MAGIC STORY

久遠の終端

EPISODE 08

サイドストーリー 私を零へと圧縮して

Rich Larson
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2025年7月2日

 

 リーン分隊長は畏敬の念を抱きたい気分ではなかったが、それでも無限導線からの眺めは今も肺を貫かれるようだ。どこを向いても、放射状に建造されたこの基地の巨大なのぞき窓は同じような景色を映し出す。脈打つ青と紫の星々が織りなす宙風景、しかしジョスカで見た輝く海原と大差はないか。壮大なる氷と塵の雲々が渦を巻き、砕け、また形を変え、電磁気の渦に攪拌されて、虹色に輝く荷電粒子の軌跡を残していく。

 その光景は、この終端が想像を絶するほどに広大であること、そして自分がススール・セクンディの地下住居から遥か遠くにいることを思い起こさせる。崩壊しつつある星の引力という慰めから遥かに遠い場所。そして義務としての巡礼は自分をさらに遠くへと連れて行くのだろう――推進装置とコードブックを装備した、ある程度はまともな宇宙船を見つけることができれば、の話なのだが。

 背後で突然何かが動いた。振り返り、戦闘態勢に入る寸前でその正体に気づく。故障した廃品回収メカンが私の特大スーツケースを食べようとしていた。これの中身が金属ばかりだから引きつけられたか。

「こいつは屑鉄じゃないわよ」と言葉を吐き捨てる。

 そのドローンのカメラは無心で点滅し、機械仕掛けの口器で噛みつくのをやめなかった。ドローンを無理やり引きはがす。刺青が入った私の指の中でドローンはもがき続けた。赤く脈打つような一瞬、これをこの基地の飾り気のない床に叩きつけて粉々にする自分の姿を想像する。想像に留めて、ドローンをそっと向こうへと放り投げた。ドローンは跳ねて、転げ回って立ち上がり、その多足で素早く走り去っていった。

「くそったれなメカンときたら」旅行者たちの雑踏の中に消えていくそのドローンを眺めながら、愚痴をこぼす。「いつも誤作動ばかりなんだから」

 五番区画へと向かう。スーツケースは車輪を転がしながら従順に私の後を追ってくる。


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アート:Lie Setiawan

 無限導線はソセラ星系を離れる前に停留できる最後の基地であり、その様子もこの場所ならではだ。リーンはあらゆる種族を目にする。キチン質の身体で四足歩行するユーミディアン、牙歯が目立つずんぐりとしたカヴ族、ゼラチン状の鷹揚なイルヴォイ。孤独なドリックスの技術者もまた、灰色の細長い体にメビウスの帯を纏っている。人間には特に注意が必要だ。

 同胞であるモノイストに対して、ではない。同朋の集団を見ると私は罪悪感と羨望に苛まれる――同胞たちは正式な重力衣を身にまとっている一方、私は何処の者ともつかないちぐはぐな服装をしているため、同じモノイストであると気づかれることもなくすれ違う。それよりも警戒すべきは、けばけばしい金色のマント、体にぴったりと密着した白い鎧、不動の姿勢、そして傲慢な視線を送ってくる者たちだ。

 敵を警戒する。しなければならない。モノイストと天界帝領との間に築かれている平和は脆いものなのだから。この星系に存在する中立地帯、無限導線基地にあってさえ、燃料の残滓を味わうかのような緊張感だ。通常の出航ホログラムの脇には、刻々と変化する紛争地図が宙に表示され、警備ドローン群は私の頭上を旋回していた。

 五番区画の旅行者の半分は、紛争中の惑星からの難民だ――持ち運べたものなら何でも抱えて逃亡してきた者たちは、疲労困憊で虚ろな表情をしている。紛争区画から脱してきたわけではないのであろう者たちでさえ、うなだれて視線を彷徨わせている。

 周囲は恐怖と絶望に満ち、私の心の奥底からますます強く響く声が呼び起こされる。"リーン、これはあなたの働きの成果よ"と声は言う。"あなたはこの者たちを故郷から追い立て、絶望へと追いやった。そしてこの者たちは幸運なのよ"と。

 公式には、モナステリアットはススール・セクンディの聖域にて難民となった者たちを迎え入れる。しかし幼い頃から切り倒す者への崇拝を学んでおらず、モノイストとしての信仰を持たない者にとって、誕生しつつあるスーパーヴォイドの周りを巡る軌道を持つ住処は安らぎよりも恐ろしさが勝るだろう。拒絶できる立場の者は、この星系から完全に離脱することを選択した。

 私はその者たちを責めることはできない。ジョスカの件がある以上は。

「どこに行きたいのかね?」

 鼻先に蒸気管をぶら下げたカヴの船長にそう質問を投げかけられ、リーンは現在の懸念へと引き戻される。そして言葉と共に漂ってきた煙の波を手で払いのけた。

「至高点へ」と答える。「できるだけ寄り道せずに」

 さらに煙が立ち上る。今度はカヴの甲高い笑い声によって煙が途切れ途切れにされていた。「ここから至高点まで行くって?」と彼は確認してくる。「無理だ。危険すぎる。ユーラリア星系中心の久遠の柱までなら連れて行ってやれるが……」

 臆病な煙吐きに付き合っている暇はない。目的のためには進まねば。


 五番区画はフリーランサーのための区画だ。ギルド、国家、企業のいずれにも属さない船長たちが、ピナクルの輸送船にひっ付いて回ることなく、久遠の柱間を幅広く航行できる推進装置を備えた宇宙船を操縦する。もちろん、ピナクルの認可の元で、ではある――コードブックなしで星間航行を行うのは自殺行為に近い――が、ここの者たちはより長く、より危険な旅路にも進んで応じてくれる。

 少なくとも私はそう認識していた。搭乗可能な宇宙船の一覧を順に確認し、可能な時は直接、そうでないときはホログラム通信で交渉していった。断られるたびにモナステリアットのクレジット提示額を増やしていくうちに、胃の底がゆっくりと締め付けられるような感覚を覚え始める。至高点は遥かに遠い、それは確かだ。しかし船長たちにとって距離は些末な問題のようだった。

 船長たちは、ここから私の目的地までの間に潜んでいるものを恐れている。私もスリヴァーの氾濫やエルドラージの汚染だとか、あるいは飢えたヴォイド・ハイドラやドリックスの暗殺者集団というような恐ろしい話を耳にはしている。戦争の話と言うものは、交戦期間の長い沈黙を満たしたいがために、いかようにも膨れ上がり形を変える。それを私は兵士として知ってはいるのだが。

 噂が嘘だとしても、操縦士たちの恐怖は現実としてあり、それが私自身の恐怖を強めていく。この巡礼は間違いなのではないかと。本来ならば私はススール・セクンディの重力坑で体を鍛え、幻影を前に心を鍛え、分隊の新入りに脆い平和が砕け散るときの心構えを教え込んでいたはずだった。そうしていないから、至高点行きの宇宙船が見つからないのではないか。

 係留区画の端に、そして宇宙船一覧の最後に辿り着く頃には、上官に巡礼取りやめの旨を伝える気持ちでいた。おそらく上官は私に不満をはっきりと表明してくるだろうが、戻るかどうかの選択肢を残しておいてくれたのは上官だ。常に選択肢を与えること、それがモノイストの流儀なのだから。

 第五区画最後の係留所に停泊していた小型の宇宙船は、かつては良いものだったのだろう。おそらく何十年も前は。錆茶色の船体は微小隕石の衝突による穴だらけで、エンジン・ポッドには見慣れない何かの傷跡が半円形のずいぶんと大きな縞模様となって刻まれている。

「表面的な損傷です、ご安心ください」合成音による声が響く。「船体の安全性は損なわれておりません」

 ほとんどの船長が万能の補佐として使用している虹彩メカンが、ひとつだけ搭載されている撃退装置を唸らせながら前方に浮かんでいた。それは人間の頭ほどの大きさで、その前面を覆う液体金属が人間の顔を巧みに模している。眼球をでっぱりではなくへこみで誤魔化してはいるが。

「至高点へ行きたいの」リーンはそう告げた。もはやこの言葉は釈義の詠唱のように機械的に発言できていた。「できるだけ寄り道せずに」

 メカンはへこんだ目を瞬きさせた。「なんという偶然でしょう」メカンはそう返答してきた。「わたくしもそうなのです!」

 ホログラム航図が宙に浮かび上がる。リーンは信じがたい気持ちで航図を覗き込み、その宇宙船の航路を辿った。中立地帯のアサクシア星系で一度停泊し、それから至高点へと途切れることなく続く航路だ。上官たちの言う通り、やはり切り倒す者は私の巡礼を微笑み見守ってくださっているのだろうか。その可能性に、恐怖と安堵が奇妙に入り混じった感情を抱いた。

「船長は乗船してるの?」宇宙船の開いた舷窓を指さしながら尋ねる。「直接会って交渉したいのだけれど」

「ある意味では乗船していると言えましょう」とメカンは言う。「船長はここで貴方と会話してもおります! とはいえいずれにしても肉体はほとんど存在しないのでありますが」

 リーンの肌はかすかな羞恥で熱を帯びた。全てのメカンが心を持たないわけではない――中には真正のアンドロイドもいて、その者たちのデジタル意識は有機体から移植されるか、あるいは粗雑なプログラムからゆっくりと進化していったものなのだ。武装したドローンや空虚で無慈悲な存在に囲まれながら幾度となく戦闘を繰り広げてきたせいか、そのことを失念していた。

「失礼したわね」と彼女は詫びた。「私の名前はリーンよ」

「わたくしの名前はトゥー・マッチ・ハピネスと申します」そうメカンも名乗った。「これは偶然ではございませんが、わたくしの胴体船の登録名でもあります」

 リーンは自分の船旅にこれほど相応しくない船名は思い浮かばなかったが、心のどこかでは暗い皮肉を好む自分もいた。乗船を申し込む。移送と契約の手続きは瞬時に完了した。

「乗船契約確認済みでございます!」トゥー・マッチ・ハピネスが甲高い声で告げる。「三時間後に出発いたします」そしてメカンは巨大な石棺めいたスーツケースへと近づき、へこんだ黒い目を細める――その大きさが気になるのか、それともその中身を感知できるからか。「客室のスペースには限りがございます、リーン様。荷物は貨物室へとお運びください」


 リーンは船長の考えが変わる前に宇宙船内へと乗り込み、小走りで追随してくるスーツケースを引き連れながら少し歪んだ昇降台を駆け上る。トゥー・マッチ・ハピネス号の様々なドローン機体が出港準備のために船体を整備しており、船内はメカンの騒々しい活気に溢れていた。それでもホログラム案内を追って貨物室にたどり着くまでの間、なんとかそれらのメカンを踏みつけずに済んだ。

 他の乗客の姿を見るよりも先に、その声が聞こえてきた――響くような、高圧的な、人間の声――その聞きなれた調子に背筋が凍りつく感覚が走る。角を曲がると、けばけばしい金色のマント、体にぴったりと密着した白い鎧、不動の姿勢、そして傲慢な視線の持ち主たちがいた。三人の集団。サンスター・フリーカンパニーに所属する三人の軍人、天界帝領の誇りであり剣である者たちだ。

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アート:Mark Poole

 やつらはモナステリアットの惑星を何の警告もなく襲撃し、平和なコロニーで炎上と破壊の限りを尽くす殺戮者たちだ。やつらはアダージアを我が物とし、ススール・セクンディへとさらに近づきこちらを侵害しようとする侵略者たちだ。その帝国の無分別な拡張の糧とするために、崩壊したソセラ恒星やその他のスーパーヴォイドすべて、さらには至高点までもを強制的に再生させようとする異教徒たちだ。

 アサクシア星系に到着するまでは、同乗者ということになるらしい。リーンは胸が締め付けられるような感覚、腹が苦しくなるような感覚、闘争・逃走反応により化学物質が体内を駆け巡ることで四肢が緊張する感覚を覚える。あの兵士たちは和平協定の細則を公然と無視して武装している。鞘に納められたブラディエーターの、虹色の輝きが目に映った。こいつらは何かあれば躊躇せずそのブレードを抜き放つに決まっている。

 リーンは、武装した者たちがこちらに向かってくるのと同じ速度で前に歩き続けるよう、無理やり自分を奮い立たせた。仮面を外したやつらの顔は若く、つるりとした肌で、目にはまだ冷淡さは宿っていなかった。何の話をしているのか、虚勢を張って笑っている。その様子は自分が担当していた若い分隊員を強く想起させたため、やつらに対して激しい憎しみにかられた。

 兵士のひとりがこちらを見つめてくる。その男の金の色素を思わせる目の虹彩が小さな太陽のように燃え上がったため、一瞬、自分のボディスーツの下に隠されたものを感じ取られたのかと思った。しかし防護服を脱ぎ、正装でもないこの姿は、基地に集まる無数の難民たちと何も変わらない。何の印象も与えることなく、兵士たちは立ち止まらずに目の前を闊歩していった。

 彼女は服に隠れた腕の皮膚を掻く。


 他に至高点への宇宙船はないので、リーンは船室に閉じこもり、トゥー・マッチ・ハピネスが他の乗船客を降ろすまでは出ないと決意した。客室は案内通り、繭型の寝台と洗面所を設置するのが精いっぱいの狭い空間だった。まずは洗面所に入り、トイレの便座に腰を下ろす。目の前のスクリーンは鏡になるよう設定されており、剃り上げていた頭から伸び放題になっている髪、青白い肌、疲労でくぼんだ目をして、トイレで用を済ます準備をしているリーン分隊長の姿がまざまざと映し出されていた。

 威厳ある見た目などは気にしたことがなかった。汚れひとつない鎧と波打つマントでまばゆく魅力的な標的となることなど、サンスター・フリーカンパニーに任せておけばいい。悩ましいのは、顔に走り書きされている不安だ。一か月前、そんな表情は自分にとって馴染みのないものだったのに。

 目を閉じて、聖句を唱える。「切り倒す者が井戸の暗き安息を求めるように、私は内にある暗き安息を求めます。万物の核から光が逸れ、遠ざかるように、私の思考も私と言う存在から逸れ、遠ざかります。スーパーヴォイドが混沌の宇宙に静止をもたらすように、私を零へと圧縮し、静止をお与えください」

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アート:Bryan Sola
 

 ススール・セクンディの広大な空洞の中で千人の共鳴歌手たちが述べ歌う垂直落下の記録書の言葉は、自分の肌に響くものだった。この狭い洗面所にてひとりで語る言葉には、何の力もない。

 だが、これらの言葉が最初に語られた時もそうだったのでは?

 洗面所の中ではない、けれど孤独の中で――事象の地平面を通り過ぎ、蛋白質鎖へと分解されるはずのスーパーヴォイドの口へと墜ちてゆく"彼"、切り倒す者の完全なる孤独。切り倒す者はその長い沈黙の中で、死ではなく、生を見いだした。"彼"は平穏と信念を見いだしたのだ。

「あなたもね」リーンは鏡の中の分身に告げる。「もう一度、それを見つければいいの」

 鏡に映った自分の目玉が反転して点滅する。「私物をどこかに置き忘れましたか?」合成音声が耳元で鳴り響いた。

 思わず便座から落ちそうになる。「プライバシー設定を調整して」と、顔をしかめながら自分の姿に指示する。「ここには入らないで」

「本当に申し訳ございません」とトゥー・マッチ・ハピネスは謝った。「ご安心ください、客室のご様子は映像では確認できないようになっております。音声のみでございます」

 妄想的な考えが脳裏に浮かんだ。トゥー・マッチ・ハピネスがさっきの朗唱を聞き、ここよりもずっと広い船室へと送信する。そこではサンスターの兵士三人が今まさに武器を抜き、モノイストの血を流そうと躍起になっているのだ。アンドロイドのメカンは本来中立的なものであり、フリーランスの操縦士は経済的な理由からなおさら中立的なはずだ、と自分に言い聞かせる。

「盗み聞きされるのは嫌なんだけど」

「本当に、本当に申し訳ございません」と船長は言い、鏡に映ったリーンの口をまるで古代の操り人形のようにぱかぱかと動かした。「リーン様、ここだけのお話でございますが。ここ数日、わたくしに軽微な行動の不具合がいくつかございまして。もしかしますと、それがわたくしの社交性に影響している可能性がございます」

 リーンは、廃品回収メカンにスーツケースをかじられたことを思い出した。自分は敵兵たちを同乗者として巡礼しているだけでなく、不安定らしい船長による不安定らしい宇宙船に乗って巡礼しているというわけか。

「わたくしは久遠の柱を経由する配置準備が整ったことをご連絡したかっただけでございます」とトゥー・マッチ・ハピネスは続けた。「ブリッジからの眺めは壮観でございますよ。お客様の客室からも、プライバシーを守りながら展望が可能でございます。良い排泄を!」

 鏡の中の姿が再びちらつき、リーンはこれが永遠の別れの合図であればと願った。そして深くため息をつき、前かがみになり、肘を膝に置いた。一瞬の逡巡の後、ブリッジからの映像配信に繋ぐ。

 トゥー・マッチ・ハピネス号は係留所から浮上し、強力な磁力溝道に沿って久遠の柱へと導かれている。そして餌を探す極小の昆虫一匹一匹が連なるように、離陸する他の宇宙船の列にこの宇宙船も加わっていく。リーンは再び星が散りばめられた宇宙空間を、明るく照らされた氷雲を、煙のような柱に見える遠く離れた星雲を眺める。これまでに見た中で最も美しい光景だった。

 それから久遠の柱が起動し、宇宙船は非現実の世界へと投げ出された。映像通信は幾何学的な嵐に切り替わり、無限に続く色の渦が分裂して螺旋を描いていく。一瞬、この宇宙船が"この宇宙船の海"を泳いでいるように見えた。数えきれないほどのトゥー・マッチ・ハピネス号が四方八方から迫ってくる。そのどれもがエンジン・ポッドに同じ特徴的な傷跡を負い、同じ乗客を乗せているのだ。

 少なくともその中にひとりは、疑念に悩まされていない自分がいることを願う。

「そのすべてを圧縮せよ」無限を見つめながら暗唱する。「そのすべてを静止させよ」

 その言葉が、金属的で虚ろな響きを伴いこだまする。


 リーンは眠れなかった。

 繭のような寝台の中を這うのは、まるで衝撃吸収ジェルに包まれているような、あるいはまるで自分の分隊をジョスカの原始的な地表へと運んだ降下ポッドの内部にいるような感覚だった。目を閉じると、足元に広がっているのは衛星で、骨白の砂浜から穏やかな海へと視点は移り変わる。蛍光藻の帯で鮮やかな紫色に染まる海面。ゆるやかな波間では、都市ほどの大きさもある巨大なゼラチン状の群生生物たちがまばらに移動する様が見て取れた。

 目を閉じ続けていれば、必然、目標が浮かんでくる。眼前の沖合に浮かぶ一隻の天界帝領の着陸船だ。三翼の構造を持つ優美な姿の着陸船は純白の合金製で、その船体には赤みがかったオレンジ色の燃料ケーブルが縞模様を描いていた。着陸船は三百人の入植者を乗せていた。天界帝領の三百人の市民は、帝国と言う名の伝染病を拡大するために天界帝領からそのヴォイドへと投げ出されたのだ。

 目を開け、寝台から抜け出る。客室の端から端までは五歩でたどり着く。天井はススール・セクンディの最古の空洞よりも低く、頭髪をかすめそうだ。かつてはこのような狭くて暗い空間が一番心地よかったものだが、このところは亡霊に溢れている。亡霊を封じる方法はたったひとつしか知らない。

 映像通信を映しているスクリーンに向かい、この宇宙船が非現実の世界を掘り進んで終端の向こう側へと続く道を辿っていく様子をしばらく眺める。光子よりも速く動いているとしても、この旅は長いものになるだろう。客室の床に腰を下ろし、服の袖をまくる。

 そして懐から空圧針を取り出し、腕の皮膚に刺す。小さな黒い刺青模様、様式化され簡略化されたスーパーヴォイドは、ほぼ描き上がっている。手や前腕部分には同じ模様の刺青が無数に描かれていた。

「お客様は芸術家ですか?」合成音声が尋ねる。

 リーンは客室を隅々まで睨みつけた。「映像では確認できないって言ってたわよね」

「映像確認は行っておりません」トゥー・マッチ・ハピネスはそう返答した。「お客様の刺青はご自分で彫られたのだと先ほど気づきまして。それに針が何度も皮膚に刺さる音は非常に独特なものでございます」

 リーンは自分の作品を見下ろした。「芸術じゃないわよ」と反射的に返す。「ただの記憶管理」

「台帳ですか!」トゥー・マッチ・ハピネスが甲高い声を上げる。「わたくしも台帳をつけております。燃料費に、修繕費。もちろん、電子上にしか記録は反映されておりませんが。わたくしの船体に物理的な印をつけたりはいたしません」

 リーンはこのメカンに港まで放っておいてくれと伝えることもできたが、暗く煮えたぎる自分の思索に溺れることなくこの旅を終えられるものかどうか、急に不安になってきた。一瞬ためらい、それから会話を続けることにする。

「何かが印をつけてたわよ」と彼女は伝える。「エンジン・ポッドがまだくっついてるのが不思議ね」

「ええ、ええ、あれは色々な意味で素晴らしい経験でした!」トゥー・マッチ・ハピネスがまた叫んだ。「ワームウォールを通って旅した中では最も遠くまで移動したときのものなのです」

 あの縞模様が新たな、そして恐ろしい意味を帯びてきた。リーンはグレートワームの映像を見たことがある。ヤツメウナギのような巨大な口は小惑星を噛み砕くほどの大きさだった。あるいは老宇宙船員から聞いた作り話を思い起こすが、その攻撃についての物理的な証拠は見たことがない。

 ソセラ星系に精通した船長のほとんどはワームウォールをどうにかして避けようとするものだ。とは言え、サンスター・フリーカンパニーがその外縁の残骸雲を武器の製造、小惑星の精錬や晶洞窟の希少金属採掘に利用している、などという噂もある。

「いつ?」突然疑念が浮かび上がり、尋ねる。「何をしに?」

「無限導線に入渠するちょうど一週間前のことでございました」とメカンは答える。「塑雲をウスロスへと輸送していた時のことです。ワームウォールの縁を迂回しておりましたが、その時わたくしは――そうせざるを得なかったのでございます。リーン様、今までにそうせざるを得ないと感じたことはございますか?」

 リーンは分隊をジョスカへ派遣することになった命令を思い出す。「しょっちゅうね」

 トゥー・マッチ・ハピネスは音声を下げて響くような囁き声を出した。「救難信号のようなものが発信されておりましたが、発信者は救助が必要と言うわけでもないご様子でした。そこでわたくしは調査のためにワームウォールに進入しました。そこで見知らぬ何者かに出会ったと思われるのですが、物事はそれ以降さらに奇妙になったのでございます。思考と行動の連続性は避けられないものだと感じられます。リーン様、この感覚はお判りでしょうか?」

 そのメカンの言葉に首筋がぞっとする。もしもこのメカンの言う行動の不具合が偶発的な損傷によるものではなく、意図的なハッキングだとしたら……もし天界帝領が本当にワームウォールを前線基地として利用し、かつその活動を隠蔽しようとしているのなら……

「外部診断は受診したの?」彼女は乾いた口で尋ねた。

「いいえ」トゥー・マッチ・ハピネスは答えた。「お客様はいかがですか?」

 リーンは咳払いをして笑う。「何?」

「いくつかの生体指標から、お客様が精神的苦痛を感じていることは明らかでございます」とメカンは言う。「そのためにわたくしがお相手しているのです。わたくしをご利用するお客様が倒れては、わたくしの評価ランクが低下してしまいますので」

 モナステリアットが私にくそったれな巡礼を勧めてきたのと同じ理由なのね、と言いたかったが、代わりに深呼吸をする。

「少し歩けばよくなるかもね」と言い、針を袖にしまい込む。「あなたの記録コアがどこに保管されているのかに興味があるわ」


 リーンは客室から出る前に廊下を見回した。虚空間移動中の宇宙船には、いつも不気味な雰囲気が漂っている。宇宙船の内部という遮断された空間であっても、音や光や重力はわずかに解放されていた。長靴が床に触れる前に、自分の足音の反響が聞こえる。死角の向こう側に亡霊のような痕跡を見る。背後に柔らかい圧力を感じ、自分の足の幻影に押されて歩かされている。まるで一歩一歩が運命づけられているかのように。

 あの兵士たちの様子は感じられない。もしかするとまだ騒がしく自慢話を続けているのかもしれないが、その声が防音である客室から届いていないだけなのか。それとも久遠を潜り抜けることでさすがの彼らの舌も静められ、どこか不安な沈黙の中にあるのかもしれない。幸運にも、トゥー・マッチ・ハピネスは調理室やブリッジから遠く離れたエンジン・ポッド近くの冷蔵保管設備に記録コアを保存していた。

「正直に申し上げますと、リーン様が技術者だとは思っておりませんでした」乗船前のやり取りのように、自分の肩越しに浮かぶ虹彩メカンを通して声が聞こえてくる。「お客様の動きには非凡な優雅さとしなやかさがございますので」

「私は変動重力の中で育ってきたの」と答える――これは事実ではあるが、十年間の戦闘訓練についてはさりげなく言及を省いておく。「あなたは?」

「わたくしはコードの中で育ちました」とトゥー・マッチ・ハピネスは言う。「最近、先輩から船体を継承したばかりなのです。その先輩は一標準年前に自己消去を選択いたしました」

 リーンは言葉に詰まり、このメカンが乗客の不調を心配していたことを思い出した。「お悔やみ申し上げるわ」

 トゥー・マッチ・ハピネスの端末は宙を舞った。「リーン様、どうされましたか? 何か忘れ物でも?」

 リーンは鼻を鳴らし、ほどなくして保管設備に到着した。トゥー・マッチ・ハピネスが扉を開け、霜が噴き出す中、彼女はあの洗面所ほどの広さの空間へと足を踏み入れる。円筒形の筐体の中に保管されていたこのメカンの記録コアが、青い電光を放ち淡く輝く。操作画面が目の前に開いて広がった。

「余計な所はいじらないわ」と約束する。

 もちろんこれは、自分が技術者だという嘘と同じく、嘘になるかもしれない。もしトゥー・マッチ・ハピネス号が天界帝領の侵略によって内部干渉されているとすれば、その航路と乗客の選択は今や疑わしいものとなる。この旅の真の目的は、監視や破壊工作、モノイズムの中核への攻撃、ひいては至高点そのものへの攻撃かもしれない――疑念に過ぎないが、それを見過ごすわけにはいかない。

「そのようにお願いいたします」とメカンは言った。「ですが、公平な評価は大歓迎でございます」

 宇宙船のシステムに入り、調査を始める。自分はコードではなく物理的な損傷を与える方が専門だが、天界帝領による侵略の兆候は理解している。ウイルスのかけらのクラスターが保全プログラムとファイアウォールに穴を開け、何重にも施された偽装をもってそれらのコア・システムに埋め込まれていくのだ。しかしそこで目にしたのは、全く別の何かだった。

 トゥー・マッチ・ハピネスのコア・システム、その幾何学的な影。もっと近づいてよく見ようとするたびに存在が消えてしまうかのようなもの。まるで有機体のような挿入機構、このメカン自身のコードから生まれ育ち、共に進化する何か。その侵略は奇妙なほどに美しく、全くの異質。

「ワームウォールで出会ったという見知らぬ相手――」そう言いながらトゥー・マッチ・ハピネスの記録コア筐体を物理的に小突く。「そいつについて何か覚えてる?」

「様々なことを話したと思われます」そうメカンは答える。「不可抗である多くのことについて」

 直感がリーンの肌を震わせ、かすかな記憶として残っている伝説が彼女の脳裏に浮かぶ。とある滅びた星間文明。その末裔は遥か彼方、デジタル世界に存在する要塞にのみ生存しているとされ、それらがかつて持っていた力はモナステリアットと天界帝領を合わせたものを遥かに凌駕するほどと言われている。そしてそのアーティファクトは奇妙なほどに美しく、全くもって異質であると。

 もしこれを武器として用いるならば、天界帝領のホライゾン・ジャベリンなど取るに足らないものと思えるかもしれない――そんなものに自分は出くわしてしまったのだ。

 そのとき、背後からブラディエーターの唸りが聞こえ、首筋に熱が伝わってきた。

「モノイストの破壊工作員め」高圧的で響くような、人間の声。「他の者は半信半疑だったがな。俺はいつだってお前のような輩を見抜けるんだ」

 ようやく自分の心の静けさを見つけ出すことができた。即座に首を斬られるという脅しがあれば十分だったわけだ。もし振り返ることができたとしても、最後に目にするのは輝く金色の両目だけということは分かっている。

「ひざまずけ。両手を頭に当てろ」

 指示に従い、膝が冷たい床に触れるまで屈みこむ。「私は破壊工作員じゃない」と伝える。「技術者よ。この宇宙船の船長に記録の点検を頼まれたの」虹彩メカンに搭載されている撃退装置が作動する音は聞こえない。ブラディエーターの熱い唸りがすべてを飲み込んでいた。「説明してあげて、トゥー・マッチ・ハピネス」

 しかし船長は何も告げない。男の手で荒々しくボディスーツの襟首が剥がされ、刺青と手術跡が露わになるのを感じた。「戦闘用接続ポートだ」兵士は唸り声を上げる。「この嘘つきのモノイストめ」

 分かっている、他の兵士たちも今すぐにでもここにやって来るのだ。巡礼は始まる前から終わっていたのだ。その認識が自分の意識を体へと強く押し込んだ。宇宙船が久遠を進む中、重力のかすかな変化が肌に囁く。肋骨に響く心臓の鼓動。蠢く小さな虫が脚へ、脇腹へ、そして肩へと這いあがってくる感覚。

 彼女の耳の穴に極小の整備メカンが近づき、話しかける。「リーン様、間もなく照明の故障が発生いたします」ぎりぎり聞こえるぐらいのかすかな声でトゥー・マッチ・ハピネスは言った。「また、和平協定は停止されるとの報告を受けております。重大な残虐行為が露見したためでございます」

 リーンは気を張った。そのとき、宇宙船内のすべての照明は消え、周囲は突然の暗闇に包まれた。素早く背後を向き、驚愕した兵士の叫び声を捕える。柔らかく水分を含んだ何かに空圧針を突き刺す。でっぱりはへこみに、叫び声はうめき声に変わる。兵士が振り回す刃を躱し、その残忍な残光と輝く金色の瞳の残骸を目にした。

 彼女は逃げ出した。


 モノイストは闇を崇める。リーンは人生の半分を光のない地下空間で過ごしてきた。そしてその経験は今、自分にとって良い結果をもたらしている。サンスターの兵士三人が猛追してくる中、貨物室へと全力疾走する。宇宙船がまだ久遠航行中であることも都合がよい。ここでの重力の変動など、ススール・セクンディの終わりなき乱重力に比べれば取るに足らないものだが、追跡者たちが足を踏み外し、壁に激突する音が聞こえてきた。戦闘用に強化された四肢も突然まともに動けなくなったのだろう。

 背後で兵士たちの刃が空を切り裂く音が聞こえ、前方にその荒々しい影が映りこむ。角を曲がると、貨物室の扉は開いていた。自分が置いた特大スーツケースがその奥に直立している。

「後ろの扉をロックしてもらえる?」息を切らしながら、急いで貨物室の中に入った。

「他のお客様が貨物室へ立ち入ることを拒否するわけにはまいりません」どこからともなくトゥー・マッチ・ハピネスは答えた。「えこひいきとなってしまいますので」

「またどこか壊れたんじゃないの?」リーンはスーツケースの上部に手のひらを押し当てながら告げた。

 スーツケースがぱかりと開くのと同時に、貨物室の扉が空気音を立てて閉じた。しかしトゥー・マッチ・ハピネスは一定の時間を稼いでくれただけだ――ブラディエーターがあれよりも遥かに分厚い障害物を切り裂くところを見たことがある。スーツケースの暗い外郭の中へと潜り込み、慣れ親しんだ起伏を感じ取った。一瞬、井戸へと落ちていく切り倒す者のように、完全に消滅していく自分の姿を思い浮かべる。

 扉の方向から焼けこげる音が聞こえてきた。火花が散り、光の粒が暗闇の中を舞い、それから頭の高さで金属が溶けて穴が空き、刃先が顔を出した。それが扉を伝いゆっくりと切断し、闇に光る裂け目を残していく幻惑的な状況を見つめる。

 アレイビル製防護服の装甲はまだ組み上がっておらず、それぞれの作業工程は対照的だった。ブラディエーターは信じられないほど速く動いているように見える一方で、防護服はゆっくりと組み上がっている。1メートル離れたところにもうひとつ光点が現れ、ふたりめの兵士が作業に加わったことに気づく。

 兵士らは間もなく扉を突破してくるだろう。そうなれば、自分は格好の的だ。その刃で切り裂かれ焼き尽くされる様を想像する。もしかすると記録コア前で不意打ちしてきた兵士がまずこちらの目を奪うかもしれない。自分がしたのと同じように。心のどこかでそのような死を渇望する自分がいる。それが何らかの形で肌の台帳を、その記憶を清算してくれるかもしれないと考えて。

 切り裂かれた金属の扉がこちらに向かって倒れ、放電して再び火花を散らす。兵士たちが踏み込んでくる。

「いつも小さな穴倉に隠れてやがる」ひとりが暗闇を見回しながら声を響かせた。「出てこい、モノイスト」

 防護服が閉じ、ようやく接続ポートが識別されて静電性ケーブルが神経系へと突き刺さる。戦闘用化学物質が、あらゆる恐怖と不安を消し去った。兵士たちが闊歩する中、心の隅のどこかだけがまだ自らの死を渇望していた。心のほとんどは兵士たちの死を叫んでいた。

 異教徒。殺戮者。侵略者。それはジョスカで感じたのと同じ暗い怒り、私の分隊が命令に怖気づいた時でさえ私に想像を絶する仕事を完遂させた怒りだ。天界帝領の着陸船を屠殺場に変え、三百の死体を不活性ポッドの中で泡立つ汚れにした怒り、サンスター・フリーカンパニーによって屑鉄に変えられたモナステリアットの植民地すべてへの復讐の怒りだ。

 自分にできるのはただそれに身を委ねることだけだ。重力ガントレットを起動し、兵士たちの前へと姿を現す。

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アート:Andrew Mar

 至高点への最終接近は孤独なものだった。貨物室で繰り広げられた行いは、和平協定が無効化されていたため、合法的な戦闘ではあった。それでもトゥー・マッチ・ハピネスは兵士たちの死体と貨物を宇宙空間に投棄することを選択した。整備メカンの群れが死体をエアロックへと運ぶ。リーンは粉々になった死体を船外へ押し出す手伝いをした。

 今、彼女は誰もいないブリッジに裸で座り、のぞき窓の前で足を組み、至高点の光なき瞳を食い入るように見つめていた。防護服は中身のないまま隣に立っており、巨大な偶像のように見える。自分と防護服、いい組み合わせだ。全身が空っぽに感じられる。筋肉が痛む。骨が痛む。皮膚には生々しい痣が浮かび上がっていたが、それでも針を手にすることはやめなかった。

「こんなに近くで生身の人間が死ぬところを見たのは初めてでございます」ようやくトゥー・マッチ・ハピネスが話し始めた。「楽しいものではございませんでした」

「そのうち慣れるわよ」手元を凝視しながら、リーンは言った。

「その台帳、それらの印のことでございますが」メカンはいったん言葉を切った。「これは倒された者と倒した者、どちらを表しているのでしょうか?」

「両方」リーンは針を精密に動かし、刺す痛みに息を切らしながら答えた。

「かなり多くの刺青が、ごく最近に彫られたご様子です」リーンはこれまでこのメカンから感情を感じ取れていなかったが、トゥー・マッチ・ハピネスが告げたその声には、恐怖にも似た感情が含まれていた。「和平協定を停止させた残虐行為は、ジョスカという衛星で発生したものでございます。リーン様、ジョスカを訪れたことはおありですか?」

 リーンは作業に没頭している。まだ未処理の記録がある上に、そこに三つが追加された。それに、モナステリアットが自分を再び戦場に送り返す日もそう遠くないだろう。

「もう少しで新たな印を入れる隙間はなくなるかと思われます」しばらくしてから、トゥー・マッチ・ハピネスが言った。「その後はどうなさるのでしょうか?」

 リーンはどうなるのか考える。星座のようなこの体それ自体が、墨で肌を覆いつくすことでゆっくりとヴォイドのようなものに変わっていく。そして、自己はその中に消えていく様を思い浮かべる。その想像は、予期せず心に落ち着きを与えてくれた。

「圧縮するわ」と彼女は言った。「そして静止するの」

 メカンは何も言わなかった。ふたりは完全な静寂の中で至高点へと近づいていく。



(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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