MAGIC STORY

久遠の終端

EPISODE 03

第2話

Seth Dickinson
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2025年6月24日

 

Revison10 コロニーを調べる

 「まだ梱包されたままだ」

 サミとタンは防護アーマーを身にまとい、滑走路のエプロンに立って見つめた。光は深い紫から黒へと移り変わる。空が黄金色に染まる夕暮れから、薄気味悪い時間へ。

 すべてが建築用粘土で覆われているように見えた。メカンたちはこの地の岩を用いてプレハブの建物を覆い、繋ぎ、そして住民が来るまでその状態を保つために粘着質の強靭な素材で包んだのだろう。

 コロニー全体が今なお梱包の中にあった。

 気圧の変化で覆いの上に細かな粘土の粒が巻き上げられ、雨に濡れて橙色の塊と化していた。美味しそうにも見える。

 「じゃあ、なんで明かりがついてるんだ?」サミが尋ねた。「タン?」

 タンは滑走路に腹をこすりつけ、考えこむようにうなり声を発した。「感じるのは……機械だ。工業設備だな。街の中心近くで稼働してる。採掘場の切羽か? カチカチ言ってるのはドローン掘削の音っぽいな」

 「遠隔操作でコロニーを動かしてるのかな」

 サミは安堵に息を吐いた。これで全部に説明がつきそうだ。電源が生きているから明かりがついている。採掘機械は熱心に動いて、貨物コンテナにモーキサイトを詰めている。そしてもし処理方法のわからないものが見つかったらどうするかというと、それは一旦脇に置いて人間のオペレーターの判断を待つのだ。

 「なるほどな」サミは爪先で跳ねながら判断を下した(アーマーを着込んでいるため跳ねるのはほぼ不可能だったが、それでもサミは跳ねた)。「金属男は機械が大好きなんだろ? 遠隔操作でここを起動させたんだ。で、機械が何かよくわからないものを掘り当てた。そしてあの男はそれが何なのかを突き止めて欲しがってる。だから私たちは送り込まれたんだ、生きた試薬みたいな感じに。それが……危険なのか、貴重なのか、ともかく何なのかを調べると。タン?」

 タンは匂いをかいでいた。そのアーマーはフレーメン結接から空気を吸い込み、サンプルを採取し、合成ライブラリから同等の、かつ彼が吸入しても問題のない香りを抽出する。

 「メシの匂いだ。でかいパン皿にドロワットとティブが入ってる」

 サミは跳ねるのをやめた。「え?」

 「腹を空かせてる奴がいる。食べようとしてる奴がいる」

 「いや、タン、ここは遠隔操作で動いてて、誰もいない……そうか。畜生、誰かが先にここに来たんだ」

 ラック・デュ・パルトの乗組員か、根こそぎ船長か、あるいはその下っ端か。自分たちよりもずっと武装がしっかりしている奴ら。

 けれど、自分たちほどこれを必死に追い求めている奴らじゃない。

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アート:Dmitry Burmak

 タンは両腕を上げた。金属を切断する作業用の爪が音を立てて開いた。


 「時々思うんだけどさ。高性能で手頃なアーマーが普及したせいで、現代の反逆者は暴力に魅力を感じすぎてるんじゃないかな。まず撃つ、けれど相手は死なない、ただ戦闘から追い出すだけ。だったら撃ってから質問すればいいってことだろ」

 「船長」タンが囁き声で返した。「通信したらディフされるぞ」

 「方向探知? 何言ってるんだ。こっちの存在は知られてない。知ってるなら匂いを封じ込めてるはずだし」現代の反逆者は、タンの鎧に付属するフレーメンのような嗅覚センサーも使う。

 「知らないわけないだろ。俺たちは夕日を背に降りてきてコロニーの上空を横切ったんだぞ」

 「あ、そっか。確かに」サミは細部にとてもこだわるが、時に完全に違う細部にこだわることがある。「じゃあ、なんで滑走路で誰も待ってなかったんだ? セリーマ号の砲塔を怖がってたのか?」なお船に砲塔はない。

 もしかしたら不法占拠者かもしれない。でも与圧防護スーツなしでは息もできないシグマに居座る者がいるだろうか? 本気で隠れたがっている者だろうか?

 金属男は賞金稼ぎとして自分たちを派遣したのだろうか?

 サミは隣接する住宅ブロックふたつの間を這うように上がっていった。一旦立ち止まり、くしゃみをする。アーマーの中にカビが生えているのだ。再び息を吸い込むとフレーメンが作動し、匂いを嗅ぎつけて再現した――インジェラパンの上に盛られた、美味しそうなラチキンとラビーフの匂い。

 「匂いのすぐそばまで来たと思う」そうサミはタンへと送信した。「覗ける窓を探すよ」

 そしてもう少しだけ這い上がり、窓枠の上に顎を突き出した。

 額の高さで家のセンサーが円形に開き、はっきりとした大きな声が告げた。「チョップライト家へようこそ。一緒に夕食はいかがですか? マナー指針をご覧いただき、靴はマットの上に置いてください。2歳の子供がおりますが、まだ客人の存在に慣れておりません。自由な振る舞いがありましてもお許しください」

 「上手くやったもんだ」タンが送信してきた。「家のそばで見つかるとはな」

 「こんなもてなし好きな人たちだなんて知らなかったんだよ!」サミは屈みこみ、家の中で食事中の何者かが騒ぎ出すのを待った。あるいは壁越しに撃ってくるかもしれない。

 だが何も起こらなかった。

 サミは無線でその家のマナー指針を呼び出し、ざっと目を通した。礼儀正しく、当世風で、特定の宗教的信念への偏りは見られない――モノイスト、サンスター系サミスト、フェイサル、ベサーディスト、救済核派、変質核派。どれもチョップライト家の存在論的な問いに答えてくれてはいない。建築証明書は3年前に発行されている。けれどチョップライト家は結局来なかった。柔らかな雨の下、その親切な家はただここに佇んでいるだけ。

 「3年」サミは繰り返した。

 「何だ?」

 「この家は3年前に建てられた。チョップライト家は希望条件を記入したけど、結局来なかった」

 タンはうなり声を上げた。「じゃあ、なんでその家は2歳の子供がいると思ってんだ?」

 「生まれる予定だったのかも」

 「それとも、実はそこにいてドロワットとティブを食べてるとか? その匂いはどこから来るんだ?」

 ああ、いい香りがする! 見ると2枚の粘着シートの間の樹脂が剥がれ、裂け目が走っていた。そのすぐ後ろに、サミを見つけた窓があった。両方向の通気性に優れた多孔質のプラスチックで、家の湿度と空気のバランスを保ってくれる。

 匂いはそこから来ている。

 サミは中を覗き込んだ。

 「卓のある居間だ。座るためのクッションが広げられてて、手を洗うための水盤もある。水はなみなみと入ってる。大きなパン皿がひとつ」サミの胃袋が大きく鳴った。「ドロワットとラステーキのティブがそこに載ってる」何年も前、ワーム語り号で、毎晩厨房の閉まり際にティブを食べていたのを思い出す。

 明かりはついている。熱誘導プレートの上でティーポットが沸騰して音を立て、自動洗浄機能付きのけばけばしい床に熱い湯がこぼれている。まるで夕食の盛り付けの最中だったように、皿の上には四角く裂かれたインジェラパンが散らばっている。

 「申し訳ございません」家が言った。「チョップライト家は現在、お客様に対応することができません。どうぞごゆっくりお寛ぎください。何でも気兼ねなくご使用ください」


 どこも同じだった。

 まるで誰もが日常生活を中断して、去っていってしまったかのような。

 「コロニーのヴィイと無線で繋がった」タンが報告してきた。人間は現実と仮想世界とに注意を分散させるのが苦手なことで有名だ。そのためサミはそれをタンに任せている。カヴにとっては、左右の目で別々のものを見るようなものだ。「俺を検査官だと信じ込ませた。地図、安全記録……色々あるぞ」

 「ヴィイはここに住人がいると思ってるのか?」

 ヴィイ、人工知能は粘菌と同じような賢さをもつ――つまりデータの生物であり、指数関数的に複雑な問題を解決できるが、その根底に現実のモデルは存在しない。計画と管理に優れており、特に多くの科学者を苛立たせるような、多変数で絶えず変化する問題に強い。彼らは最適化という擬似肢を未来の可能性という迷路へ伸ばし、報酬を見出した未来を選ぶ。

 けれど、常識があることで知られているわけではない。

 「いや、そうじゃなさそうだ。誰も働きには来なかったって書いてある」

 「遠隔操作されてると思ってるのか?」

 「思ってないな。そっちは何かわかるか?」

 サミは屋根からシートで覆われた別の屋根へと飛び移った。着地し、しゃがみ、蹴り上げ、舞うたびに足元でシートが気持ちよく砕ける。サミはコロニーの中心に向かった。セリーマ号のセンサーは2万人分の熱と二酸化炭素を検知した。彼らはここのどこかにいるはずだ。

 「いい場所だ。サバンナみたいな配置だ。真ん中の広場を囲んで、4つの居住区と4つの公共施設が置かれてる」

 「サバンナで進化したからサバンナみたいな配置なのか?」

 「かもね。広場は綺麗だ。もちろんスーツなしじゃ外には出られないけど」空気は薄い。完全な与圧服は必要ないが、暖房と換気装置は必要だ。

 「コロニー計画に詳しいなんて知らなかったぞ、船長」

 「色んなとこを渡ってれば、どうしてそんな形をしてるのかなって思うようになるさ」人間が計画した都市は現代のカヴの居住地とは大きく異なる。人間は脱出の準備をそれほど行わない。「大きな通りに出た。宇宙港に貨物を輸送する列車の線路っぽい」サミはくしゃみをし、咳込み、カビ臭い空気を吸い込み、次の建物へと飛び移った。「ちょっと待っ……え。何……」

 「船長?」

 どう伝えるべきだろう?

 「船長、サミ。話してくれ。大丈夫か?」

 「ああ、大丈夫だ。バイタルサインは見えるだろ、大丈夫なのはわかるだろ」

 「大丈夫だったら聞いてない。話してくれ、そうしないと俺も行くかどうか決めなきゃいけなくなる」

 「与圧防護スーツが……散らばってる。中身はない。沢山散らばってる」

 何百着も。まるで豪華な絨毯の上に敷き詰められたヤシの葉のように、通りの至る所に。まるで奇妙な脱皮の跡のように。

 「誰かが着てたのか?」

 サミは急いで地面に降りた。一番近くの与圧防護スーツが夕暮れのかすかな風に揺れている。付属の呼吸装置が作動していた。中に誰もいない状態で。

 サミは物に触れるのが大好きだが、少し好き過ぎるかもしれない。右手の腕甲をひねって外し、冷たい空気に素手の指を伸ばし、中身のない与圧防護スーツを撫でた。

 温かい。肌のように温かい。湿っている。汗をかいたように。

 顔を上げると、空っぽのスーツが遠くにまで広がっていた。サミは嫌な寒気を覚えた。

 「ああ。使われてる。つい最近。誰かが脱いだばっかりみたいに」

 サミは空のスーツを裏返し、封を見つけ、片手を突っ込んだ。幽霊の肉に触れられるかと期待したが……何もなかった。

 サミは身震いをした。「ヴィイに聞いてくれ、この辺りに誰か隠れてるかどうか」

 「与圧防護スーツが詰まった収納コンテナが割れて、この道まで吹き飛ばされた……だとよ」

 「は? いやいやいや。それで誰も着てないのに呼吸装置が作動したって?意味がわからないよ」

 「俺の推測じゃねえよ。風上にある保管コンテナのパッキンが劣化してたんだと。そのひとつが開いてスーツが吹き飛ばされた、ってヴィイは言ってる」

 「でも……どうして呼吸装置が作動してるんだ?」

 「そっちのパッキンも悪かったのかもな」

 サミは明らかな抜け殻から立ち上がり、辺りを見回した。「タン、こじつけはちょっと止めてくれ。まるで百人くらいが死んで蒸発して、スーツだけが残ったみたいに見えるんだ」

 「確かにそんな気がするな」

 「金属男は何か重要なものを見つけるために私たちをここに送り込んだ。どうして私たちだけなんだ? ふたりだけ。護衛も、監視役もいない。負け犬ふたりとオンボロの船だけだ」

 「俺は負け犬じゃねえ」

 「その通りだ。お前は違う。悪かったよ、タン。あの男が私たちだけを送り込んだのは、損失を最小限に抑えたいからだとしたら?」

 無線からうなり声が届いた。「ここで何が掘り起こされたか、あの男は知ってるってことか? それで何が起こるか確かめるために俺たちを送り込んだのか?」

 「そう思う」

 「じゃあ、俺たちはどうするべきだ?」

 「タンは船に戻ってくれ。航行前点検をして、私が戻ったらすぐに発進できるよう準備しておいてくれ。もし戻ってこなかったら、ミリーを探してくれる誰かを見つけてくれ」

 「断る」

 サミはくしゃみをした。スーツのカビだ。「何だって?」タンは絶対に決断をしない。

 「一緒にいる。損失が最小限に抑えられるからよ」タンは短いうなり声を発した――この話はもうやめたい、という意志表示。「船長? 今ヴィイの音声記録を確認してるんだが、何かがある」

 「何? 何があるんだ?」

 「今送る。もちろん俺も聞いた。カヴの聴力範囲に合わせて音響も設定してあるからな」

 「タン! 何なのか教えてくれよ」

 「ヴィイがコロニーの中心で何かの音を聞いた。採掘場の切羽のでかいドローンの近くだ。船長、俺が思うに猫だ」


 セリーマ号に住んでいた頃、ミリーには日課があった――日課と呼べるかどうかは怪しく、確実なものでもなかった。けれどそれは習慣であり、ミリーが時々とる行動だった。まず仰向けに転がり、謎めいたゴロゴロ声を立て、誰か(多くの場合、サミ)が手を伸ばして乳白色の腹毛を撫でるまでそれを続ける。そして撫でてくれた相手が掴むために用いている付属肢(通常は腕)に四本足でしがみつき、まるで内臓を抜き出そうとするかのように後ろ足で激しく蹴る。ただしミリーは常に爪を引っ込めているので、感じるのは小さな肉球のついた足裏が肌を撫でる感覚だけ。そうしている間、ミリーは牙の生えた小さな口を大きく開けて辺りを盛んに見回す。まるで自分の興奮に戸惑っているかのように。

 そしてミリーはこちらを舐めはじめる。手首から肘へ、舌をせっせと忙しく動かして。もし離れようとすると「ニャー!」と抗議の声をあげ、肉球で蹴りつける。

 あとはただ待つしかない。ミリーが掴み具合を調整しながらこちらの腕を這い上がり、まるで長いパイプを横切る産業機械のように届く範囲の皮膚や鱗を余すことなく掃除し、ついには肩に乗り、顔の側面を舐めて喉を鳴らし、溢れ出る愛情の興奮を表現してようやく終わる。

> タンはコロニーのヴィイに何を尋ねたんだろう?

> タンの質問は気にせず、すぐに猫のところへ向かう。


 

Revison10 ヴィイへの質問と回答

 コロニーのヴィイは並外れた知能を持つが、自己認識を必要とせず、現実の概念も持たない。それは位相空間におけるデータネットワークである。

 タヌークが質問攻めにしても、それは何も会得しない。

TAN_THE_MAN:宇宙港通りに与圧防護スーツが沢山捨てられてるのは何でだ?

 パッキンが破損した保管コンテナから吹き飛ばされたものです。その凝集は、風によるランダム的確率分布の範囲内です。

TAN_THE_MAN:宇宙港通りの食堂でどうして飯がちゃんと出てるんだ? サミ船長の報告によれば、でかい瓶にサボテン茶と融けた氷が満タンに入ってたらしい。ビュッフェ台にはアドボ・ラチキンが温まってて、食べ物のトレーが散らばってて、ガーリックソースがこぼれてブーツの跡が残ってるらしいが。

 当該食堂のメカンたちは、稼働試験として本格的な食事を用意していました。メカンのひとつが機能的不具合を被り、トレーを落としてしまいました。故障を修理するために修繕メカンが到着し、そのため床の上を移動した跡が残っています。

TAN_THE_MAN:稼働試験のためにどうして本格的な食事を用意するんだ?

 冷蔵庫が故障していました。稼働試験に用いられなければ、食材は腐っていたと思われます。

TAN_THE_MAN:誰かが怯えて逃げて、それでトレーを落としたように見えるが。

 違います。ここに住民はいません。

TAN_THE_MAN:サミ船長から報告があった。道路脇の消火栓が開いてて路面に水たまりができてるらしい。そして作業用の手袋がいくつか水面に浮いてると。これはどういうことだ?

 消火栓のパッキンに不具合がありました。修繕メカンがバルブを開き、前準備として局所的な圧力を下げました。その際に作業用手袋と与圧防護スーツが吹き飛ばされました。

TAN_THE_MAN:誰かが消火栓を開けて、手袋をはめた手を水たまりに入れて、そのまま姿を消したみたいに見えるが。

 そうではないことを示す明確な監視記録があります。

TAN_THE_MAN:クランプトン・セヴェリンの作品は知ってるか?

 クランプトン・セヴェリンは人間の作家であり、恐怖と不安をテーマとしたフィクション作品を手がけています。この芸術は、非現実を感情的に捉える人間の能力を巧みに利用しています。セヴェリンは既知の宇宙である“終端”を、人間の因果律の概念を嘲笑する不可知の存在が上演する悪意の人形劇として描きます。最終的に、宇宙は理由も究極の目的もない、苦しみを司る劇場であることが明かされます。

TAN_THE_MAN:ありがとよ。うちの船長はクランプトン・セヴェリンの話ばっかりしてるんだ。

 特権端末から新たなログインがありました。新規ユーザーはSERIEMA_SAMIです。

 新規ログインからのクエリ:

SERIEMA_SAMI:シグマ区の生体非労働者の数は?

 シグマ区のコロニーには、労働者も含め、生命体は存在しません。試験的に飼育された家畜がいましたが、それらは高等神経系が欠如していました。

SERIEMA_SAMI:大気中の二酸化炭素量と熱量はどの程度の人口数を示している?

 大気中のCO2と熱は、コロニーの想定人口である 1万4千人の労働者とその家族数と一致しています。

SERIEMA_SAMI:どうして?

 シグマに作用する潮汐力によって引き起こされる二酸化炭素の放出と熱応力によるものです。

SERIEMA_SAMI:クソ。

TAN_THE_MAN:同意する、全くクソだ。ヴィイ、生活物資の残量に変動があるみたいだが?

 シグマ区では、水、食料、スパイス、工具、医薬品、衣類、低圧安全装備といった消耗品の自動配達を受けています。

TAN_THE_MAN:何でだ?

 備蓄品の腐敗が進んだため、交換が必要となりました。

SERIEMA_SAMI:腐敗率は1万から2万人の住民による消費と一致してる?

 はい。ですが、そのような個体群は存在しません。実際の原因は保管コンテナのパッキンの破損です。おそらく、入植者の第一陣とともに到着したポリマー食性微生物が原因でしょう。

SERIEMA_SAMI:入植者の第一陣って何だ?

 ヴィイは、その内部に存在してランダムノイズに近い痕跡を持つ、低レベルの誤接続を検出し、除去する。そして通常の機能を再開する。

 その発言は誤りでした。パッキンの破損は、コロニーの備蓄基地に送られた最初の物資に感染していたポリマー食性微生物によって引き起こされたと考えられます。

TAN_THE_MAN:話がずれそうだぞ、船長。

SERIEMA_SAMI:怒ってるんだよ、タン。でもそうだね……猫はどこ? 猫はどこにいる?

 シグマ区に猫はいません。

SERIEMA_SAMI:猫の鳴き声を聞いたんだ。

 採掘作業場、粘土処理棟の近くに音声異常が発生しています。おそらく機械的な歪みによるものと思われます。確かに、飼い猫が窮地にある時の鳴き声に類似していますが、金属が繰り返し外力を受けることで発生するものです。

SERIEMA_SAMI:地点情報を教えてくれ。

 

 近くで別の音が聞こえます。

 砂利が壁に衝突して音を立てるような、周期的なノック音です。これは、処理棟の選別装置のひとつから異常物体が見つかったという報告と関連しています。

SERIEMA_SAMI:地点情報をくれ!

> その地点に進む。


 

Revison10 猫を追いかける

 「船長、待ってくれ!」

 待つ余裕はない、何かを待つ余裕なんてこれまで一度もなかった。前に進まなければならない。前に進んで、失望させた乗組員と消えた猫たちと共に過去から抜け出して、未来へ――何もかもが正しい場所へ。船も、乗組員も、猫も、そして自分自身も。ワーム語り号の航行甲板から響くあの死にかけた声、ぼろぼろの肺から漏れ出る予言のかすれ声。「サミ、やがてお前は無に帰すのだ」――あの予言は間違いだと証明されるのだ。

 もしそれが、タンを少しの間だけ置いていくことを意味するとしても――ほんの数分だ、永遠じゃない――走れ。走れ!

 サミはコロニーの大型貨物輸送用レールを駆け、ビニールで梱包されたチタンの塊を横切った。それらはまるで貴重なチーズのように積み上げられ、誰かが必要とする時を待っている。動くもののないコロニーの建物を駆け抜ける。入植者はひとりもいない――ただ、こちらが目にする寸前に消え去っているような感じがした。宇宙港近くの食堂には温かい食事が置いてあった。水たまりには手袋が浮いていた。まるで住民たちは燃え盛る火事から身を隠すために、どこかで身を寄せ合っているかのような。

 「船長、まだ入るな、俺を待ってくれ! 待ってくれってば!」

 待てない。困っている猫がいる。それにもしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、その猫はミリーかもしれない。でも、たとえミリーじゃないとしても……誰かがその人騒がせな猫を助けなければならない。

 サミは巧みな平衡感覚で貨物レールを駆け下り、ボーラガレージを通過した。巨大な有機作業増幅器は緊急事態の只中にあった――点検用作業籠からはプラグが抜かれ、繋ぎ綱やコードは触手のように、磁石や水とともに激しく暴れている。増幅器の一つは姿勢を保てておらず、突き飛ばされたかのように傾いている。搭載機器が「作業規則違反です!」と叫んでいる。

 もちろん、ボーラを操縦する者はいない。2万人分の二酸化炭素と熱を発する者がいないのと同じだ。

 シグマ区には誰もいない。

 だが今、サミはひたすらに駆け、掘削切羽に近づいていく――するとそこに沢山の人影が見えてきた。

 貨物レールのすぐ下、そこだ! 見ろ! 粘土に焼き付けられているのは、苦痛に身をよじるありありとした人体の痕跡。その姿は必死にレールの影に手を伸ばしているが、届かない。

 ついさっき、自分が見る直前に、ここで何かひどいことが起こった――

 だが音はなかった。動きもなかった。生きているものも死んでいるものも。

 驚きながらも、サミはガラスの花畑の中を駆けた。粘土に凍りついた爆発跡。まるでコロニーの中心部が爆撃を受け、すさまじい熱線に空から突き刺されたかのような。そしてその爆撃が途中で止まったような。

 詰まった声で、サミはかろうじてヴィイへと質問を発した。「これは、どうしてここにあるんだ?」

 ヴィイは簡潔に答えた。「落雷のためです」

 「人がいるんだ……死んでる」

 「落雷によって形成される閃電岩は人間の形に類似していることがあります」

 「でも雷? 乾燥した惑星で? 雨もないのに?」

 「地形性の上昇気流により、テチスを上昇する乾燥した砂嵐に電荷が蓄積されます。巨大な金属構造物が存在するため、採掘切羽面では雷放電が発生します」

 ここに人はいない。過去にいたこともない。ただ、人に見えるような偶然が重なっただけ。ガラスに雷が落ちて焼け焦げた死体の形になっただけ。

 そして巨大な金属構造物。

 サミの前方には、粘土加工施設が左右に並んでいる。甲虫の殻のような背面(今にも開いて、掴みかかるクレーンに収穫物を届けようとしている)は、ユーミディアンの廃棄物再生技巧を描いた鮮やかなタイルで飾られている。青緑色をしたユーミディアンの酸が、過去という黒い堆肥を緑豊かな未来へと分解しているのだ。この巨大な機械たちが、ここでの採掘作業の大半を担っているのだろう。もしかしたら金属男がスイッチを入れて稼働させたのかもしれない……粘土を取り込んで、砕いて、粉砕して、すり潰して、ふるいにかけて、乾燥させて、焼成して、漂白して、水を混ぜて捏ねて、押し出して加工品にするのだ。

 何か奇妙なものが見つかったら保管して、誰かが調べに来るのを待つ。

 あの猫の鳴き声は一番近い加工設備から聞こえていた。

 サミはレールを蹴って3メートルほど跳躍し、折り畳まれた作業用傾斜路の横にある通用梯子を掴んだ。そして緊急開閉スイッチを叩くと、スーツのカビに息を切らしながらねじれるほど強く引っ張った。

 ハッチが勢いよく開いた。サミは頭から身体をねじ込み、傾斜路を滑り落ちていった。前方で何かが金属にぶつかり、やがて水に落ちていく不規則な音があった。そして、絶望的な状況に陥った猫の鳴き声も。

 「待ってろ!」サミは叫んだ。「待ってろ。今行くからな!」

 そして緊急用通路から真っ暗闇の中へとまっすぐに落下した。

 ボフッ! 床は柔らかかった。スーツの照明装置が布地の床に貼られたラベルを照らし出す。保護胞ZERO-ONE 品質保証済

 暗闇の中で、猫が小さく鳴いている。

 「ミリー?」

 反応はない。ただ、何か硬いものが金属や濡れたものに当たる、不規則で耳障りな音が聞こえるだけだ。

 「ごめんよ」サミはそう囁き、スーツ備え付けの探知機を暗闇に向けて起動した。

 QA保護胞は柔らかな素材の袋です。爆発にも耐える強靭な膜でできており、100倍に伸ばしても破れません。

 「ヴィイ」サミは尋ねた。「この空間は何のためにあるんだ?」

 ヴィイの返事はない。ここのQA保護胞はコロニーの他の部分から隔離されているのだ、機械的にもその他的にも。ここは粘土加工設備が発見して、どう扱えばいいのかわからないものを仕舞いこんでいる場所だ。雑多な教育を受けてきた犯罪者のサミであっても、ピナクルが異星から採掘された未確認物質を極めて厳重に管理していることは知っている。

 もしかしたら、件のアーティファクトはここにあるのかもしれない。何かを安全に保管するのに最適な場所。

 「おーい?」サミはそっと呼びかけた。「プスプスプス……」

 猫はいない。

 映画では時々、スリヴァーが聞いたものの音や声を真似るという場面がある。獲物を誘い込むためだ。もちろん、スリヴァーは架空の存在だ。

 奥には装甲シャッターがあった。未知の物体が検出されたならそこに排出され、底にある検査槽へ転がり落ちるのだ。

 今、そのシャッターは緩んで揺れていた。猫の鳴き声はそこから聞こえてくるのだろうか? それとも合金が損傷しているだけだろうか?

 検査槽には油ぎって透明な剪断細粉が溜まっていた。この物質は、激しく動くものにぶつかると固体のように振舞うという性質がある。検査槽と保護胞という防壁は、何か本当に危険なものから外にいる全員を守るためのものなのだ――例えば特異点の珠とか、壁を破ってきたもの同士の古代の戦争の遺物とか、ワームの胎児とか。

 検査槽の中で何かが動いている。

 サミのアーマーで、ソフトウェアが立て続けにクラッシュした。

 剪断細粉の下で何かが動いている。素早く不規則に。音を立てているのはそれだ。声。言葉――

 選ばれし――

> 続ける!/


 

Revision10 続ける

 選ばれし――

 違う。そう言ってはいない。検査槽の中の声はサイマー語のように聞こえるが、違う。ただぶつかる音を立てて揺れているだけだ。けれどサミの脳は、その雑音の中で幻覚のような言葉を思い浮かべる。例えば……

 選ばれ、し、ものよ――

 サミは一歩近づいた。選ぶ側になりたくない奴なんているだろうか? 選ぶ側だぞ?

 検査槽の白い濁りの中で動いているのは、生のピッチブレンドの塊のような、黒くてざらざらした卵のようなものだった。表面は油っぽく黒く、小さな泡が沢山浮いており、サミはそれに触りたくなった。まるで手慰みの玩具であるかのように。そして妙に舐めてみたくもなる――けれどそれは、自分が触覚マニアだからこそかもしれない。

 だがその物体の周囲はかすかにぼやけ、桃色を帯びてぶれていた。まるで光が進むべき正しい道を確信できず、あらゆる方向を試しているかのような。光沢のあるハイライトから虹色の縞が発せられていた。

 そしてそれは……羽虫のように飛び回っていた。剪断細粉で満たされた検査槽全体がかき混ぜられている。まるで下から熱せられているように、ゆっくりとした渦を巻き起こして、その上でポップコーンの粒のように跳ねていた。

 サミは言った。「わかった。わかったよ。これってことだよな」

 これで間違いない。金属男が言っていたアーティファクト。自分たちを探しに向かわせたもの。

 サミは世間知らずかもしれないが、直接触ろうと思うほど世間知らずではなかった。適切に扱おう。慎重に。

 臆病な猫を捕まえる時のように、サミはゆっくりと移動して壁から熱格納容器を外した。

 ユニリット社製の示度服と並んで、熱格納容器はピナクルからの定番の贈り物だ。セリーマ号にも12個が搭載されている。きちんとした停滞容器ほどではないが、中性子活性化エンジン部品や流出した化学物質、割れた燃料棒、さらには死体までも収容できる。燃料ノミを吸い込まなくて済む。ミリーはよくその中で遊んでいたが、サミが「おいおい、そこは猫用じゃないぞ!」と叫ぶとミリーは屈みこんでこちらをじっと見つめ、アヒルのような声を発するものの出てはこないのだった。

 サミは熱格納容器を剪断細粉に浸した。

 奇妙な石はまるで喜んでいるかのように、熱格納容器に向かって跳ねた。だがその入り口に剪断細粉がこびりつき、固まりながら流れ込む。石は跳ね返り、安全柵にぶつかって戻り、まるで転がるコインのように渦に乗ってしまった。

 軌道のように。ブラックホールに向かって猛烈な速度で突き進む宇宙船のように。けれどいつもぎりぎりの所で外してしまう。一匹の猫を追いかける旅人のように、決して接触することはない。あのワーム語り号の航行甲板で、死にゆく旅人が最後の言葉を終えようともがく。今わの吐息に追いつかれる前に言い終えることができない。

 完璧な未来のきらめきのように、手の届くほんの少しだけ先にあって、手を伸ばしても、伸ばしても、消えてしまう――

 サミは鋭くかぶりを振った。勘を思い出せ。あの金属男は、自分では手に入れられないものを手に入れるために私たちを送り込んだ。でも部下じゃなく私たちを送り込んだのは、ただ損失を最小限に抑えたかったから。

 もしかしたら、これに触れると呪いにかかるのかもしれない。もしかしたら、たった12日しか生きられなくなるのかもしれない。もしかしたら、身体の中で破片が成長して耳から飛び出してしまうのかもしれない。

 けれど――その正体が何であろうと――金属男はこれを欲しがっている。そして金属男が求めるものを手に入れたなら、船を修理して、進み続けて、飛び続けて、探し続けられる――

 「やれやれ」サミは思わず口にした。「本当やれやれだよ、タン」いや、タンに聞くのはよくない。あいつは選択をするのが嫌いだし、そもそも外にいる。「ミリー、ミリー。やるべきかな? 掴むべきかな?」

 検査槽の中の声が言う。選ぶものよ……

 サミの心の片隅が言っている――選ばなきゃ、ミリーを見つけることはできない。船を持ち続けることもできない。自分でもわかってるはずだ。何をしたって、これ以上ミリーから遠ざかることはない。失うものは何もない。だから、ただやるしかない。手を伸ばして、掴み取れ。

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アート:Darren Tan

 サミは身を乗り出し、手を伸ばした。

 石は検査槽の外縁を跳ね回り、まるで家に帰るかのようにサミの手へと駆け寄ってきた。雑音の中の声は今や大きくなっていた。何と言っている? 「選ばれし」? 「選ばれ、し、もの」? 「選ぶもの」? それとも「選ばれしもの」?

 どれも違う。それは――

 今まさに選ぶものよ。

 「船長」タヌークの声が聞こえた。「船長。なあ、船長? サミ船長? 船長、一緒にいてくれよ。船長……」

 サミは驚いて振り向いた。

 何か恐ろしいことが起こったらしい。タヌークのアーマーにはひび割れが走り、焼け焦げている。背中からは巨大な黒いガラスの棘が突き出ており、作業用の鉤爪は何かすさまじい力で折れていた。

 タヌークは苦しそうな様子でサミへと向かってきた。

 「早かったな。何をしたんだ? 採掘装置と喧嘩でもしたのか?」

 タヌークはアーマーの両手を持ち上げた。何かを抱えている。そしてそれを、まるで差し出すかのように検査槽へと掲げた。

 所々が黒く焼け焦げた何か。変形して溶けた防護アーマー、そこから伸びるバックルとストラップ、切断されたケーブル。砕けたバイザー。カビの染み。じっと見つめる顔……

 サミはよろめいて後ずさった。ありえない、そんなはずはない。「タン! タン、何……」

 タヌークは検査槽の中のものに手を伸ばした。

 「おい!」サミは叫んだ。「待ってくれ! あれを格納容器に入れさせて――」

 サミは急いでタヌークの腕を横に払おうとした。

 そして自身のアーマーの腕が格納容器にぶつかり、その入り口を塞いでいた剪断細粉の塊を破壊した。渦の一筋が流れ込み、石の周囲を固めながらその中へと引き込み、まるで大きな紙つぶてのように格納容器へと落下させた。

 これで触れることなく石を手に入れられる――

 だがその途中で、石がサミの腕甲に当たった。

 これは本当の意味で触ったことにはならないよね? 肌に触れてるスーツの層に触れてる外装に触れてるだけだよね? だったら、触れてるってことにはならないよね?

 アーマーは常にサミと一緒に動く。だから、アーマーもサミの一部と言える。

 タヌークは腕に抱えた塊を検査槽に落とした。安全に保管しようとしているのだ。何せ、ここは何かを安全に保管するのに最適な場所なのだから。

 サミは思う――触ったのは私じゃない、私じゃない。私なわけがない。

 だが岩に触れたことでサミはよろめき、落ちた。検査槽へと――あの焼け焦げたアーマーが落ちたまさにその場所へと――引き寄せられるかのように――死んだ自分の目が見つめてくるそこへ。駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!

 お前の存在は、すべて無と帰す。


 ぐはあ!

 ああ、やれやれ。息をすると痛む。もう一回! ああ、最悪だ。もう一回!

 さあ、咳をする。そして痛む。よくやった、この馬鹿野郎。でも当然だろう? もう一回。もっと激しく咳をする。もっと痛む。馬鹿野郎。

 こんなふうに目を覚ますことがよくある。

 今回は何かに押さえつけられているような感覚(カヴのように、視覚よりも触覚で)があり、サミは身体をひねって逃れようとした。けれどそれはタンだった。

 「おいおい、落ち着いてくれ、船長。呼吸器系の発作を起こしたんだよ。勢いよくぶっ倒れた。宇宙服のカビにアレルギーを起こしたのかもな」

 セリーマ号。サミはセリーマ号の、自身の寝台にいた。この轟音、この振動……核融合推進。宇宙空間に戻ってきたのだ!

 「タン、あの兵器を! どうやって突破したんだ? 迎撃されないか?」

 タンはゆっくりと息を吸い込み、嗅覚の鋭い副鼻腔に空気を通した。「兵器の夢を見たのか?」

 「ホープライトのが……4体いたのを覚えてる。逃げようとする全員に蒼星がそれをけしかけて……」

 タンは角からぶら下がる毛を一本引っ張った。カヴ式の「ちょっと待て」の仕草。彼は片目でサミの額に貼られた診断パッチをじっと見つめた。サミはもう一度尋ねようとしたが、タンはまたも角の毛を鋭く引っ張り、向きを変えてもう片方の目で診断パッチを凝視した。

 そして言った。「脳に損傷はなさそうだ。人間ならそれはかなり深刻な問題だってのは俺もわかる」カヴの脳は肝臓に少し似ている――ただ毒素を濾過するのではなく、物理的なトラウマを処理する。「人格が逸脱するようなことがあったとしても、それは避けてきたっぽいな」

 「タン、あのコロニーは。住民は。あいつら、住民を殺してた……」

 だがすべてが消え去っていく。泥のように指の間を滑り落ちていく。排水溝に流れ落ちていく澱粉液のように。ああ、タンみたいな堅固な集中力があればいいのに! コロニーがあって、住民がいて、彼らは悲鳴をあげて、そして逃げだした。その周囲の地面に黒い花が弾けて咲いた。恐ろしい光が降り注いで、まるでバーコードを読み取るかのように彼らの上を走った。土からガラス玉がにじみ出た。住民は倒れ、あるいは消えた。そして粘土に焼け焦げた跡を残していった。

 いや。そんなことは起こらなかった。

 サミは恐怖に息を切らし、汗で濡れた白い髪を手でかきむしった。何故あんなにも怖かったのか、どうしても思い出せない。

 「コロニーへ向かう時に一機の蒼星を避けた」タンが言った。「ソーラーナイトの巡視隊だった。でも奴らは何かを追いかけて去っていった。覚えてるか?」

 そしてシグマ区は無人だった。粘土に焼き付けられた人たちなんていなかった。

 「タン、私はどうなったんだ?」

 「採掘装置のひとつに付属のQA袋の中でお前を見つけた。お前は変な岩を見つけて、それを容器に入れてた。その後呼吸器の発作を起こした。カビを吸い込みながら走り回ったからだ。俺が船までお前を運んだ。人間の脳損傷を調べる以外にやることはなかったから、発進準備を進めた。お前はいなかったけどお前の計画通りに航行を開始したよ。蒼星が戻ってきて俺たちを見つける前に済ませるのが一番だったからな。ソーラーナイトのことだ、お前もわかるだろ。ちょっと数字を計算して、俺たちを蒸発させる。『輝ける総和』を伸ばすために」

 その通り。奴らはきっとそうするだろう。ソーラーナイト(そしてサンスター・フリーカンパニー全体)は善の概念を極めて大規模に捉えているため、小さなものを踏み潰してしまう傾向がある。もしこちらの存在が、敵の作戦から彼らの注意を逸らし、勝利の可能性をわずかに低下させ、最終的には宇宙のすべての星の未来を危険にさらす可能性があると数学的に考えられるなら……こちらを抹殺することが道徳的に不可欠と彼らは判断する。注意を逸らす可能性があるという、ただそれだけの罪で。

 少なくともサミはそう理解していた。

 「待って。待ってくれ、タン。格納容器だ! それをどうした?」

 「何もしてないぞ」

 「置いてきたのか?」

 「いや、お前の望み通りにした。持ち帰りたがってたみたいだったからな。だからメカンどもに格納容器をセリーマ号まで運ばせて、積み込みもさせた」

 「ここにあるのか! 乗ってる?」

 タンは毛の生えた角から爪先まで、全身を用いて丁寧に肩をすくめた。それはまるで「俺を責めるな、俺の選択じゃなかったんだから」と言っているかのようだった。「金属男が欲しがってるのってそれだろ、違うのか?」

 「違わない! たぶん。いや、わからない。けど間違いなく、あそこにあったものの中で一番奇妙だった。それに、いかにもそれっぽい場所にあった。あの袋の中に仕舞われてて、人間が回収してくれるのを待ってたんだ。私たちは安全なのか? あの石は……何かしてるのか?」

 目の前に積み上げられた質問の山に、タンはじっくり考えて最初から答えた。「そうだな、俺たちはボロボロで壊れかけのトーチに乗ってる。耐用年数は12年も過ぎてる。乗組員が6人は必要なところを2人しかいない。航行計画が却下されたから、いつ人口密集星系で核融合エンジンを無許可で発射したって呼び出されて逮捕されるかわからん。そしてピナクルさえ近寄らないほどやばい戦場のすぐ近くを進んでる。つまり通りすがりのソーラーナイトに原子に還元されたり、モノイストに攫われてソセラを成長させるために星に投げ込まれたりしても、俺たちに代わって抗議の声を上げてくれる奴なんていない。だから、安全じゃあない。変てこな石が加わったところでそれがどうなる? 俺にそれを判断する資格はねえよ」

 「わかった。わかった。すごく真っ当な判断だ。今はどのあたりを進んでるんだ?」

 今や、タンはサミの脳をとても心配しているようだった。「航行計画の次の目的地へ」

 「タン。今の私はあんまり正気じゃないってことにして、教えてくれ」

 「もちろんカヴァーロンだ。ピナクルに伝えた場所だ。計画通りに終わらせないと金属男は来ないぞ」

 「わかった。わかった。カヴァーロンだな。お前は……大丈夫なのか?」

 そう、何と言ってもそこはタンの故郷なのだ。そして彼は故郷への帰還を禁じられている。

 「そうだな」タンは自信がなさそうな様子で答えた。「カヴァーロンじゃ、とにかく掘る。ずっと埋もれてたものを掘り出す。だから、それを厳重に保管するための……本当に確実な……手段が要る。だからピナクルから停滞容器が貰えてるんだよ」

 「タン、お前最高だよ」奇妙なアーティファクトを仕舞うにはうってつけの場所だ。停滞容器には時空間ループが組み込まれている。あらゆるものが恐ろしいほどの速さで落下する軌道を描いているのだ。あまりにも速く、それゆえに時間の遅れが発生し、外の世界からは凍り付いているように見える。

 あの加工施設の周りの黒いガラスの花のように。ヴィイは閃電岩だと、珪素質の砂に雷が落ちてできる岩石だと言っていた。それがたまたま人の形に見えただけ。

 「タン、私は猫を探していたんだけど……あそこに猫はいなかったよな?」

 「猫の鳴き声みたいな音は沢山聞こえてたが、猫はいなかったな」

 「色んなものを見たんだ。まるで人が沢山……燃えて、影だけを残していったような。思ったのは……」

 恐ろしい出来事が起こり、だがそれを思い出せなかった。ただ恐怖そのものと、何かを救うために恐怖の奥深くへと突き進む必要性だけを覚えていた。まるでワーム語り号の時みたいに……あそこでは、自分はひとりの英雄と言ってもよかった。ただ、本物の英雄とは違って、生き残ってしまった。

 けれど今やその恐怖の源はぼやけ、それ自体の内に飲み込まれてしまった。まるで恒星ソセラが自身の暗い核に飲み込まれたように。サミの心臓と背骨の間に、恐ろしいものが潜んでいる。スリヴァーの胎児のように……

 タンが顔を向け、サミを正面から見つめた。カヴにとっては目を逸らすような行為――両目とも、正面からは焦点を合わせることができない。けれどサミを無視しているのではない。視界に頼らなくても、タンの大きな口と敏感な鼻孔は空気を察することができるのだ。

 「俺も同じものを見た」とタン。「けどそれがどういう意味なのかはわからん。全部偶然で説明がつく。おっかない偶然の連続だ……こぼれた水の中で、沢山の住民が手を合わせてる。あれはどういう意味だったんだ? それとも、手袋が風に飛ばされただけだったのか?」

 サミが言った。「クランプトン・セヴェリン」

 「またそれかよ」タンは顎を動かして息を吐き、そして副鼻腔へと再び吸い込んだ。「ひとつ奇妙なことがある」

 「ひとつっていうか、もうひとつ?」

 「お前が寝てる間に、ここのマロウの登記簿を調べた。カヴァーロンでどんなものが手に入るかを知っておきたくてな。それで気付いたんだが……モーキサイトの贈与価値が下がってる。ずっと下がり続けてるんだ、ここ10年くらい」

 「どこで? カヴァーロンで?」

 「ソセラのどこでも、だ」

 「まるで……モーキサイトが前よりも珍しくなくなってるみたいに?」

 「ああ。誰かが新しいモーキサイト鉱山を開いたみたいに。シグマ区だったりしてな」

 「でもシグマの鉱山は産出を始めなかった。誰も働きに来なかったから。メカンだけで全部できるわけじゃないんだ、タン。ルールがあるから」メカンは、自身の裁量に任せられると、不条理なまでに仕事を最適化してしまう傾向がある。

 「その通りだ。登記にもそう書いてある。鉱山は開かなくて、モーキサイトの供給も伸びなかった。なのに価値は下がり続けてる。どういう意味かはお前が判断してくれ」彼は上からサミへと手を伸ばし、医療用スリーブを直した。「休んだ方がいい。アーマーを掃除してやる。カビだらけなんだよ」

 「酵素クリーナーがもうすぐなくなる。薄めるのを忘れるなよ」

 「酵素クリーナー? カビなんて全部舐めてやるつもりだったんだが」

 「タン!」

 「冗談だよ。あの美味いカビが人間の匂いで台無しだ」

 「タン、それは気持ち悪いよ」

 「お前はカビを食べるのを気持ち悪いって思う。俺は、汗とかいう塩辛くてホルモンだらけの冷却材が皮膚から流れ出すのが気持ち悪いって思う。どっちのアーマーも気持ち悪い。お互い様だ」

 「わかった、わかった、それは違いない。忘れないでくれよ……」

 「忘れるかよ」サミが何を頼もうとしているかはわからずとも、タンは答えた。「絶対忘れるものか。もうすぐカヴァーロンVORSPINの圏内に入るから、その時に起こしてやる」


 第一幕はこれで終わりだ。すべてが動き出している。

 望むなら、サミとタンの後を追いかけてもいい。カヴァーロンに到着するところまで一気に進もうか。

 だが紹介したい別の出来事もある。とても重要なものだ。

 心配しなくていい。サミとタン、そしてセリーマ号とミリーの話にはきちんと戻る。最終的にはすべてが繋がるのだから。すべてが。

> 次幕へ進もう。

 


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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