MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 09

サイドストーリー スゥルタイ:心変わりと裏切り

Marcus Terrell Smith
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2025年3月7日

 

 ニシャンの片腕は、今や役立たずとなっていた。消耗病が彼を着実に蝕んでいた。腕としての機能を全て失い、その形すらも保てなくなっていた。かつては産毛も生えていなかった褐色の肌は、戦いで傷だらけになり、年経た枯れ木の樹皮といった様相だ。彼はその腐敗をゆるい吊り布で覆い隠し、草花の香りでひどい臭気をごまかそうとしていた。しかし隙間から腐食が染みだし、布地は腐敗した体液まみれになっていた。その様子は酒場にいる全員の目に留まった。それでも、彼は酒場の主人に酔っぱらった兵士がするような誇張話を浴びせ続けた。

 「あのころは、龍が支配する時代は……ああ、素晴らしい時代だったとも! 力を持ち恐れを知らない者のための……征服者のための時代だった! 俺と副官のティッツイ……それと……率いていた軍勢とで……二週間ごとか、そうだな……一週間ごとに……新しい領土に、町とか村とかに進軍して、俺たちのものだと宣言するわけだ。つまらんことに、抵抗なんざほとんどない。腰抜けどもは戦う気を無くしちまうんだ、わかるだろう」彼は杯からぐいっと一口飲んだ。「代わりに、そいつらは金や高価な宝物をよこして俺たちを歓迎するってわけだ」くくく、と笑う。「そいつらは俺たちの捕虜――シブシグとして――蘇るために嫌々命を投げ捨てるはめになって、シルムガル様の目的のために仕えたのさ」

 「ああそうかい」酒場の店主はうんざりしながら言った。「もう勘弁してくれよ……」

 「俺は三体のシブシグが貰えるはずだった」ニシャンはくだを巻き続ける。「敵の死体を蘇らせたやつをな。長いこと忠実に仕えてきた褒美としてさあ!」彼は酩酊の度合いを増しながらぼやき続けた。「この軍刀を磨くために、クソみたいな鼠に食われた服を縫うために……この傷を手当てするために」彼は激しくせき込んだ。口角から血がしたたり落ちる。「けどこの新しい体制とかいう奴らが取りやがった! 俺が、胸を張って貰えたものを!」

 「他の客の迷惑なんだよ」店主が咎めるように言う。「静かにできないなら出てってくれ」

 「おう、勘にさわっちまったかい、店主さんよ?」ニシャンはにやりと笑い、また杯をぐいと飲み干した。そして身を乗り出す。「今じゃシブになるのは名誉の証ってことで、奴らは昔の奴隷を全部お払い箱にしやがった。そいつらにはもう仕事も目的もない。はした金で生き返らせてもらって、悠々自適の新しい人生よ。そんで俺たちみたいな真の――シルムガル様の下での――生き方を守って戦ってきた奴が手に入れるのはこれだ!」彼は腐敗しかけの顔や首をこれ見よがしに晒した。

 凄惨なその腐蝕の様子を見せられた二人の客が椅子から立ち上がり、嫌悪感もあらわに出ていった。

 「俺は戦場で死ぬべきだったんだ」ニシャンは立ち去る二人の背中に声をかけつつ話を続ける。「同朋と同じように、名誉ある兵士としての埋葬こそが俺にはふさわしかった」彼は杯を宙へと掲げた。「ティッツイに。俺が知る最高の兵士に!」

 「なあ、いいか」店主は言った。「戦争の話はともかくだ、私の店では迷惑な会話も多少は放っておくさ。だけどお前さん――特にその見てられん腕は――はっきり言って商売の邪魔だよ。帰ってくれ」

 「俺はここの一番の上客だぞ……」

 「上客ってのは代金をちゃんと支払うやつだ。気の毒に思うところもなくはないが、今のお前さんはただのろくでなしだよ」店主はカウンターを拭く手を止めた。「最後の日々を平和に過ごすんだな。グルマグ沼なら、お前さんが望む兵士の休息でも何でも与えてくれるだろうさ」

 店主が杯を取り上げようとしたので、ニシャンは思わず顔をしかめた。ニシャンの朽ちかけた腕が、まるで自分の意思でそうしたかのように、ぴくりと動いた。彼は店主の手首を掴んで強く握りしめた。

 店主は杯をニシャンの腕ごと強く引っ張った。吊り布から外れたその腕に広がる腐敗が露わになり、残る客たちも店外の路地へと逃げ出した。店主はそのまま激しく振りほどき、ニシャンの腕は宙を舞うと燃えている炉床の中にそのまま放りこまれた。

 ニシャンはすぐさま跳びついて、焼ける腕を拾い上げようと炎の中に手を伸ばした。それを掴み、炎を叩き消そうとする。

 「出てってくれ」と店主が叫ぶ。「二度と来るなよ!」

 ニシャンはよろめきながら路地へと出た。口論中に湧き上がっていたアドレナリンが引いてくると、酔いが戻ってきた。街灯に体を預け、それからようやく肩の損傷をじっくり確認した。血は出ておらず、ねじれた腱が腐りかけた組織に張り付いているだけだった。慣れているとはいえ、その悪臭に吐き気を催す。結局その場で、歩道で吐いてしまった。

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アート:Sergey Glushakov


 その汚らしい液体の中には歯が数本、舌の先、肺と思われる一部、そして彼に残されていた尊厳が間違いなく含まれていた。吐瀉物のすぐ向こうに一体のシブシグが立っていた。顔はやつれていたが眼光は鋭く、真鍮の装飾が施された黄緑色の礼服と花を咲かせた蔓の冠を身に着け、両足は黄金の義足といった身なりをしていた。

 「俺を見下すんじゃねえぞ、シブが!」ニシャンは唾を吐き、もげた腕でその男を突き飛ばす。「お前らなんて虫以下なんだよ! 俺が踏み潰してやろうか!」その腕を通行人たちに向けて振る。「これが新しい体制だと? 死っていう名誉を汚して、しかもお前らはそれに満足してやがる! お前らがそうさせてるんだ、そうだろ!? むかつく臆病者どもが!」

 彼はふらつきながら路地を歩き続け、家へと向かった。

 その家路はいつも孤独なものだった。いつもと同じ暗い路地を進む。主要な路地の警護に当たっている当局は、頻繁に起こす癇癪とひどい衛生状態を理由に彼へと一般市民との交流を禁じていた。彼はようやく、おんぼろの家船が停泊している狭い運河に帰着した。疲れ果てた彼は船の中へと倒れ込みながら全身を突っ込んだ。それからしばらくして、残っていた僅かな力を振り絞って船の後部にある小さな蒸気機関まで這いずり進んだ――彼が戦士だったころから使い続けていたその蒸気機関は、滑車とてこ棒とピストンの古い仕組みで出来ていた。内部の石炭に点火すると、蒸気機関は動き出した。船は運河の岸から離れ、かの沼地へと向かっていった。

 市民たちの前で怒りを爆発させても、ニシャンは何の面倒にも巻き込まれなかった。実際のところ、彼はほとんど無視されていた。そのために彼は最後の日々を、苦悩を酒で紛らわすとき以外は、このぼろぼろの家船からジャングルの沼地を眺めることで過ごしていた。そのあたりの事情はケルゥ市の市民たちも暗黙のうちに理解していることだった――消耗病は体だけではなく精神にも影響を及ぼす。脳を蝕み、やがて心を失った抜け殻だけが残るのだ。幻覚はその最初の兆候のひとつだった。

 ここ数日は、輪郭が紫に光り輝く鯉が船首の先で静かに泳いでいるのが見えるようになった。最初は屍術師の魔法か何かかと困惑していたが、これまでに見たナーガやラクシャーサの呪文はいつも蛇の姿で現れていた。船を進航させると、再び鯉が現れる。

 「何なんだよ、小魚が?」ニシャンは身を乗り出して問いかける。「なんでこの老兵を困らせやがる……?」

 その瞬間、視界が二つに割れ、その左半分が傾いて水に向かって落ち、そして真っ暗になった。片手を目に当てたが、頭蓋に穴があいているのを感じただけだった。この病気にまたひとつ持っていかれたのだ。

 器官を失い水没させたことで魚は興奮したようだった。沈みゆく充血した眼球を囲むように泳ぎ、その動きのせいなのか、魚はより明るく輝き始めた。その紫色の光が船にまで伸び、船を魚に引き寄せて繋げた。ニシャンは突然の結びつきに驚いたものの、この不思議な出来事を阻止しようとはしなかった。自分に残された時間の中でこれから何がどうなるのかという興味と好奇心にそそられていた。それから、列車の動力が荷物を引くように、魚は船を遠くの水面へと導いていった。彼は降参し、連れ去られるままにした。ほかに何ができるというのか?

 ニシャンの残された方の目が、周囲の変化を捉える――濁った黒い海から、突如として不気味で幽霊めいた森が出現した。船は鯉のひれから発せられる魔法の力で、ねじれた木の根や泥山から守られながら、ゆっくりと水の上を進んでいった。空気は蒸し暑く、ねばついていた――しぼみかけた肺へと息を吸い込むたびに、匙ですくって飲めそうなほどだ。沼地の中央にある巨木に近づく最中、彼はさらに血を吐いた。

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アート:Alexander Ostrowski


 わずかに輝いていた玉虫色の月光は次第に薄れ始め、深い藍色めいて陰っていった。彼は自分がひとりではないように感じた。ジャングルの木々は風に揺られ、そのうろの中はきらめいていた。まるでいっぱいの目のように――自分が滅びるところを熱心に見守る影の観衆のように。

 「おうい?」ニシャンはしわがれた声で木々に向かって話しかけた。「おうい? 誰かいるか?」木々は沈黙を守っていた。「俺は……ここに兵士にとっての安息の地があると聞いたんだ。俺は、かつて……そうだ……この次元唯一の真の支配者、シルムガル様に――忠誠を誓った、兵士の――」

 名乗り終える前に、顎骨が顔から落ちた。それは木造船の床の上でいくつかの破片へと砕け散った。彼はそれを拾おうともしなかった。片腕を失い、片目を失い、そして今顎を失ったこの最後の屈辱が、まさに彼にとっての最後だった。肺が詰まり、心臓が激しく脈打つのを感じた。それと同時に頭上の枝が突然揺れて、地中から遠雷のような音が轟き、死の前奏曲を奏でた。何か非常に大きなものが自分へと向かってきている――沼地を闊歩する巨大な何かが。

 彼は身を乗り出して、よく見ようと首を伸ばしたところで、背骨のてっぺんから大きな破損音がした。頭部が前に落ち、皮膚が裂け、腱が切れて……真っ暗になった。


 ニシャンは何度か瞬きをしながら目の焦点を合わせようと……いや待て……両目の焦点を合わせた。おかしい。彼は浅い水たまりに仰向けになって横たわっていた。幽玄を思わせる煙が頭上で渦巻き、紫の花々が垂れ下がった象牙色の枝の間へ、木々の葉の周りへと流れてゆき、その葉はまるで自らの内なる光を響かせているかのようだった。

 ここが死後の世界なのか? 俺は死んだのか?

 「もう心配ない」低く調子はずれな声が聞こえた。ニシャンはその声に聞き覚えがあった。「君は不死者になったんだ、相棒」

 ニシャンはすぐさま上体を起こした。彼の頭上数フィート先に、翼、嘴、鉤爪を全て備え、古代の戦士に倣った緑色の衣装を纏った紫色の大きな禿鷲が立っていた。その胸にはあのシルムガルの印を抱いていた。

 「ティッツイ?」ニシャンは信じられないという思いで尋ねた。彼は友人の顔と姿をよく確かめた。やせ細ってもいないし、金の義肢も身に着けていない。「なぜ生きている? 最後の戦いで……敵に殺されるところを……見たんだぞ」

 「翼を片方失うところだった」とティッツイは答えた。

 「頭もだろう!」

 ティッツイは姿勢を正した。「ああ、それもそうだな」彼は微笑んだ。「君と離れ離れになってからはずっと、ここが私の住処だった。私は致命傷を負ったが、我々よりも主を愛していたかもしれない唯一の人物に救われたんだ。シディシ様だよ」

 「シルムガル様の大臣か」ニシャンは膝をついて起き上がる。遠くでひとつの影が、揺れ動く霧の中を這い進んだ。

 「そうだ。そして彼女は君も救った。新たな命を与えてくれたんだ」

 「俺は……シブシグなのか?」ニシャンが言った。「待て……俺は話せるのか?」

 彼は水たまりの穏やかな水面に駆け寄り、覗き込んだ。水鏡の中で顎は――新しく、彫りが深くしっかりしたものになっていた。目は――左右とも黄金の眼球に置き換えられ、薄紫色に輝いていた。そして首はぴったりとした首輪で修復されていた。首輪に触れると、澄んだ音が響いた――金属と金属がぶつかる音で自分の新しい指に意識がいった。実際には、全く新しくなった片腕に。ニシャンはそれを前に伸ばし、金で覆われて複雑な意匠が刻まれた前腕をまじまじと見た。

 「我々は偉大なる時代の残党だ、相棒よ」ティッツイは語り始めた。「だがまだ希望はある……君の中にね」

 その呼びかけに答えるかのように、ニシャンの腕が紫色に輝き始めた。

 「一日後に、スゥルタイの筆頭屍術師ダウナが新たな不死者のために儀式を行い、名誉ある氏族へと迎え入れてくれる。不死者たちは皆、カルシ宮殿内部で生育されている古代樹の聖なる水で聖別されるんだ。何百人もの不死者たちがね。君は誇り高きシブシグとして、その祝典に参列することになるだろう」

 「俺にとっちゃ誇りじゃない!」ニシャンは言い返した。「こんなものに名誉なんぞあるもんか!」

 「もちろんありはしない」ティッツイはにんまりした。「だが友よ、君は喜び感謝すると見せかけつつ、その新しい腕に我々の復讐を託すんだ……」彼は光る腕を身振りで示した。「シディシ様が我らの主に仕えていた間に集めていた毒物がある――醜態をさらす不死者どもを、古代樹を、シルムガル様の遺産を穢す不心得者の屍術師を殺すためのな」ティッツイはニシャンに向かってゆっくりと歩みを進めた。「そして君が務めを果たせば、新たにシルムガル様の正統な後継者がダウナの座に納まることになる……」

 その瞬間、蛇に似た怖ろしい生き物が渦巻く霧の帳から現れた。その鎧の鱗は湿っててらてらと光り、その両目は怒りに燃え、その杖は紫色の屍術の魔力で輝いていた。彼女の姿に、忠実な臣下たる二人は畏縮するばかりだった。

 「そしてお前は歴史の年代記に名を残すことになるであろう――スゥルタイの簒奪者を滅ぼした者、ニシャンとして」と彼女は言った。

 ニシャンはすぐさま片膝をつき、偉大なるシディシの前に頭を垂れた。戦士としての誇りと怒りに満ちて、彼はこう答えた。「あなた様の復讐を果たせることを光栄に思います」

 「よかった」ティッツイは微笑んだ。そして彼はシディシを見上げた。彼女は目をちらりと細めて先を促し、ティッツイは続けて話す。「それと、この契約を結ぶには、もうひとつ必要なものが……」

 「どんなものでも」ニシャンは声を張り上げた。「喜んで献上します」

 「君の魂のほんの一部を、我々の新たな主に進呈してもらうことになる」

 ニシャンは忠誠心と確固たる意志を持って立ち上がった。

 「どうか必要とするものを受け取ってください」と彼は言った。「失ったものを取り戻すためであれば、何であろうと献上します。服従を誓います」

 「ならば仕えるがよい」


 ニシャンは石造りの大きな建物、騒がしい市場、そして輝く水路で形作られた美しく活気のある都市、ケルゥの都の街路を進んでいった。

 過去の生活で負っていた痛みと衰弱のせいで、背中を丸めて足を引きずりながら歩くことが日常になっていたため、シブシグとしての活動に心地よさを感じるまではしばらくかかった。肩を後ろに引き、姿勢をまっすぐにして、足を引きずらずに普通に歩く。この慣れない様子が気づかれないわけがない。通行人たちはこちらを向いて微笑み、すれ違う時には丁寧にお辞儀し、手を取って口づけまでしてくる。奇妙なことだ。兵士だったころは、常に恐怖と嫌悪をもって迎えられていた。だが今は……尊敬されている? 重んじられている?

 「ねえ、そこのお方?」屈託のない声で呼びかけられた。「ちょっと待ってもらえますか」

 進むのをやめて振り向くと、長く流れるような黒髪の美しい女性が店から走って来るのが目に入った。彼女はその手に、金色の帯で飾られ野の花で編まれた花輪を携えていた。ニシャンは止まったはずの心臓がひとつ脈打つのを感じた。奇妙なことだ。彼女はすぐ目の前で立ち止まった。香水の芳しさが周りに漂った。今までに飲んだどんな酒よりも鮮烈で酔わせる香りだ。

 「まだ誰もあなたに冠を差し上げてないのかしら?」彼女は気遣いと共に尋ねた。女性はおろか、誰であっても自分のことをそんな目で見てくれた者はいなかった。

 ニシャンは困惑しながら彼女を見つめ返した。それで、次は憧れを向けられるってわけか?

 「この日あなたは、愛しきシブシグは、祝福されるでしょう」花輪を彼の頭の上から通しながら、彼女は笑顔で言った。「これまでの人生とこれからの人生に」

 彼女は彼の片頬に優しく口づけし、反対側の頬に長く口づけし続ける。ニシャンは体を強張らせ、不意の出来事に目を見開き、何も言えなかった。

 「色男さん、口づけされたことはあって?」彼女は照れながら尋ねた。

 ニシャンは首を横に振った。これまでの人生、戦い以外には何も知らなかった。優しさは、弱く無価値なものと見なされていた。固く握られた拳が、優しい愛撫よりも常に上にあった。

 「まあ……」すぐに彼女は自身の唇を彼の唇へと寄せた。柔らかく、そっと。片足を跳ね上げ、つま先立ちになって伸びをして。ニシャンが受けた衝撃はすぐに溶け、彼は自分が沈んでいくのを感じた。他人の愛情に沈むことなど初めてだ。

 しばらくしてから彼女は少し身を引いたが、いまだ彼の目を見つめていた。「よろしければ」と彼女は甘い声で言った。「儀式が終わったら、私あなたと……」

 突然、焼けるような鋭い音が聞こえて、肉の焦げる匂いがした。その女性は悲鳴を上げて身を引き、自身の片腕の外側を押さえた。ニシャンの金属の指が彼女の腕をかすめて火傷をさせたのだ。

 そこには、ニシャンが兵士として街へと進軍するたびにあらゆる男女、そして子供が自分へと向ける恐ろしい視線を思い起こさせる――恐怖と絶望の――表情があった。

 「ああ、す……すまない……」ニシャンは恐る恐るつぶやいた。自身の言葉に衝撃を受ける。これまで一度も、こんな言葉を口にしたことはなかった。すまない、などと。

 女性は激しく首を横に振り、早足で自身の店の中へと戻った。

 ニシャンは自身の手を睨んだ。燦々と輝く魅力的な金で覆われた、焼け付くほどに熱い石炭のような手。龍の支配下であれば、そのすべてを楽しめただろう。仲間の兵士や広場にいた者たちに見せつけるように今の女性を笑いものにしただろう。光る歯の奥からこぼれ出るものは笑い声だっただろうか……きっとそうだったのだろう。謝罪などではなく、胸が締め付けられるような感覚でも、胃がむかつくような感覚でもなくだ。

 視線は首にかけられた花輪に向かった。どれも摘みたてで、不要な部分や枯れた花弁は取り除かれ、人の手で意図的に美しく編まれたのは明白だ……自分のために。自身の指揮下にあったシブシグが何か美しいものを寄こしてきたことなどあっただろうか? シブシグは鼠よりも下等な存在、そうだったろう? あいつらは感情も心もない生き物で、ご主人様の命令に従うだけの存在だった。だが今は俺もその一体、ってわけだな? けれど、何か変わったようには感じなかった。

 「遅れるぞ、相棒」背後からティッツイの声が届いた。耳元で龍火が燃えているような近さを感じた。

 ニシャンはくるりと振り返った。近くには誰もいなかったが、道行く数人が先ほどの女性の悲鳴を聞きつけ、自分たちのやり取りにすっかり困惑した様子でこっちを見ていた。ティッツイの息遣いはまだ耳元を漂っており、狭い路地の影に目が行く。そこで、ティッツイの細い嘴がゆっくりと暗闇の中に退いていくのが見えた。そこへと向かう。

 路地に入れば暗闇に覆われるものだと思っていたが、周辺の建物の壁とティッツイの足元の地面は紫色に明滅し、低く小さくうなっていた。まるでティッツイの鉤爪の下で火がくすぶっているかのようで、悪魔のような紫の輝きがこの細身のエイヴンを照らし出していた。

 「収穫前に戦利品を味見してるのかい?」ティッツイはぼそりと言った。「君は昔から女たらしだったからな」

 その軽口には違和感があり、その言い方にニシャンは座りの悪さを感じた。戦利品などと。

 「俺がか? ティッツイ」ニシャンは疑いの眼差しで尋ねた。「女たらしだったと?」

 「違ったって?」

 「いや……よくわからん」ニシャンは相棒を見つめたまま答えた。

 ティッツイは腹の底から笑った。「何を言っているんだ、相棒。君は仲間たちに自分のよろしくない自慢話をやめなかったじゃないか。我々の中でも君は戦場において最も冷酷であり、街では一番の好色家だった。シルムガル様が最も好ましく思う者の一人だよ」

 「お前が俺のことをそんな風に褒めるなんて初めてだな。何か感じが……違うような……俺は……」

 ティッツイは一歩前へと進み出た。「シブシグの記憶は少しあいまいになりがちだと言うからな。任務のことを明確に覚えているなら、気にし続けることもないだろう。もしかすると、君の功績を讃えて三人のシブシグが君へと遺贈されるかもしれないな……」

 「長年の忠実な奉仕の報いとして、か」ニシャンは不安げに、ティッツイの台詞を継いだ。彼はティッツイをじっと見つめた。「親友よ、俺たちが共に戦った最後の戦で、お前は何で首を落とされそうになった?」

 ティッツイは一瞬身を固まらせて、相棒を見つめ返した。その目にじわじわと火が付くようだった。

 「斧だよ……」彼は感情を排して、ただ答えた。「いけ好かないジェスカイの兵士に投げつけられた」

 ニシャンの呼吸が喉で詰まった。彼は一歩後ずさりし、首を横に振った。「お前は誰だ?」

 ティッツイは姿勢を正した。

 「君の相棒、君の友人の……」

 「お前はスゥルタイの僧に殺されたんだ。反逆者がお前の喉を切り裂いた。深々と切り裂かれたせいで頭も落ちたんだ。お前はティッツイじゃない」

 たちまち、ティッツイの全身が紫色の炎に飲み込まれた。その衣服、羽、そして肉体は砲弾が直撃したように燃え尽き、その中の怪物じみたラクシャーサの姿が露わになった。青い肌、牙、そして悪魔の角を持つ筋肉質の巨体が立ち上がった。翼が震えて羽毛を振り払い、大きく伸ばした力強い四本の腕を露出させた。それは狭い路地に辛うじて収まっていた。その鎧は人間と動物の頭蓋骨で飾られ、肩、手首、そして腰にも輝く装身具を垂れ下げて飾り立てていた。それは大きく笑みを浮かべ、その歯からは暗く凶悪な喜びが滴り落ちていた。

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アート:Chris Rahn


 「貴様は酒を飲むと饒舌になる」ラクシャーサが甲高い声で笑う。「だが無駄話をしすぎるようだな、ゆえに友人とやらがどう死んだかなどという細部は聞き逃してしまったようだ」

 ニシャンは恐怖と驚きに後ずさった。「お前は……俺を騙したのか」

 「必要なまやかしだったとも」とラクシャーサは答え、その姿は再びシディシに、強大な栄光を体現する不死のナーガへと変化した。「シディシが成功するにおいて新たな体制は滅びねばならず、そのために我々は大義のために募った者共が不動かつ忠実であることを二重に確かめねばならぬのだ。残念なことに、貴様の忠誠心が揺らいだのではないかと懸念しておるのだがな、ニシャンよ」

 「なぜ……どうしてそう思う?」

 「貴様はあの時、あの娘に謝った。いかなるつもりだ?」ラクシャーサは嫌悪感もあらわに首を横に振った。「あのスゥルタイの虫なんぞに? ごきぶり共のことを思いやるとはな」

 「いや」ニシャンは否定した。「そんなことはない。俺は反逆者どもを憎んでいる。だが俺は嘘をつかれるのも嫌いなんでな」

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アート:Fajareka Setiawan


 ラクシャーサは餌を包み込む蜘蛛のようにニシャンを網に絡め、その肩を掴んで回し、先ほどまでいた通りに目を向けさせた。そこでは花輪で飾られた大勢のシブシグが、崇拝を向けてくる後援者たちに手を振り行進していた。

 「彼奴らを見よ」とラクシャーサは怒鳴りつけた。ニシャンは背後で皮膚が破れ、骨が割れる音を聞いた。ラクシャーサの姿は再び変化していたが、振り返って何に変化したのかをあえて確認はしなかった。「彼奴らは不滅性を得たわけではない。価値なき害虫だ。剣を振るうことも、街を征服することも、大義のために血を流すこともない。貴様とは違う」

 ラクシャーサは彼を開放し、その足を先程の街路へと向かわせた。こいつの言う通りだ。一歩一歩が決意を強めるように感じ、彼はすぐさま自分の運命に向かって誇らしげに歩み始めた。しかし彼が境界を跨ぐと――脇道の暗闇から明るい街路へと踏み出すと――ひとりの少年がぶつかって来て、どさりと地面に倒れ込んだ。

 ニシャンはその貧弱な生き物をじっと見た。どういうわけか、手を差し伸べたいという強い衝動に襲われた。そんな考えを抱くなとラクシャーサに非難された、あの唾棄すべき思いやりの心の残滓か。何も考えずに、黄金の手を差し伸べる。

 「そうだ、相棒」ラクシャーサは凶悪な歓喜に満ちて声高に笑った。「其奴を助けてやれ。貴様が知る唯一の方法でな」

 少年はニシャンを見上げてにっこりとし、差し伸べられた手を取ろうとした。その瞬間、ニシャンは自身が女性に触れたときに何が起こったかを思い出した。思いやりの心。それは若い時分にシルムガルによって真っ先に消し去られたはずの感情だった。俺はかつてこの小僧と同じような餓鬼だったよな? 訓練を受ける前は。戦争に赴き、二度と故郷に帰らなくなる前は。

 考えたこともなかった……ニシャンはそう独りごちた。シブシグが何かを感じるだなんて知らなかったんだ。痛みも、悲しみも……愛も感じないものだと。だがそうじゃない。

 ニシャンは腕を替え、反対の手で少年を立ち上がらせた。少年は微笑んだ。彼も微笑み返した。そして、少年は立ち去った。

 「あいつらも俺たちと同じか」とニシャンは囁いた。「不死者になったって、何も変わらない。大してな」

 「彼奴らの唯一の意義は服従することだ!」ラクシャーサが叫び、怪物の姿に戻った。紫色の炎がその周囲で燃え盛る様は凄惨な責め苦を思わせた。「貴様と同じくな」

 ニシャンは突然、自身の意志とは関係なく片膝をついていることに気づいた。命じられたわけでもなく頭を垂れ、握り締めていた右手は敬意を表すために胸に叩きつけられた。ラクシャーサは彼のすべてを完全に支配していた。ニシャンが好むと好まざるとにかかわらず、任務は遂行されるだろう。

 「幸いにも、勝利は約束されている」

 俺の魂か。ニシャンは身震いした。こいつは俺の魂を、俺の体ごと掌握していやがる。

 「急ぐのだな。遅れるわけにはいくまい」

 その命令に従い、ニシャンは再び立ち上がった。どんなに頑張っても抵抗して口を開くことすらできなかった。地面に足を踏ん張ろうとしたが、その足は向きを変えて元の街路へと戻された。そして城に向かうシブシグたちの行進に加わってしまった。彼は周囲の人々に――通りに並んで歓声を上げている市民、スゥルタイの護衛戦士、そして並んで歩くシブシグたちに――助けを求めようとしたが、ラクシャーサがその顔に無理やりにこやかな笑顔を浮かべさせた。行進に加われて心から喜んでいるように見えているのだ。惨めな気分だった。

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アート:Ioannis Fiore


 立派な屍術師たちが歌や踊り、そして神秘的な楽器をもって蛇のような緻密な呪文様を描いて歓迎する中、シブシグたちはケルゥ寺院へと導かれていった。中へと進んでいくと、黄金色の暖かな太陽光はねじれた枝によるアーチ状の入り口で消え、巨大な古代樹の根から発せられる崇高でまばゆいばかりの白い輝きが取って代わった。根は透き通ってきらめく広い水面の下にまで達しており、揺らめいて映りこみながらその枝や垂れ下がった花の蔓、そして鮮緑色の葉に星明りをもたらしていた。それは目を見張る光景だった。

 森の彫刻が施された壁に沿って複雑な意匠の祭壇が立ち並び、その煙道は古代樹の枝を越え、天井まで到達していた。祭壇の口の中では、龍火の玉がほのかにくすぶっていた。ニシャンは、酸で焦がされた者の死体がその歯にぶら下げられていた時代を思い出した。敵を見世物とするためにシルムガルがこれらの火炉を用いていた頃のことを。

 シブシグたちは大きな湖の周囲に並んだ。皆一様に自分たちの決意とスゥルタイへの誓約を確信し、はっきりとした誇りに満ちていた。ニシャンは同じように微笑み、同じように誇らしげに立ってはいたものの、その体のあらゆる部位は叫び、怒り、逃げ出したがっていた。シルムガルの時代のシブシグは、きっとこんな風に感じていたに違いない。自身の体に捕らわれた囚人が、柵の外にいる怪物の意志に縛られていたんだ。俺のような怪物に!

 根の中心にある入口が紫色の光で照らされ、それと同時に頭上の枝が揺れ動き始めた。上部の花の帳を突き抜けたまばゆいばかりの鮮緑色の光が、スゥルタイの審判者、精霊龍テヴァルの入場を伝えた。テヴァルは炎に満ちた両目で愛情をこめてシブシグたちを見下ろしていた。彼女の鱗は精緻な模様を描き、それぞれの先端からは黄金の輝きが放たれ、古代樹の光を反射して部屋の中を神聖な輝きで満たした。

 「忌々しい蛇めが」とニシャンは小声で口にした。ラクシャーサの欲求が体の中に流れ込んでいた。

 テヴァルの冷ややかな光が根に囲まれた入口へと流れ、内部の光をより強めた。それは精霊龍の筆頭屍術師、ダウナの華々しい登場を告げるものだった。ダウナは背が高く薄めの茶褐色の肌で、艶のある黒髪を髷に纏めた頭に金の冠を被った、優美で魅力的な女性だった。金の装飾が施された緑色の鎧が白色光の中できらめき、赤と金の飾り帯が空中で水のように揺蕩っていた。

 「それと彼奴が可愛がる蛆虫か」再びニシャンは言葉を発した。ここで何が起こるのかを考えて目に涙がにじむのを感じた。体は今なお自分のものではなかった。

 ダウナはシブシグの一団の前に立ち、両腕を上げた。

 「ようこそ、名誉あるシブシグ、永遠の収穫を司る御方々よ!」彼女は誇らしげに、毅然と述べた。「本日集う皆様方は、我らが氏族の中でも特に尊き方々です。かつての生においてお知り合いであった方々や、単にまだ出会っていないだけのご友人同士もいらっしゃることでしょう。今この時、この場所に集まっていただいているのは、皆様がスゥルタイの未来の希望であるからです。条約を協議し、同盟を仲介し、タルキールの氏族の中で私たちの高潔な地位を確かなものとして下さった、かけがえのない外交官の皆様。肉体と精神とを結ぶ懸け橋となり、多くの市民の身体と心を啓発し、また私たちの伝統を守るという役割を果たしてくださる、癒し手にして精神的導き手でもある皆様。この第二の人生において、私たちの軍隊に防備、規範、戦略を引き続きもたらしてくださる武芸の達人たる皆様。そして、私たちの献身的な評議会の一員たる長老様方の知恵、指導、それに判断力は、この先に起こる出来事に対して明瞭かつ明敏な展望を授けてくださるでしょう」

 ニシャンはその屍術師の言葉ひとつひとつを熱心に聴いていた。シブシグとして、これまで以上になく多くの物事を感じていた――生きている者として感じたよりも、あるいは古い信仰を学んでいた者として感じたよりも。そして自分が間もなく引き起こすであろう事態に対しては、さらに強烈な恐怖を感じていた。

 「さあ皆様」ダウナは呼びかける。「この輝かしい未来に皆さんを聖別いたしましょう!」

 聞こえてくる歓声と共にシブシグたちは湖へと入り、新たなものとなるための水に胸まで浸かった。これから全員の共同墓地となる場所へと踏み込んだのだ。

 「待つのだ」ニシャンは自分に言い聞かせていたが、それは彼を通して語るラクシャーサの言葉だった。「すべてが整うまで待て」

 ダウナは彼に向かって微笑み、前へ出るよう手招きした。

 ニシャンは死に物狂いになって心の壁を引っ掻いたが、手足は言うことを聞かなかった。前へと歩むその一歩一歩が恐ろしく、無力な傍観者、あるいは言語に絶する犯罪の目撃者でしかなかった。いよいよ水の中に入り、どんどんと深みへと進んで、水面は手指のわずか先まで近づいた。

 「祝福があらんことを」ダウナは慈愛を込めて微笑んだ。

 そして彼女の祝福とともに、ニシャンは水面下に潜って姿を消した。

 水中で手足をゆっくりと動かす音を耳に流れ込む水がかき消す中、しばらく沈黙が続いた。固く目を閉じようとしたが、大きく見開いたままだった。あの邪な人形使いはすべてを見届けさせたかったのだ。目の前で、立ち上る霧のように毒が広がり、淡い青色だった水はどぎつい赤紫色へと変わっていった。

 最初に毒に襲われたのは、両脚を黄金の義足にしたシブシグの男性だった。なんとその人物は昨日酒場の外で出会ったあの男だった。その毒はシルムガルの致命の息を浴びせたかのように、酸が肉体を溶かすように、その男の金属義肢を溶かしつくした。これはある種の消耗病だった――ただし容赦はなく、猶予もない。その男は脚をばたつかせ、激しく泣き叫んで魔の手から逃れようとしたが、ほんの数秒のうちに、残されたものは衣服の切れ端だけとなった。

 突然、ニシャンは胸から背中へと途方もない痛みが走るのを感じた。後悔の痛みではなく、その身を貫き、今なおその胸に突き刺さったままの刃による痛みだった。次の瞬間、とてつもない力で水から引き上げられた。ニシャンは宙へと持ち上げられ、刃とその柄に繋がれた輝く鎖によって古代樹の枝に吊るされていた。ダウナがそれを支えており、その眼は恐怖と絶望が入り混じって燃えていた。

 ニシャンは自身の首が少し自由になったのを感じ、頭を肩の後ろにもたげた。恐怖に打たれた彼の目線は足元の池に向かい、そこでは何百ものシブシグが溶け、救済を求めて自らの肉体を引き裂いていた。しかしながら、すべては無駄だった――全員が紫色の霧の中に消える中、あのラクシャーサの邪悪な高笑いがニシャンの心に波紋のように広がっていった。

 「何をしたのですか?」ダウナは叫んだ。「いったい何をしたのですか?」

 「待ってくれ」ダウナによって刃をさらに深く差し込まれながら、ニシャンは必死に伝えようとした。美しい金の顎に血が流れ落ちるのを感じる。「俺じゃない! 俺は改心したんだ!」

 それは本当のことかもしれない。しかし彼の魂の一部は、常にシルムガルに握られているのだ。



(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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