MAGIC STORY

霊気走破

EPISODE 03

第2話 ピットストップ

K. Arsenault Rivera
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2025年1月14日

 

 チャンドラ・ナラーは、揺らめき絡み合いながら昇る5つの太陽を見たことがある。螺旋を描く空と果てのない海を見たことがある。純粋な美の存在を――天使も悪魔も――相手に戦ったことも、共に戦ったこともある。そういった経験が心に呼び起こしたありえない感情を言葉で表現しようというなら、一生かかるだろう。一生をかけてその美と正しさを語っても、その真実に近づくことは決してできない。

 けれど今朝目覚めた時の光景を説明するには、単純に一生かかっても足りないだろう。

 ニッサ。私のニッサ。

 本を手にして寝台に腰掛けるニッサは、チャンドラが目覚めたことにまだ気づいていない。窓から差し込む光が、その緑色の瞳をゼンディカーの森のように豊かに輝かせていた。ニッサのすべてが完璧だった――眉の曲線、鎖骨の鋭い線、繊細な指。

 今日、自分にはやるべきことがある。沢山ある。レースもそう。自分がニッサの顔を見つめているように、多元宇宙の沢山の目が自分に向けられるだろう。けれど、そんなものは全部後でいい。少なくとももうちょっとの間は。

 一度はニッサを失いかけた。だから、この瞬間が当たり前だなんて決して思わない。チャンドラは寝返りを打ち、ニッサの腰に腕を回した。そして身体を寄せ、満足のため息をつく。ニッサは本から目を離さないまま、チャンドラのつややかな赤い髪に繊細な指を通した。

 「よく眠れた?」ニッサは尋ねた。「また何か寝言を言ってた気がするけれど」

 ふーん、とチャンドラは答えた。「今回は何て?」

 「沢山。発進の手順を進めてた、のかしら」ニッサは手を伸ばし、チャンドラの耳たぶをつまんだ。「でも、私のことも言ってた」

 チャンドラは声を出して笑った。彼女はニッサの膝に頭を乗せて見上げた。まるで空のすべての太陽が一斉に現れたかのよう。「いいことだけ、でしょ? そうじゃないなら、眠ってる私自身とちょっと話をしないといけないかもね。その人が言ったことに責任を負う気はないわよ、いいことを言ってたなら別だけど。どっちにせよ、私はいいことしか言わないつもりだけど」

 ニッサは片眉を上げた。ニッサが笑う声はいつも自分のそれより小さい。彼女は本を閉じてチャンドラを見下ろし、額に口付けをした。「善かれと思ってくれてるのはわかるわ」

 「よかれと思って? どういう意味?」

 不安の揺らめき、朝の光に影が差す。「私をゼンディカーに連れて帰ることがあなたにとってどれほど意味があることか……それを誰かに語っていたわ」

 ああ……自分が思っている以上にストレスを感じていたに違いない。眠ってる間にそれが漏れ出るなんて。でも、いいことよね? 眠ってる私がそんなことを言ってくれたのは。

 それなら、どうしてニッサはこんなに元気が無さそうなの?

 チャンドラは手を伸ばし、掌でニッサの頬を包みこんだ。「私、本気よ。ゼンディカーにはまだまだ沢山あるんでしょ、ニッサが私に見せてくれるものが」

 「チャンドラ……」ニッサはチャンドラの手をとり、握り締めた。「そうじゃなくて……ううん、わかってる。それがあなたにとって大きな意味を持つことはわかってるわ」

 目の前に種火がひとつ。気を付けなければ、それは燃え上がって本物の火に変わるだろう。けれどチャンドラは火を理解している。自分ならうまくやれる。彼女はニッサの膝の上に座った。そして話そうと口を開いた瞬間、ニッサの唇に塞がれた。

 これは反論できる議論ではない。

 けれど唇が離れると、チャンドラの心は再び沈んでいった。ニッサは目を合わせることをあまり好まない。それでも、ふたりきりになると、彼女は大抵チャンドラの頬か口元を見る。

 今、ニッサの視線は互いの間の何もない空間に向けられていた。

 「チャンドラがしてくれてることには本当に感謝しているの。すごく練習して、すごく努力して。でもこれは……私のためにチャンドラに問題を解決して欲しいわけじゃなくて。ゼンディカーに戻れたとしても、そこでニッサとチャンドラにはなりたくない。ニッサと、チャンドラ。それになりたいの」

 滅多にない沈黙。チャンドラは何を言うべきか考えようとしたが、考えられるのはこのすべてがとても複雑だということだけだった。

 役に立たない考え。彼女はそれを脇に押しやり、ニッサの立場から物事を見ようとした。それは何度もやってきたことであり、すべてをうまく当てはめることはできない。けれど、自分が言おうとしていることを言葉にする前に一旦よく考える助けになる。

 「前は私もずっと不安だった。カラデ……アヴィシュカーは、私が戻ってきたらどう思うかって。私がここを離れた時、それは……あんまりいい形じゃなかったから。でも私はあれから成長したし、この場所も成長した。私たちはお互いを認め合ったのよ。そしてあなたはあの時、私のそばにいてくれた」はっとするように、ニッサの両目がチャンドラのそれに向けられた。

 「あなたがいなかったら、私はあれだけの困難を乗り越えられたかわからない。私がもうどうしようもないって感じたとき、あなたはいつも、大きな樫の木みたいにそこにいてくれた。そして気付いたの、あなたは私の人生でこんなにも大きな存在なんだって。あなたがいない故郷なんて故郷じゃない」

 チャンドラはニッサの額に口付けをした。

 「お願い、ニッサ。どうか私にも同じことをさせて。力を貸したいの、また故郷を故郷だって思えるようになるために。あなたをそこに連れて行ってあげたいの。そのための努力をさせて欲しいのよ」

 朝の神聖な静寂の中、ニッサはチャンドラの手のひらにひとつの形を描いた。チャンドラにとって、答えのない一秒一秒は苦痛に感じられる。けれど知っている――ニッサには時間が必要。彼女は衝動的ではない。ニッサが言おうとしていることは、ニッサが本当に思っていること――

 「チャンドラ! 朝食と可哀相な母を見捨てる気なの?」

 ピアの声がふたりを束縛から解き放ち、現実へと引き戻した。頬がさっと赤くなり、チャンドラはため息をついた。

 「本当にごめんなさい」ニッサは囁いた。「このことについては後でもっと話しましょう。約束するわ、何があっても私はここにいるって」

 ニッサは彼女の手を握りしめた。何を言おうとしていたのかはともなく、今それを口にはしなかった。「後で。今は、お母さんに悪い印象を与えないようにしなきゃ」

 「悪い印象? 私にとっては、今までで最高の出来事よ」チャンドラは寝台から飛び降りて服を着始め、その途中でニッサのブラウスを投げつけた。

 「ピアさんはそうは思わないかも」

 「お母さんにとって、努力するのはいいことだから」

 「私の名前が聞こえたみたいだけど? 私の料理がどれほど美味しいかって話が聞きたいんだけどね」扉の向こうからピアの声が聞こえた。「さあ、おいで。裏切り者の娘との最後の朝食を奪わないで頂戴」

 「裏切り者じゃない――もっと複雑なのよ!」チャンドラは抗議した。靴を履きながら転びそうになる。ニッサの手がチャンドラの腕を掴んでいなかったら、完全に転んでいただろう。

 「ああ、それは是非説明して欲しいわね」とピア。「その間に私はサモサを全部食べるから」

 いや、いや、母がそんなことをするはずがない!

 チャンドラが扉を開け放つと、そこにはピアが立っていた。母は大皿を手に、すでに特製サモサにかぶりついていた。先程の脅しが実現しないよう、チャンドラは皿からサモサをひとつ掴んだ。そして半分ほど食べたところで、ニッサにも取ってあげようとようやく思いついた。

 「野菜は右側よ」ピアは言い、ニッサへと頷いた。「眠れたかしら?」

 「少しだけ。でも知ってると思いますが、チャンドラは――」

 「また寝言? この子の父親もそうだったのよ」ピアは肩をすくめた。「慣れるわよ。でも、もしよかったら耳栓を貸してあげるわ」

 「ふたりとも、なんで私のことで笑ってるのよ?」チャンドラは口一杯に頬張りながら尋ねた。彼女はサモサをもうひとつ手に取り、かつての改革派の長に続いてダイニングルームに入った。

 ピアは皿を置いた。「誰かがあなたを謙虚にさせておかないと。この調子だと、アヴィシュカーのあらゆる家の暖炉の上にチャンドラ・ナラーの小さな像が飾られることになるでしょうね。もちろん、エーテルレインジャーズのスーツを着てはいない。つまりその娘はどこか別の場所のために戦っているのよ。だったら、皆その娘のことなんてそんなに心配しないわ」

 どれだけ食べ物が美味しくとも、それを飲み込むのは楽ではない。チャンドラはため息をついた。「お母さん……」

 「いいのよ、大丈夫。私はわかってるから」ピアは言った。「優勝するためにはそれが最善だと思ったからでしょう?」

 背中にニッサの手が触れていなかったら、床に倒れ込んでいたかもしれない。彼女は言った。「ふたりで競えば、優勝できる可能性も二倍になるわよね?」

 ピアはサモサの先端でニッサを示した。「ほら、ニッサちゃんのそういうところよ」ピアはそう言い、サモサを一口かじった。「チャンドラ、分別のある人を見つけられてよかったわね」

 チャンドラ・ナラーは――プレインズウォーカーであり、多元宇宙の救世主であり、紅蓮術の達人は――うめいた。


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アート:Konstantin Porubov

 シータ・ヴァルマは――研修中の外交官であり、修繕工であり、非凡な運転士は――うめいた。

 ギラプール・グランプリへの逃避行は遅れていた。何せ、この部分は他の誰かに頼らなければならなかったのだ。けれど仕方がない。自分がどこかで必要とされていると父が信じるには、自分がどこかで必要とされていることを理解してもらわねばならない。そして、父は洗練された霊気の乗り物の世界における御者なので、自分が必要とされるのは女性的ビジネスの場所でなければならない。父が入りようのない分野で。

 そのためには何らかの手段を講じる必要があった。

 「こんにちは! ギラプーーーーール! 藍の街、革命の街! さて、今日は分速数千回転の街を皆さんにお見せしますよ。私はヴィンです。ヴェリーインタレスティングナレーター略してヴィン……冗談です! ですが皆さんの友達としてレースをご案内しますからね!」

 檻に入れられた動物のように、シータは部屋中をそわそわと歩き回っていた。机の上に置かれたちらつく画面が彼女の唯一の友達だった。ラランはあとどれくらい待たせるつもりなの? 彼女の家からヴァルマ邸までは車でたった10分、運転手が交通の流れを上手く切り抜けることができれば5分で着く。シータは時計を一瞥した。サーキットまで行って準備するまであと30分。安全策を講じたとして……ラランがここに到着するまで5分ほど。それでも来なかったら、シータではなくスピットファイアとして出ていかなければならない。

 「レースには最高の日です。空は澄み渡っています。そして何よりもそれをご存知なのは、特別ゲストであるアラクリアン・クイックビーストのチームリーダー、カラドーラさんでしょう!」

 鎧をまとう誇らしげな女性が、ヴィンと通訳の隣にやって来た。彼女の頭上、ちょうど画面の枠の外に、彼女の共同隊長であるラゴリンのくちばしがある。

 「私たちふたりをお招きいただきありがとうございます。ですが、ここにいるのは私だけではないということをわかって頂きたいのです。私はチームのリーダーですが、ラゴリンもそうです。経緯を考えると、おそらく私以上です」

 カラドーラの頭上にいる獣が耳障りな鳴き声をあげた。獣は頭を下げて画面に入り、インタビュアーを務める派手な服の目玉を見下ろした。

 「おっと……少々気がはやっておられるようですね、ラゴリンさん……?」

 「彼は不正を嫌います」とカラドーラ。

 「でも私は正義が大好き。私以上に公正な奴はいませんよそれに私はただの目玉ですよ、それを食べるなんて嫌だなあありえないって君ィ!」

 ラゴリンのくちばしがヴィンに触れそうになった。彼は咳払いの真似をして、インタビューを本題に戻そうとした。「とにかく! 本当に空を飛べるなんて、興奮しちゃいますよね?」

 シータは目をそらした。レーサー仲間について学ぶのは大好きだが、アラクリアン・クイックビーストは最優先事項ではない。筋肉と骨はエンジンの純粋なトルクと力にはかなわない。それは数学的に間違いない事実。彼らの精神は賞賛するが、そこから学ぶことは何もない。ちょうどその時、タイヤが軋む音が外から聞こえた。シータははっと心臓が止まる思いがした。きっとラランだ! 案の定、ギラプールで最も人気ある若き裁縫師が車から飛び降り、彼女に向かって手を振っていた。クロスボウの矢のように、シータは部屋から飛び出した。階下の居間にいる父親は眉をひそめた。

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アート:Carly Milligan

 「シータ! どこへ行くんだ?」

 だが父がその質問を終えると同時に、シータは扉を開けた。ラランが中に入ってきた。彼女の額には汗が浮かび、髪は乱れていたが、その両目に宿る決意を見てシータは安堵した。

 「ごきげんよう、ヴァルマ領事殿! 実習生のシータさんをお迎えに立ち寄りました」

 「実習生?」モハルは尋ね、ふたりを睨みつけた。「どういうことだ?」

 「ラランさんのアトリエが弟子を募集してるのよ! それに応募したの。これから何日か、そこに滞在してすべてを学ぶわ」シータは言った。明るく、嬉しそうに、陽気に――失敗は許されない。「正直に言うとね、採用されるかどうかわからなかったから言えなかったの。選ばれる人はほんとに少ないんだから。知ってる?」

 「今季だけで500人以上の応募者がいます」ラランが言った。これは嘘ではないかもしれない。「私たちは応募者全員に、合格の知らせをできるだけ秘密にするようお願いしています。噂を広めたくはありませんのでね」

 モハルはふたりを見つめた。その瞬間、シータは父が計算しているのを感じた。「銀織のアトリエか?」

 「まさしくそれです!」とララン。「私たちについてはお聞きになったことが――」

 モハルは片手を振った。「ああ。街で話題になっているそうだな」そして彼は立ち上がった。一瞬、シータは父が否と言うのではないかと心配した。だが彼は娘を抱き寄せ、髪を撫でた。

 「一生懸命に働きなさい。お前は生粋のヴァルマ家の娘だ。誰にもお前の素質を過小評価させてはいけないよ。戻ってきたら母さんの墓参りをして、お前の作品を見せよう」

 後悔とは動かない歯車のようなもの。シータは父に抱擁を返した。約束をしなければ、嘘をつく必要もない。


 鮫人間の笑い声は、想像するような音ではない――嬉しそうな、湿ったゴボゴボという音。小川のせせらぎとは似ていない。「へっ! 俺よりも遅れる奴がいるとはな。間に合って良かったじゃないか、スピットファイア!」

 スピットファイアは仮面の下で呆れた顔をした。普段であれば、何か簡潔に言い返そうとするのだろう。けれど今日は違う。今日は急いで乗り込まなくてはいけない。思い悩むような沈黙が、返答の役目を果たしてくれるだろう。

 彼女は大柄なコルダタンの前から急いで去った。魚の臭いは幸いにも仮面が遮断してくれた。エンドライダーズはどうやってこの塩辛い悪臭に耐えているのだろう? とは言うものの、ファー・フォーチュンは多くの物事を我慢してきた女性のようだ。屈強なこの路上の戦士は、スパイク付きの鋼板を自分の車の前面に打ち込んでいた。

 フォーチュンの目がスピットファイアの目と合った。他のレーサーたちの中でも、スピットファイアが本当にすくむ相手はフォーチュンだけだった。人を見る目が何か違う。フォーチュンに見つめられる時は、仮面をつけない方がまだましのように思える。「あの野郎をぶちのめして欲しいのか? 鮫は悪くない。あんたの歯には固いだろうがな」

 まるで挑戦のよう――けれどスピットファイアは相手などしない。低い嘲りをひとつ返し、彼女は通路の先へとさらに進んでいった。スピードブルードのさえずり、アモンケット人の祈りの詠唱、ゴブリンの戦歌が舞台裏で雑然と混ざり合う。生きていることを実感する。

 エーテルレインジャーズのピットに踏み入ると、ピアが係員のひとりと口論していた。

 「今来たでしょ! さあ、あの子に準備をさせて。困らせるなら他の誰かにして」

 係員は彼女を一瞥した。「最終案内に5分遅刻ですよ」

 「正当な理由があるんだ」スピットファイアは朗々と告げ、それを伝えるよう精一杯にその霊基体へと迫った。

 ありがたいことに追及はなかった。係員は柔和な様子で納得すると、最寄りの管制所へと歩いていった。

 「正当な理由?」ピアが片眉をつり上げて言った。

 スピットファイアは辺りを見回した。他の仲間たちは皆、最後の準備に忙しい。遠くにクラウドスパイアのチームが見えた。キャプテンであるコロディンが人混みの前に立っている。どうやらこれから演説をするようだ。彼の前には――

 いや。あの娘に注目しない方がいい。そうしたら、きっと目的を見失うだけだ。重要なのは、チャンドラ・ナラーよりも優れていることではない。誰よりも優れていること。アヴィシュカー最高のレーサーが誰なのかを疑う余地がないようにすること――父親が誰であろうと。

 「アリバイはあるよ。女の子の厄介事」とスピットファイア。ラランがその件についてここに来るまでずっと喋っていたというのは省略する。

 ピアは車のボンネットに手を置き、スピットファイアを見つめた。「女の子の厄介事」

 「由々しき問題だ」

 「ああ、そうよね。女の子の厄介事は女性の一日を台無しにするのよね。エンジンのボールベアリングを全部食べてしまうグレムリンみたいに」ピアがスピットファイアに送る目配せには、非難以外のものも込められていた。「ありがたいことに、準備の時間は十分あるわ。待って、まだ運転席には座らないで。驚かせたいものがあるのよ」

 スピットファイアが扉を開けようとしたその時、ピアは車輪の背後に隠していた包みを手渡した。

 今度はスピットファイアが片眉を上げた。「規定違反のブツじゃないよな?」

 「違反よ! ただの贈り物だったらこんな危険を冒すつもりはないわ。気を悪くしないで」そして優しい声色で付け加えた。「でも、きっと気に入ってくれると思う」

 スピットファイアは青と緑の薄紙を破り開けた。その下から現れたのは、新品のレーシングスーツだった。それがその衣服を表す言葉だが、それは6 つの霊気室と強化エンジンを備えた二輪車が技術的に「乗り物」であるのに等しい。全体に埋め込まれた曲がりくねって光るチューブ、それを包む美しい金線細工。スーツの折り目には、霊気がパチパチと音を立てる3つのシリンダーがついている。様々な箇所にある複雑な接続端子、それに調和する基盤。

 美しい。けれどそれ以上に、わくわくする。スピットファイアの頭の分析部分は、すでに様々な断片をつなぎ合わせようとしていた。

 「誘導端子。そしてこのパイプは……霊気をエアロゾル化して、フィルターで……」

 「あなたならわかると思ったわよ」ピアはにっこりと笑って言った。「細かい点を説明する時間はないけど、要点はわかってるわよね。体内にこのカプセルをひとつ入れれば、2秒くらいは神様よりも速く動けるようになる。そしてあなたの知覚はすごく鋭いから――」

 「2 秒は2 時間にも感じる」とスピットファイアは締めくくった。ピアに抱き着いてこの贈り物に感謝したかった。これを作るのにどれほどの時間がかかったのだろう? アヴィシュカー全土でもたったひとつしかないに違いない。

 だが、スピットファイアはそんな振る舞いはしない。

 そこで彼女は深々としたクールなお辞儀をし、スーツを胸に抱きしめた。「感謝する」

 「お礼はいらないわ。とにかく走り出して勝ちなさい」とピア。「それとごめんなさいね、サイズが少し合わないかも。調整はしたのだけど」

 ふたりの間に、言葉にできないものが横たわっている。その外側には痛みしか存在しない。

 「そうだな」とスピットファイア。「私はあの娘より背が高いから、だろう?」

 ピアは微笑んだ。「ええ。そう」


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アート:Eddie Mendoza

 コロディンは話好きだ。

 そして話上手だ。今までに会った者の中で二番目に上手かもしれない。結局のところ、アジャニに匹敵する者はいない――轟くような勝利の上に立っているような気分にさせてくれる。けれどコロディンはかなり近い存在といえた。

 問題は、彼の演説は感動的ではあったが、チャンドラはただレースをしたいだけだということだった。そして腰を落ち着けて聞き入ることはできなかった。何せ基本的には同じ内容が何度も繰り返されるだけなのだ。レースに勝利し、観ている者全員に勝利の栄光を示せ、と。

 もちろん。けれど自分は誰よりも優れていることを証明するためにここにいるのではない。ニッサのためにここにいるのだ。

 そのため、最高に明るいトランペットの音色のような、生き生きとしたコロディンの声も、彼女にとっては単調な音でしかなかった。

 だからこそ、それを切り裂いてすすり泣きが聞こえたのだろうか?

 その泣き声は、まるで子供が袖を引っ張るように彼女の注意をひいた。チャンドラの両目はクラウドスパイアの勇敢なリーダーから離れ、右へとさまよった。

 “これ痛いよ”

 チャンドラの眉がぴくりと動いた。誰? 人間でもコルダタンでもない。その泣き声は小さすぎる。まるでべそをかく幼児のようだ。ゴブリンだろうか? だが彼女がそちらを一瞥すると、爆発物の安全に関する土壇場かつ必死の講習会をダレッティが主催していた。思い出せる限りゴブリンの数をかぞえると――あいつらは気のいい飲み友達だ――全員が揃っているようだった。

 じゃあ、何?

 コロディンは話を続けていたが、チャンドラは抜け出した。

 「ちょっと痛いだけだ。死にはしない」声が聞こえた。冷たく疲れ切った、何日も眠っていない男の声。けれどその声には不自然な響きがあった。

 もっと近づく。

 ブルードはありえない。彼らはほとんど話をしない。ボヤージャーズ? 違う。彼らのそばを歩いても、互いに話をすることもなく平和的に自分たち自身を改造している。そもそもボヤージャーズは痛みを感じるのだろうか? チャンドラはそのような疑問にあまり時間をかけたくなかった。

 何かが辛そうに鳴いている。

 エンドライダーズに捕虜はいない。ファー・フォーチュンがそれを明らかにしていた。クイックビーストは自分たちを檻に入れようとする者は食べてしまうだろう。今朝彼らがヴィンを食べそうになった所を見たチャンドラはそう確信していた。アモンケット人が自由のためにあれほど戦ったのは、他者から自由を奪うためではない。つまり残るのは……

 廊下の端で、チャンドラは彼らを見つけた。

 巨大で歪んだ機体。絶対に脱出できないガラスの牢獄に押し付けられている、半透明の骸骨。最後の準備を終えようと悲鳴を上げる、半ば食べられたグールたち。リリアナのグールはこんな風には行動しなかった。違う。リリアナお姉ちゃんがこの有様を見たら不機嫌になるだろう。グロテスクだった――グールだということを考えても。

 そして見る限り、全体責任者にもおそらくリリアナは眉をひそめるだろう。その男自身もグールと大差なかった。両目の下のくぼみとやつれた頬のくすみから、話をしていたのはこの男だとわかった。

 そしてこの男が今まさに狭い檻に閉じ込めている、奇妙なふわふわの生き物。先端の光る尻尾と尖った耳が柵から突き出ていた。檻自体が小さすぎるため、その生物は常に後ろ足で立たざるを得なくなっている。チャンドラが近づくと、その生き物は大きな輝く目で彼女を見つめた。「そいつと話をして」と言っているように思えた。

 頼まれるまでもない。「ねえ、トゲトゲさん。そのちっちゃい子にもうちょっと優しくしてあげる気はないの? 辛そうにしてるじゃないの」

 硬く冷たい視線。「あんたには関係ない」

 「ガレージの向こうからでも大きな泣き声が聞こえたわよ。例えばさあ……」チャンドラは腕を組んで言った。「少し余裕をあげなさいよ」

 「自分のことを気にしたらどうだ、チャンドラ・ナラー? 慢性的英雄症候群だな。最下位と6人の棺運び役を手に入れたいのか」

 ふうん、そんな言い方する? この心の狭い……「チャンドラ・ナラーさん!チャンドラ・ナラーさんへの最終通告です! エンジンを始動させて下さい!」

 彼女は歯を食いしばった。男は軽蔑するような、世界一ひどいと思えるような仕草で肩をすくめた。「早く行った方がいいんじゃないのか」

 チャンドラは身を乗り出した。檻の柵を素早く掴み、熱を加える。それほど多くなくていい――かろうじて光る程度だが、形を変えるには十分。彼女は柵を2本引っ張り、その生き物が座れるほどの幅に広げてやった。

 チームリーダーのウィンターは彼女を睨みつけた。

 チャンドラは声をあげた。「コースで会いましょ、負け犬さん」


 ギラプール・グランプリを最高の場所で見る最も簡単な方法は、ギラプール・グランプリのために働くこと。昨年、父親の石工会社が市内の多くの競技場建設を請け負った際、スラジュはそれに気付いた。

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アート:Borja Pindado

 それまで、彼はレースにあまり興味はなかった。人々が繰り返し左折するのを見るのはただ……退屈だった。しかし自らの手で作ったプラットフォームの上から見て、彼はレースとはそれ以上のものであると気づいた。いつ接近し、いつ抜け出すかという戦術。ドライバーの電光石火の反射神経。先行するためだけに一部の者たちが使う卑劣な戦術。そこでは、コース上では、常に生と死が隣り合わせだった。誰かのタイヤを切り裂くために2人のゴブリンが大砲から互いを撃ち合うのを見た時、彼は普通の娯楽には戻れないと悟った。できる限りすべてのレースを観戦しなければ気がすまなくなった。

 そして彼はそうした。レースが行われるごとに、スラジュ・アンド・サンズは川底並みの価格でプラットフォームとコースの建設に入札した。すべてはこのためだった。

 今スラジュが立っているプラットフォームは、彼自身が監督したものだった。このようなプラットフォームは初めてだった。几帳面な父親や管理したがる弟たちの助力も受けていない、スラジュ・チャウドリー独自のもの。ここからは何十人もの観客が、至福の一時を過ごしながらレースを観戦することができる。高すぎず低すぎず、明るさは十分、かつ太陽が眩しくはない。スピーカーやアナウンサーにも近いが、耳が痛くなることもない。

 そう、スラジュ・チャウドリー3世にはひとつの役割があり、それをうまくやり遂げたのだ。貴賓ボックス席につき、記念ボウルを膝の上に、苦労して手に入れたカクテルのグラスを傍らに置いて、彼はそう自らに言い聞かせた。

 「ファンの皆さん! 待ち望んでいた瞬間がいよいよやって来ました! レーサー全員が所定の位置に着きました。まもなく我らがグランドマーシャル、名誉あるゴンティ夜間大臣が号砲を鳴らします。そして多元宇宙で最も素晴らしいスペクタクル、最もスリリングな追跡、最もありえない壮大なイベント、ギラプール・グランプリが始まります! ゴンティ夜間大臣、多元宇宙のすべての目が向けられていますよ!」

 ヴィンの手話通訳が号砲を手渡すと、大臣は中央プラットフォームに――スラジュが本当に作りたかったものだ――上がった。大臣はマイクを受け取った。絹のように滑らかな声が響いた。

 「我々は、すべての皆さんに感謝致します。これは単なるレースではなく、ギラプールの発展における真の精神を記念し、証明するものでもあります。我々は常に前進し、常に次の進歩を求めています。そして多元宇宙の富が居場所を見つける地――それがギラプールとその人々なのです」

 新大臣を好まない者もいたが、スラジュはゴンティを心から気に入っていた。ゴンティ以外の誰があんなに早く建設工事を承認できただろうか? そして、鋼鉄ではなくより安価でより早く作れる銅合金を選んだ彼の決断について、ゴンティは一言も文句を言わなかった。本当に一言も。

 大臣が号砲を掲げた。

 周囲では、観客の歓声が最高潮に達していた。このチームやあのチームへの応援が彼の耳に響いた。誰かがコルダタンのために足踏みと拍手を始めたが、賭けの倍率を考えるとそれは少々やりすぎのように思えた。

 足踏み。拍手。足踏み、足踏み、拍手。

 真の勝者はクラウドスパイアだということは誰もが知っている。彼らのチャントは誰か歌っていないのか? 必要ないのは当然だ。あの素晴らしいマシン、それにチャンドラ・ナラーが指揮を執っているのだから。それでも、自分から歌い始めるべきかもしれない。

 足踏み。拍手。足踏み、足踏み、拍手。

 ゴンティが号砲を発射した。

 そして、ふたつの物事が同時に起こった。

 まず――誰も見たことのない勢いで、レーサーたちがスターティングゲートを通過した。緑、赤、白、黒、青。ぼやけた色彩が前方へと飛び出した。先頭はロケッティアーズ。これは奇妙だ――いや。彼らのロケット機体は素早いスタートと狂気のハンドル捌きに特化して作られている。何ら不思議ではない。だがクラウドスパイアを見て彼の心は沈んだ。何故か、チャンドラ・ナラーは最下位を走っていた。勝利に集中するのではなく、スピードデーモンズを追いかけているように見えるが?

 だが次の出来事とともに、それらすべてはスラジュの心の中から消え去った。群衆が一斉に立ち上がり、飛び跳ねて叫び、彼らの足元にある金属がうめき声をあげた。

 安全警報が群衆の歓声を切り裂いた。何が起こっているのかに気づき、群衆はパニックに陥った。

 プラットフォームが倒れつつあった。

 落下する観客を受け止めようと係員たちが接近する一方、スラジュの内にひとつの考えがよぎった――自分にはひとつの役割があった。

 そして今、二度と役割を持つことはできないかもしれないと。

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アート:Scott M. Fischer

 音速の半分の速度で走る機体でギラプールの混雑した通りを駆け抜けるよりも悪いことは何だろうか?

 頭上に瓦礫が落ちてきて、羽虫の大群が機体に侵入しようとしていて、鮫人間が大砲を撃ち込んできて、あの親切で小さなロボットが通信を妨害していることがほぼ間違いない中でそうすること。

 スピットファイアは歯を食いしばった。混乱はスピットファイアには似合わない。他のレーサーがこんな早い段階で卑劣な策略に訴えているのは、彼らが必死だというだけだ。本当に必要な力がないという証拠だ。

 彼女はコーナーを曲がって砲弾から逃れたが、エンドライダーズのひとりが距離を詰めてきた。その獰猛な若い漂流者は、鉤付きの鎖をスピットファイアの機体に向かって投げた。彼女は急ブレーキを踏み、鎖は街灯に巻き付いた。

 首筋の毛が逆立った。

 彼女は車を転換させ、右に曲がって歩道に上がり、エンドライダーズから離れた。

 それは良い決断だった。彼女が背を向けるとすぐに、エンドライダーズを街灯に拘束していた鎖をアモンケットの獣が踏みつけた。哀れなその少年はゾンビ化した河馬に太刀打ちできなかった――スピットファイアの視界の端で、少年の片脚が潰されていた。

 前方に黄旗。あの子がレースに復帰できるかどうかを考える余裕はない。スピットファイアは最強だと証明したいのだろう? さあ、今がその時だ。崩れてくるプラットフォームだけでも十分ひどいというのに、石の塊が落ちてきたり、あちこちで梁が道をふさいでいたり、頭上を飛び回る救助隊が観客を空中で救出したり。

 あの落下するプラットフォーム、あの混乱。それは彼女の野心、才能、意欲を試す最初の本当の試練だ。

 自分は家系以上の存在になれると皆に示したいのであれば、これを完璧に決める必要がある。

 彼女は円筒缶を掴み、レーシングスーツの肩部分にあるソケットに押し込み、背後から突進してくるクイックビーストの一体を避けるために方向転換した。頭がふらつき、心臓が激しく脈打った。

 スピットファイアはその円筒缶をひねり、そして無限の世界へと入った。

 霊気の焼けるような音が彼女を満たす。舌がうずく。抑えきれないエネルギーで全身が燃え上がる。ほんの一瞬前まではハチドリの羽ばたきのようだった心臓の鼓動さえも、今は完全に止まっている。何も知らなければ、自分は死にかけていると思っただろう。

 彼女の脳の一部は、このすべてに絶対的な驚嘆を抱いている。空中で静止した障害物、息をせず動かないクイックビースト、時の中で凍りついたキールホーラーの大砲とゴブリンのロケット弾の集中砲火。

 けれど、勝ちたいのなら、驚いている暇はない。

 ペダルを思いっきり踏みこむ。

 スピットファイアの機体が前方へ突き進んだ。クイックビーストの翼の下を縫うように抜け、頭上に迫りくるプラットフォームの塊を避ける。

 プラットフォームの売店から降り注ぐ食べ物の雨は、陰気で可笑しいカーテンのよう。彼女はエンジンに何かが引っかかる危険を冒すのではなく、ギアを切り替えて90度旋回し、ボヤージャーズのタンクの背後から飛び出した。

 そしてその飛び出す途中で、彼女は目にした――幽霊のような腕がまっすぐこちらに向かってくる。スピードデーモンズだ。もしそれが接触したら、よくても吹き飛ばされるだろう。

 だから奴らと接触するわけにはいかない。

 ハンドルのスイッチを入れ、補助スラスターを作動させる。これはスピットファイアの案であり、ピアのではない。彼女はこのような状況に備えて補助スラスターが必要だと主張していた。補助スラスターなしで空を飛ぶのは常に無謀な賭けになる。

 スラスターが点火した。機体が宙で回転し、スピットファイアはその純粋な勢いで内部フレームに叩きつけられた。幽霊のような爪が、スピットファイアが残した煙と塵を掻きむしる。視界の端に、スピードデーモンズが失敗してコースから逸れていく様が見えた。

 前方――プラットフォームの床自体が土台から外れ、大きな円盤のように落ちてきている。それを通り抜ける唯一の望みは、中心を目指すこと。階段があった場所に大きな穴があいている。けれどその落下速度とスピットファイアの移動速度を考えるに、それを試みるのは狂気の沙汰だ。

 スピットファイアは、絶対に挑戦を諦めることはしない。

 もう一度スイッチを入れる。回転途中で、ありえない力が乗り心地を安定させた。頭が内部フレームにぶつかり、胃袋は空っぽになるはずなのに、その勢いはまだ伝わってこない。

 近づいてくる確実な死だけを考える。それは、ミサイルのように自分が突進しつつある石材、木材、金属の壁。

 娘がこんなことをして死んだと聞いたら、父はどう思うだろうか?

 おそらく、娘のことなど何も知らなかったと気付くのだろう。

 一呼吸、二呼吸

 そこ!

 瞬きひとつの間に、断ち切られた階段が現れ、スピットファイアは通り抜ける。再び着地するまで、空中にもう3秒間。機体全体が激しく揺れ、ふらつく。けれど無傷だ。

 それに比べれば、領界路を進むのは楽に感じられる。その向こう側のまばゆい光景と熱気の壁が、彼女を驚嘆で満たす。見たこともない神々の巨大な像、花が咲き乱れる美しいオアシス、自らを証明したがっている次元の音楽とざわめき。

 勝者の頭上に花びらが舞い散り……

 そして気付く、それはスピットファイアではないことを。

 スピードデーモンズ。けれど、ほんの一瞬前には後ろにいた。どうやって……?

 2位は決して十分とは言えない。けれど、少なくともナラーよりは上だ。

 今日はこれで我慢するしかない。


 あの機体が回転する様をもう一度でも目にしたら、モハル・ヴァルマは悲鳴を上げるだろう。

 すべての放送局がそれを繰り返し放送しているようだった。報道局であればまあわかる。この無謀で派手な光景も、どういうわけか日常生活の一部になっているのかもしれない。彼らにはそれを伝える義務がある。

 だが他の局も全部というのはいかがなものか? チャンネルを切り替えるたびに、場面が混ざり合ってしまう。車の発進、プラットフォームの落下、アナウンサーが正気を失って叫ぶ。

 「皆さん、あんな技は見たことがありません! エーテルレインジャーズは若きナラーがいなくても大丈夫かもしれません。チャンドラは果たしてあんなふうに死と向き合えたでしょうか?」

 愚か者どもが。チャンドラ・ナラーは、欠点は数多くあるものの、多元宇宙を救ったのだ。モハルも自らメダル授与式に出席していた。あんな新参者は――おおかたゴンティが街で引き抜いたのだろう――比べ物になるはずがない。

 ああ。なぜ気にする? モハルは画面を消した。

 その時、叫び声が群衆とは他の所から聞こえてきたことに彼は気付いた。

 がらんとした自宅の廊下から、苦痛の叫びが聞こえた。

 暗殺者? 初めてではない。

 彼は壁にかけられた霊気ブラスターを手に取り、扉へと急いだ。シータが家にいないことを神に感謝した。こんな姿を彼女に見られたくはない。暴力は女性が目にすべきものではない。

 だが廊下の角を曲がると、見えたのはひとりの女性だった――緑色の肌と蛇のような触手の髪の。彼はブラスターを構えたが、撃とうとしたところで手が止まった。どれだけ無理やり撃とうとしても、動けない。話すことさえできない。まるで自分の身体の中に自分が閉じ込められたかのようだった。

 その女性は哀れみの目で見つめてきた。その隣で影が分かれ、連れ合いがいることにモハルは気付いた。肩に青い外套をかけた男性。その両目は焼けつくような眩しい青色に輝いていた。待て。この男、あの霊気紛争の時に見たような……?

 「モハル・ヴァルマ」その男は言った。「それが貴方のお名前ですよね? いえ、お答え頂く必要はありません。存じておりますので。貴方が朝食に何を食べたか、この次元に対してどんな密かな希望や夢を抱いているかも存じております」

 話ができず、モハルはただ憤ることしかできなかった。何かが心の奥底を探る、不快な感覚があった。

 「その夢を現実にしたいと思いますか? 今、俺たちは貴方を簡単に拘束している。それはお分かりでしょう。俺たちの後ろ盾があれば、貴方から権力を奪った者など敵ではないでしょう」

 男は言う。「ペンを一筋動かすだけで、彼らが貴方の大切な街にしてきたことをすべて元に戻せるとしたら。皆がどれほどそれを待ち望んでいるか、ご存知ですよね。2度の無血革命、貴方に敵対した者たちの投獄を」

 「素晴らしい状況だと思いませんか? 今、その光景が見えるでしょう」

 見える。すべてを実に鮮明に、実に完璧に見ることができる――広間にいる自分自身と復権した領事たち。秩序と正義。カラデシュを偉大にしたあらゆるものの復活――そして自分の正しい立場がわかるという安らぎ。大衆の詭弁に惑わされることもなく、熱心に自らの役割を果たすシータ。

 あの侵略以前のままの生活。

 「俺たちが必要とするのは」男は言った。「貴方からの少しの手助けだけです」

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アート:Julian Kok Joon Wen
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