MAGIC STORY

テーロス

EPISODE 05

魅惑の果てに

読み物

Uncharted Realms

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魅惑の果てに

Ken Troop / Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori

2013年10月9日


 その野ネズミは相当近くまで寄って来た。ザンドリアは昼夜を問わず、雨の中待っていた。打ちつける冷たい雨は、ある意味快適だった。誰かに触れてもらっているようだった。それに彼女は病で死ぬことはないだろう。全くもって、死ぬことはないだろう。けれど野ネズミに同じことは言えない。

 彼女は絶えず空腹だった。その諸島に大型の獲物は居なかったが、他の者達はより小型の生物を滅多に食そうとはしなかった。それらの大部分が彼女へと残されていた。もし食べるのを止めたならどうなるかと彼女は疑問に思ったが、ある時から飢えは強制的なものとなった。食べねばならなかった。

 ニクスは暗い雲に覆い隠され、ザンドリアには岩の露頭に止まった自分の足がかろうじて見える程度だった。だが彼女は野ネズミががさごそと近づく音を聞き、歌い始めた。ひっかき回す音は止み、小さな鉤爪が立てる夢見るような足音になった。彼女の声は暗く濡れた夜に満ち、雨音と風音と憤怒と怖れを圧倒した。彼女はそれこそが真実であることを願った。ついには怖れなど無くなるのだと。

 野ネズミは彼女の目の前に這い寄ってきた。彼女はまだそれを目視できなかったが、匂いを、濡れた毛皮を、その生命を感じることができた。それが彼女の脚から身体へと這い上がると、今や彼女の歌の速度と同調し、その音楽の源へともっと近づこうとするその小さな心臓の鼓動を聞くことができた。彼女はその野ネズミが顔へと上がってくると、大きく口を開けた。顔でその毛皮の感触を味わった後、それが彼女の口へと入るのがわかった。そしてその背骨を激しく噛み砕き、身体を真二つに食い千切った。

 口内に感じた血と筋肉の味は、その小さな身体を引き裂き飲み込むために彼女が必要としていた力の味だった。これまでの長い歳月、多くのひどい食事の後でさえも、このように食事をするのは決して容易いことではなかった。その野ネズミが最後に思ったのは自分の美しい歌であって欲しいと彼女は願った。

 もう一つの、そして更なる歌が夜の空気に弾けた。ザンドリアは他の者達が何に注意を惹かれたのかと思い、雨の暗闇へと素早く目をやった。そして海の上に彼女は光を見た。一艘の船だった。彼女は翼を広げ、岩から飛び立つと水面へと急降下し、光へと向かった。その船が放つ光は渦巻く波と激しい雨の中に弱々しく見え隠れしていた。とはいえこの岩と海の広がりを縫って進むためにその光を見る必要はなかった。

 その船はメレティスを出港したガレー船だった。大型で堂々としており、練達の船乗りと戦士達を乗せ、恐らくは交易路にあると思われた。その船は遠く航路を外れてこのセイレーン海の端に来ていた。嵐に遭ったのか、不注意からか、時折人間を掴むと言われる致命的な勇気に駆り立てられてか。ザンドリアは決して知ることはなかったが、気にすることは止めた。人間と人間以外との遭遇は常に同じ終わり方を迎える。

 他の者達が二十体程、急上昇と急降下を繰り返しては歌を放っていた。その船は重要なためか甲板に魔道士が乗っていた。ある種の魔法が彼の耳を護っており、彼は炎を放って他の者達を寄せ付けないようにしていた。甲板上の他の乗組員達を護る魔法はなく――多くが自ら望んで船の手すりを越えようと歩き、何人かは互いを掴み合い、何人かは眼下の暗い海へと飛び込み、その素晴らしい歌を聞くために浮かび続けようともがいていた。漕ぎ手のほとんどはこの時点で既に漕ぐのを止め、うっとりと歌を聞いていた。耳の不自由な者でさえこの事態がどう終わるだろうかを知っていた。

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 その魔道士は一体のセイレーンを倒し損ねた。明るい中、乾いた大地の上で戦う時ならば些細な事だったが、この苦境では全く別だった。ザンドリアは一瞬、この男性を助けようかと考えた。その手が放つ光から見えた彼の姿は若く美形だった。だがこれはまた、彼女が以前からわかってきた道だった。他の者達は彼女を傷つけることはできないだろうが、前回彼女が邪魔をした際、他の者達は彼女の島からあらゆる生物を数週間に渡って連れて行ったのだった。その時彼女は、死ではなく、狂気こそが自身の永遠の伴侶なのだとわかった。最終的に他の者達の怒りが和らぐ、もしくはその遊びに飽きたなら、鳥と魚と鼠とともに彼女は放っておかれる。彼女はこの男性を助けるわけにはいかなかった。

 そして他の者達の一体が彼の背後から急襲し、その背中と肩を鉤爪でいくらか抉った。彼は叫びを上げたに違いなかったが、その声は雨音と歌声の中にかき消された。ザンドリアは近くまで飛び、甲板の光に照らされたその場を見下ろした。魔道士が使用していた防護の魔法か何かは戦闘の中で消え去り、彼はそこに立ったまま背中から血を流し、片方の肩と腕は筋肉と骨の撚り糸と化してぶら下がっていた。だが先程まで憤怒と怖れに支配されていた彼の表情は、今や穏やかに見えた。幸せに見えた。彼は他の者達とその美しい歌へと近づいた。そこに何が待っているかを彼は知っているのだろうか? 知らない筈があるだろうか?

 他の者達が彼を貪り始め、ザンドリアは目をそむけた。濡れた大気を満たす美しい歌は今や食事と虐殺の音、暴力的な終焉に静まることしかできない、耳の聞こえない者達の不運な泣き声となった。ザンドリアは他の者達を見た。彼女らもザンドリアを見てくれることを、認めてくれることを、この空しさを満たす何かを願って。だが他の者達は食事を邪魔されるのを拒否し、騒々しい叫びを交わし、彼女が近くに来たならば威嚇するだけだった。ザンドリアは船から飛び立ち、暗闇へと戻った。


 彼は美しかった。名はニーニス。彼について思い出せることは僅かだった。彼らは二人ともメレティスの若き学生だった。彼女は内気で、人々よりも本に囲まれているのを好んでいた。彼に気に留めてもらうことなどありえなかった。

 彼にとっても、彼女に気を留めるのはありえなかったはずだ。誰も彼女を気に留めなかった。だが倫理学の教室が一緒になると彼は彼女へと近づき、その洞察に魅了された。二人はその日、何時間も語り合った。次の何日か、二人は更に長い時間語り合い、学院の広間を通り過ぎ、学院の外の渚へと出るまで歩きながら語り合った。そして二人はその夜を共に過ごした。

 次の朝、彼女が渚にて目を覚ますと、彼はまだその美しさのまま隣にいた。彼女は自分の幸福を信じられなかった。彼は美しかった。賢かった。そして彼女のものだった。

 彼女は立ち上がって身体を伸ばし、贅沢な朝を楽しんだ。太陽は空と海とが繋がる青色を赤くゆらめき照らすだけだった。水の上を光の悪戯が遊び、あちらこちらへと踊っていた。だが次第にザンドリアは、その光が融合して一つの「姿」を作るのを理解した。その「姿」は水から海岸へと向かって動き始めた。

 全てが起こった直後でさえも、彼女は一つの「姿」以上のものを思い出すことはできなかった。その「姿」は柔らかで不明瞭なささやきを伴っていた。耳に捉えることのできない無のささやき、それ自体を目に留めることができないのと同じように。何かが怖ろしいほどに間違っていると彼女は気がついた。ニーニスを起こそうと彼女は動き、彼を荒々しく揺すったが、彼は動かなかった。

 この者は目覚めぬ。その声は彼女の心に直接響き、痛みを与えた。この者がこれ以上心を乱すことを望まぬ。その姿は彼らから数フィート離れて、砂の上に浮かんでいた。彼女の目の前にいるのは神。ニクスの地、夜空からテーロスを統べる万神の一柱。どの神かはわからなかったが、ここまで近づいている今それは問題ではなかった。彼女は砂に膝を落とし、苦痛に耐えながら頭を下げた。

「お許し下さい、お許し下さい......」

 お前は我がものを愛した。

「知らなかったんです」 先の見えない恐怖に彼女は言葉を放った。神の声が聞こえるごとに痛みは強まり、声が彼女の頭から去ると、低いささやきが大きくなるのだった。

 けしからぬ。お前は我がものを誘惑した。

「私達、知らなかったんです! 何も! 彼は何も言いませんでした! どうか、どうかお願いです」

 知らなかった? 知っていたならば何だ? ましてやその者が? 我はその者がまだ母に抱かれる赤子のうちに、我がものとなる印をつけた。この地にて幾多の世代の前も後も見ることができないような、肉体と精神の完璧な結合だ。我がものだ。そしてお前は図々しくもこの者を愛した。お前はこの者に自分を愛させたのだ。

 彼女はひざまずき、縮こまり、むせび泣き、許しを請うた。そして頭を地面につけ目を閉じていてさえ、彼女はその「姿」が近づき、触れるのを見ることができた。

 魅惑の果てに何があるかを知るがよい。

 彼女は悲鳴を上げた。

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 翌朝、ザンドリアは住処である岩がちの島で目覚めた。夢の中で上げた悲鳴がまだ心にこだましていた。あの日の、古い人生が終わった日の夢を見るのは稀だった。彼女は翼を広げると朝食を探しに飛び立った。

 今の自分の存在が現実であるにもかかわらず、今も彼女は飛ぶごとに喜びを感じていた。一人の娘として、彼女は丘や平原を駆け、突然地面から飛び立ち、自由に空を飛ぶ夢を見たものだった。

 まさしく、飛ぶことはそういった夢のようだった。変身して最初の数日、彼女は新たに得た力を大いに喜んだ――飛行能力、その美しい声、周囲の生ける生物のほとんどを虜にしてしまえる力。彼女はその翼を愛した、黒く、柔らかな羽根。風をつかまえるべく広げる、もしくは彼女の身体を包んで温めてくれる翼。

 あの嫉妬深い神が復讐を与えた後の最初の朝、彼女はこの島で目覚め、ただちに飛び立った。どこかへ、いずこかへと。彼女は文明を見つけ、メレティスへと帰る道を見つけようと考えた。そこには誰か、教師か魔道士か、神官か、彼女が人間へと戻る、ニーニスへと戻るのを手助けしてくれる誰かがいるだろうと。

 海の真中、島が見えなくなると、彼女はあの神が去る前に言い残した最後の二言の真実を理解した。去ることはならぬ。やがて、彼女はその島に繋がれた見えない紐に捕えられているのだとわかった。彼女は何リーグも遠くへと放浪することはできたが、それは海と、彼女の同類が支配する他の島に限られていた。神が仕組んだ垣根だった。

 そして、神が彼女に言い残した最後の一言の真実がわかるのはもっと後のことだった。死ぬことはならぬ。

 彼女は眼下に銀色の閃光が動くのを見て現実に引き戻された。ほとんどの哺乳動物と鳥類は彼女とその同類達を避ける知能を持っていた。昨晩の野ネズミのようなごちそうは稀だった。だが魚がいた。魚は決して学ぶことはないようだった。二匹が水から跳ね上がって、彼女は即座に歌でそれらを手短に魅惑すると、そののたうつ身体を掴んでむさぼり食った。変身する前は魚の味は決して好みではなく、今も何千回と魚を食してきたが、良いものではなかった。だが食べねばならなかった。彼女は島へと戻った。

 最初の数日を思えば、別の道があったかもしれなかった。この島々の中、彼女は孤独ではないとわかった時に。彼女は以前人間だった頃、セイレーン達について確かに聞いたことがあった。だが実際に見たことはなかった。そして海面に映った自分の姿を見ても、それが現実だとは信じられなかった。それは彼女ではなかった。治り、癒され、ニーニスと再会できるはずだった。

 セイレーン達は彼女が初めての旅から戻ってくるのを待っていた。彼女らの美しさは否定できないものだった。すらりとした身体、脚は長く、その美しい黒い翼を海風に優しく羽ばたかせる。彼女らがその口を開くと、ザンドリアは反射的に背を向けた。メレティスのあらゆる子供達は、セイレーンの歌についての怖ろしい物語を聞かされていた。だが彼女が聞いたのは歌ではなく、騒々しい叫びとさえずりだった。ザンドリアが驚いたことに、彼女はそれらを理解することができた。まるでセイレーン達が人間の言語を適切に話しているかのように。

 彼女らはついて来るように手招きをし、ザンドリアは従った。彼女はまだ、この状況は一時的なものだと考えていた。今は一つの冒険の初めの部分であり、子供の頃に好きだった物語の一つのように、確かな運命とともに幸せな結末が待っていると。ならばこの生物と仲良くするのが得策だった。その上彼女が考えるに、もしかしたらこのセイレーン達の一人がある日、彼女を救ってくれる鍵になるのかもしれなかった。もし物語が人生への何らかの指針であるなら、間違いなく彼女らの一人がそのはずだと。

 だが彼女らがもたらしたのは恐怖だった。

 男性が二人、海岸に倒れていた。難破して打ち上げられた小さな帆船の船員達だった。その一人は内臓のほとんどを裂かれており、身体の下から血と肉の管が辺りに広がり、砂へと滲み込んでいた。だが彼はまだ息があり、少なくともあと少しは生きていられるようだった。もう一人の男はほとんど無傷のようだが、呆然として目の前に広がる砂の光景を拒否しているかのようだった。この二人をどうやって助けるか、彼女の心が急いた。医術についてはほとんど知らなかったが、何かしなければいけなかった。

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 彼女の周りのセイレーン達が歌い出した。男性二人は身体を起こし、致命傷を負った方の男に至っては内臓を身体にかき集めて立ち上がろうとした。それに失敗すると、彼は苦しそうにのろのろと声の方へと這い始めた。ザンドリアがセイレーンの歌を初めて聞いたのはこの時だった。それは確かに美しい旋律だが、祝祭で聞く熟達の歌い手と違わないように彼女には聞こえた。だがその男達にとっては、セイレーン達の歌は伝説に違わぬ影響力を持っていた。

 当初、ザンドリアは彼女らの声にある種の癒しの特性があると考えた。傷を負った男性はありえないほどの生気をもって動いていた。だが突然、最後の内臓が落ちるとその男性は倒れ、死んだ。他のセイレーン達は速やかにその屍へと殺到し、引き裂き、軋み声を上げて食らった。

 彼女は吐き気を感じたが、それは恐怖に圧倒された。たった今死んだ男性の健康なほうの船員仲間がセイレーンの一体へと歩いていっていたのだ。歓喜の表情を浮かべながら。叫びを上げて警告する時間はなかった。セイレーンは男性へと近寄ると一噛みでその首をほぼ落とした。その男性は地面に崩れ落ち、ザンドリアは彼の穏やかな笑みがその死んだ目と異様な調和を成すのをまだ見ることができた。それはニーニスの目と同じに冷たく、生命なく、よどんでいた。

 彼女は金切り声を上げ、人間としての音は全て捨てて殺戮の現場へと飛び込んだ。そのセイレーンは驚いてやかましく鳴き、食事をしながらも彼女から飛び去った。他のセイレーン達が振り返って彼女へと向かってきた。彼女らはザンドリアの腕と脚、翼さえも掴むと地面に倒した。彼女はもがき、悪態をつき、この滑稽な食事を止めるよう要求した。だがセイレーン達はあざ笑い、彼女の頬をつついて肉の小片を引き裂いて千切り、笑い続けながらその肉片を噛んでは彼女の目の前に吐き出した。その痛みは凄まじいものだった。あの神が触れた時と比較してさえも、人生で最悪の痛みだったと言えるだろう。

 セイレーン達はそれぞれ口いっぱいに血肉を頬張ると立ち上がった。そして食い荒らされ、今やほとんど骸骨と成り果てた二つの屍の間に彼女を残して去った。自分は死ぬのだろうと彼女は思い、そしてこの状況から解放される喜びを、悲しみとともに実感した。だが死は訪れてはくれなかった。時間が経ち、彼女は立ち上がって水面を覗いた。そして傷の跡もない滑らかな頬に驚き、同時にぞっとした。

 だがその時から、セイレーン達は彼女との会話を、彼女を見ることさえも拒否した。ザンドリアは数度、彼女らが人間の食らうのを止めようと試みた。更には彼女に対する暴力さえ楽しみになった。それは自分が確かに存在している、ある意味その証拠なのだと感じていた。だがセイレーン達は戦法を変え、その代わりに彼女からあらゆる食物を遠ざけた。彼女は打ちひしがれた。

 去ることはならぬ。死ぬことはならぬ。

 去ることは叶わない。死ぬことも叶わない。彼女は多くの理由から神々を呪ったが、神々は嘘をつかなかった。


 魚を食べたもののまだ空腹のまま、朝の狩りを終えて島に戻ると彼女は海岸に一人の人間が倒れているのを見つけた。彼の衣服は海と岩にすり切れ、ぼろぼろに破れていた。彼は恐らく前夜、他のセイレーン達が襲った船の漕ぎ手の一人であり、魅惑の歌を求めて甲板から飛び降りたのだろう。

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 その身体が動いた。

 この島で生きてきてずっと、ザンドリアは人間と一対一で遭遇したことはなかった。常に他のセイレーン達が周囲にいて、彼女の邪魔から食物を遠ざけ、守っていた。彼女は自分の内なる感情に驚いた。それが何なのかも、どんなものかもわからなかった。ただ、とても長い間感じていなかったということだけを知っていた。

 彼女はその身体へと、その人物へと近づき、傍にひざまずいた。慎重に、優しく気をつけながら彼を仰向けにさせた。口から海水の泡が吐き出され、彼は意識を取り戻し、喘ぎ、叫んだ。

 希望。彼女は希望を感じた。人間。人間に触れている。誰かに触れている。息をしていて、けれどまだ何も見ていない、ただ喘ぎ叫んでいる。彼女は彼の腕を優しく叩き続け、その触り心地に感嘆していた。彼はついに目を完全に開け、彼女を見た。そして悲鳴を上げた。

「イケナイ!」 彼女は叫んだが、発せられたのは金切り声だった。長い時が経ち過ぎていた。彼女は落ち着き、どうすればいいかを思い出そうとした。人間の言葉はまだ話せる。

「いけない!」 今回は意図した通りの声が出た。人間の言葉。その言葉は自分の耳に恐ろしく響いた。異質で怪物的、だがそれでも人間の言葉だった。「あなたを助けるわ。傷つけるつもりはないの。私は......他の皆とは違うの」

 その男性は明らかに逃げたがっていたが、動く力もなかった。目を見開き、その瞳孔を小さくして、彼は息をし、もがいて彼女からわずかににじり下がった。

「お前は......誰だ? ここはどこだ?」 彼の言葉の抑揚は聞きなれないものだった。メレティスではない。もしかしたらアクロスから来た船乗りが、メレティスの船で働いていたのだろう。

「大丈夫、大丈夫よ。私は味方」 彼女は実際に歌うことなく、歌うような声を作ろうと試みた。別の人間と会話しているのだ。できる。

「俺の船は、俺の仲間は......」 彼は半狂乱で周囲を見た、まるで素早く動くことさえできれば友を見つけられるかのように。

「死んだわ、みんな。あなたの船は襲われたの......」

「お前か!」 男性は怒鳴ったが、動くことはできなかった。彼はそこに座り、激しく息をつき、その目の狂乱は怒りに変わっていた。

「違うの! 私じゃないわ。彼女たち。私は仲間じゃない。お願い、私は違うの。助けて欲しいの、お願い」 彼女は涙を止められなかった。最後に泣いてから長い時が経っていた。数百年前、変身して最初の日々には、常に涙が流れていた。だがその涙を見る者はいないと知って、涙は止まった。

 その男性は混乱したようだったが、彼の表情にはいくらかの怒りが残っていた。彼女は続けた。「名前、あなたの名前は? 私はザンドリア、メレティスのザンドリア」

「トリオス。メレティスのトリオス」 ザンドリアは困惑した。彼女が知っているメレティス人の発音ではない。それほどまでに長い年月が経ったのだろうか?

「貴方たちの船はどうしてこんなに航路を外れて......ここに近づいたの?」

 トリオスは振り返り、言い放った。「チャクロスだ、あのクソ魔道士、夜明けまでに陸に着くって言ってたくせに。国境のあたりに見たことのない生き物がいるって奇妙な報告があったんだ。俺達は調査に行く所だった。チャクロスは初めて指揮をした。あいつは他の船よりも早く、最初に着くことを決めていた。嵐が来た時、船長は北への航路をとろうとしたが、チャクロスはそうじゃなくて嵐を南に抜けるって言いやがった。船長はあいつを船から放り投げるべきだったんだ、その代わりに俺達はあの荒れた海峡を通ってきた。あの魔道士は助かったのか?」

「いえ、他の船員と同じように死んだわ」

「そいつは良かった、少なくともな。で、あんた、メレティスから来た怪物ってどういうことだ?」

 その質問に彼女はぞくりとした。別の人間と対面して話している、そして彼女は彼の率直な物言いにうろたえはしなかった。会話と接触があるならば、一体の怪物であることさえも良いものだった。彼は微笑みさえした。美しい笑みだった。彼は片手を上げて耳をかいたが、もう片方の腕は注意深く動かさなかった。多分それは折れているのだろう。彼女は自分が治せればと思った。

「とても長い話なの。話せることができるのは嬉しいわ。でもお腹すいていない? 大丈夫? 助けになれるわ、何かしてほしい?」 彼女は彼の顔や身体をじっと見て、他の怪我や病気の兆候がないかを探した。そして他のセイレーンが来る前に彼を隠し、安全かつ密かにメレティスへと帰すべきだと彼女は知っていた。今回は彼女は戦うつもりだった。その必要があるならば、他のセイレーン全員と。

 トリオスは微笑んだまま言った。「背中に何かが刺さってるんだ。見てくれるか?」 ザンドリアは動揺が湧き上がるのを感じた。最初に彼の元へと来た時には、血も明白な傷も見ていなかった。そして今彼は彼女の見落としで死ぬかもしれない。彼女はそれを調べようと動いた。だがトリオスは彼女が不可能と思う速さで動くと、以前は動かさなかった手に短剣を何処からか持って彼女の顔面に突き出した。彼女の唇が歌を放った。

 トリオスは座り続けながら不格好に身をよじった。短剣が足元の砂へと落ちた。彼の浮かべる微笑みは彼女にとってもっと馴染み深いものに取って代わられた。違う笑み。彼女を信頼する笑み。

「どうして? どうしてなの、私はあなたを助けたかったのに!」 彼女がその手でトリオスの顔を叩くと、彼は地面にばたりと倒れた。鉤爪が彼の頬に深い溝を残した。歌を止めると、彼の表情に恐怖と恐慌が戻ってきた。そしてザンドリアは彼を落ちつかせるために歌を再開した。

 彼女は悲嘆の中、泣きながら歌った。トリオスは彼女を惚れ惚れと見て、這い寄ってきた。

 なんて弱いの。彼女の心にその考えが浮かび上がった。だがそれが真実であることを彼女は否定できなかった。人間はこんなにも弱い。死、魔法、神々、怪物......人間は理解も支配もできないそういった力に見られている。そしてそれらの関心は一つの歌で終わる。

 彼女の歌で。


難破船の歌い手》 アート:Daarken

 ザンドリアは背後に羽音を聞いた。そして振り返った。他のセイレーン達が彼女の背後に舞っていた。だが普段の憎悪の金切り声と拒絶ではなく、彼女らはただ空から彼女を見ていた。まっすぐに見ていた。一体が彼女へと近づき微笑んだ。

 彼女はザンドリアへと微笑んだ。もう一体の......セイレーンが......微笑みかけた。ザンドリアはトリオスへと振り返り、歌いながら、彼の空虚な瞳と喜びの笑みを見た。他のセイレーン達が近づき、ザンドリアは彼女らの熱気と、飢えを感じることができた。彼女らはザンドリアを囲んだ、だが穏やかに、優しく。彼女らはその手を伸ばし、ザンドリアの羽と背中をつついた。甘いさえずりとともに、だが歌わずに。歌っているのは彼女だけだった。

 太陽は今や頭上にあり、だがその暖かさはザンドリアの感覚を薄めた。彼女はトリオスへと進み出た。彼女の歌は空に舞い、次第に大きく、主張するようになった。トリオスの口の端から涎が垂れ、彼の瞳はやがて来る恍惚状態を期待していた。ザンドリアは近寄った。更に近寄った。

 彼女は口を大きく開け、獰猛な噛みつきで彼の首筋に食らいついた。彼の血と肉が口内に溢れた。その味は野ネズミや魚には無かった満足感で直ちに彼女を満たした。

 今や、背後のセイレーン達も歌い初めていた。彼女らの声は海の大気に乗って彼方まで届いていた。彼女の聞いたことのない、だが彼女がその人生を通してずっと知っていたような歌を。セイレーン達はその食事を共にする気はなかった。全て彼女のものであり、セイレーンの歌、姉妹の歌が天を満たしていた。

 彼は美味だった。

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