、深い茂みや落ちた枝を抜けていった。

 だが物事にはあり方というものがある――過去から逃げる時には、気を付けて未来を見なければならない。

 イモデーンはそうしなかった。それどころか、あらゆる思考と理性を超えて冷たい石の上に足を乗せるまで、何が起こったのかに気付かなかった。

 野の只中、切り出された石。

 判断力が戻ってきた。背骨に震えが走り、初めての感覚に辺りを見回した。

 ここが何処かはともかく、森は消え失せていた。迷い込んだのは宮殿、華麗に輝く玉座の間。聞きなれない音程の音楽が彼女の耳を惑わした。ワイン、熟した果物、香水の匂いを鼻に感じた。周囲の至る所で、風景が音楽のようにたやすく変化した――壁は豊かな地への窓に、窓は誰も知らない場所への出入り口に。やってみようと思えば、霧深い構造をまっすぐに見通すこともできるだろう。だがそうしようとは思わなかった。定命が今なお知るべきではない物事というものがある。目の前にある玉座は影に覆われているおのの、彼女はそれを見て、自分がどこに行き着いたのかを知っていた。

 イモデーンは両膝をついた。「お許し下さい、陛下。侵入しようという意図はありませんでした」

 蜂蜜酒のような黄金の両目が、闇の中から輝いた。『謝罪など不要。其方は呼ばれたのだから』

 彼女は返答したかった――だがその優美な君主の姿に、すべての感覚が奪われた。

 穏やかな、冷酷な笑い声が彼女の頬を撫でた。『女王を称する者。かつては勇敢なる冒険者。其方は……』フェイの君主は片手でイモデーンの顎を掴み、顔を上げさせた。『純なる心を持つ者か?』


 このすべてから遠く離れた、とある村。

 そこは王国の辺境に位置しており、日常生活において王や女王の名前が住民の口にのぼることもない。年に一度、ひとりの旅の商人が訪れること自体が祝日となっていた。商人がこの村を見つけるためにどのような道を辿ろうとも、彼はそれを外の世界と共有はしなかった。ファイレクシア人でさえこの場所を無視した。

 あるいは、彼ら羊が好きではなかったか。

 その村には人よりも少なくとも五倍の羊がいた。人々がオリンシャーという名を口にする時には、必ず「羊毛」という言葉が付きまとった。

 ケランはここが好きではなかった。そして小さな我が家の扉をそっと通りながら、ここもまた彼のことが好きではないと、その感情はお互いさまだとわかっていた。彼はただ、母親がそれに気付いていないことを願っていた。

 だが母親というものは多くの不思議な才能に恵まれており、その中には子供たちが尋ねられたくないことを尋ねるという不自然な能力がある。ケランが扉をくぐって入ると、母は糸車から顔を上げた――そしてその表情が喜びから懸念へと変わった。

「おかえりなさい――あら、大変。怪我をしたの?」

 ケランは母が立ち上がる前に振り払おうとしたが無駄だった。彼女はほんの一瞬でわずかな距離を詰めた。既に母はケランの頬の引っかき傷を、前腕についた血の痕を見つめていた。

 母を見上げるよりも、ケランは床を見つめる方を選んだ。彼は呟いた。「大したことじゃないよ」

「大したことじゃない?」母はそう繰り返した。ケランのフードの折り目から、彼女は一本の釘を取り出した。「ケラン、これは何? 何をされたの?」

 彼はひるんだ。全部払い落したと思っていたが、どこかに一本は残っていると考えるべきだった。「ただの……あのさ、言わなきゃ駄目?」

 母が意気消沈したことは顔を見ずともわかった。彼女は鼻をひとつ鳴らし、ケランの髪の毛からイチイの削りくずを優しく払った。「ああ……ごめんなさいね。話したくないなら話さなくていいのよ」一息ついて気持ちを落ち着かせた後、彼女は振り返って叫んだ。「ロナルド! ロナルド! 井戸から水を汲んできて!」

 義父の返答の叫び声があがり、ケランはまたもひるんだ。卓につくように母に促されると、ケランは唇をとがらせながら椅子に勢いよく腰を下ろした。糸が切れた操り人形のように力が抜けた。そう、まさしく操り人形のように――16歳にしては、彼は痩せて小柄だった。他の男の子たちが自分を犠牲者に選ぶのはもっともだと言えた。母が清潔なぼろ布を持ってきて、ケランの褐色の肌から血を拭き取り始めても、彼はまだ母と視線を合わせようとはしなかった。

「農地の子たち?」母はそう尋ねた。「マチルダから糸玉を五つ借りてるから、届けに行く時に話をすることも――」

 ケランは溜息をついた。嘘をつく気にはなれなかった。「あいつらが悪いんじゃないんだ」

「その子たちがあなたを傷つけたなら、どうして悪くないのかわからないわ」

 大きなにやにや笑い。逃げ去る彼へと投げかけられる笑い声と野次。『お前はよその子、混ざり者』

「あいつら、僕にひとつ質問をした。僕は答えを間違った。それだけ」ケランはそう言った。義父の大きな足音が聞こえ、そして扉が開いた。

「こんな目に遭わなきゃいけない質問なんて、一体何?」母は続けた。「ああ、ケラン。何が起こったのかはともかく、あなたは何も悪くないわ。答えを間違ってなんていない。あの男の子たちは……」

「あいつら、多分僕を怖がってるんだ。忌まわしき眠りは僕のせいだって思ってるんだ」

 義父が姿を現し、バケツが水音を立てて彼らの横に置かれた。「僕たちのケランを誰が怖がってるって? うわ――何があったんだ?」

「大したことじゃないって」ケランは立ち上がって隠れたかった。そうすれば両親が顔の切り傷を見つめるのを止めてくれる。けれどそうはならないともわかっていた。

「農地の子たち。見て、ケランが何を投げつけられたか」母はそう言い、ケランの衣服の間からまた一本の釘をつまみ取った。「それにこの子の髪を見て! あの子たち、一体何を考えているのか……」

 ふむ、とロナルドは小さくうなった。彼はケランの茶色のくせ毛から木の削りくずを一本引き抜き、それを鼻に近づけた。「イチイ。そして釘は冷たい鉄だろう。そういうことだね、ケラン?」

 唇を噛みながらケランは頷いた。

 母は動きを止めた。「その子たちの質問って……」

 ケランはまだ顔を上げなかった。「聞かれたんだ。僕の本当の父さんは噂の通り……」

 その釘は三人の間に落ちた。

 最初に沈黙を破ったのはロナルドだった。彼はケランの肩に手を置いた。「その子たちが何て言おうと気にすることはない、ケラン。大切なのはお前が誰かであって、お前がどこから来たかじゃない。そしてお前は私たちの子だ」

 ケランは深呼吸をした。怖くて尋ねられないような質問、けれど勇敢でなくては。物語に出て来る英雄はみんな勇敢なのだ。「けど……それが本当だったら、そうだとしたら僕は何者なの? 僕は森にいるべきじゃないの?」

「森はあなたが考えているようなものではないのよ」母は言った。「あなたには想像もつかない危険があるの、私の可愛いケラン。もっと大きくなったら、一緒に向き合えるわ。けれど今は……」母はケランへと両腕を回した。一瞬、彼はどちらがどちらを抱きしめているのかわからなかった。「あなたはここにいるべきなのよ。私たちと一緒に、誰が何と言おうとね」

 だが母がそう言ったのも、こうして抱擁し合うのも初めてではなかった。

 そしてケランは家族を心から愛していたが、ひとたび森に目を向けたなら……

 森に目を向けたなら、ケランが感じるのは切望だけだった。


 アーデンベイル城は廃墟の中に横たわっていた。半ば焼け落ちて見捨てられ、自称覇王とその宮廷の座にはふさわしくなかった。代わりにウィルはヴァントレス城に居を構えた。石に浸みこんだ知識が洞察をくれる、彼はそう望んだのかもしれない。

 ローアンはそうは思わなかった。彼女はウィルの間に合わせの作戦室に立っていたが、片割れが彼女の存在に気付いたのは15分も経ってからだった。衛兵たちが彼女の到着を告げても、彼女が何度咳払いをしようとも、ウィルの関心は何よりも書類へと向けられていた。そのすべてを責めることはできなかった――王の代行として、ウィルは自分たちふたりを合わせたよりも高い書類の山の中に埋もれている。同盟、税の取り決め、忠節の誓いに激しい抗議――ここまで高く積み上がった中、どれがどれかを判別するのは不可能だった。

 とはいえ、そもそもその地位についたことでウィルを責めるのは可能だ。

 このすべてが彼にどれほどの負担を与えているかはありありと見てとれた。目の下にはくまができ、顎には無精髭が生えていた。イモデーンとの戦いでできた目の周りの青あざは未だ癒えていなかった。シーリスに治してもらう気がないのか、それとも何かを主張したいのか。後者に違いない――もしもシーリスが彼を一目見たならただちに癒すだろう、ウィルがどう望んでいようとも。

「出発するわよ」ローアンは言った。

 ウィルは目を細くして彼女を見つめた。自分の片割れ、それを認識できていない。それで王国を統べることができると思っているのだろうか? 「ローアン、利き腕で考えるなよ」その言葉の響きはまるで、子供に悩まされる親のようだった、彼女たちの父親の声よりもずっと。「兄弟姉妹たちが僕らを必要としているんだ。人々が僕らを必要としているんだ」

「ヘイゼルとエリックにはもう伝えたわ、しばらく離れるって。それにこれが、王国のために私たちができる最善のことだと思うのよ」話す内容はここに来る前に考えていたが、気付くと今やその内容は違うものになっていた。「自分の姿を見てみなさいよ、ウィル。疲労困憊でしょう。二日間も寝てないって兵士たちが言ってたけど、今その姿を見るに本当だって思うわ。あの崖で何があったのか、噂が王国に広まり始めてる――」

「――君が僕を信頼してくれたなら、避けられた事態だ」氷のように鋭く、ウィルは割って入った。そして座ったまま背筋を伸ばし、ローアンから目を離さぬまま一枚の書簡を取り上げた。「ロクスボロー侯爵から今日届いた手紙だ。他者にあのような危害をもたらす片割れを止められない男に膝をつくことはできない、と。『臆病者はエルドレインの覇王にふさわしくない』とのことだ。これまでに受け取ったこの種の手紙はこの一通だけじゃない。君がもっと僕を信頼してくれたなら」

 ローアンのこめかみに鋭い痛みが走った。最近ずっと悩まされている、忍耐力を蝕む頭痛。彼女はきつく目を閉じた。「私が割り込まなかったらあなた死んでいたのよ。けれどその人の言うことは一つだけ正しいわね……あなたはエルドレインの本物の覇王じゃない。そのための探求に出ていないのだから」

「厳密なことでうるさく言わないでくれよ。王国が覇王を必要としていて、僕はやるべきことをやっている。それに僕だってあの崖ではやれたはずなんだ。ローアン、僕には作戦があった。君に守ってもらう必要が常にあるわけじゃない」彼は続けた。「自分たちが見せる印象には気をつけないといけないよ。人々は団結させてもらいたがってるし、僕は人々を団結させたい。山に穴をあけるなんてのは団結には程遠い行いだ。僕はイモデーンと話しをして、前に進むやり方を見つけようとした。けれどイモデーンは森の中へ姿を消して、彼女の部下には僕たちを恐れる理由ができた」

「そう? 怖がらせておけばいいじゃない。懲らしめてやったのだから、早々にあのあたりで暴れるってことはないでしょうね。何十軒かの農家が山賊に怯えて暮らすよりは、千人の山賊が私に怯えて暮らす方がいいわ」

 ローアンの片割れは顎に力を込め、顔をしかめた。「僕らの両親は、きっとそんなことはしなかった」

 こめかみに脈打つ頭痛、彼女自身の閉じ込められた怒り、血の火花――片割れへと激高した原因を誰がわかるだろうか? だが何にせよ彼女は激高した。「お笑い種だわ、ウィル。私たちの両親は王国にはびこる呪いを無視なんてしなかったでしょうね。それとも『団結』が忌まわしき眠りを解決するとでもいうの? 人々が必要としているのは握手と一杯のエールだなんて私は知らなかったわよ。それとあなたが忘れる前に言っておくけれど、お父様とお母様はその称号を受けるに値した。あなたはただ自分を覇王って呼ぼうと決めてるだけ、自分がそれに相応しいって思ってるから。それは違うって私がどれだけ言ってもね」

 言い過ぎだとは彼女もわかっていた。けれど構わない。これ以上この件について話す必要はない。自分たちが集中すべきは、問題の解決策を見つけ出すこと。忌まわしき眠りはファイレクシア人を止めたかもしれないが、王国はその対価を支払うために悪しき取引をさせられた。今やそれはエルドレインの住民へと広がり、終わりは見えない。夢見る者たちを目覚めさせるものは何もない――真実の愛の口づけでも、バケツ一杯の氷水でも。

 忌まわしき眠りという問題を解決できるなら、人々は自分たちに付き従うだろう。ヴァントレス最高の精鋭たちが問題解決のために数か月を費やしているが、突破口は見えていない――けれどヴァントレス最高の精鋭たちの手は多元宇宙に届かない。

 私たち双子にはそれができる。

 それだけではなく、ここから離れられる。自分たちのものではない城から。記憶から。

 そして違いは沢山あるけれど、少なくともひとつのものを自分たちは共有している――灯を。これまで何度もそうしてきたように、ローアンはその力へと呼びかけた。

 ウィルは身を強張らせた。「ローアン、今行くのは駄目だ――」

「このままここに座っているわけにもいかないでしょう。魔法の解決策を探すことをストリクスヘイヴンは教えてくれたわ。私たちがやるべきことはそれよ」

「僕は覇王だ、ここにいなきゃならない!」

 おかしい。もうこの次元を離れていたっていいはずなのに? ウィルのせいに違いない――彼の癇癪が自分たちを押し留めているのだ。あるいは、相応しくない称号に対する彼のじれったいこだわりだろうか。「エルドレインに対する義務を果たすのよ。義務が呼んでいるのよ。私の集中を邪魔しないで」

 この時、彼女はプレインズウォークへと集中した――目を閉じ、突き刺すような頭痛の先を、自分自身の不満の先を見ようとした。

 だが目を閉じたのが誤りだった。今一度、彼女はアーデンベイル城の長く湾曲した廊下を見下ろしていた。剣を手にした父、父が戦っているファイレクシアの巨獣。継母と弟妹が逃げてくる。ウィルとローアンめがけてまっすぐに。弟妹の目には恐怖が、継母の目には決意が。

「この子たちを守って。そして健やかに生きなさい」リンデンの言葉。

 この物語の結末を彼女は知っていた。

 それを見たくはなかった。

「……ローアン?」ウィルが尋ねた。この会話が始まってから初めて、彼の声は心配を帯びていた。「大丈夫か?」

 胸が圧迫されているようで、頭には棘が刺さっているようだった。そして目を閉じるたびに、ファイレクシア人の刃に斃れる父の姿が見えた。

 そして両親を奪い、片割れとの関係を壊しただけでなく、ファイレクシア人はまた別のものを彼女から奪ったように思えた。プレインズウォークのために精神を澄ますことができなかった。灯――その反応がないように思えた。事実、ローアンは全くそれを感じられなかった。

「ううん」簡潔にローアンは言った。「いいわ、ここにいたいならそうすれば。私は行くから」


 新月の日には必ず、ケランと母は森の端にある古い柳の木へと歩いて向かう。幹に背をもたれて葉で目を覆いながら、母はケランに物語を語る。母が言葉を紡ぐごとに、ケランの目の前に星が踊る。ホタルは騎士たちの輝く盾となり、風に揺れる草は彼らの剣となるのだ。

 最近は、毎回新たな英雄たちの物語を聞くのではなく、ある素晴らしいふたりの物語をずっと聞いていた。垣魔女の訓練から逃げ出した若き女性と、トロールの襲撃から彼女を救った青年。共に僻境を旅しながら、ふたりはあらゆる類の獣や利口な魔術師と対峙するのだ。

 ケランは彼らが何者かを知っている気がした、けれどそのように聞くのを楽しんでいた。

 この夜も、いつもの新月の夜と同じように、ケランは半ば駆けながら丘の上を目指した。家で飼っている牧羊犬が彼の後について来ていた。遅い時間にもかかわらず、元気いっぱいに草の中を跳ねながら。

「僕を追い越せると思ってる?」ケランはそう声をかけた。

 犬のへクスは吼え、大きな顎から涎が飛んだ。

 ケランはにやりとした。彼はへクスを素早く撫で、だがそれでも先を走り続けた。牧羊犬と競争するなら手加減はできない。

 ようやく目的の木に辿り着いた時には、ケランは息を切らしていた。だがこの日一番幸せだった。この丘の上からは村のすべてが、アーデンベイル城のように遠くに見える。彼は柳の心地良い樹皮に手を触れて振り返った。すぐ来ると母は言っていた――この場所から見えるはず。

 だが目を向けた時、彼が見たのは村ではなかった。

 見たのは村だけではない、というべきか。ケランの前方には、半透明に揺らめく石でできたアーチが立っていた。

 母の物語は彼に少しだけ心構えをさせてくれていた。それが何なのかを彼は正確に知っていた。高位のフェアリーと話ができるという、招待。

 それが、どうしてここにあるのかは……

 ケランは息を詰まらせた。アーチの右に、丘を駆け昇ってくる母の姿が見えた。アーチが見えているのだとしても、母は一言も発していなかった。

 自分はここにいていいのだ。母を待ち、扉は無視して消えるのを待てばいい。

 だが引っかき傷は今も痛み、いわゆる仲間たちの言葉は心にこだましていた。お前はよその子。

 その通りだとしたら……これは、ようやく父が気付いてくれたのだろうか? 本当の父が。

 その考えが浮かんだ瞬間、ケランの手は奇妙なドアノブに触れていた。へクスが猛烈な勢いで吠えたてた。その一声一声が鎚音のようにケランの鼓動に同調した。けれど、ためらうわけにはいかない――こんな機会は二度とないかもしれないのだ。母が追いついたなら、絶対に行かせてはくれないだろう。

 ケランはアーチをくぐった。英雄は決して躊躇しないものだ。目に見えない突風に吹き飛ばされて彼はその先を突き進み、冷たく苔むした床に着地した。しっかりと立つと、初めて彼はその場所の草がすべて銀でできていると気付いた。頭上にうねる木々は宝石の実をつけていた。遠くには山のように大きなかやぶき屋根の家々が見え、周囲では動くミニチュアの騎士たちが住む城があった。

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アート:Anna Steinbaurer

 そして、今や少し怯えた視線を今一度地平線へ向けると、ケランの目には階段とその頂上の玉座が映った。そしてそこには人影がひとつあった。

 人間は息をのむことと同じほどに、物事を美しいと表現するのを好む。そうすることで、山が長い時を経て岸となるように、言葉の意味は薄れて消え去る。

 その理由は単純――真の美は、混じりものがなく純粋なそれは、見た者の感覚を奪うほどの衝撃を与える。

 玉座につくその人物は、星々そのもののように美しかった。故郷の村から遠く離れたことすらないケランは、自分が見ているものを理解することができなかった。その人物の顔立ちはケランの心を惑わせ、意地悪な笑みはケランのあらゆる思考を奪った。

『答えよ、勇敢なる英雄よ……其方は自らの心に忠実であるか?』

 すっかり魅せられたケランだったが、流れる雲のヴェールを見て我に返った――雲もここでは正当な存在ではなく、地面近くに低く流れている。物語には何とあった? フェイを直接見つめるのは避けた方がいい。ケランは視線を落として地面を見つめた。

「わかりません。そうでいたいと思いますが」

『それは答えになっていない』その人物は溜息をついた。母が王子様に似せてそうするように。『其方は真に父の子であるか? それほどの傷を負いながら報復を行わぬとは?』

 ケランの心臓が痛いほどにひとつ高鳴った。「つまりその、本当なんですか? 僕は半分フェイなんですか? ぼ――僕の父さんを知ってるんですか? 待って、貴方は……?」

 その人物の顔をもっとよく見ればわかるかもしれない。ケランは前へ踏み出し――だがすぐに薔薇の茎が彼の足を拘束した。

『気をつけよ、少年。定命からの憎悪を引き起こす血は、ここでは其方に幾らかの護りを与える。だがそれは有限だ。其方の場所に留まるならば、我も止めるつもりはない。だがもう一歩踏み出すなら、其方は自らの領域を捨てて我が方に身を委ねることになろう』

 ああ、この人はフェアリーの王なのだ。他に誰がいるというのだろう? ケランの膝が震えた。あらゆる騎士がそうするように、彼はひざまずこうとした。自分が愚か者のように感じた。「へ……陛下」

『タリオンである』

「タリオン陛下。僕の父さんを知っているんですか?」

『我は多くの物事を知っておる。だが我が何者であるか、そして其方の居た場所を知っておるのであれば、我らが類族は決して無償の施しは行わぬとは解ろう」タリオンはそう返答し、玉座から身を乗り出して手の上に顎を乗せた。『我らには我らの法が存在する。我に奉仕せよ、少年、さすれば回答を与えられよう』

 我らが類族。我らの法。果実は宝石で、見知らぬ獣たちが更に見知らぬ木々の間を音もなく歩くこの場所。ここに立つということは、長い間行方知れずになっていた親戚の家の中に立つようなもの。何がどのような意味を持つのかも分からないままに。

 けれどフェイは嘘をつかない。母はいつもそうはっきり言っていた。『フェイと取引をする時は、わかりやすく答えるほどいいわ』そしてこれは、ケランにとっては極めてわかりやすく思えた。

「陛下は何が欲しいんですか?」

 タリオンは鳥のさえずりのように美しく、不思議な音色を口ずさんだ。そして指を鳴らすとケランの両脇に一体ずつのフェイが現れた。両者とも、きらめく果実の入った鉢を抱えていた。それを見てケランの胃袋が鳴った。喉が渇いたと感じた。『其方は空腹であろう』

 だがこれも母からよく聞かされていた。そしてタリオンも言っていた、フェイは決して無償の施しはしないと。「いいえ、要らないです」

 タリオンはにやりと笑った。そして両手を振ってフェイたちを退散させた。

『ならば取引と行こう。三人の魔女がこの地を眠りに苛んでいる。飢えたるアガサは大釜の傍らに待ち構え、英雄を食そうと欲している。冷酷なるヒルダは冬の冠を手中に収めている。幻惑のエリエットは恋人たちや君主らの居所で見つかろう。この三人を打倒するほどに勇敢なる者は、王国への呪いも打ち払うであろう。そしてその奉仕の対価として、常に富みし我が宝物庫から賜物を与えよう』

 王国への呪い? 三人の魔女? タリオンは本物の英雄を必要としている。ケランの掌に汗がにじんだ。自分がこれまでに成し遂げた一番勇敢なことは、あのアーチをくぐることだった。戦ったことなどなく、探求を完了したこともない。けれど断れるわけがあるだろうか? この場所は、ここの人々は……自分と同じ血筋だ、そうだろう? もしかしたら、父はがっしりとして大胆な、フェアリーの騎士なのかもしれない。あるいは、ずる賢くて頭のいい魔道士かもしれない。どんな人物かはともかく、タリオンが目にかける人物。それは何か意味があるんじゃないのか?

 本当の父についてもっと知りたい。もっと近づきたい。銀の草の中に、ありえないほど美しい場所に住むその人に。母は一度だけ垣間見て立ち去った――だがケランはもっと見たいと思った。

 失敗するならそこまでだ。けれどやり遂げるなら、ついに真実がわかるのだろう。

「やります。行きます」


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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