MAGIC STORY

イニストラード:真紅の契り

EPISODE 08

サイドストーリー第4話:貪る家

Brian Evenson
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2021年11月19日

 

 ストレイファン・マウアーは落下したものの、幸運だった。穴の底に並んだ木の杭のどれかに貫かれていたかもしれない――殺されていたかもしれない。だが彼は身を屈めて着地点を定め、外套を身体に巻きつけ、杭を数本折りながら落下した。外套は裂かれて貫かれ、脇腹と太腿に傷を負った。腕にもやや浅く長い傷が。痛みに顔を歪めるほどだったが、少なくとも針に刺された昆虫のように悶えるのは免れた。そう、実に幸運だった。

 息を荒くつき、うめきながらも彼は何とか身体を起こして杭から離れた。近くの杭を押しのけ、折り、安全に立てるだけの空間を確保した。頭上では、ブラントが落とし穴の周囲にせっせと天使の印を置く音が聞こえた。不器用に修理され、石を接着して繋ぎ直した印、だが祝福を受けていた。ストレイファンはそれを感じ取った。世界から天使は姿を消したが、古からの無力な怖れを彼は今もかすかに感じた。だがブラントは心から知り尽くしている。もはや、救いに来てくれる天使はいないのだと。

マウアーの太祖、ストレイファン》 アート:Chris Rallis

 馬鹿な男だ、ストレイファンは軽蔑するようにそう思った。あの吸血鬼狩りは自分が落下した瞬間にこの穴に急ぎ、死ぬまで長槍で突き刺せば良かったのだ。だが自分の罠を過信しており、神聖を更に過信しすぎていたのだ。

「お前を仕留めてやる、怪物!」 ブラントが穴の端から身をのり出し、最後の印を置いた。「今度こそな!」

「怪物?」 時間を稼ぐべく、ストレイファンは言った。彼は前を見つめたまま背後を探り、杭を掴んで揺すり、ゆっくりとそれを引き抜いていった。「ブラント君、私は優れた類の人物だよ。死を逃れた人物。私と比べれば、君など只の獣だ。簡単に私を打ち負かせるなどと信じないで頂きたいものだ」

 杭を引き抜いたところで、ブラントがきらめく物体を手にして投げつけてきた。ストレイファンはほぼ反射的に、それを杭で叩き落した。彼の頭に向かってきていたガラス瓶は砕け、彼はその中の聖水を浴びた。

 天使がいなくとも、その水は今も幾らかの力を保持している。露出した皮膚が焼け、ストレイファンは悲鳴を上げた。必死にその液体を拭い取ろうとする中、皮膚が焼ける匂いを感じた。その瓶をまともに食らったなら、杭で大半を跳ね返していなかったなら、自分はのたうち回り、死に瀕し、たやすい獲物となっていただろう。

 彼は苦痛に苛まれながらも、その杭を槍のようにブラントへと投げつけられる程には平静を保っていた。命中して狩人がうめき、視界から消える様は喜ばしかった。

 素早くストレイファンは穴の端へ進み、杭を叩き折り、全力で身体を持ち上げてよじ登った。今のような時勢、単なる印で自分を留めてはおけない。

 ブラントの姿はなかった。だがあの杭は霜に覆われた落ち葉の上に横たわり、鋭い先端は血に濡れていた。ストレイファンはそれを綺麗に舐め取った。

 大気に血の匂いを感じ、ブラントの馬の足音が聞こえた。血への渇望が沸き上がり、ストレイファンは宙へ浮かび上がるとすぐさま追跡を開始した。


 ブラントが馬を駆る中ストレイファンは迫り、馬から叩き落とそうと二度に渡って襲いかかった。一度目は振り払われ、傍の木へと放り投げられた。二度目では、ストレイファンは鉤爪をブラントの腕に沈めて首筋に迫ったが、上腕に短剣を突き刺されて離れざるを得なかった。だがブラントの馬は明らかに疲労しており、乗り手もそうだった。ストレイファンはにやりとした。定命の肉体に束縛されたブラントは今や年老いているが、自分はそうではない。焦るな、ストレイファンは自らに言い聞かせた。狩りは賢く上手く、そうすれば獲物が手に入る。

 不意に、森が途切れた。まるで新たなエネルギーに満ちたかのように、ブラントは雪に覆われた殺風景な草地を駆けた。ストレイファンは追いつこうと急いだ。ブラントは馬に鞭をあてて叫び、今やストレイファンはその獣と乗り手両方の血の匂いを感じていた。全速力で、彼らは駆けた。

 馬はつまずいて転びかけたがどうにか足取りを保ち続けた。ブラントは狂ったように鞭を入れ続け、その勢いを緩めすらしなかった。

 草地の先には石が積み上げられており、ブラントはそれを目指しているようだった。ストレイファンは全力で接近し、好機を待った。ブラントは限界まで速度を上げ、先程ストレイファンを刺した短剣で馬の脇腹を切っていた。このまま走り続けたなら、馬は死んでしまうだろう。

 ただの石の山ではない、直前まで近づいた所でストレイファンはようやく気付いた。廃墟。そしてその時、馬は遂によろめいて倒れ、ブラントを投げ出した。彼は地面に投げ出されるなり転がり、ほぼ間をあけることなく立ち上がると、雪を踏みしめて駆け出した。喜びに息の音を立て、ストレイファンは追いかけた。

 彼はブラントが廃墟に突入した所で相手をとらえた。ストレイファンは掴みかかろうとし、ブラントは振り返って短剣で切りつけた。ストレイファンはそれを避けたが、それは作戦だったと気付いた。ブラントのもう片方の手には別の、長い刃の剣が握られていた。その刃は彼のシャツだけでなく胸の筋肉まで切り裂いた。ストレイファンは罵り、苦痛にふらついて後ずさった。

 ブラントはその機会を逃さないはずだ。しかし、吸血鬼狩人は全く予想もできない行動に出た。笑みを浮かべたまま、彼はその短剣の刃を自らに向け、自身の喉元を大きく真横に切り裂いた。

 ストレイファンを唖然とさせたまま、ブラントは首筋から血を噴出させて地面に倒れた。何かが奪われたように感じた。この男は自分の獲物になるはずだった。不安に、彼はかぶりを振った。ブラントがこのような行動に出るのは全くもって理解できない。一体何故だ?

不道徳な収穫者》 アート:Valera Lutfullina

 今や戦いは終わり、ストレイファンは自分の傷の大きさを感じた。注意深く、彼は外套を細く切り裂いて脇腹と腿と腕を縛った。そして自らの具合を推し量った。血が必要だ、それも速やかに。

 吸血鬼狩人の血が床に溜まっており、ストレイファンは膝をついて必死にそれを舐めにかかった。あるいは、少なくともそうしようとした。だが何か、とても奇妙なことが起こった。その血はもはや溜まっていなかった。まるで飲み込まれるようにそれは廃墟の石へと消え、すぐに一滴すら残らなくなった。更に奇妙なことに、崩れた廃墟に散らかる石であったはずのその場所に、今や壁が立ち上がって彼を取り囲んでいた。気付くと彼は、鮮やかで生気を感じる館の中にいた。分厚いタペストリーが壁を覆い、豪華な食事を乗せた食卓がその部屋の中央を占拠し、燭台には松明がゆらめく光を踊らせていた。かすかに覚えがあった。以前もここに来たことがあっただろうか?

 彼はその疑問を押しやった。ゆっくりと、ストレイファンは今や血が抜けて青ざめた屍から後ずさった。ブラントは最初から自分をここに連れてくるつもりだったに違いない。あの落とし穴はただの中間地点、疑念を抱かせることなく自分をここに追跡させるための餌。これがブラントの真の罠、最後の罠。

 そしてストレイファンは、その深くにはまっていた。

 周囲を取り囲む家の様子を彼は見つめた。これは本物ではない、ストレイファンは自らにそう言い聞かせた。本物ではない。そしてそれでも、本物のように感じられた。明白にしっかりと、彼はそう感じた。

 何が起こったのかはわからなかった。何ひとつわからず、理解もできなかった。ブラントはデーモンか、この家か、あるいは両方と契約の類を交わしたに違いない。そして自らの血でその契約を完成させたのだ。いかなる類の禁断の技、自分自身を代償とした破滅、全てストレイファンに復讐を浴びせるために? ストレイファン自身も相当の血魔術を知っているが、それ以上のものだというのだろうか?

 彼は扉に近づき、その取っ手に触れた。それはそこにあり、握り締めると存在を感じ、だが回すことはできなかった。彼は力を込め、だが何かがそれを固く閉ざしていた。違う、これは幻覚だ。そもそも扉などない。だがそれでも扉はそこにあるように感じた。彼がそれを押すと、木が軋み音を上げて抵抗にうめいた。彼は強く押し、更に力を込め、そして不意に両手が滑って突き抜けた、まるで何もない宙を通り抜けるかのように。彼は扉を通り抜けて空虚な灰色の霧の中に入り、気が付くとあの食堂の床に横たわっていた。最初にいた場所に。

 彼は立ち上がり、再びその扉に近づいた。この時は身構えながら押し、かける力を次第に強めていくと、再び両手がすり抜けて同じ灰色の霧に身体がのみこまれた。自らの両手すら見えない中を恐る恐る歩き、やがて遠くにひとつの光が見えた。彼はそこへ急いだ。一瞬の後、彼はあの食堂に戻っていた。扉を背にして、たった今入ってきたように。

 囚われていた。ブラントはついに成し遂げたのだ。彼は床に横たわる屍を見つめた。この狩人の、自分への執着は一体何だったのだろう? 何故こんなにも長年、この男は自分を追っていたのだろう? この狩人については知らないことだらけ、謎だらけだった。


 ブラントとの最初の遭遇は何十年も前、人間に扮してとある村をぶらつき、獲物を見繕っていた時のことだった。その亜麻色の髪をした若者はストレイファンを見つめていたが、彼は二度見はしなかった――相手を熱心に見つめ返しては、変装魔法の力が弱まってしまう。だが不意にその若者は怒鳴った。この中に吸血鬼がいる、そして焼入れをしたトネリコの槍を手にストレイファンへと迫った。攻撃は不器用で容易に受け流せたが、他の村人たちも同じく見つめ、武器に手を伸ばし、あるいは傷ついた聖印を掴んだ。ストレイファンは苛立ち、ブラントをなぎ払ってその片耳を大きく裂き、後に彼の特徴となる傷を与えた。だが村人は大人数で、彼は逃げ出す以外になかった。その夜の狩りが失敗しただけではなかった。その村は警戒を続け、数か月に渡って近づけなくなった。

 それから長年に渡ってブラントの追跡は続き、だが二年前、不意に途切れた。ブラントの姿は消えた――恐らく別の吸血鬼に殺されたのだろう、ストレイファンはそう推測した。だが今夜の狩場であるシャドウグランジの村へ向かうと、激しいひづめの音が聞こえた。一瞬の後、ひとりの乗り手が必死の馬を駆り、闇から現れた。その目は充血し見開かれていた。夜遅くに外に出ていたわずかな人々は跳びのいた。馬と乗り手は一瞬だけ立ち止まって去ろうとし、だが次の瞬間、乗り手は振り返ってストレイファンと目を合わせた。あまりに見慣れた顔だった。不格好な耳、残忍な表情。ブラントだった。

 彼は身構え、ブラントは手綱を引いて襲いかかってくるのかと予想した。だがその男はただ馬を進めただけだった。ストレイファンを見ていなかったかのように、あるいは何処かもっと重要な場所があるように。もっと重要な追跡相手がいるかのように。

 罠かもしれない、ストレイファンはそうわかっていた。ブラントは侮ってはいけない男だ。だが吸血鬼狩人が数年に渡って姿をくらました後、突然このように現れる、まるで偶然のように? これは長年を経て、ブラントを完全に始末する最高の機会かもしれない。その誘惑には抗えなかった。

 狩りの興奮を感じながら、ストレイファンは追跡を開始した。

危難の道》 アート:Kasia 'Kafis' Zielińska

 彼は身震いをした。どれほど長く、この家のこの部屋に立ち続けているのだろう? ほんの数秒にも思え、だが弱気になるとともにまるで数時間が経過したかのように思えた。まるで結構な生命力が染み出ていったかのように。食事が必要だった。何よりも、ここから出なければならなかった。

 ブラントの指がひきつり動いたように思え、ストレイファンは激しく動揺した。大きな動きではない。ほんの僅か、本当に見たのかと疑うほど短く。ただの見間違いかもしれない。そうに違いない。

 彼は目をこらし、その指を見つめ続けた。再び。今回は見間違いではなかった。それらは動いていた。確実に。

 あるいは少なくとも、ほぼ確実に……

 彼はかぶりを振った。ありえない。この吸血鬼狩人は失血の果てに乾ききっていた。死んでいた。

 ストレイファンはそう考え続けた、その身体がふらりと立ち上がるまでは。


 怖れ、困惑し、ストレイファンは逃げ出そうと踵を返した。だが扉はまたも開かなかった。逃げる場所はなかった。

 身体を揺らし、不格好によろめきながらブラントは向かってきた。片脚を引きずり、まるで身体の動かし方に慣れていないかのように。その両目もまた、眼窩でばらばらに動いていた。ブラントにはストレイファンが見えているようで、どうしてか彼の動きをとらえていた。だがその両目の焦点は合っていなかった。単純な牽制ひとつで、ストレイファンは彼を避けた。

 少なくとも最初は。その広間を数周する頃には、ブラントの動きはずっと整っていた。まるで自分の身体がどう動くかを思い出したかのように、そして逃走は困難になっていた。

 ついに、ブラントの目がはっきりした。彼はストレイファンの凝視を受け止め、ストレイファンはその内に、あらゆる意味で間違った光を見た。これはもはやブラントではない、別の何か。ブラントよりもたちの悪い何か。

「お前は何者だ?」 自らを止める間もなく、思わず彼は尋ねた。

 当初、ブラントは答えなかった。ふたりは鈍いダンスを続けた。そしてブラントは口を開け、そのまま追跡した。口から音が漏れ出たが、それらは言葉などではなかった。獣が発する声だった。犬の鼻息、猪の金切り声、狼の吠え声、死にかけた兎の無邪気な悲鳴。苦しみ死にゆく獣たちのあらゆる声、あらゆる今際の叫び。これは何処でこのような悲鳴を集めたのだ? ストレイファンは訝しみ、そして知っていると気づいた。周囲を取り囲む壁から発せられていると感じた。何かはわからないがこの存在が、この場所に引き寄せた生物の声だった。捕えられ、食われたものの声だった。

 まさに自分のように。

「お前は何者だ?」 ストレイファンは再び尋ねた。これほどの恐怖を感じたのはこの数世紀で初めてだった。

 その身体は再び口を開いたが、この時、獣の悲鳴は発せられなかった。代わりに、寒空に捨てられて死ぬ赤子の悲鳴を聞いた。その声は深く、鈍くなり、悲鳴というよりはうめき声に変化し、大人の男の声にまで低くなった。だがそれは全くもってブラントの声などではなかった。誤った音色、誤った声色。その音に、ストレイファンの皮膚に鳥肌が立った。あらゆるおぞましいものを長年見て、長年成してきた彼が。

「許して!」 その声が叫んだ。かろうじて人間の声が。「殺さないで! 何でもする、何でも!」

 そしてその声は、喉に血が溢れる音と化した。死にゆく人間が発する音。

 追いかけてくる身体は一周ごとに接近し、まもなく捕まりそうに感じた。ストレイファンは細心の注意を払わねばならなくなった。彼は自分たちの間に食卓を挟むようにし、ふたりはしばし周回した。そしてやがて、相手はまるでそこに食卓などないかのように、何気なく歩いて通ってきた。それはまっすぐに向かってきて、ストレイファンは慌てて避けた。

 どれほど長く避け続けていられるだろうか? それは決して疲れないのだろうか?

「お前は何者だ?」 彼は三度叫び、とはいえ気付いた。何者だ、ではなく何だ、の方が正しい問いかけだろう。

 この時、死したブラントでないものは動きを止めた。そして左手を胸にあて、ストレイファンが理解できない方法でその手を自らの胸に深く押し込み、心臓に触れた。

 彼は動脈血に濡れた指を出し、脇の壁に書き始めた。フラド、そして血を追加して続けた。ヴォラ。フラドヴォラ。

「フラドヴォラ?」 ストレイファンは大声を上げた。知る言葉ではなく、何の心当たりもなかった。だがその名を聞くと、名前なのかどうかはともかく、その生物は飛びかかってきた。不意にその口には何列もの鋭い牙がびっしりと生えた。身体の動きはまだわずかにぎこちなかったが、以前ほどではなかった。それは肉体を作り変え、適した住処に変えていた。両脚は伸びてむしろ鳥のそれに近づき、口も変化し、顔そのものは広がり、両目の間隔が広がった。

 ストレイファンはそれを弾き返した。喉元を手で叩きつけ、そのため噛みつきで数本の指を失いかけた。それは再び近づき、ストレイファンは椅子を投げつけた。そしてストレイファンの手の中では堅固であったその椅子は、その生物を通過した。まるでその椅子か生物、あるいは両方が存在しないかのように。

 その生物は彼を追いかけ、近づき、追い詰めようとした。そしてそれは攻撃し、かろうじて躱されると体勢を崩してよろめいた。ストレイファンは脇に避けて後頭部を両の拳で殴り、それを床に叩きつけて倒した。彼はそれに馬乗りになり、両手で喉に掴みかかった。その生物は今も何列もの歯をきしらせ、ストレイファンが両手に力を込めて絞め殺そうとする中、彼の手に噛みつこうとした。

 そして、活気づいた時と同じく不意に、それは力を失った。両目は焦点を失い、見つめたまま瞬きを止めた。これは作戦か何かに違いないと感じ、ストレイファンはしばし喉を締め続けた。だがそれは肉の板を締め付けるようだった。

 素早く鋭い動きで、彼はその首をはねて手を放した。

 死体はただそこに横たわっていた。彼は足でそれをつついたが、動かなかった。それまでその中に何が入っていたとしても、フラドヴォラが何だったとしても、それは身体を捨てたのだ。

 ストレイファンは苦労して立ち上がった。腕は痛み、脇腹も同様だった。包帯に血が浸みつつあった。すぐにでも食事が必要だ。

 彼は再び扉を試し、再び押して通り抜け、同じふらつく感覚を経験し、最初の場所に戻ってきた。これは脱出口ではない。別の出口を探さねばならないだろう。

 その思考に返答するかのように、ひとつの扉が不意に広間の向こうの壁に現れ、その先の深くへと彼を招いた。


 彼はその広間を横切り、先の扉へ向かった。途中で全てがわずかに傾いたように思え、彼はその扉を通りつつ滑らぬよう体勢を保った。両脚に力を込め、だが不意に、床は再び水平になり、彼は転びかけた。

 今や彼は客間におり、再び、思い出すべき何かがあるように感じた。背後から悲鳴が聞こえた。赤子か、あるいは鴉か、だが振り返るとそこには何もなかった。入ってきた扉は消えており、その場所には壁があるだけだった。ストレイファンはその壁に手を触れたが、ひび割れも継ぎ目もなかった。引き返す手段はなかった。

 さえずるような音が聞こえた。その部屋の奥の壁紙が動きはじめ、うねって凝集し、浮かび上がってひとつの塊となった。

戦慄の遁走》 アート:Rovina Cai

 その塊の何かに、見覚えがあえるような気がした。魅きつけられ、彼は注意深く前進した。

 塊が更に大きくなると、ストレイファンはそこにひとつの顔を見た。だが誰だ? 思い出せそうで思い出せなかった。彼は更に近寄り、眉間に皺を寄せて見つめた。

 手を伸ばしてそれに触れようという瞬間、その顔から目が開いてにやりと笑った。

 彼は驚き、慌てて後ずさった。

『ごきげんよう』 その声が言った。かすれた囁き声は全くもって人間の声ではなく、似ても似つかず、だがそれでも、母の抑揚だとわかった。数千年も会っていなかったが、その声と母に似せた顔に、記憶が溢れ出た。

 彼は子供に戻ったように感じた。母の香水の匂いを、甘い息の匂いを感じた。同時に壁紙の模様がその顔から消え、磁器のように白い表面が残された。

 そして母の身体が壁から押し出され。同時に、ありえないほど長い両脚とありえないほどに長い指が。顔にどれほど面影があろうとも、これは母ではない。

 彼は小さな足がその身体を運べる限りの速さで逃げた。彼は今や悲鳴を上げていた――ここの存在は本物の母に何をしてくれたのだ? この、偽の母は何者だ? 何だ?

『ストレイファン』 薄っぺらな声が囁いた。『こちらへいらっしゃい。あなたがいないと』

 彼は部屋の隅へ逃げた。そして、母がその長すぎる脚で迫るともうひとつの隅へ、そしてまた別の隅へ。母は神経質な笑い声を発した。

『さあ、つかまえた』

 そして、偽の母はその通りにした。両手を大きく広げてゆっくりと迫り、指が広げられて彼の逃走を防いだ。彼は部屋の隅に頭を押し付け、恐怖を無視しようと、母を無視しようとした。だがそれでも迫りくるのが感じられた。近づいてくる様子が感じられた。ストレイファンは悲鳴を上げながら振り返って対峙し、逃げ道を見た――彼はまっすぐに突進し、母の腕を避けてその脚の間へと飛び込んだ。彼は大急ぎで立ち上がると扉へと駆け、だが心のどこか、とても深い所で考えていた――先程、この扉はあっただろうか? 先程、ここに扉があった覚えはない。背後で母の神経質な笑い声が響いていた――母はこの遊戯を楽しんでいる、息子を怖がらせるのを楽しんでいる、自分の母が! いや、これは母ではない。何か別のもの。何だったか? 喉まで出かかっている、けれど何故思い出せない? ラ、ラ、フラ――

 そしてその扉をくぐった瞬間、全てが変化した。彼はもはや子供ではなかった。数千年の時を経た、元の自分に戻っていた。恐怖の記憶は今も熱くはっきりとしていた。彼は疲労を感じた。

 違う、ただ疲労しているのではない。消耗している。あのフラドヴォラは自分を餌にしている。恐怖に引き寄せられて。あれは飼い葉であったはずが、家畜となっていた。

 そして今、その生物は自分をこの呪われた場所深くへと誘い込んだ。この心の内を用いて、歪めて、怯えさせている。この場所にこんなにも見覚えがある理由を、ストレイファンはついに理解した。

 今それは信じさせようとしていた、ストレイファンは父の書斎にいると。少年の頃、大部分は禁じられていた場所――父と一緒の時にのみ、入室を許されていた。とはいえ彼は時に自ら忍び込んでいた、見つけられないよう賢明に。再び自分が子供だと信じ込ませる力を感じたが、彼は意志を固くして抵抗した。

 ストレイファンは訝しんだ、この場所に自分を追い込んだのは、本当にブラントだったのだろうか? あるいは数か月前にブラント自身がここに迷い込み、その生物の犠牲となったのか。その生物がブラントの記憶を弄んだのであれば、自分に対するブラントの執着も見つけていただろう。あるいは、それはブラントの身体であった抜け殻を手に入れ、自らの血で満たし、ストレイファンを探しに出たのかもしれない。

 彼はその偽りの部屋を見渡した。あの生物は次に何の姿をとるのだろうか? どのように迫ってくるのだろうか? 今度はタペストリーの中に現れるのだろうか? 床の木目模様から? 父の机の引き出しを開けたならその中に折りたたまれているのだろうか?

 注意深く踏み出し、彼は両目を父のあらゆる物品に走らせた。珍品の飾り棚、設備の整った机、本の山、象牙の持ち手の杖。だがどれも本物ではないのだ。あの生物はどこにいてもおかしくはない。

 彼は気を抜かずにもう一歩踏み出し、今も耳を澄まし、周到に、そして更に一歩を踏み出した。いや、踏み出しかけたところで、彼は固い床に見えたものを突き抜けて落下した。

 落ちたのはわずかな距離に感じたが、その勢いは激しかった。あの落とし穴に落ちた時と同じ脇腹を強打し、傷が再び熱く開いた。ストレイファンは苦痛に叫び、罵り、急ぎ立ち上がると間違いなく来るであろう攻撃から身を守ろうと構えた。

 だが攻撃はなかった。少なくとも予想していたような姿では。

 彼は周囲の様子を見積もった。そこは寝室だった。自分が子供の頃の寝室のようだ、彼はそう自らに言い聞かせた。だが違うのはわかっていた。その部屋が本当は何なのかを把握したくはなかった。よく見たくはなかった。悲嘆を物語る黒ずんだ壁掛けを認めたくはなかった。そして何よりも、寝台の上にあるものを見たくはなかった。

 その死体は両手を腹の上に交差させて横たわっていた。ストレイファンがそうしたそのままに。自分がその屍を洗い、油で清め、最も上等な衣服を着せてこのように寝台に横たえ、そしてこの家を後にして二度と戻らなかった。恐怖と悲嘆に圧倒され、この死とその苦痛に、彼は決心したのだった。決して死にはしないと。

「父上」

 本物ではない。この時も彼は自らに言い聞かせた。本物の父上ではない。全て私の心の中のもの。

 それでも父の姿は本物のように見えた。父が死んだその日と同じ、悲しみと絶望に圧倒されるのを感じた。まるで、その死がたった今起こったかのようだった。彼は怯えながらその屍を見つめ、自分は無力だと心の奥底から感じた。父を救うために何もできなかったのだ。父を失ったのだ。

 彼の凝視の下、父は身動きをしてゆっくりと目を開きはじめた。


 わずかな一瞬、ストレイファンは深くかつ不変の喜びを感じた。父はまだ生きていた! 死んでなどいなかった! だがそして父と目が合い、何かがおかしいとかすかに感じた。この目は……見たことがあった。見覚えがある、だが父のものではない。

 彼はかぶりを振り、はっきりさせようとした。だがまるで霧の中にいるように感じた。

 父は上体を起こし、ゆっくりと彼を手招きした。ストレイファンはかろうじてそれに抵抗した。だが父の目、その何かが今も彼にせがんでいた。おかしい目が。

 彼はそれに注目した。おかしい目、おかしい目。詠唱のようにその言葉を繰り返した。すると、更におかしい箇所が見つかりはじめた。父の皮膚がおかしかった。顔は確実に正しく、骨の位置も正しく、形状も正しく、だが身体のそれ以外の部分の皮膚はあまり正確に配置されていなかった。片腕には皮膚が緩く乗っており、もう片腕はぴったりしすぎていた。まるであまりに急いでそれを身に着けたかのように。

 身に着けた?

 この場所の何らかの影響を受けながらも、感づくことはできた。おかしい所に固執しろ。その生物の両目が父の両目に似せようとする度に、その皮膚は皺を伸ばそうとした。ストレイファンはその度に、おかしい方の姿を記憶に留め続けようと努めた。

『ストレイファン』 父がそう言い、その声は囁きほどでしかなかった。『いい子だ、こちらへ来い』

恐ろしい模倣》 アート:Justine Cruz

 再び、彼は身体が前に引かれるのを感じた。再び、年月が吸い取られていくのを感じた。だが彼はもがき、抵抗した。寝台の上の存在は次第に父には見えなくなっていった。そしてその見せかけが滑り落ちたわずかな瞬間の中、彼はまたも見た。昆虫の、鳥の、ハツカネズミの、兎の、狼の、そして人間の、吸い尽くされて捨てられた抜け殻を――それは、巣だった。

 だがこの破滅の巣は同時に、父の部屋と寸分違わなかった。恐怖とともに、彼は初めて実感した。これまでに起こった物事は、あの生物が自分の心から奪って記憶をねじ曲げただけではなかったのだと。彼は実際に、家族の館の廃墟の中にいたのだと。ブラントが自分をここに連れて来たのだ。この不気味な場所に、ストレイファンが最も無防備になる場所に。

 双子はどこへ行った? このような事態を防ぐため、衛兵としてあのふたりを置いたのだった。あの生物に貪られてしまったのだろうか? そうであれば、思ったよりもずっと厄介な状況だということになる。

 彼は瞬きをした。すると抜け殻は消え、荘厳な死の床が再び目の前にあった。だが父の皮膚は――待て、それは自分の父か? 違う、そうではない。思い出さねばならなかった。その――父に似たものの――皮膚は次第に透明になっていった。その内に折りたたまれた何かが見えた、人間ではない、全く異なる生物。だからこそその皮膚は合わなかったのだ。

『いい子だ、こちらへ来い』 偽の父は再びそう言った。

 この時の引力はさほど強くはなく、ストレイファンはその術にはまることなく見えていた。だが彼は魅了されたふりをした。偽りの笑みを顔に貼りつけ、彼は夢心地の一歩を踏み出した。そしてもう一歩。そして両手を突き出し、父の皮膚を鷲掴みにした。むせび泣きながら、全力で、彼は父を引き裂いた。

 悪臭を放つ空気と液体が溢れ出た。偽りの父の内に生きていた何かは寝台から滑り落ち、床に零れ出た。

 当初、それは狼に見えた。だが狼は正確な表現ではない――正しい(誤った?)角度で垣間見たなら、そのように見えるというだけだった。狼男が変身途中で止まったようにも見えた。人間の皮膚を脱ぎ捨てて毛むくじゃらの内部を見せようとしている? だが違う、それも正確ではない。正確に表現できる言葉はない。

 外側の皮膚を欠いたかのように、その生物は赤く湿っていた。立ち上がろうとしてもがくと、血の足跡がついた。奇形、あるいはよりよい表現ならば、完成途中。それが何かに変化する途中で邪魔された。ストレイファンがその……蛹を切り開いたかのように。

 それは口を開いた。それを見てストレイファンに寒気が走った。ブラントの口に見たものと同じ、何列もの鋭い歯。それは蛇のように彼を威嚇し、犬のように吼え、そして飛びかかった。

 それは彼を打ち倒して転ばせ、素早くのしかかった。ストレイファンは両腕で顔を守ったが、それは噛みつき、片腕の肉を大きく噛みちぎった。とても強い。彼はその側頭部を殴りつけた。その拳は圧し潰す音を立て、そして次の拳が命中し、その生物をのけぞらせた。喉元に掴みかかる隙ができるほどに。

 彼は力を込め、指の間に血が滲み出た。それは噛みつこうとし、声をかすれさせてうなりながら暴れた。締め続けるのはほとんど不可能に思われた。ストレイファンは締め続けながら後ずさり、相手はねじ曲がった手で彼の腕や胸を引っ掻き続けた。少しずつ、距離が縮まっていった。彼の腕は今や疲労し、だが背後の壁に十分近づくと、その生物の頭部をそこに叩きつけた。

 だが何も起こらなかった。その生物の頭は無害に壁を通過し、だが彼の両手は壁に遮られた。あの食堂のテーブル。ブラントもあれを通過していた。これは本物ではない、本物の壁ではない。叩きつけたところで、全く傷は与えられないのだ。

 渾身の力でストレイファンはその生物を放り投げ、急ぎ立ち上がった。襲いかかってくるのはわかっており、彼はわずかに横に避けてその上にのしかかった。相手はひっかき、噛み、逃れようともがいた。だがやがて彼はその喉を両手で掴み、全力で締め上げ、全体重をかけ、必死に力を込め続けた。

 ストレイファンは締め続け、やがて不意にフラドヴォラの力が抜け、四肢の動きが鈍くなるのがわかった。それでも彼はさらに締め、両手はその肉に深く、さらに深くへと沈んだ。

 そして不意にそれは彼の手の中、血の奔流となって弾けた。ストレイファンは急ぎその血をすすろうとしたが、あの時と同じように床の割れ目に流れ、消え去った。まるでそもそも血など流れなかったかのように。彼は飢え、渇いたままそこに残された。

 壁もまた変化した。最初は透明に、そして瞬き一つの間に、ただ消え失せた。気付くとストレイファンは再び独り冷気の中、一家の館の廃墟の中、かつて父の寝室であった場所にいた。

 彼は苦労して立ち上がった。立ち去らなければ、ここから出なければ。よろよろと、彼は石の間を縫うように進んだ。

 よろめき、彼は廃墟から出るや否や雪の地面に顔面から倒れ込んだ。しばしそのまま横たわり、鼓動が落ち着くのを待ち、そして再び立ち上がり、脚を引きずりながら歩きだした。

 生き延びた。だがすぐに食事をとらなければ長くはもたないだろう。疲労で飛ぶこともできず、ストレイファンはつまずいた。迷った旅人に遭遇すれば食事ができるだろうか。そうすれば回復するだろうか。また戦うために生きられるだろうか。

 とはいうものの――今や森の中で迷い、ふらつき、かろうじて歩けるという状況だった。少しすると、死すべき運命から逃れられないかもしれないという実感が、次第に強まっていくのがわかった。今まさに、死に追い立てられているようで――私は、逃れられないかもしれない。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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Innistrad: Crimson Vow

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