MAGIC STORY

イニストラード:真紅の契り

EPISODE 09

メインストーリー第5話:死が我らを分かつまで

K. Arsenault Rivera
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2021年11月24日

 

 法とは混沌を抑えつける主張だ。混沌なくして法は存在しえない。聖戦士は常に正義を執行しなければならない、何故なら混沌とは世界の自然な状態なのだから――訓練の毎日に、エーデリンはそれをまざまざと見せつけられた。獣の腹の底で、無秩序の大嵐に取り囲まれた時こそ、聖戦士は何よりも居心地の良さを感じるのだろう。自分たちが最も必要とされている時なのだから。

 何にせよ、そう言われている。だがエーデリンは訝しむようになっていた。そう教えられた物事の多くは、甘い考えだったのかもしれないと。

 私の助けを必要とする人々がいる、彼女はそう考えた。それは唯一の思考になり、この夜に駆けるための唯一の物事になり、呼吸を続けるための唯一の物事になった。肉体が疲労しようとも、イニストラードの人々を守る神聖なる誓いは彼女に剣と力を与えた。

 チャンドラは混沌の中に馴染んでいた。吸血鬼の鉤爪がエーデリンの盾を引っ掻く中、チャンドラはその先で卓の上に跳び上がり、最適な位置に立った。ふたりの視線が吸血鬼の肩越しに交差した。どういうわけか――悲鳴の中、むかつきの中、周囲に死がうめく中――チャンドラは得意そうに笑っていた。

勝負服纏い、チャンドラ》 アート:Viktor Titov

 炎の柱がその吸血鬼をのみこんだ。灰の山だけが残され、装身具がその上に行儀よく座していた。エーデリンは息をついた。

 チャンドラはにやりとした。「鎚と金床って感じ――え?」

 その言葉の途中で、エーデリンはチャンドラを引き寄せて盾を掲げた。ワインの瓶が堅木と鋼に当たって砕けた。敵を睨みつける聖印に赤い液体が流れ落ち、飛び散った雫がエーデリンの兜を濡らした。

「つまり私が金床ということでしょうか」とエーデリン。

 腰に素早く腕を回して――鎧越しに感じ取るのは困難だろうが――チャンドラは感謝を表した。「ねえ、そんな陰気にならないで。ここまでやったんだからさ」

 エーデリンは離れた。乱戦の中から、ひとりの下僕が燭台を振り回して現れた。その男が接敵する直前にチャンドラが炎で追い払い、燭台は床に音を立てた。炎がテーブルクロスを舐めた。卓の上で結構な人数が戦っている状況を考えるに、これは宜しくない。少なくとも十人ほどがおり、そしてそれらは人間と吸血鬼の戦いだけではなかった。

 血吸いたちの中にも、これは古い遺恨に決着をつける好機と判断した者たちがいるようだった。エーデリンが眺める中、身なりのよい女性が上品な男の口付けを受けながら、相手を突き刺した。剣先がその背中から突き出た。何故か、男の方は微笑んでいた。

 そこかしこで、混乱の極みが繰り広げられていた。騎乗した聖戦士ふたりと訓練された豚に乗った若者が一体となって、ファルケンラスの吸血鬼を鮮血で染めていた。デーモンが農夫の一団へと柱を振り回し、シガルダがそれを受け止めた。衛兵が戦士の首をはね、口元を血で染めた子供へと投げた。その子供はよく訓練された犬のように首を宙で受け止めた。

 その衛兵の喉元から赤い液体が噴き出した。奪った血を大理石の床に流しながら、その男は倒れた。背後で、紫色の光をまとったケイヤがナイフを引いた。

「アーリンさんはどこに?」 エーデリンが尋ねた。

 ケイヤはかぶりを振った。「私たちは戦線を守るので精一杯で」

「でもケイヤさん。見てないのかもしれないけれど、これは戦線って言うより……」 チャンドラがそう言いかけた。

 彼女は言葉をまたも切った――この時は一本の柱が倒れてきたために。エーデリンは彼女を守ろうと急いだ――そして間に合った。柱がまるまる一秒、倒壊の途中で静止したおかげだった。時間魔道士の術。チャンドラには本当に頼もしい友人がいる。

「エーデリンさん、何にせよよく気付いてくれた」とテフェリー。彼は迫る斧を避け、その衛兵の脇腹を杖でつついた。衛兵は動きを止め、そこで聖戦士が仕事を果たした。「散り散りになってしまっている。このままでいるのは良くないな」

「アーリンさんはやるべきことを分かってるわ」とケイヤ。「決着をつけに――」

「アヴァシン様は常に姉妹たる天使と共に戦っておられました。アーリンさんを独りにしてはおけません」とエーデリン。「助けに行きましょう」

「お喋りはここまで」とチャンドラ。「お客さんよ」

 その通り――十人ほどの逞しい吸血鬼の衛兵たちが盾を並べ、まっすぐに向かってきた。こんな時に難しい相手が。チャンドラは炎の塊を放ったが、彼らの躊躇は一瞬だけだった。

 エーデリンは戦闘の構えをとった。

 法とは混沌を抑えつける主張。聖戦士は大嵐の中で最も必要とされる。

 衛兵のひとりが投槍を放った。

 エーデリンは盾を掲げた。

 だが衝撃は来なかった。

 目の前で、巨体の狼が突進した。投槍はその脇腹に当たり、緻密な筋肉を貫けずに跳ね返った。その狼は吸血鬼たちへと向き直った。喉から発せられたうなり声はとても低く、エーデリンは肺にその音が響くのを感じた。

 前足が大理石の床を叩いた。そして、咆哮。

 もう四体の狼が――それらの体格は並みだが――窓から飛び込んできた。彼らだけではない。今や何十体という狼が、窓や開いた扉からなだれ込んだ。数体は岩のように大きかった。

 けれど何故? 狼たちが収穫祭の虐殺で人々を引き裂いたのはつい先日のことだった。どうして彼らが自分たちを守りに?

「その……あんたたちが呼んだの?」 チャンドラが尋ねた。

 返答するように、狼でも最大の一体が向き直った。一本の腕を大顎にくわえて――何ということだろう。あの男。エーデリンはその傷跡に見覚えがあった。

 トヴォラーだった。

婚礼壊し》 アート:Alexander Mokhov

「手助けをしに来てくれたと?」 テフェリーが尋ねた。

 その狼は頷いた。ケイヤはひとつの扉を指さした。

「アーリンさんはあっちに」

 彼女が言い終わるや否やトヴォラーは駆け、シャンデリアの残骸を跳び越えてアーリンのもとへ向かっていった。

 大患期の間、誰が友で誰が敵かを見定めるのは困難だった。その境界線は曖昧になっていた。長く知る相手が目の前で触手と甲殻を弾けさせた。

 これは大患期ほど悪くはない――だがその狼たちをどう判断するべきか、エーデリンはわからなかった。


 ソリン・マルコフは闇を熟知している。数千年に渡って、闇は最高の相棒だった。そして今、血の孔に沈みながら実感していた。それは自分に残された唯一の相棒かもしれないと。

 それ以前から知るプレインズウォーカーたちは……死んだか消えた。あるいはかつての彼らの影を残すのみ。

 ナヒリ。かつては信頼した娘。石の中に自分を閉じ込め、世界が崩壊する様を見せつけた。

 アヴァシン。最も信頼した創造物。未来への希望全てを、ひとつの完全な輪郭にとらえたもの。それを破棄するのは辛かった。真に辛かった。吸血鬼の力ですら、心のその傷を癒すことはかなわない。

 そして今……

 瞼を血が圧迫した。口を開いたなら存分に飲めるだろう、力をくれるだろう。だがここから出たとして、何が残されている? 存在の七千年間が身体にのしかかっていた。血の深淵へと、彼は更に沈んでいった。

 何が残されている?

 考えようとした。何かがあるはずだ。自分のような者は目の前だけでなく大局を見る。祖父がそう教えてくれた。

 あの祖父が、オリヴィア・ヴォルダーレンと結婚するなどというおぞましい特権のために立ちはだかった。あの祖父が、同じ理由から自分をここに投げ捨てた。ソリンは多くの傷を受けてきたが、最初のそれを与えたのはエドガーだった。そしてそれでも、ソリンは何千年もの間、祖父を愛していた。

 それもまた、祖父の計画の一部だったのだろうか? 都合の良い時にだけソリンを利用するために? 子供が茶会の真似事をするように、あの長い会話にふけったのも?

 目の前だけでなく、もっと大局を。

 そう、今それが見えた。

 ソリンの胸が痛んだ。

 彼は口を開いた。

 甘くねばつき、ワインのように酩酊をもたらす血が流れ込んだ。腱が自ら編み直された。骨が音を立ててはまった。傷が縫われるように閉じた。手にした活力に――自らの活力に――筋肉がうねった。この穴倉で溺れるのではなく、更なる強さを手に入れる。

 ソリンは登りはじめた。

 それは想定よりも長くかかった。手を伸ばす度に身体は自ら癒え、傷は塞がり続けた。彼はうめいた。だがその奮闘と努力に全力を尽くし、穴の縁に達すると、もはや彼の内に疑いの余地はなかった。

 あの大広間。そこに祖父は――エドガーは――向かった。

 一歩、また一歩。捕食者の静けさで彼は鮮血館を進んだ。捕食者の嗅覚で呟きの回廊を抜け、捕食者の本能でその途中に一本の大剣を手にとった。

 そう進まないうちに音が届いた。金属の激突、死者のうめき、天使の翼の羽音。激しい怒りが沸き上がる音。同じく、ヴォルダーレンの地の狼の遠吠えにも、激しい怒りが。

 そう――数日前ならば。

 今や、そこには苦々しい満足感があった。数千年の間、吸血鬼たちは陰謀と策略を企て、更なる力というわずかな味を求めるためだけに喉を裂き心臓を刺した。狼たちが――真の群れの獣が――それらを負かそうとやって来るのはただ自然なことだった。

 そして気付いた。その広間には自分の家族もいる。そして――冷ややかに、まるで分厚い布を通した囁き声のように――どうでも良い、そう気づいた。

 ソリンはその大嵐の中へ踏み入った。一本の矢が肩越しに鳴った。彼はそれを掴み、襲いかかってきたヴォルダーレンの衛兵の喉へと突き刺した。その男は息をしようともがき、ソリンはその矢の柄をひねった。

「黙れ」

 矢を引き抜くと、その男は崩れ落ちた。ソリンは大して気にしなかった。既に彼は大広間にエドガーの姿を探していた。オリヴィアはもはや問題ではない。あの女がこの婚礼を計画したのかもしれないが、エドガーはそれに同意した。エドガーはそのために戦った。エドガーは自らの孫を放逐した、もっと単純なもののために――使い捨てで儚い、権力のために。

 彼はエドガーの姿を探した。

 いた――テフェリーとその仲間たちに囲まれ、マルコフの決闘者に挟まれて。エドガーは若者のようにその大剣を振り回し、喜びに甲高い笑い声を上げていた。以前からあんなにも老いて見えただろうか? あんなにも皮膚は萎れ、両目は窪んでいただろうか?

 ソリンとエドガーの間に割って入ろうとする者たちがいた。自らの死刑に同意する方法としては愚かなもの。秋の落葉のように四肢が落ちた。ソリンは進んだ。

 エドガーはテフェリーへと剣を振るった。時間魔道士はその攻撃を遅らせたが、僅かだった――テフェリーはかろうじて防いだ。あの聖戦士が決闘者ふたりを引き受け、紅蓮術師の炎がエドガーの上等の衣服を舐めた。霊が二体現れ、決闘者たちに致命傷を与えた。

 戦況は変化していた。ソリンと同じように、エドガーもそう感じているに違いない。

 かつて力に満ち、賢明とソリンが思ったその顔が、不快に歪んだ。「また来たのか?」

 ソリンの攻撃は人間にとらえられない速度で、エドガーの受け流しも同様だった。剣と剣が繰り返しぶつかり合い、手の動きはぼやけるように舞った。ソリンの猛攻撃は危険で容赦なく、和睦や交渉の余地はなかった。エドガーは強いかもしれない――だが剣術はずっと昔からソリンの得意分野だった。

 エドガーを助けに入った者には素早い死が与えられた。束の間以上にそれを気には留めなかった。だが、他の者たちが増援を押し留めているとは知っていた。

 ついに、エドガーがその戦いから先に脱落した。彼は慌てて後ずさり、その剣は玩具のように床に音を立てた。

「ソリン。お前は理解していない――」

 ソリンは借り物の剣の先端をエドガーの喉元に突きつけた。「理解している、エドガー。小さくはない大局を。犠牲を。力を。貴方が私をどう思っているか、完璧に理解しているとも」

 そして同じく理解していた、この男をここで殺してしまうのがいかに容易いかを。手首を軽くひねるだけでいい。一瞬の抵抗、死にゆく喘ぎ――それで全てが片付く。

 それでも何かが彼の手を押し留めていた。

 それは、死して久しい天使の見えざる手かもしれない。

 ソリンは顔をしかめた。「行け。私の前から消えろ」

 虚勢も権力も無意味だった。二度言われるまでもなかった。怯えた猫のように、エドガーは遁走した。何処へ向かうのかはソリンの気にするところではない。代わりに、彼の目は祖父がたった今まで立っていたその場所を見つめた――死んでいたかもしれなかった場所を。

「あんた、大丈夫?」

 あの紅蓮術師だろうか。その声に込められた心配にソリンは驚いた。この娘は決して自分を好いてなどいないだろうに。

「ああ」 それは嘘だった。ソリンは刃を拭った。やがて顔を上げると、他の者たちは遠巻きに彼を取り囲んでいた。まるで饗宴の残骸のように、吸血鬼の屍が床に散らばっていた。

「ソリン殿、察します――貴方にとっては辛い出来事だったでしょう。それでも正しい行いを成して下さいました」 テフェリーがそう言った。

 ソリンは彼を睨みつけたかった。お前に何がわかる? お前などに判断されてたまるものか。それでも彼はわかっていた――テフェリーもまた、古い存在だ。テフェリーもまた、喪失を知っている。想像を超える物事を見てきた者なのだと。

 そして他の者たちはもっと短命かもしれない――それでも、全員が共通する本質を理解している。一つ所に留まっていられない落ち着かなさを。放浪熱を。

「感謝する」

 彼に言えたのは、それだけだった。


 アーリン・コードは森の夢をみる。

 肉球の脚で枝を踏みつける夢を、辺りに物憂げに舞い落ちる紅葉の夢を、毛皮を撫でる風の夢を。

 「大岩」と「根気」が彼女と肩を並べて駆ける。「稲妻」は前方に。「赤牙」は自分たちの背後にいる、何故かそう確信できた。

 胸を苦痛が刺した。

 狼たちが側にいると感じるのは自由だが、真実は不可避だった。彼らは去った。

 自分は独りなのだ。

「アーリン」

 狼に会話の手段は幾つもある――だが最も近しい仲間たちの口から、彼女の名前が発せられることはなかった。アーリンは顔をしかめた。足を緩めたかった、だが群れ仲間たちは疾走を続けさせた。

「アーリン、狩りの時間だ」

 怖い、そう感じた。まるで自分の頭は大聖堂の鐘で、その声はそれを打つ鎚であるかのように。

 止まりたかった。

 だがそして――温もりがあった。何か形あるものが隣に、その心臓は素早い鼓動を刻んでいた。顔面に温もりを、覚えのある匂いを感じた。

 鹿は後でいい。

 目を開けると、まずトヴォラーの姿が見えた――今もなお、前回の遭遇での傷を負いながら。柔らかな表情が力強い身体に安堵を分け与えた。

「あなたがここに?」

「助けを呼んだだろう」 その返答は狼の鼻面から粗く発せられた。

 そしてその時彼女ははっとした。自分は独りではない。「大岩」も隣にいた――全員がいた。抱き寄せながら、安堵と喜びが怪我の苦痛を上回った。私の群れ! そして彼らも皆嬉しそうに顔を舐め、鼻を寄せた。

祭典壊し》 アート:Chris Rallis

 だがいつまでもその抱擁を続けてはいられない。喜びとともに鮮明な意識が、鮮明な意識とともに記憶が戻ってきた。

 こんな傷をくれたのはオリヴィア。そして月銀の鍵を持っているのはオリヴィア。

 「大岩」と「根気」に助けられて立ち上がり、アーリンは再び変身した。人間の鼻はここでは役に立たない。人間の治癒力も役に立たない。狼にならなければ。

 それでもひとつ、引っかかっている物事があった――どこかばつが悪そうに、トヴォラーが肩をすぼめる様子。

「トヴォラー。助けてくれたからって、私たちの関係は何も変わりはしない。あなたの行いは――」

「今夜、それを決める」 その姿で言葉を発するのは難しい――だがトヴォラーは彼女と同じようにこともなく言った。「終わったら、俺を探せ。群れ仲間のように決めよう」

 アーリンの皮膚がむずむずした。トヴォラーは群れ仲間ではない――この三体がそうだ。けれど今は群れ仲間にならなければ。ヴォルダーレン家は他の吸血鬼への――そして天使への――絶対的な支配を手にしようとしている。それは狼にとっても良いことではない。

 アーリンは返答で彼に自信を与えはしなかった。オリヴィアの匂いは濃く残っており、大理石の上のその血は新鮮で食欲をそそった。あの女性を追跡するのは簡単だろう。

 ついて来て、そうトヴォラーに告げる必要はなかった。

 狼たちにも告げる必要はなかった。五体は揃ってヴォルダーレンの屋敷の幾つもの広間を抜け、階段を一段飛ばしで駆けた。脈打つような耳鳴りを感じた。それは痛かった。当然だが、痛かった。

 だがそんなものは、オリヴィアがイニストラードの全天使を支配したなら起こる物事に比べたら、何でもない。

 その足跡は大広間に戻っているのではなく、もっと高い場所へと向かっていた。四つ足で階段を越えていくのは難しい。だが彼女たちは向かった。他に方法もないのだから。

 広間からエドガーの声が響いてくるまで、長くはかからなかった。

「全てを支配し手に入れるという約束だったではないか」

「しましたわ。こんな……こんな馬鹿げた……」

 狼たちは廊下を曲がった。そこに、広間の奥で、自らの彫像に囲まれて、オリヴィア・ヴォルダーレンがいた。エドガー・マルコフは彼女と共に立ち、血にまみれ、荒く息をついていた。オリヴィアの顔は憤怒に燃え、その手が今一度剣に触れた。エドガーは彼女の肩へと手を伸ばした。

「オリヴィア、終わりだ」

 彼女はエドガーの手を払いのけた。「お前が触れて良いのは、私がそう許可した時のみです」

 狼たちが迫った。アーリンはふたりの前で立ち止まり、喉を低く鳴らした。オリヴィアは彼女が求めるものをわかっていた。トヴォラーはエドガーに噛みつこうとし――だがアーリンの鋭い吠え声が止めた。

 オリヴィアは窮地に立たされた。この状況をどう正すのか。

 最終的に何が勝利を収めるのか、アーリンは確信できなかった。オリヴィアの立腹か、それとも忍耐の欠如か。あるいはしおらしい泣き言を言うのか。

 だがオリヴィアは鍵を手放した。

 それは何の感慨もないかのように、床に音を立てた。

「そのつまらない玩具を持っていきなさい、そんなに大切だというなら」 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。

 アーリンは引き裂いたカーテンの帯で鍵を包み、歯で咥えた。オリヴィアは既に窓のひとつから脱出していた。エドガーもすぐに続いた。トヴォラーは壁へと駆けあがり、彼らをとらえようとした――だが顎にエドガーの上着の切れ端を挟んで戻ってくるだけだった。

 彼は顔をしかめた。そうだろう。間違いなく、トヴォラーは彼らを引き裂いてこの脅威を永遠に終わらせたがっている。

 アーリンの一部もそうだった。

 けれどそれは後だ。

 アーリンは人間の姿に戻り、トヴォラーの視線を受け止めた。

「私のやり方に疑問があるなら、後で私を探して。私と群れで相手をするから」


 月銀の鍵は疲労した脚に新たな活力をくれた。ステンシアからケッシグへの帰路ずっと、彼女たちは休みなく駆けた。テフェリーの魔法で速度を上げたが、そのため彼は消耗し、到着する頃には馬車の中で眠り込んでいた。

 一歩一歩が苦労して得たものだった。一歩一歩が勝利だった。

 だがそれも、儀式を完遂しなければ何の意味もない。

 まだ大丈夫だとカティルダは請け負った。月銀の鍵に繋がれた彼女の霊もこの旅について来ていた。ケイヤは旅の間ほぼずっとカティルダに付き添っていた――だがアーリンには尋ねたいことがあった。

「どうして大丈夫だと言えるのですか?」

「何故大丈夫でないと言えるのだ?」とカティルダ。

 霊になるということは、今以上に神秘に傾倒することを意味するに違いない。

「私はただ、確信が欲しいのです」 アーリンはそう返答した。彼女たちは森の中を進んでいたが、ほとんどの者は馬車の中で眠っていた。エーデリンの軍馬とケイヤが借りた騸馬が並んで馬車を引いていた。起きているのは彼女たちだけだった。聖戦士、狼、そして霊。「それはもっともだと思いませんか」

「お前は自らをあまりよく知らない」とカティルダ。「確信した時にのみ行動していたなら、お前は今ここにはいないであろう?」

 最悪の噛み傷は、自らの手で育てた子犬がもたらす。アーリンはたじろいだ。

 彼女は再び馬車へと視線を向け、その中の全員を思った。チャンドラは長椅子のひとつの上に丸くなり、ケイヤは壁に寄りかかっていかにしてか眠っていた。テフェリーは別の長椅子に。そして床には彼女の狼たちが、満腹になって安らかにまどろんでいた。

「あの者らについては確信しているのか?」

 その質問に彼女ははっとした。アーリンはカティルダを一瞥した。「勿論です。最強の魔道士たちです。確信していないわけがありません」

「魔道士についてではない、わかっているだろうに」

 アーリンはもう一度たじろいだ。魔女は誤魔化せない。「ソリンにも、私たちに手を貸したいという彼なりの理由がありました。彼もまた過ちを犯しましたが、それでも私と同じほどにイニストラードを愛しています。来てくれることはわかっていました」

 口に出さずにはいたが、ソリンは自分たちと同行してはいなかった。処理すべき物事がある、相変わらず謎めいてそう言っていた。だが今回、それは陰気で曖昧に表現しているだけではないとアーリンは推測した。彼はステンシアに残り、死者や負傷者の世話を行っていた。長期の支えを必要とする者は全員、マルコフの居城に移動して数か月を過ごすことになった。余所者には夢見ることしかできないような、途方もない医学書を持っているのは自分だけなのだから。そう彼は強調していた。

 そして、そうなのかもしれない。

 あるいは何か他のものかもしれない、彼がそれを認めたくないだけで。

 だからこそ――「処理すべき物事がある、と」

 それを考えて彼女は笑みを浮かべた。その中のどこかに心がある。アーリンはそれをわかっていた。

 だがカティルダが放った針に、その笑みは縮んだ。「あの吸血鬼でもない、わかっているだろう」

 夜の森は心地良い。松の匂いは濃く、上質のウイスキーのように包んでくれる。しばしアーリンはそれを鼻孔に感じた。

「いつか、そんな質問は必要がなくなる日が来ます」

「収穫祭の虐殺から長い年月を経たなら」 カティルダの幽体がちらついた。

「あの男は自らの行いを償うことになるでしょう」 それが質問への真の返答だった。「全てが片付いたなら、追跡を始めます」

「それでも、どのように償わせるのだ?」 カティルダが尋ねた。「あの男が奪った命をいかなる貨幣が補える? お前は獣の皮をまとう人間だ。だがあれは獣だ、どんな姿であろうとも」

 それは彼女が望む会話ではなかった。それでも、口に出して言わなければ。

「トヴォラーは恐怖でモンドロネンの吠え群れを再編しました」 アーリンはそう切り出した。「他にも手段はあると言うかもしれませんが、結局のところ、恐怖です。そして彼の味方のとても多くが同じ道を歩んでいます――そしてそのために殺されました、どれほど善き者たちであろうとも」

 森の前方に、ひとり進む男がいる。彼は多くを語らない。その必要はない。互いを理解しているから。

 アーリンはその記憶を押しやった。

「人狼は、ただ自分自身ではいられません。自分が何者かは問題ありません――人々はさまざまなことを決めつけてくるでしょう。狼が村人を殺したならその原因とみなされ、けれどそうはなりたくない。怯えて、逃げて、群れを見出す。狼たちは相手が何者かで判断はせず、それで大丈夫だと言ってくれます。そうなる必要があるのです――そうでなければ、人間に殺されるでしょう。狼たちの言い分はもっともです。ほとんどの人々は決して考えを改めはしないのですから」

 狼の目で見たアヴァブルック。何処へ行っていたのかと心配する両親。明かせない秘密。

「ある程度の距離をとらない限り、彼らが間違っていると理解することはできません。別の道があります。あらゆる意味で簡単ではありませんが――人間に何を求めるかを変えねばなりません。人間も、こちらに対して何を求めるかを変えねばなりません。ですが、別の道はあります。もしも誰もが、世界を変えていくことに同意できるなら、煉瓦のように一つ一つ、一歩一歩築いていけるでしょう。何年も、何十年もかかると思います。ですがたどり着けます。それでも――人狼としては心配です。何を食べることになるのか、誰に狩られるのか、昼の間は何をして安全に過ごすのか。大局を見るのは難しいですし、自分がそれに繋がっていると感じるのは更に難しい」

 馬鹿げた話だ、そんな顔のトヴォラーが焚火のそばで自分を見つめている、

「それを、何年も前にトヴォラーに言いました。別のやり方があると。ですが信じてくれませんでした。彼にとって、人間とは決して変化しないものです。人間はつねに自分たちを怪物とみなしている、ならば怪物にならない理由はない。人間よりも素晴らしいものなのだから、と」

 彼女は言葉をのみ込んだ。

「収穫祭のようなものは、無から現れたのではありません。もし彼に尋ねたなら、長年に渡って、百倍もの狼が死んだと言うでしょう。あの収穫祭は始まりに過ぎないと」

 声に出しながらも、その言葉には嫌悪感を覚えた。世界の見方について、これ以上に同意できないものはない。それでもなお……

「そこでは、正義はどのような姿をしているのか。実のところ、私にはわかりません。生涯を恐怖と怒りの中に生きてきた者を、その炎をかき立てることなく罰する方法があるのでしょうか。彼には行いの対価を払ってもらいたい。ですが同時に、もっと善い存在になって欲しいと、別の道があると理解して欲しいのです。よりよい未来のために協力できると――ですが収穫祭は何十年も時を戻してしまいます。収穫祭は人間に、更に多くの私たち狼を殺す動機を与えるでしょう」

 アーリンは今一度、冷たい空気を吸い込んだ。期待した程、思考ははっきりしなかった。

「トヴォラーが来てくれると確信はしていませんでした。ですがもし来てくれたなら、皆が力を合わせられると彼もきっとわかってくれる、そう考えていました。力を貸してくれるなら、人々は感謝して、戦う必要はなくなる。それをわかって欲しかった。それが重要だと思ったのです」

 隣に浮遊するカティルダは、月を見上げた。しばしの間、ふたりは何も言わなかった。自分自身の言動の重みが自分の肩にのしかかった、熊の毛皮よりも重く。正直なところ、彼女は考えて喋ってはいなかった――ただ感じたことを口に出していた。今や心でそれを聞き、理解しようとしていた。

 いつか自分の中でその考えをまとめられるのだろうか、それもわからなかった。

「それで、お前が説くその道に近づいたと思うか?」 カティルダが尋ねた。

 返答は明白、だが口に出すのは困難だった。ぼろ布を絞るように、音節のひとつひとつをアーリンは発した。「わかりません。でも、やるしかありません」

「助言をしよう、アーリン」

 アーリンは両肩を回した。「聞きましょう」

「その罪の背後にいる男を忘れない、それは賞賛に値する。だが罪そのものも忘れるでない。お前がトヴォラーに何を期待しようとも、あの男はそれらに応えるだけでなく、同じ数ほども裏切る。いつの日か、お前はそれを推し量らねばならなくなるだろう。単純によりよいものを望むだけでは済まされぬようになる」

 またも――言葉ひとつひとつが針のように突き刺さった。アーリンは目を閉じた。地面は足の下で冷たく弾力があった。それはイニストラードの夜、そして自分たちはそれを救う途中にある。

「ええ。心しておきます」

壮麗な日の出》 アート:Andreas Zafiratos

「で、ほんとにこれで上手くいくの?」とチャンドラ。

 アーリンはにやりとした。「ええ。間違いなく」

 彼女はセレスタスの中央に立ち、他の者たちは外部の腕の上に集まっていた。目の前のカティルダは、今や自らの身体に戻っていた。アーリンは日金の錠を手にしていた――儀式が不意に中断された際の、血と捧げ物も一緒に。

 月銀の鍵、勝利の証は、魔女の手の中にあった。かすかな魔法の輝きがカティルダを包んでいた。

「根と魂、血と牙」 カティルダは詠唱した――それは彼女の声ではなく、集った魔女全員の声、次元そのものの声だった。「太陽の熱の下、イニストラードをひとつに」

 ドーンハルトの集会の魔術が月銀の鍵を宙に持ち上げ、日金の錠へと向かっていった。教えられた通り、アーリンはそれを高く掲げた。

 心のどこかで彼女は懸念していた。鍵は合わないのではと――偽物をつかまされたのではと。

 だが金と銀が合わさった瞬間、その不安は消え去った。

 閃光がセレスタスに溢れたが、誰も驚きも怯えもしなかった。それは陽光のように暖かく、約束のように暖かく、アーリンは喜んでそれを浴びた。目を閉じる必要すらなかった。周囲のそこかしこで、セレスタスが轟音を発し、何百年もの間にしがみついた植生を振り払った。幾つかの木々はセレスタスの腕が回転を始めてもなお、しがみついていた。木が頭上を通過するのを見たのは初めてで、その光景は疑いようもなく、アーリンを純真な喜びで満たした。

 そして同じく、仲間たちが腕から落ちまいと別の腕へ急ぐ姿も。セレスタスの動きはとても緩慢で、何ら危険はない。それにテフェリーもいるのだから。だが何にせよ面白かった。ありがたいことに、外縁部は遥かに安定していた。

 腕が頭上を過ぎる度に、周囲の光が激しさを増していった。やがてこの台座から月そのものへと延びる、一本の柱だけが残った。それを見つめて、永遠以外の何かを感じるのは困難だった。

 何か言うべきだろうか。いや、言うべきことなど何もない。時に、目の前に起こる物事をただ黙って満喫しなければならない――人生そのものの不条理さを満喫しなければならない。

 鍛冶師の娘が古の装置の下に立ち、イニストラードに昼が戻る様を見守る。

 その光がじわりじわりと消えた時、月は既に沈みはじめていた。まるで落としたコインが水の下へと沈んでいくように。隣で、カティルダが鍵を取り上げた。

 アーリンは眉をひそめた。「要らないのですか?」

 カティルダは空を見上げた。「順調に行けば、この先千年は不要だ。もっと大いなる必要に駆られる者がいる」

 魔女と議論はしない方がいい。月が地平線に沈むと、アーリンはカティルダと共にセレスタスの外縁へと向かった。そこでは皆が腰を下ろし、脚をぶらつかせながら待っていた。

 前方に、ケッシグの森が彼方まで続いていた。彼女はその隅々までを、自らの皮膚のように熟知している。夜の風景を、朝の風景を知っていた。そして貴重な夜明けの時間には、あらゆる枝が桃色に染まると知っていた。

 知っていた、けれどその全てをまた見ることができる。その思いに目頭が熱くなった。

 アーリンは友人たちの中に座り、そして狼たちが素早く取り囲んだ。「根気」は彼女の膝の上に横たわった。カティルダも加わった。

 全員が共に、この数か月で初めて訪れるイニストラードの日の出を見守った。他のあらゆる日の出と何ら変わりない――だがそこには美があった。日の出のひとつひとつが贈り物なのだ。それは予想を拒み、信念すら拒んでしまいかねない。あらゆる朝、黄金の球が地平線から昇る。ただそれだけで、世界に光をもたらしてくれる。

 この数か月で、初めて訪れる日の出。他のあらゆる日の出と何ら変わりない。だからこそ、完璧な日の出だった。

 太陽がついに姿を見せると、歓声が弾けた。アーリンはその喜びに加わらずにいられなかった。彼女たちの喜びはまさにその太陽のように、魂の内で黄金色に輝いていた。狼たちですら加わった――彼らは太陽に向かって、ひとつの咆哮を上げた。恋人たちは口付けを交わし、友人たちは腕を組んだ。古い歌が馴染み深い旋律で、参加者たちの魂を高揚させた。

 そして言うまでもなく、酒が。

 気付かぬうちに、誰かがアーリンの手へと杯を滑り込ませた。香辛料の効いたワインは杯を通しても温かく、そして胸の内で花開くと更に暖かかった。

 だが寒気がそれに続いた。別れの時間が来たのだ。

 群衆の中に――今や祝宴の中に――友人たちの姿があった。

 まずはチャンドラとエーデリンだった。思った通り、ふたりは柳の枝に隠れて内緒話をしていた。葉のヴェールがふたりの別れの時を覆い隠していた。アーリンの場所からその会話は聞こえなかった――抱擁を交わす様子だけがわかった。離れておくべきだろう。後でチャンドラは自分を見つけて別れを言ってくるだろう――けれど今は、二人だけにしておくのが一番だ。

 ほんの数歩進んだところで、ケイヤの声が聞こえた。「盗み聞き? そんな才能があるなんて知らなかったわよ」

「ただ、皆さんの様子を伺いたかっただけですよ」

「そうよね」 ケイヤは腕を組み、柳の方向を見つめた。「あの子がこの場所をこんなに好きになるなんて思わなかった」

「イニストラードにあるのは死と暗闇だけではありませんから。ケイヤさんも見つけてくれたのであれば何よりです」

 ケイヤはにやりと笑った。「かもね。まあ私は死も暗闇も気にしないのだけど。一緒に仕事できて楽しかったわ、アーリンさん」

「私もです。これが最後にならないことを願います」

「最後にはならないでしょうね。ここには無念の幽霊が沢山いるもの。きっと長くしないうちに私の力が必要になるわよ。ただ覚えておいて、私は無料じゃ働かないってことを」

「わかっていますよ」 アーリンも笑った。

 だがケイヤの姿は既に揺らめいて消えていた。

 テフェリーもそう遠くない場所にいた—それともうひとりが。カティルダ。アーリンが近づくと、二人とも彼女へと向き直った。テフェリーの手の中には、月銀の鍵があった。

「ああ、月銀の鍵を必要としているのはテフェリーさんでしたか」

 テフェリーはにやりとした。「親切にも鍵を貸してくれるそうだ。月銀の鍵には相当な数の面白い特性がある。特に時間魔法向けのね」

「そうであれば、役に立ってくれると思います。ですが忘れないで下さい、いつか返すんですよ。そうでなければ私が追いかけますからね」

 テフェリーは微笑み、彼女を抱擁した。「追ってくる狼から決して逃げはしないよ。会えてよかった、アーリンさん」

「私もです、テフェリーさん」

 だが何かが漂った、言い残した何かが。テフェリーはアーリンから少し離れたまま、言葉を探した。

「悪い知らせでも?」

「そうかもしれない。気にかけておいて欲しい物事がある。最近、厄介事が起こった。古い厄介事が」

「テフェリーさんがそんなふうに言うほどのことですか?」 些細な軽口で雰囲気を軽くできればとアーリンは願ったが、テフェリーの様子は全く変わらなかった。

「その脅威がいかに深刻か、私は誰よりも知っている。ファイレクシアという名の脅威だ。もしも奇妙な黒い油か、肉体と機械が混じり合った存在を見かけたなら……何かしら奇妙なものを見かけたなら、私たちの誰かに知らせて欲しい。この旅の間に何か手掛かりが見つかるかもしれないと思っていたのだが、何事もなくてそれはそれで良かった。この鍵は役に立ってくれるだろう」

 以前、テフェリーはかつてよく知る、かつて失った地について語っていた。彼の目から、その二つには関係があるとアーリンは察した。

「何かが迫りつつある。どうかそれに備えていて欲しい」

「そうします」とアーリン。「それが何であろうと、イニストラードは耐えてみせます」

 テフェリーは再び彼女へと微笑んだ――だがそれは普段の彼が見せる笑みの幻に過ぎなかった。「不安になることはない、だろう? どうか気を付けて、アーリンさん」

 そしてすぐに、彼もまた消えた。

 よく知る、ケッシグの森。

 それでも森は彼女を呼んだ。常緑樹の木漏れ日が見えた。花弁のように、雪が森に舞い降りた。大気には冬の匂いが強く満ちていた。

 今に、友人たちは離れていく。けれど、アーリン・コードには自分の群れがいる。

カティルダの曙》 アート:Manuel Castañón

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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