MAGIC STORY

タルキール:龍嵐録

EPISODE 12

サイドストーリー ティムール:共に生き抜く

K. Arsenault Rivera
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2025年3月14日

 

 時に、織り上げられたものは引き裂かれる。時に、引き裂かれたものは繕われる。繕われたものは、素人目には、継ぎ目などないように見えるかもしれない。

 だが、物事の真実を見る目は常に存在するのだろう。

 氷を抱く山々の上空に舞い、ウレニは世界の糸が鮮やかな青色に脈打つ様を目にした。それらが絡み合う様を見つめた。青色は眠るティムールの人々を包み込み、家族から家族へと跳ね、彼らの手首や喉、舌を縛っていく。染料のように彼らの皮膚の下に染み込み、残酷な痕跡を残す――死が迫りくる中、彼らの目は開いたまま。

 ウレニは地面へと急降下し、その歯で糸を噛み千切ろうとした。けれど効果はない――その青色は力強い顎の中で消え去り、最も深い霜の冷気だけが残った。

 破壊された野営地に雪が降る。屍だけが見つめる火に、解体されかけの獣の死骸に、決して目覚めることのない人々を守る瑞々しい草の屋根に、そしてその中心で夜を徹して見張りを続ける龍に。

 早朝の厳しい寒さの中、ウレニは吼えた。何が起こっているのかを、何が起きつつあるのかを、そしてこれから何が起こるのかを。


 龍爪のエシュキは観衆へと吼え、観衆もそれに応えて吼えた。朝の清い風がレスリングの試合場を吹き抜ける中、肌にまとわりついた冷たい雪がきらめくような痛みを残す。心臓の鼓動、白く吐く息、両腕にできつつある痣、折れた鼻から流れる血――彼女は生きていた。輝かしく、素晴らしく生きていた。そしてその生は、興奮する人々の歓声となって自分へと返ってくる。

 自分たちの領土を取り巻く土地は、他の氏族でも簡単に征服できる場所だ。それらに囲まれて、ティムールは生き延びるだけでなく繁栄してきた。祝祭の律動を刻む太鼓、汁気に富んで美味な燻製肉、毛皮を染める鮮やかな色彩、すべてがその事実の証だった。

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アート:Ben Wootten

 そして、エシュキほどそれを誇らしく思う者はいない。

 もがく対戦相手を彼女は頭上高くに持ち上げた。この宿営地で二番目に大柄な格闘家。正面から攻めれば圧倒できるとこの男は想定したのだろう。だが絞め技で勢いを削がれるとは想定していなかった。エシュキは横に避けると腕を相手の顎の下に回し、頭部をきつく固めた。そしてよろめき始めたところで、エシュキは獲物を掲げる狩人のように彼を頭上に持ち上げたのだった。

 「全力を尽くすって言ってなかったか?」笑みを浮かべながらも、これが長くはもたないと彼女はわかっていた。相手は既に蹴りを入れ始めている。力の誇示も、長く続けすぎたなら愚行となる。

 エシュキはこの優位を無駄にするつもりはなかった。皆が笑みとともに見つめ返しているのだから。試合場のすぐ脇でレスリングをしている子供たちもいた。彼らがまとう厚い毛皮の服は、粉雪とともに十分に衝撃を吸収してくれる。彼らの紅潮した頬は、小さな勝利の喜びに輝いている。

 エシュキは片足を軸に半回転し、その勢いを利用して相手を粉雪の中に投げ飛ばした。だが男の両目の炎はまだ消えていない。肩で着地すると彼は転がってエシュキのふくらはぎに手を伸ばし、体勢を逆転させて彼女を掴み、引き倒そうとした。

 勇敢な動き。だがそれでは――

 「やった! パパ、龍爪さまを捕まえて!」

 エシュキの耳がぴくりと反応した。この男の子供が観衆の中にいる? ふむ、それは……ちょっと状況が変わってくる。

 男はエシュキを強く引っ張り、彼女は雪崩のようにその上に倒れ込んだ。相手もそう穏やかではない。数秒のうちにふたりは互いに掴みかかろうと雪の中を転げ回っていた。腕を掴まれようとしたところで、エシュキは肩と肘を張って抵抗した。あとどれくらい耐えられるだろう?

 娘からの応援がもう一度聞こえるくらいは。

 嵐のような速さでエシュキは四肢を振り回し、再び転がった。何が起こったのかを男が気付く前に、彼女は相手を押さえつけていた。

 エシュキは息を吐いた。脳内で十まで数えると彼女はその顔に再び笑みを浮かべ、立ち上がって手を差し出した。

 「手強かったぞ」

 一瞬、相手はこの申し出を受け入れるだろうかと彼女は疑問に思った。受け入れない者もいる。時に矜持はどのような龍よりも恐ろしい――そしてそれを殺すのは龍よりもはるかに難しい。だが自分を見上げてくる表情には、非難ではなく賞賛があった。

 「龍爪様。来年は勝ってやりますよ」

 彼の娘が駆け寄ってくると、エシュキはその頭を撫でてやった。「勝つのはお前かもしれないけど、もしかしたらこの子かもしれないな」彼女はそう言った。「もっと強くなって再戦したいっていうなら、俺は喜んで戦うよ」

 「エシュキ!」

 その声。アルニウル? エシュキは声の方へと振り向いた。案の定、その二度囁く者は試合場の端に立っていた。けれど一人ではなくその横には狩人がいた。赤く縁取られた両目と分厚い肩は幾度もの戦いを語っている。その背中には一頭の雄鹿が背負われていた。それも大きなもので、無駄にしなければこの共同体を一週間養うには十分すぎるほどだ。

 エシュキは心臓が凍りつくような気がした。何かがおかしい。音楽が止まっている。普段であれば、これほどの収獲を祝っているところだ。

 「アルニウル!」彼女は前に踏み出して呼びかけた。「何があった?」

 「何か恐ろしいことが」古い友人は答え、狩人の肩に片手を置いた。嫌悪感を隠さず、狩人は獲物を目の前に放り投げた。

 雄鹿の両目は明るい青色に染まっていた。そしてその青色は鹿の身体に沿って、まるで山から流れ下る水のように走っていた。

 「エシュキ」アルニウルは言った。「ウレニ様と話をしなければならぬ」


 移動しながら、アルニウルは耳にした物事をエシュキへと話した。死体、そしてそれらを染める青色。その青はあの雄鹿を差し出した狩人の静脈に既に触れていた。

 「これが他氏族からの呪いの類であるならば」アルニウルは言った。「我らにいかほどの時が残されているかはわからぬ。唯一の慰めは、真夜中に起こったということだ」

 その中に、ひときわ恐ろしい事実がひとつあった。それでもエシュキが真実を耳にして恐ろしさに黙り込むことはない。「そいつらの目は開いてた、って言ったな」

 アルニウルは黙った。しばしばそうであるように、山々を吹き抜ける風がその答えだ。今日は食事を求める狼の低く鳴く声が聞こえる。

 「怖れているんだな」エシュキは言った。

 どの村でも、最も賢いのはその村に属する囁く者であるとしばしば言われる。だが知恵には様々な形があり、エシュキにも独自の知恵が沢山あった。

 エシュキの言葉は少しの間そのまま浮遊し、やがてアルニウルは答えた。「従兄弟がその篝火で食事をしていたのだ。ずっと戻りたいと思っていた。そのようなことは通常、囁く者には許されぬ。だとしても、戻りたいという気持ちが薄れるわけではない」

 自分たちが共に経てきた戦いをエシュキは思い返した。アタルカとその群れは、簡単には支配を明け渡さなかった。苦難の果てに得た勝利の血にまみれながら、エシュキは何度となくアルニウルに明晰さと堅固さを見てきた。

 あの頃、安らぎをくれたのもアルニウルだった。汚した手を清めてくれたのもアルニウルだった。そもそも何故戦うのかを思い出させてくれたのもアルニウルだった。

 エシュキは囁く者の肩に手を置いて言った。「すまなかった。歩きながらでいいから、そいつらのことを話してくれないか?」


 龍爪と二度囁く者。肉体と心。生意気さと思慮深さ。ウレニの森に近づくふたりはこれらすべてであり、そしてそれ以上のものだった。ふたりの上には、これまでに去来したすべての人々の顔が重なり合っている。苦闘によって鍛え上げられた、かすかな顔また顔の幻。ウレニは彼らの名前を知らないが、それでも顔とは記憶に残るものだ。そうあるべきなのだ。

 エシュキは頭を下げたが、アルニウルはそうしなかった。爪を一振りしてウレニはふたりに清い水を差し出した。共にふたりはひざまずき、その水を飲んだ。見つめていると何と印象的であることか――音は立てずとも、すべての動作が調和している。ひざまずき、屈み、手を水に浸して、飲む。そのすべてが揃っていた。

 龍の胸に安堵の花が咲いた。まだすべてが失われてはいないのかもしれない。

 「迫りくるものを目にしたのだな」ウレニが言った。

 「我らは見ました」アルニウルが答えた。「そして怖れております。ウレニ様から何らかの導きを得られることを期待しておりました。これは疫病なのでしょうか、それとも何か、更に悪しきものなのでしょうか?」

 「誰がこんなのことをしたのかを教えてくれないか」エシュキも尋ねた。「そうしたら、山から追い出してやる」

 誠実さ。情熱。共感。そのどれも、最も高い木の根のように深い。そんなふたりであれば……ウレニは願った。耳を傾けてくれることを願った。

 「最も勇敢なる戦士らよ、今は抑えよ。これは暴力で解決できる問題にあらず」ウレニはまずふたりに向けて、そしてアルニウル個人に向けて言った。「これは我が導きを与えられる問題にあらず。そうであれば、どれほど良かったであろうか」

 エシュキは歯を食いしばり、だがアルニウルは両目を見開いて身を乗り出した。「原因が分からないということですか、それとも我ら自身で見つけ出さねばならないということですか?」

 ウレニは一本の鉤爪で水入れの水を渦巻かせた。

 「この問題の解決策は与えられるものではない。学ばねばならぬのだ。そして其方らふたりは、常に優秀な学び手であった」

 「それが何なのかはわからないけど、もう俺たちの民を沢山殺してる。なのになんでそんなよくわからない態度でいられるんだよ?」エシュキは反論し、一歩前に出た。他の者であれば恐怖に震えるのだろうが、今エシュキを突き動かしているのは怒りであり、守りたいという激しい欲求であることをウレニは知っていた。

 「そうでなければ、其方らふたりは決して解決できぬであろうからだ。其方らは必要なものを備えておる」

 エシュキはもう一歩踏み出したが、アルニウルが彼女の肩に手を置いた。「あとどれほどの猶予があるのですか?」

 龍が低くうなり、木々の果実を揺らした。ウレニが我が家と呼ぶこの森には常に生命があり、常に成長がある。それでもなお――まもなく、ここにもあの恐ろしい青色が辿り着くだろう。

 「二週間だ」

 アルニウルは頭を下げた。「ありがとうございます。時間を無駄には致しません」

 後悔するようなことをエシュキが口走る前に、アルニウルは彼女を連れ出した。ウレニはふたりが去るのを見守った――そして、ふたりが残す運命の足跡も。


 何をすべきかについては、ふたりは話さなかった。自分たちは氏族のために長いこと戦い続けてきたのだ。氷が水を知っているように、互いを知っていた。

 昔、人々は自身の運命に疑問を抱くことはなかった。龍たちは彼らが持つあらゆる想像力を踏み潰した。生き延びること以外には何の余地もなかった。多くの場合、手に入れたものは自分自身の生存のためには使えなかった――肉を発見したなら、それは自分の焚火ではなくアタルカの群れに捧げなければならなかった。氏族の人々の多くは、わずかな残り物で生き延びることを学んだ。

 機知に富まずしてその生を全うできた者はいない。そして、そのように生を全うした者は誰もそれを他者に負わせはしなかった。

 ならば答えは明白だ。ウレニが答えを与えてくれないならば、どこか別の場所で見つける。

 アルニウルが先導したが、この囁く者にとって山中の曲がりくねった道を進むのは容易ではなかった。両脚は焼けるように痛み、どれほど厚着をしても頬を冷気から完全に守ることはできない。その鼻先が今日まで残っているのは、ティムールの頑強さの証だった。

 大地の精霊たちと話をする場所は他にもあった。もっと簡単に辿り着ける場所が。澄んだ水が足元を流れる森の中の空地、大きな木陰、暖かな洞窟の中。これまでアルニウルはそういった場所で精霊たちと話をしてきた。

 けれど、今やらなければならないことはそうではない。

 これから話をしなければならない精霊たちは、穏やかで贅沢な死後に自らを委ねてはいないのだ。

 上へ、上へ。ひたすら高くへと登り、ついには息をするために大気と格闘しなければならなくなった。ここでは何もかもが容易ではない。決してそれを知ることのない者たちを思い、アルニウルの心は疼いた。

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アート:Sam Burley

 山の頂上に到達するとアルニウルはエシュキへと向き直り、ぎざぎざに尖った石の上に片手を置いた。おそらくアタルカの群れの、遥か昔に死した個体の歯だろう。

 「この向こうにあるんだな?」エシュキが問いかけた。

 アルニウルは頷いた。「申し訳ないが、ここからは私ひとりでやらねばならぬ」

 エシュキは反論しなかった。他の戦士たちは反論してきたものだった。他の囁く者たちや祖先からアルニウルは聞かされていた――剣の腕前が強い者と話す時は慎重に、落ちてくる直前の稲妻のように彼らの怒りを扱うべし、と。

 だがエシュキにそれは当てはまらなかった。当てはまったことなど一度もなかった。

 彼女はアルニウルの肩を叩いて送り出した。「俺たち全員をお前の毛皮に織り込んで行ってくれ」

 出発した時よりも少し暖かくなった風へと、アルニウルは顔を向けた。


 アルニウルは答えを求めて精霊たちに呼びかける。

 そしてそれを受け取る。

 伝えたいことはすべてそこにある。


 何時間も経ったように感じた頃、エシュキは背後で雪が踏み潰される音を聞いた。ようやく友が戻ってきたのだ――だがすべてが順調ではなさそうだった。アルニウルは一歩進むたびに左右にふらつき、篝火の石炭のように光が両目にまとわりついていた。

 エシュキは即座に動いた。神聖の領域から世俗の領域へとアルニウルを引き戻すとその片腕を自身の肩に回し、腰を支えてやった。アルニウルは弱り果て、自身の心に深い傷を負いながら山を下りはじめた。

 「雨とばり」呟いたその声はとても小さく、風にかき消されそうだった。

 エシュキは苦労して手に入れた食事のように、その言葉を受け止めた。「そこに行くのか?」

 アルニウルは頷いた。「私は見た……傷ついた一頭のトナカイ。そこで、その血が……地面に染み込み……木々の根が、鮮やかな青に」

 アルニウルの両脚が屈服した。

 だがそれは大きな問題ではない。ティムールは決して独りでは歩まない。自分たちは何世紀もそうしてきており、これからもそうするだろう。エシュキは旧友を抱え上げ、残る山道を下っていった。そして後にアルニウルが目覚めた時、彼女はそれについて何も言わなかった。


 気候が良い時であれば、山々から雨とばりの森までは一週間とかからない。それはティムールが食料を求めて巡る一年の営みの一部であり、ふたりとも物心ついた頃から年に二度、欠かさず旅をしてきた。

 だが今は良い気候ではなく、大地そのものがふたりに逆らっていた。草に覆われた小道を見つけ出してもどこにも通じておらず、雲は道標となる星を覆い隠し、踏み潰されるはずの雪は疲労という二重の代償を課した。

 旅の途中でふたりは村々に立ち寄った。無事かつ上機嫌な村もあった。彼らはエシュキとアルニウルを歓迎し、自分たちの篝火のそばに座らせて食事を共にした。あの青色の病はまだ彼らに触れてはいない。こうした宿営地では警告と、よりよい時代を願う言葉を残せば十分だ。長居する必要はない。

 けれど、すべての宿営地がそのように幸運というわけではない。

 ふたりが見つけたとある場所では、人々は既に死者の世話をしていた。彼らは笑顔ではなく警戒でエシュキとアルニウルを迎えた。何故このようなことが、愛する者たちの身に降りかかるのか? どうすればいいのか? 彼らは解決策と慰め、そして意味を探していた。

 世界が突きつけてくるものは、しばしば無意味だ。

 それでもエシュキとアルニウルはそういった焚火の傍に留まり、できる限りのことをして事態を理解しようとした。ふたりは葬送の歌をうたい、死者の行いを称え、質問に答えた。

 「二週間以内に終わるはずだ」エシュキはそう言った。

 「その間に死んだ者はどうなる?」村人のひとりが彼女に尋ねた。

 この質問に対する簡単な返答などない、エシュキはそれを十分に理解していた。そして彼女は陳腐な言葉はかけない。守れない約束もしない。

 「そいつらのことを思うと、俺の胸も痛む。毎日、夜の闇の中でそいつらのことを考えるんだろうな。そいつらのために、俺たちは眠れなくなるんだろうな」少しの沈黙。 「頼む。俺はできるかぎりのことをする」

 そのような会話が何度も繰り返されるが、次第に難しくなっていく。

 時には、もっと悪化することもある。

 「俺たちは救える限りを救う」エシュキはそう誓い、そして返ってくる言葉は。

 「何故そいつらを死なせておかない? そいつらは弱い。この病は我々からこいつらを排除するだけだ」

 そのような言葉を聞いたエシュキは、手を止めることができなかった。その危険と会話に注意を払わない話し手は、雪の中へと投げ出された。エシュキが相手に迫ると、その息は龍が吐く蒸気のように白くうねった。

 「俺たちは氏族を捨てはしない。俺たちはもう、あの龍たちが作り替えたものじゃないんだ」

 彼女が認める以上に、青色の病をそのように考える者は多い。けれどエシュキは投げる必要があるだけ投げ、詫びる必要があるだけ詫びた。

 苦しむ者たちを見捨てることはできない、たとえそのために、目的地に辿り着くまでに長い時間を要したとしても――エシュキはそう主張した。

 「生きてる奴も、死んだ奴と同じくらい大切なんだよ!」

 ふたりが辿り着いた最後の篝火は、とうの昔に燃え尽きていた。それを取り囲んで座る人々の身体には青色の筋が走り、霜で覆われていた。彼らは互いの肩に頭をもたせかけてうずくまっていた。

 家族全員が。

 エシュキは黙っていた。死体を並べる間も、葬送の間も。アルニウルが起きている間も、彼女は黙っていた。

 けれどその夜、エシュキは涙を流しながら、彼らの名前を記憶に焼きつけた。

 一人残らず。


 森がふたりの目の前に広がった。雪に足跡を長く残しながら、エシュキとアルニウルは近づいた。誇り高いエシュキの双肩でさえ、背負ってきたものの重さで丸くなっていた。古い友人同士の間にあるのは、見聞きしてきたものについての沈黙だけだった。

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アート:Jesper Ejsing

 その森でさえも慰めをくれはしなかった。樹冠の下に最初の一歩を踏み出しても、ふたりの前を駆け回る生物はいなかった。木々から降りてくる鳥の音も、頭上で羽ばたく音も聞こえなかった。狼の鳴き声も、遠くのトナカイの呼び声も聞こえなかった。

 ふたりの記憶にある限り初めて、雨とばりの森は完全に静まり返っていた。

 アルニウルの視線をエシュキは受け止めた。自分が偵察に行くから待つように合図すると、アルニウルは手を振って拒否した。共に行くのだ。

 エシュキは首を傾げた。そして前方の空間へと片手を振り、続いて一本の指を自身の静脈に沿わせた。危険だ。本当に一緒に来るつもりか?

 アルニウルは頷いた。

 ふたりは共に茂みを抜けていった。長旅のせいで足腰は参りかけ、精神は重荷に弱っていたが、アルニウルは目的を持って歩いた。あの山での幻視は自分たちが行くべき場所を明白に示してくれていた。白化した一本の木が目的地の目印だ。

 だが実際には、道を進むための予言の幻視はほとんど必要なかった。森に数歩入っただけで、ふたりは地面に伸びる青色の病の筋を見た。

 脈打つような頭痛をエシュキは覚えた。ひどい頭痛を。ハヤブサの視点で見ると、暴力的な青色に脈打つ流れや小川の広大な網の中をふたりは歩いていた。どのようにして、こんなにも早く状況が悪化したのだろうか?

 それを辿って根源に辿り着くまでに長い時間はかからなかった。その中心には、自然とそれが象徴するものすべてを侮辱するかのように、おぞましい青色が湖のように輝いていた。木々は灰色の葉を茂らせ、水は濁って泡立ち、生きている動物は骨と髄にまで痩せ細ったものだけだった。

 そしてそのすべての中心に、両腕を広げて横たわるひとりの男がいた。

 エシュキが見たこともないほどに、スーラクは蒼白だった。森に流れる青色はその男の内にもあり、そしてそれはエシュキの握り拳ほどの大きさもある胸の傷から流れ出していた。ふたりが近づいても彼は身動きすらせず、その両目は地平線だけを見つめていた。見えざる言葉を形作る唇の静かな動きがなければ、生きているとは思わなかっただろう。

 氏族を率いた先代。同郷の軍勢が見守る前で、エシュキがその肋骨を焼いた鳥のそれのように砕いてやった男。それでも彼を止めることはできなかった――戦いを終わらせるほどの傷を与える前にエシュキは鼻を折られ、片目に黒痣をつけられ、左腕を折られた。そして、エシュキは彼を軍勢の目の前で地面に押さえつけた。それが決着だった。

 「スーラク……?」

 沈黙を破ったのはエシュキだった。彼女は自分の身の安全も気にせず、駆け寄って彼の横に膝をついた。

 だが呪われた地面からスーラクの手を持ち上げようとした時、それができないと彼女は気付いた。あの青い糸が彼をそこに拘束していた。

 「なぜ来た?」スーラクは尋ねた。「俺から氏族を奪っただけでは足りなかったのか?」

 叫び声で言われた方がどれほど良かっただろうか。スーラクが発した囁き声は、まるで耳元に直接告げられたかのように森の隅々にまでこだました。

 「その質問はどういう意味だ?」エシュキは尋ね返した。「俺たちはティムールを救うために来た。この病気は……病気かどうかもわからないが……広がっている。俺たちの氏族が死につつあるんだ、スーラク。これはお前とは何の関係もない」

 エシュキは彼の身体の下に指を滑り込ませ、全力を込めて持ち上げようとした。効果はなかった――スーラクはびくともしなかった。

 「俺に手出しをするな、死にかけは放っておけ」スーラクは唾を吐き、エシュキの防寒具の襟を黒く染めた。「お前の助けなど要らん」

 炎のように、エシュキの血管に怒りが燃えた。彼女はスーラクを掴んで揺さぶり、その頭部を地面に打ちつけた。「それがお前の言いたいことか? 俺たちはこれを止めるために来たのに、お前は全員死なせる方がいいっていうのか?」

 「それこそがお前が理解していないことだ」スーラクは答えた。「すべてのものはやがて死ぬ。だが強き者はその強さの限り長く生きる。生き延びる術を掴み取れない者は取り残されるべきだ。すべての口を養うことはできない」

 エシュキは歯を食いしばった。彼女が再び口を開く前に、スーラクが視界の端で一瞥してきた。

 「俺がどう考えるかなど、お前は気にしないのだろうがな」

 エシュキは拳を握り締めた。何よりも、この男を殴ってやりたかった。自分は痛いほどそれを理解している、そう主張したい気持ちが心のどこかにあった。エシュキもまた、ティムールの氏族員全員と同じように、アタルカの群れの圧政の下で育った。けれど今やそれは過去のもの。どうして、そこまで固執する者が今なおいるのだろう?

 だがそれに答えたのはアルニウルであり、優しく彼女の手を握って制したのもアルニウルだった。

 「エシュキ、スーラク、どうか耳を傾けよ。これを解決するための残り時間は少ない。そして、解決するためには互いの協力が必要とされる。協力しなければ、この呪いは我らが知る者を悉く殺してしまうであろう」

 再び静寂が訪れた。そして今回それを破ったのは、かつて狩猟の統率者と呼ばれたスーラクが身体を起こすうめき声だった。彼はよろめきながら立ち上がり、肩が揺れた。息をするたびにその傷が青く輝いた。

 「お前たちがここに来たのは、俺を必要としたからだろう」

 エシュキが言い返した。「俺たちはティムール氏族全員を救うために来たんだ。この石頭が」

 アルニウルは顔をしかめた。「お前たちふたりに多くは求めぬ。ただ喧嘩は止めぬか。これが最後の機会だ。お前たちが協力できないとあれば、精霊に助力を求めねばならぬ。そしてお前たちふたりとも、精霊にそこまで至って欲しくはなかろう」

 同じ食料を見つけた熊のように、エシュキとスーラクは互いを見つめ合った。エシュキは彼の傷を見ないよう必死にこらえ、そしてスーラクは合わせた視線を外そうとしなかった。

 同時に、ふたりは互いへと進み出た。

 「いっつも邪魔しやがって。うんざりなんだよ」

 「俺もうんざりだ。お前は何であろうと自分で解決できるかのように――」

 アルニウルが両腕を広げてふたりの間に立った。その指先からは透明な霜の壁が二枚。互いの姿が見えないよう戦士たちを隔てる雪の帳。

 「この儀式について説明するのは一度だけだ」アルニウルが言った。「氏族は我らを頼りにしている。言い争う時間ごとに、更に多くが死ぬ。どうか耳を傾けよ」その言葉に、先に力を抜いたのはエシュキだった。そして賢明にも、自分がどれだけ興奮していたかを少し恥じるような仕草をした。彼女は肩を回し、頭をかいた。

 「……そうだな。悪かった、アルニウル。自分のことを優先してる場合じゃないな」

 「それはとてつもない変化だな」スーラクは鼻を鳴らした。「教えてくれ、囁く者よ。お前の友人が俺の称号を奪ってからというもの、俺はこの傷を胸に抱えている。お前の儀式によって、俺はまた戦って自分のものを取り戻せるのだろうか?」

 アルニウルは広範囲に渡る訓練を受けていたが、歴代の二度囁く者に比べたならその期間は短かった。先達たちと同様、アルニウルもまた秘密裏に教えを受けていた。アタルカの時代には囁く者となること自体が死刑宣告に等しく、公然と訓練を行うのは危険すぎたのだ。アルニウルのように繊細な者にとってはなおさらだった。これは自分が対処しなければならない、最も差し迫った問題になるのではないか? アルニウルはそう訝しんだ。なのに、何故このふたりは今なおいがみ合っているのだろうか。少なくともエシュキは一歩引いたとはいえ。

 「取り戻せるとは言い切れぬ。だが壊れたものを癒す試みを行わねば、戦う相手は骨だけとなり、お前の勝利を見る者も消えよう。以降お前は無意味な闘争の人生を送り、炎の温かさを知ることもない。本当にそれがお前の望みか? お前の力の全てを冷気に奪わせるつもりか?」

 スーラクの手が胸の傷口に伸び、だが触れることなく留まった。老戦士の指先に、アルニウルはかすかな震えを見た。この男は一体どれほどの痛みを感じているのだろう? それでもなお戦おうとしているとは。

 「スーラク、俺たちに力を貸してくれ、その後だったら挑戦を受けるぞ」エシュキが言った。「力を貸すのが先だ」

 スーラクはひとつ息を吸った。隠そうとはしたものの、エシュキとアルニウルはそこに辛そうな音を聞いた。「いいだろう」

 アルニウルはそれ以上言わずに待った。スーラクの気が変わるのではないか、あるいは自分たち三人が再び空地の中央に向かったなら、スーラクはエシュキを襲うのではないか――心の片隅にそのような心配もあった。そして自分自身がスーラクをそのように考えていることが、アルニウルの心を痛めた。

 エシュキもスーラクからの攻撃を予想していた。だがそれを自分が耐えていいのだろうか? もしスーラクが誰かを殴るというのであれば、その相手は自分であるべきだ。心を落ち着けた今、彼女はスーラクの傷を見つめた。指先がうずいた。あんなふうに化膿すると知っていたなら、絶対に……

 「アルニウル、俺たちは何をすればいい?」エシュキが尋ねた。待つよりも動く方がいい。何せ自分たちに残された時間はとても少ないのだから。心のどこかで、青く輝くこのすべての中心に座すのだとはわかっていた。彼女はそこに向かっていった。一歩進むたびに、靴底が地面に張り付いた。

 アルニウルも続いた。そして数歩でエシュキを追い越すと、青色の中心に足を組んで座した。

 「私の両脇に」アルニウルは言った。

 戦士たちは位置に着いた。冷たい風が森を吹き抜けたが音はなく、木々のざわめきもなかった。

 アルニウルはふたりの手をとった。スーラクはひるんだが、エシュキは違った。

 そして頭上を覆う果ての無い青へアルニウルが頭をもたげると、三人は歌い始めた。


 エシュキは、自分に歌の才能があると思ったことはなかった。彼女が泥酔して、ティムールにとって非常に大切な狩りと酒の歌に加わろうとした場に居合わせた不幸な氏族仲間も、誰ひとりとして思っていなかった。彼女の声はいつも鋭すぎて、調子取りも性急すぎた。けれど一緒に歌うと、時々、皆は笑ってくれた。それで十分だった。

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アート:Danny Schwartz

 だが今、雨とばりの森の奥深くで、十分かどうか彼女は確信が持てずにいた。アルニウルの声は鐘が鳴らされたように響き渡り、それぞれの音が朝の霜のような繊細な魔法を帯びていた。

 雪煙にぼやけた人影が空地の端に、存在しない炎を囲んで座り、飲み物や食べ物を分け合っている。若い戦士たちが互いを雪の中へと投げ、手を差し出して立ち上がらせる。子供が父親の肩に乗り、空から降る雪片を叩く。

 もし自分が話をしたら、すべてが台無しになってしまうのでは? だがアルニウルが向けてくる視線に、頷きかけてくる様子に間違いはない。アルニウルは自分に加わって欲しいと思っているのだ。

 少なくとも、台無しにするような言葉はない。こんなことをしているのは馬鹿げている、エシュキはそう感じた。馬鹿げていて、少し恥ずかしい。それでも彼女はアルニウルに負けまいと声を上げた。

 発せられる声が、唇から溢れ出る旋律が、アルニウルのものとまったく調和しなくとも。

 そして幻視が変化を始めた。

 幼い女の子が大きな影から全速力で逃げている。その顔は半分焦げており、他の子供たちのように笑うことは決してないだろう。

 飢えて痩せ細った男が、子龍の死骸をあさっている熊を見つける。腹を満たそうと自暴自棄に襲いかかり――熊に引き裂かれる。

 エシュキの声が震え始めた。これは……これは何だ? 何が起こっているんだ? 自分自身を落ち着かせようと、エシュキは過去に篝火での集いを台無しにしてしまった旋律のひとつを歌おうとした。だが出てくるのはひどい不協和音だけだった。

 腹の中が冷える。その冷気が喉へ、咽頭まで上がってくる。刺すような感覚は次第に悪化するばかり。

 雪の影が三人の周囲に数を増やした。歯と牙で身を飾った戦士たち、ありとあらゆる寄せ集めの材料で作られた武器。二十人以上が空地を取り囲むように立ち、エシュキとアルニウルが歌う様子を見つめていた。エシュキがこれまで見てきたどの精霊とも異なり、彼らの目は平和とは程遠かった。

 彼らに何が起こるのか、これが何を意味するのかをエシュキは尋ねたかった。だがどうにかその言葉を口にしようとした時には、スーラクは既に立ち上がっていた。

 「やるべき事があるなら続けろ」彼はそう呼びかけた。「こいつがやらないなら、俺がお前を守る」

 エシュキの声がかすれ、だがアルニウルは今も彼女の手を握っていた。歌を中断することなくアルニウルは応え、極光が顔を照らした。

 「彼らはこの森で命を落とした人々の霊だ。彼らがまとう姿は、お前たちに最も訴えかける姿だ。その真の姿を見ることは許されぬ」アルニウルが説明した。「獣、人、その両方である者ら。我らが知る者、知らぬ者、決して知ることもない者」

 アルニウルが歌うとその姿が波打ち、雪の魔法が降りかかった。その顔の上に別の顔が重なり、同じ言葉を別の声が発した。

 スーラクですら歌を中断した。片手を差し出し、それを見つめる。すると予想だにしなかった映し身がそこにあった。

 「彼らは我らであり、我らではない」アルニウルが言った。

 エシュキの体毛がぞわりと逆立った。雪の幻影は空地を取り囲んで隙間を無くしていく。それらが前進してくるにつれ、その顔はぼやけて見える――それでも、二組が自分たちを見つめ返していた。

 「彼らを我らの炎に招き入れねばならぬ。彼らの物語を歌い、我らの物語を歌わせねばならぬ。さもなければ、すべてが徒労と終わる」

 旋律は盛り上がる――ただしそれは勝利の喜びではない。エシュキが見つめる中、戦士たちは口を開いて歌に声を加えた。両耳を貫く矢よりも恐ろしい、不調和な金切り声。偉大なる狩猟の統率者さえも吐き気に襲われ、身を屈めた。激しく息を切らしたところで、眩暈や痛みを和らげることはできなかった。起こっていることの圧倒的な不条理さも全く鎮まりはしなかった。

 言葉が聞こえ、それを理解するにつれてエシュキは恐怖に襲われた。

 何か月も、骨の髄しか食べてない。これしか取っておけなかった――

 ――俺たちは他氏族に勝利する、あの幻視はそう告げていた。だから俺はやるべきことをした。そして最終的に、俺は全員を救った――

 ――ああ、許して、お母さん。どうか許して。私に生きてって願ってくれてたのはわかってる――

 ――あの子はまだ少年で、私と同じように飢えていた。私はあの子を殴り倒して――

 重なり合う声、嘆きと哀歌、戦の歌と言葉なき叫び。

 エシュキの額が冷たく青い土に触れた。彼女は息を吸い、自らを落ち着かせようとした。これは自分たちの先祖の悲しみ……これほどの苦しみに直面しながら、ティムール氏族はどうやって生き延びてきたというのだろう?

 重なるアルニウルの声が騒音を切り裂いた。「龍爪のエシュキよ、生き延びるために一線を踏み越えた者らを迎え入れるのか? 彼らを炎へと迎え入れるのか?」

 自身の家族から食べ物を盗んだ者、龍に殺人を強要された者、人が食べるべきではないものを食べて数か月を生き延びた者……彼らの行いを知りながら、自分は彼らを氏族の仲間として見ることができるのだろうか? 彼らを許すことができるのだろうか?

 エシュキの両目がスーラクに注がれた。自分と同じく、この男もまた音の嵐に襲われて身を屈めていた。かろうじて呼吸をするたびに、その身体から青い光が漏れ出た。そして彼があの傷口に手を伸ばして隠そうとした時、エシュキは自分がその傷を与えた日のことを思い出した。

 「お前のような若造がアタルカ様を倒すなど、絶対に叶わん」あの時スーラクはそう言った。拳が岩のように叩きつけられた。一撃ごとに重く、更に重く。今も時々、笑うと殴られた箇所が痛むほどだ。

 けれどエシュキは降伏しなかった。傷つきぼろぼろになりながらも、何度も反撃した。そうしなければならなかった。自分自身の生存に、氏族の生存に、あまりにも多くのものがかかっていた。

 スーラクに殴られた彼女は転倒すまいと必死に、尖った氷の塊を指で掴んだ。その瞬間、それは何かの印のように感じられた――祖先からの贈り物、自分たち全員を解放するための。それをスーラクの胸に突き刺した時、彼女は自らに言い聞かせた。これは前進するためにやったのだと。

 スーラクにとって、アタルカのいない世界はありえなかった。そしてそのような世界で生きていくのであれば、氏族は彼を捨て去らねばならなかったのだ。

 だが彼を捨て去ることで……今自分たちを取り囲む霊のすべてにも同じことをしたのだ。エシュキは不確かな土へと足の力を込めた。音は吹雪のように容赦ないが、それでも彼女は立ち上がった。

 「アルニウル」呼吸のひとつひとつが厳しい戦いだった。まるで誰かが胸骨に何かを巻きつけて、膨らまないようにしているかのように。「俺は、ひとり残らず炎に迎えてやるよ」

 「その言葉を歌うのだ、龍爪のエシュキよ。そして彼らにお前を歌わせよ」

 もう一呼吸。前回よりもさらに辛い。だが息を吐き出すと、彼女は声の軋み音を気にせずに精一杯の大声で歌った。

 「俺たちの炎は誰でも歓迎だ! 一緒に薪を積み上げてくれ、炎をもっと高くするんだ!」

 眩暈の中を彼女は踏み出した。歌が盛り上がる。そして初めて、自分の言葉が自分に返ってくるのが聞こえてきた。

 最後の一歩で彼女はスーラクに辿り着いた。エシュキは彼の肩に手を置いた。「あんたもだよ、爺さん」

 戦士は彼女へと向き直った。その両目には怒りがあった。もしかしたら憎しみすらも。だがスーラクは彼女と同じほど、ティムールのために戦ってきたのだ。あるいはそれ以上に。見つめ返してくれる顔また顔……そのうちの何人、彼は生前を知っているのだろう?

 その目尻に涙が浮かぶのが見えた。エシュキは絶対に、誰にも言うつもりはない。

 スーラクは彼女の手をとった。エシュキは彼を引き上げ、相手の腕を自分の肩に回して支えた。これで一緒に歌うことができる。

 何時間も彼らは歌った。紫色の空からすみれ色の朝まで、彼らは歌った。

 そして雨とばりの森に夜明けが訪れると、一頭のトナカイが空地に迷い込んできた。


 時に、織り上げられたものは引き裂かれる。時に、引き裂かれたものは繕われる。繕われたものは、素人目には、継ぎ目などないように見えるかもしれない。

 だが、物事の真実を見る目は常に存在するのだろう。

 ティムールの開拓地の最果て、その宿営地の上空をウレニはぐるりと飛んでいた。雨とばりの森の糸が引き裂かれ、そして編み直されてから数か月が経っていた。

 アルニウル、スーラク、そしてエシュキが篝火を囲み、アタルカの統治下で食べた何よりもずっと素晴らしい食事を共にしていた。

 スーラクが言った。「まだ決着はついていない。いつかお前から氏族を取り戻してやる」

 「身体が治ったら、いつでもかかってこいよ」

 エシュキはそう答え、スーラクへと飲み物を注いだ。



(Tr. Mayuko Wakatsuki)

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