MAGIC STORY

イクサラン:失われし洞窟

EPISODE 07

サイドストーリー ポーン

Miguel Lopez
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2023年10月21日

 

 サヒーリはイクサラン北海岸のさびれた岸辺、その白い砂の上に立っていた。気を確かに持ちながら、そのまま海へと向かって歩き出そうかと考えた。青く輝く、雲ひとつない水平線。別の人生であれば、そうしようと思っただけでその隔たりの向こうまで行けたものだった。彼女は何度か旅をしたことがあったが、ファートリと過ごした短い時間を除けば、多元宇宙をめぐる彼女の冒険は常に使命に駆り立てられていた。次元を救う、すべての次元を救う、という使命に。今は、どこまで行けるのだろうか?

 サヒーリは足をぶらつかせた。浜辺に穏やかな波が寄せるたび、少し砂に沈んだ。暑い日で、足首周りの水は冷たかった。次元を救う――ということ。次元は数多く存在した。見るべきものが多くあり、たくさんの驚異がある――怖いのは確かだが、そうでない驚異もある。どれもが彼女よりはるかに大きなものだった。そして今、水平線の向こうにはひとつの次元、ひとつの海、ひとつの見知らぬ地だけがある。無限の広がりからわびしい有限へ。渦巻くポータル、多元宇宙の裂け目は――つまり領界路は――彼女が辿ってきたそれは彼女の背後で閉ざされた。リスクを冒すのは愚かなことだったか。考えるよりも先に行動するまれな瞬間。

 彼女は小さな二枚貝が足元の砂中でもがいているのを見た。盲目で受け身な小さな生き物たちは、大海原をはるばる押し流されて彼女と同じ場所に行き着いたのだ。サヒーリは手を伸ばして砂に差し込み、両手いっぱいにすくい上げた。彼女は指をふるい代わりにして、それらの二枚貝だけが残るまで砂のほとんどを洗い流した。

「こんにちは」サヒーリはそう話しかけた。それらの白い舌が手のひらの皺を探り、逃げ道を探しているのが見えた。

「どこに行くつもり?」サヒーリはささやいた。

 二枚貝たちは彼女を無視して探し続けた。そしてついに、それらは動きを止め、運命を受け入れた。サヒーリは屈みこみ、巻き上げたズボンを冷たい水に浸しつつ、両手をそっと水の中に下ろした。次の波が二枚貝を押し流し、砂浜に押し戻されたそれらは砂に潜って姿を消した。返す波と共にそれらの痕跡は全て洗い流されてしまった。

 まだ見つかるだろうか。もう見当たらない。彼女は倒れ込みそうになるが手を水に、そして砂に突いて留まる――短い、めまいのふらつき。何も見つからず、掴めなかった結果。

 ファートリの笑い声が彼女を呼び戻した。振り返ると、ファートリとパントラザが――彼女の新たなケツァカマの相棒で、新入りのラプトルの中で最も有望な一頭――浅い波を駆け抜け、水しぶきを上げたり互いの周りを駆け回ったりしているのが見えた。ファートリはパントラザの指示に用いる木剣を手にしていた――名目上これは訓練であり、戦闘時における近接戦の反復練習のはずだが、サヒーリには遊びと区別がつかないように見えた。ファートリの顔に浮かぶ喜び、パントラザのやる気に満ちた跳躍とさえずり声、興奮と若さの無限のエネルギーで空気を鳴らすその噛みつき音。

 サヒーリは微笑んだ。彼女は立ち上がり、腕と足についた水を払った。ファートリがパントラザを引き連れて波の中を小走りにやって来ると、サヒーリは手を振った。

「その子とは相性がよさそうね」とサヒーリは言い、ファートリが両腕を回して抱きしめてくると身体に力を込めて受け止めた。

「とってもいい子」汗と日焼け止めと海の匂いをかぎながら、戦場詩人は息を切らせて笑った。「それで日に当たりすぎて疲れちゃった。涼みたいわ――岸に戻るか、海に入らない?」

「岸へ」とサヒーリは言った。彼女はファートリにキスをし、前へと押し出した。そしてファートリを追って熱砂の上を歩き、海辺の密林の木陰へと向かった。そこには大きな毛布が一枚広げてあり、ふたりはそこに横たわった。ファートリは荷物をかき回して水筒を取り出し、ひと飲みしてサヒーリへと差し出した。

「ねえ」サヒーリが水を飲むところを見ながら、ファートリが言う。「何か、私に言ってくれないことがあるみたいだけど……」

 サヒーリは再び微笑んだ――今度は控え目に。「ここはとても素敵なところね」

「そしてあなたはなんだか、それを悲しんでいるみたい」ファートリは言った。目を細めて海を眺めると、波がきらめき砕けていた。「また渡れるか試したの?」

「ええ」とサヒーリは囁いた。「何も感じ取れなかったわ」

「それだけじゃなさそう」とファートリは答えた。彼女はサヒーリの髪に指を一本通し、ゆっくりと髪を絡めた。「穴が開いたみたいに感じているのよね。うつろな穴。肢を失ったのに、その日焼けが痛むような」

 サヒーリはうなずいた。

 ファートリが言った。「灯があった頃は、私は満たされているって思ってた。けれど、そんな私のどこかにあったものが今になってわかったの。自由という望み。今はもうないそれが」ファートリは心臓を掴むかのように胸の前で手を丸める。その手を拳に握り、指の関節を鳴らし、そして手を振り払った――もうそこにはないものを、再び振り払う。

「ごめんなさい、Hさん。一緒に落ち込ませるつもりじゃなかったの」とサヒーリは伝えた。「ビーチで暗くなるなんてよくないわね。こんなにいい日に」

 ファートリは肩をすくめた。「毎日いい日よ」

 サヒーリは鼻を鳴らし。ファートリの腕を小突いた。「茶化さないで、本当に悲しいんだから。そして、このことを悲しく思うのは愚かしいとも。私たちは無限からの祝福をしばしの間授かっていただけ。その祝福を失うだなんて考えたこともなかったけれど」

「悲しくてもいいわ」ファートリは言った。「あなたの言う通り――わたしたちは贈り物を失った。多元宇宙を失った。そのすべての物語と驚異を失った」彼女は起き上がった。「何が起こったと思う?」

 サヒーリは微笑んだ。ファートリは彼女のことをよく知っている――もちろんサヒーリはその質問への答えをすでに考えていた。

「ひとつの規則があるの」サヒーリは語り始めた。「現実の法則として、その基本的な要素は――マナ、霊気、そういったものは――創造することも破壊することも不可能だとされている。ただ変化するだけ」サヒーリはファートリが自身の片手をもう片方の手で包み、そして胸の前から手を離す動きを真似た。「動くこともまた変化ね」

「わたしたちの灯も『変化』した、って考えているの?」

「そう。私たちの灯は動かされたの。破壊されたのではなくて」サヒーリは手を自身の膝の上に戻した。「現実における基本的な要素を破壊することはできない。生と死、実在と非実在。それらは全て同一の基質であり、発現方法が変わるだけ」

「そして発現する場所も」

「発現する場所も、ね」サヒーリは同意した。

「どこに?」

 サヒーリは肩をすくめた。「どこか。わからないわ」

「それが『取られてしまった』のだとしたら、取り返せる?」

「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「きっと誰かが」ファートリが勧めるように言うと、サヒーリは微笑み、目をそらした。「それまでは」ファートリは言う。「私たちにはイクサランがある。それもそのすべてが」ファートリは水平線を指さした。「あの向こうには何があると思う?」

「わからない」とサヒーリは言った。振り返ってファートリを見ると、彼女はにやりと笑っていた。「何があるの?」

「私も知らないわ」ファートリは言った。「鉄面連合の海賊たちなら知っているかもしれないけど、わたしは知らない。公式には、太陽帝国は北へ航海したことがないの」彼女は立ち上がり、サヒーリに手を差し出して同じく立ち上がらせた。「一緒に、ゆっくりと歩んで見つけていきましょう。あなたと私にとって新しいこの世界を探検しましょう」

 サヒーリもそうしたいだろう、と彼女は思った。ファートリと一緒に、ゆっくりと。サヒーリはファートリにもたれかかった。「私はまだ悲しいのに」サヒーリはそう囁く唇でファートリの唇を撫でる。

「私も」とファートリが答える。「それでも私たちはここに、一緒にいる。そして一緒に行くことができる」

 サヒーリは微笑んだ。一緒にいたい。一緒に行きたい。心からそう思った。

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アート:Kieran Yanner

 数日後、オラーズカの城塞内に間に合わせで設えられた玉座の間にて。ファートリとサヒーリは顧問団に加わって立っていた。少年皇帝アパゼク・イントリ四世はファイレクシアの侵略後に、戴冠式後の支配地視察の一環として、大勢の従者を引き連れてこの地を訪れていた。皇帝がオラーズカに来る、それは大いに祝うべき出来事だった――太陽帝国の皇帝が、伝説と可能性に満ちた場所、かの黄金の都市へと戻ってきたのだ。人々は彼が到着するまでずっと歌い、歓声を上げていた。侵略中に受けた都市の損傷を修復する作業は続いていたが、それも精力的な進みを見せた。これは失われた都市を粛々と立て直すというものではなく、常となる業務を意気揚々と再開するものだった。

 イントリ四世は、光り輝くケツァカマの編みぐるみを握りしめ、親指をしゃぶり、居眠りをしないようにこらえていた。彼は暗い色の衣装とくすんだ金属をまとっていた。あの戦争の終わりに父が亡くなって以来、喪に服したままでいるのだ。この世界はこの少年皇帝同様、新しく可能性に満ちている――そして生き残った古参たちの野望を背負いこんでいる。顧問団は昼食を終えたばかりで、皇帝の午後の退席が近づいていた。侍従たちが昼食を片付ける音が小さく響き、私的な会話が聞こえ、そしてはるか下方からは人々が戻ってきたオラーズカの喧騒がかすかに聞こえる。それらに取り囲まれ、眠気が招く。

 それは湿気の多い午後で、雲が都市の上を流れ、黄金の太陽と激しい雨が交互に降り注いでいた。サヒーリはため息をつき、かすんだ地平線のかなたに広がる黄金のオラーズカと緑のイクサランの壮大な風景を眺めた。彼女は甘く冷たいハイビスカスの飲み物を一口すすり、上質な器を爪で軽くはじいた。

 故郷。今のところの、あるいは人生が終わるまでの? サヒーリはほのかなハイビスカスの風味を味わい、それから角氷を噛み締め砕いた。彼女は顧問団と少年皇帝を一瞥し、細心の注意を払うべきだと理解はしていたが、深い疲労感と戦っていた。その疲労を振り払おうともう一口飲み、警戒するべきことを今一度意識した。

 アパゼク・イントリ四世は父の統治を引き継ぐことにはなるが、先代皇帝は自身がファイレクシアの暗殺者の手にかかって死ぬことを想定していなかった。少年は侵略戦争の後に王位を継ぐことにはなったが、まだ子供であり、辛うじて自分の名前を署名できる程度で、まして王宮や帝国の政治を理解して統治することなどできはしない。

 そして何たる政治情勢か! サヒーリがイクサランに到着して立ち往生した直後、ファートリは彼女にこの王室関係者を魅了した競争について教え込んだ。一方には、少年皇帝の叔父であり、先帝の死後にその息子として書類上認められたアトラチャン・フィシントリがいた。政治を知らない人々にとっては、アトラチャンの任務は皇帝の家令としてパチャチュパの日常業務を取り仕切ることだった。政治的な意識が少しでもある人なら誰でも、彼の王位への欲求は夜明けのごとく明白だった。

 アトラチャンと対立しているのは、三相一体の太陽の最高司祭であり先帝の長女でもあるカツタカ・フィシントリだった。カツタカは三相一体の太陽への崇敬の念を込めて建築された寺院が集まる広大な都市、オテペクを統治していた。だがオテペクはファイレクシア戦争で破壊されてしまった。帝国が彼女の統治地域再建に取り組んでいる間、彼女はパチャチュパの上層にある皇帝の宮殿トカートリに住まい、信仰の道筋を指導しつつ若い皇帝の主任教師として仕えていた。

 不安定な情勢。帝国は叔父と叔母で二分され、両者共に少年を操りそれぞれの欲望に従って国の将来を形作ろうと企てている。ここまで導かれてきた歴史は、権力者ふたりが支配権を争う中で覆されることになるだろう。自分は二者の野望のための金張りの道具に過ぎないと少年皇帝が理解するほど賢くなる前に、その心と精神を勝ち取るための時間との競争だった。

 これが平和だった。甘い飲み物、香辛料の効いた肉や柑橘類の食事、そして退屈さ。サヒーリは、太陽帝国の権力者たちが今後の動向について討論しているのを聞き流していた――隣に座っていたファートリが、そっと囁いて通訳してくれていた。この瞬間が退屈だというのは奇妙なことだ。サヒーリは、イクサラン最強国家の舵取りをめぐって目の前で繰り広げられる権力闘争に関わるのであるから、退屈以上の何かを感じるはずだと信じていた。しかし神経を焼くようなファイレクシア戦争の恐怖と灯の剥奪の後では、この争いはとても矮小に感じられた。

「ねえ」サヒーリの熟考の時を遮るように身を寄せ、ファートリは囁いた。「彼らはあなたの自動機械の製作がどこまで進んでいるのかを知りたがってるわ。あなたのメカノケツァカマが」

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アート:Cynthia Sheppard

「メカノ――」サヒーリは鼻を鳴らし、笑いをこらえた。ファートリは目を見開き、サヒーリは他の顧問団と皇帝が同席していることを思い出した。彼女は笑いを咳払いでごまかし、平静を取り戻す時間を稼いだ。「メカノケツァカマ、そうですね」彼女は皇帝の言葉を――実際にはアトラチャンによる呼び名を――彼女の金線のケツァカマに充てて言った。「目下のところ生産は遅れてはいますが――」

 アトラチャンが彼女の話を遮りながら何か話した。

「皇帝陛下に謹言する際は起立せよ、って」アトラチャンへと鋭い視線を向けたまま、ファートリは通訳した。

 サヒーリは、アトラチャンの発言の要点を伝えるために最悪な部分を――上級帝国民と下級帝国民という彼女が十分に理解しているイツォカン語の言葉を――ファートリが伏せたことを理解していた。彼女は義務的にではあるが立ち上がり、チュニックの前面のしわを整えた。ファートリは通訳のために彼女の隣に立った。サヒーリは手を前に組んで冷静にゆっくりと話し、その間ファートリは彼女がまだ明確に表現できない語彙を通訳した。

「私たちは金線のケツァカマを一日あたり十体前後生産しております」とサヒーリは語った。「最初の技師団は今や全員、それらの弟子に教えるに足る経験を積んでおり、何名かはすでに教育を始めております」

「陛下は生産が遅い理由を知りたいそうよ」ファートリが通訳を続ける。「こちらは貴女が必要とする地金をすべて提供してきた、どうして我々には――」アトラチャンの言葉にファートリは眉をひそめた。「なぜ労働者が足りないのか、ですって」彼女はそう伝え終えたが、サヒーリの返答を少年へ伝えようと皇帝の耳元へ寄るアトラチャンに対して、まだ眉をひそめたままだった。

「私たちには人材の確保という障害があります」とサヒーリは答えた。「私たちが資源に不足していないことは事実であり、そのことに私はいつも感謝しております。陛下の恵みと寛大さには果てがありません」サヒーリは少年皇帝に礼儀を尽くした。「しかし私と技師たちにとって、教えたり組み上げたりする負担は克服しがたい困難です。倉庫は満ちているものの、職人が作成した部品を組み立てるに十分な経験を積んだ人員はほんの一握りにすぎないのです」

「では、約束は果たせぬと?」アトラチャンが尋ねる。

「いいえ、筆頭家令殿」サヒーリは言った。「皇帝陛下が求めたものは納品できますが、履行にはもう少し時間がかかります。現在の生産速度では、6か月から8か月は遅れる見込みです」それをファートリが翻訳した後の驚くような不満声を聞きながら、サヒーリは微笑んだ。彼女はそれらのどよめきをやり過ごし、説明を続けた。

「私はこの計画を予定通りに終わらせるつもりです」サヒーリは、雑談やつぶやき、ざわめきの騒音が沸き起こる中で聞こえるように声を上げた。「私はストリクスヘイヴンの各大学とギラプールの領事府に援助を求めました。どちらの次元にも、帝国に威信をもたらすであろう優秀な科学者や技師がおります」それらとの繋がりは失いつつあるけれど――彼女はそう思った。ここは心へ訴えるとしよう。「ファートリと同じく」サヒーリは続ける。「私も多元宇宙を渡る能力を失いました。イクサランは今や私の故郷であり、太陽帝国の臣民は今や私の隣人です」

「そして皇帝陛下はお前の君主だ、と」アトラチャンの怒鳴り声が響いて消えゆく中、ファートリは柔らかな声で通訳した。「キンジャーリの言葉、ティロナーリの命令、そしてイクサーリの意志は誰の言葉か。最初に約束した期間内に皇帝陛下のメカノケツァカマを完成させるか、さもなくば報いを受けるかだ――太陽帝国の奉仕者なら誰もが覚悟するであろう報いだ、我々の客人に与えられる寛大さではないぞ」ファートリは片手をサヒーリの背中のくびれに添えながら、アトラチャンの叫びの残りを聞いた。「ほかに通訳の必要があることは何も言ってないわ」彼女は首を横に振りながら囁いた。

 アトラチャンは叫び終えて落ち着きを取り戻し、そして追い払うように手を振った。サヒーリはそれを理解した。彼女は頭を下げた。ファートリは自分たちを弁護するように新たな方針への許可と寛容を請願し、若き皇帝を祝福して事業が予定通り完了することを保証し、帝国への栄光をもたらすことを約束した。

「詩人よ」とアトラチャンが声をあげ、二人を呼び止めた。

 ファートリはサヒーリの腕を掴んで握った――安心のために。落ち着いて。

「この都市のはるか地下にあるという古代の部屋についての話や噂が以前からあった」とアトラチャンは言った。「秘密は長い間忘れ去られていたが、兵士たちが巡回中に発見したところだ」

「どのような部屋ですか?」ファートリが尋ねた。「私はオラーズカの最上部にも、上空にも、地下にも行きました。そのような部屋はありませんでしたが」

「行ったかもしれない」アトラチャンが返す。「だがお前は陛下直属の兵士が発見したものを見つけるほどにはしっかり調べていなかったというわけだ」

 ファートリは平静を装っていたが、サヒーリにはこめかみの近くで脈動している血管が見えた。「部隊の支度や準備にしばし時間を頂くべきでした」

 アトラチャンは少年皇帝へと身を屈め、ファートリを無視して主君へと囁きかけた。皇帝イントリ四世は耳を傾け、にやりと笑い、頷いた。「冒険だ」と彼は高く明るい声で告げた。

「皇帝陛下はお前の遠征を祝福なさる」とアトラチャンは述べた。「お前の今の任は解かれる。行って荷物をまとめるのだな」

「私の部隊は――」

「お前の部隊はパチャチュパに留まらせる」アトラチャンは告げる。「彼らをここに進軍させるには長い時間を要するだろう。代わりにお前はカパロクティ・サンボーンとその槍騎兵の行軍に同行し、帝国の目として働くがよい。お前が合流するから出発はそれまで待つようにと伝えてある」

「お望みの通りに」ファートリは言った。

「皇帝陛下の命通りに、だ」アトラチャンは訂正した。

 ファートリは何も言わなかった。彼女は一礼し、サヒーリを玉座の間から連れ出した。

「今のは何?」サヒーリは尋ねた。

「命令、それだけよ」とファートリは言った。彼女は人差し指を唇に当て、サヒーリを黙らせた。「どこか二人きりになれる場所に行きましょう。ついてきて」


 オラーズカの通りは混雑し、騒々しく、暑く、そして調理された肉や香辛料、その他様々な沿道の商売の匂いで満ちていた。行商人や露店商人が宣伝の声を張り上げ、買い手は集団で値切り交渉を行っていた。子供たちが笑いながら小さなケツァカマを追いかけまわす一方で、大きな獣はそれぞれ調教師に操縦されて鼻を鳴らしたり鳴き声を上げたりしながら、城壁外の復興地から都市へと物資を運ぶ荷車を引いていた。帝国は、かの侵略で瀕死の重傷を負ったが、今は傷を負いながらも生きていた。ケツァカマは崩壊した石造建築物や汚染された残骸といった多量の廃材を、都市から遠く離れた廃棄場へと運んだ。たとえファイレクシアの油が不活性化されたのだとしても、都市の指導者たちは起こりうる危険を看過するつもりは無かった。油の不活性化はその到来と同じほどに唐突なものだった。無害であり続けるという保証はない。

 ファートリはサヒーリを賑わう通りへと案内した。今日は祭りだ――凧が都市の上空を飛び、子供たちは浮かれた祝賀者たちの間を走り回っていた。オラーズカには何万という人々がひしめいていた――侵略によって故郷の州が荒廃し住めない状態になった帝国の臣民たちがここにやってきたのだ。サヒーリとファートリもこの群衆の中では名も知れぬふたりであり、その会話は都市とその人々の喧噪によって守られていた。

「Hさん、何が起こっているの?」

「わからない」ファートリは言った。「出発前に少し準備が必要みたい。一緒に来て」彼女はサヒーリを群衆の中へと引っ張り、混雑した通りを二人でかき分け進んだ。「この平和は見せかけね。駒は思っていたよりも速く進んでいるみたい」

「それなら、私たちは何の駒?」

「ポーンよ、いとしいあなた」ファートリが答えた。「だけど自分たちが動かされてるとわかっているポーンよ。こっちに来て」ファートリはサヒーリを大通りから外れた露店の群れに引き込んだ。そこは売り子たちが仕事歌をうたいながら忙しくマサ粉を挽いていた。肥沃な土と、女性たちが吸う葉巻タバコの匂いがした。仕事から顔を上げる者はひとりもいなかった――大通りから外れてこちらに商品を買いにくる人々も時々いるため、この広場に足を踏み入れたファートリとサヒーリに注目する者はいなかった。

 ファートリは尾行が無いことを確認した。

「アトラチャンは父親の戦を再開したいと考えているのよ」近くに誰もいないことを確信し、彼女は言った。「彼はトレゾンに制裁を加えたいの」彼女はサヒーリに密着し、抱きしめ、露店間の物陰に隠れて親密な時間を過ごしているかのように振る舞った。「彼はすでに女王湾で第二の黎明艦隊の建造を進めつつあるわ。最初のものよりも大規模で強力な」

「また戦争を」サヒーリはうめいた。「国民は許容しないでしょう。無理よ――大通りや密林にはまだファイレクシアの爪痕が残っているし、帝国はまだ再建中なのだから」

「それは関係ないの」ファートリはサヒーリの腕を掴みながら言った。「旗が掲げられ、司祭たちはそれを祝福し、世論は変えられるでしょうね」と彼女は囁いた。「アトラチャンは帝命としてわたしに演説文を書かせようとするでしょうし、それに応じないとしても、彼はわたしが書いたものとして一筆したためるでしょうね――遠征を開始し、古の恐竜たちの加護を求めるための演説を」

「そんなこと――」

「駄目なのよ」ファートリは首を横に振りながら言った。「私は戦場詩人。帝国に仕える者」彼女は顎を引き締め、サヒーリから少し離れた。「灯がなければ、私は反抗した結果から逃れられない。自分の役目を果たさなくてはならない。だけど彼は私が敵対することをまだ感づいていない」

「私たちにできることは?」

「ほかにも重要人物がいるわ」

「カツタカさんのこと?」

「あの方は皇帝の心と精神を掴んでいる。アトラチャンは陛下の意志を操ろうとしているけど、カツタカ様は陛下をもっと思いやりのある、父親の息子や叔父の道具にならない人物へと変えられるわ」ファートリは自身の作り出した選択肢を説明しながらも、まるで自身を納得させようとするかのように頷いていた。「帝国の未来はあの方と共にあるはずよ」

「それで、私には何をして欲しいの?」サヒーリが尋ねた。

「どれほどの間留守にするかはわかりません」ファートリは言った。サヒーリは、彼女が軍人口調に切り替わったと気づいた。自己を保つために、感情を奥底に追いやっているのだ。「会議が予定されています。それに出席して頂きたいのです」

「それだけ?」

「それだけです」

「そんなはずはないわ。私も一緒に――」

「だめよ、恋人さん」ファートリは言った。「ポータルを通して援助を求めたんでしょう?」

「領界路、そうね」サヒーリは答えた。「ギラプールについては嘘をついたわ。最後に現れた領界路はアルケヴィオスにだけ通じていたから。すぐに援助を要請したら、彼らは歴史学の生徒をひとり送るだろうと言ってきたの。プレインズウォーカーの」サヒーリは難しい顔をした。「クイントリウス・カンドっていう子を」

「プレインズウォーカーを?」ファートリは尋ねた。

「どうもそうみたい。向こうの使者さんが彼についての人物評書を送ってきて、それからは断続的に連絡を取り合っているわ――アルケヴィオスへの道は一定の規則性を持って現れているから」サヒーリは答えた。「こちらのことは気にしないようにと伝えたほうがいい?」

「いえ」ファートリが返した。「その彼の力をうまく使えるかもしれない」彼女は腕を組み、指で上腕を叩き始めた。視線を下げ、考え始める。サヒーリはファートリに手を差し伸べ、相手の注意を引き戻した。「その会議について私が知っておくべきことは何?」

「その会議は、アトラチャンを皇帝の護衛の任から解いて退陣させ、カツタカ様を皇帝の側近として権力の座につかせる方法を練るためのものなの」ファートリは一息に告げた。彼女は気を取り直し、一大決心といった表情をサヒーリに向けた。

 サヒーリは息を吐いた。自身の髪に片手を差し込む。「貴女は政変を企てているということね」

「ええ」ファートリは答えた。「私たちは」

「座りましょう」とサヒーリは言った。小さな広場の隅には、売り手や買い手、通行人が座って食事や休憩ができるよう、卓と椅子が環状に並べられていた。サヒーリはファートリを空いている卓に連れて行き、座った。ファートリは前を通りがかった店員に声をかけ、冷たい飲み物と香辛料の効いた冷やしマンゴーを注文した。

 ここでも革命が。カラデシュの紛争の年月を思い出し、サヒーリの心は痛んだ。「今はここが私の故郷」彼女は言った。「でも私のよく知る地じゃない。貴女が一緒にいない会議で私に何が言えるかしら?」

 マンゴーと飲み物が届いた。数分間ふたりは黙って飲食し、それからファートリが話し始めた。

「この帝国には様々な夢があるわ。様々な可能性の未来が」彼女は卓で向かい合うサヒーリに片手を伸ばし、その胸、心臓の上に手を置き、もう一方の手を自身の心臓に添えた。「あなたの夢と未来。私の夢と未来も。これを今やらなければ、人々は再び戦争に苦しむことになる」ファートリは食べ物や飲み物を無視し、暖かい琥珀色の目をサヒーリに向け続けた。

「あなたを愛してる。私たちはお互いのもの。この会議で、あなたはわたしの声で話すのよ」とファートリは言った。「私の補佐官、チトラーティ――私が出発してから、彼女に会えるようにしておくわ。必要ならあなたの通訳もしてくれるでしょう。それまでに、あなたがわたしの代理であることを関係する人たちに知らせておく。時が来たら向こうから接触してくれる。そうしたら彼らと共に出発して」

「貴女は、その愚かな探検の命に従う間、無事でいて」サヒーリは言った。要望ではなく命令として。「アトラチャンや皇帝が何を言おうとも、あなたが指揮を執るわけではないわ。あなたは詩人であり筆記者、英雄じゃなくていい」

「もちろん」ファートリは同意した。「この都市の下に何が待っていようとも、最後には見つけてみせるわ」

「そうね」

「私たちが動く準備はできていたの」とファートリは言った。「あと一押しだけが――これが必要だった」

 サヒーリはファートリの手に手を重ね、強く握った。気持ちは伝わった。

 ファートリは手を裏返し、握り返した。

 二人は冷たいマンゴーと甘い飲み物を黙って分け合い、オラーズカの騒音と喧騒に包まれながら、どちらも先に手を放そうとはしなかった。


 ファートリの同盟者らは数日後、戦場詩人の遠征隊がオラーズカ地下の洞窟へと降り立った直後に、サヒーリへと連絡してきた。共謀者の小集団はサヒーリを黄金都市から浜辺へと連れ出し、そこで女王湾行きの船に乗り込んだ。そしてサヒーリは真夜中に、新生黎明艦隊の未加工船体にまぎれた別の船へと乗り込み、その船はイクサラン大陸を静かに抜け出して外洋へと出た。

 女王湾から東の海を渡る旅は一週間ほど続いた。穏やかで落ち着いている、鉄面連合の船員はそう評したが海はうねっていた。サヒーリは体長を崩し、船内の寝台から離れることのできない日々を過ごした。ガンネル号に乗船した初日こそ――不安もあったが――興奮していたものだが、すぐに船酔いに襲われて船底へと沈められてしまった。

 絶え間なく上下に揺さぶられ、水平軸もなく渦巻く。悪心と眩暈、軋みと振動と咳と吐き気。サヒーリは寝台で揺られながら悲惨な数日間を過ごし、不調で眠れず、半醒半睡を繰り返していた。半死半生のひどい状態の中で、彼女はこの場所と故郷との隔たりを夢に見た。彼女はファートリを叫び求めた。意識の奥底に到達し、この場所から――イクサランから、うねる海から、船の病床から――プレインズウォークで離れようとしたが、それはもうできないことを思い出した。彼女はすすり泣いた。数時間ほど至福の眠りについたが、目が覚めると喉はからからに乾き、頭はふらついていた。

 サヒーリが船室から出てきたのは、ようやく歩けるようになった彼女と同様に青白く色褪せた真昼だった。平衡感覚と動きの対立が解決したことで彼女の胃は落ち着いた。吐き気は収まり、空腹を感じた。船は幸いにも静止し、ようやく穏やかな海に停泊した。黒ずんだ島々が船の右舷側に固まっていた。その向こうには、低い雲で霞んでいたが、水平線から大陸の端が盛り上がっていた。

「この匂いは何ですか?」太陽帝国と鉄面連合の船員の混成集団に近づきながら、サヒーリは尋ねた。彼らは石炭を用いる調理用かまどを取り囲んでいた。鉄面連合の一人は串に刺した切り身が置かれた網に塩を振りまわし、太陽帝国の兵士はジュウジュウと焼ける肉に濃厚な黒いソースを塗っていた。

「嬢ちゃんが来てるぞ!」連合の船員がそう言い、サヒーリのことを気づかせた。「お前らはどいたどいた」

 皆はその船員の言葉通りにあちらこちらへと動き、サヒーリのためにかまどの近くを空けた。彼女は肩に毛布を掛けていた。午前中は寒くてじめじめした空気だったので、かまどから放たれる熱はありがたかった。

「飲み物です」

「ありがとう、チトラーティさん」とサヒーリは言い、ファートリによる随行員が差し出してきたマグの水を受け取った。

「お腹は空いていますか?」チトラーティは尋ねた。「彼らは今朝がた、黄金のマグロを捕えました。どうやら、食べる前に調理する必要はほとんどないようです」

「そうそう」と鉄面連合の古参水夫が言った。「新鮮がいちばんでさ。塩と胡椒で軽く焼くだけでじゅうぶん。海そのものからの贈り物は――バターみてぇに柔らかいんでさぁ」彼は調理された魚の串を掲げ、太陽帝国の船員が塗りつけた滴るソースを見つめた。

 豊かな香りにサヒーリの腹が鳴った。海賊が彼女に串を差し出すと彼女はそれを受け取り、炙ったマグロの角切りを噛み切る。胡椒、塩、ライムの刺激、そして魚そのものの豊かですっきりした味わい。

「今まで食べてきたものの中で一番おいしいです」サヒーリは二口目を食べたあたりでそう言った。「またスープ以外のものが食べられるようになるなんて思いませんでした」と彼女は声をあげて笑った。

「サヒーリさんは誰よりも長く伏せっていたんです」チトラーティは言った。「お疲れ様です」

 サヒーリはその皮肉に気づかないふりをした。「とりあえず、ここはどこですか?」

「もうすぐセン諸島です」とチトラーティは答えた。「準備ができていることを願っています」船尾の方向から数人が近づいてくる音を聞きながら、チトラーティはサヒーリの周りを見渡した。「最高司祭様がお見えになります――サヒーリさんの具合を何度も尋ねておいででした」

 サヒーリがマグロをもう一口食べながら振り返ると、司祭と行政官の小集団が寒さと湿気をこらえながら、揃って向かってくるのが見えた。その中心では、控えめではあるが太陽帝国の礼服を身に着けた厳格そうな女性が堂々と、船の揺れにも影響されずしっかりと歩んできていた。

「尋ねるって、私の具合をですか?」サヒーリはチトラーティにそう話しかけ、チトラーティは笑いをこらえるのがやっとだった。代わりに彼女は跪いて低くお辞儀し、サヒーリにも続くよう促した――彼女は今や帝国の臣民であり、もはや客人ではないのだ。

「司祭様」お辞儀をしながらチトラーティは声をかけた。

 先帝の長女であり新皇帝に慕われている叔母でもある最高司祭カツタカ・フィシントリは手を振り、お辞儀する船員たちとチトラーティを立ち去らせた。「サヒーリ・ライさん」と彼女は話しかけた。「お元気そうで何より。どうぞ」彼女は礼服から手を覗かせ、小さく身振りをした。「一緒に歩きましょう。話し合うことがたくさんありますから」

 サヒーリは言われた通りにし、立ち上がって最高司祭と並んで歩き始めた。カツタカは背が高く、それは彼女の役職を示す幅広の帽子によってさらに際立っていた。似たような服装と鎧を身に着けたカンチャタン――信仰、忠誠、そして武勇によって選ばれた神殿兵――の従者が、彼女の脇に控えていた。

「ファートリは出発前に準備をしてくれましたか?」とカツタカは尋ねた。彼女は重厚な礼服や船の揺れに影響されることなく滑らかに歩を進め、その声は常に低く心地よい響きだった――詩句、章節、祈祷を重視してきた人物の話し方だ。ファートリと同じく、カツタカも言葉が武器にも香油にもなりうることを知っているとサヒーリは考えた。

「はい」サヒーリは答えた。「彼女は私に、皆様がたが太陽王国の進路について抱いている、その……将来像について話してくれました」

「貴女もその一員ですよ」とカツタカは念押しした。彼女はけしてサヒーリに目を向けなかった――彼女の視線は水平線にあり、思考もそちらに向けられていた。「私たちの帝国の進路について、貴女が抱く将来像はどのようなものですか?」

「私はファートリの夢を共に抱いています」サヒーリは言った。「平和が何よりも大切です」

「素晴らしいことです」カツタカは応じた。「先へと話を進める前にいくつか質問があります。貴女のケツァカマについてです。貴女はあれらを製造し、皇帝陛下の技師へと引き渡しました。あれらは彼らと貴女のどちらに従うのですか?」

「あれらは機械です」とサヒーリは答えた。「制御コードを持つものに忠実に従います」

「そのコードというものはどなたが?」

「帝国の技師によって保管されていますが、マスターキーが――物理的な鍵が、パチャチュパにある私の生産施設に存在します」二人はゆっくりと歩いていたが、サヒーリはすでに息が切れそうだった。

 カツタカは微笑んだ。「大変結構です。ところで、貴女の上流帝国語はとてもお上手ですね」

「最高の人物から学んでおりますので」

「彼女はトレゾンについてあなたに何を伝えましたか?」

 思わずサヒーリの表情に一瞬、驚きが走った。わずかではあったが、明らかな。「太陽帝国とトレゾンが過去に争い、今でも大きな敵であることは知っております」

「アルタ・トレゾンです」カツタカは言った。「トレゾンは大陸の名前です。アルタ・トレゾンが吸血鬼たちの国名になります。私たちが敵対しているのはトレゾンではなく――実のところアルタ・トレゾンでもなく――その教会と薄暮の軍団なのです」

「それらに違いは無いと思っておりました」

「地図と現実の地を混同しないことです」最高司祭は言った。二人は船長室に到着し、従者が扉を開けるのを待ってから中へと入った。部屋は暖かく、太陽石で照らされていた。そこには最高司祭の衣類や織物だけでなく、大きな海図が広げられた重厚なテーブルが置かれており、その部屋の大部分を占めていた。サヒーリは好奇心からそれらに近づいた。

「私たちはいまどこにいるのでしょうか?」サヒーリは地図を覗き込みながら尋ねた。

「セン諸島です。ここですね」カツタカはトレゾン西海岸沖に点在する小さな島々を指しながら言った。「アルタ・トレゾンはこのデオロ川の向こう側に隠れています」彼女は大陸を二分する川の向こう側、広大な山脈がそびえ立つトレゾンの奥地を指差しながら説明を続けた。「私たちと向こうの間には、海岸沿いと平野部に自由都市が幾つか存在しています」

「そこにも吸血鬼がいるのですか?」

「人間の都市です。志願者。信奉者。食料の」彼女は顔をしかめた。「貴女にお願いがあるのですが」

「なんなりと」

「貴女の言語で記録を取ってください」カツタカは言った。「私の言語を用いた暗号が精査に耐えられるとは思えませんが、貴女の文を読み、また書くことができるのはイクサラン全土で貴女だけです」

「それなら可能です」とサヒーリは答えた。

「ありがたいことです。荷物をまとめてください。間に合うように出発しますよ」


 共謀者たちは地図を取り囲んで座り、それに基づいて来たるべき世界の形を決定する。

 サヒーリはセン諸島の本島セン・ガエルの東海岸、暗く冷たい浜辺に立ち、灰色の海越しにトレゾン方面を眺めた。吸血鬼の大陸は前方に見える雨と低い雲の背後に隠れており、沿岸に連なる灯火、灯台、自由都市が送り出した漁船群が目印になっていた。ここはイクサランの豊かで暖かな緑から遠く離れた、寒い海岸。サヒーリは震え、着込んだ雨具をきつく絞った。早く終えられるなら早いほどいい。

 鉄面連合の船が一隻、ここまでサヒーリを乗せてきたものと同等のそれが、浜辺から百ヤードほどの沖合に停泊していた。波に逆らって、一隻の大型ボートが近づいてきていた。その上には外套を羽織った人影が幾つも縮こまり、風による飛沫に身を屈めていた。

 彼らが来る。

 サヒーリは踵を返し、カツタカと太陽帝国の一行が待つ灯台へと戻っていった。その短い距離をゆっくりと横切りながら、この二日間にカツタカから言われた言葉を思いつつ自らの行動について考えた。戦争は奇妙な同盟を生む。死は均衡状態を変化させる。絶望は、本来なら平和であったかもしれないところで行動を強制する。

 サヒーリはカツタカから、鉄面連合の隠密傭兵たちについて聞かされていた――彼らの忠誠は十分な金で確保されており、自由都市へと送り出されてはカツタカ配下の司祭たちへと情報を持ち帰る。彼らが戻ってきて伝えた内容は、恐怖を刺激するだけでなく行動をも促した。まるでその恐怖という疫病を熱心に求めるかのように、終末論の熱狂がアルタ・トレゾン中に広がっているのだ。この疫病はネズミではなく狂信者集団の口から広まり、その論調は薄暮教会の土台に亀裂を走らせていた。渦巻く不満の中から謎めいたひとりの人物が立ち上がっており、そして女王は味方を必要としている。

 その一方で、パチャチュパと太陽帝国では戦争熱が猛威を振るっている。国民はうろたえ、傷つき、国家の片拳は飢えて肉に食らいつこうとする剣を握りしめている。皇帝の義理の息子に席を譲らず皇位に就いた子供は、自身が果たすべき役割の重大さをまだ理解していない。

 対の大望を抱く東の女王と西の女司祭。上り調子にあるがまだ奪われる可能性のある帝国と、断崖絶壁から吊り下げられながらもまだ引き戻せる可能性のある国。実に奇妙な同盟だ。理不尽な敵に直面したとき、道理が通じるまた別の敵とは共に並び立てるかもしれない――友人としてではなく、協力者として。

 サヒーリは、ファイレクシア戦争中のオラーズカの戦い、つまり吸血鬼と人間とが共にファイレクシアと戦ったときのファートリの話を思い出した。セン・ガエルはオラーズカではない。カツタカとその一時的な協力者が敵対しているのはファイレクシアではない。この会合は戦場ではない。それでもやはりこれは国家の運命を決めることになる。

 サヒーリは灯台への残りの道のりを急ぎ、ノックもせずにその基礎部にある小屋へと入った。セン諸島はオークの故郷だが、彼らはアルタ・トレゾンによって相当な数が減らされてしまった――この辺境地域は静かだった。自分たち以外は誰もいない。

 灯台小屋の内部は暖かく、コーヒーやインク、そして海の香りが漂っていた。大きな卓が部屋の中央に引きずり出されており、それを取り囲んでカツタカと彼女の顧問たちが座っていた。サヒーリが入って来るとカツタカは顔を上げて確認し、それから隣の空席、つまり今夜のサヒーリの持ち場に目をやった。

 囁き声の会話の中、緊張を抑えながらサヒーリは急ぎその席へと向かった。カンチャタンたちは、普段であればマクアウィトルを帯びているが、今そのベルトの輪には何も下げられていなかった。代わりに、彼らは衣服の下に隠し持つナイフの硬い輪郭を指でこっそりと撫でていた。

「信頼は」カツタカは席に着いたサヒーリに向かって言った。「今夜の相互内通によって築かれます。理解していますか?」

 サヒーリは頷いた。「私といとこたちは昔、菓子屋の窓から一かたまりのソアン・パプディを頂戴しました。そのことは誰にも言わないとお互いに誓いました」彼女は筆記用紙に試し書きをし、インクの輪を幾つか描いた。「そこから、私たちの友情はさらに深まったのです」

「心温まる思い出ですね」とカツタカはつぶやいた。

「つまりは――理解しています」

 ドアが素早くノックされ、風と雨のつんざく音が鳴り響く中でひとりのカンチャタンが部屋に踏み入った。

「彼らが到着しました、司祭様」その兵士は肩についた水滴を払いながら報告した。彼女はカツタカに話しかけながら素早くお辞儀をした。「エレンダも同行しています」

 カツタカは自身の覚え書きから目を上げた――声こそ上げなかったが、明らかに驚いていた。「それは確かなのですか?」

「かの一団の中に、奇怪な光を発している人物がおりました」とそのカンチャタンは語った。「松明の光や太陽石ではありません。薄い光で、まるで玉を繋いだ冠がその人物の後頭部に浮かんでいるように見えました」兵士は目を見開きながら言った。「その光は尊者だけに与えられると聞いております」

「なるほど」カツタカの顔に笑みが浮かんだ。「報告に感謝します。体をお拭きなさい。下がって結構です」

 サヒーリは、ファートリがエレンダについて話してくれた少しの事柄を思い出した。最初の吸血鬼、薄暮の軍団との名もなき初期の戦い。不滅の太陽をめぐるオラーズカへの競争、そしてエレンダが同胞へと向けた叱責のことを。

 これは歴史の旋盤で加工された部品が納まるべきところに納まっていく場面か。

 扉がノックされた。灯台小屋の中が静まった。

「どうぞお入りください」とカツタカが言った。

 扉は勢いよく開いた。黒い人影が四つ、尖った兜を戸枠の下にくぐらせようと身を屈めながら入ってきた。彼らの足音は重く、板張りの床に靴音を立て、蝋引き加工がされた外套の中では鎧が擦れて小さく金属音を鳴らした。彼らはひとりまたひとりと入室し、剣を鞘ごと取り外して扉の脇の壁に立てかけた。

 サヒーリは入ってきた男たちのむっつりとした顔を観察した。青白い肌で、灰色の目は内側から柔らかな銀の光で輝いていた。その厳粛さが、極寒のごとく彼らから放たれていた。彼らは太陽帝国の兵士と高官の一団を見渡し、表情は平静を装っていたが、手は――カンチャタンたちと同じく――普段武器をぶら下げているベルトに空いた輪の近くに置いていた。兵士のひとりが、その状況をよしとして外へと出ていった。少しして、聖エレンダが入ってきた。

 その尊者は小屋に入るとフードを脱ぎ、その顔と、頭に戴いた絶えず柔らかく光る王冠を露わにした。光輪、列聖と崇敬の印――このただひとりの人物が得ている神聖の付与。エレンダの肌は同胞と同じ灰色だったが、彼らのような厳粛さはなかった。その頬は赤らんでいて、まるで寒さと風で顔が荒れたか――あるいは、むしろ食事直後のようだった。尊者は太陽帝国の一行を、柔らかく暖かい金色に輝く目で見渡した。彼女は微笑み、そしてサヒーリにはその唇の下から牙の先端が突き出ているのが見えた。

「エレンダ殿」カツタカは立ち上がり言った。「どうぞお座りください。そして兵士の方々には緊張を解くようにお伝えください。私たちは、この全員が協力者同士なのですから」

「協力者ですか」聖エレンダは言った。「協力者同士」そしてその言葉を味わうかのように繰り返した。「私は友人同士と呼ぶ方が好みですね」

「私たちがそうだと?」カツタカは聞いた。

「それが我らのあるべき姿です」とエレンダは答えた。彼女は外套を脱ぎ、椅子へと腰かけた。「今夜が終われば、我らの友人はこの部屋にいる者たちだけとなります。国は灰牙毒蛇の巣となることでしょう。信頼あるいは敬意によって――我らは友人であらねばなりません」

「友人、そうですね」カツタカは言った。「そのために集まったのです。始めましょう」

 エレンダは身を乗り出して聞く姿勢に入った。

 サヒーリはペンの先をインクに浸した。

「皇帝は私たちを戦争へと導くでしょう」カツタカは言った。「彼は子供です。私の弟アトラチャンは王位を熱望していますが、決してそれは手に入らないため、代わりに皇帝の心へと入り込んだのです。弟は征服の夢を少年に囁きながら、夕餉の皿を甘い菓子と共に積み上げるかのごとく、軍艦と連隊を要求しています。どれほどの準備をしたとしても、我が国の民はさらなる戦争に耐えることはできません。貴女がたも同様ではありませんか」

 エレンダは眉を上げた。「そうお考えですか?」

「私は存じております」とカツタカは返した。「教会と女王。『灰牙毒蛇の巣』。間違っているでしょうか?」

 エレンダは微笑んだ。「間違ってはおりません。「野心を吹き込む弟さんと言いなりの皇帝は、我が国の狂信者たちと同じようなものでしょう。大司教フェインは薄暮教会を分裂させまいと奮闘しています。復活を望む声は……大きなものです。オラーズカへの二度目の遠征が進行中であることはご存知でしょうか?」

「認識しています」カツタカは言った。「貴女によるものろうだと推測しておりましたが」

 サヒーリはメモ書きから顔を上げた。そして軍団がオラーズカへと再び遠征していることなど全く知らなかった、と迂闊に口走る直前にかろうじて思いとどまった。

「我らによるものではありません」かぶりを振りながらエレンダは言った。「不滅の太陽が消え去って以来、女王はもはやイクサラン大陸に目を向けてはおりません。その一団は反逆者の秘儀司祭の一人、ヴィト・キハノ・デ・パサモンテが率いています。教会は認可しておりません。その名は女王湾会社――女王の事業のひとつですが、今やアクロゾズをアルタ・トレゾンに呼び戻すことで血の時代をもたらすことができると考える、後進的で血に飢えた終末論的狂信者たちが横行しているのです」

「その者たちにそれができるというのですか?」

「はい、止められない限りは」

 サヒーリの手が痛んだ。彼女は内容を書き記している間、指の関節が白くなるほど強くペンを握りしめていた。エレンダが語る声は軽快で、サヒーリにはまるでその内容が深刻ではないようにも聞こえた。彼女は自分を列聖した教会が分裂の危機にあること、抑えようが抑えまいがアルタ・トレゾンが自らを引き裂くことでしか終われない終末論的熱狂の沸点の低さについて話した。ファートリが危険だとも。その声は震えていて当然だろうに。助力を求めているのだろうに。

「ファートリがその者たちを止めるでしょう」カツタカは言った。「弟がオラーズカで何を成し遂げたいと望んでいようとも、太陽帝国の兵士たちは自分たちの領土内で薄暮の軍団に遭遇したら何をすべきかを知っています」

 何も知らされていないファートリ。サヒーリは卓越しに、エレンダの後ろに控えている軍団の兵士たちを見た。大柄な男たちはそれぞれ身長6フィートを超えており、全員が分厚く光沢のある金色の板金鎧を着込んでいる。薔薇、茨、そして跪く人物の食刻。それらの腕は、この鎧をまとう殺戮者たちの威容を守る金属を保持するかのように上げられていた。

「もしアクロゾズがトレゾンをひと薙ぎすれば、国は内部分裂するでしょう」とエレンダは繰り返した。その表情から明るさが失われた。一瞬、彼女の頬を満たしていた艶が揺らいだ。「そのようなことはさせません」と彼女はつぶやいた。「そして貴女も、皇帝を戦争に導くようなことを弟さんにさせてはなりません」

 憤りを感じつつも、サヒーリは自分がエレンダに惹かれていることに気づいた。神性によるものだ、と彼女は推測した。当然のことだ。神への接近は――どんな神であっても――抗いがたいもの。その魅力は多元宇宙の基本的な原則であり、定命の身ではより強く感じるのだと彼女は理解していた。サヒーリは追従したいという欲求を押しのけ、代わりに、エレンダに残存する定命性についてのわずかな要素の調査へと意識を切り替えた。彼女の長い黒髪には灰色の房がある。その鼻筋には僅かにそばかすが散っている。

 エレンダの両目が鋼のように冷たく光った。

「何者かがいるようです」と彼女は言った。そして座ったまま振り返ったその時、扉が勢いよく開いた。

 幅広の人影が戸枠を塞いでおり、轟音を立てて吹き荒ぶ風に耐えるかのようにその両側をそれぞれの手で掴んでいた。その背後には、風雨から身を守るための多様な鎧や衣服を身に着け、傷だらけで補修されたカットラスを持ったオークと人間の集団が立っていた。

 動揺が沸き起こった。エレンダの近衛兵とカツタカのカンチャタンは叫び、卓から立ち上がり、この新たな一団からそれぞれの主君を守るように動いた。闖入者たちに塞がれて剣を取りには行けなかったが、全員が短剣、棍棒、スパイク、その他の隠し武器を抜いて振りかざした。サヒーリ自身も立ち上がって魔法を使い、金属のペン先を剃刀刃の軸へと編み上げた。

「やめな!」怒鳴り声が響いた。風が唸る音や怒れる叫びの只中で命令を伝えることに慣れている女性のひと声。「全員武器をひっこめるんだよ!」その女性はまっすぐな刃のカットラスを振りかざしたまま小屋へと踏み込んできた。老いていて皺があり、その肌は日焼けしていたが、オークのような力強さをその身に感じさせた。格好は船乗りのもの――分厚い毛織物のコートを羽織って、頭には二角帽を被り、そして塩で汚れた頑丈なブーツを履いていた。

 カツタカはカンチャタンに素早く命じたが、カンチャタンたちは隠し武器をしっかりと構えたまま一歩も引かなかった。最高司祭自身も小さなナイフを握りしめ、身構えたままでいた。

「その方の言うとおりにしましょう」エレンダは立ち上がりながらそう言った。彼女は一番近くにいた近衛兵の肩に手を置き、武器を下げるように合図した。「ベケット提督」エレンダは突入してきた女性に話しかけた。「貴女がおいでになるとは予想しておりませんでした」

「お前さんは国と国との言い争いのためにウチの船に乗ってウチの島に来てるんだよ」鉄面提督ベケットはエレンダに剣先を向けながら笑みを浮かべた。「積み荷がそんなに貴重な時は、運び屋の働きについてもっと可能性を考えておくもんだよ、お姉ちゃん」

「何が欲しいのですか?」カツタカが口をはさんだ。「金ですか? 情報ですか? あなたがたの傭兵への支払いは既に行いました。貸し借りはありません」

 ベケットはカツタカに視線を向けたが、彼女のカットラスはそのまま動かなかった。その後ろで船員たちが含み笑いを漏らした。

「黙りな」ベケットはきっぱりと言った。薄い金色の髪が一房、その顔に滑り落ちた。彼女は空いた手でそれを払いのけ、額の雨と汗をぬぐった。そして値踏みするように、エレンダとカツタカを交互に見つめた。

 サヒーリは金線の針をほどいて、ただのペンに戻した。この部屋にはイクサラン次元で最も権力を持つ三人の人物がいる。薄暮教会の生ける聖女、尊者エレンダ。太陽帝国の最高司祭、カツタカ・フィシントリ。鉄面連合の指導者、ベケット提督。彼女は鉄面連合とベケット提督についてファートリが語ってくれた内容を思い出そうとした。だが海賊であること、宝を探し求めていること、そして盗まれた魔法に何か関わっているという以外の詳細はわからないことに気づいた。

「確かに、お前さんもそのお仲間もアタシへの支払いは済ませてる」とベケットは言った。「だけどアタシゃ商人でも銀行でもないんだよ」

 カツタカはエレンダを見つめたが、彼女は今も神性の祝福を放ちながら、際立った感情を出さずにいた。

「話を聞きましょう」カツタカはベケットに目線を送らずに言い、次いでサヒーリへと命じた。「書き留めるように」

「よく記しとくんだね」ベケットは剣を収めながらサヒーリに言った。「アタシは国を作る」と提督は続けた。「自由人の地さ、この大海原、そしてここのすべての島々の」彼女は足元の地面を手振りで示した。「そしてあそこだ」次いで指をさした方向は、西に遠く離れたイクサラン。「あそこじゃでっかい勝負が始まってる。お前さんらは王位と王冠をコインの代わりに賭けなきゃならない。卓には国王殺しと同胞殺しが座ってて、手札はほとんど配り終わってる」ベケットは話しながら、カツタカとエレンダとに剣先をひらめかせた。「さて、お嬢さんがた、ここにはアタシもいて、獲物を握りしめてる」ベケットの目は空を切り取ったように輝き澄んでいた。「もう一度手札を配りなおそうじゃないか。アタシの連合が対等な立場で、この勝負に参加するのを認めてもらうよ」

「お断りしたなら?」エレンダが尋ねた。

「そしたらここでお前さんらを殺してやるよ。トレゾンもイクサランも大砲の煙だらけになるだろうね。鉄面連合の船が水平線に見えない限り、誰も二度と大海原に出られなくなる。海は墓場に、陸は監獄になるってことだ」

 沈黙。サヒーリの編みなおしたペンがベケット提督の口述の最後の部分を引っかき記す音だけが聞こえていた。

 ベケットは再びカットラスを振り上げ、それを小屋の床板に振り下ろして深く突き刺した。「返事は」と彼女は要求した。「どうなんだい? 国か、それとも大砲かい?」

「図太い運び屋だこと」カツタカはつぶやき、腕を組んだ。

「それがお前さんの答えかい?」

「お待ちなさい」カツタカは言った。「考えているところです」

「この海賊は我々を人質にしています」とエレンダは困惑気味に言った。「考えるべきこととは?」

「彼女の申し出に利点がないわけではありません」

「我々の味方になって下さるのですか、提督?」とエレンダは尋ねた。

「総裁だよ」ベケットはエレンダの言葉を訂正した。「そうだね、アタシらの大義に貢献するって誓う奴になら、艦隊を提供するって誓ってやろうじゃないか」

「それは『はい』ということではありませんね」エレンダが言った。

「お前さんもまだ答えを決めてないじゃないか」とベケットは言い返した。

「『はい』と言うべきです」サヒーリが声を上げた。

 部屋はまたも静まり返った。

「何と仰いました?」エレンダはサヒーリに向きなおって聞いた。

「そちらの方の要求を受け入れるべきです」サヒーリは言った。彼女はエレンダよりも厄介な相手に対峙したこともあったが、尊者の視線には気力を奪われるようだった。平静さを失ってしまいそうだった。定命とそうでないものとを隔てる覆いに開いた小さな穴から垣間見る神性。彼女自身が信じるものではないが、それでもなお畏怖の念を抱かざるを得ない。サヒーリは咳払いをして続けた。「お二方には味方が必要です。お二人とも、残り時間がわからないまま自分たちに不利に働く時限装置と戦っています」とサヒーリは述べた。「ベケット総裁がおっしゃるように――これは勝負です。国がかかっています。今すぐ対処して海を確保するのは」サヒーリは続けた。「理にかなっています」

「私たちの歴史について、貴女はどの程度把握していますか?」カツタカは尋ねた。「ファイレクシア戦争以前、鉄面連合は我が国の沿岸を荒らし回っていました。ファートリはそのことについては話していましたか?」

「私は少ししか知りません」サヒーリは認めた。「主に、オラーズカへの競争についてです」

「鉄面連合は私たちの漁船団を襲撃し、神殿を略奪しました」とカツタカは言った。「何千人という臣民が殺害され、何百という秘宝が持ち去られました」カツタカは毅然と話したが、そこに怒りは無かった。「かの戦争により、私たちは団結を余儀なくされました。絆は深まりました――ただし、傷跡という形で。その傷はまだ痛むのです」

「ベケット殿の要求に同意するのは困難ですね」とエレンダも同意した。「海を要求する海賊と漂流者の国ですか」彼女はため息をついた。「果たして、どのようなものになるのでしょうか」

「じゃあ吸血鬼の女王のほうがマシだってかい?」ベケットは笑った。

「我々は国を認めてほしいと懇願する必要はありませんね」とエレンダは言い返した。

「慈悲を乞うことになるよ」ベケットはカットラスに手を伸ばしながら怒鳴り声を上げた。

「船は何隻あるのですか?」サヒーリが口をはさんだ。「ベケット提督。そちらの船は」

 ベケット提督はカットラスを手放した。「これ以上話を先に進めるには担保が必要だよ」彼女はサヒーリに向かって話しかけた。

「カツタカさん、書記の方には黙っていて頂く方が――」

「そうですね」カツタカは言った。彼女はエレンダに簡素な身振りを向けて黙らせた。尊者はカツタカの態度に驚いてきょとんとし、サヒーリも従うことにした。「情報を公正に取引したいということですか?」とカツタカはベケットに向かって聞いた。

「そっちが出すなら、こっちも出してやるよ」ベケットは頷いた。

 カツタカは大きく、かすれた深呼吸をした。「皇帝は一万隻からなる新たな艦隊を建造中です。彼はそれを用いてアルタ・トレゾンを侵略するつもりです」

「それで今のところ何隻できてるんだい?」

「少なくとも二百隻は」

「アタシらの情報とも一致するね」ベケットは頷いた。「ウチは六百隻の軍艦がいつでも動かせる状態さ。乗組員は全員手練れ、海向こうのでかいドックには予備の船だってある。薄暮の軍団が持ってる軍艦はたった八十隻くらいで、あとは商船や交易船だね。合ってるかい?」彼女はエレンダを見ながら尋ねた。

「なぜ私がそれに答えるとお考えなのですか?」

「お前さんの手番だからだよ。アタシの駒、お前さんの駒、カツタカの駒――全部が卓に並んでるんだ。共存か、共倒れか。条件を話し合ってるんだ、そうだねカツタカ?」

「その通りです」カツタカも同意した。「鉄面連合はすでにこの企てに組み込まれています、エレンダ殿。私たちがそちらの土地で雇った密偵、そちらが私たちの土地で雇った密偵。私たちが乗ってきた二隻の船は、敵に見つかることなくここに到着しました。まさにこの島で――この方々はずっと私達と共に卓についていたのです。ベケット殿は当座の同盟を提案しています。承諾すれば全員が望む結果を得られます」

 エレンダはしばし黙りこくって部屋を見渡した。話し始めたとき、その声はうんざりした様子で、矜持を傷つけられた憤慨があった。「貴女がたに私掠免許状を発行しましょう」エレンダはベケットに向けて言った。「ヴィトとその侍者たちがアルタ・トレゾンに帰還するのを阻止してください。オラーズカで殺しても、海に沈めても、方法は問いません。それが出来たなら、女王が連合の主張を正当なものとして承認するよう取り計らいましょう。国家と教会への奉仕に感謝致します」

 ベケットはにやりと笑い、エレンダに向かって手を差し伸べた。エレンダはその手を取り、渋々といった表情で握手した。

「それでお前さんは?」ベケットは手を差し出しながらカツタカに尋ねた。「アタシらの国のために何をしてくれるんだい?」

「私たちの第二黎明艦隊を差し出しましょう」カツタカは答えた。「夏の終わりに最初のハリケーンが到来し、安全な建造期間の終わりを告げます。そうしたならドック内の船を燃やしましょう。帝国軍を首都から離れた沿岸に引き付けてください。皇帝と私の弟が孤立無援となるように」

 ベケットは手を伸ばした。「交渉成立だ」

「最高司祭様は握手などしない」カツタカのカンチャタンのひとりがそう言い、前に出てベケットとカツタカの間に割り込んだ。ベケットは手を引き上げ、申し訳ないとでも言うように微笑んだ。

 カツタカは外套の折り目に手をやり、その下の衣類から羽を一枚むしり取ってベケットへと差し出した。「私がパチャチュパを統治するときにこれを返して頂けたなら、貴女の国を貴女に与えましょう」

「それだけかい?」ベケットは羽を受け取りながら聞いた。

「それだけです」

「その後は?」ベケットは尋ねた。「貿易、同盟、外交とあるね? 対等の条件で相手してくれるのかい?」

「それが貴女の国であると言える以上のことは何も約束しませんよ、総裁」とカツタカは答えた。彼女の笑顔はラプトルのそれだった。「ある国がその国境で別の国を認識するだけです」

 ベケットはその言葉をよく考えた。彼女は羽を船員の一人に渡し、船員はそれを防水袋にしっかりとしまい込んだ。「これで終わりだよ」と彼女は言った。

「終わりです」カツタカは同意した。

「終わりですね」エレンダも続いた。

「終わりました」とサヒーリは言い、会談の書き起こしを終えた。彼女はその紙を卓の上に置き、その上にペンを置いて後ろに下がった。三人の首脳は一人ずつ署名し、契約を締結した。サヒーリはインクに息を吹きかけて乾かし、署名が記されたその書類をきつく巻いた。

「金属を」サヒーリは部屋の兵士たちを見ながら言った。「コインを卓に出してもらえますか」

 兵士たちは不承不承ポケットや財布からコインを取り出すと、前に出て卓の上に放り投げた。サヒーリはこのコインの雨を用い、銅、銀、そして金からなる上質な筒をこの書類に纏わせた。彼女はその表面に金線細工の模様を軽く刻みはしたが、確かに密閉されるよう注意を払った。作業を終えると、彼女は継ぎ目のない金属の円筒を持ち上げて自身の作品を確認した。

「誰がその書類を持っていくんだい?」ベケットが聞いた。

「エレンダ殿に」カツタカは言った。「これを受領書と見なしてください。中の文書を破壊せずにこの容器を開封できるのはサヒーリだけです。そうですね?」

「その通りです」サヒーリは答えた。「容器を切ったり溶かしたりすると、中の紙は破損し、この取引は無効となります」

「もしかすると、これを破壊したくなるかもしれませんね」とエレンダはつぶやいた。彼女は円筒を手に持ってくるりと回し、兵士の一人に渡した。

「それが明らかになれば、お互いに破滅ですよ」カツタカはエレンダを見つめながら言った。「そしてこれは合意に基づいて支払われるべき変更不能の債務です」と彼女はベケットに向けて語った。

「アタシはこれで十分満足さ」ベケットは頷きながら言うと、カットラスを床板から引き抜いた。「それじゃあこれでおいとまするよ」剣を鞘に滑り込ませながら彼女は言った。「お前さん方と取引ができてよかったよ。ここまで乗ってきた船には補給もしとくし、乗組員も新しくして国への航海の準備をしといてやる。幸運を祈ってるよ」そして去り際に付け加えた。「次は新しくなった世界で会おうじゃないか」

 ベケットとその手下たちは小屋から出て、吹き荒ぶ風に向かって歓声を上げながら、コートをしっかりと着込んで唸る嵐の中へと去っていった。

「世界の新秩序がたった三十分で決まるなんて」エレンダは言った。彼女は立ち上がり、兵士たちに身振りで意思を示した。「私も失礼致します、最高司祭さん」と彼女はカツタカに話しかけた。「報告を伝えるべき女王と、団結させるべき教会がありますので」そしてエレンダもベケットと同じように、開いた扉の前で立ち止まった。「新しくなった世界でお会いしましょう」だがその声には聖人らしからぬ皮肉の刺々しさが混じっていた。彼女はフードをかぶって退出し、灯台小屋にはサヒーリ、カツタカ、そして最高司祭のカンチャタン兵のみが残された。

 尊者が去った後は沈黙が続いた。雨がタイル張りの屋根を打ち、風が鎧戸を閉めた窓枠をがたがたと揺らした。カツタカは沈黙したまま動かず、眉をひそめ、ベケットが床にカットラスを突き刺した穴を見つめた。いや、サヒーリが思うに更にその下、この次元の奥底を。両国の代理人たちが互いを相手どって競争を繰り広げている場所を。

 この外交術はサヒーリにとってぞっとするものだった。でたらめにも程がある。経費、効率、信頼、そして人命が考慮されていない。同盟関係は変動し、採択は事実ではなく信念と信頼の飛躍によって下された。友人同士が、競争相手同士が、絶えず仮面を交換し合う。カラデシュの場合と同様に、権力は決して均衡を保つことはなく、常に争奪戦に晒されている。そして複数の関係者が複数の関係者に関して行った決定は、いかなるものでも最終的な決定とはならない。とはいえサヒーリは、単一権力による専制君主の安定論も否定していた。独裁者の気まぐれで利己的な目的は、一貫して致命的な結末を迎える。多数には安定がなく、個人には正義がない――平和はどこにあるというのか?

「サヒーリさん」カツタカはようやく口を開いた。

「はい、最高司祭様」

「ファートリは私を支持してくれるでしょうか?」

 サヒーリは躊躇した。カツタカは待ち、サヒーリは自分がいかに無防備であるかをはっきりと認識していた。この島でただひとりで、最高司祭の兵士たちに取り囲まれている。

「彼女は、そうするだろうと私に約束しました」

「そうは言っても、ファートリのことは気がかりです。彼女は帝国の良心です。臣民の心と声の代弁者です。その一方で帝国の聖文執筆者でもあります」

「彼女はあなたの大義をどれほど称賛しているか、私に語ってくれました」とサヒーリは言った。「彼女は私に、この会議で自分の声として話すよう頼みました」

「語り、記し、賛美する、ですか」カツタカはかぶりを振った。彼女は立ち上がり、扉へ向かって身振りをした。兵士たちが一斉に行動を開始した。船に向かうために急いで小屋を出たものもいれば、カツタカの護衛に回るものもいた。「いざ行動する時が来たなら、私に必要なのは剣だけです。今私を尊敬し、私について好意的に記したり話したりする人々の多くは皇帝の側につくでしょう」彼女はサヒーリに向かって手を振った。「私たちは自然秩序を破壊しようとしています。私たちは人々に、自分たちの未来を守るためにもう一度尽力せよと求めることになります。したがって、必要なのは言葉ではなく――行動です。私には剣が必要です。戦場詩人が必要なのです」

 答えがそこにあることにサヒーリは気づいた。平和に向けた解決策は終わりのない方程式だ。実践中に常に修正し続けなければならない青写真。一人で設計を完成させるという傲慢な夢を捨て、設計を記すためのペンを握るのに苦心するという点に目的を見いだす。そこから始めよう。上達を目指して。そうすれば少なくとも、従属者ではなく演者にはなれる。

 自らに向けた言葉が浮かんだ――剣を手に取りなさい、サヒーリ。これが答えだ。

「皇帝に付き従って戦争に行くのは当然のことです」カツタカは砂利を擦るような激しい声で続けた。「海の向こうの人々を憎むのは当然のこと、ですがティロナーリの光は彼らにも輝きを与えるのです。私は不自然を成そうとしているのです」

「ファートリと私は最高司祭様と共に」サヒーリはむしろ自分に向けて繰り返した。あの市場での恋人の姿を思い出しながら――カツタカと同じく激しい声色で、同じ不安を、同じ希望を抱いていた。

 カツタカはサヒーリを見つめ続けた。女性ふたりの身長はほぼ同じだったが、その瞬間、最高司祭は灰色の空に伸びる火柱のように立っていた。歴史と、来たるべき日々を体現するかのように。

 カツタカはサヒーリに手を差し出した。サヒーリもそれに応じた。女性ふたりは握手を交わし、神殿兵に付き添われながら、吹き荒れる強風の中を歩きだした。

 サヒーリはカツタカの後について海岸へと向かい、さびれた小屋から出てセン・ガエルの暗い砂浜を横切った。
ボートは浅瀬で揺られていたが、鉄面連合の海賊たちと、膝まで浸かって防波堤の上に立っていたカツタカのカンチャタン二人によって係留されていた。チトラーティはすでにボートの中に座って彼女たちを待っていた。冷たい波が砂を押し上げ、足首の周りでさざ波を立ててうねった。冷気は鋭く、清冽だった。上空の嵐雲から激しい雨が降り注ぎ、海はうねり、遠くで甲板長が吹く笛の音が鳴り響いた。

 これがカツタカの世界なのだ、とサヒーリは思った。カツタカとファートリの。彼女は短い祈りを囁いた。はるか昔に丸暗記させられた古い経典のもの。けれど今は、たとえその言葉が発せられた瞬間だけだとしても、心からの祈りだった。彼女はカンチャタンが差し出した手を握り、水からボートへと乗り込み、チトラーティの隣に座り、他の兵士たちも続く中、雨具をしっかりと体に巻きつけた。

 鉄面連合の船員たちの助けを借りて彼らは砂を押しのけ、オールを外し、高波に逆らって漕ぎだした。遠くで待つ、イクサランへと帰還するための船に向かって。次の重要な勝負が、すぐに始まるのだ。

(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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