MAGIC STORY

久遠の終端

EPISODE 04

サイドストーリー ウスロスの扉

AnaMaria Curtis
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2025年6月25日

 

 ソリッドボディーズ・リサーチの窓口担当であるヴェルメノンが、テーブルの向こう側でこちらを見つめている。ジェルダンはクラゲに表情が無いことにはすっかり慣れていた。彼は自分のような生命体と意思を疎通するためにエモートスクリーンを身体の上部に漂わせているが、自分と会話している間、エモートスクリーンの口が平らなままなのがいつも気にかかる。彼の言葉もその引っかかりを解消するわけではなかった。「君にできることは他にはない、ジェルダン。これか、あるいは他の誰かの何かと交換するかだ」

 ジェルダンの背筋に寒気が走った。また見返りを求められる。またじゃないか。今度ばかりは逃げるのを止めて成功する時ではないのか?「でも……」

 自分が知る限り、クラゲはため息をつかない。しかしヴェルメノンはどう見ても苛立った様子で、飲み物に巻き付けていたしなやかな触手を伸ばす。「長年、君に必要なものを提供し続けてきたわけで、そういう親切は積み重なっていくものなのだよ」

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アート:Inkognit

 ジェルダンは反論を飲み込む。苦い記憶が脳裏をよぎる。彼らはいつも次の仕事をこなすに十分なだけの援助を与えてくれた。自分の船を取り戻して自由になるには、それだけの借りを返すためにもう一度仕事を成功させなければならない程度には、十分な援助だった。そして上手くいかなかったときも、ただそれを計上するだけでよかった。

 ヴェルメノンは続ける。「もしうちの会社の業績がもっと良ければ、もしかするとここまでの喫緊な問題にはならなかった、かもしれないのだが……」

 しかし自分が彼らに負っている援助分や仕事内容、そして物品類の積み重ねも、他の誰かに負わせたなら更に価値が上がるのかもしれない。

 ヴェルメノンはそのまま続ける。「しかしソリッドボディーズは……芳しくはない。我々の研究開発チームはウスロス連合の脳みそガス連中に出し抜かれていてね。奴らは我々に無い何かを持っているはずだ。ウスロスの施設には何か重大なものが存在するはずで、それが何なのか、何を意味するのか、その手掛かりを一部だけでも掴むことができれば、それは君への貸しよりもはるかに大きな価値があるのだ。侵入が成功すれば、君は自由になれるぞ」エモートスクリーンの顔の眉がぴくりと上がる。ジェルダンはばかばかしいと言い捨てたかったが、言えなかった。彼はあまりにも多くのことを語りすぎている。ここまで話したのであれば、自分に他の選択肢はないし、何なら生き残れないと思われていることが明らかになってきている。

 そして彼の言う通りなのだ。ジェルダンは身を乗り出した。「そういうことね、わかったわよ。あたしに何をしろって?」


 ソリッドボディーズが彼女に求めているのは、滑稽ではあるが根本的には単純なことだ。ヴェルメノンが提供するこまごまとした装置付きのベストを装着すること(予備としてレジントにもひとつ渡しておく)。惑星ウスロス周縁の補給ステーションや廃品回収場に張り巡らされた監視の目を避け、秘密に包まれた中心部へ向かうこと。そこにある施設を――存在しないはずの施設を見つけること。できうるかぎり奥へと侵入すること。施設内中心部の近くまで行けば、それを囲むように扉が設置されている――ジェルダンとレジントはその扉にまでたどり着くこと。そうすれば、ベストの装置がソリッドボディーズ・リサーチの開発チームに必要な情報を送信するに十分なほどに近づけるらしい。ヴェルメノンは何を見つけるべきなのかについての詳細は伏せているが、到底安全だとは思っていないようだ。

 それについてジェルダンはそこまで気にしているわけではない。前回は依頼主から安全な任務だと言われたが、結局あの渓谷の斜面をレジントに切り砕いて救ってもらうはめになったのだ。

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アート:Piotr Dura

 彼女とレジントは惑星ウスロスの外縁軌道で待機し、ヴェルメノンからの進行指示を待っていた。ジェルダンはウスロスの外縁軌道に点在する補給ステーションや古い倉庫がずっと好きだった。自分に弟がいたら、きっとこんな風に愛着を抱くのだろう。片側には広大な宇宙、反対側には青や紫や桃色、そして玉虫色に輝く星雲の渦という背景。そこに殺風景な補給ステーションとけばけばしい酒場や宿泊施設を繋ぐ錆びた金属の長大な集合体が浮かんでいる、という対比が最も好ましい。美しい背景の上に浮かぶ醜さ。子供の頃にアダージアの製薬会社のために在来種の花を摘んでいた頃から、あのクラゲどものために高級企業の陳列館で企業秘密を探っていた頃まで、自分はいつも美しいものに興味があった。

 ジェルダンの新しい宇宙船は不格好だった。古いカヴの採掘船で、オレンジと茶色の塗装が剥がれ落ちて灰色のでこぼこした金属が露わになっている。長くて武骨、剃刀のような船体の後部には、プラズマ・トーチが六基取り付けられている。前の所有者が渡してきた書類によると、この船が進宙したのは約百年前らしい――文化的には価値がない程度に新しいが、書類上の機能性に嬉しい驚きを覚える程度には古めかしい。

 モノイストのアレイビル製重装耐圧防護服を自身とレジントの二着分確保するためとはいえ、自身の船を手放したことによるジェルダンの精神的苦痛は続いていた。粋で機敏、内部も自分好みに構築したあの宇宙船。比べてしまうと、このカヴ船はあれより不格好で耐えがたいものに見えてしまう。ひとまず、ヴェルメノンから送られてくる箱が届くまでの時間をカウントダウンする。仕事が決まった今は、待ち遠しく思う。すべてが急に近づいているように思える。ソリッドボティーズからの依頼を完遂して、ついでにちょっとぐらい自分へのご褒美も……そしてついに成功し、ようやく借りと援助の網の目のような永遠の重圧から抜け出し、いよいよ自分のものが手に入る。

 箱が届いたので確認をレジントに任せ、その間に救命艇と購入した耐圧防護服を何度も点検する。レジントは若い学生時代にイルヴォイ言語を学び、研究実験室で働いていた――彼はピナクルを軽蔑し、仕事が暇なときには無限導線基地で会社員や密輸業者を食い物にしていた。今や彼は黒髪に銀色が混じり、採掘船の金属剥き出しの床に胡坐をかいて座っている、何も持たない男だ。心のどこかでは、彼を自分の仕事に誘い込んだことをずっと後悔していた。

 もしこの仕事を成功させられれば、彼に償いができるだろう。


 最初は、すべてが順調に始まった。この古びたカヴの採掘船はこちらの操縦に対して頑なに抵抗してくる。夜間に砂漠を横断するために農機具を熱線で改造するはめになった事を思い起こされるような手ごわさだ――つまり、ただ操作に対する反応を少し待つしかない。もちろんこれはカヴの操縦士用に作られた席で、その半分であっても自分には大きすぎるし、体重をかけて操縦桿を押し込んでもその操作には多少の遅延があった。とはいえ、もっとひどい船を操縦したこともある。

 この船を停泊させている位置から近い廃品回収場を出発地点として、係留されていない宇宙船が流されていくのについていくことで、無軌道に流れゆく残骸に紛れるつもりだ。

 ジェルダンは窓の外を眺めて目の前に広がる惑星ウスロス、目がくらむようなその雲の模様、その背後のかすかな何かの流れを見つめる。隣ではレジントが画面に表示された同じ雲の配置をじっと見つめ、指先でその気圧配置図をなぞっている。

 「想定航路の側面から嵐が近づいてるな」と彼は告げる。「その端をすり抜けられれば、少なくとも外輪部での監視は掻い潜れそうだ」

 「船の損傷はどれくらいになりそう?」

 「嵐の端に留まれれば、最小限だな」

 「じゃあその端に留まれる可能性はどれくらいあるの?」

 レジントは愉快そうな目線を彼女に飛ばした。「さすが船長」彼は操作していた画面の端を指で叩いた。「悪くない確率だな」彼はそう判断した。「この宇宙船はでかいし、救命艇はその船体にしっかり守られてる」

 もう一つの選択肢は、この船の中枢装置以外の生命維持装置の電源を全て落とし、耐圧防護服を着込んで隠れて監視の探知を回避する方法だ。次善の計画と言える。「そういうことね」とジェルダンは伝える。「端をすり抜ける経路に調整して」

 彼が指示に従い、その操縦桿に導かれて船が前方の不気味な塊へと進む様を見届けながら、この窃盗行為の苦労全てに釣り合う価値のあるものとは何なのか訝しむ。何をもって成功となるのだろうか。

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アート:Loïc Canavaggia

 この嵐の端を滑り抜けるのは、何か美しさを感じる。宇宙船の窓から覗くと、ガスの渦は速すぎて目では追えず、色彩が乱舞しているようだ。その光景は何か落ち着くものがある。それ以外には何も見えない、だから宇宙船の壁がきしむ音を聞き、流れに揺られる様を感じるしかない。すべてはバランス感覚、すべては直感だ。

 自分の船が恋しい。カヴ用のでかぶつではなく、本当の自分の船。もしこの状況から抜け出せるなら、取り戻したい。この船なんて売り払って。誰も取引を断れないような何かを見つけるのだ。

 かつての自分の小さな船なら丸ごと飲み込んでしまいそうな巨大採掘船の操縦桿を握りながら、空想にふける。ソリッドボディーズとその援助の押し付けという脅しから解放されたなら、ふたりで小さな博物館を立てるのはどうだろう。あるいは美術品の収集家を相手にするのもいいかもしれない。企業からの依頼に長く関わりすぎたせいだ。美しい品々の取り扱いや、適切な買い手を誘い込むときの緊張感、出所について尋ねられた際にはさり気なく詮索させないよう話題をそらすこともあった。それら無しでは物足りない。すべてが嘘でできた雑談に、フリーランチと思わせる話術、そして契約成立後すぐに立ち去れる自由。

 ウスロスに、この嵐に侵入して脱出することさえできれば、なんだってできる。この生活から次の生活へと運んでくれるものを見つけさえすればいい。

 ジェルダンが左手の手動操縦桿を強く握りしめたとき、強烈な突風が宇宙船を襲い、何かが砕ける激しい音がした。レジントは息を呑んだ。

 宇宙船の動きが不安定になった気がする。船体の破損はなさそうだが、プラズマ・トーチがいくつか損傷したのではないか。ここまでは嵐の中心が宇宙船の右舷を維持するように、その端を航行してきた。ジェルダンはペダルを強く踏み込んで舵を左に切ろうとする――宇宙船が激しく揺れ、ゆっくりと、しかし容赦なく揺れながら右方向に引き込まれていく。

 「ジェルダン――」

 「わかってる。プラズマ・トーチよ。何かが当たったんだわ」操縦桿を再び左にひねる、肩が外れそうなほど強く。「それで向こうに引っ張られてるみたいね」

 「なら、抜け出さないと」

 ジェルダンは緊急生命維持装置を作動させ、それぞれの座席から伸びた固定ベルトが自分とレジントを覆い、なおもベルトが伸び続けるのを見守った。もちろん、カヴ用の装置だ。

 船の右舷にまた何かが衝突した。その衝撃で今度はレジントがジェルダンに勢いよくぶつかり、彼の頭が彼女の肩を押し、彼女の肘が操縦桿に激突した。固定用のベルトがふたりをまとめる形で絡みつく。

 「そういうことね」船が傾くのを感じながらジェルダンは言った。「ゆっくりしましょ。ワイヤーと油圧機構が壊れちゃ、もう操縦のしようがないわ。あとはただ待つだけ」

 レジントが向けてくる視線に気づいた。半分は不安、半分はまさに気の毒にといった表情だ。起こっていることに対処することもできず、ただ待つしかないというこの状況は自分が一番嫌いなものだった。

 五百まで数えよう。頭の中で今回の計画を練り直す。百二十一まで数えたところで、諦める前にこの嵐から生き残る方法を考え付く。

 「レジント?」

 「あん?」

 「ヴェルメノン指定のベストはどこ?」

 「保管庫だが。なぜだ?」

 「マイクが付いてるって言ってたわよね?」

 「ああ」大揺れを続ける宇宙船の動きの中でレジントの顔は見えないが、彼が微笑んでいるのはわかる。こういう時はいつも気を紛らわせるのが大事だから。「そう言った」

 「それで、ここまでマイクは届く?」と彼女は尋ねる。

 「無理だろう」

 「わかったわ、じゃあ」――今度は宇宙船の左舷から衝突音が聞こえて体がこわばり、いったん言葉を切る――「あいつらがどんなものを送り付けてきたかわかる?」

 「大してテストはできなかったが、ほとんどの装置は予想通りのものだな――気温、時間、圧力なんかを測るよくあるセンサーだ。とはいえ、全く見覚えのないものもいくつかあったが……」

 「へえ?」

 「そのうちのどれかは俺たちの状態を測るものだとは思う」

 「例えば、心拍数とか、酸素とか、そういうやつ? 大抵の防護服にあるような」

 「まあ、そういうのも含めるが、神経系のものもあるし、さっき言ったようにマイクも付いてる。眼球用の装置もひとつ――」

 「知覚強化じゃなくて?」

 「いや、そうだったらいいんだがな。たぶん瞳孔の開き具合を測るとかだろう。それから皮膚用のパッチがふたつあって、ひとつは肩、もうひとつは喉のすぐ下に貼るものだな」

 宇宙船の揺れが一旦止み、急激に横へと傾いた。座席のヘッドレストに頭を軽くぶつけてしまう。「そういうことね。いつものセンサーに奇妙なものがくっついてると。企業のやり口としてはよくあるやつね。どうしてそんなに気にしてるの?」

 「わからない」レジントは静かに答えた。「あいつらは俺たちの事なんて気にしてない。だったらなんで俺たちの汗のサンプルなんて必要とする? 侵入を指示するぐらいなんだから、何か理由があるはずなんだ。他にも何かおかしいところがある。もしかしたらあいつらは、俺たちが何か新しい種類の……超圧縮燃料炉心とか何かを見つけると期待してるのかもな。それならベストにエネルギー探知器が付いてるのもわかる。あるいは、見つけ出すのが何であれ、そこから発生する何かしらに俺たちが何らかの反応を示すと考えているのかもな。だがもしかするとあいつらは、あらゆる事態を想定している気すらする――まるで俺たちがこれから踏み入る先で何があるのか分かっていないみたいにな」

 「素敵ね」とジェルダンは返す。「最高じゃない」そして少し間を置く。「あのベストを着こんで潜入するって契約だったでしょう? だけどあの契約書には独占権については何も書いてなかったはず」

 レジントは不満の声を上げた。「書いてなかったのは間違いないと思う。こうなると思ったよ。あんたは不安になるとすぐ悪だくみを始めるんだよな」

 ジェルダンはわざわざそれを否定したりしなかった。「落ち着きましょ。とにかく、考えてみなくちゃ。ベストを着こんで侵入して、あいつらが欲しがるデータは全部手に入れる。あいつらはあたしらがそこから脱出できるとは思ってない。脱出できたなら、競合相手に売り込めばいい。ベストに仕込まれた装置が拾えなかった情報があればそれも全部ね。ソリッドボディーズ・リサーチに勝てると教えるの。それであたしの宇宙船を買い戻して、心労とはおさらば、楽しい暮らしに戻るのよ」

 「反対はしないさ」とレジントは言う。「俺たちがこの状況から抜け出せたなら、なんだって言うことを聞いてやる」

 彼はこれまでに少なくとも十数回は、彼女にそう言ってきた。ジェルダンは船内の暗闇の中で微笑む。彼女はいつも自分たちの窮地を脱してきたのだ。

 彼女らの宇宙船は監視の目を潜り抜けた――輝く青い光が周囲の空を横切り、その奥には弧を描く複雑な構造物がある。その光の奥にいるクラゲたちが、エモートスクリーンを使わず無表情なままで侵入者に備えて武器を構える姿までもが思い浮かんだ。

 その光はこの宇宙船の隅を一度、二度と横切り、そして去っていった。あの嵐による残骸が周囲を取り巻く。この宇宙船も残骸のように見えるだろう。なんとか掻い潜れたのだ。


 嵐を抜け出すころには、この宇宙船の生命維持装置の半数が壊れかけていると操縦室のコンピューターは警告していた。完全に稼働するのはプラズマ・トーチ一基だけで、操縦席の右側にあるスクリーンはひび割れており、いつ圧力に耐えきれず破損してもおかしくない。その上、タンクのひとつから燃料が漏れ出ている。少なくともスクリーン上で確認する限り船はウスロスの核へと近づいており、監視の環は完全に越えているようだ。この宇宙船を表す小さな光点は、通常通り重力に引かれる形であの惑星へと徐々に近づいている。表示器で見る限りでは積載してある救命艇に問題はなさそうだが、指定の装備を取りに行っている間に、レジントに確認しておいてもらおう。

 レジントによると、救命艇の状態はまあ大丈夫だろうということだ。ヴェルメノンから送られてきた監視装置とベストを持って彼女は操縦席に戻る。スクリーンには亀裂、燃料も漏れ出ている。出発前にできるだけウスロスの核に近づいておきたいところだが、防備はできるだけ固めておいた方がましだろう。あの救命艇では周囲の圧力に対応できそうにない。

 宇宙船の自動操縦がウスロスの大気圏をその惑星中心に向かって進みゆく中、ジェルダンとレジントは交互にヴェルメノンからの装備一式を装着する。このヴェルメノンの装備だが、「ベスト」とは単なる俗称にすぎない。既知あるいは未知のセンサー群一式をまとめるための耐圧式繊維による多重編目構造服と言ったところか。太腿に巻き付ける部品(「何を測るつもりかしらね」と独り言がこぼれた)、接眼レンズ、何枚もの皮膚パッチ、それに文字通りのベスト(これが既にソリッドボディーズ・リサーチにデータを送信しているのは間違いない)。完璧な装飾が施された専用の小さな腰掛けにヴェルメノンが座り、こちらの心拍数が上昇していることを示すスクリーンを見つめている姿を想像する。あの塑雲製の腰掛けが欲しいとずっと思っているのだけれど。あいつが窒息でもしてくれればいいのに。

 ベストの次は耐圧防護服だ。レジントはそれを着込むのにためらいがあるようで、その重厚な黒い塊を睨みつけていた。

 「気に入らんな」と彼は言った。

 正直に言えば、同感だ。モノイストのアレイビル製防護服の重苦しい見た目は、心の内に深い恐怖を呼び覚まされる。とはいえこれはここの重力に耐えるための最適な防護服だし、もし捕まったとしても正体を隠す助けになるかもしれない。

 「他に選択肢はないわよ」彼女は彼に言う。

 防護服が体にぴたりと張り付くと、変化が感じ取れた――周囲の変化か、それとも自分自身の変化なのかは分からなかったが。もちろん、身に着けた防護服は頼もしい。背は高く、がっしりとした体躯の様相に加え、内側からは駆動音も感じ取れる。そう望むなら、この宇宙船のコントロール・パネルを引っぺがすことだってできる。船壁を破壊して進むことも。そう望むなら。欲しいものを奪い取り、自分のものにできる。そう望むならだ。この感覚、この力の幻影に集中していると、かちり、かちりと音がした。ソリッドボディーズ・リサーチのベストに仕込まれた装置が防護服の外部センサーに接続する音が聞こえたのだ。現実に引き戻される。この防護服は力であり、同時に独房でもある。ソリッドボディーズ・リサーチに指定のデータを提供しない限り、自分たちは決して自由にはなれないのだ。

 防護服を身に着けたことで、この宇宙船と救命艇が建造される際に想定されていた元々の乗組員、カヴ族の鉱夫たちの大きさに近づいた。ふたりは救命艇に乗り込み、発進する。ジェルダンはこれまでよく働いてくれた採掘船を、少しの間だけ見つめていた。レジントがあの採掘船に追跡装置を取り付けておいてくれた。ソリッドボディーズがこちらに送ってくれるはずの輸送船で脱出するときに、あの船を曳航する方法があるかもしれない。自分たちが任務を終える前に、ウスロスの終わりなき嵐があの船を破壊してしまう可能性のほうが高いか。

 今、闇とウスロスの重力に立ち向かうのは、自分たちと救命艇だけだ。

 モノイストの防護服を身にまとっているせいか、恐怖に震えるレジントの姿が常に視界の端に映るせいか、あるいは単に今置かれている状況と言う現実が身に染みているせいか。どちらにせよ、ジェルダンは胸がむかつくような感覚に襲われ始めていた。

 彼女は頭の中で計画を反復する。

 ひとつ、指定の扉を目指す。

 ふたつ、何か価値のあるもの、このすべての行為に価値をくれる何かを入手する。

 みっつ、降りる時に救命艇を隠すとしてそれに戻るか、イルヴォイの大型宇宙船を奪い取る。そしてウスロスの中心からそう遠くない場所にある、廃墟と化した補給ステーションまで移動する。ソリッドボディーズの宇宙船がそこで待機しているはずだ。

 よっつ、二度とこんな真似をしなくて済むようにする。


 追ってくる怪物の群れから再び遠ざかる。塑雲製の金属輪で作られた歩哨たるあれらは、ウスロスの中心を周回し、ときおり各方面で交差しながら光の弧を送りあう。青や白やピンクやオレンジの美しい流線型の怪物は、まるでそれぞれが存在していないかのように互いの群れの中を悠々と飛び回っている。それらの鰓はガスや塵を取り込んで色とりどりのきらめきを放ち、胸鰭の動きや長い尾の弧を描く動きは自分たちが乗っているような小さな船に対しての完璧な迷彩となる。

 それらに食べられそうになったり、尾の一撃であっさり撃墜されて粉々になる危険性はもちろんある。とはいえこの救命艇は別に美味しそうではないし、モノイストの防護服の力によってあの大型船に乗っていた時よりも操縦桿を素早く操作することができた。

 その後は順調に進み、砂とガスでできた砂霧の奥に固体の金属が見えた。金属の核。ウスロスの研究センターだ。

 ジェルダンはレジントと視線を交わす。防護服で口と顎は見えないが、互いににやりと笑っていることはわかる。自分の中で何かが目覚める。かつての追跡の高揚感。美しくも手に入らないものに狙いを定める面白さ。

 救命艇から降り立ち、研究基地のつるりとした美しい金属の上に足を踏み入れた途端、巨大な手のひらのような、容赦のない、過酷で、無慈悲な重力がのしかかるのを感じた。防護服はこの困難な状況に対応して役目を果たし、身体が宙に浮いていると感じるような状態に保っている。だが、それでも違和感がある。脳の一部が、自分はもう死んでいるはずだと叫んでいる。死ぬところだ、死のうとしている、なのにまだそれに気づかないのかと。

 ジェルダンは深呼吸をする。もう一度。そして通信回線をつなぐ。

 「大丈夫?」彼女はレジントに尋ねる。

 「ああ」すこしの間。「いや、どうかな。防護服は問題ないが、ただ死にかけてる感じがする」

 「クラゲたちにもっとデータを送らなきゃね」

 彼の鼻息が聞こえた。「ああ、わかってる。行こう」

 ウスロス連合ステーションは、その名の由来となった巨大ガス惑星の核、その中と外の両方に建設されている。この惑星の暗く硬い核が目の前で待ち受けている。塑雲製の構造物が密集して絡み合っている様はまるで珊瑚のようだ。ウスロスの核から伸びて広がり雄大に成長したそれは、イルヴォイの誘導光の穏やかな波を思わせる色彩で飾り立てられている。あのクラゲたちにとってはこの色彩にも何か意味はあるのだろうが、ジェルダンにとっては単なる美しい迷路に過ぎない。これらの構造物のほとんどは空洞だが、その構成は高密度だ。どの開口部も自分たちの重装防護服の脚ぐらいまでしか通れないだろう。

 ジェルダンとレジントは救命艇を手近な構造物の環状部分の端に固定し、後で戻れるように地理マーカーを設置した。ふたりでひとつの柱の頂上まで登り始める。ジェルダンは目の前に広がる入り組んだ経路を見ながら黙考する。登り切るのに数日かかりそうだ。ウスロスの核の引力に絶えず引かれ続け、常に重力に晒されるのだから。試しに拳で塑雲製の環状物を叩いてみる。

 「この防護服の力で破壊して侵入できると思う?」

 レジントは鼻を鳴らした。「たぶんな、ただ防護服の耐久を考えて、一度、いや二度ぐらいにしたほうがよさそうだ」

 「そうね」ジェルダンは自分たちが立つ管部分の曲がりくねった形状、その太さ、他の管部分とのつながりを考える。「どうせ侵入するなら、もう少し中央から離れた場所にしたほうがいいかも。すぐに気づかれないような所」

 レジントは重装防護服の中からぎこちなく指さした。「右手側、あそこに何か小さなものがある。そこを狙ってみるか?」

 「いいんじゃない」

 目指している小さく丸い窪みまで三分の二ほど進んだところで、下から何かの乗り物と思われる鈍い轟音が響いてきた。

 「伏せて様子を見ましょう」とジェルダンはつぶやき、ふたりはほぼ同時にしゃがみこんで塑雲製の壁の隙間から下方を覗いた。三人のイルヴォイが、それぞれ宙に浮く椅子に優雅に腰かけたまま通り過ぎていく。それらが真下を通過する間は息を止め、直下での影の変化や頭上にあるモノイストの防護服に気づかれないことを願う。ひとりは触手を振り、まるであざ笑うかのような仕草で進んでいった。他のふたりは面白がっているかのように首を振っていた。だれも警報音を鳴らすようなこともなく、去っていった。

 脇道でジェルダンとレジントは座り込み、防護服の中から取り出した栄養ペーストを口に含んだ。プラスチックみたいな味だ。それを流し込むための、防護服に充填されていた水も不味かった。しかしジェルダンはもっとひどいものを飲んだこともあったなと思い出した。そうして座り込んでいると、これから移動しようとしていた横の通路からひとりのイルヴォイが現れ、壁にある何かに触れた。壁の一部分がスライドして開き、何らかの端末が現れたが、そこに表示されているものは自分の視覚、あるいは理解の範疇を越えていた。

 「少し移動しよう」とレジントが提案する。「角度によっては端末に何が表示されているか確認できるだろう」

 ジェルダンは同意して移動する。彼がゆっくりと進み、おそらくあの入り口、イルヴォイの頭部の奥まで確認できる位置で体をひねるまでを見守る。

 風が強くなってきた。かちかちと小さな音が聞こえ始める。そしてそれが小さな岩の破片、あるいは何か鋭く硬いものが防護服の金属部分に当たっている音だと気づくまでに数分を要した。

 あのイルヴォイの研究者は何かに軽く触れ、空をじっと見つめてから、開いた穴の中へと消えていった。

 「レジント」ジェルダンは呼びかけた。「この大気の状況。気付いてる?」

 レジントは悪態をつく。「これか。こんな石みたいなのに叩かれ続けたら防護服が破損するかもしれない。危険を冒すしかないな。ここを曲がって、あそこから侵入してみよう」

 派手に開けた穴から侵入するのは、ジェルダンが想像した通りの満足感があった。頭蓋骨の奥底でまだ何かが引っ張られている。殴りたい、傷つけたい、壊したい、手に入れたいという衝動。この重力とあの契約に対しての怒りが多少残っているのは間違いない。逃げ出したいという――原始的で本能的な――衝動も少しはあるが、自分の腕ほどの幅がある塑雲製の壁の一部を拳で砕いているうちにそれは消え去った。

 ふたりは辛うじて通り抜けられる程度の広さの空間をどうにか進む。防護服の縁が壁に当たり、金属同士が擦りあう甲高い音がゆっくりと響く。いったん内部に侵入してみると、外の嵐の音は聞こえなくなっていた。

 先程の脇道まで辿り着くとふたりは身を屈め、壁に引っ込んだあの端末を呼び出そうとしてみるが、反応は無かった。

 「さっきは何か見えた?」ジェルダンはイルヴォイの作業員が残した椅子を何気なくこづきながら、レジントに尋ねた。「面白いものはあった?」

 「『大きい』って意味の単語は見えたけど、大して役には立たなさそうだ。後は何か……『神』かな? あるいは『終わり』? みたいなものが見えたな。それと『食べる』とか『土地』を組み合わせた文章みたいなのがあったが、その横に渦巻きがあったし、何らかの修飾語だったのかもしれない」

 「なるほど」ジェルダンはそう言って、中央へと続いていそうな通路へと先導していく。「何を意味してるかはわからない、と。もしかしたら、仕事用の端末でゲームを遊んでただけかもね」

 「秘匿されている新たな燃料源だとは思えないな」とレジントは返す。その声はどこかぼんやりしていた。「だが、それが何なのかは分からない」

 答えを得る方法はひとつしかない。


 ふたりは歩き続ける。

 ジェルダンは尖塔やアーチ門、そして数々の通路にどれほど惑わされてきたかを思い出せなくなっていた。最終的に、すべては中央へと通じている。

 空洞路は壁の金属が放つ玉虫色のきらめきに照らされ、淡いピンクや青色に輝く。外部では、この惑星が毎分ごとに危険への新たな導きを刻んでいる。噴出する液体金属や、今までに見たこともないような怪物の群れ。しかしこの内部では、道が開かれている。

 ただ歩き続けるだけでいい。必要としているものはすぐそこにあるはずだ。

 指定の扉までたどり着くだけでいいのだ。

 防護服を身に着けたときの違和感は忘れていない。しかし今は、その状態こそが自然であり、力強く感じられる。防護服を着ていると、疲れも感じない。中央に向かって、ふたりでひたすら歩く。レジントが休憩を要求するそぶりもない。お互いに長時間無言でいたため、彼がすぐ後ろにいることも忘れそうになる。

 やがて、外部通路と内部空洞路の合流地点に到達した。行く手を阻むものは誰もいないようだ。そもそも、なぜ阻もうとする? こそこそと動き回る時間は終わりだ。必要ならクラゲを何人か殺すことだってできる。ソリッドボディーズ・リサーチのためではなく、自らの興奮のために。

 何かに前へと引っ張られる。引力のように力強く純然たるもの、それでいて引力でない何かに。その何かに、肉体よりも精神が強く引き寄せられる。

 ジェルダンは歩く。歩きながら、十代の頃に貿易船の棚から骨董品を盗んだことや学生寮で作った記念物のことなどを思い出す。自分には昔から、価値のあるものや美しいものを見抜く鋭い目、内なる感覚があったと思う。そして今、それと同じ感覚が自分を前へと突き動かしている。求めている最後のものが見つかるのだ。これを勝ち取れば、二度と敗者とならずに済むはずだ。

 自分のために収集し、けれど他人に渡さざるを得なかったすべてのもの。逃げ回り、嘘をつき、這いつくばって手に入れたすべての――他人のための情報。

 そろそろ自分のための何かを持ってもいいときじゃないか?


 角を曲がると、そこにあったのは指定のものと思われる、扉だった。ジェルダンは厳粛かつ荘厳な装飾が施された金属の扉と警備員たちの姿を想像していた。この扉は儀式的な意匠と言うよりも、むしろ有毒金属処理施設を思わせる。しかも周囲は完全に無人だ。

 「レジント、監視装置は確認できる?」

 「いや」

 「わかったわ。あたしが行きましょう」

 レジントは片腕を上げて、ジェルダンの行く手を半ば遮った。「あの扉が見える範囲まで近寄ればいいって言われたんだよな」

 「え、ここで引き返すつもり?」

 レジントの両手が防護服越しにわなわなと震えている。彼の指が手のひらに収まり丸まる様子が思い浮かんだ。彼は彼自身のために何かを欲してるんじゃないの? この力に引かれたがっているはずよね?

 「さっき見た端末に何が書いてあったか、ずっと考えてた」と彼は言う。防護服の通信越しでも、声が震えているのがわかる。「この考えが正しいと思う。『世界を喰らうもの』みたいな言葉だ。『神』で『世界を喰らうもの』。それが何であれ、ジェルダン、部屋から引っ張り出して持ち帰って自分の家に飾れるようなものじゃあない」

 「感じないの?」彼女は尋ねる。頭の外側から、ねじれた自分自身の言葉、その絶望、その苦痛が聞こえてくる。それでいい。苦々しく思って当然でしょう?「この引力を感じないの?」

 「感じるさ!」彼は言い放つ。「俺はそれが恐ろしい。お前も恐ろしいはずだ。この力はお前を掌握しつつある。考えてみろ! 俺たちは秘密の研究施設の中心部へと送り込まれた。俺たちの生死なんか気にしちゃいないやつらが、俺たちに言えない目的のためにだ。ここまでは幸運に恵まれたさ。その幸運に感謝して、脱出を考えるべきだ」

 「ようやくここまで来たのよ」ジェルダンは自分の返事が聞こえた。彼女はもはや正気を失っている。彼女と言う存在の半分はその体の中にあるが、もう半分はあの扉の向こうにある何かに向かって手を伸ばし、たどり着き、手に入れようとしている。「すべての答えを得たい、その気持ちを大事にすべきでしょ?」

 「やめろ!」レジントの声に絶望的な響きが滲み出る。「どうした、ジェルダン。やっとあのクラゲの洒落た玉座を手に入れたじゃないか。ずっと欲しがってただろ。あんたの宇宙船を取り戻す算段が付いたら、あの操縦席の脇の空いてるところに仕舞おう。あとは戻ればいいだけなんだ」

 だけど、そんな単純な話じゃないでしょう? ソリッドボディーズは脱出のための回収手順を保証していた。あいつらはそれを親切心と言うだろう。また借りを返せと言うだろう。何か大きなものを手に入れなければ、あいつらが渡してくるもの以上のものを持っていかなければ……決して抜け出せない。

 ジェルダンは手元の椅子を見下ろす。あの端末の場所で見つけてからずっと持ち歩いていたものだ。特別なところは何もない、単に青みがかった灰色の金属が滑らかな螺旋状に巻かれているだけで、その底部は自分の手でつかめるほどに小さい。これでは不十分だ。この程度のものが良いだなんて、なんて愚かだったのか。

 耐圧防護服の巨大な手で椅子をゆっくりと握りしめ、それが砕け散る様を眺めた。

 「ごめん、レジント」と彼女は言った。大仰な防護服の中で片腕をくねらせて自由にし、ヴェルメノンがよこした接眼レンズを取り外し、胸部の装置を手でかき剥がし、ほかに接続されていたものもすべて外した。あいつらへの借りは全て返した。自分たちの最高の宇宙船はまだ取り戻せない――もっと価値のある何かを手に入れるまでは。自分が見るもの、手にするものはすべて自分のものにする。

 触れただけでその扉は簡単に開いた。まるで自分を待っていたかのようだった。勢いよく開いた扉の先から向かって吹きつけてくる空気は重く、暗く、死を越えた何かが充満していた。このモノイストの防護服も、装着された酸素フィルターも、その前には無力だ。約束された光景、ここまで自分を引っ張ってきたものの姿、やってきたことすべてを価値あるものにする知識を得ようと奥を覗き込んだ時、この惑星の金属核に埋め込まれたひとつの悪夢の一端が見えた。

 それはアダージアから来た怪物の死骸。大仰で、奇怪で膨れ上がった姿。いや、それはひとつの砂嵐の終焉であり、扉口に迫る見返りを求める者の影だ。これまでに意識したあらゆる日常的な恐怖と理不尽な恐怖の、その頂点。膝から崩れ落ちて、防護服の金属が塑雲製の床にぶつかる。自分が見ているものが何なのかはわかる。ここにあるのは恐ろしくも唯一のもの。大切にし、崇拝すべきもの。巨人の死骸だ。現実を歪め、時間を歪めるもの。おそらくクラゲどもはこれで兵器を作り出そうというのだろう。

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アート:Bryan Sola

 やつらは理解していない。これが求めるのは、世界を完璧な姿に形作るということだけ。彫刻刀のように力を振るうことだけだ。自分にはわかる。そのための粘土となろう。そうなることで、美しく力強い何かになる。価値のあるものに。

 背後のどこかで、低い声で繰り返される悲鳴が空洞路に響き渡る。何かを叫ぶレジントの声がヘッドセットから聞こえる。彼が逃げられることを願う。逆境を乗り越えて脱出できることを。

 だが自分はこの床から引きずり出されるまでここにいるつもりだ。この悪夢に浸り、その歪んだ美しさを見るために。

 誰もこれを奪えやしない。誰も奪わない。



(Tr. Yuusuke Miwa / TSV Mayuko Wakatsuki)

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