READING

開発秘話

Making Magic -マジック開発秘話-

こぼれ話:『フォーゴトン・レルム探訪』 その2

Mark Rosewater
authorpic_markrosewater.jpg

2021年8月9日

 

 先週、『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ:フォーゴトン・レルム探訪』に関する一問一答を始めた。大量の良い質問があったので、今週も回答を続けよう。

AFRにおいて、プレインズウォーカーというのは何ですか? 《ティアマト》が神で《蜘蛛の女王、ロルス》がプレインズウォーカーなのはなぜですか?

 他の知財を使ったマジックのセットを初めて作ることを決めたとき、プレインズウォーカー・カードの意味をどうするかについてかなりの議論が交わされた。マジックの世界においてはプレインズウォーカーには明確な定義があるが、その定義に当てはまるものは他のほとんどの知財には存在しない。(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズにも別世界があり、そこを移動できるキャラクターは存在するが、それはマジック語で言うプレインズウォーカーとは異なる。)

 まず、我々は、他の知財をテーマにしたセットにプレインズウォーカー・カードがあるべきかどうかについて議論した。あるべきだと決めた。プレインズウォーカー・カード・タイプはマジックに不可欠なものになっており、もしそれらのセットにプレインズウォーカー・カード・タイプを入れなければかなりマジックらしからぬものになってしまうだろう。

 次に、我々は、それに例えば「チャンピオン/champion」のような一般的な名称をつけることについて考えた。チャンピオン(か何かの名前。championはキーワードで存在している)は類語として働く、つまりプレインズウォーカーに作用するものはすべてチャンピオンにも作用し、その逆も成立するのだ。我々はこの方向は取らないことにした。マジックの多元宇宙の中に存在するマジックのセットとそうでないセットの間に壁を作ることになるからである。また、不必要な複雑さも生んでしまうことになる。我々は、その知財世界において完璧に合致はしなかったとしても、マジックの用語をそのまま保つべきだと判断した。例えば、その世界にふさわしくなかったとしても、ソーサリーはソーサリーなのだ。

 最後に、我々は「プレインズウォーカー」をゲームの単語として使うが、クリエイティブ的には何も指さないことにした。それらのカードの使い方は「プレインズウォーカー」だが、キャラクターとしては特定のことを意味するわけではないのだ。つまり、『フォーゴトン・レルム探訪』のデザイン・チームは、誰をプレインズウォーカーにするかについていくつかの要素を考慮したということである。

  • プレインズウォーカーには壮大さがあるものなので、チームは「ビッグネーム」のキャラクター、つまりD&Dユーザーにとても愛されているキャラクターに寄せた。
  • プレインズウォーカーには力があるものなので、チームはその世界で強力なキャラクターに寄せた。
  • プレインズウォーカーは旅するものなので、D&Dの複数の世界を旅することで知られているキャラクターに寄せた。(ただし強調しておきたいのは、プレインズウォークとD&Dの次元間を移動することは同じではないということである。)
  • 初期に、プレインズウォーカーを単色のサイクルにすることが決まっていたので、単色のキャラクターとしてふさわしいキャラクターに寄せた。このため、たとえば《ティアマト》は5色である必要があったのでプレインズウォーカーにできなかった。
  • 最後に、多様性は我々にとって重要なので、そのプレインズウォーカーのサイクルに多様なキャラクターが存在するようにした。

 これが『フォーゴトン・レルム探訪』のプレインズウォーカーを選んだ因子の説明になっていれば幸いである。

なぜ名前のある伝説のクロマティック・ドラゴンはいて、メタリック・ドラゴンはいないんですか?

 ここで、「なぜ[私が好きなD&Dのもの]を入れなかったんですか」という質問にまとめてお答えしよう。D&Dが最初に発売されたのは1974年だ。ロールプレイングゲームなので、そのコンテンツへの欲求は大きいものだ。無数のソースブック、小説、さまざまな世界やキャラクターや魔法の呪文やクリーチャーや品々に関する詳細な記事がある。1つのセットに、47年分のコンテンツを入れることは不可能なのだ。我々は、ファンがいるものを可能な限り多く入れようとしたが、どれだけやったところで、セットに入れられるカードの枚数には限りがあった。多くのものが、入りきらなかったのだ。

 いいニュースとしては、このセットは成功を収めつつあるので、先週も言ったとおり、いつかまたD&Dのマジック製品を作ることになる可能性が高いと私は思っている。そのため、プレイヤーが望んでいて我々がこのセットに入れられなかったものがある、ということは最悪の話ではない。

 さて、それではクロマティック・ドラゴンの話をしよう。D&Dには、たまたまマジックの5色と同じ色のドラゴン5種類のサイクルがある。他の知財をマジックに当てはめる上での課題の1つが、物事がいつも我々がしている方法にうまく当てはまるわけではないということである。そのため、何かが完全に当てはまったなら、それを使わないようにするのは難しいのだ。

 先述の通り、D&Dのセットでプレイヤーが求めるものは多いので、我々はカードにするものを組み合わせた。クロマティック・ドラゴンが枠を埋めたので、すでに大量のドラゴンがいるこのセットで伝説のメタリック・ドラゴンを作るのは難しくなった。メタリック・ドラゴンを入れることに問題があったわけではなく、単にクロマティック・ドラゴンに比べて良くなかったということである。将来またD&Dのマジック製品を作ることがあれば、おそらくメタリック・ドラゴンが再検討されることだろう。

「君は○○した」系カードで、これほど多くのコモンやアンコモンをモードを持つ呪文にすることについて、特に、参入障壁やセットの複雑さという点で、デザイン・チームにはどんな懸念がありましたか?

 それほど懸念はなかった。何年ものテストの結果、モードを持つカードは新規プレイヤーを恐れさせるものではないということがわかっていたのだ。なぜかを見ていこう。

 複雑さには、理解上の複雑さ、盤面の複雑さ、戦略の複雑さの3種類がある。理解上の複雑さとは、そのカードを読んで理解することの難しさのことだ。モードを持つカードは、実行するのはそれほど難しくない。AかBか、どちらかをする。通常、モードを持つカードには理解上の複雑さは存在しない。特に、それらの2つの効果が単純なものであればそうである。

 盤面の複雑さは、そのカードが戦場にある時に、何ができるのか、戦場にあるパーマネントとどのように相互作用をするのかを追跡することの難しさのことだ。モードを持つカードのほとんどは呪文であり、クリーチャーであるものは「戦場に出たとき」の能力に関わるモード要素を持つことが多い。つまり、戦場には存在しないか、戦場にある間は実質バニラあるいは実質フレンチバニラ・クリーチャーなのだ。(「実質」とは、その戦場に出たターン以降 のこと。)モードを持つカードは、『フォーゴトン・レルム探訪』での使い方の限りでは、通常、盤面の複雑さは生み出していない。

 戦略の複雑さは、そのカードがそのゲーム全体に及ぼす影響を理解することの難しさのことだ。モードを持つカードが複雑になりうるのは、この部分である。戦略的に、Aをするべきか、それともBをするべきか。興味深いことに、初心者は戦略の複雑さに強く影響されるだけの知識をまだ持ち合わせていない。彼らは先のターンのことを考えないので、カードを使えるときならそのカードを使い、そうしなかったなら将来そのカードをどう使えるのかを考えもしないことが多いのだ。つまり、モードを持つカードは初心者にとって戦略の複雑さを引き起こさないのが通例だということである。(この話題について深く知るためには、私のこの記事を参照のこと。)

開発部内で、カード名を有限の資源として扱うという長年の懸念があります。新しいフレイバー能力では、同じように使い切ることを懸念していますか? 《ゼラチナス・キューブ》の「溶解」があることで、溶解というメカニズムを作ることができなくなっていますか?

 何かがフレイバー語になったからと言って、その語をカード名として、あるいはメカニズム名として、使うことができなくなるということはない。しばらくその単語を使わない期間(おそらく2~3年)はあるかもしれないが、その後では、フレイバー語の単語もカード名やメカニズム名に使用できるだろう。

なぜ、AFRにファンタジーの舞台にとどまらずD&Dのゲーム要素(d20、フレイバー語、《君は近づいてくる護衛兵に気づいた》などの呪文)を入れたんですか?

 まず一言で、その後詳細に、お答えしよう。一言で答えると、そのほうが楽しめるセットになると考えたからである。

 詳細に答えると、ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズの本質を再現したかったからである。『フォーゴトン・レルム探訪』をプレイすることで、D&Dをプレイしているような気分になるようにしたかったのだ。そう、フレイバーは確かにいい出発点である。カード名、アート、フレイバー・テキストがすべてD&Dの物語を示すようにすることで我々が狙った気分を呼び覚ましてはくれたが、それでは足りなかったのだ。

 人々がD&Dで連想する本質の多くは、それをプレイすることにある。例えば、D&Dのセッションについて話すとき、フレイバーの話もするだろうが、ゲームでどういうことをしたかも話すものだ。サイコロを振ること、物語内でした決定のこと、自分のキャラクターの成長……それだはどれも、D&DをD&Dたらしめている象徴的な部分なのである。D&D体験の余韻を扱うのであれば、それらはフレイバーと同様に重要なので、我々はその両方を再現することに決めたのだった。

出来事、Lvアップ、パーティーをセットに入れることは検討しましたか? この3つどれも存在しないのは、本当に奇妙に思われます。

 デザイン・チームはその3つのメカニズム全てについて検討した。出来事とパーティーは、スタンダード内の過去のセットに存在していた。出来事はダンジョン探索メカニズムと同じようなフレイバー空間にあるので競合し、パーティーには特定のクリーチャー・タイプへの強力な寄与が必要となり、それによってクールな1枚だけのものを作ることができなくなる。そのため、デザイン・チームはその両方をボツにしたのだ。

 一方、Lvアップを復活させるという掘り下げは、クラス・エンチャントに進化していった。フレイバー的にちょうどいい過去のメカニズムを見て、それがそのセットに完璧にふさわしいとするのは非常に簡単なことだが、それぞれのメカニズムにはほかのこととうまく噛み合わない、メカニズム的問題があることが多いのだ。

このセットのフレイバーを感じない、D&D未経験のプレイヤーに関しての懸念はなんですか?

 マジックのプレイヤーとD&Dのプレイヤーの間に、全く重なりがないと仮定しよう。我々がマジックのプレイヤーに、フォーゴトン・レルムという新しい次元に行き、D&Dのクリエイティブを使うのだと伝えたとしても、それをダンジョンズ・アンド・ドラゴンズだと呼ばなければ、誰も気にもとめないだろう。単なる、クールな新しい世界で、クリーチャーもキャラクターも見たこともないものである。つまり、それは他の次元とまったく同じだ。プレイヤーはそれを、新しいマジックの世界として受け入れるだろう。

 これが意味することは、見たことがなかったとしてもこれはクールなのだ、ということである。 文脈なしでも、楽しい、心躍るものであり、マジックの美学にうまく合致している。つまり、マジックはファンタジーのゲームなのでそのユーザーは基本的にファンタジーのファンであり、『フォーゴトン・レルム探訪』はファンタジー・ファンにとって魅力的なので、その懸念はしなかった。

 感じ方の違う可能性がある唯一の部分は、ダンジョン、クラス、サイコロなど、D&Dにトップダウン的に合わせたメカニズム空間に進んだことである。これらも、それ単体で楽しいものだ。ダンジョンが何か知らなくても、メカニズム的にそれを楽しむことができる。クラスが何を指すのかわからなくても、レベルアップするエンチャントを楽しむことができる。これまでに20面体サイコロを見たことがなくても(マジック・プレイヤーならスピンダウン・カウンターは見たことがあるだろう。非常によく似ている)、転がして何が起こるかを楽しむことが出来うrのだ。

 全体として、『フォーゴトン・レルム探訪』は楽しいマジックのセットなので、我々はそう危惧しなかった。D&Dを知っていればその経験はさらに深まるが、知らなければならないわけではないのだ。

「コイン投げをする」を「d2を振る」と同じにするようなルールの最適化の機会はありますか?

 哲学的な質問は大好きだ。コインは2面体サイコロだろうか? ゲーマーは長年に渡りこのことを議論してきた。私は「違う」派だ。少なくとも、「コインはサイコロではない」派だ。例えば、コインは3通りの結果が出る可能性がある。(第1面、第2面、そして立つ可能性。そしてこの3つの可能性は等しくはない。)そのため、厳密に言えば2面ではないし、私はサイコロの重要な部分は転がるという部分だと考えている。2面体サイコロ(転がるサイコロで、出目が2種類しかないもの)を作ることは可能だが、それは平均的なプレイヤーがいつでも手にできるものではない。

 また、サイコロを振ることの振れ幅を下げたら(1/6や1/20ではなく1/2)、《Krark's Other Thumb》のようなサイコロを振ることに作用するカードは壊れたものになるだろう。つまり、私はそのような機会だったとは考えていない。

AFRの存在が、例えば『モダンホライゾン3』などの他のセットに1枚限りのD&Dカードの可能性を開きましたか?

 これまで、《保有の鞄》のようなものでその一歩は踏み出していたが、今やマジック・D&D製品ができたので、そういったカードはこういうセットのために温存すると思われる。これ以上作らないだろうということになれば再検討する可能性はあるが、私は今後のマジック・D&D製品に楽観的なので、1枚限りのD&DカードをD&Dテーマでないマジックのセットに入れることはあまり考えられないと思う。もちろん、ブログでも語っている通り、ありえないということはない。

英雄譚をフェイ・ルーンの物語上の大きな出来事にすることを検討しましたか?

 どのセットでも採用を検討するものとして、英雄譚、両面カード、ボーナス・シート、新しい外部部品などがある。それらのほとんどがどのセットでも成立はするが、我々はそれらをすべてのセットで使おうとは考えていない。それには多くの理由がある。1つ目に、使った時に心躍るものにしたいので、それらに飽きさせないようにするために注意深くする必要がある。2つ目に、それらを入れるのには物理的な限界があり、セットには1つか2つしか入れられない。3つ目に、それぞれがいくらかの複雑さを生むので、大量に使いすぎるとセットがプレイしにくくなる。

 そのため、英雄譚は検討して、非常にフレイバーに富んだ英雄譚を作ることはもちろん可能だったが、(今回のデザイン・チームだけでなく開発部全体として)『カルドハイム』など他のセットのほうがその需要が高いと判断したので、デザイン・チームは他にすべきことを選んだのだ。

こんにちは、マーク! 銀枠セットでマジックにサイコロを取り入れたことがありますよね。銀枠で得た経験でAFRに活きたものについて教えてください。すべきでないこと、寄せるべきこと、慎重にすべきこと……。あなたの仕事に感謝しています!

 銀枠セットから私が学んだ、サイコロを振ることについての話を(短くして)しよう。

 『Unglued』は、マジックにサイコロを振るということを導入した。そのセットの市場調査の結果、プレイヤーからもっとも不評なカードの中に、サイコロを振るカードの一部が含まれていた。そこで、『Unhinged』を作ったとき、サイコロは使わないことにした。その結果、サイコロを振ることが大好きな多くのプレイヤーから、サイコロがないことを残念に思うという不満の声が上がったのだ。これを受けて、私は初代『Unglued』の市場調査を見直した。その結果、サイコロを振るカードの一部は不評だったが、一部はかなり好評だったということがわかった。

 一部は好評で、一部は不評である、その理由はなにか。私はサイコロを振るカードすべてを確認して、その法則を見つけたのだ。

 プレイヤーが嫌ったのは、混沌だった。それをプレイした結果何が起こるかわからないのだ。それについて計画を立てることができないものだ。それらの多くでは、悪いことが起こる可能性があるので、単に予測不可能なだけでなく自分にとって明確に不利益になることもある。それは単に楽しくなかったのだ。

 好評だったのは、予測可能なものだった。《Elvish Impersonators》がどれぐらいの大きさになるかはわからなくても、サイコロを振ればクリーチャーが出るのはわかっている。また、これらのカードは有利になる結果しか出なかった。プレイすることで自分が不利益になることはないのだ。

 私にとっての重要な教訓は、サイコロの不確実性の面白さを強めて懸念を減らす形で正しく使えば、サイコロを振るカードは多くのプレイヤーにとってとても楽しいものだ、ということである。

 『フォーゴトン・レルム探訪』はそれを肝に銘じている。たとえば、サイコロを振るカードはほとんどの場合、することは1つだ。サイコロによってその規模は変動するが、少なくともその効果の最低限は得られることがわかっているのだ。そして、サイコロを振るカードは、それをプレイすることを選んだプレイヤーにとって利益になるようにしている。フレイバーに富んでいればちょっとした不利益が含まれることはありうるが、サイコロを振るカード全体として有利になるものであるように注意しなければならない。

「質問は終了します」

 本日はここまで。いつもの通り、この記事や私の回答、あるいは『フォーゴトン・レルム探訪』全体について、諸君からの感想を楽しみにしている。メール、各ソーシャルメディア(TwitterTumblrInstagramTikTok)で(英語で)聞かせてくれたまえ。

 それではまた次回、本年のデザイン演説でお会いしよう。

 その日まで、あなたが『フォーゴトン・レルム探訪』をプレイして新たな質問を見出し(そしていつでも私のブログBlogatogで質問でき)ますように。

(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)

  • この記事をシェアする

RANKING

NEWEST

CATEGORY

BACK NUMBER

サイト内検索