MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 07

第5話 巡りくるもの

Cassandra Khaw
authorpic_cassandra-khaw.jpg

2025年3月12日

 

 アジャニは思った――この新たなアブザンのカンについて問題なのは、彼女の根は兵士であるという事実ではなく、その事実について幻想を抱いていないことだと。結果、フェロザーはしばしば家族評議会の力を借り、長い時間をかけて物事を熟考する。各家の代表者たちの意見は同等に重視され、考慮される。それゆえ彼女は民衆に愛されているのだが、同時にあらゆる裁決が何時間にも及ぶ激しい議論を経て下されるという事態に陥っていた。

nJ5tKYAKVy.jpg
アート:Constantin Marin

 そして単純に、自分たちには時間がないのだ。

 「フェロザー様、どうか。慣習には従うべきと私も理解していますが、今回だけは例外として頂けませんか」アジャニは言った。エルズペスを見ることはとてもできなかった。最後に自分たちが会った時、彼女に向けた言葉が今も記憶にこだましていた。

 『ファイレクシアに加わるために、生きている必要はない』

 自分はエルズペスを殺そうとした。

 さらに悪いことに、エルズペスを殺したいという欲求を抱いた。彼女の死を切望し、飼い主に褒められたいとひたすらに願う狩猟猫のように、彼女の屍をエリシュ・ノーンに捧げたくてたまらなかった。

 「何に対しての例外ですか、アジャニ?」彼の顔からその右に立つエルズペスに、フェロザーは視線を移した。一見純朴そうに見えて、アブザンのカンは些細な物事も見逃さなかった。彼女の片眉が上向きに曲がり、その弧には疑問が浮かんでいた――貴方がたには何かがあるのですね?

 暗黙の質問を無視し、アジャニは率直に尋ねた。「例外というのは、こちらの私の……」

 アジャニは口ごもった。

 「同輩、ですか?」助けになればと、ナーセットが割って入った。

 「同輩を解放するために、皆さんの同意が必要とされることに対しての、です」アジャニは続けた。「その危機が回避されたなら、ふたりを皆さんの元に連れ戻し、しかるべき判決が下せるようにすると約束します。ですが今は行かねばならないのです。ドラゴンの嵐を鎮める方法があるかどうかを調べるために」

 「貴方の言う通りだと思います、アジャニ。良いでしょう。貴方がた三人は自由です。少なくともこれが解決するまでは。私たちも、避難の手続きを開始する必要があります。アラシンの防備を固めるには少なくとも一日かかります。その前に食料も集めなければ――」

 「武器も用意せねば」エメシュ家の老女が鋭い視線で告げた。「壁は持ちこたえられるでしょうが、万が一ということもあります。もっと積極的な防衛線を確保しておきたいですからね」

 「骨は砕けますが、私たちの壁は砕けません」グダル家から選任された代表者は辛辣な声で言った。「私たちの水道を信頼したいのであれば、まず――」

 「実際のところ、信頼しているかどうかは微妙ですが――」

 「それでは足りません」

 謁見室に静寂が降りた。

 「おや?」フェロザーは首をかしげてナーセットの方を見た。

 「一日も途切れることなく、龍の嵐は野生の龍を生み出しています」ナーセットは唾を飲み込み、目を閉じて深呼吸をして続けた。「サルカンが龍たちを支配できるのであれば、彼はそのすべてを皆さんの元に連れてくるでしょう。龍の嵐を止めねばなりません。さもなければ、この偉大な都市アラシンでさえ彼の力に対抗することはできないでしょう。何十という龍ではなく、何百でもなく、何千という龍が皆さんの城壁に押し寄せることになります」

 「我らがカンに口出しするとは、いかなるつもりですか」ザンハール家のジンが背筋を伸ばし、低い声で威嚇した。砂の家は古い一家であり、そのジンの顔は多くの傷跡に覆われている。彼女はどれほどの戦いに参加してきたのだろうとアジャニは思案した。

 「無礼を働くつもりはありません。私はアブザンもそのカンも、大いに尊敬しております。だからこそ、皆さんの民に対しては嘘をつきたくないのです。もしもサルカンが軍勢の拡大を続けるなら、アラシンはその猛攻に耐えられないでしょう」

 「そして、彼が軍勢を拡大していることをいかにして把握したのですか? ジェスカイは多くの策略を用いるとは存じています。ですが、貴女がたが全知の才を得ていたとは気付きませんでしたよ」

 「それは私が」アジャニが言った。

 「何ですって? 全知の才を?」ジンは明らかにこの状況に憤慨していた。

 「そのドラゴンの群れを見ました」アジャニは相手の餌に食いつかなかった。

 「目撃者がひとりだけでは十分とは言えません」

 「ああ、私も見たわよ」アジャニの背後から面白がるような、聞き覚えのある声が響いた。振り向くと、ヌールが普段通りの気だるい様相で扉をくぐり、近づいてきた。その笑顔は明るく輝いていた。「ベイザ、お父さんたちは元気? 最近連絡した? 砂漠の子猫ちゃんに会いたいって言ってたわよ」

 ベイザと呼ばれたそのジンは、息が詰まるような声を発した。「ヌール、今はその時ではない」

 「しつこく議論してる時でもないわよ。そこのジェスカイの道師さんの言う通り」彼女の表情は、アジャニも滅多に見たことのないものへと変化した――恐怖。「かつてないほどに私たちの防衛が試されてる。破られたらどうなるかは見たくないわね。私の斥候の報告によれば、サルカンの軍にはもう何百っていう龍がいる。偉大で美しいアラシンの街は私は大好きだけど、それでも定命の手で築かれたものよ」

 「では、どうすると?」白髪に石のような目をしたエメシュ家の代表が言った。「そこの道師殿に軍隊をつけて野を追跡させ、民を放っておくというのですか? この者らの言うことが正しいとしても、やるべきことはあります。物資を集めなければなりません。弱き者を避難所へ移さなければなりません」

 「残念ですが、エメシュ家の言う通りです」フェロザーはゆっくりと言った。「貴方がたは、ご自身がやらねばならないと思うことをして下さい。私たちもです」

 「フェロザー様……」なおもアジャニは食い下がった。

 「言った通りです。必要なものがあれば用意させますので、補給兵に申し出てください。さて」フェロザーは議論の余地のない口調で続けた「残念ですが、ご退出ください。これから私たちが話し合うのはすべてアブザンの問題、アブザンだけの問題です」


 少し待った後、三人はアブザンの補給兵へと案内された。その年配の、濃い口ひげの男は、備蓄品から三人が望むものを何でも渡すように言われて巨大なため息をついた。必要なものを手に入れると三人はアラシンの数ある客室のひとつへ連れて行かれ、そこでぎこちなく互いを見つめ合った。アジャニはいたたまれないほど狼狽していた。

 「おふたりが近況を話したいのであれば、しばらく私は外しますが」耐え難い沈黙が三十秒ほど続いた後、ナーセットは言った。

 「いや、そんなことはしなくていい」アジャニは声を平静に保ちながら言った。

 「ここにいてくださって大丈夫です、ナーセットさん。アジャニと話はしたいですが、だからといって外していただく必要などありません」エルズペスは寛大にそう言うと、再びアジャニの方を向いた。「貴方は――」

 どこからどう見ても、それは今なおエルズペスだった。今なおアジャニの旧友だった。目の前に立つその生物は同じ顔、同じ声、同じ目をしていた――少なくとも、瞳孔の中心にある蝋燭の炎のような輝きを無視するなら。再会できて喜ぶべきなのだ。自分たちの間に起こったことをエルズペスは恨んでなどいない、それがわかったのだからさらに喜ぶべきなのだ。見つめる視線に掻きむしられるようだった。彼女の言葉へとアジャニは身構えた。完成化が解けようとも、身に降りかかったことのすべてが元通りになるわけではない。

 燃えさしを宿すようなエルズペスの視線が和らいだ。「アジャニは、元のままのアジャニに見えますよ」

 彼はひるんだ。

 「わかっているだろう、私は優しい嘘よりも残酷な真実の方がいい。私は……」アジャニはためらった。自分は何が言いたいのだろう? エルズペスもナーセットも、自責をぶつける相手になっていいわけがない。ふたりに同情してもらいたいのか? 絶対に違う。

 アジャニは背筋を伸ばし、早口で堅苦しい声を発した。

 「私は……私は謝りたい……あの時君を……」

 「アジャニ、わかっています。あれは貴方ではなかったのです」

 「君の理解は間違っている。あれは私だった。自分の願望を覚えている。法務官を喜ばせたいという熱意を覚えている。私は――私はそれに浸っていた。私が望んだのはファイレクシアに仕えることだけだった。私は強制されてなどいなかった。完成化されてなどいなかった。私は自ら進んでそうしたのだ」

 ナーセットは感情を出さずに彼を見つめた。「それが厳密に真実かどうか、私はわかりません。完成化は犠牲者に熱狂を授けるのです。タミヨウさんが進んでファイレクシアに加わったとお考えですか? その結果を望んでいたと――」

 ナーセットは咳払いをして言葉を切った。

 「ごめんなさい」

 アジャニはナーセットを見つめた。彼の心の中どこか、不実な部分は今の状況を嬉しく思っていた。かつての自分を知る相手と再会できたことを。あの怪物の成れの果てである今の自分にそのような価値などないというのに、変わらず親切に接してくれることを。それは、もしかしたらひとつの未来が……罪悪感に溺れない未来があるかもしれないと思わせてくれる。

 「だとしても。私がもっと強かったなら――」

 「強さの問題ではありません」ナーセットが言った。「ファイレクシア化に抵抗するすべはありません」

 「メリーラにはその強さがあった」

 「メリーラさんの能力は、ミラディン人の中でも唯一無二のものだったと聞いています」

 エルズペスが前に進み出た。祝福そのものであるように、赦しそのものであるように。その両目は深い慈悲を燃やし、まるで毛皮を温める陽光のようにも感じた。その一瞬、アジャニは若返っていた。その一瞬、アジャニは汚れも傷もない、完全なアジャニだった。もし願えば、エルズペスは赦しをくれるのだろう。そのことはよくわかっていた。自分自身の心臓の脈動と同じほどに、よくわかっていた。簡単なことなのだろう。「メリーラさんは、貴方に与えたものを無駄にして欲しくないはずです。貴方に生きて欲しいと思うはずです。過去に埋もれたままではいけません。それに貴方は、真の脅威が何であるかを知る間もなく掌握されてしまったのです」

 どれほど赦してもらいたかったことか。

 「エルズペス、君は理解していない」

 「十分理解しています」大天使は片手を差し伸べながら言った。その完璧な表情がほぐれ、誠実さと希望がそこに満ちた。「今は、これまで以上に理解しているかもしれません。私は久遠の闇を見てきました。過去をやり直したい、失われたものを取り戻したいという定命の切なる願いは知っています。ですが、時間は常に前へと流れるだけなのです。悲劇に対して私たちができる最善のことは、それがもたらす教訓を尊重し、後世にまで持ち続けることです。私たちの戦いが始まる前から、貴方は許されていました」

 「君はすっかり哲学者になったな」アジャニは顔に笑みが浮かぶのをこらえきれなかった。彼の声は和らいだ。

 「私がそのようなことに苦しんでいる時、貴方はいつも傍にいてくれました、アジャニ。私も貴方の傍にいさせてください」エルズペスはそう言い、彼の大きな前足の上に片手を置いた。

 「一緒に来てください」ナーセットも言った。「赦される前に何か善いことをして釣り合いを取らなければと感じているのであれば、一緒に来て龍の嵐を止めるのを手伝ってください」

 ナーセットがアジャニに、ただ一緒に来て欲しいと言っただけなら――他には何も言わず、彼の内なる動揺を完璧に妥当かつ苛立たしいほど正確に表現するのではなく、要求しただけだったなら、彼は了承したかもしれないし、自分は存在そのものに失敗したということを忘れられたかもしれない。アジャニは彼女の言葉にひるみ、視線を落として潔く一歩後ずさった。

 「できない」アジャニは感情を慎重に滲ませた声で言った。

 「アジャニさん……」

 「できない」最善を尽くしたにもかかわらず、その声はかすれ、途切れた。「すまない。私は、行けない」

 そしてエルズペスもナーセットも何も言えぬうちに彼は部屋を出て、長い廊下を大股で去っていった。天井から死体のように吊るされた一千ものランタンが、薄暗い闇に宝石のような色鮮やかな輝きを投げかけていた。


 嵐ヶ原の大気は波立ち、うめいていた。まるで死にかけの生き物のように、生きたまま食べられつつある獣のように。心を奪われたかのように、エルズペスは広大な平原を見つめた。彼女には見えた――龍の嵐が大気と大地そのものを歪め、土は鱗で覆われ、空が歯のようなもので満たされる様を。多くの次元がこの嵐で沸き立つ様を想像した。蝗のように、ドラゴンが視界にあるものすべてを食らい尽くす。それは永遠に続き、彼らは次々と世界を饗宴に変えていく。人間の感情からは切り離されたと思っていた――アジャニが背を向けた時の心の痛みについては考えたくなかった。それは別だ。それでも、龍の嵐がすべてを飲み込むと考えると身震いをした。

AtUR40kkux.jpg
アート:Leon Tukker

 「焦点、中心、そのようなものを探しています」ナーセットが大きく身振りをしながら言った。説明に苦戦するあまり、その眉間に皺が寄った。「雲の渦と、そこから放射される明るい光のようなものです。おそらくそれが龍の発生する場所です」

 「喉から歌が発せられるように」

 ナーセットが視線を向けてきた。アジャニと遭遇して以来、ナーセットはエルズペスの気持ちを詮索したがっているように見えた。だがありがたいことに、このジェスカイの僧は実際にそうするようなそぶりを見せなかった。感情とすら言えないこのもつれたものをどう解けばいいのか、わからなかっただろうから。

 「それは適切な比喩だと思います」ナーセットが言った。

 こうして立っている間も、龍の嵐は荒れ狂っていた。近くに居残るアブザンの斥候たちの祈りの声がエルズペスの耳に小さく届いた。ナーセットと彼女が話していると、空気が次第に重く濃くなり、ついには一本の光がナイフのように雲を切り裂いた。

 「あそこです」ナーセットは緊張して言った。

 エルズペスは、この旅を一緒に続けるつもりはあるかと尋ねようとした。だがその前にナーセットは嵐へと踏み入り、エルズペスもそれに続いた。すぐに喉の渇きを感じた。口の中は焼けたオゾンの味で刺すように痛んだ。大渦の中で何かが叫んだ。勝ち誇った咆哮。そして見えたのは、鱗らしきものに留まらなかった。謎めいた羊膜からねじり出るように龍の身体が存在を成し、翼が水気を振り払う様をエルズペスは見た。

 「光に向かってください」混沌の中のどこかからナーセットが叫んだ。

 エルズペスは頷いた。友人が――それともナーセット曰く同輩がこちらを見ているかどうかはわからない。だがドラゴンが騒々しく次々と出現しつつあるこの状況で、返事に息を費やすのは無意味に思えた。青い光がナーセットから彼女へと広がった。まるで油についた炎がエルズペスの血の気のない肌を舐めるように。それは迷彩呪文ではなかったが、十分に近いものだった。大天使自身が用いる魔法に隠蔽の類は存在しない。それでも彼女は小声で呟き、自身の力をナーセットのそれと混ぜ、高めた。

 ふたりはしばしその道を歩いた。遠くの光は強まり、白熱した亀裂を現実に走らせた。自分たちは何時間も、あるいは何日も旅をしてきたのか、それとも嵐ヶ原に入ってから数分しか経っていないのか、エルズペスにはわからなかった。時は今という一点に圧縮され、他には何もない。だがそこで不意に混沌は静寂へと一変し、ふたりは巨大な寺院らしきものの足元に立っていた。かつてその建物は豪華で、深い信仰の象徴だったのだろう――列柱が偉容を成し、壁には精巧な壁画が飾られていた痕跡があったが、その詳細は数世紀を経て失われていた。昔ここで何が、あるいは誰が崇拝されていたのかはわからないが、巨大だったのは間違いない。

 「あの声は嘘ではありませんでした。嵐の中心に寺院が」ナーセットの声色には畏敬の念があった。

 「建築様式に見覚えはありますか?」エルズペスは尋ね、そこで嵐の外では自分の声がとても大きく聞こえることに驚いた。

 「いいえ」ナーセットはかすれた小声で答えた。「わかれば良かったのですが、わかりません。偉大なる師の書はすべて読みました。タルキールの歴史も研究してきました。ですが心当たりはありません。何故なのかもわかりません」

 「もしかしたら、ナーセットさんが触れられる知識よりも古いものなのかもしれません」

 ナーセットはその予想に愕然としたようだったが、驚きの表情は即座に消え、熱狂的な興奮へと変わった。

 「もしそれが本当なら、この寺院はオジュタイ様の記録にすら存在しないものということになります。信じられません。私はこれを記録に残さなければなりません」

 遺跡の記録を取るのが先だと説得され、エルズペスは寺院探索の先頭に立った。ナーセットは放棄された多くの部屋の調査に没頭し、一冊の日誌を作成した。ふたりは寺院を三周し、その度に思っていたよりも多くの通路があることを発見した。巨大な地下の控えの間へ降りる道と、その中にあるポータルを発見したのは三周目のことだった。

 「領界路。ですが、今までに見てきたものとは違います」エルズペスは言った。この領界路は見覚えのある光を輝かせ、漠然とした三角形をしていたが、その端は不規則にほぐれていた。まるで現実をえぐり取った傷のような、何かがタルキールそのものを噛み砕いて穴を開けたかのような。「見たところ――」

 「とても古いもののようです」ナーセットは息を吐いた。「あの声は、探し求める者は道を見出すだろうと言っていました。これほど文字通りだとは思っていませんでしたが」

 「真実が待つ、と言っていましたよね」警戒を強めながらエルズペスは言った。

 「そうであれば、通り抜ける以外にありません」ナーセットはそう言い、そして怯むことなくその領界路へと大股で進み、入った。彼女の影が光の中にぼやけた。

 エルズペスは彼女に続いた。腹部が持ち上げられるように感じ、世界が反転したようだった。眩暈のような感覚。次元を渡る、あるいは冬の冷たい海に身を投じるような感覚と似ているようで、似ていないようでもあった。大天使の目にはほとんど何も見えず、視界は銀色だった。そして自分の手が握られるのを感じた。ナーセットの手。

 「何か見えますか?」

 エルズペスは目から銀色を払い、地平線の先を眺めた。

 「見えるのは――」

 水が途切れることなく空を覆い流れ落ちるかのようで、山々の麓にはガラスのような水が溜まり、特色のない何かの天国を描いたかのようだった。角のような螺旋形で伸びる荒々しい岩や、現実に存在するはずのない奇妙な、半ば夢のような建物。それは穏やかで、それは静かで、あり得ないほど美しい世界を描いた一枚の油絵のようだった。不安がエルズペスの内に走った。そのすべてをナーセットに説明すると彼女は頷き、一文一文を書き取りながら聞き入った。

 「ここには何かが隠れています」そう言ったところで、エルズペスはかぶりを振った。「隠れている? いえ、違います。この場所は何かを封じ込めるためのものです。この場所は……何故でしょうか、生きているような感じもします」

 「瞑想領土。私は以前にも来たことがあります。ただ、二度と戻ってくることはないと思っていました。あの声が私たちをここに呼んだのでしょう。ですが……」

 「ですが?」

 ナーセットはかぶりを振った。「ここの中に何かを感じます。何者かを。それが誰なのかは推測できますが、ありえません。軽率な主張をする前に、もっと調べてみましょう」

 エルズペスは宙に舞い上がり、ナーセットを周回するように飛んだ。そしてようやく、自分が何に不安を感じていたのかがわかった――この場所には縦や横、高さがないのだ。ここは実際のものというよりはむしろ概念であり、見るにつれて風景は曲がり、歪んだ。これは見せかけ、幻影。だが何のために?

 「ナーセットさんには、何が見えるのですか?」少ししてエルズペスは再び着地し、尋ねた。先程のナーセットの質問の奇妙さがようやく理解できた。

 「何かが。エルズペスさんが見ているものとは全く違うと思います」


 ナーセットが瞬きをするたびに世界は壊れては再構築され、千段の階段へと砕け散り、螺旋階段へと変化し、その様子はナーセットの右目の奥を鈍く赤い痛みで満たした。移り変わる建築物に論理はなく、一貫した合理性もなかった。無限に伸びる道また道。ナーセットが見つめるとそれらは自己相似を描き、彼女は尋常でない感覚を抱いた。これらの道の幾つかは過去を曲がりくねって、現在の自分へと辿り着いているような。あの鈍く赤い痛みがかすかに震え、鼻孔へと広がった。

 「何処にも通じていない階段と、何処へも辿り着かない上り坂の道が見えます」ナーセットはそう言った。

 「この場所は私たちを弄んでいるような気がします」

 「だとしても、悪意によるものではありません」ナーセットはかぶりを振った。目に涙が滲んできた。目の前の光景について考えるだけでも、なぜか痛みを感じる。階段でも石畳でもないその場所は磨かれた鏡の板のようで、映し出しているものは空だったか、あるいは完璧に凪いだ海の、ガラスのような明るい水面だったか。その輝きの中を太陽が泳いでいるようにも見えた。「エルズペスさんの言う通りです。この場所はいかにしてか、生きているような感じがします。ある程度、私たちの存在を意識しています。私たちにどうして欲しいのか……思うに、私たちが見ているものはすべて……」

 「気をそらすためにあります」エルズペスが言った。

 「よかった、私も同じ意見です」ナーセットは明らかに安堵して言った。「私だけかと心配し始めていたところでした」

 「ですが、何かを隠そうとしているのなら、なぜ私たちを呼ぶのでしょうか。間違いなく逆効果でしょう」

 「おそらく、ここには複数の力が働いているのでしょう」ナーセットは言った。「ひとつは龍の嵐を活性化したいと願い、もうひとつは嵐を止めたがっているのです」

 「そのようなことがありえるのですか?」

 「可能性はありますが、起こりうるかどうかは」ナーセットは言葉を切り、オジュタイに雇われていた哲学者や教師たちを思い出した。もっと若い頃、彼らの話を聞くのは苦痛だった。彼らがそこにいるのは単にあの古龍を喜ばせるためであり、その曖昧な物言いは古龍の怒りを買わないためだと確信していた。だが今、この状況に対する彼女の確信は薄れていた。「多分」という言葉しか使えない物事というものがある。「すみません、エルズペスさんが求めていた答えではなかったでしょう」

 「いいえ」エルズペスは翼を広げながら言った。「ナーセットさんの理論が正しければ、私たちにここにいて欲しいと願うものが少なくともひとつはあるということです。それを見つけましょう。その後の行動はそれからです」

 ナーセットは頷いた。それが最良の作戦だ。

 そして、ふたりは歩き続けた。ナーセットは階段の迷路を、エルズペスは果てしなく広がる水面を。ふたりが移動するにつれ現実が揺らいだ。時々、エルズペスが語る世界がナーセットにも見えるような気がした。またある時には、何か他のものを見たような気がした。貪るような虹色、想像を絶する力。招く声を、もっと近くへと呼ぶ声を聞いたような気がした。そして、もうひとつの声がむせび泣きながら、何度も何度もひとつの名前を囁き、もっと良くなると、すべてが正されると約束した。

 そして、忽然とふたりは見た。

 「「ジェイスさん」」


 ジェイス・ベレレンは、いつものあの服装で白い砂の上に立っていた。その顔はナーセットの記憶にあるよりも老け、疲労しているように見えた。栗色の髪は乱れて顔に張り付いていた。毛皮に覆われた何かの生き物が半ば目を閉じ、その片腕に抱えられていた。ナーセットが見たことのない生き物だった。

 「ああ、奇妙な場所での再会ですね」ジェイスは言った。ふたりに会えて嬉しいような様子ではなかった。

 「私が、最後に見た時、貴方は……」エルズペスはそこで声を失った。

 「そうですね、貴女の剣で突き刺された」ジェイスの声にはかすかな苦味があった。「俺は死んだと思っていたんでしょう」

 「私は……どうか貴方が……」

 「俺が、何ですか?」

 「……安らかにあれと、願っていました」かすれた声でエルズペスは言った。ナーセットは理解した――エルズペスがアジャニをあれほど熱心に赦そうとしたのも不思議ではない。かつての友人に武器を向けたのは、レオニンのプレインズウォーカーだけではなかったのだ。「最後に見た時、ジェイスさんは完成化していました」

 ジェイスは頷いた。「確かに、その最中でした。今はもう違います」

 「どのようにして、ですか?」

 「純粋な意志の力で、と言ったら信じますか?」

 「私は信じます」そのような状況ではないとわかってはいるが、ナーセットは興奮を抑えきれなかった。「ジェイスさんは才能あるテレパスで、精神魔法を専門としています。自分自身を隔離し、復帰できるようになるまでファイレクシア化の影響を抑え続けた。いかがですか?」

 ジェイスは感心したように口を開いた。この時ばかりは、この精神魔道士も何を言うべきか迷っているようだった。「驚くほど抜け目ない――」

 「驚くほど、とはどういう意味ですか? むしろ明白ですよ」

 「――観察。俺がやったのは大体それです」

 「凄いです! どうやって最終的にファイレクシア化を拒絶したのですか? ジェイスさんの身体も同じようにファイレクシアの影響を遮断したのですか? それともその精神がぎらつく油を弱体化したのですか? 私の理論は……」

 「詳しいようですね」ジェイスの顔に浮かんでいた疑念は一瞬、純粋な喜びらしきものへと消えた。彼はこの話を楽しんでいるのだ――理論について、土壇場での素晴らしい発案について。ナーセットも同様だった。

 「もし順を追って説明していただけるなら、同じほどの力を持つ他の人にも使用できるような方式を組み立てられるかもしれません――」

 「ここで何をしているのですか?」エルズペスの声が響いた。再び中立的で、慎重に感情を欠いた声。

 ナーセットはしばしば、大抵の人々とは異なって社交的合図が読めないことを嘆いていた。声色や表情の変化に気づかないのではなく、それらの意味を正しく判断するのが難しいのだ。エルズペスの無感情な態度は、しばしばナーセットにとって難題となっていた。エルズペスの声の空虚さが何かを示していることはわかっていたが、伴う表情がないため、具体的にそれが何なのかがわからないのだ。わかるのは、それが非常に重要ということだけだった。

 「そうですね、長い話になります」

 「時間はあります」エルズペスはそっけなく言った。

 警戒するジェイスの態度は苦痛の表情へと変化した。「細かいことは重要じゃありません。俺は自分の過ちを正すためにここにいます。それだけを知っておいてくれれば大丈夫です」

 その言い方の何かが、ナーセットの首筋の毛をぞわりと逆立たせた。

 「抱いているそれは誰ですか?」エルズペスは尋ねた。

 「おたから、と言います」ジェイスは用心深く言い、腕の中で子猫のように眠るその生き物を見下ろした。それはあくびをし、白く小さな歯の列を露わにした。目は一度も開かず、それはただ眠り続けていた。ジェイスは金色の毛皮の耳の後ろを掻いてやった。

 「とても幼いようですね。こんな所へ冒険に連れて来るには」ナーセットは優しく言った。

 ジェイスの表情がごくわずかに和らいだ。「ええ、幼い。そしてとても年老いてもいます」

 「見たことのない生き物です」

 「多元宇宙には、貴女や俺が一生に目にするよりも沢山の驚異がありますから」

 「そうだとしたら、奇妙ですね」そこでエルズペスが言った。「このような不安定な場所に、そのような貴重な存在を連れて来るというのは」

 「信じて下さい。俺だってできるならこの子を家に置いていました。でもおたからがいなければ、ここに辿り着けはしませんでした。この子の心は……」ジェイスの声が温和になった。「俺も今までに見たことのないものです。その中には多元宇宙のすべてがあるんです。存在するすべての領界路、存在するすべての次元、生まれてくる次元、死ぬ次元、何もかもが。この子はすべてのものの地図です。おたからは途方もなく非凡で、貴重なんです。この子の心の中で何世紀も過ごして、その知識を紙に書き留めたとしても、とても十分ではないでしょうね」

 その時ナーセットは、おたからがかすかな青い光に包まれていると気付いた。

 「その子は、その状態にされることに同意したのですか?」彼女はそう尋ねた。

 「最初に、宝物庫から解放した時に同意してくれました。それで、この子が心の中に仕舞いこんでいた知識を俺は知ったんです」

 「ですが、それ、には同意したのですか?」ナーセットは続けた。

 エルズペスが剣の柄頭に手を置く音が聞こえ、隣にいる大天使が緊張するのをナーセットは感じた。「ジェイスさん、私の質問に答えていませんね。ここで何をしているのですか?」

 もうひとりのプレインズウォーカーは何も言わず、ただ薄く奇妙な笑みを浮かべた。その両目は青く眩しい光に曇っていた。

 「何をしていたのですか、ジェイスさん?」ナーセットは小声で尋ねた。

 「俺にとって必要なことを」



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

  • この記事をシェアする

Tarkir: Dragonstorm

OTHER STORY

マジックストーリートップ