MAGIC STORY

イクサラン：失われし洞窟

EPISODE 01

メインストーリー第1話

Valerie Valdes

2023年10月21日

原文はこちら

クイント

　石造りの薄暗い廊下から木漏れ日の中へプレインズウォークすると、湿ったタオルのように蒸し暑さがクイントを叩いた。それは彼に居残り沼を思い出させたが、ここの地面は固く、木に絡みついた蔓に咲く鐘の形をした花からは死臭ではなく心地良い匂いを感じた。クイントは小さな円を描くようにゆっくりと歩き、興味深く辺りの様子を探った。そして小さな昆虫の雲に踏み入った。彼は口に入った虫を必死に吐き出し、鼻を激しく振り回し、そして岩につまずいて片膝をついた。

　相変わらず鈍い、クイントはそう自身を叱りつけた。少なくとも誰かに見られてはいない。

　いや、不運にもそうではなかった。顔を上げると、開いた大口が危険なほど近くにあった。ずらりと並ぶ、尖って湾曲した歯。その持ち主は鮮やかな色の羽に覆われた二足歩行の生物で、鋭い爪が地面に溝を刻んでいた。恐怖と驚嘆にクイントの心臓が早鐘を打った。ほとんどは恐怖だったが。思うにこれが、イクサランの悪名高い恐竜の一体なのだろう。

アート：Néstor Ossandón Leal

　うなり声と金切り声の中間の音とともに、それは飛びかかってきた。

　クイントは横へと身をかわし、だがもう一体の恐竜の正面に着地した。彼らには挟み撃ちをするほどの知能がある、これはまずい。

　三体目の、もっと大きな生物が加わった。彼らはクイントを取り囲みながら見つめ、丸く輝く瞳は獲物のわずかな身動きも見逃さなかった。魔法を使って枝を頭上に落とす、あるいは同士討ちをさせられるだろうか？クイントは彼らを追い払うための印を宙に描き始めた。だが呪文を完成させるよりも早く、恐竜たちは動きを止めて彼の左を見た。

　崩れた石の建造物から何者かが踏み出した。横顔が見えた。褐色の肌、きつく結んだ黒髪。その筋肉質の腕、身に着けた腕甲、ベルトに差した剣は、その女性が戦士であると示唆していた。だがその滑らかな肌は若者のもの。十代後半、あるいは二十代前半ほどだろう。

「パントラザ、来なさい」すると従順にも三体目の恐竜が小走りでその女性の隣へ向かい、そして自分の背は高すぎるとでもいうように視線の高さを合わせた。彼女が手を一振りすると、もう二体は訓練されたペットのように退散し、密林の中へと姿を消した。

　その女性はクイントに向き直った。茶色の瞳は片方が金属の円盤に隠されていた。眼帯？「クイントリウス・カンドさんですか？」

「そうです」クイントは返答し、蔓に覆われた廃墟に目をやった。ピラミッドだろうか？材質は石灰岩？彼は努力して自身の救い主へと意識を移した。「クイントと呼んでください。助けて頂いてありがとうございます。貴女は？」

「ウェイタといいます。戦場詩人様から伺っております」

「早くお会いしたいですよ」クイントは耳をはためかせて顔をあおいだ。柱落としの乾いた暑さに比べたら、イクサランはサウナのようだ。「初めてここにやって来た者は皆、こんなふうに恐竜の歓迎パーティーを受けるのですか？」

「いいえ。奇妙な場所に見知らぬ人物が現れることがあるため、巡回を強化しているのです。あの戦争の後です。用心しすぎるということはありません」

「確かにそうですね」クイントは廃墟へと近づいた。「これがオラーズカですか？サヒーリさんから伺っていますが、もっと黄金で飾られているかと」

　ウェイタは彼の視線を追いかけた。「これはオラーズカではありませんよ。あちらです」

　クイントは彼女の後を追った。木々の隙間から陽光にきらめく金属が見えた。彼はその光に向かって進み、日差しに手をかざしながら群葉を抜け、そして見た――眼下の谷に、まばゆく輝くあの黄金都市が一望できた。針のように鋭い尖塔は青空に届くよう。磨き上げられた道と建物は彼方へと伸び、そしてその中央には巨大な神殿がきらめく山のようにそびえていた。

「すごい。黄金があんなにも」彼は両目に焼き付いた残像をぬぐった。「案内しては頂けませんでしょうか？お忙しいかとは思いますが。あの都市をよくご存知なのですか？」

「それなりには」ウェイタはそう返答し、胸の前で腕を組んだ。

「間違いなく私よりはご存知でしょう」

「そうですね」ウェイタは笑みを浮かべた。「クイントさんは相手をすぐに信用するのですね」

「貴女は恐竜の昼食になりそうだったロクソドンを助けてくれました。私にとってはそれで充分ですよ」

　ふたりは徒歩で山腹を下り、街の門の上にそびえ立つアーチに向かった。都は人々や荷車や恐竜でごったがえしていた。翼のような紋章がついた銀色の兜をかぶり、明るい橙色の羽根で飾られた槍を持つ衛兵がそれらを見守っていた。幅広の大通りから人々は市場へ流れ、そこでは同心円状に露店や布の覆いが並んでいた。それらの中央には噴水があり、何本もの水路から水が流れ込んでいた。いくつかの視線がクイントを追いかけたが、彼はそれらを無視してウェイタの後に続き、歩きながら辺りを観察した――棘だらけで薄紅色の果物、宝石が散りばめられた首飾り。この場所が戦争に痛めつけられたとは信じがたく、だが傷はまだ残っていた。倒壊した建物に、えぐれた壁に、足元のでこぼこして不揃いな敷石の色に。

　ふたりは宮殿の入り口に辿り着き、ウェイタが衛兵と話す一方でクイントはその壁の意匠を見つめた。赤と白の塗料が年月に色あせていた。彼はスフィンクスの描写を発見して驚いた――彼らの影響がこの次元にも及んでいるとは思っていなかった。このスフィンクスはもっと小さなひとりの人物へと何かを授けているように見えた。それとも贈り物を受け取っているのだろうか？だが調査を続けるよりも早く、別の衛兵が現れてふたりを連れ出した。行き先は巨大なピラミッドではなくそれを迂回し、都の外れ近くの簡素な、魔法で部分的に壊された建物。扉は酸に腐食されて穴だらけになっており、壁に残る焦げ跡はかつてそこに人が立っていたらしく陰惨な輪郭を描いていた。

「こちらです」ウェイタが言い、クイントへと先に行くよう身振りで示した。

アート：Magali Villeneuve

　後方に階段だけがある、がらんとした部屋にクイントは踏み入った。それを下っていくと声が漂ってきた。やがてそこはずっと広い部屋となり、辺りは壁画とレリーフで覆われていた。洞窟から現れた戦士たちが、後頭部に太陽の印を浮かべたひとりの人物を崇拝している絵。床には絵文字が刻まれた銅板が幾つも並べられ、そこには翡翠や辰砂、宝石――見間違えでなければ琥珀、ターコイズ、薔薇水晶――が埋め込まれていた。別の壁にはまた別の絵があった。戦士たちがありえないほど背の高い二足歩行の生物と戦っており、金、銀、銅でできた一枚の扉が床から天井まで伸びていた。その扉の中には長方形へこみがあり、銅板はそこにはめ込まれていたと推測できた。

　クイントが入ってくると、ふたりの女性が会話を中断した。ふたりとも褐色の肌に黒い髪と瞳、だが共通点はそれだけだった。サヒーリの方が長身で、鮮明な印象をまとい、深紅のドレスをまとって精巧な黄金の装身具で飾っていた。もうひとりは――おそらくファートリだろう――ウェイタと同じような戦士の身のこなしで、銀の鎧もクイントの推測を後押ししていた。彼女は銅板に囲まれて床に腰を下ろしており、だが恐竜のパントラザが駆け寄って人懐こい大型犬のように彼女を突き倒した。

「クイントさん、辿り着けたのですね！」サヒーリが声をあげ、彼の隣へと駆けた。「イクサランにようこそ。迎えに行けなくてごめんなさい。何せ領界路は……プレインズウォークよりも融通がきかないものだから。こちらは私のパートナー、ファートリ」

「お会いできて光栄です」ファートリは恐竜の頭の影から彼の顔を見ようと努めた。「パントラザも外で運動してきてもう少し疲れていると思っていたんですが、どうやら間違いだったみたいで」

「少なくとも、私にこっそり忍び寄るのを楽しんではいましたよ」クイントは答えた。「それはそれとして、お招きいただきありがとうございます。コインの帝国の形跡を貴女が見つけたとサヒーリさんから聞いた時は、是非この目で見なければと思いました」

「遠い昔に滅んだようですが、それが何なのかはわかったのですか？」サヒーリは尋ね、クイントの腕に軽く触れた。

「まだです。様々な次元にその痕跡を追ってきましたが、未だに謎です。コインの帝国というのもその名前ですらなく、ただ私がそう呼んでいるだけの……」彼は言葉を切り、銅板を見つめた。「私の助けが必要というのはこれですか？」

「そうです」ファートリは言い、サヒーリへと微笑みかけた。「銅板がこれを開く鍵だと信じています」彼女は巨大な扉を示した。「絵文字は一本の詩を形成しており、私が翻訳した部分は、人類の発祥の地と神々の故郷がこの向こうのどこかにあると示唆しています」

「それはすごいですね」クイントは目を細くした。興奮に鼻息を鳴らしながら、彼は鼻で銅板の一枚を示した。「そのコインです！まるでこの銅板は――」

「ファートリ、まだ下にいるの？時々出てこないと太陽に顔を忘れられるよ」ひとりの男性が階段を降りてきた。筋肉質で鎧をまとい、落ち着きながらもどこか楽しんでいるような雰囲気をまとっていた。

　ファートリはその男へと笑みを向けた。「インティ、いらっしゃい。また私が食事を抜かないようにって、妹か誰かに送り込まれたの？」

　パントラザの冠毛を掻いてやりながら、インティはにやりとした。「お客さんが来たって聞いてね。それともちろん、君とサヒーリの様子を確認しに。従姉さんがどんなに石頭でも古い岩は食べられないだろ」

「クイントさん、彼がインティです」ファートリが言った。「太陽の執事長にして恐竜乗り、そしてファイレクシア戦争の英雄です」

「そしてファートリの従弟くんね」サヒーリが付け加えた。

　銅板に記されたコインをこっそり見つめながら、クイントは礼儀正しく頭を下げた。

「聞かれる前に言っておくわね」ファートリが片手を挙げた。「薄暮の軍団に使えるような武器や魔法は何も見つけていないわ」

　クイントは片耳を彼女の方向へと広げた。武器？薄暮の軍団？

「陛下はますます苛立ってる」インティは慎重に、私情を込めない声で言った。まるで誰かの言葉を繰り返しているかのように。「他の方法で扉を開けることはできないのかって、また聞かれたよ」

「皇帝はこれを壊して進みたがっているの」サヒーリが説明した。

　クイントは顔をしかめた。途方もなく貴重な遺物を破壊する？そんなことを考えるなんて。

「根の浅い木は嵐に耐えられないのよ」ファートリはかぶりを振った。「陛下に伝えて、もうすぐ終わるって」

「じゃあ僕たちは準備を続けるよ」インティが言った。「本当にこれはただの押し入れじゃないんだよね？もしゴムボールで満杯とかだったら、一生からかってやるからね」

「大丈夫」とファートリ。「長旅に備えなさい。一勝負じゃなくてね」

　インティは退出し、パントラザは隅に丸まった。サヒーリはファートリの肩を揉みはじめた。ファートリは溜息をつき、首を回した。

「貴女はよくやっているわ」とサヒーリ。

「サヒーリだって。製作は順調に進んでるの？」

　サヒーリは笑い声をあげた。「火を吹かせられるかしら、なんて大声で言ったのが間違いだったわ。皇帝陛下がすごく興味を持ってしまったの」

　正直なところ、それはクイントも同じだった。サヒーリのアーティファクト技術は伝説的と言っていい。ストリクスヘイヴンで講義を受け持ったなら授業料は倍を取れて、それでも満席になるだろう。

　ファートリはサヒーリの片脚に腕を回し、そっと呟いた。「私はただ、もう戦争はしたくないってだけ。帝国の戦場詩人がそんなことを思うなんて、どうかしらね」

「私も、あなたが危険にさらされるのは嫌」サヒーリは屈み、ファートリを強く抱きしめた。「どんな次元も新しい形の危険を見つけたがっている、そんな中で無事でいることを想像するのは難しいわ。けれど火を吐く恐竜の構築物はそのためにあるの」

「工房に戻ってもいいのよ」ファートリが呟いた。

「ええ、その方がいいかも」

　クイントは目を背け、見せかけでもふたりだけの時を与えた。階段を上りながらサヒーリはクイントへと手を振り、立ち去る寸前にファートリへと投げキッスを送った。

　顔を赤くし、ファートリは咳払いをした。「準備はいいですか？」

「いつでも」クイントは答え、翻訳補助の魔法を唱えようと構えた。「今のところ、何がわかっているのでしょうか？」

　すぐにふたりは仕事に取りかかった。クイントはこれ以上なく幸せだった。

マルコム

　その死体は陽光湾にほど近い密林の、腐りかけた落ち葉の山の中に倒れていた。マルコムもかつてこの上を飛ぶのではなく歩いたかもしれない。制服をまとう者たちがその周囲をうろつき、寸法を測ったり絵を描いたりしながら、セイレーンである彼の聴覚と神経をすり減らすような低い声で話していた。

「リー、お前のとこの奴か？」現場の責任者である男が尋ねた。

　判断は難しかった。奇怪なキノコの塊が口と片方の眼窩の一つから赤いただれのように生え、死体の特徴を覆い隠していた。灰色の皮膚には黒い線が走り、首筋と腕に沿ってさらに菌類が育っていた。劣化は急速に進んでいるようだが、この人物を発見した地元住民によれば、数時間前までは生きていたのだという。

「ランクだと思う」やがてマルコムは言った。「下の町に住む鉱夫だ」彼は制服のひとりへと視線を上げた。「こいつが手紙を持ってるって、ヴァンス船長が言ってなかったか？」

　尋ねられた男は折りたたんだ紙の切れ端を差し出した。マルコムはそれを二本の指で挟み、振って開いた。

　下の町が攻撃されている、助けが欲しい――そう読めた。署名は町長のザビエル・サル。飛沫がはねてむらのあるインクは、それが大急ぎで書かれたと示していた。

　これで説明がいった――鉱山からの納入が遅れるようになり、数日前に停止したこと。それに伴って陽光湾の経済が、ひいては鉄面連合全体の経済が停止したことが。ヴァンス船長は既に下の町の正式な特使であるマルコムへと調査のために戻るよう命令しており、マルコムは是非ともと応じていた。彼はその儲かる鉱山の権利を所有しており、もっと重要なことに、そこには友がいる。

　今、マルコムは最悪の事態を予想していた。

「どう思う？」制服の男が尋ねた。「邪な魔法か？」

「そう見えるな」マルコムは答えた。だが何者が？そして何故？

　鉄面連合には多くの敵がいる。太陽帝国はいわゆる侵略者を領土から追い出したがっている。川守りたちは鉱山による地震と土砂流出を止めようと断続的に襲撃を行っていたが、最近は静かになっていた――静かすぎるほどに。凶骨艦隊はベケット総裁の布告に腹を立てている。資金源を切り崩して孤高街を取り戻すためのものと解釈したのかもしれない。薄暮の軍団の吸血鬼たちもまた、トレゾンに富を持ち帰るための足場を築こうとしていた。彼らはすぐにでもヤドカリのように引っ越してきて、自分たちの力でその場所を動かしていくようになるだろう。どの勢力も喜んで下の町で問題を起こすだろう。だがまだどこも目立った動きへと踏み出してはいない。悲しいことに、屍からは何もわからなかった。自分で採掘し、金脈にぶち当たることを期待するしかなかった。

アマリア

　その声が囁いた。我がもとへ来たれ。

　アマリアの眼前には砂の海が広がり、そこには石の島々が点在し、彼方の岸は影に隠れていた。

　我がもとへ来たれ。

　炎の滝が、広大な洞窟の壁を融けた金属のように流れ落ちていた。眩しく、熱く。

　我がもとへ来たれ。

　円形の、金色の扉が迫った。そこには太陽帝国のイツォカン語に似た、けれど異なる言語で印が刻まれていた。

　来たれ……

　アマリアは鞍の上ではっと身体を起こし、腕は強く押されていたように痛んだ。彼女はクラヴィレーニョへと顔をしかめ、瞬きをした。遠征隊を守る兵士の指揮官である彼はアマリアを睨みつけ、口元から牙をのぞかせた。

「落ちる所だったぞ」かすれた声には非難の響きがあった。

「ありがとう」息を整えながらアマリアは答えた。いつも通りの冷淡な様子で彼は離れていった。

　頭上では密林の木の枝が絡み合い、その葉と蔓がまるで天井のようだった。大気には最近の雨で濡れた土の匂いが満ちていた。一家の屋敷にある図書室が恋しく思えた。本と平和に囲まれて冒険を夢見るのは簡単、だが目に見えない糸でぶら下がる小さな虫が襟元に落ち、茂みの中から恐竜が飛び出し、時計のチャイムのように毎日午後に嵐が彼女の地図を水びたしにするという現実を楽しむのはずっと困難だった。

　それでもあの戦争の後、アマリアは人生を捧げるに値する何かをしたいと願った。埃だらけの本を読み漁る以上の何かを。女王湾会社の地図製作者という地位はまさにそれを約束するもので、こうして今、彼女はここでイクサランの未開地の地図を作成していた。

「気分はいかがですかな？」会社の幹部の一人、バルトロメ・デル・プレシディオが彼女の左で優しく微笑んだ。

　自分が見た奇妙な幻視や、耳にした囁き声について彼に話すことはできなかった。断血の苦しみの中であればそれも理解できたかもしれない。だが食事は最近摂ったばかりであり、それでもしばしば恍惚状態に陥り、そこにはないものを見たり聞いたりしていた。

「大丈夫です、ありがとうございます」アマリアはそう返答した。「まだ……旅にきちんと慣れていなくて」

「荒っぽい、そうですな？最善を尽くすことです。疲労に効く軟膏がありますので、休息をとる際にお分けしましょう」

「それは、とてもありがたいです」アマリアが言った。

　バルトロメは手綱を振り、列の前方へと向かっていった。遠征隊は兵士、使用人、トレゾンでの犯罪の赦免を求める悔悟者らを合わせて三十人ほどで構成されていた。先頭では巨大な馬の背に乗り、ヴィト・キハノ・デ・パサモンテが遠征隊を率いていた。初めて会った時、彼はアマリアをほとんど気にもかけず、自身の考えや優先事項に没頭しているようだった。そしてそれは彼らの長い航海中も、女王湾を発ってからの数日間も変わっていなかった。命令を吠えたてたり、あるいは不機嫌そうに無を見つめていたりしない時、ヴィトは決して誰にも見せることのないボロボロの本を繰り返し読んでいた。一度バルトロメがそれを覗き見ようとした時は、ヴィトは彼の喉元を掴んで木に押し付けたのだった。

　吸血鬼ふたりは目的を同じくしていると建前だったが、目指すものは同じではないと彼女は察していた。

　この大陸の深部にアクロゾズの神殿が自分たちを待っている……とされている。その寺院の中に、ひとつの扉がある。薄暮の教会では不和が拡大している。異統戦争よりも凄惨な発作的暴力とともに分裂してしまう危険すらある。扉の先には、もしかしたらその解決策があるかもしれない。

　それは幻視にあったあの扉なのだろうか？それは扉を発見するまでわからない。それまでは、やるべき仕事がある。

　彼女は地図製作術に注意を戻し、自分の旅のずっと詳細な地図を描き出した。女王湾から彼女たちが辿った道は、ほのかに光る赤い軌跡となって現在地に続いていた。アマリアは自分の小指を牙で傷つけ、その血まみれの指を小さな灰の器に浸して混ぜた。組み合わせてできた溶液を彼女は地図の表面全体に塗りつけ、自らの意図を吹き込んだ。ゆっくりと、濡れた紙にインクがにじむように血と灰の混合物が広がり、地図の白紙部分を正確な詳細で埋めていった。

　我がもとへ来たれ……

　アマリアは震え、誰の声が自分を呼んでいるのかを知りたかった。すぐにわかるだろうと期待しながら――恐れながら。

ファートリ

　翻訳は完了した。

　ファートリは伸びをして、メモ書きを読むクイントを一瞥した。ウェイタは部屋の隅に立ち、興味深くふたりを見つめていた。ファートリは翻訳をもう一度確認し、その詩の音律を味わった。

我らはコモン、第五の民
善き地の枝木にして鋤なり
深き神々にその地を授けられるも
過ちから地上に放逐された

我らは大逆者を打破し
背信者と、侵略者と戦った
砕けた星、チミルは幽閉され
三相一体、その輝きは隠された

太陽の世紀は終わり
闇は十六の大周期に及んだ
やがて神の牢を巡りし殻は
千の月に砕かれた

「大周期とは何ですか？」クイントが尋ねた。

「20年です」ファートリはぼんやりと答えた。「一周がおそらく一年です。彼らの暦が私たちと同じなら、つまり320年になるでしょう」

「三世紀も続いた闇ですか？」クイントが声をあげた。「信じられません」

「ぞっとします」ファートリは呟いた。「神を幽閉する、そんなことができるなんて」

「その神というのは、ファートリさんたちが信じる神ですか？」クイントが尋ねた。

「そうです。三相一体の太陽、とはいえチミルと呼んだことはありませんが」彼女は目を閉じた。「それらを同じだと考えるのは、異端かもしれません」

　クイントは肩をすくめるような仕草で鼻を曲げた。「次元の謎というものは尽きることがありません。新たな発見がしばしば古い歴史を書きかえます」

　ファートリはクイントへと首をかしげた。「まるで以前にも経験したような言い方ですね」

「間違いなく経験しました。いつか私の師匠についてお聞かせしたいですよ。その時は言ってください、忘れてしまいそうですから」クイントはメモ書きの一文を示した。「この部分についてはどう思いますか？」

　ファートリは銅板を見た。

この記憶を、鍵を、地図を残す
我らの果実が種を蒔き
曲折の道を経てトピジエロへ至るため
マツァラントリ、神々の黄金の扉へ至るため
そして我らという樹の、失われし根を見つけるために

「この扉のことではないと思います」とファートリ。「この先の、また別の扉に違いありません」

「この先のずっと遠くですね、『曲折』という表現が比喩なのであれば」クイントが答えた。「これを開かない限り、わかることはないのでしょうけれど」

　ファートリは扉を見つめた。詩が記された銅板は、発見されたときには金属に埋め込まれていた。だが彼女はすぐにそれらが取り外せると気づいた。銅板の背後にはかすかな絵文字があった。銅板一枚につき絵文字がひとつ、それは単語ひとつを意味していた。

「見つけた通りの並びに銅板を戻してみましたか？」クイントが尋ねた。

「ええ、ですが何も起こりませんでした」

「音声での命令でしょうか？」クイントが提案した。「ジェドの聖歌の一部を詠唱して、似たような扉を開いたことがあります」

「それは何です？」

「ロクソドンの重要な物語です。気にしないでください、ひとつの案です」

「暗唱するとして、何を？」考え込みながらファートリが言った。

「その詩でしょうか？」

　ファートリは憂うように顔をしかめた。「とても長いですし、昔の言葉の発音も正確ではないかもしれません」

「それは一理ありますね」クイントは頷き、銅板の一枚を裏返した。「気になるのは、扉にシンボルがあってこちらにはないことです」

　ファートリは扉の絵文字を再び見つめた。戦士、葉、農夫、影……単純でありふれた単語。そのどれも、様々な銅板の絵文字には合っていなかった。彼女は今一度詩を通して読み、見逃していたかもしれない法則を探した。

「ああ！」彼女は声をあげた。「もしかしたら」

　彼女は「我らは大逆者を打破し」の一文が記された銅板を掴み、それを戦士のシンボルの穴にはめ込んだ。

　何も起きなかった。

「まず、全部正しい位置にはめるんですよ」励ますようにクイントが言った。

　ファートリは「我らという樹の、失われし根」の銅板を葉のシンボルに、次に「善き地の枝木にして鋤なり」を農夫のシンボルに、そして「太陽の世紀は終わり」を影の絵文字に対応させた。ひとつまたひとつ、やがてすべての銅板が扉に再びはめ込まれた。

　魔法の囁きが彼女の指に触れ、銅板を取り囲む空間が柔らかく輝きだした。その輝きは扉のふちまで広がり、そして低く重い音をたててわずかに開いた。

「どうやって――」クイントが言いかけた。

「扉の絵文字に対応する銅板です。直接ではなく、象徴的な意味で」

「ああ、なるほど」クイントは鼻を身振りのように動かした。「それでは、栄誉ある役割を担う気はおありですか？」

　ファートリは扉の端を掴んで引いた。それは軋むような音を立てながら床をこすり、隙間からよどんだ空気が流れ込んだ。その先は小型恐竜の群れがすっぽり入るほど広い、下り坂のトンネルとなっていた。空気は冷たく乾燥し、埃っぽかった。

アート：Cristi Balanescu

「松明を」ファートリがウェイタに言うと、彼女はただちに応じた。

　ファートリを先頭にして一行は下っていった。クイントは彼女の背後につき、ウェイタと別の戦士ひとりが最後尾を務めた。トンネルの底は、ピラミッドがひとつ中に入るほど大きな部屋となっていた。部屋に入ってすぐ、亜麻布に包まれたうずくまる死体が一列に並んでいた。彼らの首には翡翠と辰砂のビーズが下げられ、目の周りに巻かれた帯には樹皮の細片が挟まれていた。戦士だったと見え、骨ばった手の近くには武器が置かれていたが、鎧はファートリやウェイタが着ているものとは異なっていた。埋葬用の亜麻布の下、彼らの骨は桃色がかった紫色に輝いていた。それらは魔力を帯び、奇妙なパターンで脈打っていた。

「あれは何です？」クイントが指をさして尋ねた。

　部屋の奥を巨大な人型生物の死骸が占拠していた。その兜、いや角は天井に届くほどだった。その身体に刺さった数十本の槍はまるで矢のように小さく見え、金属製であるにもかかわらず何本かは柄が折れてしまっていた。骸骨のような、もしくは檻のような曲線と隙間をもつ錆色の鎧がその身体を包んでいた。鎧の下には乾燥した灰色の皮膚が見え、人間ひとりほどもある手の先端は湾曲した鉤爪で終わっていた。

「あんなもの、見たこともありません」ファートリが呟いた。「一番大きな恐竜よりも――ザカマよりも大きい」

「あれがこの人々を殺したと考えて間違いないでしょう」クイントが言った。「ですが鎧をまとっているということは、ただの獣ではありません。何故彼らは戦っていたのでしょうか？」

「答えはこの先にあるかもしれません」ファートリはそう返答し、兵士へと声をかけた。「執事長と帝国の勇士に伝えて。恐竜の群れの準備ができたらすぐに出発すると」

　兵士は敬礼し、インティとカパロクティにその伝言を届けるべく急いで去った。ファートリはもっとゆっくり撤退し、クイントは残ってウェイタと共に現場を調査していた。松明の炎が壁に不気味な影を投げかけていた。

　階段へと戻る寸前、彼女はひざまずく戦士たちと隅にある怪物の死骸へと、今一度視線を投げかけた。望んでいたように、地の奥深くで平和への道を見つけることができるだろうか。それともこの遥か昔の戦いは前兆なのだろうか――自分の探求は最初から破滅が運命づけられているというような？

　地上の部屋でサヒーリが待っていた。ファートリは喜びに溜息を漏らしながら、パートナーの胸に顔をうずめた。

「私はすぐに戻ってきたのに」サヒーリはそう言い、たこのできた指をファートリの鎧の隙間に忍び込ませ、その肌を撫でた。

「それでも、いつも永遠みたいに長く感じるの」ファートリが答えた。「コーヒーを飲みましょう、私たちだけで。もう扉は開いたの。すぐに出発することになるわ」

「どこへ？」丹念に化粧を施したサヒーリの両目が見開かれた。「何を見つけたの？」

「死と闇を」ファートリは呟いた。「お願い。また離れなきゃいけない前に、あなたで私を満たして」彼女はサヒーリと手を絡ませ、陽光の中へ連れ出した。心地良い沈黙の中、ふたりは黄金の街路を進んでいった。

マルコム

「下の町」という名前は冗談から始まって定着したものだった。その採掘場は地上の基地と、巨大な洞窟の地下にあって本拠地となっている村に分かれていた。鉱山そのものは干上がった古代の陥没泉で、地中深くまで続いていた。そしてひとつの機械に備えられた何百という車輪の輻のように、さまざまな深度のトンネルが岩の中に伸びていた。広大な穴の縁を取り囲んで木造の建物が点在しているが、その配置は建築主の気まぐれによるもので、特別な意図や理由は何もなかった。クレーンと細い通路が空洞の上に伸び、滑車で作動する昇降機を支え、一方で油圧式リフトとジグザグの階段が壁にしがみついていた。沢山の滑車が鉱石の入ったバケットを引き上げ、地面を横切る線路上のトロッコに積んでいく。化学的・魔法的に精錬処理が行われ、他の加工区画は手作業による洗浄を管理し、格納庫は地上への輸送の準備ができた製品で満たされる。通常、それらすべてが魔法の巨大な昼光灯、および個人の松明やろうそく、ランタンによって照らされていた。

アート：Cristi Balanescu

　明りは消えていた。そしてマルコムが見る限り、下の町は彼自身と調査の手伝いのために連れてきた者たちを除いて完全に無人だった。

　短パンことブリーチェスは青い体毛に覆われた手で三角形の帽子を直し、黄金色の目を狭めた。「みんな、いない？」そのゴブリンは金切り声をあげた。

「皆、いないな」マルコムは眉をひそめて同意した。

　未精錬の鉱石は線路途中で止まったトロッコに、あるいは樽や木箱に積まれたままで、それらの幾つかはひっくり返されていた。選別台には部分的に洗浄された金属や結晶が山積みにされ、今すぐにでも使用者が戻ってくるかのように刷毛やノミが近くに置かれていた。共同寝室へと続く扉は開いたままで、寝台は急いで放棄されたかのように乱れていた。台所や食堂では食物が腐敗し、カビの臭いがあらゆるものに染みわたっていた。

　暴力の痕跡は幾つかの建物についた焦げ跡と、落とされて散乱した武器だけだった。奇妙なねばつく物質が付着したつるはしをマルコムは見つめた――血だろうか？触ってそれを確かめる気はなかった。

　下の町の滑車式昇降機はすべて引き上げられ、まるで下からの攻撃を防ぐかのようにクレーンの上部に固定されていた。ひとつを除いてすべてが。

　マルコムはランタンを掲げてそのリフトに近づいた。辺りはとても暗く、彼は近くの地面に濃厚な液体で書かれた線に踏み入りそうになった。彼はひざまずき、近くでその詳細を見つめた。太くて角ばった文字が一言だけ書かれていた。

「下」

　両腕の羽毛がぞわりと波立った。もしこれが罠なら、自分たちはまっすぐにそこへ踏み込んでいくということになる。けれどひとつの町の住人が全員消えて、何が起こったのかを知る方法が他にあるだろうか？ランタンの中で小さく燃える炎のように、生存者を発見して救出できるかもしれないという小さな希望を彼は抱いた。

「お前」マルコムは同行者のひとりを指さした。「陽光湾に戻って、ここで見つかったことを伝えてくれ。それとお前」そして別のひとりを指さして続けた。「ここにいて、俺たちが戻ってくるのを待っててくれ」

　感情のわからない表情をゴブリンらしい顔に浮かべながら、ブリーチェスは虚空の端に立っていた。「した？」彼は尋ねた。

「ああ」マルコムはそう言い、伝言を見つめた。「下だ」

アマリア

　アクロゾズ神殿は崩れて廃墟と化しており、その一部は密林に埋もれていた。蔓が壁を覆い隠し、木の根が石の床を割り、枝は落ちた天井を突き破っていた。アマリアの呪文で血のように赤いインクが地図の別区画を埋めていく一方、兵士と召使たちは数日前に到着した先遣隊が設置した前線野営地の周囲をうろついていた。

　決意と脅しを発しながらヴィトが彼らの中を歩くと、全員が静まり返った。彼は片手に一本の槍を持ち、その先端は彼のやや頭上にあった。もう片方の手には、決して目を離さないあの本を掴んでいた。青い瞳は内なる光で輝いているようで、吸血鬼たちはまるで磁石に引き寄せられる金属の削り屑のように彼に近づいた。

「この槍は」ヴィトはその武器を掲げて切り出した。「かつて尊者タリアンが用いていたものだ。我らはその足跡をたどっている。そしてこれは、かの者の日誌だ」彼はあの本を掲げた。「ここには聖エレンダとの旅とタリアンの啓示の記録が含まれているが、教会によって隠蔽されていた。だが近頃、真の信者たちによって取り戻されたものだ」

アート：Nereida

　真の信者？アマリアは身体を強張らせた。ヴィトはそれをあの反逆者の支持者という意味で言っているのではないのは確かだ。いくつか話を聞いたことがある――

「この神殿の内には」ヴィトは続けた。「我らの古き神祖であり、最初の吸血鬼を作り給うたアクロゾズの寝所へと通じる扉がある。神は眠りについているが、最も忠実なるしもべたちによって目覚めさせられるという」

　神を目覚めさせる？そのようなことが可能なのだろうか？アマリアは唇を噛み、牙が肉を刺す感触にひるんだ。そう考えているのは自分だけではないらしく、周囲では呟き声が上がっていた。

　ヴィトが槍を掲げると、ふたたび沈黙が降りた。「この聖典が約束している。アクロゾズをトレゾンに帰還させたなら神は信者を癒し、その地に平和をもたらすだろう。不和の時は終わり、我らは再び自由にこの未開の大陸へと教理を広めることができるだろう」

　辺りの暑さにもかかわらず、ヴィトの語気の中にある何かにアマリアは震えた。癒しと平和は正当な大義のように聞こえる。けれどその代償は？自分と同じように動揺している者は他にもいるのだろうか？バルトロメは慎重に無表情を保ってヴィトを見つめており、そのため彼女も同じく感情を隠した。挑戦する者に対してヴィトが何をするか、誰が知っているというのだろう？

「では前進だ」ヴィトが槍で身振りをした。「我らが宿願へ」

　ヴィトは荒廃した神殿に入った。予感通りの寒気を抱きながら、アマリアも彼の後を追う行列に加わった。

　内部には広く深い陥没泉があり、その側面に刻まれた曲線状の階段は湿気で滑った。吸血鬼の何人かはランタンを持って進んだ。長い鎖で背負い袋やベルトに繋いだ浮遊する蝋燭で道を照らす者たちもいた。階段の底には出入り口があり、壁に複数のくぼみがある部屋に通じていた。アマリアがそのひとつを覗き込むと、朽ちかけた骨の山があった。彼女は後ずさりし、クラヴィレーニョにぶつかった。クラヴィレーニョは叱るような息の音を立てて彼女を押しやった。

　地下墓地はそこだけではなく、死者の骨で満ちた部屋また部屋が続いた。司祭だろうか？それとも古の生贄たち？自分は本当にそれを知りたいと思っている？歩みを進めるたびに背後の炎がちらつき、あらゆる壁に影を投げかけた。

　やがて彼女たちは大きな円形の部屋に辿り着いた。空の燭台がおびただしい数で並び、金色の扉の前に溝の付いた黒曜石の祭壇が座していた。聖エレンダはこのような扉から現れたと言われている。

　アマリアが驚いたことに、それは幻視で見た扉ではなかった。

　兵士のひとりが扉を開けようとしたが、それは頑固に閉じられたままでいた。もうふたり兵士が加わったが効果はなかった。

「開けることはできぬのかもしれぬ」バルトロメが呟いた。「遥々ここまで来て何もなしとは？」

「アクロゾズが私を導いて下さる」ヴィトの声は辺りの空間にこだました。「クラヴィレーニョ、人夫のひとりを連れて来い」

　クラヴィレーニョは命令に従った。すぐに野営地から人間の召使がひとり、神経質に手を握りしめながら入ってきた。

「怖れることはない」ヴィトは言った。「尊者タリアンは記している、『子羊の血が楽園への扉を開くであろう』と。我らは試されている、そして我らは強くあらねばならない。来るのだ、私のもとへ」

　その人夫はためらいながら近づいた。ヴィトはその男の頭に手を置き、情け深い笑みを浮かべて両目を覗き込んだ。

「この者を祭壇へ」

　クラヴィレーニョはヴィトの言葉に従い、その男を吸血鬼の筋力で床から持ち上げた。人夫は抵抗し、黒曜石の祭壇に横たえられそうになると泣き叫んだ。クラヴィレーニョは動じなかった。

　ヴィトの凝視がアマリアをとらえ、彼女は身震いをした。「君」彼は言った。「拘束を手伝いたまえ」