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MAGIC STORY
タルキール:龍嵐録

サイドストーリー ジェスカイ:知られざる道

2025年3月5日
灰鷹が甲高い鳴き声を響かせながら翼を広げ、コーリ山の茜色に染まった峰のはるか上空を越えていった。柔らかな羽と鋭い翼が雲海を切り開く様は、灰色がかった白い画布に堂々とした筆遣いを見せるかのよう。眼下では茶色と緑の混ざりあった縞模様が流れ、稲田が村に溶け込んでいる。その眺めはやがて、コーリ山の僧院の鮮やかな橙と赤という印象的な色合いへと変わっていった。僧塔は空に向かって伸び、もともとそびえ立っていた石の尖頂や山頂にさらなる高さを加えていた。
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アート:Arthur Yuan |
鷹は僧院の敷地上空を飛びながら再び鳴き声を響かせ、昇りくる祭壇守りの龍をかわしながら鳴き続けた。移動するにつれて、眼下に広がっていた人間による建築物は、その先のカルデラの自然による形成物へと移り変わっていった。澄んだ青い水を湛えるカルデラ湖には冷え固まった溶岩流の黒曜石が大きく弧を描いて張り出しており、その水面は午後の光の中できらめき踊っていた。
突如、鷹は金切り声を上げ、餌への期待に目と鉤爪の狙いを定めて急降下した。降下したところで、灰鷹は突き出た黒曜石の頂部で蓮華座を組んでいた人間を辛うじて避ける。その人間は深い瞑想の内にあり、呼吸もあまりに静かだったため、鷹はまったく感知できなかったのだ。
その男は鷹の鳴き声にもまったく反応しなかった。下方で跳ねる水にも、身をくねらせる鱗の音にも、息絶えあえぐ命の終わりにも。アシャムは動じずに規則的な呼吸を保ち続け、集中力がさらに内側に向かうにつれて自然界の音は消えていった。
息が流れ込む。
胸郭の膨らみと共にアシャムのまぶたがぴくりと動く。身に着けた僧衣の粗い布地が少し肌をこすった。剃り上げられた頭部から一粒の汗が額を伝わり、長い旅路の末に目の端へと流れ込んだ。それでもアシャムは無視した。
肺を通る空気。次なる門を通るマナ。
アシャムは流れるような動きひとつで瞑想の姿勢を解き、龍を思わせる優美さで身を伸ばした。旋回とともに重心を移し、身についた拍子で螺旋を描く。
手足は滑るように流れ、爪が空気を切り裂く。
アシャムは手を鉤爪の形に強張らせ、螺旋の勢いは伸ばした腕を通して緩やかな弧を描き広がる。その形の歩法は彼の肉体に深く刻み込まれていた。
自己の解放。息を吐きだし、炎を呼び出せ!
アシャムは目を見開き、「ハッ!」と大きく叫んだ。両腕を勢いよく突き出し、鉤爪に構えた両手が空気を切り裂いた。
彼の形の実践は完璧だった。
しかし炎は現れなかった。
苛立ちのため息をつきながら、アシャムは座して瞑想を再開した。その形が解き放つはずの神秘の炎はかすかな火花すら起こさず、体からは汗のようにマナが散っていくのを感じた。
もう一度だ。
アシャムは鼻から息を吸い込んだ。
息が流れ込む。
心を無にしようと集中し始める。
しかし心の中にはあの女性の顔が浮かんでいた。
肺を通る空気。
あのティムール氏族の戦士のばかげた笑み。乗り込んできたあの女の存在そのものが、ジェスカイの寺院への侮辱だった。
次なる門を通るマナ。
あの女が僧院に突きつけてきた挑戦の言葉が、アシャムの記憶でこだましていた。「一番強い弟子を出しな」女はそう言い放った。
手足は滑るように流れ――
古老たちに選ばれたことへの誇り。無礼な放浪者を懲らしめたいという渇望。
――爪が空気を切り裂く――
僧院全体が見守っていた。中庭は試合への期待で盛り上がっている。弟子仲間からの尊敬、コーリ山の名誉、すべてがかかった中、彼は弧を描くように戦士へと歩み寄った。
――自己の解放。息を吐きだし――
戦いは一撃で終わった!
……しかしそれは想定していたようにではなかった。
――炎を呼び出せ!
アシャムは仰向けで、ぼんやりと青い空を見つめ、なぜ雲がこんなにも眩暈を起こすような模様で揺れ動いているのかを不思議に思っていた。
炎を…… 呼び出せ!
耳鳴りがするだけで、静まり返っている。
俺は失敗した。
俺は敗者なのだ。
炎を…… 呼び出せ……!
鮮烈な記憶が現在の意識と衝突し、力を込めすぎた鉤爪拳の勢いでアシャムは体勢を崩し、むやみに両手をはためかせた。一瞬、立て直せるかと思ったが――重心はつま先からほんの少しずれて、彼は岩からよろめいて青い水面に腹から落下した。痛みを伴う水しぶきがあがった。
アシャムは淡い水色の湖を不格好な泳ぎでかき進み、湖面上へとたどり着いて息を切らせた。
「いいね、アシャム」
アシャムは頭をぐるりと回して見る。恥ずかしさが頬にこみ上げてきたが――その男が岸から笑顔で出迎えてくれるのを見て、安堵に包まれた。
「ルー!」アシャムは力強く水中を蹴り、前宙返りで湖水から飛び出すと水面を足場に着地した。水面で布靴が滑り、体勢を立て直す。アシャムは両脚に軽くマナを流し、アイノクの友人を温かな抱擁で受け止めようと湖面を軽やかに跳ねていった。
ルーは笑いながらアシャムを押しのける。「相変わらず雲歩きの技を軽々とやってみせるもんだ、ねえ?」
アシャムは首を横に振った。「村で一番身軽な奴がよく言うよ。お前にかかっちゃ俺の雲歩きなんて鉛足の姿勢みたいなもんだ」
ルーは穏当に肩をすくめた。「どう考えても昔の思い出と卑下のしすぎで歪んだ記憶だよ。結局のところ、今やコーリ山の僧院で評価されている修行僧は僕たちのうち一人だけだ」
アシャムはうめいた。「その話はしたくないな」
「どの話だい?」
「そのままだよ」アシャムは話題を変えようと視線を巡らせた。「なんで湖にまで?」
「家の牛に水を飲ませなくちゃと思って」ルーは淡々と答えた。
「パイパイの飲み水か」アシャムが川岸のずっと先に視線を落とすと、確かに一頭の雄牛が立っていた。
「パイパイは去年の冬に死んだよ。あれはグアイグアイ」
アシャムは言葉を詰まらせた。「すまん」
「僧院に何年かいただけで、農村の営みってやつを忘れちゃうよね」ルーはからかうように言った。「季節は流れ、動物は死ぬ。そういうものだよ」
アシャムはあきれたような表情で、ずぶ濡れになった僧衣の袖を絞り始めた。「とはいえお前のことだ、ルー。たぶん三日三晩は大泣きしてたんだろう」
「ああ、全くその通りだよ」とルーは答えた。「パイパイは僕にとって大切な存在だった」
アシャムはやれやれと首を振る。「牛なら村の近くに連れて行きやすい水場があったろう。道も大して険しくないのが」
ルーは肩をすくめた。「そうだね」とつぶやく。「あったはずだ」
二人はしばし静かに立ち尽くして湖を眺めていたが、雄牛が近くで熱心に水を舐める音に思考は霧散した。
「調子はどうだ? 村に戻ったんだろ?」アシャムは何気ない風で聞いた。
「元気でやってるよ」尖った耳の後ろを前足で掻きながら、ルーは答えた。「君の両親がよろしくってさ。君に会ったら、とても誇りに思ってるってことを伝えてほしいって言ってたよ」
「そう言われてもな」とアシャムは不満を漏らした。「これ以上の重圧は勘弁だ」
「ああ、いや、僕にもとても協力的な両親がいてね。たいへんな人生だよ」とルーはからかった。その冗談は、友人の顔に浮かぶ陰鬱な表情に気づいて途切れた。「なあ。何を悩んでるんだい?」
アシャムは向きを変えて瞑想の座へと歩き出した。「別に」
「悩みすぎて眉毛が嵐の雲みたいになってるよ」ルーは彼の背後から叫んだ。「湖の水だって空気中の緊張の匂いを覆い隠せやしない」
「鈍い犬に鋭い嗅覚か」アシャムはぼやいた。
「ずぶ濡れの修行僧がずいぶん刺々しいな」とルーは言い返す。
アシャムは友人を睨みつけた。ルーは腕組みをして視線を返す。
アシャムのしかめ面はゆっくりといたずらっぽい笑みに変わっていった。「ああ、自分が濡れてないから俺より優れてると思ってるんだな?」
ルーは、アシャムの顔に水を浴びせて答えた。
アシャムは水を吐いて相手に向かって走り出したが、ルーは先に動き出した利点を最大限に生かして踊る蜻蛉のように湖へと足を踏み出し、水面を跳ね回るたびに奇麗な波紋を広げた。頑張ってはみたが、アシャムは友人を捕まえることもいい水しぶきをかけてやることもできなかった。近づこうとするたびにそのアイノクはとにかく素早く動いて安全な場所まで逃げてしまい、お返しとばかりに目標を常に正確にとらえる優美な水の噴流を浴びせかけてきた。
「ずるいぞ!」再び水しぶきを浴びながら、アシャムは笑い声をあげた。
「いやいや。優れてるってだけだよ」黒曜石の岩礁の影に身を屈めながら、ルーは声を響かせた。
アシャムの視線がその岩層の先へと流れ、ある考えが浮かんだ。彼は水の中へと手を差し入れ、マナを注ぎ込んで開いた掌の周りに空気の渦を呼び出した。加速する風の流れが水を自身へと引き込み、渦巻く暴風となる。アシャムは頭上の岩礁を素早くよじ登り、その背後に台風のような水渦が巻き上がった。頂上からは、ルーが水面に立ち、水の中の柱の隅を注意深く覗き込んでいるのが見える。何も気づいていない。
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アート:Nino Vecia |
アシャムがうなりながらその暴風撃を目の前に引き寄せると、渦巻く空気が引き上げられて大量の水がルーに降り注いだ。「やったぜ!」崩落する水柱を前にアシャムは叫んだ。
驚きの小さな悲鳴。すさまじい水音。アシャムは勝利に満足しにやりと笑った。
だが波立つ水の周囲にルーの姿が見当たらず、その表情は徐々に消えていった。
アシャムは大小の石を蹴散らしながら岩礁を駆け降りた。「ルー? ルー!」姿は見えない。何の反応もない。黒曜石に波立つ水が打ち寄せる音以外は。アシャムは水面に降り、まず水底を、次に水上を見回し、不安を募らせた。いまだに何もない。
「ルー――」アシャムが二歩ほど水面を歩くと、一対の手が湖面から生えてアシャムの両足首を掴んで水中に引きずり込んだ。アシャムは今日二度目の水没にみっともない叫び声をあげた。水中で濃い灰色の毛が膨張し、鼻先から笑いの泡が漏れているルーの姿を目にして、その驚きは苛立ちに、そして笑いにと変わった。
二人は泳ぎ、揃って水面へと顔を出した。岸に戻ると、水しぶきと叫び声が黒曜石に跳ねた。ルーは平らな石の上によじ登り、アシャムもそのすぐ後ろについて行った。二人は仰向けに寝転がり、青空を見上げながら息を整えた。
近くでは、グアイグアイが何をやっているんだと言わんばかりの冷めた目で彼らを見つめていた。
「速くなったなあ」とアシャムが言った。
「本当に手加減してなかったのかい?」ルーが尋ねる。
「……してない」起き上がりながらアシャムは答えた。
アシャムが湖の深みをじっと見ている間、ルーは呼吸をゆっくり整えながらしばらく待った。「それで」しばらくの沈黙の後、ルーが話しかける。「そんなに落ち込んでる理由を話す気になった? それともまだ謎かけ風の自虐でその話を避けるかい?」
「へまをしたんだよ」とアシャムは口走った。
「どんなふうに?」
「俺は僧院全体の期待を裏切った。同門の弟子たちに恥をかかせ、ジェスカイの名を汚しちまったんだ」
ルーは首を横に振った。「それは……ずいぶんな話だね。何があったっていうんだい?」
アシャムのしくじり話は、言葉や苛立ちや怒りのごた混ぜとなって彼の中から溢れ出た。コーリ山の僧院を訪れたティムールの放浪者について。弟子を代表しての試合に選出されたことについて。屈辱的な敗北について。ルーは友人の溢れる言葉が尽きるまでおとなしく聞いていた。そしてため息をつき、立ち上がって大きく伸びをして、全身にかかった水を振り払った。
「別に君は僧院全体の期待を裏切ってはいないんじゃないかな」ようやくルーは告げた。
「聞いてなかったのか――」
「それに同門の弟子たちに恥をかかせてもいない」とルーは続けた。アシャムは再び抗議しようとしたが、ルーは手を挙げて制した。「確かに君は、同門の弟子たちの前で恥はかいたかもね。だけど戦うことだけが『道』じゃない」
アシャムは馬鹿なと笑う。「確かに、そりゃそうだ。だけどその『道』が敵氏族と武術試合をするよう導いたときに、戦いだけじゃないなんて言えるか?」
「その人はティムールの戦士だと言うけれど。放浪の身だったんだろう? それで、僧院の弟子と練習試合を希望したんだよね?」ルーは肩をすくめた。「勝ち負けよりも、他流派との交流に興味があったんじゃないかな」
アシャムは苛立ちながら首を振った。「あの女がどう頼んだか聞いてないからだ。格闘技術の交流なんかじゃなくて、自分のほうが強いと思ってたんだよ」
ルーは首をかしげる。「君は試合前に自分のほうが強いとは思わなかったのかい? 勝利への自信はどんな闘士にだって必要じゃないか?」
アシャムは立ち上がって辺りをうろつき始めた。その背後では、グアイグアイが彼の動きを目で追っていた。「俺の言葉を曲解してるよな」
「聞いたことをそのまま受け止めてるだけだよ」
「僧院に加わるのが怖すぎた農家の子にしては賢いこった」アシャムから剣呑な言葉が吐き出された。ルーはため息をついて立ち上がった。
「ああ。その話に戻ったね」
アシャムはしかめ面のまま首を振った。「世界は変わったんだ、ルー。俺たちは龍王の時代の終わりを目撃した。そして運命が俺たち二人を呼び、コーリ山の古老たちが僧院で学ぶよう俺たちを招いた。もはやオジュタイの因習に縛られることのない、自由な教えの僧院にだ! だけどお前はその呼びかけを辞退した」
ルーの胸からいらだちの低いうなり声が響いた。「君は機会を運命と捉えすぎだよ、アシャム」彼はかの山のさらに上の方、僧院の方向を手で示した。「僧院は君にとって正しい選択だった。だけど僕にとっては、家族と共に村に留まることが正しかったんだ。僕たちはそれぞれ自分の『道』を見つけなければならないんだ。君は修行僧であり戦士として。僕は農夫としてだ」
「お前は強すぎるんだよ、農業なんてやってるのは技の無駄遣いだ!」アシャムは叫んだ。「ジェスカイにはお前が必要なんだ! お前の雲歩きの技法は、俺が一緒に修行してきたほとんどの同門の奴らよりも速いんだ」
「田植えで鍛えられた技だよ」とルーは答えた。「そのために最適の技法だからね。君はまさか、ご両親が人生を無駄に過ごしていると思ってるのかい? 僧院で食べる食事の材料は誰が育ててると思ってる?」ルーは拳で胸を叩いた。「僕もジェスカイに仕えているんだ、アシャム」拳はほどけ、手は開かれた。「それに僕たちの『道』が分かれたことは僕も残念に思っているけど、僕たちは今それぞれが必要な場所にいると信じているよ」
アシャムは言葉に詰まり、話の続きができなかった。「お前――俺は……それは関係ないだろう」
ルーはため息をついた。「そうだね。もちろん関係ない」
アシャムは小石を思い切り蹴り飛ばした。二人はそれが湖を跳ねていくのを見守った。「古老たちは一番優秀な弟子として俺を代表に立てた。だけど俺は皆を失望させた。だから俺は……この武術の最後の形を会得すれば、自分が選ばれるにふさわしいと証明できると思ったんだ」アシャムは腕を悠然と動かして構えた。「自己の解放。息を吐きだす。炎を呼び出す。ただ、火花すら出てこないけどな」
彼は座り込み、両手で頭を抱えた。「馬鹿馬鹿しく聞こえるのは分かってる。だけど俺は名誉を取り戻さなきゃならないんだ。この最後の形を会得しなきゃならない。そしてあのティムールの闘士に再戦を挑まなければ。勝たなければ」
ルーはアシャムの隣に座り、慰めるようにその修行僧の肩に寄り添った。「その形の段階のひとつは自己の解放にあるんだろう? なのに君はその教えとは逆の『しなければ』ばっかり口にしているよ」と彼は言った。
アシャムは言い返そうと口を開いたが、うまい反論が思いつかないことに気づいてしまった。
「君は名誉も気にしているけど、ただ負けただけで名誉や君の重要さが損なわれたりもしない」とルーは続ける。「負けても名誉は保たれると『道』は教えている。師匠たちは君の試合内容が不名誉なものだったと告げてきたかい? それとも、いつもみたいに誰が求めているでもない基準を自分に課しているだけ?」
「そうじゃない……違うけど……」アシャムは口ごもった。
ルーはにやりと笑い、アシャムに軽く頭突きをした。「ああ。そういうわけか」
アシャムはため息をついてルーの肩に頭を預けた。「お前がいなくて寂しかったんだよ、ルー」
彼はルーが体を引くのではないかと半ば思っていたが、そうはならなかった。しばらく、アシャムは友人の規則正しい呼吸音を聞くことに集中し、二人は湖で濡れた全身を午後の太陽がゆっくりと乾かしてくれるまで、その場に居続けた。
ようやくルーが立ち上がってアシャムの方を向き、両手を上げて正対の姿勢を取った。「それじゃやるか」と彼は言った。
アシャムはきょとんとした。「やるって何をだ?」
「その形を教えてよ」ルーはアシャムに軽く手を振って誘った。「水に落ちる前からずっと上手くいかなかったんだろう。自分のこととか義務のこととかは置いといてさ。代わりに、僕に教えてよ」
アシャムの顔に笑みが広がり、彼は友人の前に立ってルーと手首を合わせ、組手へと身構えた。
アイ・ウェンはゆっくりとした歩調で山道を下る。その足取りは心と同様に軽やかだった。旅は実り豊かで、ここ数日彼女をもてなしてくれたジェスカイの僧たちからは多くのものを得た。故郷の村の者たちの多くは、ジェスカイの一部の者たちからにじみ出るよそよそしく超然とした態度について警告してきたが、今回出会ったジェスカイの古老のほとんどは謙虚で親切だった。これまでは、すべての氏族が団結するなどという考えは単なる世間知らずの冗談に過ぎなかったが、まあありえないとしても、少なくとも可能性はある……かもしれない。良いひと月を過ごせた。
小道から少し外れたところにある一本の木に目を惹かれ、アイ・ウェンはさらに上機嫌になった。よく熟した美味しそうな柿がいくつか枝にぶら下がり、夕方に差し掛かった陽光を浴びていた。彼女は枝から柿をひとつむしり取り、かぶりついた。舌の上で甘味がはじけ、果汁が頬を伝った。
「止まりな、そこの戦士」
アイ・ウェンは振り返った。背後に、沈む太陽を背にした人影がひとつ。彼女は柿をもう一口ほおばり、果汁をこぼしながら、誰と会話しているのかと周囲を見渡した。
「お前だよ。ティムールの放浪者」
アイ・ウェンはその人物に向きなおり、自分の方を指さしているその影に目を細めた。「ああ! あたしかい! どうも、旅仲間さん!」彼女は柿を持ったまま手を振った。それから、思いついたように言った。「あんたも柿を食うかい?」
「俺は――いや、いらない」その人物は少々戸惑ったようだった。
「そうかい? すごく甘いのに」とアイ・ウェンは言った。彼女は持っていた柿を食べ終わると、手を伸ばしてさらにふたつをもぎ取った。「よければいっこ投げようか――それともこっちに来て一緒に食べる? 旅人さん」
「俺は旅人じゃない。それに……それはお前の柿じゃないだろう!」その人物の声がほんの少し上ずった。
「これは野生の柿じゃないのかい?」アイ・ウェンは困惑して頭を掻いた。「近くに農場があるとか? ああ! あんたのとか?」彼女は小さく頭を下げた。「お詫びするよ、柿農家さん!」
「いや、そうじゃない――俺は柿農家じゃないぞ!」その人物は首を横に振った。
「ああ、じゃあまあ、欲しければ取ればいいし――要らないならそれで」とアイ・ウェンは答えた。「なんたって、今タルキールは自由なんだからね」そう言って彼女は柿をふたつとも荷物袋にしまい込み、再び道を下り始めた。
頭上の衣擦れの音が彼女の注意を上へと引き、その人物は彼女の頭上を飛び越えて軽やかに着地し、行く手を阻んだ。
「俺からは逃げられやしないぞ――」
「はあ! すごいね!」アイ・ウェンは目の前の若者に感嘆しながらうなずいた。「雲歩きの技ってやつだよね?」彼女は彼をざっと見た。「剃髪した頭に、かっこいい僧衣。コーリ山のお弟子さんでしょ? あんたらの作る饅頭は最高だよ。いいよねえ」
「お――俺を覚えてないのか?」目の前の修行僧は本当に怒っているように見える。
アイ・ウェンは額を平手打ちした。「ああ、やっちゃった。本当にごめん。ここ数日はたくさんの僧に会ってきたから。それに剃髪してる人が多くて、顔を覚えるのが難しくってさ」
「だけど……試合をしたじゃないか」その修行僧は不機嫌そうに言った。
「色んなやつとやったもんでね」アイ・ウェンは淡々と答えた。
「お前は……俺に勝った」と修行僧は言った。
「色んなやつに勝ったねえ」なおも顔色一つ変えずにアイ・ウェンは答えた。「ともあれ、あんたにとって記憶に残る試合になったんならよかったよ!」そう言いながら、アイ・ウェンはまたぞろ山を下ろうとした。
腕が伸びて、彼女の行く手を遮った。アイ・ウェンは眉をひそめて頭を傾け、目の前に立ちはだかる無礼な若い修行僧を見つめた。彼は決意のこもった瞳で睨み返してきた。
「俺はコーリ山の僧院のアシャムだ。再戦を申し込むためにお前を探していた」
「アシャム……」アイ・ウェンは考え込んで眉間にしわを寄せ、そして突然叫んだ。「あんた、一日目に会ったあのお弟子さんかい?」
アシャムは冷めた含み笑いを漏らした。「そうか、覚えてるってわけだな」
「名前のおかげでね」アイ・ウェンは首を横に振った。「だけど再戦は受けられないね」
「なぜ断る?」アシャムは怒りをこらえて言った。
「だって、あの試合は勝負にならなかったから」アシャムの伸ばした腕をそっと払いのけながら、アイ・ウェンは答えた。
アシャムは開いていた拳を握りしめて、アイ・ウェンの進路に立ちはだかった。「お前はあの時も俺を侮辱して、ここで拒否することでまた侮辱するのか!」
「坊や、侮辱するつもりなんてなかったよ」忍耐力をすり減らしながら、アイ・ウェンは言った。「それにそうだとしても、あんたがそこまで傷ついて気にする必要なんてほとんどないじゃないか」彼女は目を細めた。「あんたの師匠たちのもてなしに敬意を表して、なんて言えばいいのか……このことは気にしないからさ。だからどいてくれないかい」
アシャムは彼女の前に立ったまま、相手の目をじっと見つめた。ゆっくりと、彼は腕を組んだ。
そこでアイ・ウェンはすぐさま彼を突き飛ばして道から退かせた。
目も眩むほどの速さで片足をアシャムの後ろに引っかけ、両手を開いて彼の胸に当てて力いっぱい突き飛ばすと、アシャムは崖から落ちていった。彼女は、彼が弧を描きながら崖へと飛ばされ、先ほど見た崖下のパゾベリーの藪の中へと満足の行く音をたてて着地する様を確かめた。
アイ・ウェンは石段の道を歩きながらかぶりを振った。あの坊やを傷つける必要はなかったが、しかし正直に言えば、あの無礼さは……
突然背後で熱気の高まりを感じ、アイ・ウェンは本能的に横に避けた。辛うじて回避できたが、炎の烈風が上質な毛皮でできた旅用の外套の縁を焦がすところだった。ティムールの戦士が振り返ると、アシャムが燃え上がる両手を鉤爪の形に差し出して立っていた。その炎光の輝きがアイ・ウェンの鎧で踊り、彼女の目でちらついた。
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アート:Wayne Wu |
「面白いじゃないか」と彼女は言った。
「再戦はしてもらう!」アシャムは叫んだ。
アシャムは相手に向かって滑り込み、螺旋の軌道を描く足捌きで矢継ぎ早に攻撃を繰り出した。アイ・ウェンは敏捷な身のこなしですべての攻撃を躱していったが、一振りを外すごとにその炎はどんどん大きくなっていった。この坊や、この構えはなかなかの腕前じゃないか、と彼女は思った。
アシャムは大地を蹴って跳躍し、両手を振り上げ、振り下ろした龍の火爪でアイ・ウェンの体を引き裂こうとしながら叫んだ。「お前を倒す」
だがアイ・ウェンのほうが速かった。
彼女は片腕を突き上げてアシャムの首を掴む。驚きとその攻撃の威力に彼の身体は息を詰まらせた。彼女はそのまま、まるで掴んだものがぼろ切れの束に過ぎないかのように彼を背後の石段へと叩きつけ、衝撃音が響いた。石も骨も同様に砕けた。
アシャムは地面に横たわり、苦しくあえぐ。肋骨が折れた。何本かはわからないが。立ち上がろうとしたが、ひとつ息をするだけでさらなる痛みが貫くように走る。
アイ・ウェンはすっくと立ち、顔の前に垂れ下がった髪を払いのけた。「あたしはアイ・ウェン、ティムール氏族のサーン・ニー家の長老だ」彼女が姿勢を変えたことで、アシャムはその脇に重そうな骨と鈍く光る鋼の剣が下げられているのを見た。あの時も今も、武器を使いすらしなかった……
アイ・ウェンは屈みこみ、アシャムに顔を近づけた。「あたしたちの試合が勝負にならなかったって言ったのは、あんたの誇りやジェスカイを馬鹿にするためじゃなくて、長老と弟子じゃあそもそも勝負にならないってことさ。あたしはただ、ジェスカイの若者たちがどれくらい強いのか知りたかっただけで、あの日のあんたは充分に立派だったよ」
「おま……お前は……」アシャムは話そうとしたが、依然として息はかすれた音を出すだけだった。
アイ・ウェンは身を乗り出した。
「何だい?」と彼女は尋ねた。
「お前は……俺よりそんなに年上でもないだろう」アシャムは何とか声を絞り出した。しかしほとんど喘鳴めいた呼吸で、泡も少し吹いた――ああ、いや、血だろうか?
アイ・ウェンは腹の底から大笑いした。「その褒め言葉はありがたく頂戴するよ、若僧! 北の極寒の地でこの艶めく健康な肌を維持するのはとんでもなく大変だって知ってるかい?」
彼女は立ち上がり、アシャムを見下ろした。その表情には怒りや同情ではなく、敬意があることにアシャムは驚いた。「率直に言わせてもらえば、若き修行僧くん、あんたの最大の弱点はその矜持にある。あの龍火の構えであたしに立ち向かってきたってことは、武術的に何かひとつ殻を破ってきたのは明らかだ。ほんの数日で大したことをやってのけたもんだね」彼女はあたりを見回し、それから意味ありげに囁いた。「ついでに言えば、あたしはさっきのあれであんたの骨をもっと折っちまうつもりだったんだけどね」
アシャムは反射的に誇らしさを覚えたものの、その十分すぎる賛辞に気恥ずかしさを覚えた。しかしなぜ囁き声なのだろう、誰かが聞き耳でも立てているかのように? そしてなぜ視界に黒い点がたくさん見えるのだろうか?
「大丈夫さ、アシャム。あんたならできる」そう言って、アイ・ウェンは意味深に目配せして再び道を下り始めた。アシャムはその足音が遠ざかるのを聞きながら、その背を見送ろうとした。しかし頭を持ち上げるだけでも疲れるし、実際のところ、少し休んだ方がよさそうだ。
暗闇に包まれると、布靴の軽い足音が近づいてくることもほとんどわからなかった。伸ばされた前足が額に優しく触れたこともほとんど感じなかった。
アシャムははっとして目を覚ました。
暗い部屋に目が慣れるまでしばらくかかった。なじみ深い匂いに満ちた空気だが、薄暗さに目が慣れるまではその匂いが何なのか思い出せなかった。スモモの根だ。村でよく使われている、治療用の湿布の主材料。
家に帰ってきたのか。
身をよじり、すぐに後悔した。鈍い痛みが胸の奥でうずく。背中は、竹敷のあの冷たい凹凸に押し当てられている。
寝台の脇で、椅子に座っていたルーがこちらに気づいて目を覚ますのが見えた。
二人はしばらくお互いに顔を見合わせた。
それから二人とも不意に笑い出した。
「俺は……馬鹿な奴だよ」アシャムが言った。
「まったくだ」とルーは同意した。
「何でお前は――」
「あの形で初めて炎を出した日、君の目的が見え透いていたから」ルーは立ち上がり、寝床の足元にある香を新しいものに取り換えた。
アシャムはうめいた。「チー師匠は怒ってるだろうなあ――」
「僕が僧院に君は、その、山から落ちたって伝えておいた」ルーは言った。「過激すぎる特訓のせいでって」
「恥ずかしいな」とアシャムはこぼした。
「みんなすぐに信じてたよ」とルーが続けた。
「もっと恥ずかしいじゃないか」アシャムは前言を訂正した。
「ご両親がお見舞いに来てたよ」ルーは付け加えた。
「あれ、そっちの方はそんなに恥ずかしくないかな。とはいえ、こんな姿を見せることになったのは悪かったか」とアシャムは言った。
「両手を上げてよ。包帯を換えるから」
アシャムは言われるがまま身体を起こし、痛みに顔をしかめながら、胸に巻かれた布をルーがゆっくりとほどいていくのをじっと見ていた。
包帯が全部外されて、アシャムは自分の皮膚が黒や青の痣だらけになっていることに驚いた。「もっとひどいことになっていたかもしれないんだよ。もーっとね」ルーは言った。
「あの人は手加減してくれてたんだろうな」とアシャムは認めた。
「そうかもね。いずれにしても、君はついてたよ」ルーが近くの小袋から新しい長布を取り出す。彼が陶器の瓶の蓋を開けると、刺激的な軟膏の匂いが漂ってきた。彼は小さな刷毛で包帯に軟膏を塗り始めた。
「いや、これではっきりした。俺は馬鹿だよ。恥さらしの馬鹿野郎だ」とアシャムはため息をついた。ルーは優しさから、今度は何も言わなかった。
「ありがとう。それと……すまなかった。お前の言う通りだったよ。俺は熱くなりすぎて、うぬぼれて、分別を失ってたんだ」
「腕を上げて」とルーは答えた。
冷たい軟膏が傷ついた皮膚に触れ、アシャムはひるんだ。
「俺は……他の僧院を訪ねなきゃならないと思う」
ルーは呆れたようだった。「君の結論はそうだろうね、僧院を離れれば済むことだ」
「いや。これは逃げるためじゃない。見識を広げるためだ。コーリ山は俺に沢山のことを教えてくれた。だけど明らかに俺はもっと広い視野を持たなきゃならない――それに世界のこと、他の氏族のことについてもっと広く理解しなきゃな」
ルーが包帯を強く引っ張ったので、アシャムは歯の隙間から息を吸い込みながら顔をしかめた。「じゃあ認めるんだ」とルーが言う。
アシャムは眉を寄せた。「認めるって何を?」
「僧院に入ったのは逃げるためだったってこと」ルーはアシャムの目を見つめた。アシャムは彼の視線を受け止めた。
「そうだ」やがて、アシャムは答えた。「俺は……今日のことがなかったら、自分でそれを認められなかったと思う」と彼は続けた。「ずいぶん時間をかけて悪かったよ」
「恥さらしの馬鹿野郎だもんね」とルーは返答した。「結局、こうなるわけさ」
アシャムは微笑んだ。「今日、お前は俺の命を救って――」
「二日前」とルーは口を挟んだ。
「二日前? なんてこった、道師様」アシャムは信じられないとばかりに首を横に振り、だが言葉をつづけた。「お前はいつも俺を支えてくれてた。俺が自分の感情から、親から、自分自身から逃げてた時も、それでもずっと。お前だって仕事や家族に対する責任があるのに、お前にはお前の道があるのに、それが途切れても修行に付き合ってくれて。だから俺は――」
ルーは身を寄せて、アシャムに口づけした。優しく。そっと。
驚きはすぐさま温かな幸福に溶け、アシャムも彼に口づけを返した。
二人は身を離し、お互いに見つめ合い、ルーがその呪文を解くまで長い時間が続いた。
「この包帯をきれいにしておかなきゃね」彼はそう言って、放られていた古いほうの包帯を手に立ち上がった。「旅に出るなら、君の体調を旅ができるところまで回復させないとね」ルーが扉に向かって歩き出すと、アシャムが息を吐いた。そこで、ルーは立ち止まった。
「あとは、君が戻ってきたときはここにいるよ」と彼は言い、振り返らずに立ち去った。
アシャムはまた寝台にもたれて、ため息をついた。
暖かく、なじみ深い香気が部屋を満たした。
部屋の外、はるか上空では、灰鷹が曇天を突き抜ける鳴き声を上げながら、タルキールの空を翔けていた。
(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)
Tarkir: Dragonstorm タルキール:龍嵐録
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