MAGIC STORY

霊気走破

EPISODE 07

第5話 決着へ

K. Arsenault Rivera
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2025年1月17日

 

 アヴィシュカーのどこかで、レーサーの一団が大喝采を浴びながら領界路から飛び出してくる。街路には歓喜に沸く観衆が並び、宙には霊気だけでなく紙吹雪が舞い、音楽は早朝から始まって止む気配はない。大胆なレーサーたちは、伝説に語られる英雄として次元の境を越える。観戦していた子供たちは、将来自分の子供たちに話すのだろう――レースが遂に劇的な終わりに近づいていると気付いた衝撃の瞬間を。

 だが、この着陸について語る者は誰もいないだろう。少なくとも、栄光の物語として語る者はいないだろう。いつか、ピア・ナラーは冗談として語るようになるかもしれない。ダレッティはこの着陸そのものと、着陸に至った状況の両方を、自身の経歴における最大の失敗のひとつとして記録するだろう。今から数日後にチャンドラ・ナラーは、こんなことになるなんて本当に、本当に思ってもいなかったと恋人に告げ、そんなことはありえないとニッサは疑いの目を向けるのだろう。

 無傷のまま勇敢に領界路を突破してアヴィシュカーへ帰還するのではなく、ロケットカーは回転しながらアモンケットのオアシス上空に現れた。何が起こっているのか、乗員たちはほとんど理解できていない。勢いとトルクの混乱の中で現実は失われ、彼らを座席に留めているのは重力だけ。火のついた花火のように転げまわりながら、彼らは空を翔け、翔け、翔け……

 そして、ありえないことに、宙で動きを緩めた。

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アート:Yeong-Hao Han

 「もうちょっと持ちこたえられるぞ!」ダレッティが叫んだ。

 「そうは思わないわ」とピア。そして案の定その言葉は正しかった。直後、機体の先端が失望した親の鼻のように下を向いた。

 ピアは機体の後部へと勢いよく跳躍した。体重、勢い、そして何が何でも減速させるという決意のおかげで、彼女は機体が完全に垂直になるのを防ぐことができた。

 ダレッティは、適切な安定装置の材料が欠乏していることを嘆きながら機室内を漁り、翼に似た金属の塊を見つけてロケットの側面に縛り付けた。これは彼の最高の仕事と言えるだろうか? いや、絶対に違う。彼はがらくたを継ぎ接ぎするよりも、新たな機構を滑らかに統合した完璧な作品を2日間かけて作り上げる方を好んでいた。だが確実な死に向かって空中を急降下しながらそれはできない。

 チャンドラ・ナラーは罵り声をあげ、気が済むと前方の地面に激しい炎を放った。オアシスの冷たい水が泡立ち、沸騰する蒸気に変わる。だが彼女は思った――今の行動は間違いだったかもしれない。

 一方、おたからはチャンドラの肩にしがみついていた。一体どうしてこんなことになったのだろう? 自分たちを宙に飛ばした機械的な不具合が何なのかはわからない。けれど墜落の恐怖は? ああ、それはわかる。

 「突っ込むわよ!」チャンドラが叫んだ。「衝撃に備えて!」

 「備えろって、掴まるものもないぞ!」ダレッティが答えた。

 これ以上喋っている余裕はない。次の瞬間、機体は地面に激突した。オアシスの豊かな緑を背景に、焦げ付いた黒と茶色の線。これから先の何年も、これは自分たちが訪れた証となるのだろう。英雄たちの誇らしい印ではなく、ぞんざいな肉筆で書いてしまった有名人の恥ずかしいサイン。


 しばし時間が経った。アモンケットの暖かな太陽の下、最初に気付いたのはチャンドラだった。脈打つような頭痛はひどく、だが仲間たちがどうなったのかを把握しようとするのはもっと大変だった。立ち上がろうとすると視界はぼやけ、涙があふれた。車の側面から這い出ると、わずかな胃の内容物がしつこく吐き出され、レーシングスーツのベルトにおたからがしがみついていることに漠然と気付いた。衣服を多少なりとも綺麗にすると、チャンドラはおたからを胸に抱き上げて母へと呼びかけた。

 「ほ……報告。こちらはチャンドラ・ナラー……」

 「チャンドラ、大声を出さないで。お願いだから大声を出さないで」憤慨した返事に続いて、ピアはうめいた。「私は大丈夫」

 チャンドラは少し安堵した。周囲がぐるぐると回転し、彼女は半壊した車の側面に寄りかかった。落ち着くためにひとつ深呼吸をし、そして尋ねた。「ダレッティは? そっちも大丈夫?」

 「何を大丈夫とするかによるが」驚いたことに、その口調は少々苛立って聞こえた。「少し休んで落ち着いた方がいい。嬢ちゃんのは軽い脳震盪だろう。重症かもしれんが。目が回る感覚と頭痛はしばらく続くはずだ。幸い、俺は二度とこういう状況に陥るつもりはない。薬が要るなら沢山あるぞ」

 チャンドラは倒れ込んだ。何もかもが激しく回転している。足元の地面が現実とは思えない。何か掴むものが欲しいあまり、おたからを抱きしめていることに気付いた。おたからは抱きしめ返し、チャンドラは全員が無事にあの状況から抜け出せたことにかすかな誇りを感じた。

 だいたいは無事に。

 「まずはチャンドラにあげて」ピアの声が聞こえた。「私はこういうことは初めてじゃないから。少しすれば大丈夫」

 「意地を張らなくていいのに」チャンドラは呟いた。

 「何ですって? 意地を張るなって?」

 チャンドラはうめいた。「お母さん……」

 誰かが何かを注ぐ音がすぐ隣から聞こえた。薬草の香気が、焦げた機械油の臭いをかき消す。誰かがチャンドラの手を取った。ダレッティ? 彼はカップを手渡した。

 「味は少し物足りないだろうが、胃を落ち着かせてしばらく痛みを和らげてくれる」

 思考までもふらつき、チャンドラは自身の考えをそのまま口から発した。「いつもこんな感じなの? そっちは」

 ダレッティの笑い声は柔らかく、不機嫌そうでもあった。「ひどい日にはな」彼の操作機の腕が、茶の入ったカップをピアへと伸ばした。「休め。俺はその間にエンジンを見て何か考える。眠るなよ」

 「眠らずに休めって?」とピア。「そんな簡単な頼み事でいいの?」

 「信じろ。こういう事態に関しては、俺はちょっとした専門家なんだよ」


 素晴らしい薬は――つまり途方もなく高価なだけでなく希少な薬は、病気に罹ったことを忘れさせてくれる。病気の痕跡をすべて消し去り、ごくわずかな後遺症も残さない。

 そんな薬は滅多に手に入らない。

 良い薬は、起こっていることのほとんどを消し去ってくれるが、痕跡は残る。心と体の青写真に残る幽霊のような跡を。チャンドラの場合、それはこめかみの血管の脈動、舌の確かな乾き、そして何かを忘れているという揺るぎない感覚だった。痛みはほとんど消え、全員にとって嬉しいことに、この数時間は誰も吐いていない。眠らずに休むというのは、つまり目を閉じて座っていること。ピアは再び、改革派の長を務めていた頃の話を語って時間を過ごした。ダレッティは文句も言わず、ロケットカーのエンジンをあちこちいじりながら聞いていた。

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アート:Chris Rallis

 そして3時間ほどが過ぎたと感じたが、実際には1時間ほどだった。ゴブリンは診断を下した。

 「ナラー・プライムとナラー・ジュニア、それとおたから。残念なお知らせだ。エンジンは壊れた」

 「ジュニア?」チャンドラは瞬きをした。

 「驚くことではないわね、あれだけ酷使したのだから。もう一回乗れるようになるまで修理する。その分のスクラップは残っているのかしら?」ピアはそう言い、立ち上がった。

 「大方の連中にとって? いーや、無いね。スクラップは足りんだろうな。覆しがたいオッズだろう」とダレッティ。「だが――」

 「私たちは『大方の連中』じゃない」ピアは答え、頷いた。「まあ、仕方ないわね。またオッズを覆すしかないわ。動く機体を何とかして作らなきゃ……」

 ピアは自分たちが辿り着いたオアシスを見渡した。実際、上々だろう。もっと過酷な場所はいくらでもあるのだ。チャンドラが懸命に蒸発させたにもかかわらず、水は豊富にある。食料としてはナツメヤシが地面に散らばっている。遠くの砂の下に彫像が半ば埋もれ、自然に人工的な美を少しだけ加えていた。

 「砂岩、ヤシの木、スクラップ、そして決意。簡単よ」

 「私は何をすればいい?」チャンドラは尋ねた。「修理を進めるっていうなら」

 ピアは微笑んだ。「あなた、ナラー・ジュニアは……」

 「私はもうすっかり大人よ。完全に同じ名前じゃないんだし、お母さんがそう呼ぶのは変でしょ」

 ピアはチャンドラの額を小突いた。

 「愛しいお母さんの専用溶接トーチになるのよ」


 たぶん――単なる考えに過ぎないが――砂漠の只中で溶接はしない方がいいかもしれない。

 チャンドラは額を拭った。レーシングスーツは腰まで脱ぎ、両袖は足首まで垂れ下がっている。肩に照りつける太陽の下で何時間も過酷な仕事をして、エンジンは果たして……よくなったのだろうか? わからない。よくなっていて欲しい。この手の機械は自分の得意分野ではない。機械のすべてに詳しいのはコロディンであり、鍵を回してエンジンが動くなら、チャンドラにとってはそれで十分すぎた。その仕組みや細かいことは頭の中に散らかって、あまり役には立たない。

 けれどダレッティは上手くいくと確信している。そしてピアは、ダレッティが正しいと確信している。つまり、ふたりは何か手ごたえを得ているに違いない。

 「思うに俺たちは、全く新型のエンジンをひとつ、純粋な必要性から開発してるんだ。すごいことじゃないか?」とダレッティ。「ジュニア、ここの溶接部分を平らにしてくれるか?」

 ダレッティは継ぎ目に沿った線を指摘した。少なくともこれで四度目だが、チャンドラは文句も言わず応じた。

 それで脱出が近づくなら。

 「その通りかもしれないわね。ヤシの繊維をこんなふうに組み合わせるなんて思いつきもしなかったし、カバの骨は本当にいいものを見つけたわ。こんなにしなやかだなんて」

 「柔軟で軽量。アルミニウムじゃないが、確かに用途はある」とダレッティ。だがピアとチャンドラを見上げた時の彼には、何か異なるものがあった。何か、それは……理解? 彼は鼻を鳴らした。「さて……今日の溶接作業はだいたい終わりだ。暗くなってきたから、あんたらはもう少し休んだ方がいいだろう。ここからは俺がやる」

 ピアは首を傾げた。「本当に? 私はまだやれるわよ」

 「ええ、私も必要なら明かりをあげられるし」とチャンドラ。「さっき私たちに薬をくれたじゃない。ダレッティこそ休んだ方がいいんじゃないの? 今回は私たちがあなたの面倒を見るわ」

 ダレッティはかぶりを振り、自分の目を指差した。「俺はあんたらよりずっと目がいい。特に昼が夜になるときにはな。今からエンジンを調節するためにやらなきゃいけない作業はとてつもなく細かいんだ。ナラー・シニアだったら悔し涙を流すだろうし、ナラー・ジュニアなら10分もしないうちに諦めるだろうな。つまり、俺が一番適してるんだよ」

 「シニア? だったらプライムの方がまだ……」ピアは言葉を切り、チャンドラを一瞥した。少々得意すぎる娘の笑顔に、彼女は言い終えることができなかった。

 「いいでしょう。でも、できないからじゃないわよ。私に涙を流させるには、このごろは大変なのよ。ダレッティ」

 ダレッティは小さく笑いながら、壊れた機体に再び向き直った。ピアはチャンドラの腕に手を回し、娘を引っ張っていった。

 「火をおこしてくれる?」ピアは尋ねた。「ここの砂の風景は綺麗だけど、それでも砂漠よ。日が沈んだ瞬間に、骨まで凍えるくらいの寒さが来るわ」

 火を灯すという役割がチャンドラの退屈を和らげた。ダレッティのからかいは風に舞う灰のように消え去った。ほくちを集め始めると――乾燥したヤシの葉、木の削りくず、燃えやすそうな草――おたからが彼女の肩に跳び乗り、やる気に満ちた鳴き声をあげた。みんな、何かを直すのが上手だね。

 チャンドラはにやりと笑った。「お母さんは物を直すのが本当に上手よ。私はたいてい溶かしちゃうけど」

 おたからはかぶりを振った。ヤシの葉の一束がチャンドラの腕から落ちると、彼は跳び下りてこんなに小さな子にしては驚くほどの丁寧さでそれを拾った。彼はそれをチャンドラに差し出し、鼻を鳴らした。悪くなったものがあったら、直すんだよ。

 「ええ、そうね。誰だってそうするわよね?」チャンドラは言い、そして肩を落とした。「でも考えてみれば、そうしない人だって沢山いるのかな。でも、私にはぜんぜん意味がわからない。変化は、誰かが何かを直そうとした時に起こる。誰もが最後までやり遂げられるわけじゃないけれど、誰でも挑戦することはできる。そして、もっと多くの人がそうするべきよ」

 「チャンドラのそれは私から受け継いだ考えなのよ」ピアが叫んだ。「でも、父親から受け継いだものもたくさんあるわ。例えばその楽観的な所は全部そうね」

 「お母さんはずっと、色んなものに火をつけて明るくしようと頑張ってきたけれど、お母さん自身にも少しは火をつけてたみたいね」チャンドラは微笑みながら言い、休んでいるピアの隣に集めた材料を放り投げた。そして木を積み上げ、その隙間にほくちを詰め始めた。おたからは喜んでいそいそと指示に従った。ここに少しの削りくず、縁の周りに石を、もう少し深く掘って。

 ピアの疑問は――それは濃く淹れる茶のように瞳の奥で煮えていた――チャンドラが喜びと暖かさの炎を点火したときに浮かんだ。

 「チャンドラ……どうして私たちのチームを選ばなかったの?」

 火の暖かさはチャンドラが凍えるのを防ぎ、このやり取りが引き起こすかもしれない緊張を和らげてくれる。「言ったでしょ、お母さん。一番勝てると思うチームを選んだって」

 ピアは疑わしげな表情で娘を見つめた。「でも、私たちがあの機体にどれだけの時間を費やしたかは知ってるでしょう。私はあなたの母親よ。あなたとあなたの家族のことで助けが必要なら、できることは何でもしてあげるって分かっているでしょう」

 チャンドラの頬が紅潮した。ニッサ。家族。それは間違っていない。自分たちが一緒に乗り越えてきたすべてのことを考えるに、互いにとってそれ以外の存在になることは絶対にできない。

 ニッサ……ニッサのいない人生なんて想像もできない。

 「お母さんの言う通り。私たち、それについて何度も夜通し話し合った。今となっては、数えたくても数えきれないくらい」チャンドラは母親の隣の草の上に腰を下ろした。頭上では、遠く離れた次元の星々がそれぞれの舞踏を繰り広げている。ニッサと一緒にするのが好きなことのひとつは、こんなふうに星を見上げて色々な次元の共通点を見つけようとすること。ふたりともあまり得意ではない。そして今は、あの出来事を経てずっと難しくなっていた。

 けれど、この先も続けたい。

 「あの星の全部に、それぞれのプレインズウォーカーがいると思う?」彼女は尋ねた。

 ふむ、とピアは鼻を鳴らした。「いるのかもね。それともいないかも。自分たちで行ってみなければ何とも言えないんじゃない?」

 「きっと行けるわよ、努力すれば」

 「かなり大変な努力よ」とピア。「それに移動時間も考慮に入れていないし。あなたは好きなように次元の間を闊歩でるけれど、惑星間を移動するとなると話は別よ。サヒーリちゃんとその理論を話し合ったことが何度かあるのよ。チャイを飲みながら」

 ふたりの間に沈黙が広がった。チャンドラは何を言いたいのかを考え、頭の中で言葉を組み合わせようとするが、無駄だと気付いた。思ったことをそのまま話す方がいい。いつもそうしているように、感じるままに要点に向かえばいい。

 「あの星にそれぞれプレインズウォーカーがいるとしても、私は会ったことはない。でもどんなふうなのかなとは思うわ。ファイレクシアはそこにも侵略したのかなとか、自分たちの世界を何回救わなきゃいけなかったのかなとか、そもそも誰か覚えてるのかな、とか」

 チャンドラは頭の後ろで指を組んだ。「もう失敗したくはなかったの。ニッサも私も、すごく沢山のものを失ってきたから。ニッサが灯をまた手に入れられる機会を失いたくなかった。怖かった。ニッサがゼンディカーについて、失ったものについてどんなふうに喋るか、一度お母さんも見ればわかるわ。ニッサの声の中に聞こえるの、まるで――ニッサが感じている痛み。それを私も感じるの。私たちには幸せな結末を手に入れる資格がある。誰よりも、ニッサには」

 ピアは黙っているが、無関心ではない。その視線は頭上の星々から娘へと移った。静かに、彼女はチャンドラの肩へと腕を回した。それは慰めてくれる――けれどチャンドラの本当の気持ちが溢れ出るのを防ぎきれはしなかった。

 「お母さんが最善を尽くしてくれてるのはわかってるし、私が違うチームを選んで残念だってのもわかってる。でも、私は、ただ……失敗したくなかった。なのに今、私たちはアモンケットにいて、大きく遅れをとってる。勝てないのはわかってる。私は帰って、私のせいで失敗したってニッサに伝えなきゃいけない――」

 「やめなさい。わかってくれるわよ、チャンドラ」母はチャンドラの髪に唇を寄せた。「あなたは正しいことをした。他の道は考えられなかった。それはわかっているでしょう」

 チャンドラはむせび泣かない。むせび泣くのは英雄らしい行為ではない。けれど耳を澄ます者がいれば、むせび泣きによく似た何かが聞こえるかもしれない。「わかってる。うん。私はニッサの苦しみを止めてあげたいの。何かできたらって。何か、ぜんぶ解決できる魔法みたいな答えを見つけたいなって。でも、できてない」

 「人生は、いつもそう上手くいくわけじゃないわ」とピア。「私たちは最善を尽くす。部品をはめ合わせたり、溶接したり、やすりで削ったり、間に合わせでもどうにかしようとする。上手くいって、空の彼方の惑星への旅に出られる時もあるわ。でも、そうじゃない時もある」

 もう一度肩を震わせる。もう一度、誰かの目にはむせび泣きに見えるかもしれない。

 「そうじゃない時は、どうすればいいの?」

 ふたりの間に長い沈黙が流れた、だが目の前に揺らめく炎のように、そこには温かさもあった。ピア・ナラーも泣いてはいない。誰もそんなことは言わないだろう。だがその目元に一粒の塩水すら無いかどうかは、また別の話だ。

 「それと同じことを思ったわ。あなたと、あなたのお父さんを同時に失ったと思ったあの日に。私たちは……その場で工夫する。他のやり方を見つける。作ったものは決して無駄にはならない。どんな行動も徒労にはならない。領事府への怒りと戦いに費やした年月は、領事府を解体するのに役立ってくれたわ。そして、助けが必要な時でさえそれを受け入れようとしない、長年苦しんでいる娘を理解できるようにもなれた」

 オアシスに夜が訪れ、ふたりが泣いているかどうかはわからない。

 けれど、ふたりの絆は深まっていると言えるのだろう。


 最後にチャンドラ・ナラーが一晩中眠ったのは、もう何ヶ月も前のことだった。悪夢は彼女を捉えて離さなかった。ファイレクシアの涙を流すニッサの顔、ウラブラスクの死に際の叫び声、種子中枢に突撃したミラディン人たちの死体……いつも何かしらが彼女を苛んだ。ニッサと共にいることが救いだった。目覚めて愛する人が隣にいるのを見ると、すべてがうまくいったのだと、すべてこの結末のためだったのだと確信できた。

 けれど、ここアモンケットでは、そのような慰めはない。

 今回目覚めた時、空には月が高く昇っていた。砂は銀色に染まり、オアシスの水面はまるで巨大な鏡のようだった。そこへ行けば、もしかしたら自分に起こったことをすべて思い返せるだろうか。これから起こるかもしれないことも。蛾は炎に引き寄せられるが、この瞬間、紅蓮術師は静寂と安らぎに引き寄せられていた。

 彼女は寝床を離れ、オアシスの端へと歩いた。足を浸すと水は驚くほど冷たく、身体全体が慣れるまで心臓は早鐘をうった。

 もう一度、彼女は空を見上げた。

 そのためチャンドラは、声を聞く前にその男の姿を見なかった――月の光が肌を照らすように静かに、その男は隣に現れたために。

 「何かが其方を悩ませているのだな」

 「ええ、そうね。別に珍しいことじゃない」チャンドラは答えた。そして自分は独りのはずだと思い至り、話し手の方を振り向いた。その光景を見た瞬間、波のような静穏に洗われた気がした。怯えても何らおかしくはなかったのかもしれない、けれどそうはならなかった。そして、それが何を意味するかもわかっていた。

 アモンケットの神の一柱。

 隣でオアシスの水に足を浸していたのは、ライオンの頭部をもつ長身で逞しい男性だった。いや、正確には違う。アジャニの顔は生きている顔だが、この男の顔は並外れた品質の黄金の仮面で、白熱する光が両目と口から発せられていた。逞しい胸は裸で、茶色の肌はこの真夜中でも金色にきらめいていた。背中には金色の弓がくくり付けられていた。

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アート:Maaz Ali Khan

 「我にとってはそうではない」男は言った。その声に、チャンドラはギラプールの市場を思い出した。活気のある声。

 「あなたは神様よね」 チャンドラは思わずそう口走った。「神様――ニコル・ボーラスはハゾレト以外の全員を殺したと思ってたけど? でもあなたはここにいる」

 若き戦士の胸が柔らかな笑い声に震えた。「訪問者よ、其方の話し方は面白いな。その通り、我はこうして此処にいる。神を殺すということは、ひとつの本質のまさしく魂を殺すということ。ボーラスは我らの魂をその爪で絞め殺したと考えた、だが其方の周りには何が見えるだろうか?」

 チャンドラは辺りを見回した。向かい側の岸辺では、二匹のカラカルが眠っている。木々には果実が実り、水には魚が泳ぎ、蓮の花が咲いている。ここは緑がある。美しく、豊かな緑が。

 「命が」

 「いかにも」神は答え、筋肉質の太腿に手を休めた。「息吹のある所、水のある所、毎朝目覚めて夜明けを迎える人々がいる所、そこにアモンケットの神々は存在する」

 そして静寂が訪れるが、それは真の静寂ではない。生命は滅多に静かではない。ダレッティのいびき、風の囁き、カラカルたちが優しく喉を鳴らす音。これらすべてがそこにある。聞くには、ただ落ち着いて耳を澄ませばいい。そして、何故か、それができると思っている。ほんの少しの間だけ。

 「生命は其方に語りかけている」

 「ええ、そう思うわ」チャンドラは答えた。何を語りかけてくれているのかはよくわからない、けれどそれは問題ではない。

 「そうか。其方の助けとなれて、心から嬉しく思う」神が言った。

 チャンドラは相手を観察した。自分は他のプレインズウォーカーほど神々との関わりは多くないかもしれないが、頭の片隅から離れない疑問がひとつあった。「何か私からお返しできることはない? ええとね、あなたがいられるは沢山あるのに、こんな所にいるでしょ。もっと大切なことがきっとあるのに」

 「神が居る場所は、その神にとって最も重要な場所である。其方が他の世界について……そこにいかなる暮らしがあり、いかなる信仰があるのかを語ってくれるならば。その地の夜明けや栄光、そしてありふれた生活について語ってくれるならば、我にとってはこの上ない喜びとなろう」

 チャンドラは首を傾げて言った。「それでいいの?」

 「多くの世界の可能性に思い至るのは定命だけではない。我らの勇士たちの夢は我が夢でもある」

 ふむ。それは考えたこともなかったことだった。チャンドラは少し考え、そして再び星空を見上げた。

 「そうね……多元宇宙の中でも、私の恋人のお気に入りの場所はゼンディカーっていう名前でね……」


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アート:Josiah "Jo" Cameron

 これから20年の間、スピットファイアはこの瞬間を人々に語り続けるだろう。

 すべてが完璧に整っている。領界路を車が疾走する中、自分を妨げるものは何もない。気を散らすものは何もない。ギラプールの街路を再び駆け抜ながら、他のチームはバックミラーに映りもしない。コース沿いに並ぶ幸せそうな顔や色とりどりの看板は、正当かつ当然のもの。見守るアヴィシュカーの子供、レースのジャージを着た女性、旗を振る男性、それぞれが勝利の理由。

 そして自分は勝利に向かっている。それを確信している。

 前にいるのはスピードデーモンズのキャプテン、ウィンターだけ。それでも大した差はない。彼らが先を行くために使っている何らかの小技も、もはや役に立ってはいない。彼らの車の奇妙な不調はこれまでにない程ひどく、周囲の現実に対して輪郭の端が絶えずぼやけている。ギアを上げながら、スピットファイアはこれまで以上に確信していた。

 これに勝つだけの力は他のチームにはない。

 自分とピアがこの車に取り組んだすべての時間が、周囲で実を結んでいた。左、右、左、右、通りを4回曲がる。前方にカーリ・ゼヴの彫像――ゴールラインへの直線に至る最後の目印。花で飾られたその像をコースは緩やかにカーブして過ぎる。スピットファイアとスピードデーモンズがそこを通過すると、植木鉢が落下した。

 直線で追い抜く。スピードデーモンズのエンジンはこちらのエンジンには敵わない。最初からここまで接近しているなら特にそうだ。彼らはずっと小技に頼ってきたのだから。

 けれど自分はこのために訓練してきた。努力してきた。この車のあらゆる操作やスイッチは、自分の心臓の鼓動のように学んだものなのだ。

 もっと速く。

 エーテルレインジャーズのフロントバンパーが、スピードデーモンズの運転席扉にこすれた。

 もっと速く。

 シャーシとシャーシ、目と目。スピットファイアはウィンターを一瞥もしない。こいつのような不正常習犯は無視されて当然。隣で、不吉に響く笑い声とともに炎に包まれても。

 もっと速く!

 ウィンターは青い炎を放ってきた。スピットファイアはその熱の中を駆け抜け、既に火傷を負った両手が再び痛みに悲鳴を上げた。重要なのはゴールラインだけ。勝つことだけが――

 あれはどこから出てきたの?

 すべてが一瞬の間に起こった。これから20年の間、一体何が起こったのかを整理し続けているだろう。

 コースの中央に、精緻な金線細工の壁が突き出ていた。加速を開始した時には、自分もウィンターもそんなものが存在するとは思わなかった。どうやってあんな所に? それを理解する時間はなく、コース自体の安全対策がレーサーに対してどのように展開されていたかなどは到底知るはずもなかった。

 できるのは、腕を上げて衝撃に備えることだけ。

 目の奥に星が弾け、頭が内部フレームに何度も激突し、ハンドルが腹部にめり込んで息が詰まった。事故――座席で震え、アドレナリンが血中に流れ、世界は遠い夢と化しながら、わかるのは混乱だけだった。すべてが色と痛みと憤慨にぼやけていた。彼女にできるのは起き上がろうとすることだけだが、今はそれさえもできない。やろうとするだけで胃がひっくり返った。

 誰かが肩に手を置いた。係員だろうか?

 「やめて、私は……まだ……」

 言葉は不明瞭で途切れていたが、彼女は全身全霊でそう思っていた。そして事故の衝撃で目が見えないまま、自分に近づいてきた人物を払いのけようとした。

 「領事! 領事! どうかこちらへ! 確かめて頂きたいことが!」

 何……? 領事……?

 焦点が定まる。甲高い叫び声が耳を打ちつける。恐怖の手が喉を締めつける。

 膝の上に、スピットファイアの仮面が半分ちぎれていた。

 見られた。まずい。見られた。

 「待って。待って、駄目――」

 だが何ができるというのだろう? 混乱し、傷ついたまま彼女は事故車から引きずり出され、誰よりも会いたくない男の前へと無力に運ばれた。

 何を言われるのかを予想するのは、事故よりも辛い。今この瞬間、ただ溶けて無と化すことだけを願った。そして声を聞いた時、ほとんどそうなった。

 「シータ! 無事なのか? これはどういうことだ? 死んでいたかもしれないんだぞ!」

 痛みと屈辱で喉が詰まる。何が起こっているのかを理解するどころか、何か言うこともできない。

 こんなふうに終わる定めだったのだろうか?

 「今すぐこの子を医者のところに。金はいくらでも払う」モハルが言った。「娘を堕落に屈させるわけにはいかない」

 連れ去られながら、シータは父親が部下たちに命令を下すのを耳にした。「このことは誰にも言うな」


 手の一振りだけで警備員たちは退散する。彼らは書類上はモハルに忠誠を誓っているかもしれないが、心は簡単に変わるものだ。彼らを退散させるのは、息をするのと同じほどに簡単だ。最近では、もっと簡単かもしれない。

 スピードデーモンズの機体は歪んだ金属の塊に過ぎないが、その唯一の住人がどこにいるかはわかる。ヴラスカがウィンターを残骸から引きずり出した。

 「おたからはどこだい?」

 ウィンターは彼女を蹴り飛ばそうとした。ジェイスがもう一度手を振ると、ウィンターの身体は力を失った。そして一瞬の後、ジェイスは答えを求めてウィンターの心を探りにかかった。

 「そうしなきゃいけないのか?」ヴラスカは彼に尋ねた。

 ジェイスは頷いた。「彼のような生存者が、交渉の切り札を進んで手放すはずはありません」

 「おたからは単なる交渉の切り札なんかじゃないよ」とヴラスカ。「あの子を守るって約束したんだからな」

 「約束しました。でもウィンターにとって、あの子はそれだけです。それ以上ではありません」

 居心地の悪い沈黙。彼のことはよく知っている。ため息がひとつ漏れる。「私らがここにいる本当の理由を忘れないでくれよ」

 彼は微笑みかけた。「俺たちは全部何とかします。約束します。さあ、この男の心を探らせて下さい」

 ジェイスはウィンターに注意を向けた。記憶が流れ込んだ――火の玉、襲撃者たち。どこかの時点で、檻が機体から外れた。

 ふむ、とジェイスは鼻を鳴らした。これは……理想的とは言えない。「この男を連れて行く必要がありそうです」

 「何でだ?」ヴラスカは尋ねた。「知らないなら何の役に立つんだい? 放っておけばいいだろうに」

 「この男もひとつの未解決問題です。皆にとって物事が良くなるためには、未解決問題を放っておく余裕はありません。これ以上は」


 朝、ダレッティは喜びにあふれてロケットカーのボンネットを叩いた。彼は両手をこすり合わせながら、自分たちが苦心して作り上げた壮大で恐るべき創造物を見つめた。

 「多元宇宙のどこを探したって、これと似たものはないな」

 ピアはにっこりと笑った。「ヤシの葉っぱがちょっとお洒落でしょう?」

 チャンドラはすでに運転席に飛び乗っていた。おたからが急いでそれに続き、エンジンの始動手段を探す彼女の肩に座った。鍵はないのだろうか?

 「昔ながらのやり方でエンジンをかけないと」ピアが言った。彼女は助手席に座り、一番広い後部座席はダレッティのために空けた。「懐かしいわね。あなたのお父さんと私はいつもその方法で車を動かしていたのよ」

 チャンドラはしばし母親へと目を向けた。「昔ながらのやり方?」

 「どいてくれる?」

 数秒後、ピアはハンドルの下の2本のワイヤーをこすり合わせていた。それは何のためかとチャンドラが尋ねようとした瞬間、エンジンが轟音を立てて動き出した。ピアは座席にもたれかかった。

 「昔ながらのやり方よ」

 エンジンは問題なく動いていた。力強くはないが、生きている感じがする。けれど力強さは必要ない。レースを完走して帰れることができればそれでいい。

 「それで……コースに戻って、それから領界路に向かわないといけないのよね。こっちへ1、2時間行けば見えるはずだってケトラモーズが言ってたけど……」

 「ケトラモーズ?」ピアが尋ねた。

 「ライオンの神様。道を教えてくれたの」

 おたからが鳴いた。もっと近いのがあるよ。

 車内に静寂が流れる。それを破ったのはチャンドラだった。「領界路が? 前にここに来たことあるの?」

 ううん、どこにあるか知ってるだけ。おたからは彼だけの方法で答え、東に向かって尻尾を振った。

 チャンドラの目の奥で何かがはまった。「ちょっと待って。スピードデーモンズはそうやって先頭に出てたってことよね? ウィンターは近道を使っていたのよ。誰も知らない他の領界路がどこにあるのか、あなたがいたから知っていたのね」

 おたからは頷くだけだった。

 チャンドラは笑みをこらえきれず、冗談を言った。「ねえ、私たちまだ勝てるかも」だが彼女はおたからの頭を撫で、耳の間を掻いた。「多分無理でしょうね。でもあなたの助けがあれば、すごい登場をしてやれそうよ」

 だが15分と経たないうちに、彼女はその言葉を後悔することになるだろう。

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アート:Ernanda Souza


(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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