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MAGIC STORY
タルキール:龍嵐録

第3話 過去が食らうもの

2025年3月6日
遠くから見ると、そのドラゴンの胴体から流れ落ちる血の帯は、まるで空が喉を切り裂かれたかのようだった。表皮のあらゆる箇所から血が染み出ていた。それはまだ屍ではないものの、既に小型のドラゴンの群れが周囲を飛び回っては引き裂き、噛みちぎった。死にゆく獣の巨大な顎に捕まる前に、できるだけ沢山の肉片を食らおうというのだ。そこに、饗宴の分け前を熱望する更に多くのドラゴンが群がった。タルキールの氏族に属するドラゴンは、獲物が死ぬまで待ってから食べるという礼儀を払うものが多い。だが野生の同類はそうではなかった。
羽毛と赤い鱗をまとう怪物が好機を見てとった。それは自身よりも大きな相手の目玉へと飛びかかり、柔らかなその器官に歯を沈めた。ドラゴンたちは叫び声をあげた。一体は苦しみを、他は勝利を。獲物となった巨獣は背の高い草地に肩から倒れ、ガゼルや他の陸生動物を驚かせた。警戒の声をあげながら、黄褐色の身体の草食動物たちは散り散りになった。まだ息のある獲物に更に多くのドラゴンが飛びかかり、ガゼルたちは小さな群れに分かれて逃げ去っていった。だが数頭が単独ではぐれた。
一頭の、まだ大人になったばかりの飢えた様子の雄が、松の大木の影へと走り出した。走り、息を切らし――
アジャニは攻撃した。狙いは外れなかった。斧がガゼルの首を叩き切り、頭部は離れた所まで飛んでいった。彼は二時間ほど群れを尾行し、その奮闘の中に動物らしい平穏を見出していた。かつて無辜の人々を守ることと礼節に心を砕いていた彼は、今や獣も同然だった。そしてその皮肉を自覚してもいた。
首を切られたガゼルをアジャニはじっと見つめた。喉の切断面から血が溢れ出ていた。かつてであれば、ガゼルを生で食べることを誇りとしただろう。伝統というよりはむしろ利便性のためにそうした時期もあったかもしれない。だが今、その考えは道を外れたものに思えた。つい数年前、彼は途方もない暴力を振るい、それを喜び、多元宇宙への大虐殺を大いに楽しんでいた。そしてファイレクシアに強制されたという言い訳を失ってもなお、依然として自分勝手に、まるでそれが権利であるかのように、ナヒリに癒しを要求した。そして拒否された。
どれほど救済に飢えていたことか。
どれほど赦しを切望していたことか。
だが償いたいと言う必死の願いも、自らがもたらした悪を正しはしないと気付くまでにはとても長い時間を要した。十分な善行を成せば、エリシュ・ノーンの小さな愛玩物であった頃に犯した罪もすべて魂から消えるかもしれない――心のどこかで、ある程度はそう期待していた。だがそれは悲嘆や罪悪感、貪欲な自己嫌悪を和らげるためのものでしかなかった。
だからこそ、死が無益であってはならない。ガゼルのためにできる最低限のことは、尊厳を持ってその屍を扱うことだった。アジャニは慎重に死骸を肩に担ぎ、身に着けた金色の肩飾りと首との間に挟むと荒野の小屋までの長い道のりを歩きはじめた。
背後の空に、腐肉を食らう鳥たちが集まっていた。その黒い翼が描くらせんは、まるで嵐の到来を警告しているかのようだった。
背後の砂埃の中で、何かが目覚めた。
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アート:Piotr Dura |
小屋の横に、角の生えた人物がひとり立っていた。その女性はアジャニが戻ってくると深く頭を下げ、滑らかな顔に星のような白い笑みを浮かべた。「英雄さんとまた一緒にいられるなんて、私はほんとに運がいいってことね」
アジャニはひるんだ。「頼む、ヌール。話しただろう、私は英雄などではない。ただの――」
「はいはい。あなたは紛いもので、信じたものすべてにとっての大恥。裏切り者。思い上がったばっかりに――」話す間も、そのジンの笑顔は輝いたままでいた。
「やめてくれ」アジャニはガゼルの屍を地面に置いた。血がその白い毛皮に流れ、幅広の胸に赤い筋が斜めに走っていた。憂鬱な気分ではあったが、彼は笑みを浮かべずにはいられなかった。ヌールはとにかく無礼で、懲りるということもない。尊ぶものなどほとんど無いようで、誰が聞いていようと気にせず公然とアブザンのカンをからかうという噂もあった。その様子がとても魅力的でなければ問題になっていたのだろうが、彼女はそれを十分に認識しているようだった。「今日は君の小言に付き合いたくはない」
そのジンは掌を広げて胸にあてた。翠緑色を金で縁取ったローブ、紫のアクセント。彼女はアブザンの明るい色彩をまとっていた。右肩からは革の鞄がひとつ下げられ、幾何学的な形で膨らんでいた。
「小言?」ヌールはアジャニの小屋を身振りで示した。まるでそれが自分のものであるかのように。「ひどいわね、そんなことしないわよ。私が言いたいのは、誰にだって大成功と大失敗があるってこと。片方が存在するからといって、もう片方が否定されるわけじゃない」
その言葉にアジャニは威嚇の声を発し、機嫌を損ねたと相手に示した。
「そんな挨拶をしに来たわけではないのだろう」
ヌールはレオニンの怒りにも動じなかった。「ええ、違うわよ。実は、後ろめたいくらい食べ物を沢山もらったから、あなたと分けようと思って」
ジンは肩からかけた鞄を軽く叩いた。
「ひとりの食事って、その、すごく寂しいじゃない?」とても優しく、ヌールは言った。
「もっと酷い苦しみもある」アジャニは淡々と言った。このジンが自分を孤独から誘い出そうとしたのはこれが初めてではない。概して、アブザン氏族は干渉を欲さないアジャニの意向を尊重してくれていた。この次元に初めてやって来た時、彼はアブザンのカンに対面した。そして国境での支援と引き換えに自由に行動できる権利を得た。もちろんアブザンは承諾した。だが数か月が経過してアジャニが彼らの狩りや救出作業に加わるうちに、彼らはレオニンが抱える苦痛を知った。そして氏族は心変わりをはじめた。まもなく使節がやって来て、力を貸したいとアジャニを説得しにかかった。皮肉にも、アジャニはそれが完全に欲得ずくであると確信していた。自分たちの内にプレインズウォーカーを欲する理由が他にあるだろうか? 彼が19人目の使者を拒絶した時、ヌールが戸口に現れるようになった。
そして残念なことに、アジャニはヌールを気に入った。
「確かに、あるわね」巨体の猫族の戦士の後方、その何かに注意を向けながらジンは言った。「例えば死んで、怒り狂って、迷うとか」
その言葉にアジャニが振り返ると、大気が岩屑を巻き上げていた。砂混じりの風の中、いくつもの顔が動いていた。苦悶の顔、悲嘆と怒りと憎悪に歪んだ顔。それらは彼を憎み、ヌールを憎み、生者の世界を憎み、何よりも自分たちがそこに置き去りにされたことを、族樹が消滅したことを、自分たちの名前が忘れ去られたことを憎んでいた。繋ぎとめるもののない記憶の塊。祖先の大渦について初めて知った時、アジャニはそれを悲劇的なものだと考えた。今は、少し羨ましいと思っていた。
「人生がもっと単純だった頃の話を聞いたことがあるわ。ご先祖様が何か不満に思っても、お祭りの時まで待ってから言いに来た。今は、いつでもどこでも好きな時にうるさく言ってくるのよ。とっても不作法だと思わない? アブザンの死者って、死んでからもこんなに失礼なことができるんだから」砕けた口調でヌールは言い、集まりつつある霊たちへと向かった。「ごめんなさいね、たぶん1分もかからないから」
ジンは両腕を大きく広げた。ヌールが義務を果たしている間は離れている方がいい。アジャニは代わりにガゼルに注意を向け、背負い袋からナイフを取り出して死体を真二つに切り裂いた。あらゆる部位が利用できるだろう。血から骨まで、腱から歯まで、使い道を見つけるだろう。少なくとも、それがこの獣に対する恩義というものだ。
「尊敬する叔父様がた、立派な叔母様がた。私にはわかります、辛い思いをされているのですよね――」これまでもヌールの笑顔は眩しかったが、今は燐光を放っていた。彼女の声はある種の旋律を帯び、祈祷のような律動を刻んでいた。「――とてもよくわかります。漂流しているような気持ち。迷ってしまったような気持ち。皆さんが苦しむのは当然です。けれど、私たちは皆さんを忘れてなどいません。見捨てたりはしません。いずれ皆さんの樹は見つけ出され、二度と失われることはありません。約束します。ただ、どうか、ほんの少し時間が必要なのです」
それが何なのか、アジャニは全くわからなかった。実際の魔法なのか、霊をなだめる生来の才能なのか、それとも迷える魂に対してヌールが真に誠実で同情的である証拠なのか。彼女はご機嫌取りでどうにも不遜ではあるが、アブザン氏族においては放浪の守護者として、熱意をもって自身の義務を果たしていた。何にせよ、ヌールの仕事は不思議なほどに効果的だった。祖先の大渦は不満を数語呟いた後、満足したように消え去った。ヌールはその跡に独りで立ち、後悔の表情を浮かべながら優雅に頭を下げた。
「またすぐ戻ってくると思うけど、ひとまず朝食を楽しむ時間くらいはあるわよ」ヌールはアジャニが解体した死骸を見下ろし、驚きの表情に口を開け、そして再び笑顔を浮かべた。「それとも昼食かしらね。さ、手伝ってあげる」
ヌールが持ってきた料理はどれも素晴らしく、アジャニはそれを認めざるを得なかった。彼が炙った薄味のガゼルの肉よりも遥かに美味だった。香辛料がかぐわしい米、温かなシチュー、じっくりと煮込まれた肉、浸して食べる平たいパン、そしてアジャニが名も知らない副菜の数々。ヌールはあの輝かしい笑顔を浮かべ、全部試してみろと強要した。分不相応な親切、こちらが頼んだわけでもないというのに。
「調子はどうなの、アジャニ?」
「生きている」アジャニはガゼルの骨髄と肉の両方を炙り、前者は骨に付いたまま、後者は尖った枝に串刺しにした。「私が願うのはそれだけだ」
「生きてるだけで、他に何もないってこと?」ヌールは食べかけの菓子で宙を指した。金色の欠片がむき出しの地面に降り注いだ。「そんなの植物と同じよ。悪気があって言うわけじゃないけど、すごく退屈そう」
「退屈なのは、すなわち安全ということだ」
だがアジャニはその言葉を即座に後悔した。まるで上等な肉を差し出されたかのように、ヌールがそれに食いついた。
「安全――」身を乗り出したヌールの声と表情から、遊び心はすっかり消えていた。代わりにそこには不安をかき立てるような激しさがあり、彼女の不遜さがこれほどまでに許容されている理由をアジャニは改めて思い出した。「――は、幸せと同じじゃないわ。鍵のかかった宝物庫の中で安全にいられても、お腹の傷で死にかけてたら何にもならないじゃないの」
「私がそれで死につつある、君はそう思っているのか」アジャニは腕を組んで言った。彼の小屋にあるのは必需品だけ――つまり食料の貯蔵庫と武器一式のみ。快適な生活のためのものは何もなかった。アブザンからの数少ない贈り物、刺繍入りの毛布とレースで縁取られた枕は丁寧に保管され、隅に置かれていた。馬鹿げているとはわかっていたが、自分にそれを使う資格があるとはまだ思っていなかった。
「まさにその通り。ゆっくりと苦痛に満ちた魂の死よ。プレインズウォーカーがどれだけ長く生きるのかはわからないけれど、100年後のあなたの姿は目に浮かぶわ――虚ろな目をした霊そのもの。ただ、皮膚と筋肉でできているだけ」
「つまり、私は亡霊になってしまうということか」アジャニはすねたように言った。ヌールと共に過ごして、その影響を受けずにいることはありえない。
ヌールは肩をすくめた。「アブザンが力になれるわ、知ってるでしょ」
「助けなど求めていない」
ジンは両手を挙げた。「それは何度も聞いたわよ。私はただ、アブザンなら役に立てるかもしれないって言ってるだけ。何たって、うちの氏族は死者とかなり変わった関係を持っているのだから」
変わった関係。確かにそれは、アブザンが守る族樹に対する表現のひとつだろう。それはアジャニがこれまで見たことのない植物だった。半分は生きた樹木であり、半分は黄金色に輝く精霊。
「死者たちを近くに留めておくことで、私たちは学んできたのよ。過去から逃れることも、過去に殉じることもできないって。起こったことを受け入れるだけ」ヌールの顔は再び明るい笑顔へと変わった。「難しいことだけどね。けれど、だからこそ、アラシンには優れた助言者が沢山いて、素敵で贅沢な暮らしを送っているのよ」
「君は……」
「ちょっとでいいから考えてみてくれない? それが私の願い。友達なんだからさ。アジャニ――」
かつて、友と呼んでくれた者がいた。友だと信じてくれていた、自分が斧を振り上げるその瞬間まで。マナ・リグから落ちてゆくヤヤの顔を、その悲しみを、その目に宿った絶望を決して忘れることはないだろう。
ヌールの声は囁きへと静まった。無慈悲なほどに真剣そのものの。「――あなたが心配だから。こんなのは生きてるって言わない。ただ死を先延ばしにしてるだけ」
「あるいは罰か」アジャニは客人の目を見ずに言った。
「そして、それが罪に相応しい罰だって決めるのは誰なの?」
その後、食事の間中ふたりが話をすることはなかった。アジャニはわずかな申し訳なさを感じた。
ナーセットには心づもりがあった。彼女は年経た龍のどれかと、空乗りが気付かないような者と共に行く計画だった。だがその若々しい雌龍は耳を貸さず、来たる冒険に加わりたいという熱意を声高に主張した。
「旅に同行できるのであれば光栄の極みじゃ、道師どの」息を弾ませた人語で何度目かの宣言をすると、彼女は尻尾を床板に叩きつけた。「このような機会をずっと夢見てきたのじゃ。この特権にあずからせてもらえるのであれば、わしは――」
「はい、はい」ナーセットは言った。「わかりました。ただ静かにしていてください。皆に気付かれる前に出発したいのです」
ナーセットは若い龍に鞍をつけた。出し抜かれたことは少し悔しい。とはいえ龍たちは警報を発することもできたが、そうしないことを選択したのだ。僧たちに問われたなら彼らは何と答えるのだろう? ナーセットは冷静な興味をもって考えたが、すぐにその好奇心を捨てた。詳細な指示と、他にも役に立つ文書を残してある。彼らは大丈夫だろう。最悪でも、戻ってきた時に少し気まずい思いをするだけだ。
エルズペスは何も言わず、雑談をしようともせず後ろについた。ナーセットはそれをありがたく思った。自分に世間話をする才能はないが、その天使のよそよそしい振る舞いには気付いていた。ナーセットはますます確信した――エルズペスは天に昇ることで得たものと、同じほどに失ったものがあるのだと。天上の力を焚きつけるためには、かつて彼女を人間たらしめていたものを燃やさなければならないのだ。果たしてエルズペス自身はそれに気付いているのだろうか? そして気にしているのだろうか?
ジェスカイの色鮮やかな赤い植生と宝石のような湖が荒野に変わると、その天使はようやく口を開いた。
「ここが精霊龍のるつぼですか?」不毛の岩は、かすかな乳白色に輝いているように見えた。
「いかにも」待っていましたとばかりに、ナーセットの乗騎が答えた。「かの壮大な戦いの以前は、豊かな自然に満ちた場所であったと――」
ナーセットはかぶりを振った。「それは単なる誇張です。昔からずっとこうでした」
「興醒めじゃのう」
「龍王と対峙してから、ここに戻ってきたことはあるのですか?」エルズペスが尋ねた。
不意に、ナーセットは再びあの戦いの中にいた。反乱軍の指導者たちが優勢であることは明白だった。精霊龍はこの世界に生まれたばかりで、自分たちを創造した嵐の力を今なおうねらせている。一方で敵は何世紀もの間を定命として過ごし、独りよがりで、自分たちの力を過信していた。ナーセットはシィコを前に進ませ、両者はタルキールの主たちの喉元を狙う槍先と化した。ドロモカの光の息が大気を焦がすと彼女は目を閉じ、シィコは上方へと身をよじった。熱が消えるのを感じた。「もう少しです」そして乗騎にそう告げた。もう少しで龍王たちは打ち破られる、そう確信していた。
「何度も」ナーセットはそう答えた。「物語はいつも、龍王たちが嵐の中に追いやられたところで終わります。とても勇壮な結末に思えます。ですが私はしばしば思うのです、龍王たちは隠れているだけで、タルキールに帰還するまでの時間を待っているのかもしれないと。あるいはあの嵐によって消滅し、その過程で私たちへの恨みで次元の本質そのものを汚染したのだろうかと。口で言うほど突拍子もない話ではないと思います。下を見てください……」
ナーセットが指をさした先には、大地の巨大な裂け目があった。深く広いその中には様々な大きさの岩塊が浮かんでおり、それぞれが不気味な輝きを放っていた。
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アート:Carlos Palma Cruchaga |
「面晶体」エルズペスは驚いて言った。「ナヒリさんがエルドラージを封じるためにゼンディカーに作ったというのは知っています。ですが何故ここに? ナヒリさんがタルキールを訪れたという話は聞いたことがありません」
「ウギンがその作り方を教えた、少なくとも私はそう聞かされました。そしてそれらには、ウギンの生命力の一片が宿っているのだと」ナーセットが手綱を軽く引くと、龍が小さく呟いた。「言ってくれさえすればいいものを」そして急降下していった。
「この次元や多元宇宙で起こっている出来事、その答えがあるのなら」着陸しながらナーセットは言った。「この場所で見つけられるでしょう」
探し求める者は道を見出すであろう。
来たれ、真実が待つ寺院へと。
「エルズペスさん……」
「私にも聞こえました」
上空で嵐が形成をはじめ、鋸歯のような雲が目やむき出しの牙のようなものへと変化した。
「龍の嵐が形成されつつあります。僧院はそれを知りたいはずです」ナーセットは乗騎の喉に手を置き、小声言った。「あなたに行ってもらいたいのですが……」
「わしは冒険をしたいのだ、道師どのさえよければな」
ナーセットは龍の白い喉に頭を押し当て、すると龍も同じように応じ、鼻先が頬に触れるのを感じた。
「わかっています。ですが心の統一は……」
「『他者を助けるために個の欲求を捨て去ることから生まれる』。わしとて判っておる、道師どの。とはいえ、行きとうない」
「ですが、行って下さるのですよね?」
龍は怒れるガチョウのように翼を羽ばたかせ、上体を起こした。その振る舞いは、ナーセットより数十歳は年上であるにもかかわらず、無理難題を押し付けられた十代の少女のようだった。龍は落胆とともに人型生物ふたりを見下ろし、ため息をついた。
「ああ、胸が張り裂けそうなほど残念じゃ。わしのいない所で楽しみすぎるでないぞ」
「楽しみませんよ」ナーセットは安心させるように言い、大きく一歩下がり、龍が空へとらせんを描いて上昇していく様を見守った。それが礼儀というものであり、そしてあの龍を危険にさらしたくはない――だがナーセット自身、より重要なのはどちらなのかはわからなかった。
龍の姿が頭上のかすかな象牙色の輝きにまで小さくなると、エルズペスが尋ねた。
「さて、どうしますか?」
「私は……」
寺院へと来たれ。今すぐに、手遅れになる前に。
「何かがあります」今回、エルズペスの声にはかすかな感情があった。だがそれが何なのかは、ナーセットにははっきりとわからなかった。
「面晶体から発せられているような気がします。何のことでしょうか。寺院? ここには寺院などありません。あればわかります、何度も来ていますから」ナーセットは感じていた――稲妻が走る予兆のような、うずくような感覚。大気が電気を帯び、生きているよう。飢えているよう。それ以上に、焦りが感じられた。そして目がくらむような一瞬、ナーセットは再び子供となっていた。教師が見守り待つ中、彼女はオジュタイからの謎のひとつを解こうとしていた。
嵐の中心に座す寺院へ。
「美しいと思わないか?」
ナーセットは驚きとともに現実へと引き戻された。どこからともなく現れた男、裸の胴体をマントのように覆う長い黒髪。伸びすぎた顎髭で顔立ちはほとんど見えなかったが、その目はどこからでもわかった。
「サルカン」ナーセットは穏やかに言った。「ずいぶんと久しぶりですね」
その男は小さく頭を下げた。筋肉質の身体には生々しい傷跡が走り、まとう鎧はナーセットの記憶にあるよりもすり減っているようだった。「大きなものを探していたのだろう。見つかったのか?」
「ええ」ナーセットは彼を見つめ、小さく痛むような落ち着かなさを覚えた。サルカンには目的があるに違いない。ここにいる理由があるに違いない。「るつぼで何をしているのですか?」
龍の嵐を見上げるその目は潤んで、熱っぽく輝いていた。その顔に浮かぶ切望の激しさにナーセットは当惑し、思わず視線をそらした。
「希望を探している、だろうか」サルカンは更に近づいてきた。エルズペスが剣を抜くと、彼はようやくその歩みを緩めた。「君があの嵐から精霊龍たちを呼び出したのだろう? タルキールがこれまで目にしたどれよりも大きく、荒々しい嵐を。以来、俺はずっと嵐を追跡してきた。そして思うに――この次元は再演を切望している」目を細めてサルカンは言った。
「何を言っているのですか?」鉄のように冷たく平坦な声でエルズペスが尋ねた。
「タルキールより、龍は来たりて――」
「すべての龍がタルキールに系譜を辿れるとは思えませんが――」ナーセットはそう言いかけた。時折、自分自身を抑えられなくなる。
「そしてタルキールから、更なる龍たちが現れるだろう」サルカンの両目に宿る何かがナーセットを不安にさせた。そこに燃える病的な崇拝は、欲望だけで身を引きずり進む死にかけの獣を思わせた。「多元宇宙のすべてが龍の領域となるだろう」
「私が生きている限り、そうはさせません」エルズペスが言った。
「ならば正そう」
その戦いは、戦いと呼べるのであれば、数秒で終わった。サルカン・ヴォルは強い男で、多くの戦いを生き延び、熟練の戦士としての自身を熟知していた。だが熱に浮かされ力を削がれた彼は一介の定命に過ぎず、一方のエルズペスは大天使にしてプレインズウォーカーでもあった。サルカンが突撃すると、エルズペスは苦もなく彼の刃を受け流した。鋼鉄が鋼鉄にぶつかる音が響くと、高潔なその顔から感情が消えた。
「結構です」
そして彼女はサルカンを殴りつけた。
それは野蛮で効果的、そしてエルズペスの動きとしては全く予想外の攻撃だった。サルカンは勢いよく地面に座り込み、エルズペスの鎧の拳で殴られた肋骨を掌で押さえた。いとも簡単に倒されたことをひどく驚いている様子で、翼のある影が審判のように自身の上にかかってもなお顔を上げなかった。
「エルズペスさん。待ってください」ナーセットが言った。「彼は――サルカンは。いけません!」
大天使の殴打は強烈だったが、それで決着がついたわけではなかった。彼女がナーセットへと振り向こうとした瞬間、サルカンがうなり声とともに動いた。角度は完璧だった。翼があるせいで素早く振り返ることはできないだろう。その前にサルカンが彼女の胸郭に刃を突き刺す。ナーセットはためらわず、指を絡ませて複雑な模様を描くと両手を広げた。その身体にマナが流れ、藍色の光が大気に波打った。爆発があり、サルカンを少し離れた場所まで吹き飛ばした。彼は息を切らし、無力に呆然とした。
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アート:Diego Gisbert |
「タルキールはもう十分な数の死を見てきました」長い沈黙の後、彼女はエルズペスの手首に片手を触れて言った。「これ以上は要りません」
エルズペスは彫像のように完璧な、恐ろしくも冷たい表情でナーセットを見つめた。だがすぐにそれは和らぎ、サルカンを見下ろす目には哀れみが宿った。剣を再び鞘に収めると、その声にも。
「もう一度私たちに襲いかかってきたなら、今度は殺します」
どれほど飢えていたことか。もう一度、哀れにむせび泣く柔らかな肉塊以上の存在になれる機会に。サルカンは胸を掴み、ずれた肋骨が時計の針のように上下に揺れ動くのを感じた。脆い身体。屈辱だった。かつては敵ふたりなど簡単に倒せたのかもしれないが、時とともに真の自身に戻ることすらできなくなっていた。今持っているのはこの姿、この蛆虫のような身体だけ――翼はなく、弱く、価値もない。龍の姿はまだ手の届くところにあったが、変身はかつてよりも遥かに困難になっていた。かつては自由のように感じていたものが、今では拷問のようだった。身体はもはや変身を喜ばず、痛みに悲鳴を上げていた。何もかもが痛んだ。そして肉体が我を張ったなら、永遠に人間の姿のままとなるだろう。それはひどく恐ろしい考えだった。
どれほど切望していたことか。自分自身の過去を取り戻し、この忌々しい現在を消し去りたいと。サルカンは痛みをこらえ、足を引きずりながら前に進んだ。長い髪が顔に絡まった。精霊龍のるつぼからマルドゥの領土、この寒々とした平原まで彼は何時間も歩いた。追放されたわけではない。こんなにも弱弱しく衰えてしまったという恥辱さえなければ、同胞のもとへ戻っていただろう。老衰した自身を誰にも見られないよう、彼は人里離れたこの場所に小屋を作った。苦悩、過去とその後の記憶、かつての喜び、そしてこの恐ろしい喪失に気をとられていた彼は気付かなかった――頭巾を被った人物が小屋の前に立っていた。
「サルカン・ヴォル殿」その人物は轟くような声で言った。「貴方について、信じられないような話をお聞きしています」
サルカンは驚きを顔に出さず、ただ冷たい疑惑の表情でよそ者を見つめた。「何の用だ?」
「テイガムと申します」頭巾を脱ぎながらその男は言った。「実は、貴方が欲しているものを提供できるかもしれません」
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
Tarkir: Dragonstorm タルキール:龍嵐録
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