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MAGIC STORY
イニストラード:真紅の契り
サイドストーリー第1話:世界の端
2021年10月29日
ネリック卿の応接間は寒々としていた。
客間の炎は長いこと燃やされていたが、ジェイコブの拳は今も寒さに震えていた。重厚な金襴の飾り布、脚が優美に湾曲した卓、そして多くの風景画は寛ぎと富を語っていたが、どれほど金があろうとも外にうずくまり壁を貪欲に引っかく寒気には敵わなかった。上流階級の人々が自分で闇から抜け出せるのであれば、既にそうしていただろう。
「ハーキン殿、時間通りにお越しいただき感謝致します」 ネリック卿は寒さを気にしていないようだった。高い額に貴族的な鼻筋、ある意味では美形と言ってよかった。彼は背もたれの高い椅子に寛ぎ、堂々として物憂げ、そして微笑んでいた。街の現状を思うに、露骨なほど元気だった。
ジェイコブはそれが気にくわなかった。自分には理解できない冗談を言う人物、そう感じた。
「お気になさらず。近隣に住んでおりますので」
アート:Aurore Folny |
それは嘘、だが駅馬車代を請求書に追加するつもりだった。ここまでの旅を御者に納得させるだけでも、少なからぬ賄賂を払っていた。アールン川沿いの村は大患期以前でも無愛想な場所だったが、今は……ああ。世界が永遠の夜に突入すると決めた時、魚と腐った建築物の悪臭のない場所を押さえておけばと思っていた。
だがセルホフへ到着して見たものから判断するに、この息苦しく重苦しい恐怖の覆いはどこへ行こうとも同じなのだろう。
「このウィッカー探偵が請け負ってくれたのだ、君こそこの仕事に最適な人物だと」 ネリックは続けた。
その探偵、ウィッカーがジェイコブへと真剣に頷いた。彼女が自分を覚えていたことすら驚きだった。三年前に少しだけ協力して働いたが、それは大患期前、古いイニストラードでのことだった。彼女の名前は知らなかった。よそよそしく、その若さにしては滅多にないほど厳格で、初歩的な過ちを犯しがちだと覚えていた。彼女には高く評価されていないのだとジェイコブは把握していたが、だが彼女が自分を呼んだというのであれば、それは明らかに間違いだったようだ。確信してくれていることにも感銘を受けた。今日では誰もが自分だけの薪を割り、どんな金であろうと手にしようとし、扉を閉ざしたがっているというのに。
「ネリック卿、幾つか質問をさせて頂いても宜しいでしょうか」 ジェイコブが尋ねた。
「勿論だとも」 ネリックは手指を組み合わせた。「何を知りたいのかね?」
「まず、ネファリアを気まぐれに蹂躙して回る危険な霊の群れについて」 日誌の上にペンをかざしたままウィッカーは座り、尋ねた。背筋を伸ばし、髪は小奇麗にピンでまとめていた。アールンを発ってから着替えていない上着とベストのジェイコブは、その隣では粗末な装いだと感じた。「ネリック卿、もし間違っていたら正して頂けますか。私が聞いた話では、襲撃の標的となった者たちは全員が道徳的に破綻していたと強調されています。家族ごと家を追い出されてしまったなら、ヘイヴングルの市長を屋上から突き落としたくはなりませんか?」
ネリックは儀礼的な笑みをひらめかせ、興味深そうに脚を組んだ。「それが私と何の関係があるのかね」 彼はしなやかな緩慢さで身動きをした。その全ての動きが考えられていた。
ジェイコブは自分の椅子にもたれかかった。「どうすれば自分が標的になるか、彼女はそう尋ねているのだと思います」
「ふむ? そうだな。私は実業家だ、ウィッカー殿。私が金を手にするなら、誰かが金を失うな」
それはジェイコブが予想していたよりも遥かに率直な返答だった。
「だが、近ごろ私が誰かを湾に投げ捨てたかと尋ねているのなら――」 ネリックは声をあげて笑った。「安心していい、私は無実だ」
ウィッカーは緊張を崩さず、だが頷いて手早く書き込んだ。
寛大に、ジェイコブは捜査前の質問をウィッカーに任せた。それは彼に考える時間をくれた。滅多にないほど物騒な霊の群れがネファリアをさまよい、政治家や商人たちを襲っては彼らの生命力を吸い取り、乾いた抜け殻のみを残していく。それは……控え目に言っても奇妙だった。だが大患期の後、前例のないことはいくらでも、何処でも起こっていた。世界は摘み取られて揺さぶられ、全ての破片が正しい場所から押しのけられてしまった。もっと若ければ、それによって冒険心が満たされたかもしれない、だがそうではなく、冷たい恐怖に染まる寒々とした疲労があるだけだった。
ウィッカーの質問が終わると、ジェイコブは自分なりの専門的な助言を与えた。「ネリック卿、家の中に籠っていて下さい。とはいえ近頃では言うまでもないかと思いますが。防護魔法を調達するのが良いかと思います」
ネリック卿は椅子から立ち上がった。「君はできないのかね?」
「あいにくですが」 それは嘘だった。この男のために古く時代遅れの儀式を見せてやる気はなかった。「教会へ行くのが良いかと思います。何にせよ私よりも役に立ってくれるでしょう」
冗談ではなかったのだが、ネリックは笑い声をあげた。その笑みは歯を見せていなかった。「今夜は――ああ、ずっと夜ではあるが、ここで過ごしていってはいかがかな」 彼は礼儀正しい小さな含み笑いを漏らした。まるで世界の終わりが単なる応接室の冗談であるかのように。
この寒い場所でこれ以上過ごすのは御免だった。彼は震えをこらえた。生家を嫌というほど思い出させた。「お心遣い感謝致します。ですがお手を煩わせたくはありません。近くに宿屋があります。何事もなく過ごせるでしょう」
夜の怪物たちが、防護魔法と狩人たちに囲まれた町中で攻撃してくるほど大胆になったのであれば、誰にとっても希望など何もない。運命に身を任せる方が良い。
「私も他の所に宿をとっていますので」 ウィッカーがあしらった。
「好むようにしたまえ」 ネリックはそう言い、握手のためにウィッカーへと手を差し出した。
「ハーキン氏が提案されたように、正規の魔道士であれば……」 彼女は言葉を切り、動きを止め、そして手を放した。
そして硬直し、微笑んだ。
ジェイコブの背骨の底に奇妙な感覚が沸いたが、それが何かを悩むよりも早く、ウィッカーが踵を返した。「行きましょう!」
当惑し、ジェイコブは短くネリック卿へと頷くとウィッカーを追って廊下を進んだ。「ウィッカー、そんなに急がないでくれないか!」
ジェイコブはがらんとした玄関広間で彼女に追いついた。過去のネリックの大きすぎる胸像が幾つも影から睨みつけていた。ウィッカーは黒い眉の下から彼を見上げ、まるで秘密があるかのように身体を寄せた。「エロイーズって呼んで下さいな」 召使が扉を開いて頭を下げる直前、彼女はそう言った。
セルホフは世界の端の街であり、冬は狂った狼のように噛みついていた。霜がガラス窓にきらめく模様を縁取り、ヴァストロウ湾は船着き場の先に広く暗く果てなく続き、まるで世界の破片がすくいあげられて投げ捨てられたようだった。永遠の夜が訪れる前ですら、ここは弱者の居場所ではなかった。風が吹きすさぶ時、街は息を止めて服従する。
ジェイコブの上着の裾が風に舞い、髪は凍った頬を叩いた。寒気はウィッカーの四肢にも同じく染み入っているようで、彼女はふらつきながら小路へと入った。そして転びかけた所を、ジェイコブは駆けて掴んだ。
「大丈夫、大丈夫です」 彼女はジェイコブを見上げた。彼の身長は低く、女性であっても見上げられることは滅多にない。だがウィッカーは――エロイーズは――身長わずか五フィート程だった。彼女は唇を歪めた。「素敵な髪型ですね」
ああ。少なくとも、彼女は楽しんでいるようだ。
「私はここから捜査を始める」 道を歩きだし、ジェイコブは言った。この高所から見ると、月光は氷で覆われた屋根にきらめき、旗や飾りは全て降ろされて決して来ないであろう春を待っている。
「ん?」 エロイーズは彼を一瞥した。「私はもういなくていいと?」
どう答えるべきか、ジェイコブは定かでなかった。
彼女は笑い声をあげた。「どうして私より捜査に優れていると思うのです? その秘密の技と力?」
「私をネリックに紹介したのは君だ」 苛立ってジェイコブは言った。彼女がもっとゆっくり歩いてくれれば。現地の吸血鬼は結婚式の準備に忙しく、街路で狩りをすることはないだろう。だからといって、暗闇の中に入るのは魅力的というわけではなかった。不安にジェイコブの両肩が強張った。
「外から見るとひどいものね」 エロイーズが独り言を呟いた。
「何だ?」 彼はエロイーズの視線を追った。街の上部には工場の塔がそびえ、またそこでは富裕層が住んでいる。そのほとんどは美しく、だが最大のそれは灰色にぎらつく巨大な石造りの怪物で、拳で神々を狙うように空を突いていた。見つめると吐き気がした。その強烈な存在からは悪意が溢れ出ていた。そうに違いない、ジェイコブは大気を取り巻く悪意が感じられた。「すさまじく目障りだな」 彼は同意した。「あれは何なんだ?」
「廃屋ですよ。屍錬金術師が住んでいましたが、今は誰もいません。何か月か前に事故があったんです。霊爆弾が暴発して、死者が沢山出ました」
アート:E. M. Gist |
「何が暴発したって?」 彼女の言葉を正しく聞き取れたかどうか定かでなかった。「霊爆弾? それは何だ?」
エロイーズは切りそろえた前髪の下から見上げた。「文字通りの物です。死者の魂を燃料にした爆発物」
吐き気が強まった。「それは……」 どう言うべきかも彼はわからなかった。イニストラードが提供する最悪のものを見たと思うたびに、全く新たな恐怖の世界が目の前に開く。
風が軒の間をうねり、皺くちゃの飾り紐が街路に吹き飛ばされた。この寒さと闇にもかかわらず、幾つかの屋台が開いていた。それらの持ち主たちは頭を低くして中に縮こまっていた。安全とは言えない、だが他にどうしようもないのだ。永遠の闇、内から狩る怪物たちがいてもなお、地主は借用料を下げはしない。食べ物は買わねばならない。医療費は払わねばならない。
ジェイコブは夏の盛りのセルホフを思い出した――その色彩、香り、浮かれた音楽。彼は熱心に酒場へ通う方ではないが、群衆を眺めるのは好きだった。世界は死んでいないと思わせてくれるものを見るのは好きだった。
荒れた路地の角を曲がると、ジェイコブの胃袋が強張った。珍しい感覚ではない。霊の活動はいつも、真っ先に消化器官で感じる。だがこれは……奇妙だった。
「気をつけろ」 彼はエロイーズの肩に触れた。彼女が完全に動きを止めたのが手に感じられた。
「え?」
「耳を澄ませ」
風が悲鳴を上げた。ネリックは「霊の群れ」と表現していたが、ジェイコブはそれを誇張だと考えていた。巧妙な誇張。霊はその性質的に孤独を好む怪物だ。協調のために必要な知性や動物的な本能を持たない。しばしば群れるかもしれないが、決してそれは協調の精神によるものではない。ただその場所や力の源に、共通の興味を抱いているだけなのだ。
だがこれは、違っていた。
周囲の世界が、おののく霊の霧へと弾けた。それらは地面から、近隣の建物の中から溢れ出し、そして灰色の空から降りてきた。冷たく、ぬめった魔法がジェイコブの皮膚に塗りたくられた。強い感情にすすけた声が彼の内を進もうともがいた。恐怖、後悔、悲嘆、興奮、そして憤怒に続く憤怒、それらが眩しく燃え、胸の内で熱くなった。
ジェイコブの内でひとつの悲鳴が強まり、彼の骨そのものが鳴った。ただ本能だけで彼はかろうじて両足を踏みしめ、指でぎこちない防護の形を作り、両掌から魔法を突き出した。
「エロイーズ、私の後ろにいろ――」
霊たちはふたりの前に流れ、凝集し、一瞬、叫ぶ女性の顔が現れた。突風がエロイーズに直撃し、彼女は路地の壁に叩きつけられた。
ジェイコブは罵り、両掌を再び突き出し、筋肉の記憶を残らず呼び起こした。これほど強力な霊には長いこと遭遇していなかった。通常は、数語の言葉と指を一本ひねるだけで済む。だがそれは大患期以前のことだった。今、あらゆる魔法が困難になっている。全てが困難になっている。
「立ち去れ」 彼は叫び、自らの全てを消滅の命令に込めた。「今すぐだ!」
悲鳴を上げる女性は彼に向かい、今や細部までわかるほどはっきりとした姿になっていた。荒々しい髪、見開いた目、筋肉質の肩、そして怒り狂う口。
アート:Anato Finnstark |
そして霊は消えた。風は収まり、静寂が彼の耳を圧迫した。かまどから熱が逃げるように力が抜け、彼は煉瓦積みへと倒れた。
エロイーズがうめき声を上げた。口の端から血を流し、顔を上げたその両目はぼやけていた。「ジェイコブさん……」
「ここだ」 彼はそう返答した。
幸運にも、次の曲がり角に宿屋があった。二人とも、相手を抱えて進むことができるほど強靭ではなかった。医師を呼び、客室に落ち着いた頃には、エロイーズは混乱しつつも一応意識ははっきりしていた。ジェイコブは暖炉脇の肘掛け椅子に彼女を座らせた。エロイーズはゆっくりと、興味深そうに微笑んだ。
「先程は、どうやったのですか?」
ジェイコブは手袋と外套を脱ぎ、炎の前にうずくまった。まるで氷の風呂から出たばかりのように感じた。
「何の話だ?」
エロイーズは口元から血を拭った。「霊に命令していたではありませんか」
「ああ。私は霊に囲まれて育った」
エロイーズは柔らかく笑った。考え込むような声。「霊に囲まれて育った?」
「違う。いや、そうだ」
エロイーズは首を傾げ、聞いていると示した。
何も言うべきではなかった。嘘を混ぜる方が賢明だが、今の彼の論理中枢は最大限の機能を発揮していなかった。エネルギーをあまりに激しく出し入れした衝撃に、皮膚は今も震えていた。視界の隅に光がきらめいた、彼自身と世界とを隔てる覆い。
彼は炎を見つめた。「私を育ててくれた者たちは……霊を尊敬していた。崇拝していたと言ってもいい。死者とやり合うのは生者よりも簡単だ。予測できて、支配しやすい」
炎の明かりがエロイーズの髪のピンにきらめいた。「霊のことをペットのように言う人は初めてです」
ジェイコブは笑みを見せられなかった。「霊は生者が決して持てない知識を持つ。吸血鬼ですら、世界の覆いの背後を見ることはできない。私が育った環境では、死者だけが真の知識を解明できると信じられていた」
影の中、エロイーズの瞳はとても暗かった。「面白い話ですね」 彼女は指をひねらせた。「それで、どうして霊を崇拝するのではなく狩ろうと決めたのです?」
「狩ってはいない」 馴染みある、苛立たしい衝動とともにジェイコブはそう言った。「霊が関与する事件を調べているだけだ。狩りは死者の守り手に任せている。教会に興味はない」
「なるほど」 怪我からエロイーズの視線は眠たげで鈍重で、ごく僅かに悪意があった。「ではどうして霊の捜査を?」
「友達が――」
だが宿の女主人が、干し葡萄を詰めた分厚いケーキと茶を持って入ってきた。ジェイコブはそれを手伝い、エロイーズの杯へと茶を注いだ。彼女はそれを受け取ったが、腿の上に皿を落ち着かせただけだった。再び二人だけになると、彼女はジェイコブへと続けるよう促した。
彼はかぶりを振った。「面白い話じゃない」
エロイーズは鼻を鳴らした。「言い出したのはそちらでしょう。続きを話したいのはわかります」
ジェイコブは溜息をついた。「まだ子供だった頃に、友達が死んだ。窒息して」 その痛みはあまりに古く、微かにしか感じられなかったが、他の肉体的活動と同じく馴染みあるものだった。
「誰がその子を殺したのです?」
ジェイコブは茶へと砂糖を足した。南部地方では、茶を苦く淹れすぎる。「わからない。誰も探そうとはしなかった」
エロイーズは眉をひそめた。
「言っただろう――私が育った所では死者を崇めていたって。友達はその中に加わった。なら誰が方法を気にする? 長老たちは事故だと結論づけた」
エロイーズは鼻を鳴らした。「その人たちは、その友達に死者になれと急かしていた?」
ジェイコブは茶を吹いて冷ました。「いや」
「それであれば、死に献身しているようには聞こえませんね」
ジェイコブは笑った。それは自らの奥深くから引き出されたようで、素の自分だった。だが気分が少しましになったように感じた。「何にせよ、私はもうそこにはいられないとわかった。もはや……彼らを見るのは耐えられなかった。誰も。私は私だけが知る知識を生かす仕事をしようと決めた。思うに……そうだな、今となっては愚かな響きだ。けれどこれが人々の力になると思った。そしてそうなっていたと思う、しばらくの間は」
「今は違うと?」
彼は鼻を鳴らした。「真面目に言ってるのか? 私は何週間も仕事にありつけていなかった。きっと君もそうだろうが」
エロイーズはしばし混乱したようだったが、やがて表情がはっきりとした。「ええ、そうですね。永遠の夜。少々不便なのは確かです」
「ずいぶん控え目な表現だな」
「では、どう表現するんです?」
ジェイコブは杯を置いた。「世界の終わり、かな」
エロイーズは微笑んだ。「大袈裟ですね」
「そうでもないさ」 彼は肩をすくめた。「吸血鬼の家系が私たちを家畜のように囲い込むのは時間の問題だ。そしてそれまでに、夜の怪物どもは私たちを一人また一人食っていく」 それを声に出して言うのはぎこちなかった。まるで性交や出産、税について話すようだった。誰もが知っているが、礼節ある場では口にしない。全ての終わり。
「それでは、何故まだここに?」 エロイーズは尋ねた。彼女の杯は減っていなかった。怪我で吐き気を催しているのかもしれない。
彼はケーキを見下ろしたが、食欲はなかった。「どういう意味だ?」
「外には湾が広がっています。とても冷たい。飛び込んでもいいのに」 その声はのらりくらりとして、まるで催眠にかかっているようだった。「死者だけが手に入れられる、隠された真実を見つけに」
ジェイコブは彼女をじっと見つめた。全くもって、彼の記憶にあるエロイーズではなかった。「わからない」 しばしの後、彼はそう答えた。「惰性、かな。君はどうなんだ? セルホフにいたって、他の場所よりもましだなんてことはない」
秘密を明かすように、エロイーズは身体を寄せた。「私は生き続けるつもりです、その下に引きずり込まれるまでは」
反射的に、彼も身体を寄せた。エロイーズは窒息しそうな悲観主義から彼を抜け出させようとはせず、それは奇妙に心地よかった。彼女は理解している。エロイーズの瞳から、それがわかった。
エロイーズはジェイコブの冷たい頬に指先を触れた。「話してくれてありがとう、ジェイコブ・ハーキン」 彼女の言葉にジェイコブは……何かを感じた。
それはぬめって巧妙に彼の皮膚の下に滑り込むとまるで腐りゆく屍の被膜のように彼の中を動いていった。探している、見つけようとしている。無理矢理入り込んで。
ジェイコブはひるみ、杯を落とした。
エロイーズは目をひそめた。「大丈夫ですか?」
反応しようとした所で、ようやく医師がやって来てジェイコブを押しやった。医師を呼んでいたことすら忘れかけていた。彼は頭部の診察を受けるエロイーズを置いて部屋から出て、廊下で自らの頭をすっきりさせようとした。
骨の内のぬめった感覚が消え、呼吸が落ち着くまでには数分かかった。街路で唱えた退散魔法の副次効果なのだろうか。普通ではない、だが身体への魔法の影響というのは年齢とともに変化するものであり、自分は若返ることもない。
一時間の四分の一ほどが経って、あの医者が現れた。青ざめ、それ以上に動揺していた。エロイーズは医師にも、何気ない自殺を提案したのかもしれない。
「彼女の具合は?」 ジェイコブは尋ねた。
「ん? ああ、混乱していましたよ」 医師の口元が奇妙に持ち上がった。「無理もありません。幽霊が彼女の頭を壁に叩きつけたのです。今は眠っていますよ」
「彼女がそう言ったのですか?」 捜査内容について、積極的に関与しない人物へと大っぴらに話すのは良いことではない。だがあれほどの怪我ならば仕方ないだろう。
「何もかも語ってくれましたよ」 医師は半ば笑みを浮かべてそう言った。
「お会いしたことはありますかね?」 医師が自分を見つめる様子に、思わず彼はそう尋ねた。
「会ったこと?」 医師は首をかしげた。「そうは思いません。お大事に、ジェイコブさん」
ジェイコブが部屋に戻ると、医師の言葉に反してエロイーズは眠ってはいなかった。肘掛け椅子に深く座し、ゆっくりと瞼をこすっていた。
「エロイーズ。医者はどうしろとか何か言っていたか?」
彼女は手を膝の上に置いた。「よくわかりません。ただ眠れというだけかと」 彼女の両目はジェイコブからこぼれた茶へ、そして手つかずのケーキへ移った。「私に一体何があったのですか?」
ジェイコブは炎に近づいた。「どういう意味だ?」
エロイーズは掌で額をこすり続けた。「思い出したんです……塔の中の商人。冷たい手でした。そして、その後は何も」
「それは……心配だ。話しすぎたか」
エロイーズは息を吐いた。「頭がくらくらして、背中の筋肉が痛みます。私たち二人にどんなぞっとすることが起こっても、私はその記憶を失いながらどういうわけか生き残りそう」
そして彼女の様子が変化し、笑いだすのではないかとジェイコブは半ば予想した。だが怪我をしてからの彼女の奇妙な様子は何であれ、あの医者と一緒に去ったようだった。ジェイコブはかすかな失望を無視した。彼はエロイーズを気に入りかけていた。
「ああ、ぞっとするというのは少々――」
皮膚の下に響く何かを感じ、ジェイコブは言葉を切った。違う。ありえない。一体何が起こっている?
捜査のために自分が呼ばれたその霊の標的にされるというのは、一度なら偶然とも言えるだろう。だが二度は?
「どうしました?」 エロイーズは声を落とし、動きを止めた。「ハーキンさん、何が?」
霊たちが吠えながら、壁や天井や床を突き抜けて部屋になだれ込んだ。風がジェイコブの髪を乱し、食器が飛び道具のように宙を舞った。ジェイコブはかろうじて夕食用ナイフを避けた。だが今回、霊たちは驚かそうとも脅そうともせず、ただちに叫び声を上げるあの女性の姿をとった。
そして前回と同じように、彼女はジェイコブを無視してエロイーズへとまっすぐに向かった。エロイーズは悲鳴を上げ、椅子の背後に縮こまった。
「それに触られないようにしろ!」 ジェイコブは声を上げた。
「そんなことどうやって!」 エロイーズが叫び返した。
霊は動きを止めた。小さな部屋の中、その身長は床から天井まで伸びているようで、身体の端々は不明瞭だった。「私に話しているの?」
霊の声に、ジェイコブの血管が震えた。「そうだ」
霊は首をかしげた、「誰も私に話しかけはしないのに」
「ああ……」 彼は両掌を広げた。「驚きだ」
とても慎重に、その霊はエロイーズを見た。「私が探している人だと思っていました。そうでした。けれど今は違います」
エロイーズの両目が大きく見開かれた。「私を襲ったのはこの霊?」
「そうだ」とジェイコブ。
「嘘」 霊がそう言った。
「霊が話しているんですか?」 エロイーズが尋ねた。「風の音にしか聞こえませんが」
ジェイコブは罵った。「紙が要る。何か書くものを、何でもいい――」
エロイーズは上着を叩き、日誌を取り出し、注意深く一枚のページを破いた。ジェイコブはケーキとともに残されたナイフを取り上げ、自分の掌を切りつけた。
「何を――」
彼は一連の汚れた印を書き、身体を揺らしてその印に力を込めた。手段はこれしかなかった。もう数滴の血を掌から振るい落とし、彼は最後の印を書き終えると紙を振って乾かした。そしてそれを霊へと突き出した。
ジェイコブが見つめる中、霊はその印で何をすればいいかをゆっくりと自覚した。彼女はそれを受け取り、残像とともに指を動かした。すぐに霊の端々が明瞭になり、彼女は体重を得たように床に立った。
「それは嘘です」 彼女は再び、今度ははっきりとした声で言った。
エロイーズは明白と反応し、目を更に大きく見開いた。「わ。声が聞こえます」
「いえ……違う。それは嘘でした、けれど今は嘘ではありません」 彼女はジェイコブに視線を戻した。「あなたは?」
「ジェイコブという名だ。そちらは?」
霊はしばし答えず、ジェイコブは呪文が機能しなかったのかと考え始めた。だがそして返答があった。「ミレシント。それが私の名前。私は……誰かでした、以前は」 喋るほどに、彼女の姿は自然と凝集し、明白になっていった。血の印が彼女をその記憶に繋がる手助けをしていた。「私たち皆、川のそばの場所に一緒に生きていました。あいつが来るまで。あいつは私たちを使ったのです。新鮮な魂を」
「あいつ? あいつとは誰だ?」
「信頼できない者。死者のことを知っていました。皆、あいつに耳を傾けました」
「死者のことを知っていた……屍錬金術師のことか?」 ジェイコブの脳内で情報が集まり始め、認識の隅をからかった。手が届くすぐ先にあるというのに。かつて、発見の興奮がまだ新鮮だった頃には、爽快な感覚だった。今は、ただ疲れていた。「エロイーズ、あの塔に住んでいた屍錬金術師の話だ。霊爆弾を使って街を壊した。そいつの名前は?」
エロイーズは顔をしかめた。「そんな話はしていません」
「わかった――」 頭の怪我だ。「わかった。君は覚えていない。けれど話してくれたんだ。ネリックの館から離れながら。近くの村に霊爆弾を設置した屍錬金術師のことを君は話してくれた」
エロイーズはきょとんとしたままでいた。「いえ、話していません」
ジェイコブはかぶりを振った。「君が覚えていないのはわかる、だが――」
「近くの村に霊爆弾を設置した屍錬金術師のことなど話していません。何故なら、近くの村に霊爆弾を設置した屍錬金術師については何も知りませんので。そもそも霊爆弾というのは一体何です?」
外では風が猛り、ジェイコブは身体を強張らせた。だがそれはありふれた事象だ。彼は集中を試みた。これほど過敏になっているのは長いことなかった。「知らないんだな」
「知りません。大災害を被った街については聞いたことがありますが、何が、誰が起こしたのかまでは」
ジェイコブは考えを巡らせた。「腑に落ちないな」 重要な情報の一片を見落としている。「その屍錬金術師、そいつは今どこにいる?」
「だから知らないと――」
「君に聞いているんじゃない」 ジェイコブは部屋の中央に立つ霊を見た。
「私たちが終わった時、その者も終わりました」 彼女はゆっくりと言った。
「つまり死んだと?」
ミレシントはためらった。「それは……わかりません。あいつはここにいます。見ました。あいつは……」 もう一度、彼女はエロイーズを見た。そしてジェイコブは理解した。
彼はエロイーズの物憂げな笑みと、彼女が触れてきた時に皮膚の下に入り込もうとした、不浄が悶える感覚を思った。あの医師は料金を請求すらしなかった。ネリックの冷たい両目。
「そうか、畜生」
「これは嬉しい驚きだ」 ネリックは今朝と同じくただ優雅に、今もその冷えた部屋に座していた。ジェイコブを連れてきた空ろな目の召使は何も言わず、ただ頭を下げてすぐさま立ち去った。「ハーキンさん、また何ゆえにこんなにも早く戻られたのかな? 表敬訪問ですかな?」 鋭い犬歯の先端がぎらついた。「仕事には極めて遅い時間ではあるが」
ジェイコブは笑みを合わせた。「近頃では常に遅い時間です。幸い、こういった捜査の類が時間を守ることは稀でして」 炎も、蝋燭も点されていなかった。ネリック卿は暗闇の中に座していた。「シリル・ラーヴについて、何か教えて頂けますか」
ネリックの笑みは消えなかった。「ふむ? よくわからないな。屍錬金術師と多くの時間を過ごしてはいない」
「ですが彼が屍錬金術師であることは御存知だと」
「あちこちで名前を耳にしたのは確かだ。重要な人物であれば、その報告は私にも届くものだ」 彼は立ち上がり、踏み出した。豪奢な黄金のローブは腰にゆるくまとめていた。ジェイコブに対面するにあたり、彼は衣服に気を配っていなかった。「真面目な話、それを尋ねるためだけに来たのではないのだろう」 近づきながら、ネリックの足は絨毯に音を立てなかった。その両目は浮氷のようだった。彼は片手を挙げ、その指がジェイコブの頬をかすめた。「言うがいい……私に何をして欲しいのだ?」
当初、ジェイコブは柔らかく冷たい指先以外は何も感じなかった。自分は間違っているに違いない。この極めて無様な状況を切り抜ける方法を見つけなければ。
だがその時彼は感じた。油ぎった、押し付ける指が悶えながら皮膚の下に入り込み、喉と口蓋を煙で覆った。
ネリックを押しのけるのではなく、ジェイコブは彼を引き寄せ、首筋に手を置いた。「霊魔道士に取り憑いたことはあるか? 間違いなく不愉快だぞ」
そして彼は押し返した。
ネリックの身体が硬直し、そして人間のものではない息の音とともに彼はよろめいた。分厚いローブの下で足がもつれて彼は転び、かろうじて肘で身体を受け止めた。口から黒く濁った血が滴り、彼はそれを拭った。
「あまり一生懸命隠そうとはしなかったな」とジェイコブ。
「それでもお前は長い時間がかかった。探偵だと思っていたのだがな」
ジェイコブは平静を装ったが、痛い所を突かれたと感じた。
気付いていなかった。そして気付くべきだった。ただ、ミレシントの攻撃にあまりに混乱させられていた。それに事実、大患期からこの数年、イニストラードにて絶頂期の力を保ち続ける者などいない。変化した魔法は天候を錯乱させ、それは世界を錯乱させ、それは人々を錯乱させた。それでも気付くべきだった。セルホフに到着してから、自分はただ一人としか会話していなかったのだ。
「これは私にとってもひどく無様だ。それは認めよう」 ラーヴは金襴のローブを着たまま、床に伸びていた。
ジェイコブは一歩後ずさった。「ならば立ち上がれ」
「ふむ? いや違う。私が言いたいのは、あのヴィザグ・アトゥムの一員であるとも知らずに君を雇ったことだ。あの霊語りたち。私は無知だったよ」
ジェイコブは瞬きをしなかった。「私は遠い昔にそこを離れた」
「そうだ。友人の件でな。実に面白い。人とはどこまで残酷になれるのか」
「知っているというのか?」
ラーヴの顔にまたも一瞬の怒りがひらめいた。茶を零した時にエロイーズの両目に見たものと同じ。「あれは誤りだった。不幸な過失だった」
「それが?」
ラーヴは大いなる威厳をもって、ローブの襟元を閉じた。「勿論だ。私の霊爆弾は失敗ではなくむしろ成功したと言いたい。何の違いがあるのかね? む、あの霊が君に何か吹き込んだのか」
「彼女は腐敗した官僚を殺していない、そうだろう?」 ジェイコブは言い返した。「お前を探していたんだ。お前が屋根から突き落とした市長は――」
「ああ、あれか。あの身体は好みでなかった。私にふさわしくはなかった」
「お前は有力者の姿を盗んでいただけか」
「力を見せつけるには、他にどうすればいいというのだ?」 ラーヴの両目が冗談にきらめいた。「ああ、そうだな。彼女はあの不幸な事件以来、復讐に全力を注いでいる。何故かは想像もつかないな。私とて彼女同様に死んでいるというのに」
「彼女は他者の身体を盗んでいないという違いがある」
ラーヴは嘲った。「できないからだよ。私は死者への親和性がある、君と同じように。ほとんどの霊は生きた身体に憑依できない、特にその身体の許しがなければ。私は単に例外なのだ」
「謙虚な表現だな」
「価値判断を抜きにすればな。私は例外なのだよ、君と同じように」 彼は溜息をついた。そして立ち上がろうともしないように、ジェイコブを見上げたまま続けた。「何にせよ、君がただミレシントを倒してくれればと願った。彼女の不満を延々と聞くのではなく」
「あいにくだったな。私の仕事仲間に取り憑くべきではなかった」
予想外の優雅さでラーヴは立ち上がった。その身体は、エロイーズやあの医者よりも馴染んでいるようだった。「うむ、その通りだ。私はただ君の仕事を見たくて仕方がなかったのだよ、ジェイコブ。君が気に入っている。だから、ここに来てくれたことは嬉しいのだ」
「私がお世辞を喜ぶとでも?」 ジェイコブは弱弱しく尋ねた。
「私は気にしない」 屍錬金術師はそう言った。「些細な世辞は誰も傷つけんよ」
「ミレシントを倒すつもりはない」とジェイコブ。「お前が自分で彼女とやり合え」
「おお、もはや彼女などどうでもいいのだよ。私はただ君の助言を受け入れ、教会に守ってもらった。心から感謝する」 また鋭い歯の笑み。「いや。君から私にではなく、私から君には何をしてやれるだろうか」
彼は埃をかぶった戸棚へ向かい、見たところ適当に酒瓶を選び、同じく埃をかぶったグラスへと酒を注いだ。「飲むかね?」
ジェイコブは歯を食いしばった。「いや、いい」
「寛いでくれたまえ」 彼は消えた暖炉の隣の椅子に腰を下ろした。「何故座らないのかね?」
「立ったままでいい」
ラーヴは肩をすくめた。「共に仕事ができるのではと思うのだがね」
ジェイコブは相手の結論を待った。
「私が力になろう、ジェイコブ・ハーキンよ。私と共にいれば、君はもはや何も恐れることはない」
「私は怖れてなどいない」
「そんなわけがあるものか。あの宿屋でありとあらゆる恐怖を語ってどれだけ時間を費やしたかね。夜、怪物、暗く大きな口を開ける湾」 彼は琥珀色の液体をグラスの中で揺らしたが、飲みはしなかった。その両目は宝石のようだった。「自らをさらす際には気をつけた方がいい、この先はな」
ジェイコブは何も言わなかった。
「人類の日々は去った。そして夜は寒さを増しつつある。想像するがいい、怖れる必要などないとしたら? 私が手を貸そう。私は君を守れる。ただ……一緒に来ればいいだけだ」
ジェイコブは瞬きをした。「何処へ?」
「何処へでも。この世界の何処ででも、研究室を立ち上げられる。君は君が好きなように、霊の犯罪を解決する。」 思慮深く、彼は顔を上げた。「あるいは君の友人を殺した者たちを探してもいい。そして共に復讐するかね」
ジェイコブは彼をじっと見つめ、言葉の間にある何らかの意味を探ろうとした。「何故だ? その何がお前の利益になる?」
ラーヴは指先で、艶のある椅子の木材をこすった。「私も実に長いこと独りでね」
何故かはわからないが、ジェイコブはそれを信じた。「何故私を?」
「何故君でないとでも?」 まるで馬鹿げた話題を振られて困ったとでも言うように、彼はかぶりを振った。「私は君に手出しできない。君は霊魔道士だ。私は君の身体を奪えず、君は気に食わないことをされたら私を消してしまえる。悪いことなど何もないだろう。この身体の見た目が気に食わないなら、別の姿を取ればいいだけだ」
何と答えるべきだろう。この数年、何と答えてきただろう。人殺しと取引はしない。自分には義務がある。もしくは、あった。
そして、世界の全てが壊れてしまった。
「正々堂々と進もうとしないことだ」 ラーヴは続けた。「君は私と同じく、このイニストラード生まれだ。差し出された力を断らない方がいいとはわかっているだろう。何のためにその仕事をする? 正義か? 馬鹿を言わないでくれ、その賢さを無駄にするな。金か? どこでだって手に入る」
ジェイコブは目を閉じた。「私はただ疲れたんだ」
「わかっているよ」
アート:Jarel Threat |
ネリック卿の館は堂々として静かに、暗闇にそびえていた。危険ではあるが、エロイーズ・ウィッカーは夜を歓迎していた。頭の傷が痛んだ。それを置いても、夜は隣に立つ半透明の姿が見やすくなる。ミレシントはハーキンが作った印にしがみついたまま、憤怒をもってその館を見つめていた。彼女が幽霊でなかったとしても、その表情を見た者は怖れただろう。
「私は入れません」 霊はそう言った。
エロイーズは溜息をついた。「私はできます。ここで待っていて下さい」
彼女はほんの数分で、内部を一通り確認した。厨房に意識を失った召使二人を、そして客間にひとつの死体を見つけた。ネリック卿のものだった。ジェイコブ・ハーキンの姿はどこにもなかった。
エロイーズは戻り、見てきたものをミレシントへと報告した。
ミレシントはしばし何も言わず、エロイーズは血の印の効果が切れたのではと訝しみ始めた。だがそして彼女は言った。「ラーヴがあの人を奪ったに違いありません。新たな身体を得て」
「戦った痕跡は何も見つかりませんでしたが」
ミレシントは彼女を鋭く睨みつけた。
「ともかく、これは私の仕事です。ジェイコブさんが逃げたなら、きっと自力でそうしたのでしょう。あるいは、そもそも逃げられなかったかもしれませんが」 彼女は肩をすくめた。「このごろは街路にも怪物が沢山うろついていますから」
ミレシントはかすかな笑みを浮かべた。「私のように」
それは冗談のつもりだとエロイーズは判っていたが、面白いとは感じなかった。「あなたは怪物じゃない」 彼女はそう言い放ち、その熱気に自分自身驚いた。「あなたはただ、戦ってくれる誰かが必要なだけです」
ミレシントはしばし黙っていたが、やがて尋ねた。「望んであの人は行ったと思いますか? 彼はそういう人ですか?」
エロイーズはセルホフの街路の闇を見つめた。願えば、ハーキンが不意に姿を現してくれるとでも言うかのように。「わかりません。実際、あの人のことはよく知らないので」
ミレシントは頷き、血の印を手放した。
「待って!」 エロイーズはそれが地面に落ちる前に受け止め、ミレシントの手に押し付けた。「何してるんですか?」
「もうこれは必要ありません。私は自分の捜索を続けます」
エロイーズは溜息をつき、まだ痛む額を撫でた。「持っていてください」
ミレシントは彼女を見つめ、夜鳥のように首をかしげた。
「霊のために働いたことはありませんが、私を雇う相場はとても手頃ですよ」
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
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