MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 05

第4話 炎の心臓

Cassandra Khaw
authorpic_cassandra-khaw.jpg

2025年3月10日

 

 サルカン・ヴォルは思い起こした――かつて自分は永遠に生き、決して歳を取ることもないと感じていた。たとえ斃れようとも伝説に列せられ、龍と同じように美しく恐ろしい存在として永遠に記憶されるのだろうと感じていた。だが今は、年老いたと感じていた。脆く、かつ苦く。壊れたと感じていた――戦で敵に砕かれた剣のようにではなく、内側から腐敗して殻を破る卵のように。最近では、自分は死なないのではないかという不安があった。死ぬのではなく殻の中でただ腐り、夢も栄光もすべて蛆虫の餌と化しながら永遠に生き続けるのではないかと。ニコル・ボーラスに支配されていた頃のように。

 「あの個体は十分に若い。目的に適いそうです」右から低い声が聞こえた。

 その僧、テイガムは忠義を尽くす者と自称していたが、その表情や言葉遣いには、狂信者と言う方が適切かもしれないと思わせる何かがあった。別の状況、別の人生であれば、一目見るなりこの男を灰になるまで焼き尽くしていたかもしれない。だがサルカンはテイガムの内に、自身とどこか似た悲嘆を見ていた。このジェスカイの僧もまた、何か深く大きなものを失ったのだ。

 「そうなのか?」何か言わなければならないと思い、サルカンは答えた。

 「強い心臓でなければなりません。そうでなければ儀式は成功しないでしょう。犠牲となるものは、貴方の長年の苦しみと同等の痛みに耐えられるものでなければなりません」

 そしてサルカンは思った――必要というのは、これほどまでに残酷なものなのだろうか?

 「そうすれば、再び龍の翼で飛べるのです」まるでサルカンの躊躇いを何らかの形で聞いたかのように、テイガムは言った。

 龍の翼で飛ぶ。サルカンはそれがどのような感じだったかを、身体に血ではなく炎が流れるのはどのような感じだったかを思い出した。空とその広大さを、自分は無敵だと感じながら、星が降り注ぐ夜の闇の中を飛ぶ。そのすべてを痛いほど鮮明に思い出した。それを取り戻し、そしてまた難なくできるようになる。龍の心臓を奪いさえすればいいのだ。そうすれば、自分の心臓を直せる。これまで、龍のために多くのことをしてきたのだ。回復したならもっと。

 それは十分に公平な取引と思われた。

 「ああ」彼は小さく答え、槍を握りしめ、背の高い黄色の草の中を進んだ。その龍は彼に全く気付いていなかった。嵐から生まれたばかりの若い個体で、動きはぎこちなく、優雅でもなく、獣のよう。それは子猫が毛糸玉を弄ぶように、ガゼルの死体で遊んでいた。龍がそれを投げると宙で内臓が飛び出たが、サルカンは気にも留めなかった。

 自分自身でも驚いたことに、サルカンの胸に興奮の炎が点った。この無謀な行動から龍に殺されたとしても、これから待つものよりはましな結末だろう。ゆっくりと苦悶に満ちた老衰、死の憐れみを欲して過ごす晩年。ここで死ぬ。龍との戦いで死ぬ。そうだ、そんな脱出口の方がずっといい。彼は槍をわずかに持ち上げ、筋肉質の肩の上で構えた。テイガムはこの狩りに参加するのか否か、何も言ってはいなかった。尋ねるべきだったかとサルカンは自問したが、もう遅い。今となっては、この僧がへまをして獲物を失う危険がある。だがその時はその時だ。

 今は集中しなければならない。

 その龍はサルカンが5フィートの距離に屈みこむまで気に留めなかった。風向きが変わり、彼の匂いを運んでいった。龍は頭をもたげ、口を少し開いて鼻孔を広げた。その表情はかつてサルカンが見た、スゥルタイの貴族が甘やかす飼い猫のそれと同じだった。龍は空気の匂いを嗅いだ。その視線に恐れはなく、威嚇もなく、あるのは無邪気な好奇心だけ。この若き捕食者は、世界が単なる餌箱ではないということをまだ学んでいないのだ。サルカンは草むらから姿を現し、槍を振り上げた。龍の表情が引き締まった。貪欲な興味。獲物がここにいる――まだ生きている獲物、その鉤爪に応える獲物、悲鳴をあげる獲物が。龍は身体を低くして飛びかかろうと身構え、振り回した尾が草を地面に叩きつけた。そしてそれが上げた声は、遠い昔に聞いた猫科動物のそれをサルカンに思い出させた。一種の遠吠えのような挑戦の叫び。瞳孔が拡張し、その両目は深淵のような漆黒と化した。

 だがサルカン・ヴォルはとても老獪で、とても必死だった。龍の新たな玩具になる気などない。

 彼は龍へと飛びかかり、龍はそれに応えて突進した。針のように鋭い歯が並ぶ顎が音を立てて閉じられるまさに寸前、サルカンは身体をひねって逃れた。彼は槍先を龍の鼻面に走らせ、鱗の皮膚を細く切りつけた。そして重力に任せて体重を槍の柄にかけた。刃が龍の頬を突き抜け、更に深く突き刺さった。サルカンは蹴りを入れ、その勢いで自身と武器を獲物の喉の曲線に沿って動かし、大きく切り裂いた。草の上に血が流れ落ちた。龍は前のめりに倒れ、苦痛に鳴き、悶え、暴れ、息の詰まった悲鳴をあげた。この成功に興奮していなければ、そして低く切迫した声でテイガムが言わなければ、サルカンはこの獣に同情したかもしれない。

 「急ぐのです。龍が死ぬ前に心臓を確保しなければ」

 死が彼らを追いかけてきた。多量の血が流れ出たことで既に龍の動きは弱っており、叫び声は静まって、かすれた息の音へと薄れていった。幸運にもこちらはふたりいる。そしてサルカンの槍が切りつけた箇所は都合がよく、自分たちは目的を果たせるだろう。テイガムは両手を掲げ、宙に青色の炎を呼び起こした。それは龍の四肢に絡みつき、草原の冷たい土に押し付けた。

 「急ぐのです」僧が促した。

4AcOPybnPT.jpg
アート:Billy Christian

 サルカンは槍を龍の上へと掲げた。拘束され、それは再び叫び声をあげた。それは死にかけており、そしてその事実を理解していた。死にかけており、死をもたらす道具が振り下ろされようとしている――もはや肉にするしかない病気の雄牛を見つめる農夫のように。危うく、サルカンはためらった。生まれてこのかた彼は龍を愛し、崇めてきた。これは冒涜、かつて自分が神聖とみなしていたすべてのものを貶める行為だ。

 とはいえ、遥々ここまで来たのだ。これもまた世の摂理ではないか? 強き者は耐え、弱き者は滅ぶ。鹿は狼の糧。この龍が自分のようなものの手で死ぬのであれば、その心臓を抱く価値などない。

 それに、考え直してももう遅い。今止めても龍は死ぬだろうが、それは戦士の手による救済ではなく、老人の小心によってのもの。サルカンは自身にそう言い聞かせながら龍の身体を切り開き、両手で肋骨を探り、その巨大な心臓を掴んだ。視界の外でテイガムが詠唱を始め、サルカンはぼんやりとそれを追いかけて繰り返した。その言葉を口にすると、虫が脳に穴を掘るようにそれらが心を貫いた。痛痒く感じ、頭蓋骨に指を突き立てて虫を取り出したいと思った。サルカンはジェスカイの魔法については何も知らなかった。だが無知であっても、その呪文が汚らわしいものだとはわかった。彼は心の片隅で悲しく、かつ最初で最後の思いを抱いた――俺たちは間違いを犯した。

 呪文が最高潮に達する中、サルカンは龍の内臓へと顔を近づけた。銅にも似た悪臭で鼻は詰まっていたが、彼は両手で龍の心臓を握り締めたまま、それに噛みついた。

 世界に炎の波が走った。


 アブザンに監禁されるというのはナーセットの計画にはなかった。それは速やかに起こった。嵐ヶ原の境界でエルズペスと彼女を発見したアブザンの斥候たちは、無許可でそこにいるとして尋問のために確保すると即座に告げた。自分たちの存在は氏族間の協定に反するものではないとナーセットは主張したが、何の協定だと彼らは尋ねてきた。つまり他のカンたちがその協定の正確な条件に満場一致で同意したわけではない、ナーセットはそう認めざるを得なかった。確かにそれは検討過程で幾らか停滞していた。とはいえ、少なくとも起草された方針が実際に機能するかどうかを確かめるということは合意に達していた。そして、こうして確かめられた。

 斥候たちはナーセットの説明を冷静に聞き、神経質な視線を互いに交わした。そして彼らははっきりと、だが申し訳なさそうな口調で、やはりふたりをカンに会わせるため連行する必要があると言った。もし何かがあったなら、彼らの責任になるのだ。

EuGc0U9zK6.jpg
アート:Livia Prima

 不承不承ではあったが、ナーセットは同意した。エルズペスは戦いを望んでいるようにも見えたが、長くはかからないだろうというナーセットの主張に宥められ、彫像のように沈黙した。礼節は示さねばならない。そして言うまでもなく、自分たちは元々嵐ヶ原へ向かっていたのだ。例の寺院が発見できるであろう場所は龍の嵐が最も激しい場所、そう結論づけてのことだった。

 アラシンに連行されてから6時間後、エルズペスは沈黙を破って言った。

 「何故このままこうしているのですか? 今すぐ脱出して旅を続れば良いではありませんか」

 「それはよく分かっています、エルズペスさん」ナーセットはそう言い、部屋に備えられた貧相な本棚の背表紙に指を走らせた。そこには農業宣言書が数冊、水耕栽培に関する薄い書物が一冊、現代詩集が幾つか、そしておそらくは祖先の霊との面談からまとめられたアブザンの要約された歴史書などが置かれていた。思わず、ナーセットは少しだけ羨望の念を抱いた。「ですが、ここを離れるわけにはいきません」

 「本当にそう思うのですか? 大した手間ではありません」

 「駄目です!」ナーセットは激しくかぶりを振り、整えていた髪が乱れた。「いけません。私の氏族とアブザンとの間に政治的混乱を引き起こすでしょう。戦争になる可能性すらあります」

 「次元が生きたままドラゴンに食べられてしまうなら、そのようなことは無意味になります」

 「それは分かっています。エルズペスさん、我慢していただけませんか」

 「既に長いこと我慢してきましたが」その言葉は、ひとつひとつが業火へと燃え上がる危険性を孕んでいるかのように、じりじりと発せられた。

 「あと一時間ください。その後は――」ナーセットはためらった。賭けに負けたなら、この約束を守らねばならなくなる。けれどその後は? 誤って氏族間の争いを扇動することになってしまったなら、家老たちは激怒するだろう。「――エルズペスさんのやり方で」

 大天使はその言葉に宥められたようだった。

 留置場は居心地悪くはなかった。壁掛けに絨毯、絹を敷き詰めた簡易寝台、本棚の横の読書用空間まで優雅に飾られていた。低い天井からは宝石を散りばめたランプが吊り下げられ、青銅色の光が部屋中に溢れていた。木製の卓の上には冷たい水の入った水差しが置かれ、取っ手のない真鍮の杯と、蜂蜜とナッツが入った焼き菓子の皿が添えられていた。ナーセットは食料庫の中の鼠のように、それを齧るのをやめられなかった。隅には小さなシャワー設備を備えた質素な浴室までついていた。アブザンのもてなしは評判高いが、その寛大さが犯罪者や容疑者にまで及ぶことをナーセットは初めて知った。

 「一時間です」エルズペスはそう言い、ようやく藤色の円形椅子に腰を下ろした。

 ナーセットは安堵のため息をついた。「ありがとうございます。エルズペスさんにとってはすべてが些細なこと、それはわかっています。ですが私たちが維持しているこの平和にはほころびがあって、とても脆いのです。それを更に危うくしたくはありません。アブザンとジェスカイは昔から対立してきました。彼らは死者を傍に置いていますが、私たちは――」

 「いかなる来世も信じていない、ですよね?」

 「複雑なことです。厳密に言えば、来世を信じていないわけではありません。意味のある形で魂が生き続けるべきではない、そう表現する方が近いでしょうか」

 彼女はエルズペスの穏やかな金色の瞳を見つめ、この説明は控えた方が良かったかもしれないと考えた――来世の概念などという重大な物事の話を、その精神の体現たる大天使にするとは。とはいえ止めるには遅すぎた。

 「ご想像の通り、これは幾つかの争いの原因となっています。アブザンは死者を崇めるだけではなく、多くの決定において死者たちの意向を最優先としています。死者は氏族の物事すべてに関与しています。そしてもちろん、私もそれを理解しています。ドロモカからの通告は事実上、祖先崇拝を放棄しなければ氏族は根絶されるだろうというものでした。祖先を優先するということは、不幸にも、過去に囚われてしまう可能性があることを意味します。つまり……」

 ナーセットは咳払いをした。

 「つまり、私たちは以前からこの件に関して意思疎通の問題を抱えていました。私たちはアブザンを少し後ろ向きだと見ているのです。そしてアブザンの方は、そうですね……」

 「彼らはジェスカイをどう思っているのですか?」

 「尊大で、現実ではなく思想に固執していると思っています。それが間違っているかどうかは、私にはわかりません」

 エルズペスはその言葉を考え込むように見えた。だが彼女がそれに答えるよりも先に、扉を叩く音がした。それが開くと炭色の瞳に僧帽をかぶった若いアブザンの女性が現れ、頭を下げた。

 「カンがお会いになります」


 アジャニが普段見るよりもガゼルたちは怯えているようだった。おそらくアブザンの乗り手たちが近づくのを感じていたのだろう。四人が指定された場所で待機し、アジャニの合図を待っていた。広大な草原を好むガゼルが、マルドゥとの国境のこれほど近くまで迷い込むことは稀だ。とはいえ、レオニンの戦士も氏族もそれに文句を言うつもりはなかった。アブザンは熟練の狩人たちであり、予測不可能な状況に何世紀も順応してきた。彼らは同じ年に豊作と飢饉の両方が起こる可能性があることを理解している。特にこの乾いた土地ではそうだ。そしてアジャニは、そう、喪失と不運には慣れっこだった。この群れを仕留めることに成功すれば、かなりの長期間に渡る食料と物資が保証されるだろう。そのため、彼らはその機会を無駄にするつもりはなかった。

 アジャニは群れを見つめた。何かがひどくおかしいという感覚を振り払うことができない……だがそれは月光か憂鬱さか、どちらかのせいだろう。ガゼルの目の周りはもう少し白かったような気がするが、違うかもしれない。胸がハチドリの羽ばたきのように激しく上下しているのは、緊張が高まっているからではなく、それが彼らの呼吸法というだけなのかもしれない。わからない、それがアジャニを苛立たせた。とはいえ、自分は既にとても多くの失敗を重ねてきたのだ。

 彼は自己嫌悪を押し殺した。今はやるべき仕事がある。憂鬱に浸るのは後でいい。アジャニは更に一歩踏み出した。十分近づいたなら合図を送る。そしてアブザンの乗り手たちと協同して群れを中央地点まで追い、できるだけ多くを倒す。簡単な仕事、そして協力して狩りを行うのは初めてではない。それにひとたび狩りが適切に進行し始めたなら、身体を動かすことに全力を傾けられる。悲しみを忘れ、自らへの苦しみをたとえ一時でも脇に置くことができる。

 『こんなのは生きてるって言わない。ただ死を先延ばしにしてるだけ』

 アジャニはうめき声を飲み込んだ。残念なことに、先日の会話以来ヌールが頭の中に入り込んでいた。けれど彼女の言葉と、他の無数の後悔を反芻するのは後だ。今はやるべき仕事がある。アジャニよ――

 ガゼルの群れが一斉に頭を上げ、東の方向を見つめた。

 彼が受けた警告はそれだけだった。

 魔法の波紋が平原に広がり、草をなぎ倒していった。アジャニすら長く見ていない、それほどの規模の力だった――その群れだけでなく、草の中に隠れていたあらゆる生物を全速力で走らせ、岩や木に激突させ、首や背骨を折る、自然の貪欲な力。目の前に何が立ちはだかろうと関係なく、ただ逃げること、ただ駆けることのみを考えさせるほどの恐怖。数人の人間の悲鳴が大気を切り裂いた。アジャニが素早く周囲を見回すと、アブザンのドラゴンたちが空へと旋回し、身をよじり、のたうっていた。それらの表情はどれも同じように苛立ちに満ちていた。ドラゴンたちは乗り手を振り落とそうとしていた。三人が抑えきれずに落下した。四人目は苛立った乗騎に真二つに噛まれて終わった。

 「一体何が……」

 そして答えが地平線に現れた。ありえないほど巨大なドラゴンだった。赤い鱗を持ち、勝利の咆哮を高々と上げ、何十という小型の同胞が空へと上昇してそれに加わった。その巨獣にはどこか見覚えがあった。間違いなく、以前にもそれを見たことがある。それだけでなく、この瞬間も生きて見た記憶がある。ひとりの人間の呼びかけに応じてドラゴンの群れがやってくるのを――

 「サルカン?」アジャニは信じられないという様子で呟いた。

 再びそのドラゴンが咆哮し、すぐにアジャニはその疑問が正しかったとわかった。それはドラゴンの姿をしたサルカンだった。ただアジャニが覚えているよりもずっと大きく、そして何かが変わっていた。かつてその男はドラゴンの炎の輝かしい力を体現していたかもしれない。だが今の彼は猛り狂う業火を、まとわりつくような恐ろしいものを思い起こさせた。

 「サルカン、何をした?」彼は再び囁き、サルカンは勝利を叫んだ。


 アブザンのカンの謁見室はナーセットが覚えている通りだった――あまりに華美。美観への配慮は評価すべきものであったが、無駄に使用されている空間もあった。本棚を置くべきところをガラス製品のような無益なものが占めていた。だがフェロザーはナーセットではないのだし、自分の世界の見方を他者に押し付けることはできない――少なくとも互いの同意なしには。

 それでも。

 「お久しぶりです、カン・フェロザー」ナーセットは深く頭を下げた。「政策草案は読んでいただけたかと思います。修正案に対するご意見を伺いたいのですが」

 カンの座に就く前のフェロザーは一兵士であり、今も軍人らしい服装をまとっていた。彼女のために作られた儀礼用の鎧を受け取らず、新たな役職に昇進する前に与えられた鎧を好んだことで、ちょっとした醜聞になったという噂があった。彼女はナーセットの言葉に明るく笑った。「道師殿、急ぐことはありません。長い間離れていましたが、ようやく再会できたのです。政策方針について話し合うのは後で良いではありませんか」

 ナーセットはエルズペスを一瞥した。「時間がないのです」

 「それどころか」フェロザーは後ろにもたれ、指を胸に当てて言った。玉座が一列に並んでおり、彼女はその中央、他の五つよりもわずかに豪華なそれに座していた。他の玉座を占拠するのは、種族も性別も異なる、豪華な服装をした人々。家族評議会がここに臨席するのは当然のこと――ナーセットはそう思った。「時間はいくらでもあります。道師殿はアブザンの客人としてここにおられます。そして、あらゆる贅沢が与えられると保証します。議論のための豊富な時間も含めて」

 「それは違います」とナーセットは屈さずに言った。「時とはそのようなものではありません」

 フェロザーは笑みを大きくした。

 「それでも、です」

 ああ……つまりフェロザーはナーセットに、政治家らしい振る舞いを期待しているのだ。それは完全に筋の通った、完全に合理的な期待だった。それでもナーセットは叫びたくなった。もしこれが予想通りの方向へ進もうとしているのなら、何らかの結論が出るまでには何時間もかかるだろう。まず、アブザン家の長たちがエルズペスとナーセットを尋問し、なぜ嵐ヶ原にこれほど近づいたのかを追求する。そしてフェロザーが判決を下そうとするが、ナーセットの情報源が正しければ、それは必然的に新たな議論の輪へと繋がるだろう。各家の長たちがとりわけ好戦的であれば、数日かかるかもしれない。

 こんな時でなければ、退屈で間延びする状況に身構えていただろう。けれど無駄な時間を費やす余裕はない。これが長く続いたなら、隣にいる天使が行動に出て、ありとあらゆる混乱がそこから生じるかもしれない。

 「龍の嵐が他の次元にも影響を及ぼしはじめています。私とこちらの――」ナーセットはためらった。友人、と言いかけたものの、自分たちは本当の意味で友人同士ではない。相互の必要性、そして喪失を分かち合うことから生まれた関係。そのため、ナーセットはもっと無難な言葉を選んだ。「同輩とで、その問題を改善できるかどうかを見極めるための旅をしています。タルキールと多元宇宙の両方のために」

 「ふん。それら他の世界が私たちにどう関係してくるのですか?」日焼けした顔が皺に埋もれるほど年老いた女性が不快感を示した。「私が知りたいのは、なぜあなたが当座の問題から目をそらしているのかということです。他氏族のカンが――」

 「道師です」思わずナーセットはそう言った。

 「――事前の通知なしにアブザンの領土に侵入した。エメシュ家は、あなたの先代のひとりが同じことをしたのを忘れてはいません。私は――」

 「そうですとも。勇気の家……エメシュ家は代々の財産のように遺恨を抱いている。その歴史は存じております」背が高く、細身で優雅な物腰の男性が言った。彼は年配の女性に手を振ったが、睨みつけられるだけだった。「ですが、過去は過去のままにしておこうではありませんか。今ここにジェスカイの道師殿がおられるのです。おそらくこれは、より小規模な貿易協定の条件を交渉すべき時でしょう。フェンザーラ家は――」

 「僭越ながら」恰幅の良い、長い耳のアイノクの男性が言った。「メヴァク家はジェスカイの地で産出される赤い鉱物に長年関心を寄せてきました。我々は検討を――」

 「私たちは道師殿の侵犯について話し合うために集まったのですよ!」エメシュ家の代表は大声をあげ、磨かれた石の床に杖を打ち付けた。「そのようなものに価値などありません」

 「貿易は食物をもたらし、兵士たちの腹を満たします」メヴァク家の長は敵意を見せるでもなく、あっさりと言った。「価値がないなどとは決して言えませんよ」

 謁見室に更なる口論が勃発した。どうやら、より下級の官吏たちも状況についての意見を述べ始めているらしい。ひとりはエルズペスが龍ではないことを確認するために、医師による検査を要求した。フェロザーが慎重に身振りをし、兵士たちが壁際の待機場所から離れる様をナーセットは見た。高まる緊張を静めようというのだ。

 「すみませんが」少しして、ナーセットは必死さを声に出さないように言った。あまりに大勢が一度に話し、会話の筋もばらばらすぎた。フェロザーですらそう思っているようだった。「議題から外れないでいただけませんか?」

 「そうです、議題を続けましょう」エメシュ家の老女が怒鳴り声をあげた。「あなたがたはなぜ嵐ヶ原にいたのですか?」

 「寺院を探しておりました――」

 「そもそも、実際に議題を決めておりましたか?」評議会の一員にしては幼すぎるように見える、穏やかな表情の少女が言った。その娘が代表に選ばれたのは、グダル家の当主である祖父が重病であるためだとナーセットは知っていた。

 「寺院?」ザンハール家の紋章をまとうジンの女性が言った。彼女は険しい目つきで尋ねた。「どのような寺院ですか?」

 「詳しいことは分かりません。ですが私たちは精霊龍のるつぼにて声を聞いたのです。龍の嵐の中に寺院があり、それを見つけ出さねばならないと。そして、それは嵐ヶ原にあるだろうと推測しました」

 「ですが、なぜ嵐ヶ原にあると?」ジンの女性は続けた。「龍の嵐はタルキールの至る所で起こります」

 「るつぼで声?」グダル家の少女が言った。その穏やかな表情から不安が少し消えた。「それには歴史的前例があるかもしれませんよ。似たような逸話を読んだ気がするのですが、確信はありません。ザンハール家が記録の閲覧を許可して下されば、あるいは」

 「もちろん、許可は出しましょう。ですが問題がありまして……」

 「一時間が経ちました」ようやくエルズペスが口を開いた。表情は穏やかで、気高い幸福に満ちていた。「行きましょう」

 謁見室の扉が勢いよく開いた。

 「カン! フェロザー様!」聞き覚えのある声が轟いた。だがその響きは恐怖でかすれていた。抗議するアブザンの役人たちに追いかけられながら、アジャニが謁見室に入ってきた。「何か恐ろしいことが起こっています。サルカン・ヴォルが国境地帯にて野生のドラゴンを支配しています。ことによると――」

 「アジャニ?」

 エルズペスがタルキールに到着してから初めて、ナーセットはその大天使の顔に本物の感情が輝くのを見た。石から彫り出されたような容貌が柔らかさを帯びる、ひとつの彫像からひとりの女性への生々しい変化。レオニンのプレインズウォーカーの名を口にした時、エルズペスの瞳の黄金の光がちらついた。そしてその声には心痛があった。

 アジャニは炎に焼かれたかのようによろめき、後ずさった。「エルズペス? ここで何をしているんだ? 最後に君を見た時……私たちは……」

 彼はナーセットに視線を向け、叱られた飼い猫のように耳を横に動かした。

 「ナーセット」アジャニは惨めな様子で言った。「君もここにいたのか。私はずっと……すまない……私は……」

 エルズペスが一歩前に進み出た。他のすべては忘れられ、アジャニ以外の存在すべては眼中になかった。「多元宇宙は貴方を必要としています。元気でいるのを見られて嬉しく思います。メリーラさんが治して下さってから――」

 「あの娘は私を救って死んだ」アジャニは刺々しく言った。

 「いずれにせよ、あの方は死ぬ運命でした。それはどうすることもできない――」

 レオニンの戦士はかぶり振った。「私ではなく誰か他の者を救うべきだった」

 「メリーラさんは、そうは考えていなかったということです」ナーセットが言った。

 「メリーラは間違っていた」

 「アジャニ」エルズペスは息を吐いた。「過去は過去です。何ひとつ変えることはできません」

 「ああ、できない。私にはできない。私がしてしまったことは変えられない。だが二度と同じことが起こらないようにすることはできる。エルズペス、私は誓おう――」

 「過去は死者たちに任せるのです、アジャニ」エルズペスの表情には、無情な優しさが宿っていた。「彼らと一緒にそこに留まる必要はありません」

 その言葉に、アジャニは虚ろな笑い声をあげた。そしてナーセットはようやく理解した。何故このプレインズウォーカーが追放の身を自ら選び、世界や自分から身を隠していたのかを。その声に宿る悲嘆は、ひどく打ちのめされたものだった。

 「残念だが、そうしなくてはならないのだ」

 だがその痛ましい情景は、フェロザーの咳払いに中断された。「それで。サルカン・ヴォルと野生の龍たちと言いましたね。詳しく聞かせてもらいましょう」

 そして、アジャニは語った。



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

  • この記事をシェアする

Tarkir: Dragonstorm

OTHER STORY

マジックストーリートップ

サイト内検索