MAGIC STORY

イニストラード:真紅の契り

EPISODE 06

サイドストーリー第3話:逆境を逃れて

Reinhardt Suarez
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2021年11月12日

 

「ごきげんよう、善良なる……」 トーレンズはそう言いかけたが、村の名前を思い出せなかった。この二年間というもの、イニストラードの辺鄙な村々を巡り、焼いた鶏胸肉ばかり一週間も食べ続け、不気味なものが容易い獲物を求めてうろつく街路を避けながら金を稼いでいた。一日がひとつの終わりない夜に混ざってしまった今、現在地を把握するのは更に困難になっていた。「善良なる皆様」 彼はそう言い直した。「今は試練の時です。そして試練の時こそ、刺激的な……物事が必要です」

 畜生。あのイングリッドとかいう随分と熱心な聖戦士のせいだ。彼は好みの滞在地であったシルバーンから不遠慮に追い出され、ケッシグとステンシアの境に沿って余計な半日の旅を強いられていた。そのため言葉は陰気で、上手く出てこなかった。気を取り直し、彼は完全に広げた荷車の中身を身振りで示した。幌は引き上げられ、その内側に塗られた「トーレンズ面白雑貨店」の文字が見えていた。荷車の台の上には様々な小さな雑貨の入った編み籠が置かれ、その全てに適切な値段が正確に貼られていた。

 適切かつ正確に。

天使の拳、トーレンズ》 アート:Justine Cruz

「狼男に困っていませんか?」 トーレンズは群衆へと問いかけ、籠のひとつへと手を伸ばして茶色の小瓶を取り出した。「これがあれば解決ですよ」 この狼男除けの薬について、これまで苦情を聞いたことはなかった――理由の大半は、それらを聞くほど長く滞在しないからなのだが、

「魔女の呪いもあるでしょう?」 彼はそう続け、別の籠に手を入れて蝙蝠の空ろな骨が下げられた首飾りを取り出した。「これを身につければ呪いなんて平気です! それだけではなく、これはとても注目を集める流行の装身具です!」

「吸血鬼にお困りですか?」 群衆の中の数人が興味をもった。トーレンズは後ろのポケットから、汚れて曇った小さな銀の鏡と平らな金属缶を取り出した。彼は缶を開き、粘り気のある中身をその鏡にたっぷりと塗りつけ、シャツの袖口でそれをさっと拭うと、綺麗になった面を群衆へと向けた。「吸血鬼は人に化け、霧へと消え、蝙蝠に変身します! ですがこれがあれば、いつでも見破れます――トーレンズの洞察ワックス! さあ、焦って一度に押し寄せないで下さいよ」

 そうはならなかった。代わりに野次と笑い声が上がった。

「何と不作法な者たちだ!」 声がひとつ上がり、笑い声を遮った。王の帰還のように、その声を発した人物が群衆を割って踏み出した。「この小さな村には滅多に客人など訪れないというのに。礼儀の何たるかもわからないのであれば、帰りたまえ」 人々は呟きで応え、だが退散しながらも異議は上がらなかった。その男は名乗った。「ヴァイタスと申します。トラウブラッセンを代表してお詫びしましょう。教養のない人々でしてね」

「構いません。皆さんの言いたいことははっきり伝わってきましたので。私は旅を続けます」

「おっと、まだ行かないで頂きたい。貴方のような人物にふさわしい仕事があるのですよ。金は払います」

 ふむ。利益になる仕事はこの不快な気分を洗い流してくれるだろう。だが率直に言って、このヴァイタスのために働くどころか、近くにいるだけでも耐えられそうになかった。この男の装いは、高級服のまがい物だった。絹とベルベットで裏打ちされた亜麻布の上着、その全てに細かい金糸が縁取りされている更にはこの男の甲高い大声は、貪り食いたいのを一口だけで我慢して肉屋に頷く尊大な主のようだった。

「遠慮しておきます」

「悪くないと思いますがね」とヴァイタス。「ですが、あなたを探している方々は公正な取引を申し出るでしょうか。彼らの捜索に手を貸す者がいるかもしれませんな」 彼はトーレンズの荷車を軽く叩いた。「決意に満ちて馬を駆る聖戦士は、このような大荷物を引いて街道を行くよりもどれほど速いですかね?」

 トーレンズは低くうなった。「何が望みです?」

「聞いて頂けるようで。おいで下さい、私の書斎で話しましょう」


 荷車で村を横切り、ふたりはヴァイタスの屋敷へと向かった。正面玄関を雪花石膏の柱が威圧し、何十もの窓は少なくともその数だけの部屋を暗に示していた。近づくと、玄関扉の脇にひとりの若者が立っていた。荷車から降りながら、ヴァイタスは憂鬱なうめき声を漏らした。

「アレクサンダー。もう遅いぞ」

 その若者はヴァイタスよりも頭ひとつは長身で、もつれて汚れた金髪の下に骨ばった身体が伸びていた。数年あれば屈強な体格になるだろう、トーレンズはそう見積もった。だがそのためには、麺入りのスープを毎日食べる必要があるだろうが。

「地代についてです、旦那様」 彼はヴァイタスの召使に追い払われかけたが、何とか留まってそう言った。「もう一週間待ってもらえませんか。父はもうすぐ金が入ると――」

「話をするような時間も場所もない」

「何故ないのですか?」 玄関へ向かいながら、トーレンズが加わった。「きつい言い方をしなくてもいいでしょう」

 ヴァイタスはトーレンズへとにじり寄った。「我々とは別の問題です」

「私は貴方の話を聞きます。何故同じことを彼にしてやらないのですか?」

 ヴァイタスはわざとらしく咳払いをしたが、平静は保ち続けた。

「アレクサンダー、お前は後だ。この方との話し合いが終わってからだ。とりあえず、この方の荷車を厩へ」 ヴァイタスはシャツを正し、外套を整え、トーレンズへと大きな笑みを向けた。「宜しいですかな?」

 ヴァイタスの屋敷はスレイベンでも最高の豪邸と同じほどけばけばしかった。大患期以前、トーレンズは霊廟の護衛を務めていた。中でも最も嫌な仕事は、死んだ親戚が墓から蘇って遺産を取り戻しに来ると言い切る神経過敏な貴人宅への訪問だった。それは大抵、猫の仕業だった(一度だけ、そうではなかった)。屋敷のロビーに入ると、草原を駆ける狼の群れの銅像がトーレンズを出迎えた。その先には、大きなアーチの両脇に二枚の絵画が飾られていた。片方はヴァイタスその人だが、頭頂部には豊かな髪の塊があった。もう片方は黒の上着と頭巾をまとい、鼻先に分厚いレンズの眼鏡を乗せた顎ひげの男だった。

「曾祖父のテイヴァスです」 ヴァイタスは堂々と言った。「先見の明と狩りの技だけで、このトラウブラッセンを築いたのですよ」

 トーレンズとヴァイタスは様々な芸術作品で飾り立てられた廊下を進み、その先の部屋に入った。書類や羽ペン、ワインの瓶が置かれた黒い木製机が威圧するように鎮座していた。ヴァイタスは二つのグラスにワインを注いだ。

「それで、仕事というのは?」 突き出されたワインを無視し、トーレンズは尋ねた。

「上物は苦手ですかね?」

「脅しというのは必ずしも素晴らしい第一印象を与えるものではありません」

「脅し?」 ヴァイタスは革張りの椅子に身体を沈めた。「どういった者が我が町を出入りするのかを把握するのは私の仕事ですよ。広範囲の教会と繋がりもあります。それに目的と動機がある時、噂は素早く伝わるものです。ルーン唱えの護りを込められた武器というのは、聖戦士にとっては重要な動機ですな。それを持ち逃げした元同胞の盗人の逮捕と同じほどに」

 トーレンズは苛立ちとともに沈黙した。このヴァイタスはどこまで知っている?

「楽にして下さい。あなたの血なまぐさい喧嘩に興味はないですので。実際、あなたの内には善き魂があると感じたのですよ、何と言われていようとね。あなたには確かな高潔さがある、その過去を苛むいかなる問題をも打ち負かせるような」

「要点を言ってもらえますか」

「宜しい。この街の人々を見たでしょう。彼らは堅固な資産です。曾祖父の代からのものです。彼は幾つもの同盟を結び、財産を用いて多くの定住者を呼び、彼らに安全を提供したのです」

「曾祖父君の土地の安全を、でしょう」

「曾祖父は責任を負ったのですよ、今の私と同じく。私は作物の種を、家畜の薬を、村を守るための武器を提供しています。ある程度の見返りを期待するのはもっともではありませんかね」 ヴァイタスは卓上の紙を数枚、立てて揃えた。「それでも、完璧など存在しません。近頃、幾つかの報告が個人的に入っているのです。村を見下ろす砦から、奇妙な音が発せられていると」

「砦?」 ここに向かう途中、そのような建築物を見た記憶はなかった。

「この闇では、地平線上にあるものを見分けるのは難しいですからな。報告によれば、その音というのはかすかな金切り声らしいのです。ただの傷ついた獣かもしれませんが、それを確かめるのが私の仕事でしてね」

「村の広場で見た限り、誰もそれに悩んではいないようでしたが」

「失礼な言い方になりますが、あなたは余所者です。村人は私を信用するようにはあなたを信用しないでしょう」

「信用。確かに。それこそあの広場で見たものです」

 トーレンズの辛辣な言葉に、ヴァイタスはにやりとした。「その砦を調べてもらいたいのです。そしてもし普通でないものを見つけたなら、対処してもらいたい。言うまでもなく、慎重にね」

「言うまでもなく」 ふん、とトーレンズは笑った。「こっちは言いなりにあるしかありませんよ」

「とんでもない。時間をかけてもらうだけの金は払いますよ」 ヴァイタスは机の引き出しを開いて小箱を取り出し、蓋を開けて見せた。そこにはアヴァシンと月桂樹の紋章が刻印された、真新しい金貨が詰まっていた。ヴァイタスは二十五枚を数え、卓上に積み上げた。「これは前金です。終わったらもう半分を支払いましょう」

 トーレンズは金貨の一枚を拾い上げて吟味した。彼は指でつまみ、ランタンの光に近づけて裏表を確認し、匂いすら嗅いだ。本物だった。そして仕事が終われば全部で五十枚? 一年分の生活費に匹敵する。それでも、この取引そのものが嫌な気分だった。ヴァイタスの脅しのような態度、そしてここまで不快な相手のために働くという事実が嫌だった。

「さて」 ヴァイタスがそう言って、トーレンズを物思いからねじ切った。「交渉成立ですかな?」

「こちらに選択肢はないのでしょう?」

「いつだって選択肢はありますよ。単純に、他よりも良い選択肢があるというだけで」

「いいでしょう。ただしひとつだけ」 トーレンズはそう言いながら、金貨を手に滑り込ませた。「あの若者が言っていた地代とやらは、幾らですか?」


 暴風雨が差し迫り、名高いハンウィアーの市場の商人たちは、屋台を片付けつつ間際の買い物に対応していた。トーレンズにとっては、無防備なポケットに手を入れて少しのコインをくすねて立ち去るには絶好の混乱だった。十二歳の彼の指は小さく正確、あちこちで少しずつ盗み、家の財源に追加するには完璧だった。周りにさえ気をつけていれば。

 家畜の囲いをうろつき、彼は完璧な獲物を見つけた。身なりのいい男が、外套をかぶった召使ふたりに挟まれ、鶏を売る農夫との交渉に没頭していた。その男が強気に出る一方、召使のひとりが農夫の前に一枚の金貨をちらつかせた。「全部に金貨一枚だ! これ以上は出さん!」

 金貨! トーレンズは実際にそれを見たことはなかった。母は洗濯女で、賃金は銅貨で得ていた。一方の父は木工細工師で、ある程度の金貨を受け取っているに違いないのだが、ロストレイク亭でエールに酔い、亀のレースに賭けてわずかな銀貨しか残らないのが常だった。そしてその数枚だけでも、一家を数週間は養えた。

 小雨が降り始めていた。トーレンズは立ち上がり、市場から去る人々の流れに足を踏み入れた。あの身なりのよい男と仲間の所まで進み、タイミングを見計らって腕を突き出し、開いたままの召使のポケットに指を差し込むと貴重な貨幣を二枚つまんだ。彼は腕を戻し、一瞬、その戦利品を見つめた。

 だがその時間は長すぎた。召使はトーレンズに気付いて迫り、少年はその掌握をどうにか逃れたものの、召使は追いかけてきた。不幸にも、隠れ場所となるはずの人混みは今や彼の逃走を妨げ、間もなく彼は腕と首筋を手で掴まれた。そして屋台へと引きずって行かれると、あの身なりのよい男が赤ら顔をしかめて待っていた。

「無礼な小僧が! お前のような屑がどうなるかわかっているのか? 消えるだけだ。お前には使い道も何もない」

 不意に、召使のひとりが手を放したのを感じた。トーレンズが振り返った瞬間、その男の身体は小道を横切るように舞って魚の木箱へ投げ込まれた。もうひとりの召使は足を浮かせ、腹部への的確な拳を受けた。そびえ立つ影に見下ろされ、身なりのよい男は孤立無援を察して泥の地面に座り込んだ。

「ど――どういうつもりだ?」

 トーレンズは立ち上がり、笑みを浮かべ、救い主へと近づいていった。市場の誰よりも頭ひとつと半分は大きい、兄のエラモンがそこにいた。だがトーレンズが喜ぶよりも早く、エラモンは金貨を奪い取って持ち主へと投げ返した。

「二度と俺の弟に触るなよ」 エラモンは座りこんだままの男に言った。「行くぞ」

 急いで立ち上がり、その男と召使たちはすぐに金貨を拾い上げて逃げ去った。

 エラモンはトーレンズの襟首を掴み、豪雨を避けられる張り出しの下へと引きずっていった。

「お前を助けるために俺がいつも近くにいると思うな」

「英雄気取りかよ!」 トーレンズは声を上げた。「守ってくれなんて言ってないだろ!」

「何度お前を救ってやったかわかるか? 俺はもう忘れた」

 トーレンズに反論はなかった。代わりに、失った獲物に集中した。「あの金があれば!」

「ああいうのはやるな」

「けど――」

「もういい!」 エラモンはトーレンズの胸に指を突き立て、壁に押し付けた。「家に帰るぞ」


 真夜中にひとりで未知の場所へ向かうのは、無謀かつ絶望した者だけだ。従って、ヴァイタスが案内人として息子のボリスを付けると申し出ても、トーレンズは拒否しなかった。頑丈で無口、金床のような上顎ともう少し重い金床のような下顎の男を。

「あんたは街の臭いがするな」 紹介されると、ボリスはそう言った。トーレンズは襟の中の匂いをかいだ。花束とは間違えられないにしても、少なくとも特別多忙な日の食肉処理場のような臭いはしなかった。トラウブラッセンの主要産業は皮と毛皮の交易であり、ボリスはヴァイタスの罠師団の長を務めていた。

 その砦が防衛の役割を果たしていたのは遠い昔のことだった。乾いた堀にかかる橋を渡り、崩れかけた楼門を通り抜け、ボリスとトーレンズは小さな前庭に到着した。かつては瑞々しい庭園だったのかもしれないが、今は乱れた土の上に空の植木鉢が幾つか転がっているだけだった。ふたりは枯れた土を横切り、黒く背の高い鉄の両扉に近づいた。そこにはヘルカイトの彫刻が浮き彫りにされていた。

「この扉を造ったのは俺の高祖父だ」 ボリスはそう言って、ペットにそうするようにその扉を叩いた。「幻視家で、天才だった」 ランタンを地面に置き、彼はベルトポーチから拳ほどの銅の球体を取り出すとドラゴンの片目にはめた。金具と石がこすれる低い粉砕音が続き、扉は半開きになった。

 不意にボリスの威張った笑みが消えた。彼は長ナイフを抜き、楼門まで駆け戻った。トーレンズはランタンの光の先を見つめた。何も見えなかったが押し問答が聞こえ、彼は鞄に手を伸ばして武器の柄を握った。ボリスが先程の若者、アレクサンダーを伴って戻ってくると、トーレンズは手を放した。アレクサンダーは作業服から着古した射手の鎧に着替えていた。肘当ての硬い革にはひびが入って剥がれ、ベルトには鞘に入った剣が下げられていた。

「どうして追ってきた?」 トーレンズは尋ねた。

「砦を探索してる間、お守りしたいと思ったんです」 若者はそう答えた。「それが礼儀ってものです。地代を払ってくれたじゃないですか」

「礼儀なんて腐った魚の缶詰と同じだ。せいぜい腹が痛くなるだけだ」

「小僧、よく聞け」 ボリスは嘲るように言った。「家に帰って来月の支払いに間に合うようにしろ。それともまた踊りたいか?」 アレクサンダーの落乱した表情から判断するに、返答は否だった。この青年には根性があるかもしれないが、それを支えるための筋肉はない。少なくとも彼はそれをわかっている。満足し、ボリスはトーレンズへと向き直った。「入ったら鍵をかける――街の安全のためだ」 そして二階の小さな窓を指さした。「終わったら明かりをつけてくれ。そうしたら開ける」

 トーレンズは頷いて踏み入った。そしてアレクサンダーへと振り返った。

「ついて来るか?」

 アレクサンダーは満面の笑みを浮かべ、トーレンズの隣へと急いだ。

「お前の墓になるぞ」 アレクサンダーが急ぐと、ボリスは低くうめいた。彼はふたりの背後で扉を閉めて施錠した。

 アレクサンダーを伴い、トーレンズは静かな廊下へと踏み出した。砕けた石のタイルや落下した石材の破片が足の下で音を立てた。小さな虫が逃げ去る音が光のすぐ外から届いた。廊下の終点は戸口になっており、その先の広い空間へと続いていた。

「あの」 アレクサンダーが尋ねた。「どうしてさっき、ああ言ってくれたんですか?」

 トーレンズはすぐには返答しなかった。影の中に何か大きな動きの気配がないかと光のすぐ外を見つめ、そして戸口へと進んだ。先の部屋へとランタンを伸ばし、空間の規模からそこは砦の大広間だと推測した。広間の先には上方へと階段が伸び、こちらを見下ろす中二階へと続いていた。この場所ではかつて、重要人物たちの間で宴や会議が行われていたのかもしれない。そんな贅沢の名残はどこにもなかった。

「威張り散らす奴は嫌いなんだよ」 トーレンズはそう言って、アレクサンダーを手招いた。「特にあの男は気に入らない」 彼は膝をつき、鞄を床に置いた。そして中へと手を伸ばし、再び武器の柄を掴んだ。静電気の疼きが腕を駆け上ってきた。「だが、俺たちを追いかけてきたのは間違いだ」

「理由はさっき話した通りです。トーレンズさんは――」

「それはどうでもいい」

「どうでもよくないです。うちは鍛冶屋です。昼がなくなったら作物は育ちません。作物が育たないなら、新しい農具も古いものの修理も必要なくなります。運よくヴァイタスの旦那の馬の世話で給金はもらえますが、生活は大変です。トーレンズさんは僕たちを救ってくれたんです」

「誰も救ってなんていない」 トーレンズはそう言ってうつむき、違う話題を探し、そしてアレクサンダーがベルトに下げた鞘に気付いた。「その剣を見せてみろ」 頑丈な作りの刃を手渡されると、トーレンズは掌にそれを乗せて量った。「いい作りだ」 剣を返しながらそう告げると、若者は喜びの笑みを浮かべた。鋳造が単純で柄は雑だが、それは問題ではない。「使い方はわかってるのか?」

「母から少し教えてもらいました。母はエストワルドで育って、祖父は衛兵隊長でした。母が幾つかの技を見せてくれました」

「仲のいい家族みたいだな。俺のところは全然だった」

「ずっと三人家族です。お互い支え合ってます」

 ひとつの悲鳴が沈黙を貫いた。人間の叫び声が。

「この上からです!」 もう一度悲鳴が響き、アレクサンダーも声をあげた。「こっちです!」 剣を手に、彼は階段を駆け上っていった。トーレンズが鞄から鎚を取り出すと、部屋に眩しい白光が溢れた。急いで踊り場まで上ると、アレクサンダーがその先の部屋へ飛び込む姿が見えた。


 笑い声に満ちた夜。明らかに薄められたエールが音を立てて注がれ、淡い琥珀色の飛沫が卓上に飛び散った。ジョレルダの酒場には、ガヴォニーでも最も有名な吟遊詩人のひとりであるマルグリットが立ち寄っていた。貴族気取りもどん底の悪党も、卑猥な歌を楽しんでいた。彼女に同行するマンドリン奏者すら、ほろ酔いになって三つに一つは音を間違えていた。

 トーレンズは震える手でジョッキを口へと運んだ。約束の相手はまだ来ていなかった。町の議会が禁制品とした胃石、お守り、珍しい薬草、その他の物品の出荷を計画するために一か月の大半を費やしていた。禁止はほとんど需要に影響を与えなかった。平和な村々には行方不明の旅行者の噂が流れていた。当局はその原因を、必死の追いはぎではなくもっと恐ろしい怪物の仕業としていた。それが何であろうと――一万匹の狼の群れ、灰口に集う翼の悪鬼、あるいは何か他の適当な悪夢――それは肥沃で未開拓の市場を成す人々へと恐怖をかき立てた。

 この取引を乗り越えさえすればよかった。エラモンが離れるのを待って母に声をかける借金取りを避ける必要はなくなる。これさえ終えれば、家を即金で購入できて、食べ物に困ることもなくなるだろう。残るはローゲルという男に会い、取引を成立させるだけだった。残念ながら、トーレンズはローゲルの人相を把握できておらず、酒場でこうして酒とともに待つだけだった。

 不意に、熊のような掌がふたつ彼の肩を掴んで揺さぶった。

「トーレンズ!」 エラモンだった。兄は油の鎧と汗の匂いを漂わせ、トーレンズの隣に座ってエールを注文した。酒場の多くの客は、賞賛や憧れあるいは恐れから、一瞬マルグリットからエラモンへと視線を向けた。兄は地元で多少名を知られるようになっていた。守備隊に加わっていた一体の狼男を倒したためでもあった。善良な人々は彼を称えて拳を突き上げた。後ろ暗い無法者たちは席を離れ、逃げるように店から出ていった。「ここで会えるとは思ってなかったぞ!」

「俺もだ」 トーレンズはそう言って、出口へとどう進むべきかを探った。「兄貴は飲み騒ぐ方じゃないだろう」

「今夜ここで何らかの取引があるって知らせが入ってな。先週、人間の指が何百本も入った箱を押収した。全部に、聖トラフト本人の神聖なる指だっていう札が貼られていた。信じられるか?」

 トーレンズは信じられた。その取引には関わっていなかったが、誰が関わっているのかは知っていた。彼らは今、身を潜めている。高利貸しが彼らの金と指、どちらか都合のいい方を切り取ろうとしているためだ。

「兄貴は衛兵なんだろ、交易協会にいるんじゃなくて」

「リザンドラ隊長に伝えたんだが、その結果この面倒な追跡に駆り出されたんだよ」

「大変だな。俺はもう行く」

「そう急ぐな」 エラモンはトーレンズの肩に手を置き、椅子へと押し戻した。「こんなゆっくり話すのは久しぶりだろう?」

 まずい。どうしてこうなる?「そうだな。俺ももう……二十一だもんな」

 エラモンはエールを一気飲みし、頷いた。「お前が理解してくれるとは思っていないが」 その様子はトーレンズの記憶にある兄とは異なっていた――兄は不機嫌そうに、酒の上に浮かぶ泡をじっと見つめた。「まだ港の友達とつるんでるのか?」

「ああ」 友達? むしろ共犯者だ。二年前に父が死亡し、エラモンが一家の債権者になると、速やかに規則が支配した。門限。いかがわしい店で飲み騒いではいけない。関わりを禁じられた「不良仲間」の一覧は次第に長くなっていった。毎晩の口論に母は心を痛め、病気がちになってしばしば寝込んだ。二か月後、トーレンズは我慢の限界に達した。彼は皮肉にも、エラモンが関わりを禁じたような人々が住む粗末な小屋に移り住んだ。それでも、トーレンズは彼らを同類のように感じていた。這い上がるか、さもなくば飲み込まれると理解している。生き延びるので精一杯の時には、中立も正道もない。

「母さんが心配している。いつも夕食にはお前の席を用意しているんだ」

「やめてくれよ。俺が家に顔を出したならどうなるかわかってるだろ」

「少なくともたまには顔を見せろよ。ちょうど昨晩……」 兄の声は途切れ、その視線はトーレンズから離れて酒場を横切った。そちらを見ると、兄が何を探しているかが正確にわかった。扉を入ってすぐの所に、痩せ衰えた男が立っていた。酒場の常連客というよりは迷いこんだ兎のようで、まるで燃えているかのように目立っていた。エラモンは立ち上がり、数枚の銅貨を置いた。「追加を頼む。また戻ってくる」

 あの人物がローゲルなのだろうか? わからない、だが運試しはできなかった。

「兄貴!」

「何だ?」

「こんなこと言っても意味はないかもしれないが、俺は理解してる。ありがとな、いつも俺に気を配ってくれて」 トーレンズはジョッキの取っ手を指で掴んだ。「悪いな」 そう言うと、彼はジョッキを持ち上げて中身をエラモンの顔にぶちまけ、その勢いのままに急ぎ兄を追い越し、客をかき分け、扉から飛び出した。すぐに、どこか安全な所へ向かわなければ。トーレンズは足音をひそめて店の間の通路を抜け、狭く曲がりくねった小路に出た。夜の喧騒に紛れ込むつもりだった。いい作戦、だがこんなはずではなかった。

「止まれ」 クロスボウを構え、離れた交差路からエラモンが近づいてきた。「何でだ、トーレンズ?」

「何でかはわかってるだろ」

「俺は毎日、家族のために働いているんだ! 尊敬されるために! この世界で成功するために!」

「尊敬? 誰からだ? 兄貴をいじめる隊長からか? 議会からか? 街道でキャラバンが殺戮されてるってのに、いいワインを飲むのに忙しい奴らだ。そいつらにとって、俺たちなんて何の意味もない存在だ。自分たちでどうにかしなきゃいけないんだよ!」

「違う」 ほんの数歩先で、エラモンはクロスボウを降ろした。「正しいやり方がある」

「俺を逮捕するのも正しいやり方か?」

 エラモンは弟に迫ったが、トーレンズは素早く屈み、あらゆる攻撃を避けた。エラモンは掴みかかろうと迫ったが、それもトーレンズは避けた。兄は手加減している、それがわかった。鎧の重さがあっても、エラモンはこれより素早い。兄を説得さえできればいいという状況であれば、トーレンズにも逃げる以外の選択肢があったかもしれない。だが兄の寛大さは、それが愛によるものか悲嘆によるものかはともかく、すぐにジョレルダの店を取り囲むであろう衛兵たちから逃れる助けにはなってくれないだろう。

 トーレンズはエラモンの次の攻撃を待った。そして彼は拳骨で牽制し、兄をわずかによろめかせた。その隙に彼は逃げ出し、ハンウィアーのよじれた小路に身を隠した。夜逃げしなければ。


 アレクサンダーを止めるのは間に合わず、トーレンズは敷居を跳び越えて部屋に突入した。闇は濃く、息が詰まった――影のように濃密な煙。祝福された鎚が放つ光がその煙を照らし出し、特徴のない灰色の覆いで彼を取り囲んだ。

「アレクサンダー?」

 応えたのはそこかしこから発せられるような、一連のうなり声と息の音だった。そして、すぐ目の前から、鉤爪の手が飛び出して彼の顔面を引っ掻こうとした。トーレンズはかろうじて後退し、鎚でその鉤爪を払いのけ、何らかの生物に苦痛の悲鳴を上げさせた。トーレンズは一歩下がって攻撃に備えたが、更に二本の鉤爪が脚に切りつけてきた。彼は膝をつき、煙の下で三本指の足が迫り来るのが見えた。

「アレクサンダー! 何処だ!」 彼は立ち上がって身構え、形のあるものを待った――頭か、身体か、とにかく鎚を振るう相手を。何も来なかった。代わりに煙が消え、トーレンズの鎚が放つ光が次第にその部屋を貫いていった。最初に目に入ったのはアレクサンダーの剣だった。それは床の上、ボリスの砕けたランタンの残骸の隣にあった。彼は屈んでその剣を拾い上げ、知る限りのあらゆる罵倒を呟いた。

「ハンウィアーのトーレンズ」 背後から女性の声が聞こえた。彼は鎚と剣を構えて振り返ったが、全く予期していなかったものに――相手に――対峙した。古ぼけた寝台が部屋の隅に押しやられ、寝間着をまとった女性がその上で、寝具を掴んで石の壁に縮こまっていた。ずっとそこにいたのだろうか?

苛まれし預言者、エルス》 アート:Ekaterina Burmak

「なぜ俺の名を知っている? 何が起こっている?」

「デビルたちがあの若者を主のもとへ連れ去りました」

 デビル。上等だ。そして主のデーモン。更に上等だ。霊廟の護衛として、ゾンビやグールと戦ったことはあった。だがデーモンは悪魔祓いを専門とする原野の司祭、あるいは天使の炎で悪鬼を焼き尽くす槍賢者たちが担当していた。せいぜい自分にできるのは、それらを嘲って死ぬことだけだろう。

「エルスといいます」 寝具を退けると、彼女の両足首には枷がはめられ、壁に鎖でつながれていた。金属がこすれる皮膚は赤く傷ついていた。「狩人たちに囚われたのです、あなたと同じく」

「狩人?」

「乾きゆくだけの生肉の臭いをまとう者たちです」

 裏があったということか。ヴァイタスとボリス、あるいは街全体が狂信者の塊で、自分たちは主菜としてデーモンの主に捧げられたのだ。ボリスとまた会うことがあれば、偉大な高祖父の幻視と知性が覆されて、あの内臓臭い獣がどんな顔をするかを見てやろう。トーレンズはそう誓った。

「それを外させてくれ」 トーレンズはそう言い、エルスの足首の鎖を観察した。太く頑丈だが、少なくとも魔法はかかっていない。少々の腕力と適切な角度で、枷を十分に曲げて足から外せるだろう。「脚。触っても大丈夫か?」

「必要なことを成して下さい」

 彼は膝をついて作業に入った。まずは鎖の張力を両手で試し、そして鎚頭を押し込んで留め金のひとつをこじ開けた。彼は尋ねた。「この場所は何なんだ? 悪の寺院か何かか?」

 エルスはかぶりを振った。「私が知っているのは、闇の淑女が教えてくれたことだけです」

 トーレンズは顔を上げた。「誰だって?」

「闇の淑女です。あなたの真後ろに立っています」

 トーレンズは息をのんで振り返ったが、誰もそこにはいなかった。祝福されたその鎚も、霊や悪鬼の存在に反応して燃え上がりはしなかった。

「私の連れです。あなたの名前も彼女から知りました。あなたがた……聖戦士を避ける助けになってくれています」 それは、告げるというよりも吐き捨てるような口調だった。自分で選択してアヴァシンの兵になったのではない。ハンウィアーから逃亡した後、トーレンズはスレイベンへと向かった。だがその後すぐ、都はゾンビとスカーブに包囲されてしまった。彼は戦場で死体をあさっていた所を捕らえられたが、馬鹿げた幸運から、ガヴォニーの騎手の司令官の前に引き出された。それがオドリックよりも理解のない者であったなら、彼は投獄されて腐っていっただろう。だがそうではなく、オドリックはスレイベンの新たな守護者サリアと共に申し出たのだった。『君は逆境を生き延びたのだ。教会は君のような者を必要としている。今という時は特にそうだ』

「聖戦士は引退した」

「それは聖戦士の聖なる武器では?」

「以前はそうだった。今は違う」

 エルスは続けた。「聖戦士たちがラムホルトに来て、私に情報を要求したのです」

「あんたから? 何故だ?」

「私は夢をみるのです。未来の幻視です、ほとんどは他者の迫りくる死について。私は助言したのですが彼らはその通りに行動せず、私を異端として村の中央で処刑しようとしました」

 狂気の預言者、そう呼ばれる者の話は聞いたことがあった。彼らは失われた神々、自然の精霊、あるいはデーモンとの交信を通じて運命を占うと噂されていた。通常、この不幸な者たちはそのお告げを無為にわめきながら歩くが、放置されるだけだった。最近では、囲い込まれてガイアー岬の療養所のような場所に送られていた。だが処刑? それは教会内の特定の者たちの権限だ。

「審問官か」 彼は低くうなった。

「神聖の衣装をまとい遊ぶ嗜虐者たちです。私は山へ逃れ、そこで闇の淑女が現れたのです。彼女のお陰で、私は常に彼らの一歩先を行くことができました」

「でも狩人については警告しなかったのか。それはちょっと怪しくないか?」

「彼女は信頼できると示してきました。あなたとは違って」

「それはもっともだな」 彼はそう言って、エルスの足を枷から外した。「これで自由だ。歩けるか?」

 エルスは床に足を置き、立ち上がろうとしたが、すぐ前屈みによろめいた。トーレンズが彼女を支えて部屋を歩かせ、やがて彼女は再び自力で立てるようになった。

 彼女を寝台に座らせ、トーレンズは尋ねた。「そのデビルの主。何処にいる?」

「闇の淑女は、下にいると仰っています。この下深くに」

「曖昧だな。まあわかるだろう。戻るまでここにいろ」

「一緒に行きます、ハンウィアーのトーレンズ。私の運命はそこにあります、あなたと同じく」

「トーレンズでいい。それと来るのは駄目だ、危険だ」 彼はエルスを見つめたが、彼女は濁った瞳で見つめ返すだけだった。それは、奈落の入り口に足をかけた者の視線だった。「わかったよ」 彼はアレクサンダーの剣を彼女の手に押し付けた。「俺と来るなら、これが要るだろう」

「私は戦士ではありませんが」

「俺だって英雄じゃない。けど時にはそうならなきゃいけない」


 トーレンズは馬の速度を上げた。もう少しだ。

 スレイベンとガヴォニーの各地を結ぶ街道は近頃どこも混んでおり、彼の故郷へ続く道も例外ではなかった。一週間前、避難民たちが州のあちこちから高都市に流れ込むようになった。その理由はもっともだった。大地に蔓延する狂気からの避難所があるとすれば、教会の本拠地がそうだろう。だがトーレンズにとって、むしろスレイベンは巨大鼠の罠の前に置かれた餌のように思えた。自分の首を丁度いい場所に置きたくはなかった。

 スレイベンを離れるのは苦々しい思いだった。聖戦士の一員となって三年、トーレンズは教会が必死にかき集めた雑多な仲間たちを好むようになっていた。前科者、家族に絶縁された男女、目的を求める迷える魂。だがオドリックが月皇議会から追放されると、トーレンズはその旗印への信頼を失った。それでも共に奉仕してきた仲間たちへの愛着は変わらず、自分の役割を捨てたくはなかった。だがハンウィアーから逃れてきた人々の、混乱して馬鹿げた証言を耳にして、すぐに故郷へ向かわねばならないと彼は悟った。

 出発に合わせるように、多くの話が届いた。ある避難民は、大地震がハンウィアーをのみ込んだと表現した。別の避難民は、友人や近隣住民が目の前で怪物と化したと言った。そして足を止めることなく逃げてきた、疲労しきった少年ふたりは、最もありえない証言をした。

「街が消えた。街が歩いてどこかへ行った」

 カーク川の岸に近づくと、トーレンズは馬の速度を緩めた。この水路があってこそ、ハンウィアーはガヴォニーにおける農業の中心地として栄えたのだ。沈没船のマストが数本、砕けた埠頭の残骸とともに水面から突き出ていた。彼はかつて桟橋であった所に立っていた。

 川沿いに馬を引きながら彼は思った。こんなことはありえない――湿った地面は一歩ごとに柔らかく潰れ、水ではなく不快な粘液がしみ出て彼の靴を覆った。街の頑丈な壁は石材の小片を残すのみで、それも黒い、ねばつく粘液に覆われていた。その先には何もない穴が横たわっていた。まるで街がそっくり、一度に、地面からえぐり取られたかのように。

 眩暈がトーレンズを打ち、頭上の積乱雲のように彼の内にうねった。静寂の中、黙示があった。次の瞬間、影と風がぼやけた。彼は記憶に刻印された幻の街を曲がりくねって通り抜けるように、かつて家族と住んでいた小屋のあった場所へと向かっていた。

 かつて我が家と呼んだ場所へと。

 トーレンズは立ちつくし、八か月前にひとりの配達人が届けてくれた革製の巻物入れを取り出した。開けずとも差出人はわかっていた。そして送り主が何を伝えたかったのか、読む気にはなれなかった。今この時までは。

 トーレンズへ

 お前の所在を探すのがどれほど難しかったかわかるか? わかってくれるだろう。友人の姉がスレイベンの教区刃として奉仕しているお陰だ。お前が信仰に生きる男だとは考えたこともなかったが、いつも何かと俺を驚かせてくれるんだな。

 母さんの具合は芳しくない。お前が去ってからすっかり塞ぎこんでしまっていたが、最近は悪化するばかりだ。寝台から起き上がる気力もなく、何日も何も食べていない。お前の顔を見たなら気力を取り戻すだろう。俺にとってもだ。俺はこのごろ信仰を奪われてしまったが、お前の方はそれを見出したというのは不思議だ。会えたなら、そのあたりについても話したいものだ。

 こちらに向かうことになったら連絡をくれ。

 兄、エラモンより

 

 その手紙は彼の手から滑り出て、地面に落ちた。泥の粘体に触れるとその紙は汚れた緑色に変化し、一瞬にして腐り落ちた。

「俺はここだ」 誰にともなく、トーレンズは呟いた。


 鎚が放つ光を頼りに、トーレンズとエルスは床の傾きを追って砦の下層へ向かい、建物の後方にある中庭を目指した。違う、中庭ではない――墓地。古の墓石は茨に飲み込まれ、中央には節くれ立った一本の木が鉤爪のように地面から突き出ていた。

 その木の根元、盛り土の頂上部分に、一組の扉がはめ込まれていた。トーレンズは扉を持ち上げて開き、鎚を中に伸ばし入れ、中に広がる不気味な内装を露わにした。人骨が煉瓦のように積み上げられ、肩甲骨がらせんを描く薔薇飾りのように配置され、頭蓋骨は虚ろな目の歩哨のように壁に埋め込まれていた――納骨堂。スレイベンのそれと同じように、遺贈者が墓所や教会の壁に防御の魔法を吹き込み、維持しているのだ。

 トーレンズが先に入った。骨が並ぶ通路はすぐに狭まり、ゆるやかに曲がりくねった。両脇には、人間の指の骨で注意深く持ち上げられたガラス瓶が並んでいた。中には青色の炎がちらつくように燃えており、その炎はうつろう映像を内包していた――人の顔、風景、出来事――まるで不気味な幻影か幻想のように。

「これは何だ?」 彼はエルスへと尋ねた。

「記憶です」 彼女は顔を近づけて覗き込んだ。「不安、恐怖、苦痛の記憶」

「何でわかる?」

 エルスは答えなかった。間もなく自分にもわかるのだろう、トーレンズの直感がそう告げた。

 二人は進み続け、通路は更に狭まってまっすぐになり、洞窟のような部屋へと続いていた。床から天井までずらりと並ぶ瓶にかすかに照らされたその部屋の奥で、背の高い人物が台座の上に立ち、その前に何体ものデビルがひざまずいていた。それらはうっとりとしているように、喉を鳴らしていた。あの人物こそが首謀者に違いない。この夜の物事全ての中心。瓶を持った一体のデビルが台座に上がり、中身を床へと投げつけた。青い炎が弾け、渦を巻いて上昇し、その主の顔を照らし出した。

 そんな。ありえない。

「アレクサンダー?」

「彼ではありません。彼の身体というだけです、何か別の存在が中にいます」

 破片から立ち上った煙が、アレクサンダーの震える身体に巻き付いた。両目が閉じられ、アレクサンダーは激しく痙攣し、拳を握り締め歯を食いしばった。目を開けて今一度トーレンズと視線が合い、一滴の涙が零れ、彼は微笑んだ。

「その女の言う通りだ」 かすれた、ありえないほど低い声がアレクサンダーの唇から発せられた。身体と心に取り憑く存在については聞いていた――デーモン、だがある種の死して長い霊にもそのようなものがいると。「ウンブリスと呼ぶがよい」 それが一歩下がると、足元にはルーンを刻んだ金属の輪があった。トーレンズは魔術師ではないが、どのような類の魔法が働いているかは見当がついた。逃亡を防ぐ、冷たい鉄の束縛の輪。

寄生性掌握》 アート:Rovina Cai

「その子を放せ」 トーレンズは命令するように言った。

「断る。この若者は正当に我がものだ」

「正当に?」

「一世紀以上の昔、術師テイヴァスが定めた束縛の契約によって。トラウブラッセンの民が眠る間に、我はその恐怖と悲嘆を頂く。そして朝が来たならば、彼らは爽やかで快適な目覚めを迎えるというわけだ」

 全く意味がわからなかった。「何のために?」

「悲哀や喪失に心奪われていては、重労働はできない。記憶の苦痛から彼らを解き放ち、過去を一掃するなど我にとっては他愛もないこと。何といっても、安定は従順を生むのだ。そしてテイヴァスの血統は我の欲するものを供給する」

「犠牲者を」 エルスがそう言った。

「捧げ物だ」 ウンブリスが言い返した。「完全な痛みというものは生きた身体、肉と血を通してのみ経験できるものだ。我はそれらを持っておらぬ。この若きアレクサンダー、この者が妹の屍を発見した時の苦悶は……美味であった。心臓が早鐘をうち、肺は締め付けられ、膝の力が抜け、目に熱き涙が溢れる。輝かしい。この者から妹の記憶を奪って以来、感じたくてたまらなかった。この先長きに渡って生産性が期待される、良い若者だ」

 三人家族……アレクサンダーは妹の存在も、その死も覚えていないのだ。トーレンズは鎚を強く握りしめた。「お前に正当性なんてない! その忌まわしい契約なんてどうでもいい。その子を解放しろ!」

「お前の優れた武器は間違いなくこの身体に傷を与えるだろうが、我自身には何ら影響はなく、この状況を変えることもあるまい。我が楽しみに何か問題があるのかね? 人々の苦悩を終わらせているのだ! それは崇高な行いではないか?」

「それの言葉を信じてはいけません」 エルスが言った。

「お前もだ!」 ウンブリスが声を上げた。「我が何故お前を捧げ物として受け取らなかったのか、疑問に思わなかったのか? お前は既に別の存在のものだ。共有はできない。闇の淑女とやらはいかなる甘い約束でお前の魂を手に入れたのだ?」

「闇の淑女は私を救って下さったのです! 世界そのものが狂気に堕ちた時、彼女が現れなければ、私もきっとそうなっていました。お前は嘘つきです!」

「この中の誰かが嘘をついている」 ウンブリスはアレクサンダーの頭部をありえない角度に曲げ、トーレンズをぼんやりと見つめた。「この女は夢について喋ったか? お前についての夢を」

 混乱し、トーレンズはエルスから離れた。彼女の夢には未来の幻視が含まれていると言っていた。自分の未来も見たのだろうか?「なんで何も言わなかったんだ?」 彼は尋ねた。

「それは……まだその時ではありませんでした」

「じゃあ、いつだ?」

「この女はお前に回答など与えぬよ」とウンブリス。「この女自身の恐怖は捉えがたい、あいにくの密航者のおかげでな。だがこの女を通して、お前についての全ては見えている。何という悲劇だ――お前の街の運命は。そして愛する兄、エラモン――」

「二度とその名を口にするな!」 トーレンズは金切り声を上げた。

「その悲しみを無くしてやれると言ったなら?」

「食えるものなら食ってみろ。お前がどれほど強かろうと知ったことか」

 ウンブリスは笑い声を上げた。「強かろうと? 強さとはひとつの罠だ。ヴァイタスは裕福な、力ある人間だとお前は思っただろう。だがな、子供の頃、あれは自分以外の何者かになりたくてたまらない夢ばかり見ていた。テイヴァスが与えた遺産以外の運命を求めてな。あれはテイヴァスに囚われているのだ、テイヴァスが我をここに捕らえたように。ヴァイタスと我は……苦しみの兄弟であった。だがやがて、テイヴァスが創造した素晴らしい機構を理解するに至った。実に優雅だ! 力や自由よりも大切なものがあるのだ――目的が! お前の目的は何だ、ハンウィアーのトーレンズよ?」

 トーレンズは両腕の力が揺らぐのを感じた。決意が一瞬だけ消失し、そして少し弱くなって戻ってきた。

「その苦痛」 ウンブリスは続けた。「お前はそれを押し殺しているが、それでもあらゆる形で残っている。お前は兄からの手紙をすぐに開いて戻ることもできた。だが自尊心から、虚栄心から、そうはしなかった。不実な息子だ……我のように信念と確信の、迷いなき目で見てさえいれば。我であれば、ハンウィアーに潜む危険を察したであろう。我であれば、家族を避難させていたであろう――迷う余地はない。我であれば、わずかな生き残りではなく、全員を救えたであろう」

「耳を傾けてはいけません」 エルスが言ったが、その声は遠く空ろに響いた。ウンブリスの言う通りだった。トーレンズはひとりの生き残りだった――周りは皆、忌まわしい最期を迎えたというのに、ひとり生きている。

「まだ手遅れではない、トーレンズよ。お前の苦痛を受け取り、目的を与えよう。富か? 名声か? 正義の名のもとに悪を討つ英雄として認められたいか? その全てが手に入る。我はといえば、お前の秘密を安全に隠しておこう。誰にも見つけられぬように。特にお前に」

「裏があるだろう?」

「何も。私はもう捧げ物を受け取った。お前はただ歩き去るだけでいい」 ウンブリスは屈み、デビルの一体へと囁きかけると、それは煙へと消えた。「扉の錠はそのうち開く。そうしたなら行くがいい」

「トーレンズ」 エルスが言った。「私達は神ではありません。デーモンの王でも天使でもありません。神性の目指すものを形にはできません」

「急いで行くべきだったんだ。兄貴……俺はただ聞きたくなかったんだ。言った通りだったろうとか、今まで間違ってきたことについての説教を聞きたくなかったんだ。兄貴に会いたくなかった、誰にも会いたくなかった理由としては十分じゃないのか?」

「運命は変えられません。ただ先延ばしにされるか、早めるだけです」とエルス。「試したからこそわかるのです――何百回と。ある者の危険を警告しました、次から次へと。そしてその状況を防ぐための出来事を起こそうとしましたが、更なる危険が降りかかるだけでした。私が何をしようとも、運命が必ず勝つのです」

「なら、俺の運命は何だ――お前が夢に見た運命は」

「それを決めるのはあなたです」

「その返答はどういう意味だ?」

「何も変えないということだ」とウンブリス。

 トーレンズは次の行動を迷った。ハンウィアーを漆黒の忘却に溶かす――そんなことが可能だとは考えたこともなかった。ウンブリスの言葉がもし本当なら? 記憶にある過去を書き換えて、新たな道を開いてくれる? あるいはヴァイタスの約束された富のように、それは罠なのだろうか? 心から、今ここに兄がいて欲しかった。正しい行いを成せと言ってくれるだろう。だが兄はもういない。トーレンズにあるのは、生き延びるための本能と、不都合な状況から抜け出すための非正統的な方法を見出す力。

 それこそずっと自分が持っていたものだった。

「何をしたいのか、言うがよい」とウンブリス。

「俺の願いは……お前が黙りやがることだ」 動きひとつで彼は踏み出し、その鎚で頭上に弧を描いたかと思うと全身の力とともに振り下ろした。アレクサンダーの顔に驚愕が、混乱が、そして何よりも恐怖が浮かんだ気がした。それはウンブリスの支配と戦うアレクサンダーだったのか、それとも他者の恐怖を浴びるのではなくウンブリス自身が恐怖したのだろうか。

 どちらにせよ、トーレンズは選択した。鎚頭が束縛の輪に叩きつけられると、その衝撃は地下墓地全体に響き渡る雷鳴を轟かせ、青く眩しい光で部屋を満たした。その光が消えると、ウンブリスは鉄の輪の束縛から踏み出した。拘束のルーンはもはや見えなかった。一歩、そしてまた一歩。

「これは予想外だ」

 トーレンズは鎚を拾い上げて身構え、解放された主に群がるデビルたちを見つめた。

「なあ。お前が考慮したくなるような提案がある」

「それは……聞こうか」


 村の広場で上がった叫び声が丘まで届いた。商人、鍛冶師、農夫たちが、かつて忠誠を誓った相手に向けて仕事道具を振り回していた。鮮やかな赤と緑のローブをまとったヴァイタスは、ボリスと数人の狩人たちと共に包囲されていた。

 トーレンズは眼下の光景に背を向けた。「これはどうなんだ」

「あなたはあなたの運命通りのことを成したのです」 エルスはそう言ったが、それで心が安らぐわけではなかった。裁判官や陪審員という立場が自分に相応しいとは決して思っていない。たとえヴァイタスと前任者たちは自らの死刑執行令状に署名していたと言えるとしても。

「俺は行くよ。ガヴォニーでの仕事が終わってないし、釈明しなきゃいけないこともある。何ならラムホルトにも立ち寄るが」

 エルスはかぶりを振った。「私はここに留まります。ここの人々は導きを必要とするでしょう。闇の淑女は言っています、これは私の新たな始まりの機会だと」

「ここに留まるのか? 家庭料理が恋しくはないのか?」

「ラムホルトはもう私の故郷ではありませんので」

「けどあんたの家族は――」

「数週間前、狩人にさらわれる前、母の夢をみました」

「それで?」

「幸せそうでした」

 ふたりに向かって、アレクサンダーの身体を借りたウンブリスが丘を登ってきた。その顔には大きな笑みが浮かんでいた。

「想像したこともないほどに甘美だ。恐怖と苦痛の記憶など、肉体的な目撃には比ぶべくもない」 ウンブリスから、地下の牢獄では感じ取れなかった闇のオーラがにじみ出た。この夜の野外においてその存在の影響力は明白で、しみ通る寒気から足元の草が茶色く枯れていた。

「俺たちの取引の目的を忘れるな」とトーレンズ。ウンブリスの言葉を信じるのは賢明ではないが、それでもそれは少なくとも約束の一部を果たしていた。砦の地下、あの納骨堂で、デビルたちは長年に渡って集めた町人たちの記憶の瓶を熱心に壊していた。責任はヴァイタスとその同族にある、そう全員に知れ渡るようウンブリス自身が念を入れた。我が身の啓発のため、そう言っていた。

「時間だ」とウンブリス。「この大地には、我が見たくてたまらないものが満ちている」

恐怖の顕現、ウンブリス》 アート:Daarken

「次に会う時は、お前を仕留めてやるからな」とトーレンズ。「約束する」

「その時にはきっと積もる話があるのだろうな」 最後にひとつにやりと笑い、ウンブリスはアレクサンダーの支配を放棄した。その身体はトーレンズの腕へと倒れ込んだ。

「え?」 その声は弱弱しかった。

「俺はここだ」 我に返りつつあるアレクサンダーを、トーレンズはきつく抱きしめた。アレクサンダーは震えはじめ、ウンブリスの影響が消え去ると同時に、実感が困惑にとって代わっていった。妹の存在、そしてその死。トーレンズは少年をしっかりと支え続けた。

「俺はここだ」 彼は繰り返した。彼は下方、村の広場の群衆を見つめた。天罰と正義を求める声は、血への渇望へと沸き上がっていた。ひとりが石を拾い上げてヴァイタスへと投げつけた。老人はかろうじて石を避けたが、次のふたつは避けられなかった。トーレンズは目を閉じて想像した。やがていつの日か、石が肉を打ち、骨を折るコーラスを夢に見るのだろう。

「俺はここだ」

(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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