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MAGIC STORY
霊気走破

第6話 無血革命

2025年1月20日
アモンケットの空から落ちるのはまだいい、地面は砂と植物で覆われているのだから。砂が衝撃を少しは吸収してくれるかもしれない。ギラプールの空から落ちるのは?
この件については、後でおたからと話をする必要があるだろう。
「持ち場に戻れ!」ダレッティが叫ぶ。昨日空から落ちたことのいいところは、全員が何をすべきかわかっていること。ピアは間に合わせの翼の角度を調節し、チャンドラは身を乗り出して火の玉の発射を構え、ダレッティは操縦桿を握り締めた。賑やかな街を見渡すチャンドラの肩に、おたからがしがみついた。
彼女は安堵、喜び、あるいはある種の郷愁を感じると思っていた。そしてその一部は確かに自身の内に芽生えていた。だが眼下の群衆は祝しているのではなく恐慌に陥っているのだと気付き、チャンドラは別の感情に襲われた。
不安。
「お母さん、あれ見える――」
「ええ。色からするに領事府の残党どもね」風の轟音に負けないよう、ピアは絶叫しなければならなかった。「またあいつらを見ることになるとはね。想定しておくべきだったわ。ファシズムっていうのはカビみたいなものよ」
「あいつらが何をしようとしてるのかはわからないけど、止めないと」とチャンドラ。「ゴールラインのあんなに近くで何やってるのよ?」
「いいことなわけはないな」とダレッティ。「だがまずは着陸に集中してくれるか?」
ダレッティの言うことはもっともだ。自分たちは急速に地面に迫っている。どこを撃つべきだろう? 金色に輝く壁の前に集まった領事府の衛兵たちを焼き尽くしたいが、飛散して被害が広がる危険が大きすぎる。代わりに彼女は頑丈そうな屋根を狙い、そして同じ建物の側面をすっかり焦がして自分たちの落下を遅らせようとした。
それはうまくいった。だがゴブリンの純粋な創意工夫で作られた0.5トンの機体を減速させるためにできることは限られている。激突が近づいている。
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アート:Michal Ivan |
今回チャンドラは墜落前に機体から飛び降り、炎の奔流を放って減速するという賢い行動をとった。そして各参加チームをテーマにしたぬいぐるみのワゴンに着地した。ふわふわのサメに抱き止められてほっとするとは誰が予想しただろうか。あるいは、コルダタンのぬいぐるみがこんなに売れているとは。
慌てて逃げるファン、残骸から上がる煙、怒鳴り合う衛兵たち。騒乱の中、チャンドラは店主に誇らしくチップを渡そうかと一瞬思った。おたからはまるで礼を言うかのように彼女に抱き着いた。
だがその時、チャンドラはその声を聞いた。
「君はいつも最後の最後に現れるんだね」
それはしばらく、いや、おそらく何年も聞いていなかった声だった。二度と聞けないと思っていた声だった。
チャンドラは立ち上がった。「ジェイス?」
彼女の目は、最も予想していなかった場所にその男を見つけた。その両脇には領事府の逞しい手下たちが並んでいた。ヴラスカも隣にいた。ふたりは生きているとラルから聞いてはいた。チャンドラは希望を抱いた――ジェイスは協力しようとしているのか、それとも潜入しているのか、あるいは何か奇妙な計画を実行しようとしているのか。だがそれは、ヴラスカがカットラスの柄頭で迫り来る係員を殴った瞬間に打ち砕かれた。男は地面に崩れ落ち、ヴラスカは助けようとはしなかった。
心に疑問が渦巻いた。ジェイス、何が起こっているの? 何をしているの? どこにいたの?
おたからは奇妙な感情が入り混じった声をあげた。チャンドラはその叫びの中にジェイスへの愛着と怖れの両方を察した。
彼女がおたからへと振り返った瞬間、ジェイスが片手を挙げた。その小さな子の両目が虚ろになった。おたからの身体は力を失い、チャンドラの肩から落ちた。彼女はかろうじて受け止めた。
「君に説明している時間はない」ジェイスが言った。「チャンドラ、事態を難しくしたくはないんだ。今回だけは邪魔をしないでくれるか?」
チャンドラの心が沈んだ。本当にジェイスなの? あいつがこんなことをするはずがない。おたからはただの子供なのに! ヴラスカを一瞥すると、自分と同じように躊躇しているのがわかった。こんなことはおかしい。
頭上に稲妻が走り、巨人の足音のような雷鳴が地面を揺らした。チャンドラが抱くこの先への希望と同じほどに、空が陰った。更にひどいことに、ドラゴンのものとしか思えない恐ろしい金切り声が響いた。遠くに、建物を焼き尽くす炎の柱が見えた――自分が放ったものではない。
あの嵐は……アモンケットでも似たようなものに遭遇した。けれどここで?
何が起こっているのだろう?
あまりに混沌としたこの状況をチャンドラが理解する前に、街の自動防衛システムが動き出した。ギラプールの空に舞い上がる巨大な影へと、霊気の稲妻が放たれた。燃える炎と叫び声が大気を満たし、散水機の音がそれに続く。細かな霧が街路に降り注いだ。一部は灰、一部は水。飛行船と操縦士たちが飛び立った。最初は小型で機動性の高い機体。旗艦の発進にはしばらく時間がかかるだろう。だが彼らは発進する、チャンドラはそう確信していた。けれどこんな事態に対処できるのだろうか? ドラゴンは素早く鋭敏で、難しい標的だ。
ぞくりとした感覚がチャンドラの首筋に上ってきた。あの侵略の時に自分はここにいなかったが、友人たちやその家族の多くはここにいた。彼らはずっと、再度の侵略に備えていたのだ。
チャンドラは人混みの中にピアの姿を探した。そして母が人々の避難を手伝っているのを見つけ、彼女は息を吐いた。
だがその安堵も長くは続かなかった。ドラゴンがまたも咆哮し、ありえない光がまたも放たれた。その燃える息が屋根に取り付けられた防衛砲台のひとつを融かし、ただの屑鉄へと変えた。
「あのドラゴンを止めに行った方がいいんじゃないのか? お願いだ。ここ以外のどこかにいてくれ」ジェイスが言った。
ジェイスを見ることはできなかった。見る気にもなれなかった。これがどれほどの被害をもたらすのか、皆がどれほど恐れているのかわからないのだから。
「その子は俺が世話して、守ってるんだ。俺が面倒をみる。君はここじゃないどこかで、勝利をもたらしてくれ」
その通り。助けたい。何が起こっているのであれ、立ち止まっているのではなく助けたい――それが本当にジェイスであるならば。
けれど、この男はひとつだけ間違っている。
「私が面倒をみるっておたからに言ったのよ。だから、あなたが引き下がったらどう?」
輝く青い瞳の奥に、ジェイスの普段の冷静な表情ではなく、苛立ちと怒りが見えた。「チャンドラ、君と戦うつもりはない。けれど彼らは」ジェイスが手をひとつ振ると、鎧をまとう強面たちがまっすぐに彼女へと突撃した。
どれほど順調にいっても、戦いとは混乱をきたすもの。ギラプールの狭い通りで、群衆がドラゴンの大規模な攻撃から逃げ回っている中では? チャンドラは苦境に追い込まれていた。この状況から抜け出すには、きっちりと制御された炎の爆発でなければならないだろう。
ひとりが襲いかかってきた。チャンドラは拳をかわし、強烈なフックで相手の腹を殴りつけた。男は息を詰まらせて後ずさりし、だが仲間たちが四方八方から迫った。激しい戦いの中、チャンドラは蹴りと突きを繰り出すのが精一杯だった。おたからをシャツの中に押し込み、傷つかないようにどうにか守った。戦いには両手が必要なのだ。
衛兵たちを撃ち返して少しの余裕を得ながらも、彼女はジェイスを探し続けた。どこへ行ったのだろう? 衛兵のひとりに変装しているのだろうか? そしてヴラスカはどこに?
そこ、後ろに! 騒ぎに乗じてふたりは背後に回っていた。チャンドラはヴラスカの攻撃を避けて後退し、両手に炎を渦巻かせた。
「なんでこの子がそんなに大切なの? 多元宇宙のためになるのなら、私を頼ってくれていいってわかってるでしょ? どうしてこんなことをしてるの?」
ヴラスカは顔をしかめた。「複雑なんだよ、チャンドラ」
「そんなの信じないわよ!」チャンドラは叫び、ヴラスカへと火の玉を放った。だがそれはそのまま相手の姿を通り抜けて壁に散った――幻影。当たり前だ。
「ヴラスカさんの言う通りだ。この計画に君の居場所は存在しない。君には理解できない」背後で再びジェイスが言った。
チャンドラはジェイスに対峙しようと振り向いたが、衛兵が守っていたあの高い壁の傍にその姿を見つけた。待って。あの壁の前にある残骸は? 彼女の胸が締め付けられた。スピットファイアの車が、ねじれた鉄屑の塊と化していた。あの娘は無事なのだろうか?
罠にかかったのはエーテルレインジャーズだけではなかった。キールホーラーズの船は中央から壊れ、クイックビーストは鎖で地面に縛り付けられていた。
「何をしたの?」チャンドラは吼えた。
「チャンドラ、俺にはもっと懸念すべきことがあるんだ」ジェイスは言った。「最後にもう一度。おたからを渡してくれるか、それともこの件をもっと難しくするつもりか?」
その瞬間、チャンドラは厳しい計算を強いられた――新たな友達であるおたからの安全、ドラゴンの攻撃で危険にさらされている多くの命、他のレーサーたち、そしてジェイス自身。
何をするのが正しいのだろう?
彼女はニッサから貰ったピンに触れた。「この子を手に入れるために誰かを傷つけるなら、あんたはこの子にふさわしくない。やれるものならやってみなさい」
傲慢で耳障りな笑い声。友と呼ぶようになったジェイスというより、初めて会ったときのジェイスを思わせる声だった。「やれるものなら、か。俺がどれほどやれるかを君はまだ知らない。でも、本当にやって欲しいというなら……」
ジェイスから魔法の渦がひらめき、まだ残骸から脱出しようとしているレーサーたちを白い霧の網が包んだ。ひとりまたひとり、彼らの目が虚ろになっていった。ファー・フォーチュンは車の残骸から立ち、その物騒な鉤は魔法の輝きを帯びた。集まったレーサーたちの間に戦いの雄叫びが広がった。
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アート:Borja Pindado |
一斉に、彼らは突撃した。
「ジェイス、あんたおかしいよ!」
「俺をここまで追い込んだのは君だ。感謝すべきは君自身だ」
彼女が立っている足場をハウラー船長が粉砕した。レッドシフトのロケットが足元に落下した。チャンドラはギラプールの街路を駆け、跳ね、かろうじて攻撃をやり過ごした。
レーサーたちを爆破はできる。できると知っている。けれどそうしたらジェイスの言う通りになり、自分のせいで皆が苦しむことになる。火が肉体に及ぼす影響はよくわかっている。皆、酒を飲み交わした仲であり、ラチェットと潤滑剤を貸してくれた相手であり、バイクにまたがる時の癖をからかわれた。確かに、コースの上では自分を殺しに来ていたかもしれない。だからといって今、皆を傷つけることができるだろうか? 自分たちが何をしているのかもわかっていないのに? チャンドラは転覆したキールホーラーズ船の残骸の下に潜り込んだ。身を屈めれば見つからない。考える時間だ。何をすべきか考える時間。外ではドラゴンが咆哮し、雷鳴が響き、おたからを手に入れようとするレーサーたちの言葉なき叫びが聞こえてくる。
だがひとつ深呼吸をした瞬間、木の板がきしんで割れた。破片がチャンドラの肋骨を叩き、木箱が背後からぶつかった。木片の中に、彼女はヴラスカの姿を見た。
チャンドラに遠慮というものはない。心に浮かぶままを彼女は口から発した。「あんただって、こんなこと納得してるわけないでしょ! ジェイスはたまに嫌な奴になるけど、こんなのはあんたたちのやり方じゃない。あいつを正気に戻してやりなさいよ!」
言い終えた瞬間、チャンドラは攻撃を予想した。
だがそれは来なかった。
代わりに、混乱の中に一瞬の沈黙が訪れた。ヴラスカは言うべき言葉を探していた。傷ついたチャンドラは立ち上がった。
「わかるだろ、私は正しいって」ヴラスカは声を絞り出した。「紅蓮術師はここにいる。捕まえな」
そして予想通り、隠れ場所は暴かれた。レーサーと衛兵たちが海水のように船に押し寄せてきた。こんな集団に対して、掌に集めた炎が何の役に立つというのだろう? 彼らを撃つことはできない。この場所を撃つこともできない。「おたからを返してくれればそれでいい。そうすればここでの用事は終わりだ」ヴラスカが言った。
チャンドラは歯ぎしりをした。
この状況から抜け出す別の方法がある。あるはずだ。
けれど今のところは? その方法を見つけ出すまでは、従わなければならないだろう。
この状況から抜け出す方法が必ずある。
確かに今、状況は良くない。衛兵に囲まれ、アヴィシュカーの現状についての説教を父から聞かされているこの状況では、誰が見てもシータの人生に自由などないと思うだろう。囚われていると思うだろう。
だが囚われてなどいない。そうではないとわかっている。自分がまだ生きているのなら、スピットファイアも生きている。自分たちの希望と夢はそう簡単には潰えない。たとえ父が何を考えていようとも。
モハルが言った。「このようなふざけた振る舞いはお前にはふさわしくない。シータ、お前は決して不作法者ではなかっただろうに。字が読めるようになったその日から、学べることはすべて学んできたのだろう。お前は学究の徒だ! いい子なんだ!」
この思想体系的議論に興味のない学究の徒。シータは父ではなく、その向こうを見ていた。父が時間をかけて娘に講義している間、他のレーサーたちは彼女やウィンターと同じ罠にかかっていた。頭上で猛威を振るう嵐に比べれば、誰にとっても本当に些細な問題に過ぎない。
そして心の中で、彼女はゆっくりと認識していった――レースは中止にはなっていない。ゴールラインを最初に越えた者が、霊気灯を獲得できるのは変わらない。それを手に入れることさえできれば、父は二度と自分を止めることはできない。
手に入れてみせる。
嵐の暗闇が姿を隠してくれる。他のレーサーたちは全員拘束されており、ゴールに辿り着くことはできない。父の衛兵たちは自分を他のレーサーから遠ざけるため、プラットフォームの近くまで連れてきていた。自分への影響を最小限に抑えるためとか何とか。実際、それで自分で動かずともゴールにかなり近づくことができていた。この場所からも、スーツをまとうヴィンが震えている姿が見えた。
何よりも重要なのは、あの円筒缶がひとつだけ残っていること。それを起動するだけで自由になれる。霊気灯は私のもの――誰も追いつくことはできない。そして、ゴールに辿り着ける者は他にいない。
父の部下から手錠はかけられていなかった。モハルは娘が拘引された後の世間体を気にするあまり、徹底的にやることはできなかったのだ。控え目な態度をとっていれば、背中の円筒缶に手を伸ばしても気付かれないかもしれない。父は絶対に気づかない。娘について何も知らないのだから。
「この件で失ったものがどれほどか、考えてみるといい。長年の学び、評判を築くために慎重に築き上げてきたすべてのものを」
「ごめんなさい、お父さん」シータは言う。「考えてなかったわ」
父に嘘をつくのは辛い。辛く思いたくなんてない、けれど辛い。辛くてしかるべき。霊気が容器のガラスに当たって弾けた。シータは手首を曲げ、スーツの一番近いポートに合わせた。
「私はただ……」モハルは辺りを歩き回っていた。「母さんはどう思うだろうか?」
もしかしたらその疑問が、こめかみに刺さる針のように、彼女の視線を父から離したのかもしれない。他の何かかもしれない。だがその時目にしたものが、人生の進路を変えた。
その瞬間、歩き回るモハルをよそに、衛兵たちがチャンドラ・ナラーを連行していくのが目にとまった。まったく意味が分からない。チャンドラ・ナラーを? 確かにコースの上では不注意な素人かもしれないが、コースを離れれば英雄だ。どうしてその状況から抜け出せないのだろう?
答えはすぐにわかった――虚ろな目でその両脇に並ぶ仲間のレーサーたち。
ナラーは彼らを傷つけたくないのだ。
待って、あそこにいるのは。あの紛争の時にいたナラーの友達じゃないの? 確か……ジェイスとか。だが友好的に話をしている様子ではない。そして、緩慢な動きで、シータは残骸の中からピアが姿を現すところを見た。金属の塊を手に持ち、娘の自由のために殴り込もうとしていた。
心が軽くなった。きっと大丈夫。そしてチャンドラが解放されれば至る所に炎が燃え広がり、自分の脱出はさらに容易になるだろう。
ただし。ただし。
辿り着く前にピアは衛兵のひとりに目撃された。彼女が腕を振り上げようとしたとき、衛兵はその腹部に激しい一撃を加えた。ピアは身を屈めた。
「お母さん!」チャンドラが叫んだ。
お母さん! シータは記憶の残響を聞いた。もっと薄れていて欲しかった記憶の。
チャンドラは自分を拘束した者たちへと怒りを向けたが、顔を殴られるだけだった。その燃えて血走る両目に宿る激怒は……
シータはその激怒を知っていた。
私のお母さんはどう思うだろう?
鼓動の間でシータの心臓が止まった。
衛兵たちはピアの髪を掴み、喉に刃物を突きつけ……
自分が何をすべきかをシータはわかっていた。もう、娘が母親を失うことがあってはならない。自分が見ている限りは、二度と、させない。
円筒缶がポートにはまる。霊気が血流に出会う。この瞬間、悲鳴のような混沌の中で、静穏を知っているのはシータ・ヴァルマだけ。そして自分が知っている静穏とは、嵐が岸に押し寄せる前の平穏だ。
その一瞬は、永劫の時。シータは自分を掴んでいた手を振りほどき、不運な父親を過ぎ、ピア・ナラーに向かってまっすぐに飛び込んだ。かかとを衛兵の足の甲に叩き込み、その背後に回り、長い腕を伸ばして相手の手首を掴んだ。刃をねじり取るだけでは足りない。シータの血は熱すぎた。彼女は衛兵の腕をひねり、屈むと関節を押さえた。こういう時のトルクはエンジンと同じほどに効果的だ――衛兵の肩の関節が外れた。彼女は自分の肩を押し当て、相手の肘を逆側に引っ張った。満足のいく音がして、腕が折れたと告げた。緩慢な動きで、衛兵は吼え声をあげて身をかがめた。
よし。
残り時間は多くない。シータはピアの手を取り、衛兵のナイフを握らせた。もうひとり始末しなければ、それも急いで。シータはその衛兵の前で身体を低くし、喉元をまっすぐに殴りつけた。霊気が切れると同時に衛兵は地面に崩れ落ち、息を切らして激しくむせた。
突然、あらゆる音が破城槌のように一気に襲ってきた。だがシータは確信とともに立ち上がった。ピアとチャンドラは共に唖然としながらこちらを見つめていた。
スピットファイアならこう言うだろう――これは貸しだ、ナラー。
だが彼女たちを救ったのはスピットファイアではない。だから彼女は言った。「チーム・アヴィシュカー?」
「チーム・アヴィシュカー!」チャンドラが応えた。
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アート:Benjamin Ee |
車の部品にはすべて役割がある――エンジン、ハンドル、車軸、変速機、排気管。レーサーが電光石火の速さでコースを駆け抜けるためには、何もかもが完璧に連携して機能しなければならない。ごく僅かなずれでも確実に死に繋がる。
エンジン、車輪、変速機。チャンドラ、ピア、シータ。三つの次元を駆けるレースを経て、チーム・アヴィシュカーが遂に集結した。
チャンドラは他のレーサーを燃やしたくはなく、またシータがいる今その必要はなかった。ピア・ナラーが次の標的を選び、弟子ふたりが戦場を駆け回って爆破あるいは打ち倒す。ダレッティは隙を見つけて逃げ出し、衛兵の目が届かない遠くからドローンの群れを送り込んだ。自分たちの沢山の目があれば、また不意を突かれることはないだろう。おたからさえも目覚めていた――ジェイスは精神操作に忙しく、この子にまで手が回らなくなったに違いない。おたからは混乱しているようだが、この状況には興奮していた。
完璧に調和した彼女たちの動きを見ている者がいれば、明白にわかることがひとつあるだろう――彼女たちが共にレースに挑んでいたなら、今ごろは表彰台に上がっていただろうと。そして、見ている者は沢山いる。何故なら、多元宇宙の何処にいようとも、ショーは最後まで続けなくてはならないから。
「聞こえますか?」ヴィンは撮影技師に言った。ゴンティ像の背後に身を屈めながら、彼にできるのは実況を続けることだけだった。
彼の後を追ってきた飛行機械が秒読みを始めた。「生中継開始します。3、2、1……」
「紳士淑女の皆々様、そして全多元宇宙の格闘ファンの皆様! このイン“ヴィン”シブルな、すなわち揺るぎない決意のヴィンが、ギラプール・グランプリから生中継でお伝えします。自分の目が信じられません! 今日の出来事は前代未聞です!」
彼は危険を顧みず、像の影から覗き見た。「分裂、再会、そして共闘! ゴールラインでとんでもないことがありまして、我らがレーサーのほとんどが競争から脱落して戦いに無理矢理投入されてしまいました。ですがご覧の通り、アヴィシュカーお気に入りの娘さんたちはどんな状況でも正義のために戦うことをやめません。あのチームワークをご覧下さい! とはいえスピットファイアが相手の骨を折っていく様子は、お子さんには見せない方がいいかもしれませんね!」
これほど危険な状況下で声を平静に保つのは難しい。だが実際、このためにヴィンは生きているのだ。そしてこの映像!
「ファー・フォーチュンがフックから強烈なオーバーヘッドスイングを――うわあ! キドニーブローを食らってしまいましたよ、紳士淑女の皆々様。もうスピットファイアじゃなくてガットショットって呼ばないと!」
そう、街の大半は混乱の只中にあるかもしれない。だがここには英雄たちがいて、記録すべき英雄的行為があり、ヴィンは全員が生き延びられると確信していた――ドラゴンが頭上で咆哮し、自分たちが身を隠している像へと炎を吐きかける時を除いては。ヴィンと飛行機械は全速力で駆け、炎がヴィンの上質なスーツを焦がす。それでも、彼はマイクに向かってまっすぐに話し続けた。
「そして、このすべてと同時に、私たちはドラゴンにも対処しなければなりません! そう、本物の、火を吐くドラゴンです。ヴィシャム、私たちが何とやり合っているのかを見せてあげて下さい。あの鱗! あの歯は全部私の目くらいありますよ! 絶体絶命です!」ヴィンはスピードブルードの残骸を飛び越え、再び身を縮めた。
だがカメラを戦闘に向けると、ヴィンは身震いをした。悪い展開だ。
「最後の戦いに突入しようとしているようです。他のレーサーは全員ノックアウトされてしまいました! チャンドラ・ナラーとその仲間が、今夜の騒動の原因へと迫っていきます。くすぶる視線。緊張が伝わってきます。それともこれはドラゴンの咆哮でしょうか? 飛行機械一号、あれは近づいてきていますか?」
「そう思います」飛行機械一号が答えると、ヴィンは身をよじった。それは本当に本当なのかもしれない。だからと言って別の隠れ場所へと退散したくはない。
「そうであれば、こちらがすぐに解決されることを祈りましょう! チャンドラ・ナラーが得意の動きを――」
ヴィンは近すぎた、ジェイスの返答が聞こえるほどに。「時間を無駄にしすぎた」
他の者たちが地面に崩れ落ちる様を見るだけでも辛い――けれどアヴィシュカーお気に入りの娘が苦痛の悲鳴をあげ、鼻や目尻から噴水のように血を流す所を見るというのは。ジェイスがチャンドラへと向けている魔法はとにかくひどいもののようだった。その呪文のうねりが、彼女のこめかみに突き刺さっているような。チャンドラは地面に倒れた。ヴィンは彼女がまだ息をしているとわかって安堵したが、同時に衝撃でもあった。ジェイスですら、自分の攻撃の苛烈さに一瞬驚いたように見えた。
「飛行機械一号」彼は小声で告げた。「別のものを映しましょう」
飛行機械は映すべきものを探してカメラを振り回したが、ヴィンはその光景から目を離すことができなかった。まだできなかった。彼はジェイスがチャンドラの倒れた身体から何かを拾い上げるのを見守った――何か小さな生き物。
ヴィンは振り向いた。「失礼いたしました、実況を中断してしまい――」
彼は言葉を切った。ドラゴンが頭上の建物の廃墟にとまり、こちらを見下ろしていた。その輝く両目がヴィンをじっと見つめていた。鼻孔からは煙が渦巻いていた。
「皆様。案内役を務めさせていただき、大変光栄でした」ヴィンはそれを見上げながら言った。
ドラゴンが口を開いた。その喉の奥に、ヴィンは他に類を見ない生物エンジンを目撃した。その内で生まれた炎は熱く燃え、目に涙がにじんだ。空気が霞み、眩しく――
その瞬間、金色の閃光が割って入った。目の前に広がったのは二対の翼、燃え立つ一振りの剣。ドラゴンの炎は輝く光の波に溶けていった。
ヴィンの目の前にいたのは、ひとりの天使だった。
違う。大天使。
もしかしたら、この状況から抜け出せるかもしれない。
ギラプールは植物の成長に適した都市ではない。そのためには、郊外を訪れる必要がある。けれどチャンドラが苦しんでいるなら? 自然は――そしてニッサは――道を見つける。
ニッサは集められる限りの蔓を呼び寄せ、それらを織り合わせてギラプール競技場を目指した。私たちにはいつも何か悪いことが起きる、でも今回は一緒にいよう。
炎の奔流が、親切にも彼女を助けてくれた木々や植物の生命を脅かす。ニッサは樹皮を硬化させ、炎の前から力の限り遠ざけた。チャンドラならばドラゴンの巣穴にまっすぐ向かうだろう。翼の影が見え、皮膚に熱を感じた。これは手に負えない状況なのではないだろうか? 自分には手を貸せるほどの力があるのだろうか?
だがコースの残骸の上に飛び出した時、その必要はないと気付いた。
エルズペスがドラゴンに対処していた。
その天使の巨大な剣と魔法の輝きを見て、ニッサは気分が悪くなった。嫌なことだが、どうしようもない。エルズペスとの戦いがどのようなものだったか、身体が覚えているのだ。目の裏で苦痛が星のように弾けるが、ニッサはそれを抑え、足元の樹皮のように自らを固めた。不快感は一時的なもの。耐えなければならない、見つけなければならない――
あそこに!
巨大な船の残骸の前に倒れているのは、チャンドラ、ピア、そして放送で見たもうひとりの女の子だった。確かスピットファイア? 名前は今は関係ない。重要なのはあの子も友達だということ。ニッサは自分が作り出した根の波から滑り降り、三人のもとへと急いだ。
チャンドラはうめき声をあげた。何かに動揺している。打ちのめされて傷つき、両目の焦点は定まらないながら、彼女はニッサへと手を伸ばした。
途方もなく大切な人。どんな口論も気まずい会話も、今は遠い存在だった。朝寝坊のチャンドラを見つめる時と同じほどに、愛おしさだけがある。ニッサは自分自身へと呟きかけた。
「私はここよ」だがチャンドラを抱き上げようと屈んだ瞬間、右の方から音がした。それは哺乳類らしきものの小さな悲鳴で、奇妙なほどにチャンドラに似ていた。けれど違う――ニッサが振り返るとそこにはジェイスがいて、ぐったりとした小さな生き物を拾い上げているのが見えた。ジェイスが魔法を唱えると、両者の目が青く輝いた。
エルズペスの存在は、喉の奥が焼けるような感覚――心が抵抗することしかできない、骨の髄まで沁み入る嫌悪感のようなもの。
ジェイスのそれはまた別のものだった。ふたつの鐘が調和して鳴らされるような……かすかな共鳴が後頭部をうずかせる。かすかな、ほとんど感じないほどの。けれどしつこく続き、あの聖なる光と同じほどに厭わしい。
ニッサは尋ねた。「ジェイス?」
だが彼は答えず、代わりにその生き物を片手に抱えて向き直った――あれはヴラスカ? そう、今はふたりの姿が見える。最後に覚えている通り。でもどうして? どうしてふたりがここに?
ニッサの唇に疑問が浮かび、彼女はそれを口にしようとした。
「行きましょう、ヴラスカさん!」ジェイスが叫んだ。彼は後ずさりしながらも、ニッサから少しの間目を離さなかった。
ヴラスカは最初、聞いていないようだった。彼女はピア・ナラーの近くでうずくまる若者の身体だけを見ていた。
「ヴラスカさん、早く!」
「行かなくていいのよ」ニッサは言った。その表情はわかる――その躊躇いが。それは……自分自身でなかった時、いつもそう感じていた。「ここにいればいいわ。チャンドラと私が力になるから」
だがその時、魔法の霧がその場を覆い尽くし、ニッサは無益だと悟った。姿が消えた。ふたりとも。
「ニッサ……」
「私はここにいるわ」彼女は再び言った。「ここに」
勝つか負けるかという時に、誰が陰謀や感動的な再会を気にするだろうか? ウィンターは絶対に気にしない。ドラゴンと戦うあの天使に誰もが注目している今――あの鼻持ちならない、都合のいい天使に――ゴールラインに目を向ける者はいない。
ゴールラインは無防備で、奪ってくれと言っている。他の連中は「世界を見る」とか「次元の栄光を取り戻す」といったつまらないことを目指しているのかもしれないが、ウィンターにそんな余裕はない。あるのは必要性だけ。喉元に迫る矢先のような、心臓に触れる杭のような、脳にまっすぐに狙いを定めた稲妻のような。
館は常に勝つ。館は勝たなければならない。そうでなければ、自分は敗北するのだから。
炎の嵐、輝く閃光、落ちてくる瓦礫。どれも自分を止めることはできない。腹の中に絶望の炎が燃え盛っているのだから。首筋に恐怖の寒気がまとわりついているのだから。
ゴールラインを徒歩で越えることについては何も規定されていない。ただ前に進むことができれば。自分の力で、あのプラットフォームを横切って……
衛兵との戦いで片脚を骨折していたが、それは問題ではない。痛みは思い出させてくれる、自分が生きていることを。輝かしく生きていることを。これからもそうあり続けてやる。
ゴブリンのロケット船を跳び越え、不快な粉砕音を立てて着地し、前進を続ける。遠くの戦闘の騒音は届かない。ゴールラインは近い。自由は近い、先の世界は近い、そうすれば……自分が何になるのかはわからない。けれどもうすぐわかる。
キールホーラーズの壊れたマストの下を滑り、スピードブルードの複雑な殻の中を駆け抜ける。
ゴールが近づく。更に近づく。
けれど、その轟音もまた近づいてきた。肋骨が震え、それを胸の中で感じた。あのドラゴンだろうか? 違いない。後ろを振り返るつもりはない。振り返った瞬間、負ける。振り返った瞬間、自分は終わりだ。
ゴールは目の前、本当に目の前だ。
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アート:Alexander Mokhov |
これからの年月において、チャンピオンズ・オブ・アモンケットがこの物語を語る際、ウィンターに触れることはないのだろう。
彼らは戦車の修理に費やした長い時間を、自発的に手を貸してくれた人々を、生命そのものの洪水のようにチャンピオンズに押し寄せたありふれた人々について語るのだろう。希望に満ちた何百という手によって作られた戦車を、その木に染み込んだ夢を、緑豊かで実り豊かな未来を同じように見た死者と不死者について語るのだろう。
そう、彼らはあのドラゴンについて、そしてドラゴンから彼らを守ったバスリの砂の雲について語るのだろう。そう、あの天使について、そして彼女の光がくれた一時の猶予を語るのだろう。けれど天使はチャンピオンズを一顧だにしなかったとも語るのだろう。
そして彼らは語るのだろう――歌うのだろう! ザフールが河馬たちを繰り、偉大なる奇跡の戦車でゴールラインを越えた瞬間を。ああ、それは未来へと長く語り継がれる英雄譚となり、石碑や記念碑、詩や韻文の中に生き続けるのだろう。
そこにウィンターへの言及はないのだろう。
だが幾つかの物語では、ザフールの勝利宣言から間もなくして、コースにひとつの扉が現れたことがわずかに言及されている。そしてそれらの物語では、その後に聞こえた叫び声にも触れているかもしれない。必死の咆哮、悲鳴混じりの懇願。
だがこれらの物語は、アモンケット人が我欲を完全に捨てたことの表れとしかそれを説明していない。彼らはコースの先に広がる恐怖を目にして、助けるために可能な限りの力を尽くした。バスリ・ケトは逃げ惑う民間人を守るために砂の波を召喚した。その盾はドラゴンの熱を受けるとガラスに変わり、美しくきらめいた。ザフールは誰であろうと自身の戦車に乗せて安全を確保した。これらは新たなアモンケットの美徳である――勇気、寛容、そして思いやり。
そう、彼らは歌うのだろう。バスリとザフールが遅ればせながら、自分たちが最初にゴールラインを越えたのだと気付いた瞬間のことを。ザフールが霊気灯に手を触れた時の言葉は、この先百年に渡ってあまねく知られるのだろう。そして、それは彼ら自身の祈りとなるのだろう。「生のために、死のために、アモンケットのために」
だが彼らは、勝利を目前にしていた男が、恐ろしくも絶対的な手で地獄に引き戻されたことについては何も言及しないのだろう。
「痛いんだけど」
「治療中にじっとしていれば痛みも少なくなりますよ」
「じっとしてるわよ!」
「チャンドラ、少しも動かないでってことよ」ニッサが言い、チャンドラの包帯の調整を終えた。「集中して。私と一緒に」
チャンドラは口を尖らせた。いつもそう、そしてだからこそチャンドラなのだ。「いいわよ、わかった。せえの……」
それはふたりが長く続けている訓練だった。呼吸を合わせることに集中すれば、互いを落ち着かせることができる。チャンドラの悪夢であれ、ニッサの記憶の再燃であれ、呼吸はふたりを落ち着かせ、元に戻してくれる。部屋の静けさの中で、ふたりは再び馴染みのある律動を見つけた。ニッサの落ち着きがチャンドラの熱を少し摘み取り、チャンドラは真の安定を見出した。
その静寂はエルズペスの仕事をずっと楽にしてくれた。強い光がチャンドラの額、背中、肋骨を照らす――レース中に彼女が傷を負ったであろうすべての箇所。ニッサは彼女を責めたくなかった。それは間違っている。それでも、心の一部ではチャンドラの無謀さを心配していた。
「さあ。痛みはいかがですか?」
チャンドラは両肩を回して言った。「かなりいいわね。でもそっちこそ大丈夫なの? あなたはもう天使だってのはわかってるけど、あのドラゴンにかなりやられたんじゃないの?」
ニッサもチャンドラも、エルズペスとは知り合いだった。あの……何もかもが起こる以前から。よく知っているわけではない。三人とも決して親しい友人同士ではなかった。それでも、その質問に対してエルズペスが表情をほとんど変えないことに不安を覚えるほどには知っていた。
「罪なきものを守るのは私の責務です。その過程で私がいかなる危害を受けるかは大した問題ではありません」
「そんなことを言って、チャンドラがそそのかされたら困るわ」とニッサ。
「私は無謀ではありません」エルズペスは小さなその部屋を見渡した。そしてチャンドラの寝室という狭い空間に、夜明けのように輝く自分がいかに場違いであるかに気付いた。抑えようとはしていたが、それも効いてはいなかった。「ですが……お二方も備えておくべきです。あの突発現象は多元宇宙全体で日常的に起こりつつあります」
ニッサはひるんだ。それはチャンドラも同じだったが、理由は違っていた。こんな議論に巻き込まれるのは……奇妙に思えた。もうプレインズウォーカーではないのに、誰もが自分をプレインズウォーカーのように扱う。まるでチャンドラが行くところならば、どこにでも簡単に飛び込めるかのように。彼女の一部は言いたがっていた――私はそれについて何をすればいいの?
けれど、いつかまたできるようになると願わなければならない。
ただそれは……今日ではない。
「どういう意味?」チャンドラは尋ねた。ニッサの手を握るその仕草は、穏やかな安心をくれた。ニッサにとって、世界に値する大切なもの。
エルズペスは言った。「領界路を移動しているのは人々だけではありません。太古の魔法が荒れ狂う嵐となって世界の間を流れ、その跡にドラゴンを残していくのです。かつてドラゴンのいなかった次元でドラゴンが目撃されています」
チャンドラは眉をひそめた。それは野生生物にどのような影響を与えているのかとニッサは尋ねようとしたが、扉を叩く音が聞こえた。
「私は確かに年寄りだけど、だからといっていつまでも待てるわけじゃないの」ピアが声をかけた。「このままだと式典に遅れるわよ」
エルズペスは、まるで死後の世界への門を見るかのように、扉の方を見た。「ああ。お母さんですね」
「待たせたかったんだけど無理だったわ」とチャンドラ。「ごめんね。この件については後で話せる?」
「時間があれば、私から声をかけましょう」エルズペスは答えた。「ですがそうでなかったら……貴女と貴女の家族が息災でありますように。そして、おふたりの関係に数多の祝福がありますように」
「あまたの……わかったわ、本当にいい言葉をありがとう」チャンドラは言い、ニッサは笑みをこらえなければならなかった。チャンドラも奇妙に思ったに違いない。そんなことを言うのは誰だろう? このエルズペスではないことは確かだ。つまり、人間のエルズペス。この新しいエルズペスは違う。「それと、助けてくれたことも。ありがとう」
ニッサはチャンドラの着替えを手伝い、ふたりは揃って扉へと向かった。エルズペスは、その伝説的で神聖な優雅さとは裏腹に、一瞬の閃光とともに消え去った。直後、ニッサは再び吐き気の波に襲われた。だがまずは確認すべきもっと重要なことがある。
「頭の具合はどう? 沢山の人と話しても平気? 式典に出たくないなら、どんな言い訳をしても構わないわよ」
チャンドラは手を振った。「大丈夫よ。ちょっと頭が痛いくらいは」
「頭痛で夜の半分を泣いて過ごしていたでしょう」
チャンドラはその問いかけへの返答を持たなかった。ふたりが交わす表情は、言葉にできないことを語っている――チャンドラはまったく元気ではない、だが元気でなければならないのだ。
アヴィシュカーにとって、彼女は元気でなければならないのだ。
ニッサはため息をついた。そしてチャンドラが自分にしてくれたように、チャンドラに口付けをして手を握った。
「じゃあ、一緒に行きましょうか?」
「一緒にね」
ピアは階下で娘たちを待っていた。チャンドラとは異なり、治療のためにじっとしているのは容易だった。両手の甲の痣と、動くときに出るかすかな音がなければ、怪我をしたことが嘘のようだ。外には4人乗りの、美しく豪華な高速警備車が停まっていた。運転席には見慣れた顔があった。
「ピア・ナラー様、専用タクシーが参りました」シータが言った。彼女は座席から飛び降り、お辞儀をしてピアのために扉を開いた。
ピアは冷やかすように笑った。「あら、私のお抱え運転手になってくれたの? レースよりもそっちの方がお父さんを怒らせるかもしれないわよ」
少女の顔に複雑な表情が浮かんだ。どこか自己卑下に近いものが。「刑務所にいることを考えれば、父にはもっと懸念すべきことがあると思います。政変を企てたとなると、重い刑罰が科せられますから」
ニッサがチャンドラを好きな理由は沢山ある。そしてそのひとつは、自分自身がどんなにひどい気分であっても、他者を元気づけられる素晴らしい能力だ。その表情に気付いたチャンドラはすぐにシータのもとへ向かい、抱き上げるような力強い抱擁をした。
「あなたスピットファイアよね? 本当にありがとう! あなたがいなかったら、私もお母さんもあそこで絶対助からなかった!」
不意をつかれ、当初シータはその抱擁に少し身を硬くした――けれどこの信じられないほどの温かさと歓喜を拒めるわけがない。「ありがとう」少し間を置いて彼女は言った。「アヴィシュカーを助けてくれて、ありがとう」
「えっと、私というよりはエルズペスね、そっちは。この子は私の恋人、ニッサ。会ったことないわよね! ニッサはすごくクールで、最高で、すごく賢くて――」
「こうして会えてよかった」ニッサが口を挟んだ。「あの時、私のことは覚えていないかもしれないけど」
あんな状況では誰が覚えていられるだろうか? だがそれでも、シータは頭を下げた。「つまり、ニッサさんが私たちを引っ張り出してくれたんですね? ありがとうございます」
「ああそう、見た目じゃわからないだろうけど、ニッサはとんでもなく力持ちで――」
「チャンドラは大げさに言うのが好きなのよ」ニッサはチャンドラの手を握りながら言った。
「なるほど、レースの技術と同じで」シータはそう言い、チャンドラへと皮肉な笑みを浮かべた。「見ていなさい、次にコースで会うときは私が勝つわよ」
「自分にずっとそう言い聞かせてれば、実現するかもね」とチャンドラ。ピアが助手席を確保しようと歩いてくるのを見て、彼女は素早くそこに滑り込んだ。「ま、それも夢の中で」
「ここからコースまで、今までで一番速く到着したのはどれくらい?」シータが尋ねた。
「10分かな」
車のエンジンがうなり声をあげた。
「5分で行ってあげる」
ギラプールの中心には何千という人々が集っている。
タルキールの草原を見下ろす崖の上には、三つの影があるだけ。
ギラプールの群衆は狂喜の渦にある。ザフール、バスリ、そしてチームの者たちは、黄金と真新しい亜麻布で着飾って表彰台に上がる。彼らはチームとして霊気灯を受け取る――彼らの前にそれに手を触れる者はいない。彼らはそれを頭上に掲げる。誰もがその美に見とれ、誰もが驚嘆できるように。
「アモンケットへ、今この時に、そして永遠に!」そして歓声。
だがタルキールの崖の上は遥かに静かだ。風が男の髪をなびかせ、遠くの猟犬の遠吠えが耳に届く。その腕の中では一体の生物が眠っている。それは身じろぎするが、その眠りは安らかとは程遠い。
男は隣の女性に何かを言う。
そして青色をまとう男は歩き出した。
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アート:Aaron Miller |
(Tr. Mayuko Wakatsuki)
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