MAGIC STORY

イニストラード:真紅の契り

EPISODE 04

サイドストーリー第2話:血の祝福

Marcus Terrell Smith
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2021年11月5日

 

 オドリックへ

 戦いは終わってなどいません。終わりには程遠い状況です。あの悪夢は駆逐されたと思っていましたが、また異なるものが到来しました、遥かに強大で邪悪なものが。説明は困難です。あまりに多くの物事が起こっています。可能な限り伝えられればと思います。

 吸血鬼は私たちと肩を並べて戦いました。彼らも私たちと同じように、この世界を救いたいのだと。ですが考えずにはいられません、救って、そしてどうする? 私たち全員を隷属させる? 食糧とする? とはいえ先のことを考える余裕はありませんでした。目の前だけです。今、倒すべきは目の前の敵。吸血鬼に対処するのは、全てが終わってからです。

 斃れた大天使の中には、ブルーナ様とギセラ様もおられました。同胞であり、我らが最後の大天使シガルダ様に斃されたのです。この狂気が天使に何をしたのか、私に説明は不可能です。今や、天使の姿はありません。そして、私がアヴァシン様について言及していないことを貴方は訝しむかもしれません。アヴァシン様もまた、亡くなられました。

 聖トラフトの助力を得て、私はアヴァシン様の神聖なる槍を振るい、あの悪夢の第一波を倒す力となりました。ですが続いて現れたものは……聖トラフトを私の身体から追い払い、私は狂気の獲物となりました。私はかろうじて生き延びました。

 オドリック、貴方は最良の人です。私たちを導いて頂きたいのです。これを止めるためには貴方の力が必要です。手遅れとなる前に。今、そちらに向かっています。そして私とともに光に尽くしてくれる、忠実な聖戦士たちもいます。

 どうか貴方自身を、貴方がどのような人物であったかを忘れてしまわないで下さい。かつて私たちは皆、欺かれていました。まもなく会えることを祈っています。

 貴方の忠実なる友、サリアより

スレイベンの守護者、サリア》 アート:Magali Villeneuve

 オドリックへとその手紙を最後まで読み上げ、司祭は身震いをした。その陰気な声は近野の小さな教会の壁に柔らかくこだました。サリアとグレーテはここにオドリックを残していったのだった。

 この数週間、彼女たちが果たして戻ってくるのか、再び自分に会いたいなどと思うのか、オドリックはほとんど考えてすらいなかった。代わりに彼は時間のほとんどを、アヴァシンの祭壇の前にひざまずいて過ごしていた。返答を求めて絶え間なく祈り、胸にかけたアヴァシンの聖印をなぞった――肩から心臓へ、肩から心臓へ。

 万力のように、後悔が彼を締め付けて離さなかった。サリアは月皇議会の腐敗を警告していたが、盲目で傲慢な自分はそれを信じなかった。デーモンは常に潜んでいると分かっていたというのに。彼は涙に濡れたままの胸元を強くなぞった。

 僧がふたり教会に通い、凍える夜には彼に毛皮をかけ、教会の炎を点し続けていた。彼らは食料と飲み物を運んだが、オドリックはほとんど手をつけなかった。だがその司祭の祈りを受けた聖水だけは、欠かさず飲んでいた。それは彼の血を高みに導き、清めてくれる。そして彼を喰らおうという敵に対しては不味く感じさせ、デーモンや吸血鬼といった外の闇に対する究極の守りをくれると約束していた。不幸にも、その親切心はほとんど慰めになってくれなかった。

「天使は私達を守って下さる筈でしょう!」 サリアが追放前に言い放った言葉が、ダガーのように彼の胸に突き刺さっていた。そして彼は心折れるまいと抗ったが、その意志はやがて潰えた。感情が堰を切って溢れ出た。彼は抑えきれずにむせび泣き、悲嘆し、自分がスレイベンにて殺害した聖戦士たちを悼んだ――彼自身が育て上げた、光を守るに値する気高き戦士たちを。彼は「罪に苛まれた」子供たちの火刑を許可したことを苦悩した。狂信的にデーモンと付き合う、裏切り者の司教たちの魂を呪った。数週間、彼はそれを続けた。

 そして……

「本当です」 サリアの手紙が届いたその日、司祭の嘆くような声が届いた。「防護魔法です、オドリック卿……防護魔法が消え、そして私ももはや強固なものを唱えることはできません」 司祭が漏らしたうめき声は重苦しく、発した言葉が喉を引き裂くようだった。吐き出された空気には、不吉な決意が濃く漂っていた。「アヴァシン様は……亡くなられました。狂気は大地を蹂躙しています。全てが失われました。崇拝はもはや必要とされません。希望はもはや……必要とされません」

 司祭が告げた事実は、オドリックの絶望を純然たる憤怒へと変えた。彼は剣を抜くと、柄に飾られて今なお天使の月光に輝くアヴァシンの印を睨みつけた。「貴女は……我々を……裏切った!」 一瞬の後、彼は剣を叩きつけて祭壇を粉々に砕き、視界に入る神聖な植物、遺物、秘宝を残らず破壊していた。

 その暴行を終えるとオドリックは顔を上げ、肩越しに振り返った。すると、あの親切な司祭は沈んだ様子で来たる夜へ出て行こうとしていた。彼は神聖なローブを脱ぎ、祝福の杖を床に落とし、完全に無防備となっていた。途方もない危険がこの聖なる壁のすぐ外に横たわっているというのに。司祭も支援者も、全員がそれを鋭く認識している。そして信仰篤き人物が不浄なるものの大口へと無防備かつ無力に入っていくのは、完全なる喪失に他ならなかった。

「司祭よ」 オドリックは呼びかけた。「このアヴァシンの家は堕ちたかもしれないが、それでも壁の中にいれば安全だ」 彼は返答を待ったが、それは来なかった。「司祭よ! 中へ戻れ! 太陽はもう沈むぞ!」

 教会の隅から、驚く声がかすかに届いた。その音へと振り返ると、中年の男が思春期の娘を恐る恐る守るように、隅の信者席に腰かけていた。先程の司祭の言葉を聞き、オドリックの激昂を目撃した後とあって、二人のやつれた顔には当惑と絶望がありありと浮かんでいた。今も慣習として、町人たちはしばしば今や死した天使に崇拝を捧げ、あるいはわずかな食事を求めて教会を訪れる。中でも最も貧しい者たちは、教会の隅で炎へと身を寄せ合って夜通し過ごすこともある。オドリックはその二人に見覚えがあった。

「大丈夫だ」 怯えた少女と目を合わせ、オドリックは穏やかに告げた。「ここは安全だ。私が守ろう……」

 不意に、悲鳴が上がった。それは開け放たれた礼拝堂の扉から響き、聖所の蝋燭を全て吹き消した。そして溺れるような湿った音、骨が砕ける音、肉を引き裂く不安な音、更には躁的で不浄な笑い声が続いた。

「隠れろ!」 彼は急ぎその男と少女に告げた。ふたりはすぐに信者席から立ち上がり、建物の奥に近い小部屋へと駆けこんだ。

 それらの音は外から、灰色の濃霧に乗って届いた。霧は濃い泥水のように戸口から入ってきて通路を流れ、オドリックが身構えて立つ祭壇へと向かってきた――額から下がる一房の黒髪は汗に濡れ、その間で彼の両眼が燃えていた。霧は前進を止め、だが消えはしなかった。それはただそこに留まり、奇妙な意図に波打っていた。

 その時、二人の僧がオドリックの両脇に駆け寄り、オドリックによる破壊の有様を見つめた。「オドリック卿、悲鳴が聞こえましたが――」 ひとりが声を上げ、だがその光景に膝をついた。その声は恐怖と混乱に震えていた。もうひとりは壊れたアヴァシンの印を必死にかき集めた。「何を為されたのですか?」

 オドリックはふたりに目を向けはしなかった。彼はうねる霧を凝視し続けた。「部屋に戻って武器を取って来い」彼は断固として言った。

「司祭様はどちらに?」 僧が叫んだ。「あの方が我々を守って下さっている……!」

「あの者は去った!」 オドリックは低くうなり、剣をその霧へと掲げた。殺しと破壊の音が外で増していった。「部屋に戻って武器をとれ、今すぐだ!」

 不意に、霧が二本の触手をするりと伸ばし、僧たちの足首に絡みついた。それらはふたりの腕、脚、上半身に巻き付いて無力化させ、優雅なスカーフのように彼らの肉を包んだ。一瞬にして僧たちは抵抗を止め、恍惚とした表情を浮かべた。ふたりは揃って祭壇を指さし、感情のない声を合わせ、霧からの無言の問いかけに返答した。

「アヴァシンの涙は、月の光を飲み干せるよう、祭壇の上にございます。ヘンリカ様」

冥府の予見者、ヘンリカ》 アート:Billy Christian

 ヘンリカ。オドリックはその名をかつて一度だけ聞いたことがあった。スカースダグ教団や他の悪魔崇拝者たちをいかに鎮めるかという話の中、その名は囁かれていた――極悪なデーモンの王へと喜んでひれ伏していた月皇議会の上層部の状況を考えるに、それは無駄な努力だった。裏切り者の中でも首謀者であったジェレンは、ヘンリカの名に不審な動きを見せた。彼は歯を食いしばり、肩を強張らせていた。嫉妬と非難がジェレンの心によぎっていたのだ。どれほど求めても、その女のように主のデーモンに近づくことは叶わないのだと。

 デーモンと付き合う吸血鬼。真に極悪な組み合わせだった。

 銀色の月光が一条、天井の小窓から差し込んだ。それは昇りつつある闇を槍のように裂き、祭壇の上で砕けた儀式用の鏡に当たり、数本の反射光を壁やオドリックの刃に投げかけた。オドリックは後方へと剣を向け、今や自らとともにその反射光の中に立つ敵の真の姿をとらえた。フードを被った、女性と思しき輪郭。その両腕は僧たちへと伸ばされ、見えざる糸を用いて彼らを操り人形のように弄んでいた。

 「アヴァシンの涙」は、イニストラード全土でそうだというわけではないが、教会が提供する真に価値あるもののひとつだった。教団の信者たちは通常、聖水で額に聖別を受ける。だが特別な場では、その神聖なる雫にて聖別を行う。柔らかな光を吹き込まれたアヴァシンの涙は呪文を強化し、戦いの後に傷を致し、霊の領域へと手を届かせる。オドリックは顔をしかめた。ヘンリカのような悪しき者が――更に、その女の主であるデーモンが――アヴァシンの涙を欲するというなら、いかにしてかヘンリカはそれを汚すつもりに違いない。

 オドリックはすぐさま剣を鋭い角度に傾け、月光をヘンリカへと向け、床に新たな光線を輝かせた。直ちにそれを避けようと霧がうねり別れ、蛇が巣穴へ戻るように木の信者席の下へと退いていった。

 同時に、僧たちを支配していた魅了が解け、彼らは我に返った。呆然とし、そして恐怖にふたりは互いを、そしてオドリックを見た。

「魅了されていたのだ!」 オドリックは叫んだ。「言う通りにしろ! 安全な場所へ!」

 反論も躊躇もなく、僧たちは入り口の暗闇へと駆け出した。だが彼らが姿を消した瞬間、床にふたりが倒れる重い衝撃音が響いた。

 その音にオドリックは顔をしかめた。不測の事態に備えていろと教えられてきた。そして来たるものは確実にそれだった。屋根の上の足音、教会を取り囲む物音、剣が宙を切る甲高い空気の音は、他の聖戦士たちがいると警告しているはずだった。確かに、音を立てずに動くよう、いざという時に敵に気付かれずに動くように彼らを訓練していた。だが自らの悲嘆と不意のヘンリカの出現に気をとられ、一時的に警戒を解いてしまっていた。

 彼は素早く振り向き、同時に反射光を暗い戸口へと放った。光線はふたりの兵士を照らし出した。両者とも、きらめく刃からあの僧たちの血を拭っていた。前進してくる彼らを、オドリックは驚きとともに見つめた。彼らは石のような表情に目だけを閃かせ、たった今の殺しに対して良心の呵責を一片も抱いていなかった。聖戦士たちが無辜の者を殺し……そして同じく聖職者までも? アヴァシンの狂気は想像以上に遥か遠くにまで広がっていたのだ。

 さらにオドリックは気付いた。兵士たちはそれぞれ片手を失っていた――いや、彼らの左手は腐りかけた死者のそれに置き換わっていた。

「同胞たちよ」 オドリックは苦々しく尋ねた。「自らに何をしたのだ?」

「神性に祝されたのですわ」 霧のうねりと共に、満足そうな女性の声が届いた――ヘンリカの才気ある声が。「尊き天使の死を耳にして、この者たちは実質的に生きる意味を失ったのです。最高の年月を上質の嘘に浪費したと知ったのです。何と哀れなことでしょうか」

 霧はうねる球の形をとり、宙へと浮かび上がり、流れるような礼服をまとう、とても長身で痩せた女性の姿をとった。ヘンリカは笑みを浮かべ、鋭い牙を見せた。彼女は言葉を続け、聖戦士たちはオドリックに向けて剣を掲げた。「聖戦士――彼らのような意志なき羊たちは、常に目的を必要としています。あるいは自らの価値を示すことに長けています。そう、この者たちは新たな目的を見つけ、自己犠牲を通して生まれ変わったのです。オーメンダールこそ、この者たちの天使なのです」

 その最後の言葉に解き放たれたかのように、ふたりの聖戦士がオドリックへと突撃した。片方は上から、もう片方は下から。それは彼ら、誓い破りたちの典型的な戦法だった――二対一、オドリックの見解ではむしろ卑劣な戦略――だが容易く予測できる戦法だ。オドリックは巧みにその場で身を翻し、ふたりの刃が上と下を通過した。そして怒涛の攻撃へと移った。超人的な回避と防御の間に四肢を裂き、顔面を刻み、骨を砕いた。砕けたアヴァシンの名残に、血が川となって流れた。

 ヘンリカの汚らわしい笑い声が壁にこだました。彼女はオドリックの華麗な技を喜び、更なる者たちを自らの歓楽へと呼び寄せた。教会の十ほどの窓に、聖戦士たちの影が幾つも浮かび上がった。全員が神聖なる鎧をまとい、不浄なる苦悩を誇示しながら近づき、名誉を失った指揮官を見下ろした。オドリックは恥辱と不信を込めて彼らを見つめた。これほどの人数が、ヘンリカの影響力とそのデーモンの意志の犠牲となったのだ。オドリックは殺意を込めて彼女を睨みつけた。

「大変面白いですこと」 ヘンリカは微笑んだ。「人間にとってすら、稀な道義心を持つ天性の殺し屋。オドリック卿、彼らは貴方をこう言っています――伝説と。全くもってその通りです」

「ならばわかっているだろう、お前に涙は渡さぬ」 オドリックは低い声でうなり、血に濡れた剣を彼女へと定めた。

「渡す?」 ヘンリカはくすりと笑った。そして上機嫌に身を翻し、黄金の礼服を大きな輪に舞わせた。「違いますわ。涙はこの素晴らしき崇拝の家で夜を過ごすでしょう。あるべき場所にて。とはいえ思うに、ここは素晴らしいとはとても言えませんわね。私はといえば、三十の部屋を持つ館を所持しております。大理石で切り出され絹地を惜しみなく用いて、そして我が意のままとなる用人の軍勢がおります」 彼女は面白いというように肩をすくめた。「ですがデーモンというのは、天使と同じく、儀式に凝っておりまして」

「儀式?」 オドリックは呟き、ヘンリカの目的を知ろうと手掛かりを合わせていった。「聖別を?」

 ヘンリカは微笑み、恥じ入るように視線を動かして答えた。「かもしれませんわね」

吸血鬼の復讐》 アート:Chris Cold

 鋭い目で、オドリックはヘンリカがまとう無関心な様子を見つめた。彼は敵の思考を読むよう鍛えられている。ヘンリカは課せられた任務を忠実に全うするような者ではない。毎夜の雑用からの気晴らしを喜ぶ、気まぐれな子供のようなものだ。その上、ヘンリカが主の狙いについて語る様子は、彼女がそのデーモンに真の尊敬など抱いていないと示していた。この教会への攻撃はただの……

「目的を達成するため。だからこそお前とお前の犬どもはここに来たということか」

「ダムナティと呼んで頂きたいですわね」

「聞いたこともないな」 オドリックはそう言い放った。「下位の血統の一つに違いない」 ヘンリカが絶やさなかった笑みが一瞬だけ消えた。作戦には思った通りの効果があった。それこそこの女が求めているもの、彼は即座に推測した。小規模の吸血鬼の家系はどこも、支配権を欲している。

「下位というのは弱さと愚かさを示す者の言葉ですわよ、聖戦士さん」 彼女はその最後の反論の後、唇を舐めたままでいた。「弱き者、愚かな者は殺して……」

「だが強く意志ある者は生かす」 オドリックは次なる作戦を胸に、踏み出した――ヘンリカに自らは矮小だと感じさせ、真の意志を完全にさらけ出させる。「兵士をその軍に入れられるように」 オドリックが彼女に近づいていくと、窓の聖戦士たちの間に動揺が走った。「お前はうそぶいているが、彼らの指揮官ではない。この忌まわしき男女はお前のものではない。お前が支配する用人ではない。お前はただの気まぐれな娘だ……」

「私は仲介者ですのよ」 オドリックの言葉に、睨みつけながら彼女は悪意を囁き返した。鉤爪が伸ばされ、音を鳴らした。

「仲介者? デーモンと吸血鬼がどのような契約を交わすというのだ?」

「血の契約を」 入り口から別の声が届いた――悲しい、聞き覚えのある声が。

 あの親切な司祭が、教会の戸口に再び立っていた。月光がその打ちのめされて傷ついた顔を照らし、むき出しの四肢はそこかしこで出血していた。彼はよろめきながら前進した。右脚は数か所で骨折していたが、苦痛にひるみすらしなかった。多量の出血でその皮膚は青ざめていた――傷だけでなく、吸血鬼の口付けによって。首筋に、牙の跡が見えた。

「我らが忠誠のために」 その司祭は続けた。「闇の君主はその神聖なる血を捧げ……」

「お黙りなさい」 ヘンリカは司祭へと呟き、オドリックに微笑みかけた。司祭は黙った。その虚無の両目が祭壇の上、涙の泉へと定められた。彼を取り囲むようにあの霧がうねった。「悲嘆にくれた者は常にとても饒舌になる、そう思いませんこと?」 彼女は続けた。「とはいえ、非常に役立ってくれますが」

 そしてその時オドリックは気付いた。司祭の力なき腕に、歯をむき出しにして笑う一体のデビルが抱えられていた。それは狂暴な犬のように、死体の手の骨に噛みついていた――今や司祭の流血する手首に取りつけられている手に。噛むごとにその指が曲がり、悶えた。

「あなたがたの天使は死にましたが、その涙には今も力があります」 ヘンリカは続けた。「その力は導きと器を必要としています。デーモンはまた、司祭たちを必要としています――不浄なる命令にて聖別されねばならない司祭たちを。この者が最初のひとりとなるのです」

「止まれ、司祭!」 オドリックは脅すように叫び、剣で宙を切り裂いた。だが司祭は前進を続けた。

「無辜の者を殺すのですか?」 ヘンリカは冷淡に尋ねた。「おわかりでしょう、指をほんの少しひねるだけで殺せるでしょうね。オドリック卿、その良心を今一度汚すおつもり? 可哀相な子供たちを焼いておいて、更に?」

 司祭の背後、暗い戸口で鞘から刃が弾け出て鳴った。裏切り者の聖戦士たちが突入しようとしていた。窓、入り口、玄関――教会の周囲に二十人ほどが散開している、オドリックはそう見積もった。屈した司祭とデビルは言うまでもなく。

「いけません」 ヘンリカが再び口を開いた。「お前にはもっと相応しい地位があるのですよ――仕えるべき新たな主が」

 オドリックは再び剣に月光を映し、不意に、かつてサリアが語った言葉に揺さぶられた。「私は柔らかな月光に仕える」 彼はそう告げた。「世闇の怪物を押し留める月に。神聖なる人間性に……!」

「くどいですわ、聖戦士さん」 ヘンリカは顔をしかめた。「この戦いは恐怖が勝利するのですから!」

 そして彼女は灰色の霧と化して聖所の隅々まで広がり、同時にまるで決闘のための闘技場を用意するかのように、信者席を壁へと押しやった。更には観衆までもが現れた――ダムナティの吸血鬼たちが瞳を輝かせ、玄関から、窓から、屋根の穴から覗き込んだ。彼らの楽しげな声が大気を満たした。

 ヘンリカが言い切ると同時に沢山の足音が鳴り、殺到した。両腕を掲げてふたりがオドリックに飛びかかろうとしたその時、ひとつの暗い影が月光を遮った。激しい戦いのくぐもった音が屋根から伝わり、少しして屋根は砕けてガラスと木が降り注ぎ、そしてオドリックに襲いかかったひとりの真上に、剣を構えた聖戦士が落下してきた。サリアは落下の勢いで相手を突き刺して着地し、死した聖戦士の胸を両脚で踏みつけた。骨が砕ける音がその衝突を終わらせた。

 死体から血まみれの剣を引き抜き、サリアは背筋を伸ばした。そして彼女はオドリックへと向き直った。長い金髪が夜風にたなびいていた。オドリックもまた彼女へと向き直り、剣を三人目の聖戦士の腹部から引き抜いた。

「再会できましたね」 彼女は微笑みかけ、オドリックも笑みを返した。どこか切なる活気を心に感じた。喉元に感情が沸き上がり、四肢へと伝わっていった。この瞬間に腕を伸ばし、彼女を抱きしめたかった。本物のサリアだった。彼女が今も生きてくれていることが嬉しかった。デーモンの意志に屈していないことが嬉しかった。だが何よりも、スレイベンにてデーモンを野放しにしていた罪を償う機会が来た、それが嬉しかった。

 挨拶は一瞬で終わった。教会の窓ガラスが砕けて新たな聖戦士たちの襲来を告げた。サリアは転がり、降り注ぐ破片と敵の剣の切りつけを避け、一方オドリックは攻撃を自らの刃で受け止めた。そして相手の鼻先に一撃を与えて終わらせた。続いてもう数人が入ってきたが、すぐには戦いに加わらなかった。彼らは教会をあさり、壁からあらゆる銀をはぎ取ると窓や扉から外に投げ捨てた。

 力強い剣と極めて巧みな体術でサリアは聖戦士たちの腕や足を切り裂き、その動きを用いて跳ね、旋回し、更にもう数人を殺した。オドリックは拳で三人の頭蓋骨を砕き、足元に倒れた数人の肋骨を踏み砕いた。殺しをもたらす彼の剣はおびただしい量の血を壁や床に撒き散らし、磨かれた剣に映る月光は教会をめくるめく輝きで照らし出した。背中合わせで戦友ふたりは慈悲なく戦い、最後の聖戦士が斃れた。その間も、あの司祭はゆっくりと前進を続けていた。

「私たちの大切な司祭を守りなさい」 死体が倒れる音と剣戟の中、ヘンリカの声が響いた。「聖職者は死者に守られるものです」

 ヘンリカのその言葉が攻撃の呼び声であるかのように、少なくとも二十体のダムナティの吸血鬼が動いた。彼らは全方向から殺到した。飢えたネズミの群れのように、彼らは弱った戦士ふたりに襲いかかり、牙を肉に沈めて渇きを満たした。オドリックとサリアは彼らを払いのけようともがいた――オドリックは二体の喉を切り裂いた。サリアは一体の目をえぐり、一体の頭を叩き割った――だが相手の数は多すぎた。すぐに二人は武器を奪われ、ヘンリカの下僕のなすがままだった。

 ヘンリカは再び完全な姿をとった。無力な犠牲者の血で、その瞼と頬は赤く塗られていた。主の存在の中、吸血鬼たちは食事を止めた。だが彼らの爪と牙は獲物の肉に埋めたままでいた。

「勇敢ですこと」 彼女は嘲るように言い、軽い拍手をした。「素晴らしい健闘でした。あなたがたは貧弱な同族を一気に四十人殺し、同時に私は最強の戦士ふたりを手に入れるのです……」

 彼女はその司祭を見た。今や祭壇に立ち、あのデビルを涙の泉へと差し出していた。ヘンリカがひとつ目配せをすると、下僕のひとりが司祭へと一本のダガーを手渡した。

 すると司祭はその刃をデビルの腹部に突き刺し、上へ引き、その生物を真二つに裂いた。油のように濃く黒い血が惨めな生物から溢れ出て泉へと注がれ、そこで焼けるような音とともに煙を上げた。そして司祭はオドリックが聞いたこともない言葉で祈祷を呟き始めた。低くうなる声は、まるで死にかけの熊のようだった。そして不意に、忌まわしい血と神聖なる涙の混合物はうねって濁り、深い真紅へと変化した。水面の下に、角の生えた不明瞭な顔が現れはじめた――あのデーモンの真髄が。

「ああ、デーモンの血」 ヘンリカは微笑み、オドリックへと近づいた。「相応しき者の内に入れられたなら、それは計り知れない力をもたらします。恐怖、同情、疑いを奪い去ります。その血の聖別を受け、お前は途方もなく大きな悪しき行いを成せるのです」

 霧の中から不意に、信者席にいたあの父娘が現れた。二人の様子はあの司祭と同じだった――足取りは遅く機械的、瞳は虚ろで無関心だった。両者とも魅了されている。マニキュアを施されたヘンリカの爪が――黒く鋭く、歳経た猫科の鉤爪が――耳障りな囁き音とともに伸びた。既に心を命令に掌握されている父親は、その捕獲者に近づくと顔を上げた。

「仕えて下さいますか?」 ヘンリカは尋ねた、サリアへと直接。

「オリヴィア・ヴォルダーレン!」 サリアが叫んだ。「ルーレンブラムの主、ヴォルダーレン家の始祖はこの世界の全吸血鬼を代表してひとつ約束しました。彼女は同意しました――約束しました――戦争が終わるまで、全ての吸血鬼は、人間の血を流すために噛みつくことも切りつけることもしないと。彼女や他の吸血鬼は今も戦い続けています。この世界が存続するために、他の全ての血統の吸血鬼が戦っています。貴女もそれを尊重しなければなりません!」

「それとも、デーモンの血に名誉を残らず奪われたか?」 オドリックが獰猛に付け加えた。

 ヘンリカはオドリックを鋭く見つめた、その視線だけで彼の肉を引き裂いてしまうかのように。「オドリック卿、我々『下位の』血統がその契約に含まれるとは思いませんわよ……」

 わずかの躊躇すら見せず、ヘンリカは父親の喉を裂いた。その身体は空になった麦の袋のように崩れ、血がその下に流れ出た。近くで辛抱強く待っていたダムナティの熱心な吸血鬼が三体、野生の獣に戻ってそれを貪りはじめた。

 その様子に動じず、少女が近づいてきた。彼女は父親と同じように顔を上げた。

「やめろ!」 オドリックが叫んだ。「その子に手を出すな! お前にとっては何の価値もないだろう!」

「ですがそちらにとっては価値がある。そうではなくて、人間さん?」 ヘンリカはその指を伸ばし、少女の喉元に近づけた。

「私を!」 苦々しく、オドリックは告げた。「サリアとその子は放せ。私をやる」

「まあ。お分かり頂きますけれど、指揮官殿……」 ヘンリカは微笑み、目を閃かせた。「お前は私だけのものにします。ですがオーメンダールはお前が殺戮した聖戦士軍の補充を必要としています。従って、もう一度尋ねますが……」

 ダムナティの吸血鬼の一体が、その強い力でサリアの腕をヘンリカへと伸ばした。握り締めたサリアの拳が抵抗に震えた。

「仕えて下さいますか?」

 サリアはオドリックに顔を向けた。この瞬間の苦しみと、弱った身体にうねる痛みから、その目に涙が浮かんでいた。「仕えます。仕えます……」 だがそして、サリアは反抗の表情を浮かべた。「私は夜闇の怪物を押し留める、柔らかな月光に仕えます。断言します、復讐は成されるでしょう。私は聖戦士たちを祝福された眠りに導き、貴女が焼き尽くされる様を見守るでしょう!」

 ヘンリカの指が伸びかけたまさにその瞬間、あの司祭の声があった。低く、喜ばしく。「その少女を祭壇へ」

 オドリックは両目を恐怖で見開き、その司祭を見つめた。司祭は今や背筋を伸ばして立ち、傷は癒えて精神は高揚していた。両目は磨かれた黒い石のよう、そして額にはデビルの血で何本もの線が描かれていた。

「我らが王は、最初の信徒の洗礼を心待ちにしておられます」 活気に満ちた声で彼は告げた。

 ヘンリカは背筋を伸ばした。その鉤爪が縮んだ。

「そう、ならば祭壇へ」 失望すら浮かべ、彼女は溜息をついた。

 少女は従った。彼女はオドリックとサリアを無視して進み、父親の血の池を横切り、司祭の隣に向かってきた。サリアは恐怖とともに少女を見守り、だがオドリックはヘンリカから目を離さずにいた。この女は満足してなどいない。求める返答を何としても得るだろう。そしてその通りだった。少女が進む間にヘンリカはサリアの剣を取り上げてそれを掲げ、彼女の手首めがけて振り下ろそうとした。

 結末は今や不可避と思われ、だがオドリックは最後の時間稼ぎを試みた。彼は叫び声を上げて吸血鬼たちの牙の枷を脱し、剣がサリアの手を奪い去る寸前に乱入し、胸でその攻撃を直接受けた。血が溢れ、泉のように流れ出た。

英雄の破滅》 アート:Chris Rallis

「最後まで、何と気高いこと!」 オドリックの最後の抵抗に驚き、ヘンリカは高笑いを発した。

 他の吸血鬼たちも残らず彼女の享楽に加わった。だが一体が自らの喉元を掴み、よろめきながら離れていった。その吸血鬼は同類の中で最も小柄だった――すらりとして凛々しく、長い髪は波打っている。血の気を更に失った顔で、彼はヘンリカへと向き直った。

「ヘンリカ様」 その吸血鬼が発したのは囁き声だった。息を詰まらせ、話すのもやっとだというように。「気分が……」 だが彼女は獲物に夢中になっており、聞いていなかった。

 オドリックは咳き込み、血を吐きながらもサリアと目を合わせた。その間にも生命力の最後の一片が吸い取られていった。

「オドリック、そんな」 彼が吸血鬼に貪られる様子を見つめながら、サリアは泣き叫んだ。「死なないで! 私のためになんか! 世界を救うのでしょう!」

「あらあら、いけませんわよ」 ヘンリカは嘲りとともに、オドリックの顎を持ち上げた。「速やかな死は慈悲というもの。もっと素晴らしいものをあげましょう」

 取り囲む吸血鬼のうち三体が同時に動いた。一体はオドリックの腕を拘束し、一体は彼の髪を掴んで顔を上げさせ、最後の一体は両頬を手で握り締めて頭部を横向きにし、首筋に脈打つ血管を露わにした。多量の失血でオドリックは弱り、抵抗はできなかった。

「お前は主に仕えます」 ヘンリカは歌うように言った。「そしてその主とは私です」

 その爪で、彼女は自らの舌を深く切りつけた。濃く赤い血がその唇を濡らし、そして彼女は直ちにオドリックに迫ると首筋に噛みつき、内なる忌まわしい血で彼のそれを汚した。すぐに、彼はその残忍な毒が回るのを感じた――心臓の鼓動が緩まり、血への飢えが沸き上がった。屋根の穴から輝いて見下ろす満月の光を彼は見つめた。サリアの言葉が再び脳裏に響き、彼は人間としての自らの何らかを保ち続けようと耐えた。道徳、善、生。そしてその月は血の赤に塗り替えられ、世界の全てもまた……だがそれは彼の無慈悲な変質によってではなく、別の何かによって……

「ヘンリカ様!」 部屋の向こう側から悲鳴が上がり、全員の目が向けられた。先程一団を離れた蒼白なダムナティの吸血鬼が、今や中央に立っていた。どす黒い血管がまるで蔓のようにその首筋を這い上がり、整った容貌を台無しにしていった。その皮膚は煙を上げ、所々で焦げていた、まるで内から燃えているかのように。「何かが……何かがおかしい……!」

 言い終えるよりも早くその身体が爆ぜ、沸騰する濃い血の塊と内臓が弾け飛んだ。

 混沌の連鎖反応が続いた。他のダムナティの吸血鬼たちもまた、彼の周囲で沸騰し弾けていった。オドリックとサリアを拘束していた吸血鬼たちも内から裂かれ、血の波と死肉を壁や床に撒き散らした。ヘンリカもそれらの残骸を被った。そして同じように、彼女の皮膚もまた沸騰し燃えはじめていた。

「聖水を――!?」 信じられないというように、彼女は悲鳴を上げた。「血の中に聖水を――?」その事実は、脇腹を貫いた鋭い剣先に途切れた。

 恐怖とともに振り返ると、獰猛かつ決意の瞳でサリアが睨み返していた。そしてその凝視は戦士の鬨の声に裂かれ、殺意を帯びた目が続いた。オドリックが宙を駆けてきた。その両目はふたつの輝く真紅の太陽と化し、牙を閃かせ、そしてアヴァシンの剣をこれまで以上に眩しく輝かせて。

血に呪われた者、オドリック》 アート:Chris Rallis

「これで――終わりではありませんわよ!」 ヘンリカは金切り声を上げながら霧に変化し、教会の戸口から逃走していった。

 アヴァシンの剣がもやを貫いた。オドリックは、吸血鬼としての新たな姿で着地し、教会をその基礎から震わせた。彼は剣の勢いを止めず、祭壇へとまっすぐに投げつけた。今まさに、あの司祭が少女を不浄なる水に沈めようとしていた。

 刃は司祭の頭部を裂き、涙の鉢へと落ちた。その底に蜘蛛の巣のようにひび割れが走った。そしてその隙間から、アヴァシンの呪われた涙が、オーメンダールの穢れた聖水が床に零れた。それが触れないよう、サリアがすぐさま少女を抱え上げて戸口へと駆けた。オドリックは彼女に続いた。

 泉が弾けた。デビルの血の大波から、雷鳴のような耳をつんざく咆哮が彼らを追いかけた。オーメンダールの角、骸骨のような恐ろしい容貌、ドラゴンのそれにも似た鉤爪、その全てが滴る真紅とともに続き、床から手を伸ばして彼らを捕らえようとした。だがそのデーモンのおぞましい姿は長続きしなかった。聖戦士の踵に届こうという直前で流れは勢いを失い、苦悶のデーモンは敗北に揺らぎながら、忘却へと沈んでいった。

 サリアとオドリックは共にしばし立ち尽くし、破壊の惨状を見つめていた。そして、サリアは自分と少女を見つめるオドリックへと向き直った。彼女は少女をきつく抱き寄せ、オドリックが向けてくる視線を肩で遮った。オドリックは深呼吸をし、変わり果ててしまった自身を受け入れようともがいていた。友人も同じく受け入れてくれることを願いながら。

「月を――見ることはできますか?」 サリアがそっと尋ねた。

 その問いかけの意味はわかっていた。吸血鬼は、月光を映し出す水面を横切ることができない。月を見つめたなら、ヘンリカの毒がどれほど自らの心臓を貫いたかが証明されるだろう。彼は天井の穴を見上げた。だが予期していたような苦痛と狼狽ではなく、そこには……安らぎがあった。まぎれもない安らぎが。

 ゆっくりと彼は血塗れの聖所を横切り、涙の鉢から剣を引き抜いた。それは月光を受け、天使のように閃いた。まるで今も何か高位の力で祝福されているかのように。その刃が、彼の姿を映し出した。彼は黒化した吸血鬼の両目でそれを見たが、見つめ返してきた姿は怪物などではなかった。痛ましい、神聖を汚すものではなかった。彼はただ、若い頃の自分自身を見ていた――偉大な理想と道徳に燃えた人間の勇者、柔らかな光の高潔な守護者を。

 彼はサリアへと向き直った。

「ああ。見ても平気だ」

 彼女は頷き返した。

 二人の結束は揺らがなかった。聖戦士と、恐らく異なるそれ以上の存在。これはイニストラードを救う戦いの新章の始まり、二人ともそうわかっていた。恐るべき冒険がこの先に待っているのだ。

(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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