MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 08

第6話 救いなき愛

Cassandra Khaw
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2025年3月14日

 

少し過去

 ヴラスカは彼をやきもきさせていた。

 「ジェイス。こんなことはやめた方がいい」

 斜に構えた笑みを彼は無理やり浮かべた。自分たちはとても多くのことを経験してきた……軋轢が生じるのも、意見が合わないのも、今なお続く精神的外傷のせいで新たな壁を築かざるを得ず、一方がそれを貫くすべを学ばなければならないのも、当然のこと。ジェイスは自らに言い聞かせた。ヴラスカはこちらを苛立たせようとしているのではない、ただ自分自身が正しいと思うことをしようとしているだけなのだ。

 たとえ間違っていたとしても。

 「この子は傷つきはしません」ジェイスは全力を尽くしたが、声色には保身を図りたいという思いがにじみ出ていた。「おたからは大丈夫です」

 「ずっとお前から隠れたがってるんだよ」

 「まだ子供なんです。理解していない。それだけです」

 ヴラスカの口元が引き締まり、だが彼女はそれ以上何も言わなかった。ジェイスは安堵した。ヴラスカと口論したくはなく、ふたりで過ごすこの朝を台無しにしたくもなかった。平和な日は貴重なのだ。多元宇宙を渡り歩いて過ごしたこの数か月は厳しいものだった。灯を持たないヴラスカとおたからは領界路を通る必要があり、ジェイスもまたプレインズウォーカーとしての常習的な移動手段とは全く異なる、容易ではない旅を強いられた。おたからのおかげで、どの領界路が最終的にタルキールへと、そしてタルキールから瞑想領土へと続いているのかは把握していた。だが地図を持っていても、道は長く困難だった。そしておたからは蛾に覆われた何かの扉へと迷い込み、そこからあらゆる類の混乱が続いた。あれは途方もない不運だったのか、それとも邪な計画だったのか、それは今なおわからない。

 俺は、手放すことを学ぶ必要がある――たとえほんの少しでも。彼の行動の必要性をヴラスカは理解していないようだが、責める理由にはならない。そのゴルゴンはこれまで大義の名のもとに悪事を働き、自分自身の選択を後悔し、かつての人生の償いを求めている。もちろん、ヴラスカは彼の行いに難色を示すだろう。もちろん、心配するだろう。だがそれ以上はない。そして自分に正直であるなら、自分の行いは間違っているとジェイスはわかっていた。ただ、他に方法はなかったのだ。

 日除け越しに差し込む朝の陽光はバターのような濃い金色で、窓際の椅子に丸まって座るヴラスカの、顔を背けた長い輪郭を照らしていた。そのあまりの美しさに、ジェイスは痛みを覚えた。何よりも彼女の幸せを、彼女の平穏無事を願っていた。そしてしばらくの間、その願いは叶っていた。ドラゴンの問題が蔓延しているものの、タルキールは緊密に結びついた共同社会と豊富な天然資源を持つ牧歌的な場所なのだろう。ジェイスはジェスカイの地を訪れ、その山岳地帯に滞在できる宿屋があるか探してみようと考えていた。だがヴラスカは故郷が恋しかったのだろう、スゥルタイの領土で宿泊施設を探すよう提案した。もちろんジェイスの方が折れた。そしてふたりは現地のコーヒーが冷たいだけでなく甘く、カルダモンとシナモンで贅沢に風味付けされていることを知って喜んだ。

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アート:Bruce Brenneise

 ジェイスの腕の中でおたからが低く喉を鳴らした。注意を引かれ、彼はその奇妙で小さな生き物を見下ろした。ヴラスカにはああ言ったものの、おたからは大丈夫そうではなかった。この子が見ている夢が何であれ、それは優しいものではない。時折、おたからは重い毛布から逃れようとするかのように蹴った。

 あるいはジェイスの支配から、かもしれない。

 けれど今やもう、自分たちはすぐそこまで来ている。すべては――あの館での試練も、アヴィシュカーでの行動も、すべてはここに辿り着くためだった。ジェイスはおたからの不快感とヴラスカの不安から目を閉じ、おたからの心に入った。すると多元宇宙が一枚の地図のように広がり、領界路は星座のように、次元そのものが星々のように、鋼色に輝くその心に眩しくきらめいた。何と素晴らしいのだろう。ヴラスカに見せてやれたなら理解してくれるだろう。ジェイスは――

 「今は心に入り込んで欲しくないよ」

 ヴラスカのはっきりとした声に驚き、彼は物思いを振り払った。そして気付いたが遅すぎた――考えていただけのことを口に出してしまっていたのだ。ゴルゴンは無表情で彼を見つめ、そして彼にはわかっていた。ヴラスカが何を考えているのか、誰のことを考えているのか、よくわかっていた。

 「チャンドラの時は事情が違いました。おたからには絶対、あんなことはしません」

 「するって何をだ? 考える力を無理矢理奪うみたいなことかい?」

 優しく、ジェイスは自分たちの寝台の毛布の上におたからを戻した。スゥルタイの宿屋の主人は、実業家というよりは料理人なのだろう、追加料金なしで赤子用の小寝台を貸してくれた。代わりにその男はおたからを少しだけ腕に抱きたいと言い、本当に愛らしいと、ご両親の誇りだろうと褒めてくれた。明らかな生理的差異にもかかわらず、その言葉には最大限の誠意が込められていた。状況が違えば、ジェイスは警戒していたかもしれない。だがスゥルタイの人々の中では、死者たちがまるで死んだこともないかのように歩き回っている。だからここには異なる基準があるのかもしれない。いずれにせよ、おたからは借りた寝台で夜の半分を過ごしただけだった。ジェイスとヴラスカが翌朝目を覚ますと、ふたりの間に彼が丸まってそれぞれの手を握っていた。

 「裁く立場にはないでしょう、ヴラスカさん」ジェイスの自制心はすり切れつつあった。ヴラスカのことは愛しており、それに疑問の余地はない。ヴラスカの過去に自分が何をしたかは知っている、それでもその声に込められた裁きの色には嫌悪を覚えた。「ヴラスカさんは大義の名のもとに手を汚すことを絶対にためらわなかった」

 ヴラスカはひるんだ。「殺さなきゃならない奴もいる。けれど、お前は絶対に人殺しなんかじゃなかった」

 「チャンドラを殺してはいません」

 「傷つけただろう、ジェイス。ひどく」

 「あいつは俺たちの前に立ち塞がったんです」

 ゴルゴンは立ち上がった。ジェイスを驚かせたのは、彼女が顔に浮かべた痛みだった。ヴラスカはまるで殴られたかのように見えた。とはいえ、言い出したのはヴラスカの方なのだ。チャンドラのことを話題に出したのも。そうでなかったなら、ジェイスは彼女に明らかな苦痛を与えたことを後悔したかもしれない。

 そしてヴラスカは言った。「昔のお前はそんなことは言わなかったよ。どう尋ねればいいのかずっと考えてたけど、いい感じに丁寧な言い方が思いつかなかった。だから、はっきり言うよ。本当にこんなことをする必要があるのか? こうしてまた一緒になれた。幸せになれる。私ら三人。奇妙で小さな家族。それで十分じゃないのか?」

 「十分じゃありません」ジェイスは両手を差し出し、彼女へと歩み寄った。その声には、傷ついた心のすべてが込められていた。「俺にとっては十分かもしれません。けれど皆にとって、あらゆる次元にとってはどうですか? 自分たちだけで満足しているなんて許されません。こんなに近づいているんです。確かに面倒なことになるとは思いますが、その価値はきっとあります。俺は、正せます。すべてを正せます――ヴラスカさんも知っての通り、俺にはできます。この疑念は何処から来たんでしょうか。過去の悪夢を今も見るのは俺だけですか? ファイレクシアは多元宇宙を壊した、けれどおたからの助けがあれば、きっと――」

 ジェイスの指が彼女のそれに触れ、そして、気乗りせずとも、ヴラスカは手を絡ませた。

 「死者は十分に苦しんだ、お前はそう思わないか? そいつらに安らぎをやろうじゃないか。私らの過去に安らぎを。死なせようじゃないか、ジェイス」

 彼はヴラスカを見つめた。そして記憶に刻みつけた――金色の瞳の端から詩の一節のように走る目尻の皺、人中、上唇の弓なりの窪み、頬骨、触手の髪に光が描く不思議な輪。生きている限り、今のこの人を忘れることはないだろう。二度と戻らないほど変わってしまったけれど、ずっと昔に初めて会った時と同じほどに美しい。ああ。その声に耳を傾けたい。信じたい。

 「すみません」ジェイスは言った。「ですが、俺が何をすべきかはわかっています。ただ、待ってください。俺がこの全てを正して、そうすれば、何も起こらなかったかのようになります」

 そして――


その後

 おたからはどうやって、ドラゴンの嵐の中をここまで這い進んできたのだろう。その謎は後で解かねばならない。

 「おたから!」ジェイスは風の音に負けじと叫んだ。「おたから! こっちへ来い、でないと俺たち両方とも死ぬぞ!」

 返答として、その小さな生き物は屋根らしきものの下へ潜っていった。それは何かの記念として残すために作られた人工の洞窟のようにも見えた。とはいえ確信はない。この場所がかつて何であったにせよ、今は見捨てられてドラゴンの嵐やアブザンの砂漠に生息する捕食動物に明け渡されている。砂の中の崩れた遺跡に風が打ち付け、その残骸はまるで腐肉あさりの鳥に綺麗に食べられた骨のようだった。ジェイスは片腕で目を覆い、膝をつくと目を細めて見た。おたからはジェイスを追い払うように鳴いた。そしておたからが生まれつき持つテレパシーで、もう関わりたくないという思いが伝わってきた。タルキールはもう嫌だ、ヴラスカのもとへ帰りたい。スゥルタイの宿のおじさんがくれたココナッツのお菓子が食べたい――だが何よりも、おたからは再び閉じ込められるのを嫌っていた。

 「おたから、俺の立場はわかってるだろう」ジェイスは声を柔らかなものに変え、安心させるように言った。「俺も同じくらいこの状況が気に入ってる。つまり全然気に入ってないってことだ。でも、もうすぐなんだ。もうすぐだ、約束する、これが終わったら俺は絶対に――ここには戻ってこない」

 後にジェイスはこの瞬間を何度も思い出し、心の中で熟考し、あらゆる角度から吟味し、果たしてこの状況に別の方法で対処できただろうかと検討した――自分が選んだ方法よりも残酷ではなく、かつ同様に効果的な解決策があっただろうか? おたからは怯えていただろうか? 何が起こったのかを理解する前に、このフォモーリを素早く抑え込むことができただろうか? 彼はその記憶を何度も反芻した。おたからが嵐の中へと駆け込み、その後自分の魔法がその生き物を追いかけ、捕らえ、破れ目のない青い光で包み込んだ。やがてその瞬間の記憶は摩耗してガラスのように滑らかになり、最終的に、そこには自分自身の意図だけが映って見えるようになった。


現在

 「いずれにせよ、どれも問題じゃありません」ジェイスは肩を落として言った。「この場所が何であれ、俺たちはここに閉じ込められています。おたからが持つ多元宇宙の知識もここでは役に立ちません。ここに理屈はありません。実際の道もありません。ある方向にずっと歩いていったなら、やがて自分の背中が道を走っていくのが見えるでしょう。不可能なんです――」

 ナーセットは目を閉じた。

 これは多くの人々の、特に自分はとても賢いと思っている人々が抱える問題だった。自分自身の見方に合わない世界を理解できないのだ。自分たちにとっての「普通」から外れたものはすべて間違っていて非論理的であるという考え。そしてナーセットはそれが誤りだとわかっていた。多元宇宙は定命の存在の理解を、理解したという願いをはるかに超えた複雑さをもつ。この場所、この広がり、この何かは、その真実とそれ以外の真実の象徴なのだ。ナーセットはそれを確信していた。

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アート:Kai Carpenter

 そこでナーセットは若い頃のように、自身と共に学ぶようオジュタイに命じられた時のように行動した――先入観を捨て、これまで見ようとしなかったものを見る。そうすることで、世界は彼女と戦うことを止めた。

 だが、それだけでは足りなかった。この場所の現実が飛び跳ね、震えるのをナーセットは感じた。同行者たちが、自分たちが見たものを理解しようと努めるにつれ、それらは新たな構成へと閃き変化した。まるで捕食者から逃げる動物のように。

 「熱心に考えるのをやめてください」ナーセットは息を詰まらせた声で言い、再び目を開け、自分が見たものを、この場所について今理解していることを説明しようとした。「この移り変わる空間に私たちを閉じ込めているのは、私たち自身の思考です。お二方には、心を空にしていただく必要があります」

 「すみません」ジェイスが言った。「どういうことですか?」

 「ただ、待つのです」

 「待つって、何をですか?」

 ナーセットは苛立ちの声を飲み込んだ。「お願いです、私を信じてください。心を落ち着かせて、待つのです」

 「ですから、何を待っているんですか? どうして待っているんですか?」

 「この場所が――」ナーセットは再び苛立ち、両手の甲を目に押し当てた。

 肩に手が置かれるのを感じた。大天使は相変わらず大理石のように無表情だったが、その手は温かく安心をくれた。「ナーセットさんの言う通りにします」

 「わかりました」ジェイスは溜息をつき、おたからを腕の中に抱き寄せた。

 一瞬にして、ナーセットは望んでいたことが起こるのを感じた――世界が壊れて今一度再構築され、ばらばらに離れていく感覚。世界が自らを繋ぎ合わせるに際し、そこにいる者の予想を用いるのは変わらない。ただこの時は彼女たちの予想ではなく、他の何かの予想を用いていた。他の、何者かの。ナーセットは畏敬の念を隠しもせずに見つめた――鏡のように輝く空、果てしなく続く階段、磨き上げられたような水面が単調な銀色へと崩れ去る。そして、一瞬にしてそれは再び分かたれ、ナーセットが死しても覚えているであろうふたつの姿が現れた。それらは互いに絡み合い、角を触れ合い、額を寄せ合っていた。

 「まさか。そんなはずが」エルズペスがかすれた声を発した。

 近寄るでない。ウギンの声が届いた。音というよりは、骨に伝わってくる反響。彼は神話のように巨大だった――いや、それよりもなお大きかった。その精霊龍は幾つもの世界よりも、希望よりも大きく感じられた。羽毛の翼が自らの片割れを守るように閉じられ、鱗は青い氷のよう。だがウギンをここに追いやった何かが彼の輝きを蝕んでおり、鱗はくすみ、視線もまた鋭さを失っていた。ナーセットはその様相に驚きはしたが、先程の龍の声に込められた絶望に比べれば小さな衝撃だった。ウギンが頭を上げると、くすんだ金色の片割れも同じようにした。後者は磨かれた青銅のように傷ひとつなかった。つかの間の狂気じみた一瞬、ウギンは片割れに寄生されているのではとナーセットは考えた。精霊龍がこんなにも消耗して見えるのは、自分たちを見下ろしてにやつく笑みを浮かべる怪物が原因なのではないかと。

 「これはこれは。何だ? 贈り物かね、愛しき片割れよ? 我は永劫の時を囚われ、退屈なおぬし自身のみが話し相手であると思わせられていただけなのかね? なんと心打たれる慈しみであろう。おぬしは本当に我を愛しておるのだな」ウギンの相方は巨大な頭部をかしげ、完全にその注意をナーセットとその仲間に向けながら甘い声で言った。「おぬしらを知っているように思う。おぬしら三人全員を。おぬしらが何者であるかの記憶は、古き血の味のように我が舌の上に残っておる。さあ、友よ。おぬしらが何者かを我に伝えよ」

 片割れの虚言に耳を貸してはならぬ。その鉤爪が突き刺さる前に立ち去るのだ。

 「特に、おぬしは」その龍は続け、エルズペスとナーセットの間に立つジェイスへと顔を向けようとした。だがその動きは完全には成功せず、どこからか鎖が現れて彼を地面に縛り付けた。「感じる……我らはかつて近しい友であったのではないか? そこのおぬしは、あるいは、共犯者であったのかもしれぬ。この我が抱く秘密をすべて知り、我もまたおぬしの秘密を知る、そのような者だったのかもしれぬ」

 「どうして生きているのですか?」信じられないという思いに、エルズペスの声がかすれた。「あのドラゴンは死んだと、死ぬ様子を皆が見たと。それでも、そこに――」

 「いただけぬな、この我の存在など誤りであるような物言いは」軽蔑するように龍は言った。「だが、いかにも。我は生きておる。記憶は無い、だが生きておる。見ての通りに」

 「どうしてですか」再びエルズペスは言い、その両目はジェイスとナーセットの間を行き来した。

 我らは合意した筈だ、ベレレン。何故ここに来た?

 「ほう?」もう一体の龍が笑い声をあげた。

 「ジェイスさん、何か言ってください」エルズペスは問い質した。

 返答するようにその精神魔道士は毛皮をまとう同行者をそっと地面に下ろし、頬を撫でてから再び背筋を伸ばした。その顔にほとんど感情はなかった。ナーセットが注視していなければ、ジェイスの両目に罪悪感が閃き消えたのを見逃していたかもしれない。「ここに戻って来たくはありませんでした」

 「それは返答ではありません」エルズペスは言った。「何が起こっているのかを教えてください」

 かつて、この者と我とで死を偽装したのだ。死を許された片割れが今世に呼び戻されぬという保証はない。ゆえに、我はこの地を我らの牢獄とした。そして幾千年の後に片割れが命尽きるまで、我らの牢獄であり続ける。それが、多元宇宙をこの片割れの策謀から守る唯一の手段なのだ。

 「ふむ、我に対する称賛を一度に言い切るでない。最愛の片割れよ――」

 「ウギン様」ナーセットは息を吐いた。この精霊龍の前に膝をつき、ひれ伏したいという衝動に彼女は襲われた。「どうか。多元宇宙はウギン様の助力を必要としております。龍の嵐が激しさを増し、タルキールから他の次元へと広がっているのです。何もしなければ、すべてが飲み込まれてしまうでしょう。私たちはウギン様の助力を求めてここまで来ました。どうか、力をお貸しください」

 それは叶わぬ。

 ナーセットは愕然とした。息ができなくなったように思えた。

 再び言葉を発した時、その声はかすれていた。「では、龍の嵐を鎮める方法をご教示ください。助力が叶わないのであれば、せめて私たち自身でそれを止めるために何をすべきかを。どうかお教えください。お願いです。タルキールがどれほど長く耐えられるかはわかりません――」

 心苦しいが、我に尽力できることは何もない。我に残された力は、片割れを監禁するという務めのためのもの。立ち去るがよい。このやり取りでさえ、片割れの束縛を危険にさらす。もしもこの片割れが逃亡したなら、龍の嵐など多元宇宙における最小の懸念となるであろう。

 「我は愛されておるのだな」ウギンの片割れは微笑みながら言った。「我と共にいるために、すべてを破壊する危険を冒すとは」

 「いいえ」エルズペスがナーセットの前へと進み出た。「そのように言われましても、私は信じません。少しだけ時間を私たちに頂けますか。貴方とボーラスには何の負担もかけず、私たちはすべてを手に入れることができます。私たちは――」

 「ボーラス?」その龍は、遂に名前を呼ばれて言った。両目が弱弱しい光を放った。彼はウギンへと向き直り、猫のような貪欲な笑みを浮かべた。「それが我が名であるか? そしてそなたの名は何といったか。ウギン、であったか? ウギンとボーラス。おお、なんと神話のような響きであることか。我らを語る物語であるに違いない。ああ、どうやら思い出し始めたような――」

 立ち去れ。 ウギンは吼えた。今すぐ、手遅れとなる前に立ち去れ――待て。ジェイス・ベレレン、何をしている?

 ナーセットは気付いたが遅すぎた。ウギンの頭部、そのすぐ上の空気が波打った。背後に立っているはずの男は静かすぎた。エルズペスや自分と同じように、ジェイスも圧倒されているのだと彼女は思っていた。何といっても、このすべてが未曾有の露呈だったのだ。ニコル・ボーラスは死んだと誰もが知っていた。そしてウギンは、そう、誰もウギンの居場所を知らなかった。ジェイスが驚いて黙り込んでいたとしても無理はない。

 けれど、ボーラスは彼を共犯者と呼んでいたのではないか?

 それらの考えがナーセットの心の中で渦巻く間にも、エルズペスは翼を広げて大気の歪みへと矢のように向かっていった。ジェイスが溜息をつくのが聞こえた。幻影で作られた分身は解けて消え、精神魔道士本人はウギンの角の間に浮遊する巨大な宝石からわずかに離れた場所に実体化した。

 「こんなことを言っても、何の意味もないかもしれませんが」ジェイスはためらいながら言った。「この件については、本当に申し訳なく思っています」

 その両目が青色に塗り潰され、エルズペスが飛ぶ速さをもってしても十分ではなかった。ウギンの角の間に輝き浮かぶ宝石、それをジェイスが掴むと光が爆発した。虹色の白熱光がナーセットの視界を白く焼き尽くした。

 ほとんど本能的にナーセットは防護のヴェールを身にまとい、光が弱まり始める前に駆け出した。エルズペスが剣を抜き、振るう様子が見えた。その弧は完璧で、ことによってはジェイスの首を肩から切り落としていたかもしれない。だがその時、世界そのものが波打って離れた。精神魔道士は6フィート離れた場所にいた。その姿は青磁色の炎に包まれ、表情は憂いに沈んでいた。

 「ジェイスさん、何をしようとしているのですか?」エルズペスはひるむことなく怒鳴り、次なる攻撃を仕掛けようと後退した。

 「俺がしなければならないことを。必要なことを」それは物悲しい声だった。「もし、すべてを元に戻せると言ったらどうしますか? ファイレクシアが友達を殺すのを止めることができます。エルズペスさん、貴女の人間性を回復して、貴女が決して死なないようにできます。ナーセットさん、龍の嵐を正すことができます」

 「その仕組みすら知らないのではありませんか」ナーセットの返答には、むしろ理性があった。

 「学びますよ」ジェイスはそう言って、まるで初めて見るかのように自身の掌を見下ろした。彼が指を動かすと、それに応えて世界が震えた。ボーラスの笑い声が、燃える一千もの村から立ち上る煙のように宙を漂った。ナーセットは紙を束にするように自らの魔力を集め、やがて両手の間に炎のような熱を感じた。

 「エルズペスさん、あの宝石を奪い取るのです。ジェイスさんがボーラスに渡す前に」

 何故か、その言葉に龍は笑い声を大きくするだけだった。

 大天使は熱く眩しい笑みをナーセットへと閃かせた。その表情は美しくも野性的だった。天使たちが守るべき人々に恐れてはならないと諭し、あるいは手に負えない敵との戦いへと軍隊を率いる物語を聞いたことがある。そのようなことが本当にありうるのだとナーセットは今理解した。彼女の心は熱狂するような希望で高揚した。それどころか彼女の魔法がエルズペスを守るように包み込み、固く閉じた。ナーセットは大天使に遅れまいと走り続けた。他に何ができるのかはわからなかったが、見つけ出すつもりだった。

 その時、恐怖の叫びが大気を切り裂いた。ナーセットがよろめきつつも脚を止めて振り向くと、おたからが白い砂の上にて、決して癒えない傷を心に負ったかのような悲鳴をあげていた。この子が何なのか、何者なのか、あるいはいかにしてジェイスと同行するようになったのかもわからなかったが、ナーセットは怯えた子供を見たならそうだとわかった。

 「大丈夫ですよ」彼女はそう言うと傍へ駆け寄り、両腕で抱きかかえた。ナーセットの胸に抱き寄せられると、おたからは震えた。その様子はジェスカイの子供たちと何ら変わらない。道師は考えずにはいられなかった――もし龍の嵐が制御不能のまま更に激化していったなら、どれほど多くの子供がこのように泣き叫ぶことになるのだろう? どれほど多くの孤児を生み出すことになるのだろう? どれほど多くのタルキールの息子や娘が親の死を告げられ、彼らの人生は取り返しのつかないほど悪い方向へと向かってしまうのだろう?

 あれらを止めるのだ、ウギンが懇願した。手遅れになる前に。

 ボーラスの笑い声が轟いた。「おお、我らになど気兼ねせずに続けよ!」

 頭上で戦いが繰り広げられた。エルズペスは嵐と化したかのようにジェイスへと襲いかかり、その光は稲妻のように彼女の剣を輝かせた。大天使は臆することなく攻撃を続けたが、結局は何の効果もなかった。ジェイスは単純に、そこにいなかった。エルズペスが攻撃するたびに、彼はどこかその武器の届かないところにいた。彼は口ごもりながら宙で後ずさりし、顔は苛立ちに歪み、片腕は柔らかく脈打つウギンのあの宝石を抱え込んだままでいた。

 「エルズペスさん、止めてください。邪魔をし続けるなら、俺はここを制御できない――」

 「ボーラスを解放はさせません」

 「ボーラスを解放したくなんてありませんよ!」ジェイスは叫んだ。「あいつとは何の関係もない!」

 「ならば、どうして――」

 「ここが中心だからです!」ジェイスは叫び、瞬く間に存在を消し、ナーセットの背後に再び現れた。続くその声色は悲しげだった。「古のドラゴンたちは傲慢で気付かなかった、けれどおたからの心が示してくれたんです。この場所はあらゆる現実の基盤で、無数の世界と接触し、純粋な意志の力で形を変えることができる。俺がこれを支配すれば、すべてを正せる。ファイレクシア人がヴラスカさんにしたことも、なかったことにできる――」

 ナーセットは言った。「ジェイスさん、そんなことはいけません」

 「どうして!」ジェイスの声は轟音にまで達しながらも、かすれていた。「どうして正しちゃいけないんだ? 世界を良くするために使わないんなら、この力に何の意味があるんだ! 俺たちプレインズウォーカーはもっと悪い理由で何度も現実を書き換えてきた。愛する人を苦しみから救って何が悪い? 死んだ人たちを取り戻して何が悪い?そもそも、俺が何をしてよくて何をしたら駄目なんて指示する権利が貴女にあるのか?」

 「後戻りはできないからだよ、ジェイス。あるのは未来だけだ。私らの、一緒の未来が」どこからか、フードをかぶった人物が現れて言った。

 ナーセットは凍りついた。その声は知っていた。けれど、あり得ない。最後に聞いた話では、ファイレクシア戦争での多くの犠牲者の中にあのゴルゴンもいたと。その魂は失われ、肉体は変質させられ――

 その人物はフードを脱いだ。ヴラスカその人がそこにいた。ただ、ナーセットが覚えていたヴラスカとは違う。かつての落ち着きも、無慈悲な優雅さも失われていた。かつてゴルガリ団の女王として君臨した女性は失われていた。このヴラスカは消耗しきっていた。このヴラスカは心痛が肉体を得たもので、その疲弊した顔には悲嘆がありありと輝いていた。

 「ヴラスカさん、俺はこれを正せる――」

 「やめてくれ、ジェイス。止めるんだ」

 「貴女を正せるんです」

 「今、その方を殺せば」エルズペスが剣を抜いたまま、ジェイスから少し離れたところに急降下してきた。「まだ災難を回避できるかもしれません」

 「ジェイスに指一本でも触れてみな、その時がお前の終わりだ」威嚇するように言いながらも、ヴラスカはジェイスだけを見ていた。

 ジェイスは言った。「貴女に約束しました、俺たちが受け継いだ世界よりもいい世界を作るって。失望はさせません。ただ、俺を信じてください。皆さん全員です。お願いです」

 世界がぼやけて色合いが深まり、精神魔道士の魔法の青色へと、ひとつの愛の大切な記憶にある真昼の空のような色へと変化した。震えながら小さく笑うジェイスの声をナーセットは聞いた。そして、一瞬、ジェイスは不可能を可能にしたかのようだった。一匹の獣が初めて息を吸うように、世界が拡大するのを感じた。そしてそれが息を吐くとナーセットの視界は万華鏡のように変化し、自分たちが失った未来がその無数の鏡像に映し出された。死した友人たちが再び生きている様子を、壊れていない世界を、苦痛という重荷から解放された次元また次元を見た。必要なのは、考えることだけ。ジェイスはそれを自身の願望へと向けるだけでいい。ナーセットがそう考えた時、彼のただひとつの切なる願い、彼がすべてを売り渡した目的が見えた。

 ヴラスカ。幸せで、傷もなく、平穏無事なその姿。

 ナーセットは哀しく思った――私たちは、愛のためにどれほどのことができるのだろう。

 新たな主に従い、瞑想領土はジェイスの死に物狂いの希望の心象を再現しようとした。だがウギンから奪った宝石の力すべてをもってしても、ジェイスは今なおただの人間に過ぎなかった。力がジェイスへと流れ込み、その顔が強張るのをナーセットは見た。それはジェイスの命令に従うことだけを望んでいたが、当のジェイスは蝋燭の芯のように、力に触れられて燃えていた。彼は息を切らし、限界に達し、そしてナーセットは恐怖とともに見つめた――地平線が鏡のような破片へと砕け、目を蝕む虚無が露わになって流れ込み、現実を破壊していった――ジェイスも含めて。彼は恐怖に口を開いた。

 「そんな」ジェイスが小さな声を発した。無に包み込まれ、彼はガラスのように砕け散った。

 「逃げなさい!」エルズペスが怒鳴った。

 泣き叫ぶおたからを腕に抱きかかえ、ナーセットはその言葉に従った。



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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