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MAGIC STORY
イニストラード:真紅の契り
メインストーリー第1話:徴税と招待状
2021年10月28日
ステンシアは熟睡していた。邪魔も、気苦労も、悩みもない眠り――吸血鬼はそのように、尖塔の内にて眠る。実際に睡眠が必要というわけではないが、農民たちは必要としている。従ってそれはまるで奇妙な物事のように感じられた。今、力の頂点にて眠るというのは――愉快なことではないか?
その眠りは長続きしない。一、二時間だろうか。居眠り。冗談、真似ごと、ふとした興味。
だがこの数週間、ステンシアの人間たちにとってそれは最高の時間だった。月が空高く昇れば、わずかな休息を身体が願っても、それは手に入らない。
吸血鬼たちがそのささやかな戯れから目覚めた時、彼らは間違いなく飢えている。そして飢えている時、彼らは狩る。彼らが狩る時、人々は死ぬ。
アート:Lucas Graciano |
グリゴリーは母の手首にナイフを押し付けた。母は動かず、身動きすらせず、深く眠っていた――長いこと。収穫祭の虐殺から二晩が(今や日にちの経過を追うのは困難だが)過ぎ、母はただ……眠っていた。目覚めようとしなかった。以前の母は、希望に満ち、自らの人形を彫って街路で燃やしていた。その後月が沈まなくなると、母の皮膚は傷だらけとなり、その内なる何かは今や壊れてしまっていた。
「イニストラードは耐える」 母はそう言っていた。天使が耳にしてもくれない、別の祈り。
そして数週間を経て、母は今も眠り続けていた。血色は悪く、痩せこけて。胸は呼吸に上下していた。自分の母親。
母の血が小さなガラスの碗に滴った。これまでの人生で自分が触れてきた何よりも――あるいは共に触れてきた何よりも――価値あるもののように思えた。だが自分のものではない。
扉の外に吊るされた布告は、その部分において実に明確だった。
『来たる素晴らしき歓喜の日のために、祝福と吉報あれ
皆様からの納税を心よりお待ちしております。祝祭の日まで毎夜、血液を一人につき一杯です。そのための器は惜しみなく提供致します。恩知らずな獣であるところの皆様が割ってしまわぬよう、魔法が施されていることにご注意下さい。代理の者が徴税に伺いますので、追い払わぬようご注意ください。そのような愚行の結果どうなるかは、ご理解頂けるかと思います。
皆様がお元気でお過ごしであることを願います。そうでない場合も、体調に関わらず血の提供をお願い致します。例外はございません。
謹言
イニストラードの絶対君主 オリヴィア・ヴォルダーレン』
彼は母の血液が器に滴るのを見つめ、ぼんやりと訝しんだ。オリヴィアは何のためにこのような布告を発したのだろうか。燃やされるとは考えなかったのだろうか。ここ以外のどこかへ逃げるとは考えなかったのだろうか。
ステンシア。
かつて彼はこの地を愛していた。その尖峰を、世俗的な空気を、伝統を。勿論、イニストラードの至る所に伝統がある。けれども適切で妥当だと感じるような伝統はステンシアのそれだけだった。ケッシグでは、狼男に取り囲まれているような気がするだけだ。ここでは、吸血鬼の存在は疫病の存在と同じように当たり前のものだ。
けれどその疫病がこんなにも変化してしまったばら、どう対処すればいい?
村人たちの中には、近隣の城で仕事を得た者もいる。彼らのために働くなら安全だ、そう言って。
だが仕事中に、その城の中で死んでしまったなら、家族はどうすればいい?
そして今、徴税が。ここの人々は、自分たちは安全だと思っていた――だがその忌まわしき場所で危険を冒して働く者ですら、血を提供しなければならない。
もはや、何ひとつ正しいとは思えなかった。
グリゴリーは母の血が入った碗を取り上げ、額に口付けをした。一滴も零れないように器の縁を指先で拭い、彼はそれを外へと持っていった。どこを見ても、死と空虚ばかりがあった。数週間前には、友人たちは家の外で蝋燭を点して歌っていた。あらゆる窓の中で似姿が燃やされていた。外に出れば必ず何人もの友人たちが笑みを浮かべ、酔って腕を組み、物騒な道で踊った。
だが今は、どの道も無人だった。ほとんどの者は仕事に忙しい――そして時々死んでいく。あの虐殺のように一斉にではなくとも、どのみち同じだった。このごろ、街路で見かける人々は全くもって人々などではなかった。
立ち去れる者は立ち去った、けれど何処へ行けばいいというのだろう。ステンシアの状況が悪化しているのは確かだが、あらゆる場所で状況は悪化していた。集めたわずかな情報によれば、もはや何処も安全などではない。この永遠の夜の中、休まる場所などない。月から隠れるには何処へ行けばいいというのだろう?
生気をくれる銀色の月光は今、世界を更に蒼白にするだけだった。
グリゴリーはその碗を、自らが一時間前に満たしたもう一つの隣に置いた。血だけでなく希望も失い、彼は弱弱しく腰を下ろして月を見上げた。
屍に群がる鴉のように、密集した黒い蝙蝠たちが銀の月を横切った。そして同じく鴉のように、それらは何かを運んでいた。白と赤の線が走る、華麗な黒色の封筒。蝙蝠たちが頭上を通過していくとそれが見えた。
数匹が群れから離れた。二匹がまっすぐに彼へと向かってくると、碗それぞれの前で止まった。そして彼の血と母のその碗を小さな口で掴んだ。一瞬、グリゴリーはそれらを殺そうかと考えた。首を折ってやるのは間違いなく簡単なことだろう。
だがその日のうちに(果たして「日」だろうか?)、それらはまた自分と母のもとにやって来て、何も変わることはないのだろう。自分たちふたりが死ぬ以外には。
イニストラードは続いていくのだろう、死にながら、死ぬことなく。
蝙蝠たちは飛び立った。
グリゴリーはその姿を見つめた。
そして母の世話のために彼は戻っていった。
母は熟睡していますように。願いはそれだけだった。
アート:Ilse Gort |
エーデリンは生まれてこの方、闇というものを熟知してきた。邪悪というものを熟知してきた。教会に初めて受け入れてもらった未熟な十二歳の頃から、人類を獲物とする存在を打ち倒すために生きてきた。
決して簡単なことではなかった。
だが、これよりは簡単だった。
吸血鬼の心臓に剣を突き立てながらも、勝利の喜びはごくわずかだった。少なくとも、これは二度と殺すことはない。その思考に羞恥がすぐに続いた。今のこの行動は必要不可欠なのだ――以前にもまして必要不可欠なのだ――けれど同時に不毛な仕事でもあった。そしてそれは彼女の内なる何かを喰らっていた。
それでもそれは自分が他者に向ける顔ではない。皆、不屈の英雄を期待している、白馬の騎士を、正義という言葉が忘れられて久しい世界における正義の標を。皆、光を求めているのだ。
だがそれは、エーデリンも同じだった。
吸血鬼が地面に倒れると、すぐに光が続いた。チャンドラの炎がその身体全体をのみこんだ。橙色の輝きの中、友と目が合った。
全員のために、エーデリンは勇敢な表情を見せた――だが今、自分の様子を見ているのはチャンドラだけだった。
エーデリンは肩の力を抜き、眼に疲労を浮かべた。夜の闇の中、チャンドラの炎は月よりも眩しかった。
大丈夫かと尋ねる言葉はなかった。二人ともその質問は無意味だとわかっていた。代わりに、チャンドラはエーデリンの肩を掴んだ。
「あのさ、あのへんの古い家でワインを見つけたんだけど。そのくらいもらってもいいんじゃない?」
これほどのことが起こりながらも、チャンドラの声には今も輝きがあった。以前よりは暗いが、それでも輝いていた。エーデリンはほんの少しの間、それに身を任せた。
「話し合いの後まで待つ必要がありそうです。ですがその話、乗ります」
吸血鬼の残骸が目の前にくすぶり、焼けた肉の悪臭が鼻をついた。エーデリンは剣を収めて風上を向いた。そこかしこで、この寄せ集めの部隊は戦っていた。何人かは彼女のように武器を用いて、古き血吸いが支配するグールや下僕と戦っていた。何人かは哀れみを用いて戦っていた。術師デイダミアたちが病人や怪我人を、あまりに多くを見てきた者を、あまりに多くを負ってきた者を世話していた。魔法でもその病の全てを癒せはしない。
だが正しい行いをするというのは、試してみるということだ。
これは今週、彼女たちが開始した五度目の反撃だった。一人の少年が、この終わりのない夜と戦う者たちの存在を耳にした。吸血鬼たちがカロの村に降下すると、彼は石で足を切りながらも駆けた。彼が最初に目にしたのはアーリンだった。今、彼はアーリンに見守られながら話を聞き、魔女のひとりから手当を受けていた。アーリンがまとう革には血が乾き、少年のためにシチューを杯に注ぐ様子を奇妙に引き立てていた。
エーデリンとチャンドラが近づいてくると、アーリンは顔を上げた。彼女は少年に頷いてみせ、元気づけるように微笑むと二人に向かっていった。テフェリー、ケイヤ、デイダミア、そして魔女や怪物殺し代理たちがついてきた。大きな部隊ではない。たった二、三十人の、人類の守り手。それでも獰猛な戦友たちだった。もう二百人ほどが森の中に残っていた。家を失ったものたちは行くべき場所を必要としている。
「どうでした?」 アーリンが尋ねた。
「怪物は全部倒したわよ」 チャンドラが答えた。
エーデリンが頷いた。チャンドラがそのように明るく言ってくれたことが嬉しかった。「村を再建するには時間がかかるでしょうが、彼らは安全です。少なくとも今夜は」
「ありがとうございます」とアーリン。「私たちにできることをしましょう。ケッシグ人は一日で家を建てられるのが自慢です。一、二週間あれば、住む所は沢山できるでしょう」
口に出していないことは多かった――まず、その村人たちはその長さを生き延びねばならない。この究極の闇の中での建築はとても困難だろう。何かが建つ以前に倒れる者はもっと沢山いるだろう。
だが今は疲れきっていた。疲れ切って、とてもそのようなことは考えられなかった。エーデリンの言う通り、自分たちはできることをするのだ。自分たちを必要としている村は他にもある。
「話し合いをするのですか?」とエーデリン。
アーリンは急ごしらえの野営を指さした――村の焚火台を取り囲んで、平らにされた切株と手製の長椅子が並んでいる。戦士たちは一人また一人、席についた。何故か、最も小さな二人用の長椅子が、彼女とチャンドラのために空いたままでいた。ケイヤの仕業だろう、彼女はにやりと笑っていた。
まあいい。議論する気はなかった。エーデリンは腰を下ろし、膝の上に剣を置いた。「それで……」
全員の目がアーリンへと向けられた。この永遠の夜に、そしてトヴォラーとの戦いに彼女を駆り立てた何かに、アーリンもまた消耗していた。このような話し合いの外では、エーデリンは彼女の内に人間よりも狼を見ていた。だがこの時アーリンが発した溜息は、正真正銘人間のそれだった。
「歌も踊りもなしです」とアーリン。「この現状を続けていくことはできません」
「ですが、テフェリーさんの時間魔法なら?」 エーデリンが尋ねた。「きっと……」
テフェリーは唇を噛んだ。彼は不実な月を見上げ、そして向き直った。「残念だが、私にできることは多くない。イニストラードの太陽系は複雑なものだ。月をその場に留める魔法は古く、この次元のための特別製だ」 彼は肩を落とした。「この次元の生態系を荒らすことなくそれを行う方法を理解できたとしても、今の私の力では足りないだろうな」
「独力でできることを超えてるわよ」とケイヤ。「私はむしろ別のやり方を提案したい。力を合わせてそっちに取り組むべきだと思うの」
「どういう事ですか?」 エーデリンが尋ねた。「私たちは既にこうして集まっていますが」
「そうです。ですが私たちの一団は、ほとんどが人間で構成されています」 アーリンが説明した。そしてその通りだった――二、三体のウルフィーを除いて、全員が人間だった。それは当然ではないか? エーデリンは説明を求めてアーリンを見つめた。すぐに返答があった。「永遠の夜の影響は人間だけに留まりません。この状況がそのまま続いたなら、吸血鬼の食料はやがて尽きます。恐らく十年もすれば、この次元は食い尽くされてしまいます。かつて、吸血鬼の中にそれを悟った者がいました。彼に接触する必要があります」
チャンドラは不安そうな笑い声を発した。「ねえ、冗談でしょ」
「チャンドラさんの言う通りです」とエーデリン。「ソリン・マルコフのことを仰っているのであれば、先日の彼は全く協力的ではありませんでした。それが何故、今変わるというのですか?」
そう尋ねられるのはわかっていた――彼女はその問いを長く放置はしなかった。「何故なら、あらゆる物事が変化したからです。それを置いても、月銀の鍵を奪ったのはオリヴィア・ヴォルダーレンです。あの女性の計画について何か知っている者がいるとしたら、彼でしょう」
「それと私が聞いた噂が本当なら、今頃ソリンは腹の底からオリヴィアを憎んでるはず」 ケイヤが付け加えた。一瞬を置いて彼女は続けた。「それはステンシアの住民全員にも言えるわ。オリヴィアは全員に器一杯の血の寄付を要求してるって」
「何かを準備しているということですね」 エーデリンが頷いた。「ですが何故ソリンに尋ねる必要が?」
「他に方法はないからだ」とテフェリー。「ソリンは不機嫌だが、常に現実的だ。自己中心的な次元の守護者というものをよく知る者としては――」
「長くなるなら簡潔にお願い」 ケイヤが割って入った。
「ソリンを長いこと知る者としては、彼に接触するべきだろうと思う。確かに、彼が機嫌を損ねるのはこれが初めてではない。むしろ、不機嫌でない彼に会った試しがないな。だが少なくとも、ソリンはオリヴィアの計画を教えてくれるはずだ」
「あの鍵を取り戻さない限り、何も解決なんてしないわ。その手掛かりを持っていそうなのはソリンだけなんでしょう」とケイヤ。
それは理にかなっていた。それでも、エーデリンには納得できない理由があった。「アーリンさん。前回会った時、あの吸血鬼はシガルダ様と戦っていました」
アーリンの顎の筋肉が強張った。「わかっています。それは……私にとっても簡単ではありません。ですが羊の群れの一部がはぐれても、狼に襲われるのを放ってはおけません」
「彼は羊ではありません」とエーデリン。「そして貴女は狼です」
皮肉な、訳知りの笑みが向けられた。「つまり私は狩りについて、そして羊の群れについて幾らか知っているということです。エーデリンさん、一緒に来て頂ければありがたいです――けれどここに留まるというのであれば、反対はしません」
何が正しいか、エーデリンは判っていた。しばしば、単純な物事が最も苦しい物事となる。聖戦士たちは時に、伝言を正しく届けるために重すぎる剣で訓練を行う。最初に取るべきは暴力的な手段ではない。殺すことを決して簡単だなどと感じてはいけない。
もしもあの吸血鬼に接触できるなら、やってみる価値はあるかもしれない。
チャンドラの視線が向けられ、返答を待っているのがわかった。「私も行きます。アヴァシン様が彼の内に少しでも残っているのであれば、耳を傾けてくれるでしょう」
その後、集合して出発しようという時、カロから来たあの少年が間に合わせの天幕の外で待っていた。彼は足に包帯を巻き、大きすぎる拾い物の鎧を着込んでいた。その前面に描かれたアヴァシン教の紋章は、彼の身長ほどもあるように思えた。少年が連れて来た一匹の豚が――ゆうに馬ほどもある巨大な豚が――近くの地面に鼻を鳴らしていた。
「僕にできることはありますか?」 少年はそう尋ねた。
エーデリンは膝をついた。「もう沢山力になってくれましたよ」そして鎧の隙間から、彼女は木の枝と蝋燭で作った印を取り出し、それを少年の首にかけた。「無事にお家に帰ってください。それが一番です」
《不笑のソリン》 アート:Martina Fackova |
イニストラードは耐える、その言葉が伝わっていた。だが窓の外を見れば、それがいかに無意味かがわかる。イニストラードがこれを耐える方法はない。
ソリン・マルコフはそれを確信していた。
何世紀も前からそう確信していた。達観しつつあった。彼はその真実を、祖父によって吸血鬼化してからそう経たずして見出した。もしも吸血鬼が一体も死なずにいたら、そして各吸血鬼はひと月に一度食事をし、その際にしばしば、「提供者」――これは控え目な表現だが――を殺してしまう。そして人間が生まれるまでには九か月かかり……
いや、いい。計算は無意味だ。
病死する、吸血鬼化する、狼男に食われる、そういった人間を数えずとも――破綻する。イニストラードが耐えるためには(当時既にその言葉は存在していた)、吸血鬼の増加数を厳しく制限するか、人間の存続を確かなものにしなければならない。
当時まだ若かったソリンは、その発見を祖父へと提示した。エドガーはその少年の錬金術への興味を長く育んできた。全てをはっきりと示したならきっと、自分は致命的な過ちを犯したと祖父は気付くだろう。
エドガーは若きソリンの言葉へと真剣に耳を傾けた。それだけでなく、あらゆる箇所で彼は洞察深い質問をした。二時間で、ソリンはその説明を準備してきた以上の世界を学んだ。祖父はソリンの根拠の全てに新たな光を投げかけた。
「ソリン。これまで私が同じ考えに至っていなかったと本気で信じているのかね?」
「ですがおじい様」 ソリンは反論した。「そうであれば、何故このようなことを続けるのですか? 未来は不明瞭ではありません。不死者として、私たちはそれに顔を向けねばなりません。イニストラードは耐えなければ――」
「イニストラードは耐える。だがそう口に出して言う必要性を感じるのは農民だけだ」 祖父は言い返した。「計画するための時間は永遠にある――あるいは永遠に近い時間が。解決策はそれ自体が示してくれるだろう」
「おじい様、時間はありません――」
「むしろ逆だ。お前は歴史という綴れ織りの、ほんの一部を見ているに過ぎない」 エドガーは羽ペンを取り上げるとインクに浸した。続いて羊皮紙に書かれたそれは、棄却を意味した。
ほんの一部。
彼は祖父の助言を受け入れた。解決策は自ら現れるだろう。彼は大局を考え、即座の先を見た。その考えは何処に向かおうと脳裏に残り続け、年月を経るごとに入り組んでいった。
更なる大局が形となるまでに六千年を要した。だがひとたび把握すると、それは明確かつ正しく思えた。もっと早くこの結論に至っていればと、自らの愚かさを感じた。人間は庇護者を必要としている。彼はそれを与えた。
言うまでもなく、その頃には同類の吸血鬼たちはこの次元を飲み尽くそうとしていた。イニストラードを救うのは緊急を要する事態だった。
だが彼は挫折を悟った。庇護者も挫かれた。今、この場所で呼吸をするだけで、苦々しさが満ちた。
心のどこかで彼は訝しんだ。祖父はアヴァシンを見越していたのだろうか、やがて訪れるその失墜も見越していたのだろうか。実際、エドガーは全てを考えていた。そして誰よりも孫についてよく知っていた。祖父はこの永遠の夜を見越していたのだろうか? それが吸血鬼の数にどう影響するかを知っていたのだろうか? 人間の数にどう影響するかを知っていたのだろうか?
ソリンはこのために人生の全てをかけて備えてきたわけではなかった。
当初、彼は監視者としての役割を受け入れた。自らの傷を舐め、館に籠り、全てが展開していく様子を見つめた。暴食の果てに何が起こるかは自分だけでなく、誰もが知っているのだ。
だが吸血鬼たちから最後に失われるのが切望だとしたら、最初に失われるのは自制だ。ソリンの計算によれば、この次元の全ての人間が吸血鬼や狼男や幽霊と化す、あるいは単に死ぬまでには数か月とかからない。
祖父は長く眠りすぎた。この事態に対する考えがあるとすれば、今こそ話をする時だろう。
ソリンはマルコフ荘園の階段を下っていった。裏切り者の弟子ナヒリとの短い戦いにおいて、この場所の多くは荒廃したが、地下深くに埋まっている一家の書庫はほぼ無事だった。ねじれ浮遊するナイフの刃が脇によけ、優雅な白いアーチと滑らかな階段が続いた。ここでは霊炎が眩しく燃えている。階段に埃は積もらず、空中に塵も舞ってはない。ソリン自らこの場所に魔法をかけたのだった。今日イニストラードの全てが崩れようとも、この書庫は自分たち自身の愚かさの証として残るのだろう。
書庫に書物が収められているのは言うまでもない。まず彼を出迎えたのは、この次元の知啓が注意深く分類された収蔵物だった。祖父の日誌は特別扱いをされており、金張りの表紙で閉じられ、澄んだガラスの箱に展示されていた。三つの書棚にはソリン自身の日誌が収められていた――彼は積極的に読み返しも、書きもしなかったが。将軍、錬金術師、聖戦士やアヴァシン教の司祭までの回想録が、本棚のそれぞれの場所から彼に視線を返した。
私たちを救ってください、彼らはそう言っているように思えた。
自分に向けられたその言葉を幾度聞いただろうか。彼は疲れていた。他者の問題に、他の次元を守ることに、この終わりのない人生の間に織り上げてきた広大で複雑な網に疲れていた。イニストラードは――少なくともイニストラードについては理解していた。この地を回復できると思った。一家を正常な状態に戻したなら、表に出て今一度他の次元にも対処できるかもしれない。
私たちを救ってください、彼らはそう言っていた。
やっている。そう言いたかった。
書物の先は肖像画、彫像、武器庫だった。彼は立ち止まって同胞の作品を吟味することはせず、白色の石材から成る細長い広間を進んだ。イニストラードは耐えるだろう。自分を決して受け入れなかった家の記憶に身を委ねたいと思ったなら、それは後でいい。
棺はもうすぐだった。
長老たちは周囲の世界に飽きると、しばしば眠りにつき、世界が異質に変化して真新しく思えるまで待つ。自分ももしありふれた吸血鬼だったなら――イニストラードを離れる能力を持たない、ただの不死者だったなら――ここでそうしただろう。だが常に彼らを見守らねばならない者がいる。そして明らかに、ソリンが常にそれだった。
ソリンは彼らに憤っていた。自分は隠れはせず、この墓所の冷たい静寂の中に身を置きはしない。彼は棺の上のそれぞれの名前を睨みつけ、何故出てこられないのかと内心問いただした。この全てを招いたのはお前たちの退廃からだというのに、まだここで眠っている――あるいは夢すら見ている――自分がお前たちの後始末をしている間に。
彼は疲れきっていた。
自分の棺もまた、そこにあった。馬鹿馬鹿しい物体。眠ることはできるという保証。
これを壊してしまわない理由はただひとつ。祖父がそれを見たら、大人気ない癇癪の産物だと言うだろうから。
先へ。祖父はこの通廊の最深部の霊廟に、巨大な石の扉に守られて眠っている。しばしば、エドガーはささやかな呪文のために目を覚ました。そういった場合に備えてソリンは書物を置いていた――イニストラードの現状を例示するであろうものを。時に、助言が必要となった時には、ソリンは祖父を起こすことすらあった。ふたりは死者の応接間で話し、それが終わるとエドガーは再び眠った。その時間はいつもソリンに、子供のようだと感じさせた――だが祖父の助言は一度たりとて期待を裏切らなかった。
《運命的不在》 アート:Eric Deschamps |
諦めとともに、彼は霊廟へと踏み入った。祖父はソリンが用意した巨大な棺の中で眠っているか、あるいは荘厳な机で書物を読んでいるか――だがそうではなく、中には何もなかった。
彼を出迎える彫像はなかった。机も、椅子も、置いたままの空の茶瓶すらも。祖父の蔵書が置かれていた本棚の跡が、埃に残っていた。
だがそれも、部屋の中でも最大の欠如には比べられなかった。棺そのものが失われていた。
心臓に憤怒が燃え上がった。しばしばそうなるが、それでも燃えるものはわずかしか残っていなかった。笑うことしかできないくらいには。
当然だ。昨日、彼はここを離れた。自らの目で、何が起こっているのかを見たかったのだ。
当然だ。その隙に何者かが入り込んだのだ。
彼は鼻をつまみ、どうするべきか考えた。その時だった。翼の羽ばたき音が聞こえ、館の中の空気が動くのを感じた。何者かがここにいる。一人ではない侵入者が。
彼は振り返り、その音を掴んだ。一体の蝙蝠、そう感じた。彼はためらいなくそれを握り潰した。見ると、手の中には、今やその血で汚れた一枚の封筒があった。
『我が愛しき、最も大切なソリン・マルコフへ 一生忘れないこの日のために』
その筆跡は知っていた。
封筒を握り潰さずにいるためには、数世紀分の忍耐を必要とした。彼はそれを開いた。
中に書かれていた言葉は彼の機嫌を全く直しはしなかった。何ということだ。これまでの憂鬱が新月の闇だとすれば、これは空から月が奪われて二度と戻らない闇だ。
彼は霊廟の隅へと蝙蝠の死骸を投げ捨て、階段を駆け戻った。他にも侵入者がいる、それを感じた。もしもその者たちがこの馬鹿げた物事に関わっているなら、まだ……
「気を付けて。その本は人間の皮で装丁されているから」
その声が響いて届いた。女の声。覚えがあるが、かろうじてだった。あの者たちが書庫にいる。ソリンが辿り着くと、彼女らは読書机を取り囲むように立っていた。何人かは知っていたが、新顔もいた。旅の途中にはぐれ者を追加したようだった。機敏な視線に鋭い笑みを浮かべた盗人らしき女。何か恐ろしいものを見たかのように、手を宙に挙げる紅蓮術師。そしてソリンの視線はテフェリーで止まった。相変わらず陽気な様子で、笑みを隠していた。テフェリーはいつもソリンを当惑させた。歴史の全てを見ることのできる、あるいはこんなにも簡単に笑みを見せる者に会うのは稀だった。あの狼、アーリン・コードは腰に手を当てて諭していた。そして最後尾に、あの聖戦士がいた。
全員が自分の書庫に、自分の家族の書庫にいて、イニストラードでこれまで書かれた中でも最も重要な書物を前に、子供のように振舞っている。無論、それは人間の皮で装丁されている。他に何がある? ここに初心者の作品は置いていない。
この全員を操って追い出そう、血を支配して立ち去らせようとソリンは半ば考えた。だが心の一方では――歳経て、辛抱強く、自分の惨状を把握している――彼らは理由があってここに来たに違いないと理解していた。
「ここに侵入した理由を言え、一分以内にだ」 彼は低い声を轟かせた。
気付いていなかったのだろう、ほぼ全員がはっとして顔を向けた。アーリンとテフェリーは例外だった。テフェリーの相変わらず寛いだ様子は苛立たしかった。何ひとつこの男を困らせはしないようだった。もっと悪いことに、あの狼の両目はソリンが持つ手紙に気付いた。
「私たちがここにいる理由はおわかりかと思います」 彼女が言った。「ですが質問させてください。それは何ですか?」
返答を拒否することもできた。だが実際――認めたくはないが――この女の言う通りだった。ここにいる理由はわかっていた。永遠の夜は、この女が心から気にかける人間たちにとって暗い先行きなのだ。言うまでもなく、今一度自分の助力を求めて来たのだ。
そして、正直に言うことが肝心であるなら……
彼はその手紙を卓に投げた。あの盗人がひったくり、紅蓮術師がその肩越しに覗き込んだ。まるで子供のように、後者は驚きを隠さなかった。
《結婚式への招待状》 アート:Justyna Gil |
「招待状だ」
「招待状?」 アーリンが繰り返した。彼女もまた、内容をよく見ようと身体を寄せた。だが今や、他の者たちが野次馬となって視界を塞いでいた。
「結婚式の招待状だ。オリヴィア・ヴォルダーレンの結婚式への」 彼は毒を込めてその名を発した。「あの女は私の祖父を奪った。もし二人が結婚するなら、吸血鬼の家系でも最大のものが形成されるだろう。二人は――あの女は――イニストラードの全てを支配する」
アーリンは紅蓮術師から手紙を奪った。そしてそれを読む様子を――顎が動き、ソリンが嘘を言ってはいないと理解する様子を――彼は見つめた。
そして驚くべき決意を宿し、彼女はソリンを見つめた。「結婚式をぶち壊しに行きましょうか」
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)
Innistrad: Crimson Vow イニストラード:真紅の契り
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